風喰い樹と空洞の子ら

 朝の鐘が三つ鳴るより早く、カラド村の風見塔は赤い旗を吐き出した。

 毒風だ。

 東の地平を覆う胞子海が、夜のあいだに崖を二段も這い上がっていた。青白い靄は海のようにうねり、谷底の枯れた尖塔を呑み込みながら、ゆっくり村へ近づいてくる。風が変わるたび、靄の底で巨大な翅が明滅した。

 リヤは屋根の上で防風布を結び直し、赤い旗を見上げた。十五歳の手には縄の痕がいくつも走っている。村一番の伝令を自称するだけあって、彼女は煙突から煙突へ飛び移るのが得意だった。けれど、その朝ばかりは、着地した板屋根が足の下で頼りなく軋んだ。

 広場には、灰色の外套を着た帝国の測量官たちが並んでいた。

「本日、日没までに退去せよ」

 銀の面をつけた隊長が、巻物を読み上げた。

「地下水脈に胞子毒を確認した。カラド村は居住不適格区域とする。住民は北の収容城へ移送する。抵抗する者は――」

 その先は、広場に沸いた怒号に掻き消された。

 カラド村は、百二十年前に死んだ空獣の背骨へ家々を縫いつけてできた村だった。石より軽く、鉄よりしなやかな白い骨が、崖と崖のあいだを橋のように渡っている。畑は狭く、水は少なく、冬は風が家の中まで刃物を投げてくる。誰も好き好んで住む場所ではない。

 だからこそ、村人はここを捨てなかった。

「収容城じゃなく、鉱山送りだろうが!」

「水なら煮沸すればいい!」

「測量官が先月、南斜面で何を掘ってたか説明しろ!」

 リヤの父も人波の先頭にいた。片脚を引きずりながら、杖で石畳を叩いている。

 測量隊長は銀の面を少し傾けた。

「南斜面の地下には、旧世界の危険構造物がある。毒の原因もそこだ。正午、浄化のため火薬を仕掛ける」

 リヤの背中を、冷たいものが走った。

 南斜面。母が消えた場所だ。

 七年前、地下の風穴を調べに入ったまま帰らなかった母は、最後に一枚の紙片を残していた。

 ――風が根を鳴らすとき、空洞の王は目を覚ます。

 意味のわからない言葉だった。父は母が遭難の直前に見た幻だと言い、紙片を炉で燃やした。けれどリヤは、その文を一字も忘れていない。

「リヤ!」

 屋根の下から声がした。

 キアラが手を振っていた。十三歳の小柄な少女で、丸い防塵眼鏡を額に載せ、工具を詰め込んだ鞄を背負っている。その隣には、大きな身体を持て余すように立つロリュドと、十二歳のニロがいた。

 三人とも、ひどくまずいことをした子どもの顔をしていた。

 リヤが梯子を滑り降りると、キアラは何も言わず、掌を開いた。

 そこには、薄緑の石でできた小さな笛があった。巻貝のように螺旋を描き、先端には黒い木の根が絡みついている。

「それ……どこで」

「風見塔の心柱。昨日、歯車を直してたら、内側から出てきた」

「勝手に塔を分解したのか」とロリュド。

「直したついでに、少しだけ構造を理解しただけ」

「世間ではそれを分解っていう」

 キアラは無視した。

「笛に、リヤのお母さんの印がある」

 螺旋の底に、三本羽根の紋が彫られていた。母が地図へ署名するときに使った印だ。

 ニロが唇を噛んだ。彼は風の音に敏感すぎる耳を持ち、いつも布を二重に巻いている。

「昨夜、その笛が鳴ったんだ。誰も吹いてないのに。南の地下から……返事がした」

 広場では、退去命令をめぐる怒号が続いていた。測量官たちは昼までに火薬を仕掛ける。七年前の謎も、母の痕跡も、村の足元にある何かも、まとめて吹き飛ばすつもりだ。

 リヤは笛を握った。

「南斜面まで、何分?」

「大人の道なら一時間」とキアラ。「でも排水溝を使えば二十分」

「排水溝は立入禁止だぞ」とロリュド。

「そうね」

「毒蛭がいるぞ」

「三匹までなら蹴れる」

「四匹いたら?」

「ロリュドを餌にする」

 ロリュドは抗議しかけたが、リヤの顔を見て口を閉じた。

 ニロだけが、青白い胞子海を振り返った。

「地下で、誰かが呼んでる。人の声じゃない。ずっと昔から待ってたみたいな声だ」

「なら、待たせるのは悪い」

 リヤは防塵面を首に掛けた。

「日没までに、村を救うものを持って帰る。水でも、証拠でも、測量官の鼻を明かす化け物でもいい」

「それ、計画って呼べる?」とロリュド。

「目的があれば計画よ」

「無茶に名前をつけただけだろ」

「来ないの?」

「行くに決まってる」

 そのとき、人垣の向こうから、もう一人が駆けてきた。

 測量官の灰色外套を脱ぎ捨てながら、黒髪の少女が石段を飛び越える。セナ。銀面の隊長ロアンの娘で、半年前に父とともに村へ来たよそ者だった。

「私も行く」

 リヤは眉をひそめた。

「密告役なら間に合ってる」

「父は南斜面を爆破する気じゃない」

 セナは息を切らしながら言った。

「地下から何かを掘り出す気よ。帝都が百年探してるものを」

 彼女は外套の内側から、鍵の形をした黒い金属片を取り出した。表面に、根と翼が絡み合う紋様が刻まれている。

「これを使える扉が、排水溝の奥にある。父の机から盗んだ」

 キアラが目を輝かせた。

「素晴らしい」

「盗みが?」

「鍵の加工精度が」

 リヤはセナを睨んだ。嘘をついている目ではなかった。けれど、真実を全部言っている目でもない。

 風見塔で、四つ目の鐘が鳴った。

 正午まで、あと三時間。

「ついてくるなら、私の指示に従って」

「あなたの?」

「嫌なら帰って、お父さんに泣きつけば」

「いいわ」

 セナは黒い鍵を握り締めた。

「ただし、地下で見つけたものは、誰にも渡さない。帝国にも、あなたにも」

 こうして五人は、村人たちが退去命令に怒鳴り返している隙に、広場の干上がった噴水へ飛び込み、鉄格子の外れた排水溝へ身を滑らせた。

 誰も知らなかった。

 そのとき南斜面の地底で、七年ぶりに一本の枝が芽吹いたことを。

 排水溝は、村の下を這う鉄の腸だった。

 五人は腰まで黒い水に浸かり、錆びた管の中を進んだ。壁には古い時代の文字が刻まれている。文字というより、絡まった蔓と虫の脚を並べたような記号だった。

「この辺り、村の水路じゃない」とキアラが壁を撫でた。「もっと古い。骨橋ができる前からある」

「旧世界の水路?」

「水路かどうかも怪しい」

 管の天井には、半透明の袋が無数に垂れ下がっていた。中で細長い影がゆっくり蠢いている。

 ロリュドが指をさした。

「あれ、何」

「見ないほうがいい」とニロ。

「見た後に言うなよ」

 リヤは先頭で、母の笛を掲げていた。笛は灯りを持たない。だが分岐へ来るたび、握った掌の中でかすかに震えた。右へ向ければ沈黙し、左へ向ければ、遠い井戸の底で鳴るような低音を返す。

 笛に導かれて三つ目の分岐を曲がったとき、足元が消えた。

「止まれ!」

 リヤは両腕を広げた。つま先の先に、縦穴が口を開けている。水は滝となって落ち、闇の中で音もなく消えていた。

 対岸まで六歩ほど。橋はない。

 壁には古びた滑車があり、天井から一本の鎖が下がっている。鎖の先には、籠のような鉄枠が吊られていた。ただし籠は対岸側で止まり、こちらから手が届かない。

「跳べる?」とキアラ。

「あなたはね」とロリュド。「ニロは無理だ」

「僕を基準に話さないで」

「跳べるのか?」

「無理」

 セナが黒い鍵を壁の窪みへ差し込んだ。寸法は合ったが、回らない。

「仕掛けが死んでる」

「死んでない」とキアラ。「寝てるだけ」

 彼女は鞄から細い銅線、歯車、乾燥雷魚の膀胱を取り出した。

「最後のは何に使うの?」とセナ。

「お昼ごはん」

「今出す必要あった?」

「工具を探すと出てくるの」

 キアラが鍵穴の周囲を分解しているあいだ、ニロは縦穴の縁へ膝をついた。耳の布を一枚外し、闇へ顔を向ける。

「下に、羽音がいる」

「羽音が“ある”じゃなく?」とリヤ。

「いる。こっちを聞いてる」

 直後、縦穴の底から風が吹き上げた。

 腐った花の匂い。濡れた石。遠い雷。そして、何千枚もの薄い羽根がこすれ合う音。

 天井の袋がいっせいに脈打った。

「キアラ、急いで」

「あと三十秒」

「十秒にして」

 袋の一つが裂け、白いものが落ちた。

 それは蛭ではなかった。人の腕ほどある芋虫で、頭のかわりに花弁のような口を開いている。水へ落ちると、音もなく泳いでリヤの脚へ絡みついた。

「毒蛭!」とロリュド。

「蛭じゃない! 多分もっと悪い!」

 リヤは短剣で胴を切った。切断面から透明な糸が噴き、壁へ貼りつく。残りの袋も次々に裂けた。

 ロリュドがニロを肩へ担ぎ、芋虫を蹴り飛ばす。セナは測量官の短杖を抜き、先端から青い火花を放った。二匹が焦げ、甘ったるい煙を吐いた。

「そんなもの持ってたの!」

「密告役には必要でしょ!」

 キアラが最後の歯車を押し込んだ。

「回して!」

 リヤとセナが黒い鍵へ体重をかける。固着していた機構が悲鳴を上げ、壁の奥で何かが動いた。

 対岸の籠が滑り出す。

 だが、途中で止まった。

「どうして!」

「重りが足りない!」

 鎖の反対側には、石の錘が吊られていた。錘へ手は届かない。芋虫は増え続けている。天井の袋は、まだ百以上。

 ロリュドが鉄枠を掴んだ。

「これを揺らして、こっちへ寄せる!」

「落ちるよ!」

「俺は重いんだ。今日初めて役に立つ!」

 彼は鎖へ飛びついた。全体重でぶら下がり、身体を振る。籠が一尺ずつ近づいた。

 芋虫がロリュドの背中に貼りついた。ニロが素手で掴み、必死に引き剥がす。口の花弁が開き、彼の指へ噛みつこうとした。

「お前、耳がいいだけじゃなかったのか!」

「耳しか取り柄がないみたいに言わないで!」

 籠が縁へ届いた。

 五人は転がり込んだ。キアラが機構を逆転させる。鉄籠は縦穴を渡り始め、芋虫たちは鎖を伝って追ってきた。

 あと一歩で対岸というところで、縦穴の底から巨大な風が噴き上がった。

 白い影が、籠の下を横切った。

 羽ばたき一つで、闇が明るくなる。薄い翼に青い燐光が走り、その中央に、鹿ほどもある昆虫の身体が見えた。六本の脚。長い角。仮面のような頭。

 それは芋虫の群れへ舞い上がると、花弁の口ごとまとめて呑み込んだ。

 籠にぶつからないよう、羽根をわずかに傾けた。

 ニロが息を呑んだ。

「今の……僕たちを助けた」

「餌と間違えなかっただけよ」とセナ。

「違う。笛を聞いてた」

 リヤの掌で、螺旋の笛が温かくなっていた。

 対岸へ降りると、背後で鉄籠が落下した。縦穴の底から、長い羽音が別れを告げるように響いた。

 目の前には、黒い扉があった。

 扉の表面を、一本の樹が覆っている。金属へ彫られた樹なのに、その枝は見るたび数を変え、根は五人の足元へ伸びてくるように見えた。

 中央に、鍵穴がある。

 セナが黒い鍵へ手を伸ばした。

「この先から先は、引き返せない」

 リヤは笛を握り直した。

「最初から、そのつもりよ」

 鍵が回った。

 扉の向こうで、森が息をした。

 地底に空があった。

 黒い扉を抜けた五人は、崖の縁に立ち尽くした。

 眼下には、ひとつの都が沈んでいた。

 巨大な洞窟の底に、白い塔や円形の広場、橋の連なる街路が広がっている。建物のあいだを淡い霧が流れ、天井から垂れる鉱石の結晶が星のように光っていた。都の中心には、一本の樹が立っている。

 あまりに大きく、最初は柱だと思った。

 幹は十軒の家を束ねたほど太く、洞窟の天井へ届いてなお、石を突き破って上へ伸びている。葉は一枚もない。枝は白く乾き、先端から細い根のような糸を垂らしていた。

 その糸が、街のすべてへ繋がっている。

 塔へ。橋へ。路地へ。空中に浮かぶ半透明の繭へ。

 そして時おり、幹の表面に人の顔が浮かんだ。

 目を閉じた老人。泣く子ども。笑っている女。どれも樹皮の皺に過ぎないのに、次の瞬間には唇が動く。

「風喰い樹……」

 セナが呟いた。

「知ってるの?」とリヤ。

「帝国の古文書にある。星がまだ近かった時代、空から落ちた種。地中の毒を吸い、代わりに風を変える樹」

「村を救える?」

「古文書が正しければ」

 セナの声には喜びより恐れがあった。

「でも、風喰い樹は眠っている間、夢を食べる。起きている間は……名前を食べる」

 ロリュドが笑おうとして失敗した。

「名前くらいなら、またつければいい」

「自分が誰か忘れたあとで、どうやって?」

 ニロは耳を押さえた。布越しにも、何かが聞こえるらしい。

「たくさん喋ってる。木の中に、たくさんいる」

 都へ下りる石段は半ば崩れていた。五人は根を避けながら、慎重に進んだ。

 街へ足を踏み入れると、霧の中から生活の跡が現れた。石の食器。子ども用の靴。広場に置かれたままの車輪。逃げ出した形跡はない。住民が一瞬で消え、持ち物だけが残ったようだった。

 キアラが円形の台座へ触れた。

 台座が光り、空中に薄い像を映した。

 人々が、樹の周囲で踊っている。

 仮面をつけた子どもたち。透き通る布をまとう大人たち。皆、手に青い器を持っている。空から黒い灰が降り、樹の枝が風を吸うたび、灰は白い花へ変わった。

「お祭りみたい」とキアラ。

「葬式かもしれない」とニロ。

 像の中で、樹が大きく脈打った。

 踊っていた人々の動きが止まる。

 一人が仮面を外した。顔がなかった。皮膚のかわりに白い年輪が渦を巻いている。

 像はそこで途切れた。

「帰ろう」とロリュドが言った。「今ならまだ、毒蛭と仲良く暮らせる」

「村は?」とリヤ。

「村ごと連れて逃げる。骨橋を切って、谷へ滑らせるとか」

「それを計画とは呼べないわね」

「お前に言われたくない」

 リヤは中央の樹を見上げた。

 母は七年前、ここへ来たのだろうか。顔の一つになっているのだろうか。

 笛が鳴った。

 今度は、はっきりした音だった。

 ひゅう、と短く、懐かしい呼び声のように。

 樹からではない。街の西端にある半壊した円塔から聞こえた。

 五人は顔を見合わせた。

「罠かも」とセナ。

「母かも」とリヤ。

 答えを待たず、リヤは走り出した。

 円塔の入口には、黒い根が格子のように張っていた。笛を近づけると根がほどけ、内側へ道を作る。

 塔の中は、無数の風鈴で満たされていた。

 骨、ガラス、金属、乾いた実。あらゆる素材の小さな鈴が天井から下がり、風もないのに揺れている。床の中央には、石の椅子が一脚。

 その上に、人が座っていた。

 ぼろぼろの外套。細い肩。灰色の髪。

「母さん」

 リヤの喉から、声が勝手にこぼれた。

 女が顔を上げた。

 七年という時間は、確かにそこにあった。頬はこけ、目尻には深い皺が増えている。それでも、緑がかった瞳は記憶の中のままだった。

「リヤ」

 母は微笑んだ。

「ずいぶん大きくなったね」

 リヤは駆け寄った。

 あと一歩というところで、ニロが悲鳴を上げた。

「触っちゃだめ!」

 リヤの腕を、ロリュドが後ろから掴んだ。

 母の足元から、細い根が伸びていた。外套の下へ入り、脚と腹と胸を貫き、椅子の背へ縫いつけている。

 母は微笑みを崩さなかった。

「この子は耳がいい」

 ニロは震えていた。

「声が……二つある。女の人の声の下に、木がいる」

 母の首が、わずかに傾いた。人の骨では曲がらない角度まで。

「木ではないよ」

 風鈴がいっせいに鳴った。

「木は、あれがこの世界で選んだ形にすぎない」

 塔の入口が根で塞がった。

 ロリュドが斧で叩き切ろうとしたが、一本切るたび二本が伸びる。キアラは鞄から火打石を出した。リヤの母が静かに首を振る。

「火はよしなさい。あれは痛みを知らないが、痛みを真似ることはできる。真似た痛みは、洞窟じゅうへ伝わる」

「あなたは、リヤのお母さんなの?」とセナ。

「その問いには、いつからを答えればいい?」

 女は穏やかに言った。

「七年前まで、私はエナ・イルバだった。地図師で、妻で、リヤの母だった。ここへ来て、樹の根に触れた。そこで私は、私より古い記憶と繋がった。星の海を渡った記憶。まだ海も空も分かれていなかった頃、この地へ沈んだ記憶。千年前、この都の人々が私たちを神と呼び、やがて恐れ、眠らせた記憶」

「私たち?」

「種は一つではない」

 女の唇の奥に、黒い樹皮が見えた。

「世界中の地下で眠っている。互いの夢を、根で繋ぎながら」

 リヤは爪が掌へ食い込むほど笛を握った。

「母さんは、生きてるの」

「生きているよ。少なくとも、あなたがそう呼べるほどには」

「帰れる?」

 女は答えなかった。

 代わりに、塔の壁へ映像が広がった。

 地上のカラド村。測量官たちが南斜面へ火薬樽を運んでいる。父が兵士に押さえつけられ、広場の柱へ縛られていた。

「彼らは正午に根を切る」と女。

「根を切れば、風喰い樹が目を覚ます。目覚めれば、まず近くの名を食べる。村の者は自分を忘れ、家族を忘れ、最後には身体の形さえ忘れて、樹が必要とするものへ変わる」

 壁の像で、白い根が地面を割り、村へ伸びた。家々が根に包まれ、人の影が幹へ溶けていく。

 次に、胞子海が映った。

 青白い靄の中で、巨大な昆虫たちが飛んでいる。翅から落ちた粉が岩へ積もり、岩は長い年月をかけて土へ変わった。小さな苔が生え、やがて一本の草が芽吹く。

「毒風は、世界を殺しているのではない」と女は言った。「古い毒を食べ、次の土を作っている。人には速すぎるだけだ。樹はその速度を抑える楔だった」

「だった?」とキアラ。

「この都の人々が樹を眠らせてから、楔は弱り続けた。胞子海は年々高くなる。あと十二年で、この崖を越える」

「じゃあ、起こせばいい」とロリュド。「名前を食べないよう、腹いっぱい別のものを食わせるとか」

「何を?」

「帝国の役人」

「少し賛成」とキアラ。

「少しなの?」

 母は初めて、ほんのわずかに笑った。その笑いだけは、リヤの知る母のものだった。

「目覚めさせる方法はある。都の中心、樹の根元に“蒼肺”がある。旧世界の人々が作った、樹と風を結ぶ器官だ。蒼肺を再起動すれば、樹は人の名ではなく、胞子海の毒を吸う」

「それを帝国が探してるのね」とセナ。

「帝国は蒼肺を持ち去り、北の都だけを守るつもりだ。外せば、この地の根は死ぬ」

 リヤは母を見た。

「私たちに起動できる?」

「五人なら」

 風鈴の中から、五つの音が鳴った。

 高い音。低い音。震える音。硬い音。そして、聞こえないほど小さな音。

「蒼肺には五つの弁がある。勇気、知恵、力、共感、そして――」

「そして?」とニロ。

 女の目が、真っ黒に変わった。

「喪失」

 塔が揺れた。

 遠くで爆発音がした。正午にはまだ早い。測量隊が試しに一本、火薬を使ったのだ。

 壁の映像が乱れ、女の身体を貫く根が引きつった。無数の風鈴が狂ったように鳴る。

「時間がない」と母。「中心へ行きなさい。笛が道を開く」

「母さんは?」

「私はここで樹を眠らせる。蒼肺が動くまで」

「そのあと、一緒に帰るんでしょ」

 女は答えなかった。

 リヤは一歩近づいた。

「母さん」

「地図師はね、リヤ。帰り道を描くためだけに旅をするんじゃない」

「そんな言葉、聞きたくない」

「帰れない場所があると、伝えるためにも地図を描く」

 リヤは首を振った。

 七年間、母がどこかで生きていると信じた。信じたまま怒り、憎み、会えたら殴ってやる言葉を百も考えた。なのに今、母は目の前にいて、すでに別れの言葉を選んでいる。

「勝手に決めないで」

 女の瞳が、一瞬だけ緑へ戻った。

「うん。そう言うと思った」

 根が入口から退いた。

「だから、決めるのはあなたに任せる。蒼肺を起こせば、樹は私を必要としなくなる。助かるかもしれない。消えるかもしれない。どちらになるか、私にもわからない」

 リヤは唇を噛み、頷いた。

 背を向ける直前、母が呼び止めた。

「リヤ。樹の声が、欲しいものの声で話しかけても、返事をしてはいけない」

「欲しいもの?」

「失ったもの。なりたかった自分。許してほしい相手」

 母の視線が五人を順に撫でた。

「あれは嘘をつかない。だから危険なんだ」

 塔を出ると、街の霧が濃くなっていた。

 中央の風喰い樹まで、残された道は一本。

 けれど、五人の足元から伸びる影は、六つあった。

 中央広場へ続く道には、橋が三本あった。

 最初の橋は石でできていた。

 五人が半分まで渡ったところで、街の霧が両側から盛り上がり、人の形を作った。

 リヤの前には、幼いころの自分が現れた。

 六歳のリヤ。母の外套を掴み、泣きながら引き止めている。

『行かないで』

 あの日の朝だ。

 母は笑って、夕食までには帰ると言った。リヤは拗ねて、見送りもしなかった。その背中が最後になると知っていたら、足へしがみついてでも止めた。

『行かせたのは、あなた』

 幼いリヤが言った。

 声に出して返事をしてはいけない。

 リヤは歯を食いしばり、前へ進んだ。

 隣でロリュドが立ち止まっていた。彼の前には、村の食堂が見えている。長い卓に料理が並び、亡くなった兄が手招きしていた。

『お前のせいじゃない。こっちへ来い。ちゃんと言ってやる』

 ロリュドの口が開きかけた。

 リヤは彼の脛を蹴った。

「痛っ」

「返事した」

「お前にだ!」

「なら歩いて」

 キアラの霧には、巨大な工房が現れた。壊れたものが一つもない。彼女が作った機械を、大勢の学者が取り囲み、褒めている。

『君は間違っていなかった。壊したのは、理解できない者たちだ』

 キアラは目を逸らし、鞄から乾燥雷魚の膀胱を取り出して噛んだ。

「まずい」

「食べたの?」とセナ。

「現実はだいたい、まずいから」

 ニロの周囲には、音のない世界が広がった。風も羽音も、人の心臓も聞こえない。静寂の中心で、彼はうっとり目を閉じた。

 リヤは彼の手を握った。

 ニロは驚いて目を開けた。リヤが何も言わず首を振ると、彼は震える指を握り返した。

 最後にセナの前へ、銀面の父が現れた。

『戻ってこい。お前は私の娘だ』

 セナの足が止まる。

『裏切ったことは許す。鍵を渡せば、村も救う。母の名誉も戻そう』

 セナの頬が引きつった。

 リヤは、セナの母について何も知らなかった。ただ、帝国に処刑されたという噂だけは聞いていた。

 霧の父が手を差し出す。

『お前は私に似ている。最後には正しい側を選ぶ』

 セナは黒い鍵を抜き、霧の像へ投げた。

 鍵は像を突き抜け、橋の外へ落ちた。

「正しい側なんて、たいてい後からつける名前よ」

 彼女はそう言い、歩き出した。

「鍵、捨ててよかったの?」とキアラ。

「扉はもう開けた」

「拾いに行っても?」

「落ちたの、底が見えない穴だけど」

「加工精度が」

「諦めて」

 石橋を渡り終えると、霧の像は消えた。

 次の橋は、骨でできていた。

 細い肋骨が何百本も組み合わされ、下の暗い水面まで弓なりに伸びている。手すりはなく、一歩ごとに骨が歌った。

 橋の中央で、背後から金属音がした。

 測量官たちが追いついた。

 銀面のロアンを先頭に、六人の兵士が石橋を渡ってくる。火薬銃と切断鋸を持っていた。

「セナ!」

 ロアンの声が洞窟へ響く。

「その子たちから離れろ。蒼肺の位置はわかった。お前の役目は終わった」

「最初から私を追跡札にしてたのね」

 セナが首元へ手を入れ、小さな銀板を引きちぎった。投げ捨てると、銀板は虫のように震えた。

「鍵を盗ませたのも?」

「お前ならそうすると思っていた」

 ロアンは銀面を外した。

 疲れた顔だった。白髪の混じる髪、深い傷のある口元。セナと同じ黒い目。

「戻れ。帝都には蒼肺が必要だ。北では毎月、千人が毒風で死んでいる」

「ここを死なせて?」

「すべては救えない」

「救えないんじゃない。数えやすいものだけ数えてる」

 ロアンの顔に怒りが浮かんだ。

「お前の母も同じことを言った。そして何人死なせた?」

 セナが息を止めた。

 その隙に、兵士の一人が火薬銃を撃った。

 弾はリヤの足元へ当たり、骨橋が砕けた。

「走れ!」

 五人は駆けた。

 骨が次々に折れ、暗い水へ落ちていく。後方から二発目。ロリュドがキアラを抱え、亀裂を飛び越えた。ニロは耳を押さえながら、骨の軋みを聞いて足場を選ぶ。

「右! 次は左! 三歩先、折れる!」

 リヤはニロの指示どおり跳んだ。背後で橋が崩れ、兵士二人が暗闇へ消えた。悲鳴は途中で水音に変わり、すぐ途切れた。

 対岸まで、あと十歩。

 ロアンが細い筒を取り出し、吹いた。

 音は聞こえなかった。

 だが風喰い樹の枝が震え、橋の下の水が盛り上がった。

 無数の白い腕が水面から伸びた。

 腕ではない。根だった。指のような細枝を広げ、橋へ絡みつく。一本がリヤの足首を掴んだ。

 彼女は転倒し、骨の隙間から下へ引かれた。

「リヤ!」

 ロリュドが腕を掴む。根の力は強く、二人とも橋の外へずるずる引かれる。キアラが短鋸で根を切るが、切断面から黒い樹液が噴き、別の枝が伸びた。

 ニロが母の笛をリヤの手から奪った。

 思い切り息を吹き込む。

 笛は音を出さなかった。

 代わりに、洞窟の底からあの羽音が返った。

 縦穴で見た巨大昆虫が、水面を破って飛び出した。青く光る四枚の翼。仮面のような頭。その背には、いくつもの幼虫がしがみついている。

 昆虫は骨橋の下をくぐり、根を角で引き裂いた。

 リヤの足が自由になる。

「ありがとう!」とニロが叫んだ。

 昆虫は答えるように一度だけ羽ばたき、ロアンたちの前へ舞い上がった。兵士が銃を撃つ。翼に穴が開き、青い粉が散った。

「やめろ!」

 ニロの声が裏返った。

 昆虫は倒れなかった。橋へ脚を掛け、身体を盾にして五人を守る。

 リヤは対岸へ渡ると、弾の飛ぶ中を引き返そうとした。

 ニロが彼女の袖を掴んだ。

「今は行くんだ。あの子が、そう言ってる」

「わかるの?」

「痛いって言ってる。でも、行けって」

 最後の五人が渡り切った瞬間、骨橋は中央から崩れた。

 巨大昆虫と測量官たちは、白い骨の雪崩に呑まれた。

 ロアンは寸前で対岸の根へ飛びついた。銀面を失い、片腕から血を流しながら、暗闇へ叫んだ。

「セナ! 蒼肺を渡せ! 帝国だけが使い方を知っている!」

 セナは振り返らなかった。

 ただ、歩きながら小さく言った。

「帝国は、使い方しか知らない」

 三つ目の橋が、五人の前にあった。

 それは生きた根でできていた。

 根の橋へ足を置いた途端、リヤは自分の名前を忘れた。

 何をしに来たのかも、隣を歩く四人が誰なのかも消えた。残ったのは、胸の奥に開いた穴と、そこへ風が吹き込む感覚だけだった。

 前方に、白い樹が立っている。

 美しい、と思った。

 あそこへ行けば、穴は埋まる。名前など、最初から必要なかったとわかる。

 彼女は一歩踏み出した。

 誰かが手を握った。

「……ヤ」

 声が遠い。

「リヤ」

 少女がいる。工具鞄を背負った、小さな少女。頬を涙で濡らしながら、必死に笑っている。

「あなたはリヤ。私はキアラ。こっちの大きいのがロリュド。耳を押さえてるのがニロ。怖い顔がセナ」

「最後だけ説明が雑」と、怖い顔の少女。

 名前が戻ってきた。

 リヤは息を吸った。

「どうして忘れなかったの」

 キアラは自分の腕を見せた。皮膚に五人の名前を刻んでいる。針で急いで引っ掻いたらしく、血が滲んでいた。

「私は忘れた。でも、文字が残った」

「いつ書いたの?」

「塔を出たあと。念のため」

「言ってよ」

「言ったらロリュドが真似して、腕じゅう落書きするから」

「俺を何だと思ってる」

「書いた?」

「掌に全員の似顔絵を」

「見せて」

「もう汗で消えた」

 根の橋は、歩くたび記憶を奪った。

 一人が忘れるたび、残りが名前を呼んだ。好きな食べ物、嫌いな癖、初めて会った日のこと、隠していた失敗まで、大声で言い合った。

「ロリュド! あなたは冬祭りで樽酒を盗んで、酔って井戸に落ちた!」

「それは言わなくていい!」

「覚えた?」

「最悪なくらい思い出した!」

「キアラ! あなたの発明した自動靴磨き機は、村長の眉毛を剃った!」

「設定を強にした村長が悪い!」

「ニロ! 怖がりだけど、逃げる方向はいつも誰かのいるほう!」

「褒めてる?」

「すごく!」

「セナ! 笑うと左の犬歯だけ見える!」

「私がいつ笑ったの」

「昨日、ロリュドが屋根から落ちたとき」

「笑ってない」

「見た」

「忘れて」

 最後に、リヤが自分を失った。

 足が止まり、目の焦点が消えた。

 四人が口々に叫ぶ。

「リヤ、あんたは無茶ばかりする!」

「縄結びが村で一番!」

「母さんを七年待ってた!」

「待ってただけじゃない。怒ってた!」

 それでも戻らない。

 根の奥から、母の声がした。

『あなたは、私を置いて帰れる』

 リヤの瞳が揺れた。

『それができる子に育てた』

「違う!」

 リヤは叫んだ。

「私は置いていかない!」

 名前が戻った。痛みも、怒りも、愛しさも、一度に戻り、胸が裂けそうになった。

 根の橋を渡り切る。

 五人は都の中心、風喰い樹の根元へ辿り着いた。

 幹の前には、巨大な青い器官があった。

 蒼肺。

 半透明の殻に包まれた五つの部屋が、花弁のように並んでいる。内部を光の液体が満たし、細い管が樹の根と洞窟の壁へ伸びていた。中央には、人が一人入れるほどの空洞がある。

 キアラが息を呑んだ。

「機械じゃない」

「生き物?」とロリュド。

「どっちでもある。たぶん、昔は区別しなかったんだ」

 蒼肺の五つの弁には、それぞれ異なる印が刻まれていた。

 剣。眼。拳。耳。空の円。

「勇気、知恵、力、共感、喪失」とセナ。

「誰がどれ?」とロリュド。

「拳はあなた」とキアラ。「壊すの得意」

「褒め言葉として受け取る」

「眼は私。耳はニロ。剣は……」

「リヤ」とセナが言った。

「じゃあ空の円は?」

 誰も答えなかった。

 蒼肺の向こうで、風喰い樹の幹が開いた。

 縦に裂けた空洞の中に、夜空が見えた。

 洞窟の天井ではない。

 黒い海に、見たことのない星々が浮かんでいる。星はどれも眼の形をしていた。ゆっくり瞬き、そのたび五人の影が別の生き物へ変わった。

 六本脚の子ども。翼のある魚。逆さに歩く人。根で繋がれた無数の顔。

 星の海の奥から、何かがこちらを見ている。

 樹は世界へ根を下ろしているのではない。

 世界の外側にいるものが、樹という細い指を差し込んでいるのだ。

 ニロが鼻血を流した。

「聞こえる……」

「聞くな!」とリヤ。

「違う。木じゃない。もっと向こう。僕たちの名前を、知らない言葉で呼んでる」

 蒼肺が一度、大きく脈打った。

 五つの弁が開く。

 各弁の前に、手を置く窪みが現れた。

「やるしかない」とセナ。

「空の円は?」とキアラ。

「私が入る」

 リヤは中央の空洞を見た。

「だめ」とセナ。「喪失は、何かを失う役目よ」

「母さんを連れ戻すには、私が――」

「それは勇気じゃない。自分だけで決める癖」

 セナは空の円へ手を置いた。

「私がやる」

「どうして」

「私には、失えるものがあるから」

 そのとき、後方で根が爆ぜた。

 ロアンが広場へ這い上がってきた。外套は裂け、左腕は不自然に垂れている。生き残った兵士が二人、火薬銃を構えて続いた。

「そこまでだ」

 ロアンは娘へ銃口を向けた。

「蒼肺から離れろ」

「父さん」

 セナの声は静かだった。

「母さんは、何人死なせたの?」

 ロアンの銃口が揺れた。

「今、それを話す時ではない」

「ずっと聞けなかった。帝国に逆らって処刑された。それしか知らない」

「彼女は北の防風壁を止めた。毒風が入り、三千人が死んだ」

「なぜ止めたの」

「南へ毒を押し返していたからだ!」

 ロアンの怒声が広場へ響いた。

「北を守る風壁は、南の七つの村へ毒風を集中させていた。彼女はそれを知り、装置を破壊した。南の村は救われ、北で三千人が死んだ。帝国は彼女を殺人者と呼んだ。南では聖女と呼んだ。どちらも数字しか見なかった」

 セナは父を見つめた。

「あなたは?」

「私は……彼女を止められなかった」

「止めたかった?」

「助けたかった!」

 ロアンの顔が歪んだ。

「だから蒼肺が必要だ。これがあれば、二度と誰か一人に選ばせずに済む。帝都へ持ち帰れば研究できる。増やせる。世界中を救える」

 キアラが蒼肺の管を見た。

「外したら、ここは?」

「十二年後に死ぬ」

「今すぐじゃないから?」

「十二年あれば別の方法を探せる!」

「そう言って百年探して、見つけたのがこれを盗む方法?」とリヤ。

 兵士が引き金へ指をかけた。

 ニロが耳を澄ませ、顔色を変えた。

「上で火薬が爆発する」

「いつ?」

「もう――」

 洞窟全体が跳ねた。

 南斜面の火薬が、一斉に起爆した。

 天井から岩が降り、街の塔が崩れる。風喰い樹の幹に亀裂が走り、そこから黒い光が噴き出した。

 樹皮の顔が、すべて目を開けた。

 音はなかった。

 けれど五人の頭の中で、何千もの名前が砕けた。

 兵士の一人が銃を落とした。

「私は……誰だ」

 彼の皮膚に年輪が浮かんだ。口から細い枝が伸び、隣の兵士へ絡みつく。

「隊長、助け――」

 二人は抱き合うように根へ変わり、地面へ溶けた。

 ロアンが後退した。

「起動しろ!」と彼は叫んだ。「蒼肺を起動しろ!」

「全員、弁へ!」とリヤ。

 ロリュドが拳の弁へ両手を置いた。キアラは眼へ。ニロは耳へ。リヤは剣へ。

 最後にセナが、空の円へ触れた。

 蒼肺の殻が閉じ、五人を光の中へ包んだ。

 リヤの前に、一本の道が現れた。

 崩れた村の道。道の先に母が立っている。根から解かれ、七年前と同じ姿で笑っていた。

『帰ろう、リヤ』

 母が手を差し出す。

『蒼肺を止めれば、私は自由になる。村は逃げればいい。十二年もある』

 嘘ではない。

 母の言ったとおり、樹の声は嘘をつかなかった。

 蒼肺を起こせば、母は消えるかもしれない。止めれば、今ここで連れ帰れるかもしれない。

 リヤは手を伸ばした。

 指先が触れそうになる。

 その瞬間、誰かの記憶が流れ込んだ。

 ロリュドの記憶。

 冬の谷で、兄が氷へ落ちた。ロリュドは助けようと腕を伸ばし、届かなかった。以来、彼は届かないものを見ると、笑ってごまかした。

 キアラの記憶。

 初めて作った風車が暴走し、家を半分壊した。大人たちは失敗を笑ったが、母だけは壊れた羽根を拾い、「次はどこを直す?」と聞いた。

 ニロの記憶。

 音が多すぎる夜、彼は一人で泣いていた。リヤたちの笑い声だけが、痛くなかった。

 セナの記憶。

 処刑の日、母は檻の中から言った。

『私を正しかったことにしないで。間違えた人間のまま、愛して』

 最後に、ロアンの記憶まで流れた。

 妻が連行される朝、彼は扉の前に立ちながら動けなかった。娘を守るためだと自分へ言い聞かせ、妻の名が記録から消されるのを見ていた。

 誰も一人ではなかった。

 選ぶ痛みも、失う痛みも、根のように繋がっていた。

「母さん」

 リヤは、幻の手を取らなかった。

「一緒に帰りたい」

『うん』

「でも、村も、知らない人たちも、十二年後の子どもも、置いていけない」

 母は笑った。悲しい笑顔ではなかった。

『うん』

「だから、帰り道は自分で探して」

『厳しい娘に育ったね』

「母さんが育てた」

 リヤは剣の弁を押し込んだ。

 四人の弁も同時に沈んだ。

 だが、空の円だけが動かない。

 セナが苦痛に顔を歪めていた。

「弁が……何を失うか、選べって」

「離れて!」とリヤ。

「離れたら全部止まる」

「何を要求してるの」

 セナの目から涙が落ちた。

「父さんの記憶」

 ロアンが蒼肺の外で、根に足を取られていた。年輪が首まで這い上がっている。それでも彼は娘を見ていた。

「やれ、セナ!」

「嫌よ!」

「私を忘れろ! 生きろ!」

「それは命令?」

「そうだ!」

「最後まで父親ぶらないで!」

 セナは空の弁へ額を押しつけた。

 蒼肺が冷たい声を響かせる。言葉ではないのに、意味だけが心へ届いた。

 ――喪失を差し出せ。

「差し出すものは、あなたが決めるんじゃない」

 セナは泣きながら笑った。左の犬歯だけが見えた。

「私が失うのは、父さんを憎む理由」

 空の円が、深く沈んだ。

 蒼肺が目を覚ました。

 最初の呼吸は、洞窟のすべてを内側へ吸い込んだ。

 霧が消え、崩れた石が浮き、根へ変わりかけた兵士たちの枝が風にしなった。五人の身体も蒼肺へ引き寄せられる。ロリュドが歯を食いしばり、弁へしがみついた。

「これ、成功してるのか!」

「生きてたら成功!」とキアラ。

「基準が低い!」

 二度目の呼吸で、風喰い樹の枝に青い葉が芽吹いた。

 葉は薄い羽根のようだった。開くたび洞窟の空気を吸い、黒い光を青へ変える。

 三度目の呼吸で、地上へ繋がるすべての根が脈打った。

 カラド村の井戸。骨橋の畑。崖の裂け目。胞子海の底。

 根は毒を吸い上げ、蒼肺へ送り込む。青い液体が五つの部屋を巡り、樹の幹へ流れた。

 開いていた星の海が、ゆっくり閉じる。

 向こう側の眼が、一つずつ細くなった。

 それでも最後の一つだけは、リヤを見続けた。

 人間の瞳より大きく、月より遠い眼。

 そこに感情はなかった。ただ、こちらを知ったという確信だけがあった。

 いつかまた、別の根を通って来る。

 そんな予感を残し、幹の裂け目は閉じた。

 風喰い樹が吠えた。

 声ではない。世界の骨を震わせる長い振動。

 街じゅうの繭が裂け、中から青い翼の昆虫たちが飛び出した。小さなもの、大きなもの、透き通るもの。何千という群れが樹の周囲を旋回し、地上へ向かう縦穴へ飛んでいく。

 その中に、片翼を傷つけた仮面頭の昆虫がいた。

「生きてた!」とニロ。

 昆虫は蒼肺の上を一度回り、長い触角で殻を叩いた。ニロが内側から手を当てると、触角が同じ場所に重なった。

 ロアンの身体から、年輪が剥がれ落ちた。

 彼は地面へ倒れ、激しく咳き込む。

 セナが弁から手を離そうとした。

 だが蒼肺は、五人を解放しなかった。

「キアラ?」とリヤ。

「循環が足りない。地上の根が途中で切れてる!」

 爆破で南斜面の主根が断裂していた。蒼肺が吸った毒風は行き場を失い、五つの部屋へ逆流し始める。青い液体が黒く濁った。

「修理できる?」

「根を繋げば。でも外へ出られない」

「このままだと?」

「私たちが新しい管になる」

 足元から細い根が伸び、五人の靴へ絡みついた。

 母と同じだ。

 リヤは蒼肺の向こうに、円塔を見た。

 塔の風鈴が一つずつ消えている。

「母さん!」

 返事の代わりに、螺旋の笛がリヤの胸元から浮いた。

 笛は蒼肺をすり抜け、空中でほどけた。薄緑の石だと思っていた部分が、何百本もの細い管へ分かれる。母の印が光り、管は地上へ向かって伸びた。

 円塔から、母の声が聞こえた。

『これは、帰り道のために作った』

 管は断裂した主根へ届き、その両端を縫い合わせた。

 蒼肺の黒い液体が一気に流れ出す。

 五人を拘束していた根がほどけた。

「母さん、待って!」

 リヤは弁から飛び離れ、円塔へ走った。

 塔は崩れ始めていた。

 風鈴が雨のように落ちる。石の椅子に、母の姿はない。床には一本の若木が生え、細い枝に三本羽根の印が浮かんでいた。

 リヤが触れると、温かかった。

「母さん?」

 若木の葉が一枚、開いた。

 緑がかった葉の表面に、地図のような線が走っている。

 カラド村から北へ。胞子海を越え、山脈を抜け、さらに遠い大地へ続く線。

 帰り道ではない。

 これから行く道だ。

 リヤは若木を抱き締めた。泣くつもりはなかったのに、息が乱れ、声が出た。

 枝が髪を撫でた。

 それが母なのか、樹が母の仕草を真似ただけなのか、もう確かめる方法はない。

 けれどリヤは、どちらでもよかった。

「間違えた人のまま、愛するから」

 塔の天井が崩れた。

 ロリュドが飛び込み、リヤと若木をまとめて担いだ。

「感動中悪いけど、全員死ぬぞ!」

「若木を折らないで!」

「お前が歩け!」

「足が動かない!」

「先に言え!」

 五人とロアンは、崩壊する街を走った。

 帰りの橋はもうない。

 代わりに、仮面頭の昆虫が広場へ降り、青い翼を大きく広げた。背中の幼虫たちが場所を空ける。

 ニロが触角へ触れた。

「乗れって」

「本当に?」とセナ。

「たぶん」

「たぶん?」

「言葉じゃないから!」

 六人は昆虫の背へしがみついた。

 最後にロリュドが飛び乗ると、昆虫は明らかに沈んだ。

「今、重いって言った?」

「言ってない」とニロ。

「間があったぞ」

 青い翼が打ち下ろされる。

 地底の都が遠ざかった。

 崩れる塔、光る霧、目覚めた風喰い樹。無数の昆虫が渦を巻き、一本の光る川となって地上へ昇っていく。

 その先に、夜ではない空が待っていた。

 カラド村の南斜面が割れたとき、村人たちは世界の終わりだと思った。

 地面から青い光が噴き、白い根が崖を縫う。爆破に使われた火薬樽は根に包まれ、花のように開いた。毒の胞子海が一斉に村へ押し寄せ、風見塔の赤旗を呑み込んだ。

 けれど、靄は家々へ触れる直前で止まった。

 地中から生えた青い葉が、毒風を吸っている。

 葉の周囲だけ空気が澄み、長いあいだ見えなかった谷底が姿を現した。枯れたと思われていた岩肌には、緑の苔が広がっている。胞子海の下で、世界は少しずつ作り直されていた。

 村人たちは防塵面を外し、恐る恐る息を吸った。

 甘い土の匂いがした。

 次の瞬間、南斜面の裂け目から青い昆虫の群れが飛び出した。

 悲鳴が上がる。

 群れは村を襲わなかった。風見塔の周囲を三度旋回し、東の胞子海へ向かった。最後に、鹿ほどもある仮面頭の一匹が広場へ降りた。

 その背から、子どもたちが次々に転げ落ちる。

 リヤ。キアラ。ロリュド。ニロ。セナ。

 そして、血まみれのロアン。

 広場の柱へ縛られていたリヤの父は、縄を引きちぎらんばかりに暴れた。

「お前ら、どこへ行ってた!」

「散歩!」とロリュド。

「排水溝まで!」とキアラ。

「地底都市経由で」とニロ。

 リヤが父の縄を切った。

 父は杖を投げ、娘を抱き締めた。怒鳴るつもりだったらしいが、喉から出たのは変な泣き声だけだった。

「母さんに会った」

 リヤが言うと、父の腕が止まった。

「そうか」

 それ以上、すぐには聞かなかった。

 リヤは抱えていた若木を見せた。緑の葉が一枚、風に揺れている。

 父は震える手で枝へ触れた。

「遅かったな」

 葉が父の指を撫でた。

 測量官の残りは、隊長が戻るとすぐ武器を下ろした。ロアンは立ち上がることもできず、地面に座ったまま命じた。

「退去命令を撤回する。南斜面を封鎖し、すべての記録を村へ渡せ」

 部下が戸惑う。

「帝都への報告は?」

「風喰い樹は発見できなかった」

「ですが、この根は――」

「地元固有の大根だ」

 キアラが根を見た。

「かなり硬そう」

「煮れば食えるかも」とロリュド。

「食べるな」と全員。

 セナは父の前へ立った。

「母さんの記録も渡して」

 ロアンは長く娘を見た。

「帝国では、反逆者のままだ」

「帝国の外まで同じである必要はない」

「……そうだな」

 彼は首から小さな銀筒を外した。中には薄い紙が巻かれていた。処刑されたセナの母が、最後に書いた手紙だった。

「ずっと、持ってたの?」

「捨てられなかった。読むこともできなかった」

 セナは手紙を受け取った。

 空の弁へ差し出したはずの憎しみは、完全には消えていなかった。けれど形が変わっていた。刃ではなく、傷になっていた。

 傷なら、いつか塞がる。

 日が沈むころ、風見塔の旗は赤から青へ替えられた。

 青は、呼吸してよい風の色だった。

 村人たちは広場へ鍋を並べ、退去のためにまとめた食糧を全部煮込んだ。誰かが音楽を始め、誰かが勝手に踊った。ロリュドは地底での働きを誇張して語り、五分後には「三十匹の根の竜を素手で倒した」ことになっていた。

「最初は二匹じゃなかった?」とニロ。

「話は育つんだ」

「嘘とも言う」とセナ。

「お前、笑ったな」

「笑ってない」

「左の犬歯見えた」

「忘れて」

 キアラは若木の前にしゃがみ、葉の地図を写していた。

「この線、北で終わってない。海を三つ越えてる」

「母さんが行った場所?」とリヤ。

「これから行けってことかも」

 ニロが枝へ耳を近づける。

「遠くで、別の木が鳴ってる」

 リヤは地図の線を見た。

 世界中の地下に眠る種。星の外側から差し込まれた指。風喰い樹は目覚めたが、あの眼は閉じただけだ。

 村は救われた。

 けれど世界は、救われていない。

「また行くのか」

 父が背後から言った。

 リヤは振り返った。

「まだ決めてない」

 父は片眉を上げた。

「お前がそう言うときは、もう荷造りまで終わってる」

 リヤは笑った。

 その夜、カラド村では七年ぶりに、窓を閉めずに眠る家があった。

 澄んだ風が骨橋を渡り、青い葉を鳴らした。

 ひゅう。

 どこかで、笛の音がした。

 三日後。

 リヤたちは南斜面の入口へ、鉄の扉を取りつけた。危険だからではない。ロリュドが勝手に「地底王国観覧料」を取ろうとしたからだ。

「村の復興資金だぞ」

「半分を食堂のツケに充てる復興資金?」とキアラ。

「俺の胃袋も村の一部だ」

「小さくない一部ね」とセナ。

 仮面頭の昆虫は、村の屋根の上を気に入ったらしい。ニロはその生き物をハネオトと名づけた。本人――少なくともニロはそう主張した――は気に入っていないらしく、呼ぶたび角でニロの背中を押した。

 ロアンと測量隊は北へ戻った。

 出発前、彼は帝都の封印が押された地図箱をリヤへ渡した。

「風喰い樹に関する記録だ。複写はない」

「渡していいの?」

「盗まれたことにする」

「娘に似てきたね」とリヤ。

「逆だ」

 ロアンはセナへ、戻るよう命じなかった。

 ただ馬へ乗る前に言った。

「北の都にも、青い風が必要だ」

 セナは頷いた。

「だから、持っていかない方法を探す」

 測量隊の姿が峠の向こうへ消えると、五人は風見塔へ登った。

 机の上に、三つのものを並べる。

 母の若木から写した地図。

 帝国の記録。

 そして、地底の街で拾った小さな種。

 種は黒く、夜のように光を吸った。耳を近づけても音はしない。けれど机へ置くと、北東を向いてゆっくり回った。

 コンパスではない。

 風でも、星でもなく、遠くの何かへ引かれている。

 キアラが記録をめくった。

「北東に、帝国が放棄した浮遊港がある。その先は“白い無風域”。鳥も船も戻らない」

「いいね」とロリュド。

「どの辺が?」

「誰も戻らないなら、食堂のツケ取りも来ない」

「帰る気はある?」とニロ。

「もちろん。英雄として」

「地底王国の話、もう村の子どもに飽きられてたよ」

「出発を急ごう」

 セナは窓の外を見た。

 胞子海は、以前より低くなっていた。青い昆虫たちが群れをなし、海面の上へ渦を描いている。その向こうに、まだ誰も歩いたことのない緑の筋が現れていた。

 リヤは地図を丸めた。

「目的は三つ。北東の種を探す。毒風を押し返さずに、人が呼吸できる場所を増やす。それから――」

「宝を見つける」とロリュド。

「それ、必要?」

「冒険には必要だ」

「じゃあ、三つ目は宝」

 キアラが手を挙げた。

「計画は?」

「目的があれば計画よ」

「またそれか」とロリュド。

 五人は笑った。

 風見塔の外で、ハネオトが翼を開く。青い粉が朝日にきらめき、空へ道を描いた。

 リヤは最後に、若木の枝へ触れた。

「行ってくる」

 葉が揺れた。

 返事は聞こえなかった。

 それでも彼女は、ちゃんと届いたと知っていた。

 五人と一匹を乗せ、ハネオトは骨橋から飛び立った。

 眼下でカラド村が小さくなる。白い背骨、青い旗、風喰い樹の葉。父たちが屋根から手を振っている。

 前方には胞子海。

 その底で新しい森が息をし、さらに遠く、白い無風域の向こうで、まだ見ぬ何かが彼らの名前を待っていた。

 今度は、食べるためではない。

 呼ばれるために。