玻璃島の十三夜

一 招待状

 その招待状には、差出人の名より先に一個の眼があった。

 正確には、眼を模した白い玻璃玉である。鶉の卵ほどの大きさで、中央に墨を一滴落としたような瞳孔があり、光へ透かすと、その奥に細い金文字が浮かんだ。

 ――あなたの視線を、一晩だけお借りしたい。

 差出人は綾城静馬。燐寸工場と光学硝子で財を築いた綾城家の最後の当主であり、十年前から瀬戸内の玻璃島に引きこもっている好事家であった。

 私は当時、象徴派詩人の翻訳と、誰にも読まれぬ美術批評で糊口をしのいでいた。静馬とは面識がない。ただ、私が前年に発表した「腐敗の色彩について」という短い随筆を、彼はひどく気に入ったらしい。

 手紙には、こうもあった。

 ――あなたは、白にも匂いがあり、青にも温度があると書いた。世の人々が比喩と呼ぶものを、私は事実として扱いたい。私の館には十二の部屋があり、いずれも自然が怠慢のうちに作り損ねた感覚を、人工によって完成させたものである。十三番目の部屋だけが空いている。そこへ置くべき最後の作品を、あなたに見届けていただきたい。

 謝礼は、私の一年分の収入に等しかった。

 金に釣られたのだ、と言えば簡単である。しかし私は、あの玻璃玉の冷たさに釣られたのだと思う。指先で転がすたび、玉のなかの瞳孔は私を見上げ、まだ見ぬ島の暗がりを小さく映しているように思われた。

 昭和五年九月十三日、私は尾道から小さな発動船に乗った。

 船頭は鳥賀という老人で、右耳がなく、喉に古い火傷の痕があった。玻璃島について尋ねても、彼は唇を横に引くだけだった。海は鉛のように平らで、遠くの島々は水面に伏せた獣の背に見えた。

 日が傾くころ、玻璃島が現れた。

 白い崖に囲まれた小島であった。かつて光学硝子の原料を掘った採石場の跡が、海へ向かって幾つもの洞を開けている。洞の形はどれも細長く、半ば閉じた瞼に似ていた。その上に館があった。黒い屋根と白い壁を持つ、窓の少ない建物で、背後には使われなくなった灯台が一本、濁った空を突いていた。

「帰りの船は、明後日の朝です」

 鳥賀は島へ着いて初めて口をきいた。

「明日の朝ではないのですか」

「十三夜は、二晩あります」

 意味を問う前に、老人は私の鞄を桟橋へ置き、船を返してしまった。

二 逆光館

 館の玄関には呼鈴がなかった。扉へ近づくと、内側から女の声がした。

「水科恭一さまでございますね」

 扉を開けた女は、二十七、八に見えた。名を由良といった。灰色の長衣をまとい、顔の左半分を細かな真珠を縫いつけた薄布で覆っている。見えている右眼は薄茶色だったが、その視線は私の顔をわずかに外れ、いつも肩越しの空間を見ていた。

 彼女は私の差し出した名刺を見ず、指先で文字の凹凸をなぞった。

「ご主人は?」

「黒い間でお待ちです」

 館は奇妙に静かだった。廊下には絨毯がなく、代わりに床板の一枚ごとへ違う音が仕込まれていた。踏むと、低い木魚のような響き、細い鈴の音、遠い波音が順に鳴る。由良は迷いなく歩いたが、曲がり角のたびに壁へ手を触れた。

 黒い間は円形で、壁も天井も艶のない黒布に覆われていた。部屋の中央にだけ乳白色の卓があり、その向こうに綾城静馬が座っていた。

 四十を少し越えたほどだろう。痩せた顔、後ろへ撫でつけた髪、墨色の上着。両眼には黒い硝子の眼鏡を掛けている。彼は立ち上がり、私がまだ三歩離れているうちから正確に手を差し出した。

「水科先生。よくいらしてくださいました」

 握手した掌は乾いていた。

「先生はおやめください。私は売れない翻訳屋です」

「売れるものは、たいてい見えすぎるのです。説明され、値札を貼られ、誰の眼にも同じ形で映る。あなたの文章には、見えない部分が残っている」

 彼は顔を私へ向けていたが、黒眼鏡の奥から視線を感じなかった。

 由良が茶を置いた。白磁の碗には取っ手がなく、表面に細い血管のような青い線が走っていた。茶は無色で、口に含むと焦げた菫と濡れた石の味がした。

「館の名を、逆光館といいます」と静馬はいった。「正面から光を当てれば、物は説明になってしまう。私は説明が嫌いなのです。輪郭だけが燃え、中心が闇に沈むとき、物はようやく秘密を持つ」

「十二の部屋というのは?」

「夕食のあと、ご案内しましょう。もっとも、すべてをご覧になる必要はない。美は多すぎると倉庫になります」

 話しているあいだ、彼は一度も瞬きをしなかった。

 やがて由良が私を客室へ導いた。階段の踊り場に、一枚の大きな肖像画が掛かっていた。白いドレスの女が海辺に立ち、片手に黒い百合を持っている。顔は由良に似ていた。しかし両眼の部分だけ、絵具ごと鋭い刃で削り取られていた。

「奥さまですか」

 由良の指が手摺の上で止まった。

「澪さまです。五年前、海へ落ちて亡くなられました」

「遺体は?」

「見つかりませんでした」

「あなたは、ご親類ですか」

 由良は微笑した。右眼はやはり私を見なかった。

「似ておりますか」

 それだけいって、彼女は階段を下りていった。

三 白い晩餐

 夕食は灯台の真下に設けられた細長い食堂で行われた。

 天井から青い光が降り、卓上のものから色を奪っていた。皿も花も酒も、死人の夢のように白い。卓の中央には、大きな硝子鉢があり、皮を剥いた葡萄と茹でた鶉卵が、濃い乳のなかに浮かんでいた。青い照明の下では、どれが果実でどれが卵か判別できない。

「味は舌で感じるものだという迷信を、私は憎んでいます」と静馬はいった。「形が味を命じ、色が喉を開閉させる。見ることは、最初の咀嚼です」

 同席者はもう一人いた。高津博士という眼科医で、髭の黄ばんだ五十男だった。彼は静馬の言葉へ返事をせず、葡萄にも卵にも手をつけなかった。私と眼が合うと、わずかに首を振った。

 由良が銀の匙で乳を掬い、一個の白い球を私の皿へ置いた。

「どちらでしょう」

 私は匙で押した。柔らかく潰れ、甘い汁が流れた。葡萄だった。

 次の球は固く、切ると黄色い黄身が現れた。青い光の下で、その黄身だけが病的な緑に見えた。

 静馬は楽しそうに笑った。

「自然は、卵と眼球をよく似せた。怠惰な造形家です。しかし、その怠惰が人間の想像力を挑発する。われわれは食べるものと、見つめるものを、心のどこかで交換したくなる」

「食事の席には不向きな哲学ですな」と高津博士が低くいった。

「博士はいつから道徳家になったのです」

「道徳ではない。疲れただけです」

 二人の間に、冷たい沈黙が落ちた。

 食後、静馬は約束どおり十二の部屋のうち六つを見せた。

 第一室は、硝子の花園だった。花弁は薄い鉱物でできており、床下の熱が伝わると、花芯から香りが立つ。薔薇は鉄錆、蘭は古い書物、百合は雨に濡れた毛皮の匂いを放った。

 第二室は、青い書庫だった。書物はすべて白紙に見えたが、頁へ息を吹きかけると、体温で文字が浮き上がった。内容は詩でも小説でもなく、死刑囚が最後に見た空の色、溺死者が水中で聞いた音、失明者が光を失う直前に感じた温度など、感覚の証言ばかりであった。

 第三室には、盲目の洞魚を飼う水槽が並んでいた。魚は白く、眼のあるべき場所に薄い膜しかない。水槽の底には小さな鏡が敷かれ、存在しない眼を無数に反射していた。

 第四室は、音のない音楽室。楽器は一つもない。壁に手を当てると、骨を通じて低い旋律が伝わり、歯の根が震えた。

 第五室は、逆さの寝室。寝台も机も天井に固定され、床には白い雲を描いた絨毯が敷かれている。しばらく立っていると、頭上へ落ちてゆくような眩暈に襲われた。

 第六室は、鏡の礼拝堂だった。だが鏡は一枚として人の姿を正しく映さない。あるものは顔だけを老いさせ、あるものは眼だけを幼くし、あるものは肉体を消して衣服だけを浮かべた。

 静馬は礼拝堂の中央で足を止めた。

「人は鏡を、真実を返す道具だと思っている。しかし鏡ほど礼儀正しい嘘つきはいない。こちらが一つの顔を差し出せば、必ず一つの顔を返してくれる。私は、何も返さない鏡を作りたい」

「それが十三番目の部屋ですか」

「いいえ。十三番目は、鏡ではなく眼です」

 そのとき、遠くで鈴が三度鳴った。

 高津博士の顔色が変わった。

「静馬君、今夜はやめろ」

「今夜しかないのです」

「私は手を貸さない」

「もう充分、貸していただいた」

 博士は私の腕を掴んだ。指先が震えていた。

「水科さん。明日の朝まで、部屋から出ないことです。海鳴りがしても、女に呼ばれても、決して」

 静馬が黒眼鏡のまま微笑した。

「博士は、見るべきものを見てしまった人間特有の臆病さに罹っている」

 由良が現れ、博士の手を私の腕から静かに外した。

「お部屋へご案内いたします」

 廊下を戻る途中、彼女は囁いた。

「今夜、あの玻璃玉を枕の下に置かないでください」

「なぜです」

「眼は、閉じても見るからです」

四 海水の死体

 私は忠告を守らなかった。

 寝台へ入って一時間ほどすると、床下から車輪を転がすような音がした。続いて、女の歌声が聞こえた。言葉のない、息だけでできた細い旋律だった。

 私は燭台を持って廊下へ出た。

 館は暗かった。しかし壁の下部へ埋め込まれた細い硝子管が、月光を吸ったように青白く光っている。歌声は階下から聞こえた。

 階段を下りると、鏡の礼拝堂の扉が半ば開いていた。中に由良が立っていた。真珠の薄布を外している。私は思わず息を止めた。

 彼女の左眼はなかった。

 正確には、瞼のあいだに乳白色の硝子球が嵌められていた。瞳孔も虹彩もなく、月の欠片のように滑らかだった。彼女は鏡の一つへ顔を寄せ、その白い眼を映していた。

「見ていたのですか」

 背を向けたまま、由良がいった。

「偶然です」

「この館で偶然に見えるものは、たいてい仕掛けです」

 彼女は振り返り、私へ近づいた。右眼も私を見ない。

「水科さま。あなたは、眼を失うことと、見られなくなることのどちらが恐ろしいと思いますか」

「眼を失えば、見られなくもなるでしょう」

「いいえ。盲人も見られます。むしろ逃げ場がありません。こちらから見返すことができないぶん、他人の眼は刃物より深く入ってくる」

 彼女は私の手を取り、自分の白い左眼へ触れさせた。冷たい硝子の丸みが、薄い瞼越しに指先へ伝わった。

「これは澪さまの眼ですか」

 由良の唇が笑いの形を作った。

「死んだ女の名は、便利ですね」

 背後で足音がした。

 高津博士だった。上着も着ず、手に革の鞄を持っている。

「由良、地下の栓を閉じろ」

「もう遅うございます」

「静馬はどこだ」

「十三番目のお部屋です」

 博士は私を見た。

「船着場へ行きなさい。鳥賀の小舟が洞に隠してある」

「何が起きるのです」

「手術だ」

 その一語が発せられた瞬間、館のどこかで、巨大な水甕を倒したような音がした。床がかすかに震え、壁の硝子管の光が一斉に消えた。

 暗闇のなか、誰かが走った。続いて、金属の扉が閉まる音。私は燭台を落とし、火を消した。

 由良の声が耳もとで囁いた。

「お部屋へ」

 彼女の手に導かれて客室へ戻ったあとも、私は眠れなかった。海鳴りは次第に大きくなり、夜半を過ぎるころには、館全体が巨大な貝殻となって波を聞いているようだった。

 朝、由良が扉を叩いた。

「高津先生がお亡くなりになりました」

 博士は第七室――海青の間と呼ばれる部屋で発見された。

 その部屋は内側から鍵が掛かっていた。窓はなく、天井の採光口にも鉄格子がある。中央には人一人が横たわれるほどの白大理石の浴槽があり、博士はそのなかで仰向けになっていた。

 浴槽は乾いていた。

 それにもかかわらず、博士の髪も衣服も濡れ、口もとには海藻の切れ端が付着していた。床には一滴の水もない。右手は胸の上で固く握られ、そのなかに小さな硝子眼があった。

 静馬は入口に立ち、黒眼鏡を外さぬままいった。

「心臓が悪かった。発作でしょう」

「乾いた浴槽のなかで溺死した人間が、心臓発作ですか」

「水科先生は医師ではない」

「博士の鞄は?」

「見当たりません」

 私は浴槽の縁へ手を置いた。大理石は冷たく、内側に細い塩の輪が残っていた。底の排水孔へ耳を近づけると、遥か下で波が脈打つ音がした。

 その瞬間、理解した。

 浴槽は浴槽ではない。採石場の潮洞へつながる、巨大な漏斗なのだ。満潮時に地下の栓を開けば、海水は底から噴き上がり、浴槽を満たす。やがて潮が引けば、水は同じ孔から消える。博士は薬か何かで動けなくされ、密室のなかへ置かれたのだろう。

「栓を開けた者がいる」

 私がいうと、静馬は首を傾げた。

「見ることのできる人は、すぐ原因と結果を結びたがる。だから世界を見誤る」

 由良が博士の手から硝子眼を取り、私へ差し出した。

「これはあなたがお持ちください」

 静馬の顔が初めて硬くなった。

「由良」

「高津先生が、そう望まれました」

 硝子眼の裏側には、ごく小さな鍵が埋め込まれていた。

五 眼裏の廊下

 昼食後、静馬は部屋へ籠もった。由良の姿も消えた。

 私は硝子眼の鍵を手に、鏡の礼拝堂へ向かった。

 昨夜、由良が顔を寄せていた鏡だけが、他の鏡と違って冷たくなかった。掌で押すと、鏡面が音もなく内側へ沈み、細い隙間が開いた。鍵穴はその奥にあった。

 扉の向こうには、下り階段が続いていた。

 湿った石の匂い。壁には一定の間隔で白い円盤が嵌め込まれている。燭台の光を受けると、円盤の中央に黒い像が浮かんだ。人の顔、鳥の翼、割れた皿、燃える窓。どれも一瞬の恐怖を凍らせたような像である。

 地下には手術室があった。

 古い手術台、銀の器具、薬瓶、光学機械。壁一面の棚に、番号を振られた硝子球が並んでいる。眼球を模したものもあれば、内部に薄い膜や写真乾板を封じたものもあった。

 机の上に高津博士の革鞄が置かれ、そのなかに診療記録があった。

 私は頁をめくった。

 ――綾城静馬。硝子工場爆発事故による両眼角膜損傷。光覚なし。

 ――綾城澪。本人の強い希望により左眼球摘出。翌年、右眼球摘出。精神状態について再検討を要す。

 ――移植実験、一号から六号まで全例失敗。

 最後の頁には、私の名があった。

 ――水科恭一。三十三歳。虹彩径、角膜曲率、血液型、いずれも条件適合。左右一眼ずつを使用予定。

 手が震えた。

 なぜ私の身体の数値を、彼らが知っているのか。思い出した。半年前、ある財団の依頼で健康診断を受けた。翻訳家への生活援助を名目とした、綾城文化財団の診査だった。

 棚の端に、小さな蓄音機があった。針を落とすと、高津博士の声が流れた。

「静馬君、澪さん。これは遺言ではない。最後の警告だ。死者の網膜に最後の像が残るという古い俗説を、君たちは芸術と呼び、医学をその下僕にした。私は六人を失明させ、一人を死なせた。彼らが同意したからといって、私の罪が薄くなるわけではない。水科氏の眼を摘出しても、君たちに視力が戻る可能性はない。神経は縫い合わせられない。君たちが欲しいのは視力ではなく、犠牲だ」

 録音はそこで途切れた。

「正しい人でした」

 背後から由良の声がした。

 振り向くと、彼女は真珠の薄布を外していた。左眼の白い硝子球だけでなく、右眼にも焦点がない。薄茶色の虹彩は精巧に描かれた義眼だった。

「あなたが、澪さんなのですね」

「由良という名も好きでした。名前は眼より取り替えやすい」

「なぜ、自分の眼を」

 澪は壁を探り、手術台へ腰掛けた。

「夫が光を失ったとき、私は同情したのではありません。羨ましかったのです。彼だけが、私には入れない闇へ行ってしまった。だから片方を捨てました。それでも彼の闇は半分しか分からなかった。翌年、もう片方も」

「狂っている」

「もちろん」

 彼女は穏やかに答えた。

「けれど、正気とは、大勢が同じ幻を見ている状態にすぎません。青を青と呼び、肉を肉と呼び、愛を二人が互いを傷つけないことだと呼ぶ。私たちは別の呼び名を選んだだけです」

「高津博士を殺したのは、あなたですか」

「栓を開いたのは私です」

 あまりに静かな告白だった。

「なぜ」

「先生は最後になって、私たちを患者として扱い始めた。治すべきものと。侮辱です」

「では、私の眼を奪うつもりも」

「夫は、あなたの右眼を欲しがっています。私は左眼を」

 澪は立ち上がり、私の顔へ手を伸ばした。指先が頬を探り、やがて左の瞼に触れた。

「あなたの文章を読んだとき、この人は眼で見ていない、と思いました。匂いで色を見、舌で形を触っている。そんな眼なら、移しても死なないかもしれない」

「博士は不可能だと」

「成功する必要はありません」

 彼女の指が、私の瞼をそっと押し開いた。

「一度だけ、あなたが最後に見たものを、私たちの空洞へ入れたいのです」

 私は彼女の手を振り払った。

「出口はどこです」

「出口はあります。島には、入口と同じ数だけ出口がある。ただし人は、入ってきたときと同じ者では出られません」

 そのとき、地下の奥で鐘が鳴った。

 一度。

 澪の顔が明るくなった。

「十三番目のお部屋が開きました」

六 第十三室

 逃げようとした私の鼻先へ、澪が小瓶を割った。

 甘い杏仁の匂いがした。

 次に眼を開けたとき、私は円形の手術台へ革帯で固定されていた。

 そこは灯台の内部だった。巨大なレンズが天井いっぱいに組まれ、月光を幾重にも屈折させている。壁は銀を塗ったように白く、中央に私の影が黒い瞳孔となって落ちていた。

 静馬が左側に、澪が右側に立っていた。二人とも黒眼鏡も薄布も外している。

 静馬の眼窩には黒い義眼が、澪の眼窩には白と茶の義眼が嵌められていた。四つの人工の眼が、私の方を向いている。

「ようこそ、第十三室へ」と静馬はいった。

「この部屋には何もないじゃないか」

「だから完成するのです。十二の部屋は、感覚を物に変えた。十三番目は、物を感覚へ戻す」

 彼は銀の盆から細い刃物を取った。

「高津博士がいないのに、手術ができるのか」

「手術ではありません」

 澪が答えた。

「戴冠です」

 灯台のレンズがゆっくり回転し始めた。どこかで歯車が噛み合い、海鳴りと同じ低い振動が床から伝わる。

 静馬は私の右瞼へ指を置いた。

「水科先生。われわれは長いあいだ、見える者を軽蔑してきた。彼らは光に与えられたものを、ただ受け取るだけだからです。しかし、あなたの文章を読んで考えが変わった。見ることにも、罪を犯す才能がある」

「私を殺せば、その才能も終わる」

「才能は、持ち主から離れたとき作品になる」

 澪が笑った。

「あなたは右眼から夫を見、左眼から私を見る。そして最後に、どちらを美しいと思ったか、網膜へ焼きつけるのです」

 二人は、私が恐怖で身を捩る音を楽しむように黙った。

 そのとき私は、高津博士の録音を思い出した。

 ――君たちが欲しいのは視力ではなく、犠牲だ。

 彼らは見えない。だが館のなかでは、床の音、壁の手摺、香りの位置、歯車の振動によって、見える者以上に正確に動ける。逆にいえば、その秩序を崩せばよい。

 私は右手の指を動かした。革帯は固かったが、袖口の内側に硝子眼の鍵を隠していた。手首を捻ると、鍵の尖端が掌へ落ちた。

「お願いがある」と私はいった。

「何でしょう」

「最後に、あの歌を聞かせてほしい。昨夜、澪さんが歌っていた歌を」

 澪は顔を上げた。

「あれは歌ではありません。眼を抜いた夜、喉から出た音です」

「なら、なおさら聞きたい。私の最後の像に、音の形を混ぜたい」

 静馬が満足げに頷いた。

「よいでしょう」

 澪が歌い始めた。

 言葉のない細い息。高く、低く、また高く。音は円い壁を巡り、何人もの女が私の周囲で歌っているように増えた。

 私はその反響に合わせて手首を動かし、鍵の尖端で革帯を少しずつ裂いた。

 歌が最も高くなった瞬間、右手が自由になった。

 私は手術台の脇にあった銀盆を掴み、天井のレンズへ投げつけた。

 鋭い破裂音。

 月光が千の破片となって散り、床へ白い斑点を撒いた。同時に、回転していた歯車が噛み外れ、館中の案内鈴が一斉に鳴り出した。

 静馬と澪が動きを止めた。

「何をした」

 私は残りの革帯を外し、靴を脱いだ。足音を殺して床へ降りる。

「水科!」

 静馬の刃が空を切った。

 私は銀盆を反対側へ投げた。澪がその音へ飛びつき、静馬とぶつかった。二人は互いを押しのけ、手探りで私を探した。

 出口は円形の壁のどこかにある。しかし案内鈴の狂った響きで方向が分からない。私は壁沿いに進み、指先で継ぎ目を探った。

 背後で、澪が叫んだ。

「静馬、右へ! 香りがする!」

 杏仁の薬品が私の服に染みついていたのだ。

 私は咄嗟に上着を脱ぎ、中央へ投げた。

 二人が同時に上着へ襲いかかった。刃物が布を裂く音がした。次いで、短い呻き。

「澪?」

 静馬の声が震えた。

「大丈夫よ」

 澪の返事は、笑っていた。

 私は壁の一部に金属の把手を見つけた。引くと、扉ではなく大きな弁が回った。

 床下で、獣が目を覚ましたような轟音がした。

「それは栓だ!」静馬が叫んだ。

 足もとから海水が噴き上がった。

 冷たい水が瞬く間に踝、膝へ達した。灯台の地下水路と十三室がつながっていたのだ。私は別の把手を探し、ようやく細い扉を開いた。

 外には螺旋階段が下へ続いている。

 振り返ると、月光の破片のなかで、静馬と澪が抱き合っていた。

 静馬の胸には刃が刺さっていた。澪が誤って刺したのか、彼自身が刃へ身を投げたのかは分からない。黒い血が水にほどけ、白い床へ巨大な虹彩を描いていた。

「澪、見えるか」

 静馬が尋ねた。

「ええ」

 澪は答えた。

「何が」

「あなたが」

 嘘だった。だがその嘘は、館のどの作品よりも美しく、どの罪よりも正確だった。

 私は扉を閉めることができなかった。

 水が二人の腰へ達し、胸へ達しても、私は階段の途中から見ていた。逃げるべきなのに、眼を逸らせなかった。

 見ることは、最初の咀嚼だと静馬はいった。

 ならば私は、そのとき二人を食べていたのだ。

 やがて海水が彼らの口を塞ぎ、四つの義眼が水面の下へ沈んだ。最後に澪の白い硝子眼だけが外れ、小さな卵のように浮かび、くるくる回りながら私を見上げた。

 私は階段を駆け下りた。

七 帰還

 地下道は採石場の潮洞へ通じていた。

 腰まで海水に浸かり、岩肌を手探りで進むと、鳥賀の小舟が鎖で繋がれていた。背後では、逆光館のどこかが崩れる音が続いていた。

 夜明け前、私は玻璃島を離れた。

 振り返ると、灯台のレンズが割れたためか、館の窓という窓から不規則な光が洩れ、島全体が巨大な眼窩のように見えた。やがて白い崖の一部が海へ崩れ、館も灯台も土煙のなかへ消えた。

 本土へ着いた私は警察へ届け出た。

 しかし数日後、玻璃島を捜索した巡査は、奇妙な報告を持ち帰った。館は十年前の工場爆発以来、半ば廃墟で、人が暮らしていた形跡はあるものの、遺体は一つも見つからなかった。地下の手術室も、海青の間も、十三室も発見できない。島の船頭で右耳のない鳥賀という老人も、周辺の漁村には存在しないという。

 私は夢を疑った。

 だが鞄の底には、あの玻璃玉と、高津博士の硝子眼が残っていた。

 いや、硝子眼だと思っていたものは、よく見ると澪の白い義眼だった。裏側の鍵は消え、代わりに小さな写真が封じ込められている。

 拡大鏡で覗くと、写真には私の東京の部屋が写っていた。

 机に向かって眠る私。その背後に、灰色の長衣を着た女が立っている。真珠の薄布の下から、白い眼が覗いていた。

 撮影された日付は、玻璃島へ出発する半年前だった。

 以来、私は自然光を嫌うようになった。

 朝の光は無遠慮すぎる。花の色は説明的すぎる。窓から見える空は、誰にでも同じ青を押しつける。私は部屋の壁を黒布で覆い、灯りを青い硝子へ通し、食事は白い皿に白いものだけを盛るようになった。

 そして夜ごと、あの二人の最期を書こうとする。

 だが筆を執るたび、私は自分が彼らの犠牲者ではなく、十三番目の部屋そのものだったのではないかと思う。

 静馬と澪は、私の眼のなかで今も溺れ続けている。私が思い出すたび、彼らは水面へ顔を出し、もう一度抱き合い、もう一度沈む。作品とは、物ではなく、逃げ帰った者の記憶に寄生する出来事なのかもしれない。

 今夜、机の上に一通の封筒がある。

 宛名は、最近「光の倫理」という評論を書いた若い批評家の名だ。私はまだ手紙を書いていない。書くつもりもない。

 それなのに、封筒のなかにはすでに白い玻璃玉が一つ入っている。

 光へ透かすと、奥に細い金文字が浮かぶ。

 ――あなたの視線を、一晩だけお借りしたい。

 私はその玉を捨てることができない。

 なぜなら、墨を一滴落としたような瞳孔の奥で、まだ見ぬ誰かが、私を見返しているからである。