疑いの屠場
妹が失踪して十一日目、未来の私が殺される映像が届いた。
差出人のない薄い段ボール箱に、黒いビデオカセットが一本だけ入っていた。ラベルには、妹の字で「照合0」とある。癖の強い右上がりの「合」を見間違えるはずがなかった。
私は映像修復を仕事にしている。焼けたフィルム、黴びたテープ、事故で半分だけ上書きされた家族映像。失われた像を、ノイズの底から拾い上げる仕事だ。だから、再生するなという常識よりも、再生できるかという職業病が勝った。
カセットの規格は古い業務用だった。事務所の棚からデッキを引きずり出し、接点を清掃し、時刻表示を切ってモニターに送った。
最初の四十七秒は黒だった。
ただし、無音ではない。遠くで重い鎖が擦れ、一定の間隔で金属が何か柔らかなものを叩いている。
四十八秒目、蛍光灯が一本ずつ点いた。
白いタイルの廊下。天井には、食肉工場で使う枝肉搬送用のレールが延びている。左右の壁に小さな鏡が貼られ、どの鏡にも廊下の奥ではなく、こちら側――撮影者の立つ位置が映っていた。
廊下の突き当たりに、妹の澪がいた。
白衣は汚れ、右の頬が腫れていた。けれど生きていた。
澪はカメラに近づき、レンズを覗き込んだ。
「兄さん。これを見ているなら、まだ来ていない」
画面の隅に日付が出た。
明日の日付だった。
「来ないで。ここでは、見たことと起きたことの順番が逆になる。私を見つけても、私だと決めないで」
澪は背後を振り返った。
廊下の奥で、何かが動いた。人の背丈ほどある金属板が、ゆっくりこちらを向く。鏡だった。その表面に、モニターの前に座る私が映っていた。
録画された時点では存在しないはずの私が。
「悪魔は嘘を見せない」
澪は囁いた。
「こっちに、嘘を完成させる」
映像が跳んだ。
同じ廊下を、私が歩いている。服も今着ている灰色のシャツだった。私の後ろには、撮影仲間の相馬かなえと、音声技師の江波戸がいる。
未来の私は立ち止まり、カメラに向かって言った。
「これは現実だ」
その瞬間、天井のレールから人影が降りた。
牛の額を打ち抜く屠畜銃が、私の後頭部に押し当てられた。
乾いた破裂音。
画面いっぱいに赤い霧が広がり、テープは終わった。
澪は認知科学の研究者だった。
専門は「知覚の合意形成」。人は何を見たときに現実だと判断するのか。より正確には、複数の人間が何を共有したとき、それを現実と呼び始めるのか。
彼女は三か月前から、北関東の山中にある廃施設を調べていた。旧・敷島畜産生理研究所。表向きは家畜のストレスと肉質の関係を研究する民間施設だったが、二十七年前、職員九名が失踪して閉鎖された。警察は集団夜逃げと処理したが、研究所には財布も車も、夕食の途中の食器まで残されていた。
澪が最後に送ってきたメールには、施設の古い見取り図と一行だけがあった。
――悪意ある存在が、私の見るもの、聞くもの、触れるものをすべて偽っているとしたら?
デカルトの「悪しき霊」だ。
澪は学生時代から、その思考実験を嫌っていた。世界のすべてが偽物でも、疑っている私の存在だけは疑えない。そこから確実なものを積み上げ直す。教科書ではそう習う。
だが澪は、酔うと決まって言った。
「“私”が一人だって、誰が保証するの」
笑いながら言う冗談だった。
私は灰色のシャツを脱いで黒い作業着に替え、それからかなえに映像を見せた。未来を変える方法として、江波戸の冗談と大差ないことは分かっていた。
かなえは三度見直し、三度とも違う箇所で停止した。最初は鏡、次は澪の口元、最後は屠畜銃の先端。
「合成じゃない」
「分かってる」
「日付だけなら細工できる」
「鏡の中の俺は?」
「巧妙な合成」
「俺が明日着る服まで?」
「着替えればいい」
彼女はそう言ってから、私の灰色のシャツを見た。
「でも、行くんでしょ」
「ああ」
「なら私も行く。映像が嘘なら暴く。ほんとうなら、撮る」
かなえは勇敢なのではなく、カメラを通すと恐怖を自分の外へ置ける人間だった。
江波戸は映像を見せても笑った。
「要するに、灰色のシャツを着なきゃ助かる」
彼は私の事務所にあった黄色い雨具を勝手に羽織り、胸を張った。
「これで未来は変わった」
私たちはその冗談に救われた。
少なくとも、山へ入るまでは。
翌日の午後、私たちは敷島畜産生理研究所へ向かった。
国道を外れ、杉林の間の細い道を一時間ほど登る。携帯の電波は早々に消えた。カーナビは白い画面に自車位置だけを浮かべ、やがて到着時刻を「昨日 18:40」と表示した。
「中古だからな」
江波戸が叩くと、画面の中の現在地が三つに増えた。
施設の門は開いていた。
錆びた看板の「畜産生理研究所」という文字の上に、赤い塗料で「明証」と書かれている。門柱には監視カメラがあった。電源など通っているはずもないのに、私たちの車が通るとレンズが動いた。
建物は、屠畜場と研究棟と古い農家を無理に繋いだような形をしていた。中央に赤錆びた搬入口。左に窓の少ないコンクリート棟。右奥に、黒い瓦屋根の母屋が沈んでいる。
風はなかった。
それなのに、搬入口の奥から吊り鎖が揺れる音がした。
かなえがカメラを回し、江波戸がガンマイクを向けた。
「音、来てる?」
「来てる。近い。でも反響が変だ」
「どう変?」
「俺たちの足音が、半歩先に録れてる」
冗談だと思った。
江波戸はヘッドホンを私に渡した。
ざっ、ざっ、ざっ。
砂利を踏む三人分の足音。
その次に、まだ誰も言っていない私の声が入った。
『戻ろう』
一秒後、私は同じ言葉を口にした。
「戻ろう」
三人とも止まった。
ヘッドホンの中では、足音だけがさらに数歩進み、重い扉の開く音がした。
かなえはカメラを下ろさなかった。
「偶然」
彼女は言った。
その言葉も、江波戸のヘッドホンから先に聞こえたらしい。彼の顔が引きつった。
帰るべきだった。
だが、そのとき建物の二階で白いものが動いた。
澪の白衣だった。
「澪!」
私は叫んで走った。
後ろでかなえが悪態をつき、江波戸が追ってくる。
搬入口の鉄扉は、触れる前に内側へ開いた。
中は冷えていた。
電気のない廃墟の冷たさではない。稼働中の冷蔵庫の、肉から熱を奪う冷たさだった。
天井のレールから、白い袋が十数体ぶら下がっている。牛の枝肉を包む不織布に見えた。床には水が流れ、排水溝へ赤黒い筋を作っている。
江波戸が一番近い袋に指を触れた。
「温かい」
袋の中で、何かが息を吸った。
私たちは一斉に離れた。
袋は揺れたが、それきり動かなかった。
壁に新しい貼り紙があった。
第一照合 見えるものを言え。
第二照合 聞こえるものを言え。
第三照合 痛む場所を言え。
三名以上が一致した場合、それを現実とする。
その下に、黒い指跡で一文が足されていた。
一致しない者は、感覚器を訂正する。
「カルトだな」
江波戸が言った。
声がやけに大きく響いた。
かなえは貼り紙を撮った。液晶画面には、紙の前に立つ私たち三人のほかに、背後の袋の間から覗く女が映っていた。
かなえが振り向く。
誰もいない。
液晶の中では、女がさらに近づいていた。
白髪を短く刈り、顔の上半分を丸い鏡で覆っている。鏡の縁から細い針金が頬の肉に食い込んでいた。作業着の胸には「照合主任」と刺繍されている。
女は液晶の中で、かなえの肩に手を置いた。
現実のかなえの肩が沈んだ。
かなえが叫び、カメラを取り落とした。
床に転がったカメラの液晶に、女の長靴が映った。
次の瞬間、私たちのすぐ後ろで屠畜銃が鳴った。
江波戸の黄色い雨具が跳ねた。
背中ではなく、頭でもない。銃口は彼の左手の甲に押し当てられていた。圧縮空気で飛び出した鉄棒が、掌ごと床へ縫いつけている。
江波戸の絶叫が冷蔵室を満たした。
鏡面の女が、そこにいた。
「見えたか」
落ち着いた声だった。
腰のホースが床を這い、壁の古いコンプレッサーに繋がっている。
「私が見えたか」
女はもう一度尋ねた。
かなえがカメラを拾い、女の顔面へ叩きつけた。
鏡が割れた。
その下に目はなかった。瞼を縫い閉じた皮膚の中央に、小さなレンズが埋め込まれていた。
女は笑った。
「二名一致」
江波戸の手から鉄棒を引き抜き、かなえに向けて撃った。
私はかなえを突き飛ばした。鉄棒は背後の白い袋を貫いた。
袋の中から、何本もの腕がこぼれた。
人間の腕だった。
肘から先だけの腕が、魚のように床で跳ねた。指が一斉に私たちを指した。
私たちは冷蔵室の奥へ走った。
背後で女が叫ぶ。
「見たことを言え!」
吊られた袋が次々に裂け、肉と骨の塊が床に落ちる音が追ってきた。
研究棟へ続く防火扉を閉め、鉄製の棚を押しつけた。
江波戸の左手は中央に穴が開き、指が二本動かなかった。かなえがシャツを裂いて巻き、私は消毒薬を探した。
「帰る」
江波戸は震えながら言った。
「妹さんには悪いけど、俺は帰る」
「一緒に戻る」
「戻るって、どっちだよ」
彼が指した。
廊下の両端に、同じ「搬入口」と書かれた扉があった。
私たちは片方から来た。だが、どちらだったか、誰も思い出せなかった。
かなえが撮影データを確認した。
最初の門から冷蔵室まで、十二分ほどの映像のはずだった。
タイムコードは四時間三十二分を示していた。
映像の大半は、私たち三人が搬入口へ入る場面の繰り返しだった。入るたびに服が少しずつ違う。江波戸の雨具は黄色、青、灰色。かなえの髪は長くなったり短くなったりしている。私はある回では一人で、ある回では担架を引き、ある回では鏡面の女と手を繋いでいた。
「止めろ」
江波戸が言った。
かなえが停止ボタンを押した。
映像は止まらなかった。
画面の中の私たちは、今いる廊下へ入った。
カメラの視点がゆっくり動き、こちらを向く。
画面の中で、私とかなえが江波戸を見ていた。
現実の私たちも、江波戸を見た。
「やめろ」
江波戸は負傷した手を抱え、後ずさった。
「俺を見るな」
画面の中の江波戸は笑っていた。
そして、自分の傷口へ右手の指を差し込んだ。
現実の江波戸の右手が動いた。
「違う」
彼は自分の腕を押さえた。
だが指は傷口へ潜り、掌の中を探るように動いた。
「俺じゃない。俺がやってるんじゃない」
かなえが彼の右腕を掴む。
その瞬間、画面の中のかなえも同じように掴んだ。
江波戸の身体が安心したように力を抜いた。
画面の中の私は言った。
『三名一致』
江波戸の右手が掌から何かを引き抜いた。
細い磁気テープだった。
濡れた黒い帯が、傷の奥から際限なく出てくる。江波戸は泣きながら引き出し続けた。床に落ちたテープが蛇のようにのたうち、棚の脚へ巻きつく。
かなえがカメラの電池を外した。
液晶は暗くなった。
同時に、江波戸の動きが止まった。
彼は大量の汗をかき、荒い息をしていた。
「外へ」
かなえが言った。
「澪さんを見つけたら連れていく。見つからなくても二十分で切り上げる。映像はもう見ない。録音も聞かない。三人で同じものを確認しない」
「どうやって進む」
「別々のものを見ればいい」
かなえはカメラのレンズを後ろへ向けて肩に載せた。
私は床だけを見ることにした。
江波戸は目を閉じ、私のベルトを握った。
私たちは、誰も同じものを見ないようにして歩き出した。
研究棟の壁には、小窓のついた実験室が並んでいた。
床だけを見ていた私は、何度も血の跡を跨いだ。裸足の足跡と、牛の蹄跡と、車輪の跡。それらは途中で重なり、一つの大きな手形になって階段へ続いていた。
二階の資料室で、澪の鞄を見つけた。
中にはノートが七冊、乾いたパン、電池の切れた携帯、そして封筒に入った自分の奥歯があった。奥歯には日付が書かれていた。失踪した翌日の日付。
かなえが吐きそうな顔をしたが、何も言わなかった。
私たちはもう、見たものを口にしなかった。
澪のノートを一冊だけ開いた。
〈敷島式・明証試験〉
対象者を三名一組とし、同一刺激を与える。
一致した報告のみを採用する。
不一致を繰り返す対象者は、視覚・聴覚・触覚の順に除外する。
最終的に全員の報告が一致したとき、刺激の有無にかかわらず「現実」が成立する。
研究責任者は敷島貞雄。獣医師であり、退職後に哲学の通信課程を修めていた。彼は家畜が屠殺前に感じる恐怖を減らすため、知覚の同期実験を始めた。牛に穏やかな牧草地の映像を見せ、別の牛の心拍と呼吸を音で聞かせる。群れ全体が安全だと錯覚すれば、死の直前まで肉質を損なうストレスが生じない。
実験は成功した。
少なくとも、最初は。
次の頁から、澪の字になっていた。
〈敷島は、恐怖を消したのではない。群れの一頭へ集めた。
一頭だけに全個体分の恐怖反応が出る。ほかの個体は静かになる。
“現実”も同じではないかと彼は考えた。
多数が同じ世界を見るために、誰か一人が矛盾を引き受けている。
彼はその一人を「疑者」と呼んだ。〉
頁の端に、強く筆圧をかけた文字があった。
〈悪魔は感覚を偽らない。
合意を操作する。
三人が赤いと言えば、白いものも赤くなる。
三人が生きていると言えば、死体も立つ。
三人が“私”だと言えば、一つの身体に三人が入る。〉
廊下で、江波戸の声がした。
「見つけた」
私のベルトを握っていたはずの手が消えていた。
いつからいなかったのか分からない。
声は階段の下から聞こえた。
「出口だ。二人とも、こっちだ」
かなえと目が合った。
私たちは同時に首を振った。
同意したことに気づき、すぐに別々の方向を向いた。
階段の下で、江波戸がまた呼んだ。
「出口だよ」
その声に重なって、澪の声がした。
「兄さん」
さらに、私自身の声。
「これは現実だ」
三つの声は、最後の一音まで完全に一致していた。
資料室の奥に、地下へ降りる非常階段があった。
見取り図では、その先に「共同知覚室」がある。
出口と反対だと分かっていた。それでも澪がそこにいる気がした。気がした、というだけで進むことが、この施設では致命的だとも分かっていた。
私は理由を作らなかった。
ただ降りた。
地下は屠畜場の下へ繋がっていた。
階段を降り切ると、温い風と腐敗臭が吹いた。暗闇の中で、無数のモニターが青白く光っている。古いブラウン管、監視用の小型画面、家庭用テレビ、手のひらほどの液晶。すべてが円形に並び、中央の椅子へ向けられていた。
画面には、それぞれ別の私が映っていた。
幼い私。眠っている私。澪を叱る私。母の葬式で泣けなかった私。撮った覚えのない場面ばかりだった。
中央の椅子に、白衣の人間が縛られている。
澪だった。
頭部を覆う金属の枠から、細いコードが何十本も伸びている。瞼は開いていたが、黒目が小刻みに揺れ、どの画面にも焦点が合っていない。
「澪」
呼ぶと、彼女の唇が動いた。
「決めないで」
「助けに来た」
「それも決めないで」
かなえが椅子の拘束具へ近づいた。
澪は激しく首を振った。
「触らないで。私がここにいるから、上のものは一つになれない」
「上のもの?」
「敷島たち。職員。家族。牛。記録。死んだ順番がばらばらのまま残ってる。私が矛盾を引き受けてる」
「何をすればいい」
「何もしないで。私が私だと確認しないで」
暗闇の奥で、コンプレッサーが動き始めた。
モニターが一斉に切り替わる。
画面の中で、かなえが澪の拘束具を外していた。
現実のかなえは動いていない。
別の画面では、私がかなえの首を絞めていた。
別の画面では、澪が椅子から立ち上がり、私の顔を撫でていた。
さらに別の画面では、中央の椅子にいるのは澪ではなく、黄色い雨具を着た江波戸だった。
「見えるか」
背後から、鏡面の女の声がした。
かなえが振り向く。
私は振り向かなかった。
「見えるか」
今度は江波戸の声。
右側の暗闇から、鎖を引きずる音が近づく。
「俺だよ。助けてくれ」
かなえのカメラが勝手に起動した。
電池は外したまま、液晶に江波戸が映る。
彼は黄色い雨具を着ていた。負傷した左手は、肘から先がなくなっている。右手で大きな骨鋸を引きずっていた。回転刃には黒い肉片がこびりついている。
液晶の中の江波戸は泣いていた。
現実の暗闇から、同じ泣き声が聞こえた。
「俺が俺に見えるか」
彼が尋ねた。
かなえは答えなかった。
カメラを床へ置き、踏みつけた。
液晶が割れる。
その破片一枚一枚に、江波戸の笑う口が映った。
骨鋸のモーターが唸った。
暗闇から黄色い塊が飛び出した。
かなえは避けたが、肩を回転刃が掠めた。服と肉が裂け、血がモニターへ飛んだ。画面の中の私たちが一斉に口を開け、飛沫を舐めた。
私は椅子の脚を掴んで引き倒し、江波戸の膝へぶつけた。
彼は倒れなかった。
黄色い雨具のフードの中に、顔が三つ重なっていた。
江波戸の顔。鏡面の女の縫われた顔。知らない老人の顔。
瞬きするたびに入れ替わる。
「一致しろ」
三つの口が言った。
「一つになれば、もう疑わなくていい」
骨鋸が横薙ぎに振られた。
私は床へ伏せた。背後のモニターが砕け、ガラスの雨が降る。
かなえが壁のレバーを見つけ、体重をかけて倒した。
天井の搬送レールが動き出した。
吊り下げフックが暗闇から滑ってきて、江波戸の雨具へ引っかかった。彼の身体が持ち上がる。だが、雨具の中から伸びた何本もの腕が床を掴んだ。袖口ではなく、裂けた背中から腕が生えていた。
かなえがもう一度レバーを押す。
レールの速度が上がった。
江波戸は壁際の回転滑車へ引かれた。腕が一本ずつ伸び、外れ、床へ落ちた。落ちた腕は指で走り、私たちの足首を掴もうとした。
澪が叫んだ。
「画面を消して!」
私は椅子の後ろの配電盤へ飛びついた。
主電源の大きなハンドルを下げる。
モニターがすべて消えた。
真っ暗になった。
骨が砕ける音。
かなえの悲鳴。
誰かが私の耳元で笑う。
そして、私自身の内側から声がした。
――暗い、とおまえは思った。
――ならば、暗闇は現実になった。
私は目を閉じた。
暗闇の中で目を閉じても意味はない。だが、意味がないことが重要だった。
見えたものを否定するのではない。見えないと決めるのでもない。
判断を保留する。
右腕に激痛が走った。
何かに切られたのかもしれない。
そうではないかもしれない。
かなえが私を呼んだ。
本物かもしれない。
録音かもしれない。
澪が泣いた。
澪かもしれない。
澪でないかもしれない。
私は「私」と考えないようにした。
疑いがある。
痛みがある。
声がある。
それだけにした。
内側の声が苛立った。
――疑っているのは、おまえだ。
――おまえはここにいる。
――おまえは妹を助けたい。
――おまえは妹を見捨てたくない。
どれも正しいように思えた。
だから、どれも選ばなかった。
手探りで配電盤を離れた。
床にはガラス、肉片、温い液体、細いコード。指先が触れるたび、それを名づけそうになる。名づければ、それが現実になる気がした。
何かが足首を掴んだ。
小さな手だった。
「兄さん」
澪の声が足元からした。
「見つけた」
私は手を振りほどいた。
その瞬間、自分が妹を蹴ったのではないかという確信が胸に刺さった。
確信こそが罠だった。
前方で、かなえが叫んだ。
「絃臣、右!」
反射的に左へ倒れた。
骨鋸の刃が頬を掠めた。
かなえの声が本物だったとしても、私は従わなかったから助かった。あるいは、従ったから助かったのかもしれない。
手が金属の円筒に触れた。
映像テープの大型リールだった。
澪のノートにあった図を思い出す。共同知覚室の中心装置。すべてのカメラとモニターを同期させる「明証母帯」。敷島は、被験者の視線、声、心拍、筋電位を一つの信号へまとめ、繰り返し再生した。
人間同士を一致させるための、機械仕掛けの悪魔。
リールは回っていた。
電源を落としたのに。
磁気テープが指へ絡みつき、皮膚を薄く切った。テープの表面から、何百人もの囁きが伝わる。
「見える」
「聞こえる」
「痛い」
「同じだ」
「同じだ」
「同じだ」
私はリールを両腕で抱え、引いた。
重かった。
背後から骨鋸が近づく。
かなえが何かと格闘している。
澪が「やめて」と叫ぶ。
内側の声が言う。
――それを壊せば、妹が死ぬ。
――それを壊さなければ、妹は生きる。
――どちらかを選べ。
――選んだほうを現実にしてやる。
私は選ばなかった。
ただ、手を離した。
巨大なリールは軸から外れ、床を転がった。
骨鋸の回転刃へぶつかる。
磁気テープが刃に巻き込まれ、黒い帯となって部屋中へ噴き出した。刃が悲鳴のような高音を発し、火花を散らす。
火花は床の油に落ちた。
青い炎が走った。
暗闇が、燃えた。
火の中で、私は初めて目を開けた。
江波戸がいた。
彼は骨鋸を抱えたまま、搬送レールから逆さに吊られていた。顔は一つだった。血の気はなく、左腕は失われている。もう死んでいるように見えた。
かなえは壁際に倒れ、肩を押さえていた。
中央の椅子には、澪がいた。
拘束具は外れていた。
澪が立ち上がる。
私は彼女の顔を見た。
子どものころ、台風の夜に私の布団へ潜り込んできた顔。母の葬式で、私の代わりに泣いてくれた顔。失踪する前、電話で「兄さんは見えたものしか信じない」と怒った顔。
間違いなく澪だった。
そう確信した瞬間、彼女の顔が縦に裂けた。
内側から、鏡面の女の顔が現れる。
その奥から江波戸。
その奥から私。
顔の層が濡れた紙のようにめくれ続けた。
「三名一致」
澪の声でそれは言った。
「おまえたちは今、同じものを見た」
かなえが起き上がり、炎の向こうで私を見ていた。
「澪さんよ」
彼女は確信に満ちた声で言った。
「助けて」
吊られた江波戸が目を開いた。
「澪さんだ」
死んだ口が言った。
二人の声が一致した。
私が同意すれば、目の前のものは妹になる。
妹になったものを、私は助ける。
そして施設の外へ連れ出す。
それが悪魔の望みだと分かった。
私は床の屠畜銃を拾った。
ホースは切れていたが、圧力筒に一発分残っている。
目の前のものは両腕を広げた。
「兄さん」
声だけは、完全に澪だった。
「私を見て」
私は見た。
見たうえで、決めなかった。
銃口を自分の左耳へ当てた。
かなえが叫ぶ。
澪の顔をしたものが初めて後ずさる。
「何をするの」
「三人を二人にする」
引き金を引いた。
爆発ではなく、世界が片側から潰れる音がした。
痛みは白い光になり、すべての声を押し流した。
私は倒れた。
左耳から温いものが流れ、平衡感覚が消えた。
だが、銃口は耳のすぐ後ろを掠めただけだった。
鉄棒は私ではなく、背後の圧力管を貫いていた。
蒸気が噴き出し、共同知覚室を白く満たした。
モニターの残骸が次々に破裂する。
かなえの姿が消えた。
江波戸の死体も消えた。
澪の顔をしたものは、蒸気の中で何十人分もの輪郭に分かれ、互いを掴み、互いの口へ指を突っ込みながら崩れた。
「一人では現実になれない」
声が遠ざかった。
「誰かに見てもらわなければ」
天井が落ちた。
気がつくと、私は杉林の斜面にいた。
夜明けだった。
施設は谷の下で燃えていた。炎の向こうに、屠畜場と研究棟と母屋が見えた。三つの建物は、見る角度によって一つになったり、離れたりした。
かなえは数メートル先に倒れていた。
息はあった。右肩に深い裂傷があったが、命に別状はなかった。
江波戸はいなかった。
私たちは山を下り、昼前に保護された。
警察はすぐ捜索隊を出した。
しかし谷には、焼けた施設どころか建物の基礎もなかったという。
古い登記を調べると、敷島畜産生理研究所が存在したのは事実だった。ただし所在地は、私たちが発見された山から百二十キロ離れていた。
その跡地は二十年前にダムの底へ沈んでいる。
江波戸は行方不明として扱われた。
かなえは入院中、私とほとんど話さなかった。
一度だけ、彼女は尋ねた。
「最後に、澪さんを撃った?」
「撃ってない」
「そう」
「君は何を見た」
かなえは長く黙った。
「あなたが自分を撃った」
「それだけ?」
「そのあと立ち上がって、私に“二名一致”って言った」
退院したかなえは、撮影を辞めた。
鏡とモニターをすべて捨て、海辺の町へ移った。半年後、彼女から無地の封筒が届いた。中には割れたカメラのメモリーカードが入っていた。
データは一つだけ残っていた。
十二秒の映像。
私は再生しなかった。
再生しないまま、金槌でカードを砕き、別々のごみ袋に分けた。
それでも夜になると、事務所のモニターが勝手に点く。
電源コードを抜いても、黒い画面の中に白い廊下が映る。
廊下の奥には澪が立っている。
ときどき江波戸。
ときどきかなえ。
いちばん多いのは、私だ。
画面の中の私は、こちらへ歩きながら口を動かす。
音はない。
だが何を言っているのか分かる。
見えるか。
私が私に見えるか。
ここまでを、私は映像ではなく文章で記録した。
像を残さなければ安全だと思ったからではない。
文字は像より古い罠だと、もう知っている。
文章を読むとき、人は書かれていないものまで見る。
白いタイルの汚れ。
鎖の揺れ。
鏡に埋め込まれた女の顔。
黄色い雨具から伸びる腕。
私はそれらの細部を、すべて書いたわけではない。
足りない部分を補ったのは、読んでいる者だ。
一人が書き、一人が読む。
二名一致。
あと一人いれば、ここは現実になる。
今、事務所の外で足音が止まった。
ノックが三回。
澪の声で「兄さん」と呼んでいる。
返事はしない。
私はもう、何も確かめない。
ただ一つ、気になっていることがある。
この記録を書き始めたとき、私は冒頭を「妹が失踪して十一日目」とした。
だが私に妹などいなかったと、警察の資料には書かれている。
私の戸籍にも、兄弟姉妹はいない。
それでも私は、澪の顔を思い出せる。
声も、手の温度も、子どものころの記憶も。
そして、ここまで読んだあなたも、おそらく澪の姿を思い浮かべることができる。
ならば、彼女を作ったのは誰だ。
画面の中の私が、笑っている。
口の動きが、今度ははっきり読めた。
――三名一致。
その瞬間、廊下の向こうで、あなたが振り返った。