甲虫王はパンを裂く

一 八本の脚

 夜明け前、鐘楼が六つ鳴るより先に、ヨナ・ヴァレルは自分の脚が八本に増えていることに気づいた。

 寝台はひしゃげ、毛布は床に落ちていた。背には濡れた石のような黒い甲殻が盛り上がり、腹は七つの節に分かれている。指は消え、その代わり、節くれだった脚の先に小さな鉤が並んでいた。

 驚くべきことに、ヨナが最初に考えたのは遅刻だった。

「帳簿室の鍵を開けるのは俺だ」

 口から出た声は、人の声と、二枚の陶器をこすり合わせる音の中間だった。

 壁の向こうで、下宿屋の女主人が息を呑んだ。

「ヴァレルさん? いまの音は何です?」

「体調が悪い」

「市庁舎からお迎えが来ていますよ。主事さんが、あなたが遅刻するなんて天地がひっくり返ったのかと」

 天地はひっくり返っていなかった。ただ、ヨナだけが裏返っていた。

 彼は寝台から降りようとした。八本の脚はそれぞれ別の意見を持ち、三本は前へ、二本は壁へ、残りは故郷へ帰ろうとでもするように後ろへ動いた。黒い腹が床へ落ち、部屋全体が揺れた。

 その瞬間、ヨナは吐き気を覚えた。

 変身のせいではなかった。

 床板が、あまりにも床板として存在していたからだ。

 木目は濁った川のように盛り上がり、釘の頭は冷たい月のように光っている。椅子は「座るためのもの」という薄い言葉を脱ぎ捨て、四本の棒と一枚の板として、意味もなく、執拗にそこにあった。水差しも、帳簿も、壁の染みも、名前の下から膨れ上がってきた。

 世界は、存在しすぎていた。

 ヨナは腹の底からこみ上げるものを耐えた。甲虫に胃があるのかは知らなかったが、吐き気だけは確かにあった。

 扉が叩かれた。

「ヴァレル君」

 市庁舎のペルノー主事の声だった。

「君は本日、六分の遅刻だ。病気なら診断書を、死亡なら死亡証明書を提出したまえ」

「どちらも無理そうです」

「では扉を開けたまえ」

 ヨナは扉を見た。

 扉。

 部屋と廊下を分ける板。

 だがそれは、本当に扉でなければならないのだろうか。

 その疑いが浮かんだ途端、吐き気の底で、何かが静かに噛み合った。

「開け」

 ヨナが言うと、蝶番も錠も壁の一部も、初めから互いを知らなかったかのようにほどけた。扉は音もなく床へ伏した。

 廊下には女主人と主事が立っていた。

 二人は、ヨナを見た。

 ヨナも二人を見た。

 女主人は気絶した。

 主事は鞄を落とし、唇だけで祈りを三つ唱え、それから叫んだ。

「害虫だ!」

 その言葉は空中で薄い紙のように震えた。

 害虫。

 人間。

 役人。

 前科者。

 善人。

 悪人。

 どれも世界に貼りつけた札にすぎない。その札の裏で、肉も石も鉄も、ただ無意味に存在している。

 ヨナは理解した。

 名前が真実でないのなら、名前に従う必要もない。

「そうか」

 彼は八本の脚で立ち上がった。

「では今日から、害虫として出勤する」

 主事は階段を転げ落ちた。

二 黄色い証明書

 ヨナは十八年前、一斤のパンを盗んだ。

 妹の子どもたちが三日食べていなかったからだ。

 パン一斤に対して刑は五年。脱獄を二度試み、看守を一人殴り、結果として刑は十八年になった。出獄の日、彼に渡された黄色い証明書には、こう書かれていた。

 危険。反抗的。再犯のおそれあり。

 町はその三行をヨナ本人よりも信じた。

 宿は断られ、仕事は追われ、井戸の水さえ嫌な顔をされた。やがて彼は名を半分変え、文字が読めることを利用して市庁舎の帳簿係になった。誰より早く出勤し、誰より遅く帰り、盗まれた銅貨一枚まで見つけた。

 それでも毎晩、黄色い紙の夢を見た。

 その紙より先に、彼を人として見た者が一人だけいた。

 エマという十二歳の少女だった。

 母親は縫製工場で肺を壊して死に、父親は初めから名前すらなかった。ヨナは少女を引き取り、下宿屋の屋根裏に住まわせ、給金の半分を学校と食費に使っていた。

 だから、甲虫になった朝にも、彼が心配したのは自分の身体ではなかった。

「エマは?」

 倒れた女主人に代わって、台所から小間使いが震えながら答えた。

「工場へ……借金のことで、ガルニエ商会の人が連れていきました」

「学校ではなく?」

「今月の家賃が、まだ……」

 ヨナは主事の落とした鞄を鉤爪で開いた。中から自分の解雇通知が出てきた。日付は昨日だった。

 遅刻する前から、彼は首になっていた。

 紙には「素行に関する匿名の告発」とある。黄色い証明書の存在が市庁舎に知られたのだ。

 ヨナは通知をしばらく眺めた。

 紙は紙だった。正義でも運命でもない。

「燃えろ」

 通知は青い炎になり、灰も残さず消えた。

 小間使いが十字を切った。

 ヨナは窓へ向かった。甲殻が壁に当たり、煉瓦が崩れた。

「窓はそちらです」

「狭い」

 彼は壁に言った。

「お前は出口だ」

 煉瓦が左右へ避け、朝の街が現れた。

 霧の向こうに、工場の煙突が立っていた。

 ヨナは外へ出た。

 四階だったが、落下する理由が見当たらなかったので、そのまま空中を歩いた。

三 工場の歯

 ガルニエ縫製工場では、二百人の女と子どもが、一日十四時間、軍服の上着を縫っていた。

 工場主は「国家のため」と言い、監督は「契約のため」と言い、労働者は咳をした。

 エマは裁断機の横に立たされていた。

「母親の治療費、葬儀代、宿代、利息」

 ガルニエは帳面を指で叩いた。

「合計で銀貨百二十枚。お前が十年働けば返せる」

「私は借りてません」

「親の借金は子の骨にまで染みる」

「骨まで調べたんですか」

 エマは口が減らなかった。

 ガルニエが手を上げたとき、天井が消えた。

 黒い巨体が朝日を背負って降りてきた。八本の脚が床に触れるたび、石畳が波のように沈んだ。

 女工たちは叫び、監督たちは逃げ、エマだけが目を丸くした。

「ヨナ?」

「ああ」

「ずいぶん黒くなったね」

「朝から少しな」

 ガルニエは腰の拳銃を抜いた。

「化け物め!」

 銃声が三つ響いた。

 弾丸はヨナの眉間に当たり、つぶれた鉛の花になって床へ落ちた。

 ヨナは一歩進んだ。

 ガルニエはさらに撃った。

 弾丸は甲殻に届く前に止まった。空中で震え、向きを変え、きれいに拳銃の弾倉へ戻った。

「なぜだ」

「弾丸だから飛ぶ、というのも思い込みらしい」

 ヨナは裁断機を見た。

 巨大な鉄の歯が、布と指を区別せずに噛み続けている。

「止まれ」

 機械が沈黙した。

「壊れろ」

 すべての歯車が砂糖菓子のように砕けた。

「待て!」ガルニエが叫んだ。「これは私の財産だ!」

「財産」

 ヨナはその言葉を口の中で転がした。

 吐き気がした。

 誰かが空腹で倒れても、紙に名を書けば布も機械も人の時間も所有できる。実に薄く、実に強情な札だった。

「では訊こう。お前自身は誰の財産だ?」

「私は自由人だ」

「この子たちもだ」

 ヨナが脚を一本振ると、工場中の契約書が棚から飛び出した。借用証書、雇用契約、罰金台帳、身元保証書。紙の群れは天井のない空へ舞い上がり、白い鳥になって東へ飛び去った。

 ガルニエは口を開けたまま、その群れを見送った。

「契約が……」

「逃げたな」

「法が許さんぞ」

「法なら、あとで本人に訊く」

 ヨナはエマを背に乗せた。

 甲殻の上は小さな広場ほどあり、エマは角のような突起につかまった。

「どこへ行くの?」

「まず飯だ」

「そのあと?」

「法に会いに行く」

四 監察官

 法は、オルフェ監察官の姿をして橋の中央に立っていた。

 背が高く、痩せ、黒い制服の襟を喉まで留めている。雨の日も晴れの日も、彼の顔には石灰を塗ったような青白さがあった。

 オルフェはヨナを十八年前から知っていた。

 刑務所で番号九〇三三を呼んだのも、脱獄した彼を沼地で捕らえたのも、出獄後の行方を執拗に追ったのも、この男だった。

 橋の両端には憲兵が並び、銃口をこちらへ向けていた。

「逃亡囚ヨナ・ヴァレル」

 オルフェの声は昔と変わらなかった。

「変装としては目立ちすぎる」

「望んだわけではない」

「国家財産の破壊、契約書の窃取、児童の連れ去り、市庁舎からの逃亡」

「エマ、連れ去られたか?」

「朝ご飯を食べに行くところ」

 エマは甲殻の上から答えた。

 オルフェの眉がわずかに動いたが、すぐに元へ戻った。

「投降しろ」

「断る」

「ならば撃つ」

「当たらない」

「百丁ある」

「一万丁でも同じだ」

 これは虚勢ではなかった。

 ヨナには分かっていた。鉄も火薬も重力も、世界が長いあいだ続けてきた習慣にすぎない。習慣が彼を傷つけようとするなら、やめさせればいい。

 オルフェが手を上げた。

 百の銃声が一つになった。

 弾丸はヨナの前で静止した。

 雨粒まで止まった。

 橋の上に、鉛と水でできた透明な壁が現れた。ヨナが顎を上げると、弾丸は金色の甲虫に変わり、羽音を立てて空へ散った。

 憲兵たちは一斉に後ずさった。

 オルフェだけが動かなかった。

「悪魔の力だ」

「違う」

「では神か」

「それも名前だ」

 ヨナは近づいた。監察官の剣が抜かれた。

 刃は甲殻に触れた瞬間、柔らかなパンになった。

 エマが身を乗り出した。

「食べてもいい?」

「泥がついている」

 オルフェは柄だけになった剣を見つめた。

「なぜ私を殺さない」

「腹が減っているからだ。人を殺すと朝飯が遅れる」

「ふざけるな」

「もう一つある」

 ヨナは低く言った。

「俺はお前より強い。だから、お前の恐怖に従う必要がない」

 橋の上の誰も、声を出さなかった。

 強者とは奪う者だと、彼らは教えられてきた。

 だが目の前の怪物は、奪おうと思えば町も命も奪えるのに、少女の朝食を心配していた。

 ヨナは憲兵の列を通り抜けた。誰も止めなかった。

 すれ違いざま、オルフェが言った。

「法はお前を赦さない」

 ヨナは振り返らなかった。

「法のほうが、俺に赦される必要がある」

五 バリケードの昼食

 その日の正午、ベルメール市では革命が始まった。

 原因は崇高な思想ではなかった。

 パンが高すぎたのだ。

 中央市場から小麦が消え、兵士の倉庫だけが満杯になっていた。貧民街では二日で十一人が餓死し、城壁内の宴会場では宰相ベルゴンの誕生日を祝うため、百羽の雉が焼かれていた。

 学生と印刷工と荷車引きが、家具や樽を積んでバリケードを作った。

 先頭に立つ青年ノエは、赤い旗を掲げて叫んだ。

「市民よ! 今日は歴史が我々の血を求めている!」

「歴史に血を飲ませるな」

 ヨナは背後から言った。

 群衆が二つに割れた。

 巨大な甲虫が現れ、その背からエマが降りてきた。彼女は途中で買った黒パンを抱えていた。

 ノエは旗を下ろし、目を輝かせた。

「伝説の魔獣……! 同志よ、我々とともに圧政を倒すのか!」

「その前に食え」

 ヨナはパンを取り上げ、顎で正確に百二十等分した。

 一片ずつが、集まった人数にぴたりと合った。

「少ない」ノエが言った。

「だから死ぬな。死者は次の食事を要求できない」

 遠くで軍鼓が鳴った。

 王国軍の一個大隊が大通りへ進んできた。銃兵三百、騎兵五十、青銅砲四門。指揮官は白馬の上から降伏を命じた。

 ノエが拳銃を握った。

「ここで退けば、我々は永遠に奴隷だ」

「退く必要はない」

 ヨナはパンの最後の一片を飲み込んだ。

「だが、死ぬ必要もない」

 砲声が轟いた。

 砲弾がバリケードへ迫る。

 ヨナは前脚を一本上げた。

「遅い」

 砲弾は止まった。

 彼が前脚を下ろすと、四発の砲弾は地面に落ち、卵のように割れ、中から白い鳩が飛び出した。

 兵士も市民も、しばらく鳩を見た。

 指揮官が我に返り、次弾装填を命じた。

 ヨナはため息をついた。

「大砲」

 四門の砲が一斉にこちらを向いた。

「お前たちは鐘だ」

 砲身が空へ立ち上がり、鐘楼の鐘のように鳴り始めた。低く、重く、澄んだ音が街じゅうへ広がった。

 兵士たちは耳を塞いだ。

「騎兵」

 馬たちがヨナを見た。

「帰れ」

 五十頭は騎手を丁寧に地面へ降ろし、隊列を組んで厩舎へ帰っていった。

 最後に残った銃兵たちへ、ヨナは言った。

「腹が減っている者は銃を置け」

 三百人全員が銃を置いた。

 指揮官だけが白馬のいない鞍にまたがる格好で立ち尽くしていた。

 ノエは震える声で訊いた。

「あなたは、いったい何者なんだ」

「今朝までは帳簿係だ」

「今は?」

 ヨナは大通りの向こう、王宮に隣接する巨大な穀物倉を見た。

 高い石壁、鉄の門、見張り塔。飢えた町の真ん中で、それだけが満腹そうに膨らんでいる。

「今は、昼飯の続きを取りに行く者だ」

六 食べられる城

 宰相ベルゴンは、王宮の広間で報告を聞いていた。

「大砲が鐘に」

「そうです」

「馬が帰った」

「はい」

「弾丸が虫に」

「金色の甲虫です」

 宰相は報告者を杖で殴った。

「もっと理性的な敗北をしてこい!」

 窓の外で、王宮の壁が消えた。

 壊れたのではない。

 消えた。

 広間は突然、青空と市民一万人の視線にさらされた。

 ヨナが空中を歩いてきた。その背にはエマ、ノエ、そして銃を捨てた兵士たちまで乗っていた。

 宰相は王の玉座の後ろへ隠れた。王はすでに裏口から逃げていた。

「余は国家である!」宰相は叫んだ。

「お前は太った男だ」

「秩序を乱すな! 穀物は軍の備蓄だ。民に配れば冬を越せぬ!」

「民は今日を越せない」

「飢えは統治に必要だ。空腹な者は安い賃金で働く。恐怖する者は命令を聞く。これが国を動かす仕組みなのだ!」

 ヨナは吐き気を覚えた。

 この男の言葉が特別に醜いからではない。

 あまりにも整っていたからだ。

 飢えが数字になり、死者が損失率になり、子どもの手が生産力になっている。言葉は世界を説明するふりをして、苦しむ身体を覆い隠す。

 ヨナの周囲で空気が軋んだ。

 石柱が震え、王冠が溶け、遠くの時計塔まで一斉に針を止めた。

 エマが甲殻を叩いた。

「ヨナ」

「何だ」

「潰さないで」

「こいつは大勢を殺した」

「だからって、虫みたいに潰したら、こいつと同じになる」

 ヨナは少し考えた。

「俺は虫だが」

「そういう意味じゃない」

 宰相は這って逃げようとしていた。

 ヨナは前脚でその襟をつまみ上げた。人間一人が干した靴下のようにぶら下がった。

「ベルゴン。お前を殺すのは簡単だ」

「た、助けてくれ」

「簡単すぎて、意味がない」

 ヨナは彼を玉座へ戻した。

「そこに座って見ていろ。お前の仕組みが食われるところを」

 そして穀物倉へ向き直った。

 鉄門は閉じ、兵士が内側から閂をかけていた。

 ヨナは言った。

「倉よ。お前は何だ」

 返事はない。

「壁か。権力か。冬の備えか。いや、違う」

 彼には見えていた。

 石の奥に積まれた小麦。袋の縫い目。穀粒の一つ一つ。畑で曲がった農夫の背。徴税吏の鞭。飢えた子どもの頬。

 すべての名前が剥がれ、その下で存在だけが濁流のようにうねっている。

 吐き気は頂点に達した。

 ヨナはそれを飲み込んだ。

「お前は、遅れてきたパンだ」

 穀物倉の石壁が、焼きたてのパンへ変わった。

 塔は細長いバゲットになり、胸壁は丸パンになり、鉄門は香ばしいパイの皮になった。窓からは小麦の袋が滝のように流れ出した。

 広場に、パンの匂いが満ちた。

 一万人が息を呑んだ。

 ヨナは壁の一角を前脚で裂いた。

 湯気が上がった。

「食え」

 最初に走ったのは子どもだった。

 次に老人、女工、兵士、学生、荷車引き、役人。人々は城壁をちぎり、塔を分け、門を砕いて食べた。誰かが笑い、誰かが泣いた。

 王宮の広間で、宰相ベルゴンは自分の権力が咀嚼されていく音を聞いた。

 その音は、どんな判決よりも長く続いた。

七 橋の下の法

 夜、オルフェ監察官は一人で橋へ戻った。

 町ではパンが配られ、臨時評議会がつくられ、兵士と市民が同じ鍋のスープを飲んでいた。宰相は逮捕され、裁判を待っている。

 法は勝ったのか、負けたのか。

 オルフェには分からなかった。

 彼は生涯、世界には二種類の人間しかいないと信じてきた。法を守る者と、破る者。

 だが今日、法を守る者が子どもを飢えさせ、法を破る怪物が町を救った。

 足元がなくなったようだった。

 彼は欄干を越えた。

 川は黒く、冷たく、確かな答えのように流れていた。

 オルフェは身を投げた。

 落下の途中で、襟をつままれた。

「またお前か」

 空中に浮かぶヨナが言った。

 オルフェは力なく笑った。

「逮捕しに来たのか」

「散歩だ」

「放せ」

「断る」

「法が間違うなら、私には立つ地面がない」

「地面がないなら、俺の背に立て」

 ヨナはオルフェを甲殻の上へ置いた。

「広いぞ」

 監察官は四つん這いになり、黒い甲殻を見つめた。

 やがて、喉から奇妙な音が出た。

 笑い声だった。

 おそらく彼自身、生まれて初めて聞く音だった。

「私はお前を十八年追った」

「ああ」

「お前は二度逃げた」

「三度目は成功した」

「甲虫になってか」

「方法には改善の余地がある」

 オルフェはまた笑った。笑い終えると、長い沈黙があった。

「私は何をすればいい」

「お前は文字が読める。帳簿も扱える」

「それがどうした」

「倉庫の小麦を公平に配る人間が要る」

「私に慈善をしろと?」

「仕事をしろと言っている」

 ヨナは橋のたもとへ降りた。

「法を捨てろとは言わない。ただ、法より先に人を見ろ」

 オルフェは甲殻から降りた。

 黒い制服は乱れ、襟は裂け、剣はパンのままだった。

「命令か」

「提案だ」

「断ったら?」

「また川へ飛んでも拾う」

「何度でも?」

「俺はお前より強いからな」

 オルフェは、初めて素直にうなずいた。

八 世界より先に

 三か月後、ベルメール市の中央広場に、小さなパン屋ができた。

 看板には《黒い甲殻亭》と書かれていた。

 店主は巨大な甲虫で、窯より大きく、扉より幅があり、毎朝壁を出口に変えて出勤した。

 ヨナは粉をこねられなかったので、八本の脚で店の屋根を支え、薪を割り、荷車を一度に十二台運んだ。パンを盗んだ者がいても捕まえず、代わりに二つ持たせた。一つは本人に、もう一つは、もっと腹をすかせた誰かに渡すためだった。

 エマは学校へ戻り、夕方になると店の会計をした。

 オルフェは配給局長になった。帳簿の数字が一袋でも合わないと眠れない性格は、初めて人の役に立った。

 ノエは革命新聞を発行したが、ヨナに毎号「文章が長い」と叱られた。

 町の者はヨナを《甲虫王》と呼んだ。

 彼が一歩で城壁を越え、指一本で鐘楼を持ち上げ、病院の足りない部屋を言葉だけで増やすのを見たからだ。

 ある晩、エマが店じまいをしながら訊いた。

「人間に戻れるの?」

 ヨナは窯の火を見た。

「たぶんな」

「戻らないの?」

「人間という名前に、前ほど価値を感じない」

「でも、その姿だと不便でしょ」

「税吏が来ない」

「それは便利だね」

 エマは笑い、ヨナの前脚に手を置いた。

 その手は小さく、温かかった。

 世界は相変わらず、存在しすぎていた。

 石は石として重く、パンはパンとして膨らみ、夜は理由もなく暗かった。ときどきヨナは、あらゆる物の名前が剥がれ、その下から無意味な塊が押し寄せるのを感じた。

 吐き気は消えなかった。

 ただ、彼はもう負けなかった。

 意味が最初から存在しないのなら、自分で置けばよい。

 法が人を救わないなら、法を直せばよい。

 壁が人を閉じ込めるなら、出口と呼べばよい。

 強さとは、世界に従わせる力ではない。

 世界が何も保証しないと知ったうえで、それでも誰かを飢えさせないと決め、その決定を曲げない力だ。

 もっとも、ヨナには世界そのものを従わせる力もあった。

 翌朝、パンを求める列が広場を三周した。

 ヨナは焼き上がった巨大な丸パンを甲殻の上へ載せ、顎で一撃のもとに裂いた。

 湯気と歓声が上がった。

 世界には意味がなかった。

 だから彼は、腹をすかせた者にパンを渡すという意味を、世界より先に置いた。