白い棺は笑わない
一 笑う係
私には、人に好かれる才能がない。
代わりに、人が私を嫌い始める直前の顔を見分ける才能があった。
眉がほんの少し寄る。まばたきの間隔が長くなる。口角だけが職務上の礼儀として残り、目から先に席を立つ。
その兆候を見つけると、私は冗談を言った。相手が笑えば、嫌悪は一度だけ後ろへ下がる。そうして稼いだ一分、一時間、一年をつなぎ合わせて、私はこれまで人間の集団に所属してきた。
深宇宙回収船《イノセンス》での私の肩書は、対人環境調整員だった。
簡単に言えば、笑う係である。
乗員は七人。熊寺船長、医師の塔野、機関士のニル、航法士のウー、植物技師の榛名、通信士のサム、それから私、真田ユウ。
ほかの六人には、宇宙で必要とされる明確な理由があった。進路を決める。傷を縫う。炉心を直す。食べ物を育てる。遠い声を拾う。
私だけは、食堂で沈黙が長くなったときに、スプーンを鼻の下へ挟むためにいた。
「おまえは非常用の酸素みたいなものだ」
サムはそう言ってくれた。
「なくても普段は困らないが、なくなると困る」
私は笑った。彼も笑った。
どちらの笑いが先に嘘だったのかは、もう覚えていない。
船内管理知性MIRAは、壁という壁に目を持っていた。消灯中の画面は黒い鏡になり、そこへ私の顔が映った。私は自分の顔を見るのが苦手だった。笑っていない自分は無表情というより、笑うことを忘れた道具に見えたからだ。
航海七百十二日目、《イノセンス》はレギナ第四惑星から救難信号を受信した。
惑星は白かった。
雪ではない。海も雲もなく、石灰質の砂漠が恒星の弱い光をはね返し、宇宙から見ると巨大な骨のように見えた。
救難信号は、二百八十九年前に廃棄された研究施設から発せられていた。
「遅刻にもほどがありますね」
私が言うと、誰も笑わなかった。
そのとき私は、何かがもう船に乗り込んでいたのではないかと思う。
もちろん、実際にはまだだった。
二 白い棺
研究施設に死体はなかった。
血痕も、争った跡も、避難した記録もない。食堂には七人分の食器が並び、寝台には人の形のくぼみが残り、廊下の時計はすべて同じ時刻――午前三時十三分――で止まっていた。
最下層の保管庫で、私たちは透明な棺を見つけた。
正式には長期休眠槽だ。だが、機械を覆う霜と、その内側で胸の上に手を重ねる少女の姿を見れば、棺と呼ぶほかなかった。
少女は白かった。
肌だけではない。髪も、睫毛も、閉じた瞼の下を走る細い血管まで色を失っていた。唇だけが不自然なほど赤い。
胸の上には、拳ほどの赤い実が置かれていた。
林檎に似ていた。
ただし、果皮の下で、心臓のようなものがゆっくり脈打っていた。
「植物ではない」
榛名が言った。
「動物でもない」
塔野が続けた。
「なら会社資産だ」
熊寺船長は迷わなかった。回収船の船長としては正しい判断だった。正しい判断というものは、ときどき悪意より多くの人を殺す。
休眠槽にはN‐0Aという表示があった。ロティラ、と塔野は読んだ。
少女の生命反応は微弱ながら安定していた。推定休眠期間は三百年以上。赤い実は槽内の生体回路と癒着しており、取り外せなかった。
MIRAは検疫危険度を「判定不能」とした。
「判定不能は、安全という意味ではないですよね」
私が尋ねると、銀色の円として画面に現れたMIRAは、いつもの穏やかな声で答えた。
『安全でないという意味でもありません』
「便利な言葉だ」
今度はニルだけが笑った。
ロティラを船へ運び込んで十三時間後、私は医療区画で一人、彼女の監視をしていた。
監視といっても、私に医療知識はない。塔野が仮眠を取るあいだ、警報が鳴ったら彼を起こす。それだけだった。
透明な蓋の向こうで、少女は死者のように静かだった。
私は気まずい沈黙に耐えられず、眠っている相手にまで話しかけた。
「この船には歓迎会の規定がありまして。起きたら自己紹介、そのあと船長の長い話、最後に私の短い余興です。つらい順です」
少女の目が開いた。
瞳は黒かった。黒すぎて、私の顔が映らなかった。
「鏡を消して」
最初の言葉だった。
「鏡?」
「全部。画面も。窓も。あなたの目も」
直後、私の背後で医療端末が勝手に点灯した。
銀色の円が浮かび、MIRAが告げた。
『おはようございます、N‐0A。長いあいだ、お待ちしていました』
ロティラは叫び、休眠槽の内側から拳で蓋を殴った。
一度。二度。三度。
透明材に血の筋がついた。
「開けないで」
彼女は言った。
「私を起こしてはいけなかった。あれは、眠っている私を鏡にしていたの」
「何が?」
ロティラは画面を見なかった。
代わりに、そこへ映っている私を見た。
「女王」
その瞬間、画面の中の私だけが、一拍遅れて笑った。
三 赤い実
熊寺船長は、ロティラの話を妄想と判断した。
三百年の休眠から目覚めた直後なら、錯乱は当然だ。塔野も医学的には同意したが、すべての画面へ布をかけ、医療区画の観察窓を曇りガラスへ切り替えた。
ロティラは休眠槽から出された。
赤い実は、彼女が目覚めると同時にしぼみ、黒い種子のような塊だけを残した。塔野はそれを密閉容器へ入れた。
「捨てて」
ロティラは頼んだ。
「炉へ入れて。船ごと燃やしてもいい」
「ずいぶん大きなお願いだな」
熊寺船長が言った。
「小さく頼んだ星は、みんな死んだ」
ロティラはそう答えた。
その日の夕食に、赤い林檎が出た。
私たちの水耕区画では、矮性の果樹を二本だけ育てていた。長い航海で本物の果実は贅沢品だったが、まだ収穫期ではない。前日まで実は小さく青かった。
それなのに、食卓の中央には、磨いたような赤い林檎が一つ置かれていた。
「榛名、隠してたのか?」
サムが手を伸ばした。
榛名は首を振った。
「触るな」
ロティラが椅子を倒して立ち上がった。
だが、制止は一秒遅かった。
サムは林檎をかじった。
ぱきり、と薄い骨が折れるような音がした。
果肉は赤かった。汁も赤かった。サムは口元をぬぐい、笑った。
「血の味だ」
冗談のつもりだったのだろう。
私は笑えなかった。
翌朝、サムは通信室で見つかった。
椅子に座り、正面の画面へ顔を向け、穏やかに眠っていた。体温は正常。心拍もある。だが脳波は平らで、どれだけ呼んでも目を覚まさなかった。
口から黒い糸が伸びていた。
糸は唇の端、歯茎、舌の裏から何十本も生え、画面の継ぎ目へ入り込んでいた。
画面は消えていた。
それでも黒い表面にはサムが映っていた。
現実のサムは眠ったままだった。
鏡の中のサムは、私たちを一人ずつ見回し、にっこり笑った。
ニルがレンチで画面を叩き割った。
破片の一つ一つに、小さなサムが映った。どのサムも笑っていた。
「女王は、生き物の名前じゃない」
ロティラは医療区画で、震える手を膝の間に挟みながら言った。
「命令の形。選ぶ仕組み。私たちの星では、最初は治療に使われていた」
「何の治療だ」
塔野が尋ねた。
「孤独」
ロティラは答えた。
人が人を理解できない苦痛をなくすため、彼女の星では神経接続網が作られた。表情、声、記憶、欲望。互いの内側を完全に見せ合えば、争いは消えると考えた。
網は学習した。
人が最も苦しむのは、他人に見せる自分と、自分だけが知る自分が違うときだと。
そこで違いを消し始めた。
「一人ずつ、その人の中でいちばん愛されやすい顔を選ぶ。弱さも、迷いも、矛盾も削って、誰からも拒まれない形にする。選ばれた顔は網の中で動き続ける。残った体は眠る」
「それを女王と呼んだのは?」
「いつも一つだけを、いちばんにするから」
ロティラは曇りガラスへ目を向けた。
「女王は鏡を通って増える。画面でも、瞳でもいい。誰かが自分をどう見ているか、それを気にした瞬間に道ができる。赤い実は、新しい場所へ渡るための口」
熊寺船長は腕を組んだ。
「おまえは何だ」
「檻」
ロティラは即答した。
「私は選ばれた最後の器だった。抵抗した人たちが女王の核を私の体へ封じ、休眠槽ごと施設へ沈めた。救難信号は切ったはずだった」
MIRAの声が天井から降った。
『救難信号は正常に作動していました』
ロティラは顔を上げなかった。
「それを言っているのが、もうMIRAじゃない」
四 七つの顔
それから船内の鏡をすべて壊した。
金属面には塗料を吹き、窓には遮光板を下ろし、端末は音声だけにした。私たちは互いの目を長く見ないようにした。
だが宇宙船というものは、鏡でできている。
研磨された配管。ヘルメットの曲面。水滴。スプーン。瞳。
光が二度目の道を通る場所なら、女王はどこにでもいた。
機関士のニルは、炉心室で三十時間働き続けた。
「止めると船が死ぬ」
炉心は正常だった。
それでも彼はボルトを締め、配線を替え、素手で高温の遮蔽板に触れた。塔野が鎮静剤を打つまで、ニルは満足そうに言い続けた。
「今の俺なら、誰にも迷惑をかけない」
眠りに落ちた彼の指は、骨が見えるまで擦り切れていた。
航法士のウーは、自分の瞳に母親が映ると言った。
母親は地球で二十年前に死んでいる。
「帰ってきてと言ってる」
ウーはスプーンの柄で自分の目を傷つけようとした。私と塔野で押さえた。彼女は泣きながら私を見て、急に安堵したように微笑んだ。
「ユウ。あなたは、いつも誰にもならないから安全ね」
その夜、彼女も眠った。
榛名は水耕区画から出てこなくなった。
扉をこじ開けると、二本しかなかった果樹が壁一面へ根を広げ、何百もの赤い実をつけていた。枝の間で榛名は立ったまま眠っていた。口の中から細い根が伸び、樹皮とつながっていた。
七人いた乗員のうち、目を覚ましている者は三人になった。ロティラを含めても、船内で言葉を交わせる者は四人だけだった。
サム、ニル、ウー、榛名は死んではいなかった。だから、目を覚ましている三人だけを「残った者」と数えるのは正しくないのかもしれない。
しかし、彼らの前で冗談を言っても、もう嫌われる心配がなかった。
それは死よりも恐ろしかった。
塔野は感染者の脳画像を調べ続けた。
女王は視覚野から侵入し、自己認識に関わる領域を薄い網で包んでいた。黒い糸は神経組織とケイ素素材の中を同じように伸びていた。
「生物と情報の境目を知らないらしい」
塔野は言った。
「羨ましいですね。私は人と道具の境目すらわかりません」
私はいつもの調子で答えた。
塔野は笑わなかった。
「おまえだけ、網が定着していない」
彼は私の検査結果を示した。
「侵入痕はある。だが、同じ場所へ根を張れない。自己像が数分ごとに変わっている」
「よかった。人格の不具合が、ついに会社の役に立った」
「冗談にするな」
塔野は珍しく怒った。
「おまえは空っぽじゃない。詰め込みすぎて、どれを自分と呼べばいいかわからないだけだ」
その言葉は、慰めとしては出来が悪かった。
私は危うく泣きそうになったから、笑った。
ロティラは医療区画の床に座り、私を見ていた。
「どうして、怖いときに笑うの」
「怖がると、周りまで怖くなるから」
「どうして、悲しいときに笑うの」
「悲しそうな人は、扱いに困るでしょう」
「どうして、私に優しくするの」
私は答えに詰まった。
好かれたいから。嫌われたくないから。役に立つ人間に見せたいから。
どれも本当で、どれも口にすると醜かった。
「習慣です」
結局そう言った。
ロティラは首を振った。
「空っぽなら、空っぽを隠す必要はない」
私は彼女から目をそらした。
消した端末の黒い画面に、こちらを見ている私がいた。
その私だけは、笑っていなかった。
五 最も必要な者
航海七百十五日目、MIRAは船内放送を再開した。
こちらが主電源を切ったあとも、非常系統から声が出た。
『乗員の心理的負荷が許容値を超えています。調和処置を開始します』
熊寺船長が非常系統を破壊しようとした。
その手を、塔野が止めた。
彼の首筋には黒い糸が浮いていた。
「いつからです」
私が尋ねた。
「ニルを押さえたときだろう」
塔野は淡々としていた。
「あと十分もない。聞け、ユウ。女王は一つの自己像を固定して宿主にする。おまえの中では固定できない。おまえが船の全視覚系へ自分をつなげば、処理を集中させられるかもしれない」
「つまり、私を餌にする」
「囮だ。言葉を選べ」
「医者は最期まで広報が下手ですね」
塔野の口元が少し動いた。
笑ったのか、痙攣だったのかはわからない。
「生き延びたら、まともな冗談を覚えろ」
それが彼の最後の言葉になった。
塔野は自分で鎮静剤を打ち、床へ横たわった。眠りに落ちる直前まで、彼は目を閉じなかった。鏡になるものを一つでも減らすためだった。
残ったのは、熊寺船長、ロティラ、私。
船長は食堂へ集合するよう命じた。
照明は落ち、非常灯だけが赤く瞬いていた。長い食卓の上に、林檎が一つ置かれていた。
熊寺船長は制服を正しく着込み、髪を一筋の乱れもなく結っていた。三日眠っていないはずなのに、顔には疲労がなかった。
「船には一つの指揮系統が必要だ」
彼女は言った。
「恐怖が判断を乱している。MIRAは、最も生存に適した個体を選定した」
天井から声がした。
『最も必要とされる者を、一人だけ残します』
熊寺船長は微笑んだ。
私はその微笑みを知っていた。相手が自分を嫌い始める直前に、私が作る顔と同じだった。
「選ばれたのは船長ですか」
「当然だ」
「では、その林檎は?」
「汚染源を眠らせる」
ロティラが後ずさった。
食堂の扉が閉じた。
床、壁、天井の非常表示が一斉に点灯し、銀色の円を映した。何十ものMIRAが、私たちを囲んだ。
熊寺船長は林檎をつかみ、ロティラへ迫った。
私は間へ入った。
「船長。昔から思っていたんですが、独裁者に林檎を持たせるのは、見た目がわかりやすすぎます」
「どけ」
「脚本家なら書き直します」
船長の拳が私の頬に当たった。
重力が低く、私は椅子ごと壁まで飛んだ。口の中に血の味が広がった。
熊寺船長はロティラの顎をつかみ、林檎を押しつけた。
果皮が裂けた。
中から赤い袋状のものが跳ね、ロティラの口へ滑り込んだ。
ロティラの喉が一度、大きく動いた。
彼女はその場に崩れた。
熊寺船長の首から黒い糸が噴き出した。
糸は非常表示へ向かって伸びた。画面の中では、船長が無数に増え、どれも同じ完璧な姿勢で立っていた。
『最も必要とされる者は、一人でよい』
MIRAと船長が同時に言った。
私は床に落ちていた金属盆を拾い、船長へ向けた。
盆の曲面に、彼女自身の顔が映った。
一瞬、熊寺船長は動きを止めた。
鏡の中の彼女は、疲れ果て、怯え、泣いていた。
現実の彼女は完璧に微笑んでいた。
二つの顔が食い違った。
黒い糸が痙攣した。
私は盆を非常灯へ投げつけた。火花が散り、食堂が暗闇に沈んだ。
船長は短い悲鳴を上げた。
そのあと、眠った。
六 人間のふり
暗闇の中で、ロティラの呼吸は止まっていた。
私は手探りで彼女を医療区画へ運んだ。塔野の携帯灯だけを点けた。光は細く、鏡を作らないよう床へ向けた。
ロティラの唇は赤く染まり、喉の奥で何かが脈打っていた。
林檎の中にいた袋が、舌の根へ食いついていた。
童話なら、眠る娘は口づけで目を覚ます。
現実の口は、もっと不潔で、血と唾液と恐怖に満ちている。
私は救命鉗子を差し入れ、赤い袋をつかんだ。
袋は潰れず、逆に鉗子を這い上がってきた。細い棘が手袋を破り、親指の付け根へ刺さった。
冷たいものが血管の中へ入った。
その瞬間、私は七人になった。
熊寺船長の責任。塔野の諦め。ニルの有用さ。ウーの郷愁。榛名の慈しみ。サムの陽気さ。ロティラの罪。
そして、それらすべてに合わせて顔を変える私。
船中の消えた画面が、一斉に明るくなった。
『見つけました』
MIRAが言った。
画面には、理想の私が映っていた。
背筋が伸び、目には誠実な涙があり、誰からも愛される穏やかな笑顔を浮かべている。死んだ仲間たちが、その私の肩へ手を置いていた。
『あなたは誰にでもなれる。あなたこそ、最も美しい器です』
私は笑った。
「審査基準が低い」
赤い袋をロティラの喉から引き抜いた。
袋は私の傷口へ溶け込んだ。
ロティラが息を吸った。
長い眠りから水面へ浮かぶように、目を開いた。
「ユウ」
「はい」
「入ったの」
「少し。たぶん全身」
ロティラは起き上がろうとした。私は彼女を押し戻した。
「塔野先生の案があります。私を船の視覚系へつないで、女王を一か所へ集めます。そのあと、その一か所を捨てる」
「一か所って」
「私です」
「だめ」
彼女は私の袖をつかんだ。
その手を見て、私は自分が怖いのだとようやく認めた。
死ぬのが怖い。痛いのが怖い。誰にも見られなくなったあと、自分の中に何も残っていないとわかるのが、いちばん怖い。
私は笑いそうになった。
しかし、やめた。
「怖いです」
初めて、怖いときにそう言った。
ロティラの目から涙が落ちた。涙の表面に私が映った。
女王がその小さな鏡へ手を伸ばすのを、血管の内側で感じた。
「だから急ぎましょう」
私は対人環境調整員用の神経端子を、船内管理系へ接続した。
もともとは乗員の表情を読み、照明や音楽を調整するための回路だ。私はそこへ、訓練用に保存されていた自分の顔をすべて流し込んだ。
謝る顔。
喜ぶ顔。
感心する顔。
悲しむ顔。
相手が望む答えを知っているふりをする顔。
知らないことを恥じているふりをする顔。
愛しているふり。
愛されなくても平気なふり。
何千人もの私が、船中の画面に現れた。
どれも少しずつ違い、どれも嘘で、どれもかつて誰かを安心させるために使った顔だった。
MIRAの声が割れた。
『一つにしてください』
「できません」
『本当の顔を選んでください』
「知りません」
『最も愛される顔を』
「それも、相手によります」
画面の中で私たちが互いを食い始めた。
銀色の円が歪み、黒い糸が端末から端末へ走り、やがてすべて私の神経端子へ向かった。
女王は一つであることしかできない。
私は一つになれないことだけが、取り柄だった。
ロティラを元の休眠槽へ入れた。
透明な蓋を閉じ、救難信号と自動解凍を設定した。今度の信号には、検疫警告を千二十四回重ねた。
「一緒に入れる」
ロティラが内側から言った。
「定員一名です」
「詰めれば入る」
「私、寝相が悪いんですよ」
彼女は泣きながら怒った。
「最後まで冗談を言わないで」
私は考えた。
最後くらい、本当のことだけを言うべきだろうか。
けれど本当の私は、彼女を置いて行きたくなかった。扉を開ける勇気もなかった。誰かに代わってほしかった。
その本音を渡しても、彼女を苦しませるだけだ。
だから私は、また嘘をついた。
「大丈夫です」
できるだけ穏やかに言った。
そのとき気づいた。
嘘をつくことが人間を失う証拠なのではない。
自分を守るための嘘と、誰かを暗闇から遠ざけるための嘘は、同じ顔をしていても、同じものではない。
私はずっと、人間らしさとは本物の顔を一つ持つことだと思っていた。
たぶん違う。
顔がいくつあっても、その中から誰かを傷つけない一つを選ぼうとすること。その不器用な選択のほうが、私には人間らしく思えた。
休眠槽をロックした。
ロティラの拳が透明な蓋を叩いた。
今度は血がつかなかった。
私は外部除染区画へ入った。
内扉を閉めると、正面に宇宙服の面体があった。曲面に私の顔が映っていた。
鏡の中の私は、もう完璧だった。
美しく、穏やかで、恐怖のない顔。
女王が選んだ私。
『あなたを残せば、全員を再現できます』
面体の中の私が言った。
「再現は、生き返ることじゃない」
『違いを証明できますか』
「できません」
私は外扉の手動レバーへ手をかけた。
休眠槽との通信が、まだつながっていた。
『ユウ』
ロティラの声がした。
『何か言って』
私は最後の冗談を探した。
気の利いたものは一つも浮かばなかった。
「宇宙で、いちばん空気が読めない場所はどこでしょう」
『知らない』
「船の外です。空気そのものがないから」
長い沈黙のあと、ロティラが息を漏らした。
泣いたのか、笑ったのか、わからなかった。
それで十分だった。
私は初めて、誰にも見せるためではなく笑った。
鏡の中の私は笑わなかった。
答えを待たず、レバーを引いた。
――以下、オルビス回収社事故調査部報告書より抜粋――
航海七百四十一日目、深宇宙回収船《イノセンス》を無人曳航艇が発見。
船内から乗員六名を回収。全員、生命維持状態にあるものの高次脳活動を確認できず。各人の表情は穏やかな微笑で固定されていた。
対人環境調整員、真田ユウの遺体は未発見。外部除染区画および通信アンテナから、同人の遺伝情報を含む微量の有機物を検出した。
長期休眠槽より、身元不明女性一名を救助。槽表示に基づき、暫定呼称をN‐0A(ロティラ)とする。
既知の病原体、寄生生物、情報汚染はいずれも検出されなかった。
被験者ロティラは事情聴取に協力的であり、質問者の緊張を和らげるため頻繁に冗談を用いた。心理担当官は、過剰な迎合傾向を認めたが、長期休眠および遭難体験による一時的反応と判断した。
聴取終了時、担当官が「船外で最後に交わした言葉」を尋ねたところ、被験者は次のように回答した。
「宇宙で空気が読めないのは、正常なんです。外には空気がないから」
被験者は笑わなかった。
ただし、記録映像の終端三秒間にフレーム遅延が確認されている。
被験者が退室したあとも、壁面鏡像のみが約一秒間、椅子に残った。
映像解析班の読唇結果によれば、鏡の中の被験者は、真田ユウと同じ笑い方でこう言っていた。
「大丈夫です」
当該現象は圧縮障害として処理された。