男気決算

――地下十三階・明日営業部――

 会社というものは、たいてい地上にある。

 少なくとも岩倉剛志は、四十五年間そう信じていた。

一 査定、零点

 午後十時四十七分。

 光邦オフィス機器株式会社・本社二十一階の会議室で、岩倉は一枚の解雇通知書を見つめていた。

「本日付で営業企画課長を解任。明朝八時三十分までに私物を整理し、退館せよ」

 読み上げた筒井専務は、老眼鏡の奥で目を細めた。

「異論は?」

「あります」

「だろうな。だが、数字は正直だ。君の今期成績は部内最下位。新規契約ゼロ、利益率マイナス三・二パーセント。会社は学校でも慈善団体でもない」

 岩倉は黙って、机の中央に置かれた製品カタログを指さした。

 光邦オフィス機器の新製品――耐火書庫《プロメテウス300》

 三百台が、翌朝、高齢者福祉施設チェーンへ出荷される予定だった。

「耐火試験のデータが改ざんされています。扉のラッチが熱で変形する。火災時に開かなくなる恐れがある」

「軽微な個体差だ。納入後の定期点検で交換すればいい」

「施設には入居者の薬と避難名簿を保管するそうです。火事が起きてから『個体差でした』で済むと思いますか」

 専務の眉間に皺が寄った。

「岩倉君。君は優秀な営業だった。昔はな。顧客の懐へ飛び込み、無理な納期を頭ひとつで通し、部下の失敗まで背負った。ところが今はどうだ。正義感を振り回して契約を止め、社内を混乱させ、会社の利益を削っている」

「利益のために人の命を削るよりはましです」

 会議室の空気が凍った。

 筒井専務は、解雇通知書を岩倉の胸へ滑らせた。

「会社に男気は要らん。必要なのは数字だ」

 岩倉は紙を受け取った。

「人間を引き算する会社に、最後まで残る数字なんてありませんよ」

 そう言って立ち上がったとき、胸の奥は不思議なほど静かだった。

 廊下へ出ると、営業部の灯りはほとんど消えていた。

 デスクの引き出しから、娘が小学生のころに描いた似顔絵が出てきた。四角い鞄を持った岩倉が、真っ赤な太陽の下で笑っている。絵の下には、丸い字でこう書かれていた。

 ――パパは、うそをつかないえいぎょうマンです。

 いま高校二年生の遥とは、三日前から口をきいていない。

 妻の美佐からは「今夜こそ話したい」とメッセージが来ていたが、岩倉は既読もつけていなかった。

 会社を守るためだと言いながら、彼は何年も、会社以外のものを後回しにしてきた。

 荷物を段ボール箱へ詰め、エレベーターに乗り込んだ。

 時刻は午後十一時五十八分。

 一階のボタンを押す。

 扉が閉まり、箱は滑るように下降した。

 二十階。

 十九階。

 十八階。

 表示灯が一つずつ減っていく。

 だが、一階を通り過ぎても止まらなかった。

 B1。

 B2。

 B3。

「地下は二階までのはずだぞ」

 B7。

 B9。

 B12。

 そして、存在しない「B13」が赤く点灯した。

 エレベーターが止まる。

 扉の向こうから、地鳴りのような掛け声が響いた。

「いちッ! 稟議ッ! にッ! 決裁ッ! さんッ! 捺印ッ!」

 扉が開いた。

二 地下十三階

 そこは、オフィスと武道場を無理やり縫い合わせたような空間だった。

 天井には蛍光灯。床には畳。壁際には事務机とサンドバッグが交互に並び、サンドバッグには「予算不足」「担当者不在」「前例なし」と墨書されている。

 黒いスーツ姿の男女が、コピー機を背負ってスクワットをしていた。別の一団は、飛んでくる巨大なゴム印を営業鞄で受け止めている。

 正面の壁には、赤字で標語が掲げられていた。

 ――契約とは、相手の明日まで背負うことである。

「新入りか」

 声に振り返ると、岩のような男が立っていた。

 年齢は六十前後。白髪を短く刈り、ワイシャツの袖を肩までまくっている。太い首には、ネクタイが鉢巻きのように巻かれていた。

「ここは何です」

「極東再起商事、地下十三階営業部。俺は部長の轟木玄蔵だ」

「うちの会社に、そんな部署はありません」

「ある会社と、ない会社がある。正確には――人生で一度だけ、必要な者の前に現れる」

 轟木は岩倉の段ボール箱から、解雇通知書を抜き取った。

「成績最下位。上司への反抗。家族との関係悪化。貯金は住宅ローン三か月分。見事なまでに崖っぷちだな」

「勝手に読むな」

「崖っぷちで背中を向ける者は落ちる。前を向く者だけが、向こう岸へ飛べる」

 轟木は解雇通知書を二つに折り、紙飛行機にした。

 投げる。

 紙飛行機は道場の端まで一直線に飛び、鋼鉄製のロッカーへ突き刺さった。

 岩倉は言葉を失った。

「午前八時四十分。光邦オフィス機器が納入した耐火書庫の一台が、施設内の小火で変形する。薬品庫の扉が開かず、避難が遅れる」

「何を――」

「三名が重体。ひと月後、内部告発で試験改ざんが発覚。会社は倒産。従業員二百三十六名が職を失う」

「未来が見えるとでも言うのか」

「見えるのではない。もう起きている」

 轟木が指を鳴らした。

 畳の中央に、赤黒い帳簿が浮かび上がった。

 表紙には《光邦オフィス機器株式会社 裏決算書》とある。

 ページを開くと、数字ではなく、人の顔が並んでいた。

 徹夜で眠る若手社員。

 子どもの運動会を断った課長。

 派遣切りを告げられた女性。

 不良品に気づきながら、見なかったふりをした検査員。

 その無数の顔の隙間から、黒い何かが脈打っている。

「会社には二つの決算がある。金を数える表決算と、人間が飲み込んだ言葉を数える裏決算だ。嘘、諦め、見て見ぬふり。そいつが積み重なると、会社の影は化け物になる」

 轟木は帳簿を閉じた。

「光邦の影は今夜、社員たちの明日を食い切る」

「止める方法は」

「契約を取れ」

「誰から」

「お前の会社そのものからだ」

 轟木は岩倉の胸へ、一枚の黒い名刺を押しつけた。

 《極東再起商事 臨時営業員 岩倉剛志》

 裏面には、赤い文字で一行だけ。

 ――本件で取得できる明日は、一日分とする。

「たった一日?」

「明日を笑うな。人間が人生を変えるのは、いつだって一日だ」

 道場の奥で、銅鑼が鳴った。

「日の出まで四時間三十二分。裏決算界へ入る資格が欲しければ、三つの研修を通れ」

「研修?」

「安心しろ。死ぬほど厳しいだけだ」

「それは安心材料じゃないでしょう」

 轟木が初めて笑った。

「口が動くなら、まだ戦える」

三 地獄の営業研修

 第一研修は《名刺千本渡し》だった。

 高速で左右に開閉する鉄扉の向こうへ、千枚の名刺を一枚ずつ投げ入れる。

 挟まれれば指の骨が砕ける。

「名刺は紙ではない!」

 轟木の怒声が飛ぶ。

「名前だ! 名を渡すとは、逃げ場所を捨てることだ!」

 百枚目で岩倉の指は腫れた。

 三百枚目で爪が割れた。

 五百枚目、鉄扉の速度が倍になった。

「こんなもの、何の役に立つ!」

「客先で『責任者を出せ』と言われたとき、トイレに逃げ込まない程度には役立つ!」

「それは技術じゃなく根性論だ!」

「根性を論じている暇があるなら、根性を出せ!」

 千枚目。

 岩倉は扉の動きを見るのをやめた。

 代わりに、自分の呼吸を聞いた。

 相手が閉じる瞬間ではなく、開こうとする瞬間へ手を伸ばす。

 名刺は鉄扉を抜け、向こう側の的の中央へ刺さった。

「第一研修、通過!」

 第二研修は《謝罪不動》だった。

 氷水が滝のように落ちる壇上で正座し、四方から浴びせられる罵声に耐える。

「納期を守れ!」

「聞いてないぞ!」

「上を出せ!」

「誠意を見せろ!」

 岩倉は反射的に頭を下げた。

 その瞬間、轟木の竹刀が床を叩いた。

「失格!」

「なぜです」

「お前はいま、何に謝った」

「相手が怒っているから――」

「怒りに謝るな。自分の過失に謝れ。責任のない謝罪は、その場を逃げるための嘘だ」

 岩倉は唇を噛んだ。

 水の中で目を開ける。

 罵声の一つひとつを聞き分けた。

 納期遅延。自分の責任。

 説明不足。自分の責任。

 上司の横領。自分の責任ではない。

 理不尽な値引き要求。応じる理由はない。

「納期遅延は私の責任です。申し訳ありません」

 頭を下げる。

「ただし、不良品の出荷はできません」

 顔を上げる。

「第二研修、通過!」

 第三研修は《稟議百人担ぎ》

 百冊の分厚い稟議書を背負い、百八段の階段を上る。

 稟議書の表紙には、岩倉がこれまで後回しにした人間の名が書かれていた。

 入社三年目、かばえなかった後輩。

 無理な値下げを押しつけた下請け社長。

 退院の日に迎えへ行けなかった母。

 結婚記念日に一人で食事をした妻。

 文化祭の舞台を見に来てほしかった娘。

 一段上るごとに、背中の書類が重くなる。

 三十段で膝が笑った。

 五十段で息が切れた。

 七十二段目、岩倉はとうとう手をついた。

「会社のためだった」

 誰に聞かせるでもなく、言った。

「売上を守らなきゃ、部下の給料が出ない。俺が働けば、家族を食わせられる。だから――」

 轟木が階段の下から見上げていた。

「家族を犠牲にして会社を守った、などと言うな」

 静かな声だった。

「犠牲にしたのは会社じゃない。お前だ。選んだのも、お前だ」

 岩倉の中で、何かが折れた。

 会社のせいにしておけば、楽だった。

 上司のせい。景気のせい。家族のため。

 だが、既読をつけなかった指も、娘の舞台へ行かなかった足も、自分のものだ。

「……そうだな」

 岩倉は立ち上がった。

「俺が選んだ。なら、選び直すのも俺だ」

 背中の稟議書を担ぎ直す。

 百八段目へ足をかけた瞬間、百冊の書類が光の粒になった。

 岩倉の右手に、赤い角印が浮かんだ。

 《担当者印・岩倉》

「第三研修、通過!」

 轟木が一本のネクタイを投げた。

「締めろ」

「首に?」

「好きなところへだ。男の覚悟に、服装規定はない」

 岩倉はネクタイを右拳へ巻いた。

 午前三時三十六分。

 裏決算界への扉が開いた。

四 門前払部長

 扉の向こうにあったのは、帳簿でできた都市だった。

 道路は罫線。

 街灯は万年筆。

 空には巨大な損益計算書が垂れ下がり、雲の代わりに破棄された企画書が流れている。

 中央にそびえる黒い高層ビル。

 最上階の看板には《光邦オフィス機器株式会社》の文字。

「現実の会社より、ずいぶん立派だな」

「見栄だけは利益より早く育つ」

 轟木はビルを指さした。

「最上階に社魂がいる。契約書へ《人間性要》の印を押させろ。失敗すれば、現実は予定どおり進む」

「一緒に来ないんですか」

「営業は客先の玄関から一人だ」

 岩倉は歩き出した。

 入口には、身長三メートルを超える受付係が立っていた。

 名札には《門前払部長・否目坂》とある。

 両腕の先が巨大なゴム印になっていた。

「アポイントは」

「ない」

「紹介状は」

「ない」

「過去三期の取引実績は」

「ない」

「では、お引き取りを」

 ゴム印が振り下ろされた。

 床へ、赤い《却下》の文字がめり込む。

 岩倉は横へ飛んだ。

 二撃目。

 三撃目。

 逃げ場を塞ぐように、廊下が却下印で埋まっていく。

「数字のない者に、会う価値なし!」

 否目坂の右腕が唸る。

 岩倉は営業鞄を盾にした。

 衝撃で金具が弾け、体ごと十メートル吹き飛ぶ。

 営業鞄は本来、書類を運ぶための道具である。

 だが、十七年間も理不尽な要求と無茶な見積もりを詰め込まれた鞄は、持ち主と同じく、そう簡単には壊れない。

 岩倉は立ち上がった。

「アポイントはない。実績もない。だが、名前はある」

 黒い名刺を一枚抜く。

 否目坂の両腕が同時に迫った。

 閉じる瞬間ではない。

 開こうとする瞬間へ、手を伸ばす。

「第一研修――名刺千本渡し!」

 岩倉の名刺が二つのゴム印の隙間を抜け、否目坂の胸元へ突き刺さった。

「岩倉剛志。商品事故の責任者として来た。逃げも隠れもしない」

 否目坂の巨体が止まった。

「責任者……」

「通してくれ。苦情なら、帰りに全部聞く」

 受付係の顔が、ほんの少しだけ人間らしく歪んだ。

 左右のゴム印がゆっくり開く。

「最上階まで、百階だ」

「階段は?」

「ある。エレベーターは役員専用だ」

「望むところだ」

 岩倉は走った。

五 効率査定院

 五十階で、三人の男が待っていた。

 痩せた男の胸には《時間》

 大男の胸には《費用》

 笑わない男の胸には《服従》

 三人の背後に、巨大な電光掲示板が浮かんでいる。

 《社員価値査定 対象者:岩倉剛志》

「所要時間、四十五年。長すぎる」

「給与総額、三億一千万円。高すぎる」

「上司への反抗、二十七回。多すぎる」

 掲示板に、赤いゼロが点灯した。

「総合価値、零点」

「知ってるよ。さっき会社でも言われた」

 時間の男が、秒針の剣を振る。

 岩倉の左肩が裂けた。

 費用の男が、硬貨の盾で突進する。

 肋骨が軋む。

 服従の男が命じる。

「ひざまずけ」

 体が勝手に沈みかけた。

 岩倉は拳へ巻いたネクタイを歯で締めた。

「質問がある」

「査定対象に、質問権はない」

「営業は、客の話を聞く前に見積もりを出さない」

 岩倉は三人を睨んだ。

「お前たちの客は誰だ」

 三人が止まった。

「時間を短くして、誰を喜ばせる」

 時間の男の輪郭が揺れる。

「費用を削って、何を残す」

 費用の男の盾にひびが入る。

「上に従って、その上が間違えたら、誰が止める」

 服従の男の口が開いたまま固まる。

「客は……」

「顧客満足度の項目は……」

「上位命令が未入力……」

 三人の胸から、紙の束があふれ出した。

 数字だけが並び、目的の欄は空白だった。

「客のいない効率は、ただの早死にだ」

 岩倉は赤い担当者印を掲示板へ叩きつけた。

 《再査定》

 赤いゼロが激しく明滅する。

 やがて、数字の代わりに一行の文字が浮かんだ。

 《測定不能》

 三人は音もなく崩れ、空白の申請書になった。

「零点よりは、ましだな」

 岩倉は血のにじむ肩を押さえ、さらに階段を上った。

六 会社という怪物

 百階。

 役員会議室の扉を開けると、広大な暗闇があった。

 中央に、巨大な何かが座っている。

 机、椅子、パソコン、社章、給与明細、タイムカード。

 それらが何千個も絡み合い、人の形を作っていた。

 顔のあるべき場所では、社員たちの顔が次々に入れ替わる。

 筒井専務。

 若手社員。

 清掃員。

 検査員。

 そして、岩倉自身。

「ようこそ、岩倉剛志」

 怪物の声は、全社員のため息を重ねた音だった。

「俺が光邦の社魂か」

「私は、お前たちが作った会社だ」

 怪物の胸が開いた。

 内部に、無数の言葉が黒い火となって燃えている。

 ――仕方がない。

 ――自分だけ逆らっても無駄だ。

 ――家族のためだ。

 ――今期だけ乗り切ればいい。

 ――誰かが止めるだろう。

「お前も私を育てた」

 怪物の顔が、若いころの岩倉になった。

「最初の改ざんを見たとき、黙った。部下が泣いていたとき、忙しいと言った。顧客に不利な条項を、小さな文字で隠した。十七年間、お前は私へ餌を与え続けた」

「……ああ」

 岩倉は否定しなかった。

「だから、終わらせに来た」

「不可能だ。会社とは利益を求める機械。人間は交換可能な部品。壊れれば取り替える。それが合理だ」

「その機械を使うのは、人間だ」

「人間性は費用である」

 怪物が右腕を上げる。

 天井から、巨大な角印が降りてきた。

 印面には《人間性不要》の四文字。

「契約しろ、岩倉剛志。残りの人生を会社へ売れ。代わりに役員の席を与える。不良品事故は下請けへ責任転嫁し、会社だけは生き残らせてやる」

 床に契約書が現れた。

 《終身雇用契約》

 報酬欄には、取締役待遇。

 代償欄には、家族、睡眠、良心、名前。

 かつての岩倉なら、迷ったかもしれない。

 家族のために役員になる。

 社員を守るために嘘をつく。

 そう言い訳して、判を押したかもしれない。

 岩倉は契約書を拾い上げ、真ん中から破った。

「商品が違う」

「何?」

「俺が売りに来たのは、人生じゃない」

 胸ポケットから、娘の似顔絵を取り出す。

 その裏へ、指で文字を書いた。

 《一日一時間の余白》

「毎日一時間、何も売らない。数字を追わない。製品を点検し、現場の話を聞き、間違いを止める。飯を食い、家へ帰り、家族の顔を見る」

 怪物が笑った。

「利益、ゼロ」

「違う。事故を防ぐ。人が辞めない。嘘をつかずに済む。明日も名前を名乗れる」

「数値化不能」

「だから価値がある」

「却下する!」

 巨大角印が落下した。

 岩倉は両腕で受け止めた。

 骨が悲鳴を上げる。

 床が割れ、膝が沈む。

 《人間性不要》の印面が、顔の寸前まで迫る。

「会社に、男気は要らぬ!」

 筒井専務の声。

「家族を守るなら黙れ!」

 過去の自分の声。

「お前一人が逆らっても、何も変わらない!」

 社員たちの声。

 岩倉の腕から力が抜けかけた。

 そのとき、似顔絵の中の小さな自分が目に入った。

 真っ赤な太陽の下で笑う、嘘をつかない営業マン。

「一人で変わらないなら――」

 岩倉は歯を食いしばった。

「一人目になればいい!」

 腰を落とす。

 背中に、百冊の稟議書の重みがよみがえる。

 謝るべきことには頭を下げる。

 譲れないことには顔を上げる。

 名前を渡し、逃げ道を捨てる。

 岩倉は角印を押し返した。

「地下十三階営業部、臨時営業員――岩倉剛志!」

 右拳を引く。

 狙うのは怪物ではない。

 印面の四文字、そのうち一文字。

「最終提案だ! 人間を費用から、必要条件へ振り替えろ!」

 拳が《不》の字へ突き刺さった。

 轟音。

 石のような角印に亀裂が走る。

 《不》だけが粉々に砕け散った。

 残った印面は、三文字。

 《人間性要》

 角印が契約書へ落ちた。

 赤い光が百階を貫く。

 怪物の体を作っていた机や椅子が、一つずつ人の姿へ戻っていく。

 若手社員が目を開く。

 検査員が顔を上げる。

 清掃員が息を吸う。

 最後に残った岩倉自身の顔が、少しだけ笑った。

「契約……成立」

 怪物が崩れた。

 都市を覆っていた巨大な損益計算書が破れ、その向こうから朝日が差し込む。

 岩倉の右手に、熱い痛みが走った。

 赤い角印が、掌へ焼きついていた。

七 八時四十分

「岩倉さん! 岩倉さん!」

 目を開けると、本社一階の警備員が顔をのぞき込んでいた。

 時計は午前八時十二分。

 岩倉は床から跳ね起きた。

「出荷場は!」

「え?」

 段ボール箱を放り出し、裏口へ走る。

 トラック三台が、ちょうど発進しようとしていた。

 先頭車両の前へ飛び出す。

 急ブレーキ。

 運転手が窓から怒鳴った。

「死にたいのか!」

「荷を下ろしてください! その書庫には欠陥がある!」

 駆けつけた筒井専務が、顔を真っ赤にした。

「警備! こいつを排除しろ! もう社員ではない!」

「だから言えるんです」

 岩倉はスマートフォンを掲げた。

 昨夜、会議室を出る直前に、自分の端末へ送っておいた耐火試験の原データ。

 同じメールは、取引先、認証機関、報道各社、そして全社員へ一斉送信されていた。

 送信時刻は午前四時四十四分。

 岩倉には送った記憶がない。

 ただ、件名の末尾には赤い角印の画像が付いていた。

 《担当者印・岩倉》

「お前、自分の会社を潰す気か!」

 専務の拳が岩倉の頬を打った。

 岩倉は倒れなかった。

「会社は建物でも看板でもない。そこで働く人間と、名前を信じてくれる客だ」

「きれいごとを!」

「きれいごとを汚さずに済ませるのが、仕事でしょうが!」

 出荷場が静まり返った。

 最初に動いたのは、品質管理の若い社員だった。

「……俺も、欠陥を知っていました」

 次に、製造課長。

「交換部品の見積もりを隠すよう指示されました」

 経理の女性。

「試験会社への裏金記録があります」

 一人。

 また一人。

 社員たちが前へ出る。

 筒井専務は後ずさった。

 午前八時四十分。

 トラック三台は、出荷場に止まったままだった。

八 社長の明日

 それから半年後。

 光邦オフィス機器株式会社は、一度、事実上潰れた。

 経営陣は総退陣。

 行政処分。

 取引停止。

 銀行の融資打ち切り。

 だが、全製品の無償点検と情報公開を続けた結果、少しずつ顧客が戻った。

 従業員と取引先が共同出資し、新会社《光邦リスタート》が設立された。

 代表取締役に選ばれたのは、元営業企画課長の岩倉剛志だった。

「お先に失礼します!」

 午後五時。

 社員たちが次々に退社していく。

「おう。子どもの誕生日なんだろ。寄り道するなよ」

「社長こそ帰ってくださいよ」

「あと一枚だけ見たら帰る」

 岩倉の机には、育児休業の申請書が置かれていた。

 かつてなら、繁忙期を理由に渋ったかもしれない。

 いまは迷わず判を押す。

 《承認》

 掌の赤い角印が、一瞬だけ熱を持った。

 壁時計の秒針が、逆向きに一目盛り動く。

 岩倉は顔を上げた。

 誰もいないオフィスの奥で、エレベーターが音もなく開いていた。

 表示は「B13」。

 中には、轟木玄蔵が腕を組んで立っている。

「久しぶりだな、社長」

「半年ぶりですね」

「馬鹿を言え。毎晩会っている」

 岩倉は黙った。

 この半年、奇妙な夢を見続けていた。

 砂漠で保険を売り。

 幽霊工場で労働組合と交渉し。

 時間を値上げする時計商人と、三日三晩の見積もり合戦をした。

 朝になると内容は忘れる。

 だが、拳の傷だけが増えていた。

 轟木が一枚の伝票を差し出した。

 《明日取得明細》

 取得日数、百八十三日。

 使用日数、百八十三日。

 残高、零日。

「最初の契約で救えたのは、一日分だけだ」

「残りの百八十二日は?」

「お前が毎晩、取ってきた」

 岩倉は伝票を裏返した。

 細かな文字が並んでいる。

 ――代表者が従業員の明日を承認する場合、同数の明日を担保として差し入れるものとする。

「育児休業、有給休暇、病気療養。お前が誰かの明日を認めるたび、お前自身の残り時間が担保になる」

「ずいぶん悪質な契約ですね」

「読まずに押したのか」

「営業失格だ」

「取り消すか」

 轟木が赤い取消印を見せた。

 押せば、社員たちへ与えた明日は戻る。

 代わりに岩倉の寿命も戻る。

 静かなオフィスに、家族写真が飾られていた。

 妻の美佐。

 娘の遥。

 三人で食卓を囲んだ、先週の日曜日。

 岩倉は写真を手に取った。

「娘に怒られたんですよ」

「何をだ」

「会社のために死ぬなって。生きて帰ってこいって」

「なら、取消印を押せ」

「そうします」

 岩倉は上着を脱ぎ、ネクタイをほどいた。

 右拳へ、きつく巻きつける。

「俺の寿命を担保にする契約は取り消す。その代わり、正規料金で買い戻す」

「残高は零だぞ」

「だから営業するんでしょう」

 エレベーターの奥で、銅鑼が鳴った。

「今夜の得意先は、死神保険相互会社。創業以来、値引き実績なし」

「好都合だ」

「先方の本社は冥府八千階。受付だけで百年待ちだ」

「名刺は千枚ある」

「契約条件は、お前の命だ」

「安く見られたものですね」

 岩倉は笑った。

「俺一人の命で、二百三十六人分の明日が買えると思うなと伝えてください」

 轟木も笑った。

「伝えるのは、お前だ」

 岩倉はエレベーターへ乗り込んだ。

 扉が閉まる直前、机の上のスマートフォンが鳴った。

 娘からのメッセージ。

 ――今日、何時に帰る?

 岩倉は素早く返信した。

 ――夕飯までには帰る。約束する。

 送信。

 扉が閉じた。

 表示灯が下降を始める。

 B13。

 B100。

 B1000。

 B8000。

 地上の時計は、午後五時一分を指していた。

 社員たちの時計は、全て未来へ進んでいる。

 ただ一つ。

 誰もいない社長室に置かれた岩倉の腕時計だけが、秒針を一度、後ろへ戻した。

 そしてすぐ、追いつくように二度、前へ進んだ。

 明日とは、与えられる日付ではない。

 誰かの名を背負い、何度でも契約し直すものなのだ。