白い灯台の十三秒
――読み切り本格ミステリ――
【登場人物】
北見澄香(きたみ・すみか) 高校三年生。郷土史部員で、灯台の記録を読むのが趣味。
真田惟月(さなだ・いつき) 澄香の同級生。機械好きだが、難しい話を聞くとすぐ眠くなる。
霧川宗一郎(きりかわ・そういちろう) 白環灯台の元灯台守。資料館の所有者。
霧川紗英(きりかわ・さえ) 宗一郎の娘。灯台資料館の館長。
宇佐美修司(うさみ・しゅうじ)灯器と時計機構の修復技師。
戸倉佳澄(とくら・かすみ) ドキュメンタリー映像作家。
小田切廉(おだぎり・れん) 元海難審判調査官。現在は海事コンサルタント。
三雲達彦(みくも・たつひこ)島の診療所の医師。
門脇八重(かどわき・やえ) 灯台に長く仕える家政婦。
一 海に立つ白い塔
灯台の光は、海を明るくするために回っているのではない。
海のどこまでが暗闇なのか、それを船に教えるために回っている。
高校二年の冬、私は郷土史部の会誌にそう書いた。その一文を気に入ったという霧川紗英さんから、白環灯台資料館の再開館式に招かれたのは、それから半年後のことだった。
白環灯台は、霧守島の北端に立っている。
島は周囲六キロほど。地図で見ると、黒い海に置かれた白い貝殻のような形をしていた。港から細い坂道を三十分ほど登ると、風に削られた断崖の上に、古い灯台と石造りの宿舎が現れる。
その日は十月だというのに、海は冬のように荒れていた。
「帰りの船、出ると思う?」
隣を歩く真田惟月が、肩まで濡れた前髪をかき上げた。
「夕方の便は欠航だって。明日の朝も怪しいみたい」
「つまり、今夜は孤島の灯台に泊まり込みか」
「うれしそうだね」
「ミステリなら、ここで一人ずつ消えていく」
「縁起でもないこと言わないで」
私は笑った。
そのとき、崖の上で灯台の光が回った。
白い一閃が雲の腹をなぞり、次の一閃まで、海も空も完全な闇に戻る。
光と光の間は、きっかり十秒だった。
資料館の玄関で私たちを迎えた紗英さんは、濃紺のセーターに銀縁の眼鏡をかけた、落ち着いた雰囲気の女性だった。
「遠いところをありがとう。せっかくの再開館なのに、嵐まで招待してしまったみたい」
石造りの旧宿舎は、食堂と客室、資料室に改装されていた。玄関ホールには、船の鐘、羅針盤、古い航海日誌が並んでいる。
その夜、館にいたのは、私たちを含めて九人だった。
灯器の修復を担当した宇佐美修司さん。映像作家の戸倉佳澄さん。元海難審判調査官の小田切廉さん。島の医師である三雲達彦先生。そして、灯台を守ってきた門脇八重さん。
最後に姿を見せたのが、紗英さんの父、霧川宗一郎だった。
六十一歳。背は高いが、痩せて頬が落ちている。銀色の杖をついて歩くたび、石床に硬い音が響いた。
「君が北見さんか」
宗一郎は、私の顔より先に、胸元の名札を見た。
「灯台の光が暗闇の位置を教える、か。若い人間にしては、なかなか寂しいことを書く」
「褒めていただいたと受け取っていいですか」
「好きにするといい」
宗一郎は口元だけで笑った。
その目は、笑っていなかった。
二 十六年前の十三秒
再開館前の特別見学は、午後七時から始まった。
螺旋階段を上ると、塔の最上部に円形の灯室がある。中央に巨大なフレネルレンズが立ち、その透明な輪が、三枚の光の翼のように光源を囲んでいた。
「一周三十秒。三面レンズなので、海からは十秒に一度、閃光が見えます」
宇佐美さんが、機械台を指した。
床下の電動機が唸り、レンズ全体がゆっくり回っている。人の背丈を超えるガラスの塊が、音もなく動く光景は、生き物の呼吸に似ていた。
灯室の東側の床には、青い半月形の印が描かれていた。
「これは何ですか」
私が尋ねると、宇佐美さんは足で示した。
「旧式の清掃装置の危険標示です。昔は一日一回、零時になると、折り畳まれた清掃腕が開いて、フェルトでレンズの外周を一周だけ拭いた。人がこの印の上に立っていると腕に当たるので、青い月から出ろ、と」
「今も動くんですか?」
「いや。十年以上前に連結ピンを抜いてあります。部品だけは文化財として残したけど、機能は殺してある」
宇佐美さんはレンズ台の下にある細長い箱を軽く叩いた。
箱の蓋には、潮で曇った真鍮板がついていた。
十三号清掃腕。
そう刻まれていた。
「十三号?」
惟月が笑う。
「不吉な番号ですね」
「十二までが灯器の油路。清掃腕は後から足されたから十三号。それだけだよ」
説明の間、小田切さんは少し離れたところに立ち、東の窓から暗い海を眺めていた。
四角い顔に、短く刈った白髪。言葉遣いは丁寧だが、ほかの人と目を合わせることが少ない。
戸倉佳澄さんだけは、最初から宗一郎をにらんでいた。
「霧川さん。ここで話してもいいでしょう」
彼女は肩に下げた小型カメラの録画を始めた。
「十六年前の十月十二日、旅客船『朝凪丸』が、この灯台の北東二海里で座礁した。三人が亡くなった。その直前、白環灯台の光が十三秒間消えた」
灯室の空気が変わった。
宗一郎は杖の頭に両手を置いた。
「電圧低下だ。報告書にもそうある」
「その報告書を作ったのが、小田切さんですね」
佳澄さんのカメラが向きを変える。
小田切さんは眉一つ動かさなかった。
「当時の記録に基づいて判断しました」
「私の弟は、朝凪丸に乗っていた。航は二十二歳だった。たった十三秒、灯が消えただけで死んだことになっている」
「海難は一つの原因で起こるものではありません」
「便利な言葉ですね」
佳澄さんの声は低かった。
宗一郎が、杖で床を一度叩いた。
「見学は終わりだ。過去を撮りたいなら、明日にしろ」
佳澄さんはカメラを下ろしたが、目だけは宗一郎から離さなかった。
螺旋階段を降りる直前、私はもう一度、青い半月を振り返った。
回転するレンズの光が、その印の上をなぞった。
青い月は、まるで床に開いた小さな穴のように見えた。
三 零時の宣告
夕食は九時から始まった。
外では風が石壁を殴り、雨が窓を白く曇らせていた。港との電話線は十時前に切れた。携帯電話も圏外だった。
八重さんが魚のスープを運び、三雲先生が宗一郎に薬を飲むよう勧めた。
十時すぎ、小田切さんは「朝凪丸の報告書を取ってくる」と言って、十五分ほど席を外した。戻ってきたとき、右手は上着のポケットに入れたままだった。
「また胸が痛むんでしょう」
「医者は黙って食事をしろ」
「そうやって倒れても、今夜は救急艇を呼べませんよ」
「今夜だけは倒れん」
宗一郎は言い切った。
食後、紗英さんが再開館の挨拶を始めようとしたとき、宗一郎が立ち上がった。
「その前に、話がある」
雨音の向こうで、掛け時計が十一時を打った。
「十六年前の朝凪丸事故について、私は今夜、すべてを公表する」
佳澄さんが椅子を引いた。
「すべて、とは?」
「灯が消えた理由。報告書が書き換えられた理由。そして、その書き換えを命じた人間の名だ」
小田切さんの指が、ワイングラスの脚を強くつかんだ。
「霧川さん。感情に任せた発言は、資料館の信用を損ないます」
「資料はある。原簿も、録音もな」
「なら、今ここで見せてください」
「零時に灯室から無線で流す。沿岸の受信局にも記録が残るようにしてある。誰かが紙を燃やしても、もう消せない」
宗一郎は、テーブル脇に置かれていた生成り色の封筒を手に取った。
封には、古い錨の印が押されていた。
「これは?」
紗英さんが尋ねる。
「さっき私の部屋にあった。差出人はないが、原簿の隠し場所を知っているらしい」
「罠かもしれません」
「罠なら、それも含めて暴く」
宗一郎は封筒を上着の内側へ入れた。
十一時四十分、彼は一人で螺旋階段を上った。
私たちは玄関ホールから見送った。銀の杖が一段ごとに鳴り、やがて最上部の鉄扉が閉じる音がした。
灯室の扉には、内側から横木を落とす古い閂がある。扉の小窓から、宗一郎が閂を滑らせる手が見えた。
十一時四十七分、壁の通話器が鳴った。
紗英さんが受話器を取る。
『零時まで、誰も上げるな』
宗一郎の声だった。
『無線の主電源を五分前に入れろ。私が合図する』
「お父さん、本当に一人で大丈夫?」
『私の灯台だ』
通話は切れた。
十一時五十分、小田切さんが立ち上がった。
「無線室を確認してきます。嵐でアンテナが不安定かもしれない」
無線室は旧宿舎の北端にあり、灯台とは石の渡り廊下でつながっている。
「一人で?」
佳澄さんが言った。
「私が細工をするとでも?」
「私は誰も信用していません」
「それはご自由に」
小田切さんは食堂を出た。
残った私たちは、南窓から海を見た。
光は十秒ごとに回ってくる。
十一時五十五分、紗英さんが無線の主電源を入れた。雑音の中に、灯室のマイクが拾う低い機械音が混じった。
十一時五十九分五十秒。
光が窓を白く切った。
十秒後、零時。
本来なら、次の光が来るはずだった。
来なかった。
暗い窓に、私たち自身の顔だけが映っている。
誰かが息を止めた。
無線から、ぎぎ、と金属が擦れる音がした。
続いて、鈍い衝撃音。
それから、何かが床へ崩れる音。
「お父さん?」
紗英さんが通話器へ叫んだ。
返事はない。
次の瞬間、遅れていた光が窓を横切った。
私は反射的に、録音中だった携帯電話の画面を見た。
暗闇は、いつもの十秒より長かった。
何秒だったのか、その場では分からなかった。
私たちは一斉に塔へ走った。
四 内側から閉ざされた灯室
灯室の鉄扉は、内側から閂がかかっていた。
小窓から見ても、太い横木が受け金に収まっている。呼びかけても、返事はなかった。
「下がって!」
宇佐美さんが消火斧を持ってきた。
数回の打撃で受け金が外れ、扉が内側へ開いた。
中央では、巨大なレンズが何事もなかったように回っていた。
宗一郎は、東側の床に倒れていた。
ちょうど青い半月の上だった。
胸のシャツに、小さな黒い穴が開いている。そこから流れた血が、白い布をゆっくり染めていた。
「触らないで」
三雲先生が膝をつく。
脈を取り、瞳を確かめ、短く首を振った。
「亡くなっています」
紗英さんが、その場に崩れた。
宗一郎のそばに、凶器らしいものはなかった。
胸の傷は細く、深い。刃物なら残っているはずなのに、床にも、レンズ台の周囲にも見当たらない。
外周の回廊へ出るガラス扉も、内側の掛け金が下りていた。窓は厚い一枚ガラスで、開閉できない。天井の換気孔は、人の腕さえ通らない。
そして入口の扉は、私たちが壊すまで内側から閉ざされていた。
本物の密室だった。
宗一郎の右手には、折り畳まれた紙が握られていた。
紗英さんが震える手で開く。
『原簿はレンズの背後にある。
零時、東の青い月に立ち、中心筒を見ろ。
十三秒の闇が、すべてを語る。』
紙にはそれだけ書かれていた。
差出人の名はない。
「この紙を読んで、父はここに立った……」
紗英さんが青い半月を見下ろした。
「でも、誰が父を刺したの?」
そのとき、背後で足音がした。
小田切さんだった。
息を切らし、灯室の中を一目見たあと、低く言った。
「また十三秒か」
全員が彼を見た。
「何がです?」
私が尋ねた。
「光が消えた時間だ。十六年前と同じ、十三秒だった」
「無線室から、光が見えたんですか?」
「北窓の隙間から見えた」
小田切さんはそう答え、宗一郎の死体へ近づいた。
右手の掌に、白い包帯が巻かれていることに、そのとき私は気づいた。
夕食の席では、なかった包帯だった。
五 光の円
嵐のため、警察が島へ来られるのは早くても翌朝だった。
私たちは灯室を出て、壊れた扉の前に宇佐美さんと三雲先生が残った。誰も一人にならないよう、食堂へ集まることになった。
疑いは、すぐに佳澄さんへ向いた。
弟を失った恨み。
宗一郎との口論。
そして、死体が握っていた「十三秒」という言葉。
「分かりやすすぎるわ」
佳澄さんはカメラをテーブルに置いた。
「私が殺すなら、十六年前と同じ数字なんて残さない」
「犯人は、そう思わせたいのかもしれません」
小田切さんが言った。
「あなたに言われたくない」
「やめてください!」
紗英さんが声を上げた。
その横で、三雲先生は宗一郎の傷について説明した。
「傷口は円形に近い。幅は八ミリほど。刃ではなく、細い棒状のものが、ほぼ水平に胸へ入ったと考えられます」
「投げ槍みたいなものですか」
惟月が聞く。
「この狭さで投げれば、角度がつく。傷は不自然なくらい水平だった。それに、凶器は引き抜かれている」
私は灯室で見た光景を思い返した。
扉。
閂。
回廊の掛け金。
青い半月。
回り続けるレンズ。
密室の中で動いていたものは、被害者以外に一つしかない。
「宇佐美さん」
私は修復技師を見た。
「レンズは、宗一郎さんが倒れたあとも回っていました。途中で十三秒だけ止まり、そのあと再び動いた。そうですね」
「正確には、完全停止ではない。過負荷で滑り継手が外れ、駆動輪だけが空転したんだと思う。負荷が抜ければ自動で噛み直す」
「人にぶつかっても?」
宇佐美さんの表情が変わった。
「まさか」
彼は椅子を蹴るように立った。
私たちは再び灯室へ上がった。
宇佐美さんはレンズ台の下にしゃがみ、十三号清掃腕の箱へ手を伸ばした。
蓋のねじのうち、一つだけ頭が新しく光っている。
「開けられている」
工具で蓋を外す。
中には、折り畳まれた真鍮の腕が収まっていた。
本来、先端にあるはずの厚いフェルトは消えていた。
代わりに取りつけられていたのは、細い金属棒だった。先端は鋭く研がれ、根元まで引き戻されている。
溝の奥に、暗い赤色が残っていた。
紗英さんが口を押さえる。
「これが、父を……」
宇佐美さんは青ざめた顔で、機構を指した。
「零時になると、日送りカムが一度だけ清掃腕を開く。連結ピンを戻せば、今でも動く。腕はレンズと一緒に一周し、青い半月の位置を横切って、自動で畳まれる」
惟月が、ゆっくりレンズの周りを見た。
「じゃあ犯人は、灯室に入っていない。宗一郎さん自身に鍵をかけさせて、ここへ立たせて……」
「零時に、灯台そのものに刺させた」
私は言った。
密室は偽物ではなかった。
犯人が部屋へ入る必要など、最初からなかったのだ。
六 十三秒を知っていた人
仕掛けが分かっても、犯人が決まったわけではない。
清掃腕の存在は、見学に参加した全員が聞いている。灯室へ入る機会も、再開館準備の間なら誰にでもあった。
けれど、犯人は三つのことをしなければならない。
清掃腕を凶器へ変えること。
零時に宗一郎を青い半月の上へ立たせること。
そして、機構が人に当たったとき、どれほど光が止まるかを知っていること。
私は惟月と一緒に、無線室へ向かった。
小田切さんが零時前にいたという部屋だ。
北窓には、塩害を防ぐための乳白色の二重ガラスが入っていた。窓の外はぼんやり明るいだけで、灯台の光の筋は見えない。
しかも窓の正面には塔の石壁が張り出している。
「隙間なんてないな」
惟月が窓枠を調べた。
「光は見えない。音も、風でほとんど聞こえない」
机の上には無線機と、古い事故報告書を綴じた革のファイルがあった。表紙に金文字で『朝凪丸海難調査・控』とある。
小田切さんが持ち込んだものだった。
私は灯室で宗一郎が握っていた紙を思い出した。
生成り色。薄く青い繊維が混じり、端に二つの小さな穴があった。
革のファイルを開く。
古い報告書の用紙にも、同じ青い繊維が混じっている。二穴ではなく、昔の調査局で使われた特殊な二本綴じの穴だった。
後ろから二枚目の余白紙が、下半分だけ不自然にちぎられている。
その断面は、灯室の紙片と同じ形に見えた。
「触らない方がいい」
惟月が小声で言った。
「うん。形だけ覚えておく」
無線機の横に、小さな真鍮の計測具が置かれていた。港湾設備のねじを測る古いゲージらしい。
一本だけ、棒が抜けている。
空いた溝の幅は、八ミリだった。
廊下へ出ると、八重さんが毛布を抱えて立っていた。
「小田切さんの手、いつ怪我をしたか知っていますか」
私が聞くと、八重さんは首をかしげた。
「夕食のあとだったと思いますよ。九時ごろは、まだ包帯なんかしていませんでした」
「本人は、何と言っていました?」
「嵐戸を閉めるとき、金具で切ったと。でも、あの方は嵐戸には触っていません。私と宇佐美さんで閉めましたから」
宇佐美さんにも確かめた。
清掃腕の連結部には、青色の耐水グリスが使われているという。
「普通の灯器油とは違う。あの箱の中だけだ。しかも留め輪は逆ねじになっている。回転で緩まないようにね」
「慣れていない人が普通の向きへ強く回したら?」
「縁のばりに掌を滑らせるかもしれない。半月形に切れるだろうな」
青い半月。
その言葉が、頭の中で別の半月と重なった。
小田切さんの右手の包帯。
私は携帯電話の録音を再生した。
零時前、十秒ごとに食堂で誰かの息遣いが変わる。窓を光が横切るたび、ガラス戸がかすかに鳴っているからだ。
一度。
二度。
そして、長い沈黙。
金属音。
衝撃音。
次の光で、再びガラス戸が鳴る。
波形の時間を測る。
十三・二秒。
小田切さんは、灯室へ着いた瞬間に言った。
また十三秒か、と。
誰もまだ測っていなかった。
彼のいた無線室からは、光が見えない。
では、なぜ知っていたのか。
答えは一つしかなかった。
十三秒止まるように、彼自身が仕掛けたからだ。
七 嵐の食堂
午前一時、全員が食堂に集まった。
風はさらに強くなっていた。灯台の光は安全のため止められ、窓の外には完全な闇が広がっている。
私は、テーブルの中央に小さな卓上灯を置いた。
「宗一郎さんを殺した犯人は、密室へ入っていません」
誰も言葉を挟まなかった。
「犯人は十三号清掃腕を動く状態へ戻し、先端のフェルトを八ミリの金属棒と交換しました。零時になると腕が一度だけ開き、回転するレンズと一緒に青い半月の位置を通る。宗一郎さんは紙の指示どおり、そこに立って中心筒をのぞいた。胸の高さへ伸びた棒が刺さり、負荷でレンズが止まる。十三秒後、滑り継手が復帰し、腕は一周を終えて箱の中へ戻った」
三雲先生がうなずく。
「傷の角度と一致する」
「扉も回廊も、最初から最後まで内側から閉まっていた。密室を壊す必要はなかったんです」
佳澄さんが、小田切さんを見た。
「それを仕掛けたのが、この人?」
「はい」
小田切さんは椅子に座ったまま、表情を変えなかった。
「根拠は?」
「三つあります」
私は、灯室の紙片を透明な資料袋越しに示した。
「一つ目。この紙は、あなたの無線室にあった朝凪丸事故報告書の余白紙です。特殊な綴じ穴、紙の繊維、ちぎれ方が一致する。宗一郎さんに、原簿がレンズの背後にあると思わせるため、古い調査用紙を使った」
「私のファイルは、食堂に置いた時間もある。誰かが盗んだのでしょう」
「その可能性だけなら、あります」
次に、私は自分の携帯電話を置いた。
「二つ目。あなたは灯室へ入ってすぐ、『また十三秒か』と言った。でも無線室の北窓から灯台の光は見えません。窓は乳白ガラスで、塔の石壁にも遮られている。音だけで停止時間を測ることもできない」
「時計を見ていた」
「宗一郎さんが倒れた瞬間を、どうやって知ったんですか。無線室では、灯室の音声を受信していなかった。主回線は食堂にしかつながっていません」
小田切さんの口元が、わずかに固くなった。
「あなたは十三秒という結果を、見る前から知っていた。十時すぎ、報告書を取りに行くと言って席を外した十五分の間に、清掃腕を仕掛けた。そして、人に当たると滑り継手が十三秒で復帰するよう調整したのは、あなた自身だからです」
「推測だ」
「では、三つ目を確かめましょう」
私は三雲先生を見た。
「先生。小田切さんの右手の傷を診ていただけますか」
「断る」
小田切さんが初めて、強い声を出した。
「ただの切り傷だ」
「嵐戸の金具で切った、と八重さんには話したそうですね。でもあなたは嵐戸に触れていない。夕食のあとにできた傷です」
宇佐美さんが続けた。
「清掃腕の留め輪は逆ねじだ。右ねじと思って力をかければ、青いグリスのついたばりで掌を切る」
「その包帯の下に、半月形の傷と青いグリスが残っているはずです」
沈黙が落ちた。
外で大きな波が崖へ砕けた。
小田切さんは左手で右手の包帯を押さえた。
「……子供の推理だ」
「そうかもしれません」
私は答えた。
「でも、無線室の計測具から八ミリの真鍮棒が一本なくなっています。清掃腕の中の凶器と、寸法だけでなく合金も一致するでしょう。明日、警察が調べれば分かります」
小田切さんの視線が、初めて揺れた。
佳澄さんが立ち上がる。
「十六年前も、あなたが嘘を書いたのね」
「座れ」
「航は、十三秒の事故で死んだんじゃない。あなたたちに殺された」
「座れ!」
小田切さんがテーブルを叩いた。
包帯の端がほどけた。
右の掌に、青黒い油で汚れた半月形の傷が見えた。
八 十三秒の告白
小田切さんは、しばらく自分の手を見ていた。
やがて、力が抜けたように椅子へ座り直した。
「十六年前、灯は十三秒ではなく、三分四十秒消えていた」
誰も動かなかった。
「霧川は、密輸船を岩礁の内側へ通すため、光を止めた。灯台の消灯を合図にしていたんだ。だが、その夜は朝凪丸が予定より早く進路へ入った。灯を見失い、潮に流され、北東礁へ乗り上げた」
佳澄さんの唇が震えた。
「あなたは、それを知っていた」
「調査で分かった。自動記録器には三分四十秒の空白が残っていた。霧川は私に金を渡した。私は記録紙を差し替え、電圧低下による十三秒の瞬断と報告した」
「どうして十三秒だったんです」
私が尋ねる。
「当時の滑り継手の復帰時間だ。機械的な故障として、もっともらしい数字だった」
だから彼は、今夜の停止時間も知っていた。
十六年前、自分が嘘を作るために選んだ数字だったから。
「霧川は最近、病気を告げられた。死ぬ前に告白すると言い出した。自分だけ楽になろうとしたんだ。私の名前も出すと言った。私は海難安全財団の理事をしている。家族もいる。今さら、すべてを失えるか」
「だから殺した?」
紗英さんの声は、ひどく静かだった。
「父が告白しようとしたから」
「君の父親は三人を殺した。私は記録を書き換えただけだ」
その瞬間、佳澄さんが小田切さんへ飛びかかろうとした。
惟月と宇佐美さんが間に入り、彼女を止めた。
「書き換えただけ?」
佳澄さんは泣いていた。
「あなたの十三秒のせいで、航は不運な事故の犠牲者にされた。誰も責任を取らなかった。家族は十六年、何が起きたのかさえ知れなかった!」
小田切さんは目を伏せた。
「原簿は、どこにあるんです」
私は紗英さんへ聞いた。
彼女はしばらく黙ったあと、首から下げた銀色の鍵を外した。
「父の金庫です。昨日、私が見つけました。写しも取ってあります」
小田切さんが顔を上げた。
「写し……?」
「父は今夜、自分の罪も話すつもりでした。あなたの名前だけを売るつもりじゃなかった」
「なら、なぜ私にそう言わなかった」
「言えば、あなたが逃げると思ったからでしょう」
紗英さんは、父の空いた椅子を見た。
「父は卑怯でした。十六年前も、今夜も。でも最後に、卑怯なまま死にたくなかった。それすら、あなたは許さなかった」
小田切さんの肩が落ちた。
嵐の音だけが残った。
九 夜明けの光
午前五時すぎ、雨が弱まった。
夜明けの海は鉛色で、波頭だけが白かった。
警察の巡視艇が港へ入れるようになったという無線が届き、私たちは玄関ホールで待った。
佳澄さんは窓辺に座り、弟の古い写真を見ていた。
紗英さんは灯室へ上がり、宗一郎のそばにいた。
私は外へ出た。
風の中で、白環灯台は光を止めたまま立っている。
「解決したのに、うれしそうじゃないな」
惟月が後ろから来た。
「人が死んでるからね」
「それもそうか」
彼は私の隣に立った。
「でも、よく十三秒に気づいたな」
「気づいたんじゃない。録音していただけ」
「それを気づくって言うんだよ」
しばらくして、塔の上で機械音がした。
宇佐美さんが安全を確認し、予備灯器を動かしたのだ。
レンズがゆっくり回り始める。
朝の薄明るい空に、一閃の光が走った。
十秒後、もう一度。
さらに十秒後、もう一度。
今度は、十三秒の闇はなかった。
灯台の光は、海を明るくするために回っているのではない。
暗闇の位置を教えるために回っている。
けれどあの朝、白い塔が照らしたのは、海の暗闇だけではなかった。
十六年間、誰かの都合で隠されていた嘘の輪郭を、逃げ場のないほどはっきりと、光の中へ浮かび上がらせていた。
了