『白帆は泥の空を渡る』
一
海は空にあった。
昼には青黒い水の影が雲より高くたゆたい、夜になると、魚の腹が星のあいだを銀色に横切った。ときおり空の海から雫が落ちてきたが、それは地上へ着くまでに塩の粒となり、屋根や路地を白く汚した。
だから港町ラレクには、船が一隻もなかった。
かつて海だった場所には、ひび割れた泥の平原が広がっている。桟橋は地面から突き出す黒い肋骨のようで、灯台は、照らすべき波を失ったまま百年も立ち尽くしていた。
その灯台の根元に、船底町と呼ばれる貧しい区画があった。家々は古い船板や鉱山の箱で継ぎはぎされ、風が吹くたび町全体が軋んだ。十四歳のニマは、その軋みを眠り歌のように聞いて育った。
「あと六日だってさ」
ラトが言った。
彼は十五歳で、いつも耳の後ろに炭筆を挟んでいる。目の前には赤い布告が壁いっぱいに貼られていた。
――第七鐘の日、船底町を封鎖する。
――住民は北側精錬区へ移ること。
――跡地は空潮炉建設用地として港務院が接収する。
「六日あれば十分だ」
ニマは布告を剥がし、丸め、地面へ投げた。
「何をするのに?」とラト。
「町を救うのに」
「方法は?」
「いま考えてる」
「それは方法じゃない」
背後で、ココがくしゃみをした。十二歳の彼女は布告の赤い紙を拾い、折り目をつけ始めた。手先が器用で、壊れた時計を三つ渡せば、翌日には一つの動く罠と二つの鳴く玩具にして返す。
いちばん小さいユーンは、灯台の壁に耳をつけていた。十歳だが、目を閉じると誰より遠くの音を聞き分けることができた。本人は、石にも寝言があるのだと言っていた。
「灯台の下で、何か鳴ってる」
ユーンが囁いた。
「鼠だろ」とラト。
「鼠は、鐘みたいに三回ずつ鳴かない」
ニマたちは顔を見合わせた。
四人は船底町で「錆釘団」と呼ばれていた。呼んでいるのは主に自分たちだけだったが、錆びた釘のように曲がっても抜けず、誰にも捨てられないものになる、というのがニマの考えた由来だった。
灯台は立入禁止だった。だから彼らは、ためらわず中へ入った。
扉は鎖で巻かれていたが、ココが針金を差し込むと、錠前は長いため息をついて開いた。中には潮の匂いが残っていた。百年も水のない町で、その匂いだけがまだ濡れているようだった。
螺旋階段の途中で、ユーンが足を止めた。
「ここ」
壁の煉瓦を一つずつ叩く。三つ、乾いた音。四つ目だけ、腹に響く音がした。
ニマが短剣で漆喰を削り、ラトと一緒に煉瓦を引き抜く。奥から、細長い真鍮の筒が転がり出た。
筒の蓋には、見たことのない船が彫られていた。
帆は白く、船体は翼のように細い。その船首は水平線ではなく、満月へ向いていた。
中に入っていたのは地図だった。
羊皮紙には、泥の平原の下を走る古い水路、灯台から西へ伸びる坑道、そして地下深くの巨大な空洞が描かれている。空洞の中央には、白い船の印。その脇に、古い港言葉で一行だけ書かれていた。
――最後の鐘を鳴らす者に、帰るべき岸が示される。
地図の端にはもう一つ、赤い印があった。
潮の心臓。
「聞いたことがある」とラトが言った。「空の海が地上にあったころ、潮を動かしていた石だ。作り話だけど」
「その作り話が本物なら?」ニマは地図を広げた。「潮の心臓を持ち帰って、井戸を満たす。空潮炉なんか要らないって証明する。町を追い出す理由もなくなる」
「本物ならね」
「六日ある」
「六日しかない」
「同じことだよ」
そのとき、灯台の外で、誰かが派手なくしゃみをした。
四人が窓から覗くと、二人の男が鎖の外に立っていた。
一人は熊のように大きく、擦り切れた黄色い外套を着ていた。もう一人は背が高く痩せ、古い綱を肩から巻いている。大男がもう一度くしゃみをし、痩せた男がうんざりした顔で言った。
「だから塩埃の中で口を開けるなと言った」
「笑ったんじゃない。空がくすぐったんだ」
「空がおまえの鼻に興味を持つものか」
ニマは地図を背中に隠した。
「何してるの」
大男はにっと笑った。前歯が一本欠けていた。
「仕事を探してる。飯つきで、寝床つきで、できれば命の危険なし」
「最後の条件は諦めろ」と痩せた男が言った。
大男は胸を張った。
「俺はバルト。未来の食堂王だ。こっちはセイ。縄を結ぶことと、人を信用しないことにかけては大陸一」
「勝手に肩書きを増やすな」
セイの目は、ニマの背後に隠した地図へ向いていた。
「子どもが立入禁止の灯台で、古地図を見つけた顔をしている」
「そんな顔があるわけ?」
「ある。たいてい、そのあと大人まで巻き込んで、全員ろくな目に遭わない」
バルトが嬉しそうに手を打った。
「つまり仕事だな」
二
バルトとセイは、三日前に南の塩街道で出会ったらしい。
バルトは、北へ行けば廃工場を安く借りられると聞き、そこで煮込み料理の店を開くつもりだった。鍋も金もなかったが、看板の文句だけは決めていた。
――腹いっぱいになれば、昨日よりましだ。
セイは目的地を言わなかった。腰の袋に三本の鉄釘と、半分に割れた木の笛を入れ、夜になると遠くを見る癖があった。
二人は仲間には見えなかった。
バルトは道で見つけたものを何でも拾い、セイは荷物を減らすことばかり考えた。バルトは会った人間を友達と呼び、セイは名前を覚える前に別れたがった。それでもなぜ一緒にいるのかとニマが尋ねると、バルトは「道が同じだから」と答え、セイは「こいつが俺の毛布を持っているから」と答えた。
地図を見せると、セイはしばらく黙った。
「この結び目の印を知っている」
坑道の入口に描かれた、八の字を二重にした印を指す。
「古い船渠の合図だ。水門を開ける順番を示している」
「船乗りだったの?」とユーン。
「綱工だった。船がまだ地上を走っていたころの綱を、ほどいて売る仕事だ」
「泥の下に船があると思う?」ニマが訊いた。
「あると思えば行くのか」
「思わなくても行く」
セイは口の端をほんの少し上げた。
「それなら、俺の答えは要らない」
取引はこう決まった。
バルトとセイは子どもたちを地下へ連れていく。見つかった金銀の半分を二人が受け取る。潮の心臓だけは船底町のもの。誰かが怖くなったら、全員で引き返す。
最後の条件を言ったのはセイだった。
「一人が怖がっただけで?」ラトが聞き返した。
「怖がっている人間を置いていけば、次に置いていかれるのはおまえだ」
ニマは、セイがそれを誰から学んだのか気になった。しかし尋ねなかった。
坑道の入口は、干上がった船溜まりの底にあった。夕暮れ、六人は縄、蝋燭、乾パン、ココの道具袋、バルトの空鍋を持って泥の平原へ降りた。
「なぜ鍋を持ってくるの」とニマ。
「宝を見つけたとき、兜として必要になるかもしれない」
「煮込みは?」
「その次だ」
干上がった泥には、巨大な波紋が石のように固まっていた。桟橋の影は長く、空の海では魚群が西へ流れていた。ときおり、空から落ちた塩粒が甲冑に当たるような音を立てた。
地図の印の場所に、半ば埋もれた鉄扉があった。
ココが蝶番へ油を差し、バルトとセイが持ち上げる。冷たい空気が吹き出し、地の底から、忘れられた雨の匂いがした。
階段は暗闇へ続いていた。
「錆釘団、出航」
ニマが言った。
「船はないぞ」とラト。
「だから探すんでしょ」
彼らは降りていった。
三
地下の旧船渠には、水の代わりに影が溜まっていた。
壁には海獣の骨が埋まり、天井からは石化した海藻が垂れている。蝋燭を掲げると、魚の化石が泳ぐように明滅した。
最初の水門は、三つの輪を正しい順に回す仕掛けだった。ラトが地図を読み、セイが結び目の印を解き、バルトが錆びついた輪へ全体重をかけた。三つ目を回した瞬間、床が割れ、六人は傾いた石板を滑り落ちた。
落ちた先には、底の見えない縦穴が口を開けていた。
セイが投げた縄が梁へ巻きつき、先頭のニマの腰をバルトが掴んだ。バルトの長靴が石を削り、ラトとココがその脚へしがみつく。ユーンだけが鍋の取っ手にぶら下がった。
「兜じゃなかったの!」ニマが叫んだ。
「取っ手として役に立った!」
全員を引き上げたあと、セイは縄の結び目を確かめた。指先が震えていた。
「怖い?」ユーンが聞いた。
「当然だ」
「大人でも?」
「大人は怖くないふりが上手いだけだ」
ユーンは感心したように頷いた。
第二の区画には、石でできた魚の群れが並んでいた。口の中に金の歯車が見える。ココが一匹へ近づくと、魚の目が赤く光った。
「触るな」とセイ。
「もう触った」とココ。
百匹の石魚が一斉に口を開いた。
矢の代わりに、細い骨針が飛んできた。六人は魚列の間を走った。ニマは盾代わりに地図筒を掲げ、ラトは道を間違え、ココは笑いながら走り、バルトは鍋を頭にかぶった。
行き止まりだった。
「ラト!」ニマが怒鳴る。
「地図では道がある!」
「壁しかない!」
ユーンが壁に耳を当てた。
「向こうが空洞」
バルトが鍋を脱ぎ、壁へ体当たりした。一度。二度。三度目に石積みが崩れ、六人は粉塵と一緒に隣室へ転がり込んだ。骨針が壁へ雨のように突き刺さった。
「命の危険なしって言ったのに」とバルト。
「誰が言った」とセイ。
「俺だ」
隣室は古い食堂だった。
長机には皿が並び、椅子には人の形をした塩の塊が座っている。誰かが最後の食事をしている途中で、世界ごと干上がったようだった。
バルトは塩の人々を一人ずつ見た。
「店を開いたら、椅子はもっと近く置く」
「なぜ?」とココ。
「客同士の話が聞こえるからだ。飯は腹に入れば消えるが、隣のやつの話は、ときどき残る」
「知らない人と話したくない客もいる」
セイが言うと、バルトは少し考えた。
「じゃあ端に一人席を作る。おまえの席だ」
「行くとは言ってない」
「来ないとも言ってない」
セイは返事をしなかった。
食堂の奥に、青銅の扉があった。中央に鐘が吊られている。しかし撞木がない。
地図には、こう記されていた。
――六つの重さを一つにし、最後の鐘を鳴らせ。
「六人で引くんだ」とニマ。
鐘から伸びた六本の細い鎖を、それぞれが握った。
「せーの!」
引いても鐘は動かなかった。
「重さを一つにするって、力を合わせることじゃないのかも」とラト。
ココが鎖を調べた。
「長さが違う。背の高さに合わせて持つ場所を変えたら?」
セイが頷いた。
「重さを揃えるんじゃない。張りを揃える」
六人は位置を変え、鎖が同じ音を出すまで少しずつ握り直した。
今度は鐘が動いた。
ごうん。
音は耳ではなく、足の裏から入ってきた。
ごうん。
塩の人々の輪郭が崩れ、白い霧になった。
ごうん。
青銅の扉が左右へ開いた。
向こうには、夜があった。
四
地下にあるはずの空洞には、星空が広がっていた。
足元には黒い水。頭上にも黒い水。そのあいだを、細い桟橋が真っすぐ伸びている。星々は水面の上と下に同じように瞬き、どちらが空か分からなかった。
桟橋の先に、白い帆船が停泊していた。
船体は月の骨から削り出したように淡く、三枚の帆は風もないのに膨らんでいる。帆には無数の縫い目があり、よく見ると一つ一つが文字だった。誰かの名前、誰かが忘れた約束、誰にも届かなかった手紙の書き出し。
船首には女の像があった。両手で目を覆い、口だけが微笑んでいる。
「本当にあった」とラトが呟いた。
ニマは答えられなかった。
船を見つけた喜びより先に、懐かしさが胸を締めつけた。乗ったことなどないのに、ずっと前からこの船を待っていた気がした。
桟橋の中央に、人影が立っていた。
白い仮面をつけた小柄な人物だった。年齢も性別も分からない。外套の裾が水に溶けている。
「六人」
その声は、遠くの波のようだった。
「最後の鐘は、いつも必要な数だけ客を連れてくる」
「あなたが船長?」ニマが聞いた。
「船長は、行き先を知っている者の名だ。この船に、そのような者はいない」
「潮の心臓はどこ?」
仮面の人物は、船の中央を指した。甲板の下で、青白い光が脈打っている。
「船の中にある。しかし、あれは宝ではない。航路だ」
「町に水が必要なの」
「水は、どこにでもある。空にも、石にも、泣けない者の胸にも。ただ、帰る道を忘れている」
ラトが一歩前へ出た。
「どうすれば持ち帰れる?」
「この船は、帰るべき岸を示す。乗る者は一つ、重すぎる記憶を帆へ縫いつける。それが風になる」
「記憶を失うの?」ユーン。
「失わない。ただ、それに引かれて同じ場所を回り続けることがなくなる」
セイが踵を返した。
「戻るぞ」
「ここまで来たのに?」ニマは彼の前へ回り込んだ。
「話が違う。宝を拾って帰るだけじゃない」
「怖くなったら全員で帰るって言った」とラト。
ニマは唇を噛んだ。町の布告、母が毎朝汲む濁った井戸水、取り壊される家々が頭に浮かぶ。
「……本当に、帰りたい?」
セイは白い船を見た。船ではなく、その向こうの何かを。
「俺は、こういうものが人に見せる夢を知っている」
「前にも乗ったの?」
「乗らなかった。だから、まだ生きてる」
バルトがセイの隣へ立った。
「俺は行く」
「おまえは何でも面白がる」
「面白いからじゃない。あの町の連中は、今夜俺たちに豆のスープを分けた。六日後には家を失う。借りは返す」
「三日前に会った町だぞ」
「三日前に会ったやつを助けちゃいけないのか?」
セイは目を伏せた。
ニマは言った。
「一人が怖がったら、全員で戻る約束だった。だから、セイが戻るなら戻る」
言葉にすると、胸が裂けそうだった。それでも、約束は地図より大切だと、なぜか思った。
長い沈黙のあと、セイは肩の綱をほどいた。
「乗る。ただし、船が嘘をついたら帆を切る」
仮面の人物が、笑ったように首を傾けた。
「船は嘘をつかない。人が、自分に都合よく航路を読むだけだ」
六人は乗船した。
甲板へ足をつけた瞬間、船は桟橋を離れた。
帆が膨らみ、地下の星空を滑り出す。背後で青銅の扉が閉じ、灯台へ続く世界は小さな点になった。
仮面の人物が針と白い糸を差し出した。
「一人ずつ、風を」
最初はココだった。
「お父さんの工房が燃えた夜」
彼女はそう言って糸を帆へ通した。
「火を消せなかったことじゃない。逃げるとき、工具箱を取りに戻って、お父さんの手を離したこと。お父さんは助かった。でも私は、何かを直そうとするたび、あの手を離す」
糸が銀色に光り、帆に新しい一行が刻まれた。
ラトは、母が町を出ていった朝を縫いつけた。見送りに行かなかったことを、ずっと母への罰だと思っていたが、ほんとうは自分が捨てられたと認めたくなかったのだと言った。
ユーンは、死んだ姉の声を忘れかけていることを。
ニマは、父が空潮炉の事故で死んだ日、最後に喧嘩をした言葉を。父が帰れば謝るつもりだったから、謝れないままの自分だけが十四歳になってもあの日に残っていることを。
バルトは針を受け取ると、しばらく頭を掻いた。
「俺には重い記憶なんてない」
「嘘だ」とセイ。
「未来の食堂王に過去は不要だ」
セイは彼を見た。
バルトの笑顔が少しずつ崩れた。
「……冬の渡し場で、弟を置いてきた」
誰も口を挟まなかった。
「腹が減ってた。二人で盗んだパンを、俺が全部持って逃げた。捕まるのは足の遅い弟だと分かってた。翌年戻ったが、渡し場は洪水でなくなってた。だから店を開く。腹いっぱいなら、誰も弟を売らないと思いたい」
彼は太い指で針を持ち、帆へ不器用な縫い目を残した。
最後にセイの番が来た。
「ない」
「あるだろ」とバルト。
「人に話す義理はない」
船が止まった。
帆が萎み、黒い水から白い手がいくつも伸びて船縁を掴んだ。
仮面の人物が言った。
「六人で鳴らした鐘は、六人の風を求める」
セイは針を握ったまま動かなかった。
白い手が甲板へ這い上がる。指先がユーンの靴へ触れた。
セイは目を閉じた。
「俺は、綱を切った」
声は低く、乾いていた。
「七年前、空鉱山で昇降籠が落ちた。綱が絡まり、このままなら塔ごと崩れる。籠には十二人いた。地上には百人いた。俺は命令され、十二人の綱を切った」
白い手が止まった。
「正しかったと言う者もいた。ほかに方法はなかったと言う者も。だが籠の中には、笛を吹く女がいた。俺はその女と、北へ行く約束をしていた」
セイは腰の袋から、半分に割れた木の笛を取り出した。
「綱を切った手で、そのあと何を結んでも、全部ほどける気がした。だから誰とも同じ場所へ行かなかった」
針が帆を通った。
風が吹いた。
白い手は水へ沈み、船は矢のように進み始めた。
五
白帆船は、世界の裏側を航海した。
最初に見えたのは、完成した家々の島だった。
すべての屋根は新しく、窓には灯りがあり、食卓には温かい料理が並んでいた。岸辺では、船底町の人々がニマたちへ手を振っている。ニマの父もいた。作業着の袖をまくり、いつものように不器用な笑い方をしていた。
「帰ってきたのか、ニマ」
声まで同じだった。
ニマは船縁へ駆け寄った。
父が両腕を広げる。
「今度は喧嘩しない。ここなら何も壊れない。おまえの部屋もある」
足が、勝手に舷梯へ向かった。
その手首をラトが掴んだ。
「家に扉がない」
言われて、ニマは気づいた。
島の家々には窓だけがあり、扉が一つもなかった。中の人々は笑っている。しかし同じ動作を繰り返し、同じ湯気が何度も皿から立ち上っている。
父も同じ言葉を繰り返した。
「今度は喧嘩しない。ここなら何も壊れない」
ニマは舷梯から離れた。
「ごめん、お父さん。壊れるところに帰る」
島は霧になって消えた。
次は、拍手の森だった。
木々に無数の手が実り、船が近づくと一斉に拍手した。
ココが罠を直せば拍手。ラトが星を読めば拍手。ユーンが遠い音を聞けば拍手。バルトが冗談を言えば地面まで震えるほどの拍手。
森から声がした。
――ここにいれば、誰もおまえを役立たずと呼ばない。
――ここにいれば、失敗は起こらない。
――ここにいれば、一人にならない。
バルトは長いあいだ岸を見つめた。
「食堂を建てたら、客が一人も来ない日もあるだろうな」
「ある」とセイ。
「料理がまずい日も」
「毎日かもしれない」
「おまえ、いま少し楽しんでるだろ」
「少しな」
バルトは森へ背を向けた。拍手はたちまち罵声へ変わった。だが船が進むにつれ、それも風の音に消えた。
三つ目の場所には、青い塔が一本だけ立っていた。
塔の頂上から、木の笛の音が流れてきた。
セイの顔から血の気が引いた。
音は簡単な六小節を繰り返していた。途中で半拍だけ遅れる癖がある。セイは腰の袋を握りしめた。
「彼女だ」
青い塔の窓に、一人の女が現れた。髪を赤い布で結び、半分の笛を掲げている。
「セイ」と女が呼んだ。「綱を結んで。今度は落とさないで」
船が塔へ引かれ始めた。
帆の縫い目が次々にほどける。ニマの父との喧嘩、ラトの母の朝、バルトの弟――差し出した記憶が糸となって塔へ吸い寄せられていく。
セイは斧を掴み、帆柱へ近づいた。
「何するの!」ニマが叫ぶ。
「帆を切れば、ここへ着ける」
「船が落ちる!」
「泳げばいい」
「ここは海じゃない!」
バルトがセイの前へ立った。
「どけ」
「嫌だ」
「おまえには分からない」
「分かるさ。死んだやつに、もう一度だけ選び直させてもらえるなら、何でもする気持ちくらい」
「ならどけ」
「でも、あれはおまえを待ってる彼女じゃない。おまえが自分を罰するために作った岸だ」
セイがバルトを殴った。
大男は倒れ、口の端から血を流した。それでも立ち上がり、今度はセイの手から斧を奪った。
「返せ」
「嫌だ」
「俺が何人落としたと思ってる!」
「十二人だろ。おまえは毎晩十二人と一緒に落ちてる。でも今日は、ここに五人いる」
「六人だ」とユーンが言った。
バルトは一瞬きょとんとし、それから笑った。
「そうだ。俺も数えろ」
塔の女が笛を吹いた。
音が鋭くなり、甲板に亀裂が走る。
セイは膝をついた。
「俺は、どうすればよかった」
誰に尋ねたのか分からなかった。
バルトは隣へ座った。
「分からん。俺は賢くないからな。ただ、戻れない場所を店にしても、飯は出せない」
セイは顔を覆った。
やがて、腰の袋から半分の笛を取り出した。海へ投げようとして、やめた。
「持っていていい」とニマが言った。「重くない持ち方を覚えれば」
セイは笛を握り、立ち上がった。
「帆を直す。全員、糸を押さえろ」
六人はほどけた記憶の糸を掴んだ。
ココが裂け目へ針を通し、ラトが風向きを読み、ユーンが帆柱の軋みを聞く。バルトは綱を引き、ニマは舵を押した。セイが一つずつ結び目を作る。
青い塔が近づく。
女は窓から身を乗り出した。
「セイ。置いていかないで」
セイは泣きながら、最後の綱を結んだ。
「置いていくんじゃない。一緒に行けないんだ」
風が爆発した。
白帆船は塔の脇をすり抜け、黒い波を高く上げた。笛の音が遠ざかり、やがて聞こえなくなった。
船の中央で、潮の心臓が強く脈打った。
六
「追われている」
ユーンが言った。
背後の暗闇から、金属の羽音が近づいていた。
やがて星明かりの中へ、三隻の黒い滑空艇が現れた。空潮炉の試験艇だ。船底に回転翼を備え、泥の上を浮いて走る港務院の機械。
先頭艇の舳先に、銀の外套を着た女が立っていた。
港務監督官ドレゼア。
船底町の接収を命じた本人だった。
「錆釘団のみなさん」
拡声筒を通した声が響く。
「無断侵入、院有地の破壊、遺物の窃取。ずいぶん働きましたね」
「まだ盗ってない!」ココが叫び返した。
「では、これから盗るつもりだったと」
「言い方がずるい!」
ドレゼアの艇から鉤縄が射出され、白帆船の船縁へ食い込んだ。黒い制服の回収兵が十人、縄を渡って乗り込んでくる。
セイが舵をバルトへ押しつけた。
「真っすぐ走らせろ」
「どうやって?」
「曲げなきゃいい」
セイは甲板の綱を切り、輪にして投げた。先頭の兵の脚を絡め、二人目へぶつける。ニマとラトは帆柱の陰へ走り、ココは道具袋から小さな缶を三つ取り出した。
「耳を塞いで!」
缶を投げる。
破裂音と同時に、青い煙と百羽分の鶏の鳴き声が甲板を満たした。兵たちは耳を押さえ、混乱した。
「なぜ鶏?」ラト。
「静かな爆弾は寂しいから!」
ユーンは目を閉じ、煙の中の足音を聞き分けた。
「右に二人。後ろに一人。バルトの前に――」
バルトは鍋を振り上げた。現れた兵の兜を、かあん、と殴る。
「やっぱり持ってきてよかった!」
しかし、ドレゼアはすでに甲板中央へ降り立っていた。
彼女は細身の剣で潮の心臓を覆う格子を切り、青白い石へ手を伸ばした。石は子どもの頭ほどあり、内部で小さな波が渦巻いている。
「触るな!」ニマが飛びかかる。
ドレゼアは身をかわし、ニマの腕を捻って床へ押さえた。
「あなたは、自分の町だけが困っていると思っている」
「離せ!」
「北の精錬区では毎月、井戸が一本ずつ死んでいます。空潮炉が完成しなければ、来年には五万人が水を失う。船底町の二百人を移すことで救えるなら、私は移します」
「だからって、家を奪っていいわけない!」
「家は建て直せる。水は作れない」
ドレゼアは潮の心臓を持ち上げた。
その瞬間、白帆船が悲鳴を上げた。
帆からすべての風が抜け、甲板が大きく傾く。周囲の星空に亀裂が走り、その向こうから灰色の泥が見えた。
船は夢の海から落ち始めた。
回収兵たちは滑空艇へ逃げ戻る。ドレゼアも鉤縄へ向かったが、崩れた帆柱が進路を塞いだ。
「石を戻して!」ニマが叫ぶ。
「戻せば、持ち帰れない」
「このままじゃ全員死ぬ!」
ドレゼアは潮の心臓を抱えたまま動かなかった。目の奥に、計算ではない恐怖が見えた。
仮面の人物が船首に立っていた。
「潮の心臓は航路。奪えば、船は帰る岸を失う」
「町へ持ち帰る方法は?」ニマ。
「船ごと帰す」
「どうやって?」
「行き先を一つにする」
ニマは舵へ走った。
舵輪には六本の把手があった。最後の鐘と同じだ。
「全員、ここへ!」
ラト、ココ、ユーン、バルト、セイが集まった。ドレゼアは潮の心臓を抱えたまま立っている。
「七人いる」とラト。
「鐘を鳴らしたのは六人だ」とセイ。「舵も六人で回す」
「でも石がない!」
船がさらに傾いた。夢の海が剥がれ、下方に泥の平原が広がっていた。はるか上空には、本物の空の海が青黒く揺れている。
落下の風の中、ニマはドレゼアへ手を伸ばした。
「一緒に回して」
「私は鐘を鳴らしていない」
「いま鳴らせばいい!」
「鐘は地下に――」
ユーンが首を振った。
「あるよ」
彼は船の音を聞いていた。
「潮の心臓の中。ずっと鳴ってる」
ドレゼアは腕の中の石を見た。
青い渦の奥で、小さな鐘が揺れていた。
ごうん。
音が甲板を震わせる。
ドレゼアの顔から、監督官の仮面が消えた。
「私は」と彼女は言った。「空潮炉の最初の事故で、妹を失った。炉が完成すれば、あの死に意味があったと思える。だから止められなかった」
「それを帆に縫うんだ!」ココが針を投げた。
ドレゼアは受け取り、銀の外套を裂いた。布を白帆の亀裂へ重ね、妹の名を一針ずつ縫った。
潮の心臓が彼女の腕を離れ、空中へ浮いた。
石は船の中央へ戻り、格子の中へ収まった。
風が戻った。
だが船はなお落ち続ける。舵の把手は六本、回す手は七人。
バルトが舵から手を離した。
「俺は帆へ行く」
「一人じゃ支えられない!」セイが叫ぶ。
「未来の食堂王は腕が太い」
バルトは倒れかけた帆柱へ走り、全身で綱を引いた。
六人が舵を握る。ニマ、ラト、ココ、ユーン、セイ、ドレゼア。
「行き先を!」仮面の人物が叫ぶ。
ニマは船底町を思い浮かべた。
継ぎはぎの屋根。濁った井戸。母の焼く固いパン。すぐ喧嘩する隣人。父のいない部屋。直してもまた壊れる壁。
完成していない家。
「ラレクへ!」
舵が回った。
白帆船は落下しながら船首を上げた。
地上が迫る。黒い桟橋、灯台、船底町。人々が空を見上げている。滑空艇が左右へ逃げる。
「上がれ!」セイが叫ぶ。
バルトの足元で甲板が割れた。
帆柱が倒れ、彼の体が船外へ投げ出される。
セイは舵から手を離し、跳んだ。
「五人になる!」ラトが叫んだ。
ドレゼアが空いた把手へ両手をかける。もともと一本を二人で持っていたニマが、隣の把手へ移る。
六つの重さが、再び一つになった。
セイは船縁から身を乗り出し、片手で縄を掴み、もう片方でバルトの手首を掴んでいた。
「離せ!」バルトが叫ぶ。「おまえまで落ちる!」
「怖がってるやつを置いていくなと言ったのは俺だ!」
「俺は怖がってない!」
「嘘をつけ!」
ニマたちは舵を押した。
白帆船の船底が泥の平原へ触れた。
泥が波になった。
百年動かなかった大地が、海のように盛り上がり、船を受け止めた。白い船は桟橋のあいだを滑り、灯台の周囲を一周し、船底町の中央広場へ向かう。
セイが最後の力でバルトを引き上げた。
二人は甲板に倒れたまま、しばらく動かなかった。
「毛布」とセイが息を切らしながら言った。
「何だ」
「おまえが持っている俺の毛布。あれを返すまで死ぬな」
バルトは笑った。
「店へ来たら返す」
白帆船は広場へ乗り上げ、ゆっくり止まった。
潮の心臓が、最後に大きく脈打った。
その鼓動は地面へ伝わり、町の下を走るすべての古水路を目覚めさせた。
七
最初の水は、灯台の井戸から溢れた。
透明だった。
人々は声を上げ、桶を持って走った。水は路地を流れ、白い塩を洗い、干上がった船溜まりへ注いだ。泥の平原に細い川が生まれ、百年眠っていた貝が口を開いた。
次に、空の海から雨が降った。
塩ではない、本物の雨だった。
子どもたちは口を開けて空を向き、大人たちは濡れることを忘れたように立ち尽くした。屋根という屋根が鳴り、船底町は巨大な楽器になった。
港務院の兵たちは、命令を待ってドレゼアを見た。
彼女は濡れた銀の外套を脱ぎ、赤い接収布告の上へ置いた。
「空潮炉計画は停止します」
「監督官」と副官が慌てた。「五万人の水は」
「この船の水路を調べる。奪って一つの炉へ閉じ込めるのではなく、帰る道を増やす」
彼女はニマを見た。
「船底町の接収命令も撤回します。ただし、旧船渠への無断侵入と港務院艇三隻の損壊については――」
「損壊したのは一隻半」とココ。
「二隻です」
「一隻は最初から変な音がしてた」
ドレゼアは初めて笑った。
「報告書には、一隻半と書いておきましょう」
白い船は、もう動かなかった。
帆の文字は雨に滲み、船体は少しずつ普通の木の色へ変わっていった。船首にいた仮面の人物も消えた。ただ、目を覆った女の像だけが残り、前よりわずかに深く微笑んでいた。
潮の心臓は船の奥で静かに鼓動し続けた。
六日後、第七鐘の日。
取り壊しの代わりに、船底町では大工仕事が始まった。白帆船を共同井戸と集会所へ作り替えるためだった。
バルトは船倉を見て、ここを食堂にすると宣言した。
「鍋が一つしかない」とラト。
「一つあれば始められる」
「金は?」
「最初の客が払う」
「料理は?」
「豆を煮る」
「豆は?」
バルトは黙った。
ニマの母が、乾燥豆の袋を一つ投げてよこした。
「町を救った代金。これで足りるかい、食堂王」
その日の夕方、船倉に長机が並んだ。
椅子は近く置かれ、端に一つだけ離れた席が作られた。だがセイはその席に座らず、厨房の入口で新しい綱棚を吊っていた。
「北へ行かないの?」ニマが訊いた。
セイは結び目を締めた。
「道が変わった」
「バルトと一緒に店をやる?」
「俺は棚を作っただけだ」
厨房からバルトの声が飛んだ。
「共同経営者、塩を取ってくれ!」
「誰が共同経営者だ」
「端の一人席、片づけてもいいか?」
セイは少し考えた。
「一つは残せ。知らない人と話したくない客もいる」
「了解、共同経営者」
「その呼び方をやめろ」
ニマたちは甲板へ上がった。
ラトは新しい地図を広げていた。地下水路から北の精錬区へ線を引き、ドレゼアの調査隊が見つけた分岐を書き足している。ココは雨量を測る機械を作り、ユーンは船体へ耳を当てていた。
「何か聞こえる?」ニマ。
「遠くで鐘」
「また船が来るのかな」
ユーンは首を傾けた。
「違う。たぶん、行った船の音」
空を見上げると、海はまだそこにあった。
青黒い水が雲より高くたゆたい、魚の腹が夕星のあいだを銀色に横切っている。世界は一晩で直ったわけではない。明日にはまた井戸が濁るかもしれない。港務院と喧嘩になるかもしれない。船底町の屋根は相変わらず継ぎはぎで、風が吹けば町全体が軋んだ。
けれど今、その軋みに混じって、食器の鳴る音と笑い声が聞こえた。
バルトの煮込みは塩辛すぎた。
セイは文句を言いながら二杯食べた。
ニマは、帰るべき岸というものが、最初からどこかに用意されているわけではないのだと思った。
泥の上に船を置き、壊れた板を繋ぎ、誰かのために椅子を残す。
そうして人は、岸を作るのだ。
夜、白い帆が一度だけ風もないのに膨らんだ。
帆のいちばん新しい縫い目に、見覚えのない一行が浮かんだ。
――行き先を失った者へ。灯りのある船を探せ。
ニマが瞬きをすると、文字は消えていた。
船倉の窓から、黄色い灯りが泥の平原へ伸びていた。
その先には、まだ地図にない道があった。
了