『白紙病棟』
――あるいは、犯人が生まれるまで
この記録には、いくつかの事実がある。
第一に、雪の夜、鍵のかかった保護室で一人の医師が死んだ。
第二に、病棟にいた全員が、その死について告白した。
第三に、どの告白も嘘ではなかった。
したがって、これから記すのは犯人を捜す話ではない。
犯人が必要になったために、ひとりずつ犯人へ作り替えられていった話である。
〇 白衣
鍵をかける音は、旧北病棟では句読点だった。
鉄扉が閉まるたび、会話がいったん終わる。次の扉が開くまで、誰もその先を口にしない。県立七曲司法精神医療センターの敷地のいちばん奥、杉林と古い焼却炉に挟まれた二階建ての病棟は、六日後に閉鎖されることになっていた。
二月十六日、午後四時。雪は朝から降り続き、窓の外を白い雑音に変えていた。
私は中央鑑定室から派遣された精神科医、名取周として、冴木玲二の責任能力を再評価するためにそこへ来た――少なくとも、そのときの私はそう信じていた。
冴木は四十三歳。十一年前、同居していた男を刺殺した罪で服役し、その後、刑務所内で三人の受刑者と一人の刑務官に「告白」をさせた。彼らは誰にも知られていない罪を語り、二人は自死を試み、一人は語った罪が存在しなかったことを後に証明された。
冴木が脅した形跡はなかった。
薬物も、暴力も、秘密の取引もなかった。
彼はただ相手の言葉を繰り返しただけだ、と記録にはある。
そのため新聞は彼を〈告白屋〉と呼んだ。冴木自身は、その呼び名を嫌っていた。
「店を開いた覚えはないので」
最初の面接で、彼はそう言った。
面接室の机は床に固定され、椅子の脚も鎖でつながれていた。冴木は患者衣の袖口をきちんとそろえ、私の白衣の胸元を見ていた。
「名取先生。人を殺したことはありますか」
「ない」
「では、今夜が初めてですね」
私は記録用のペンを止めた。
「誰が死ぬ」
「佐久間先生です」
旧北病棟の責任者、佐久間義彦。五十九歳。白髪を短く刈り、声を荒らげずに人を従わせる男だった。病棟の閉鎖後は本館の副院長になる予定だと聞いていた。
「誰が殺す」
「あなたです」
冴木は、そこで初めて私の顔を見た。
「正確には、あなたが一人に決める」
私は面接を打ち切った。
廊下へ出ると、佐久間が待っていた。彼は私の記録を受け取ろうともせず、雪で曇った窓を眺めたまま言った。
「冴木は、質問の形をした鏡です。覗き込みすぎないほうがいい」
「私をここへ呼んだのは、あなたでしょう」
「ええ。あなたでなければならなかった」
その言い方が気になった。
「以前、お会いしましたか」
佐久間は振り返り、私の白衣の肩を軽く払った。雪などついていなかった。
「白衣は便利ですね。着た者の過去まで白く見せる」
答えになっていなかった。
旧北病棟には、冴木を含めて四人の患者がいた。
大貫庄三、七十二歳。元錠前師。あらゆる扉には秘密の開け方があると信じ、実際に何度か保護室から出てきたことがある。
早瀬紗久、三十一歳。ほとんど言葉を発せず、不要になった診療記録を折って蛾を作る。彼女の病室の天井には、白い蛾が百匹近く吊られていた。
田口道夫、六十六歳。自分はこの病院の元院長だと主張している。患者記録には「誇大妄想」とあったが、職員食堂の献立や古い配管の位置を、誰より正確に知っていた。
そして冴木。
職員は、主任看護師の御薬袋芳江と、夜勤の看護補助者が一人。補助者は大雪で出勤できず、その夜は御薬袋がほぼ一人で病棟を見ていた。
病棟の端には、番号の剥がされた保護室があった。扉に丸い糊跡だけが残っているため、皆はそこを「〇号室」と呼んだ。
案内の途中、私は〇号室の壁に細い引っかき傷を見つけた。
ひらがなで、三文字。
さむい。
「患者の落書きですか」
私が尋ねると、御薬袋は一瞬だけ足を止めた。
「古い壁ですから」
それだけ言って、次の扉を閉めた。
鍵の音がした。
話はそこで終わった。
一 二時十七分
夜半を過ぎると、雪の重みで送電線が切れた。
非常灯が点き、病棟は水の底のような薄緑色に沈んだ。暖房は止まり、配管がときどき腹の鳴るような音を立てた。
私は当直室で冴木の資料を読んでいた。
彼の面接記録には、奇妙な共通点があった。冴木と話した者は、最後には必ず「自分がした」と言う。しかし何をしたのかは、面接者によって違っていた。盗み、見殺し、虚偽、裏切り。冴木は罪を教えない。相手が自分で、もっとも似合う罪を持ち出す。
午前二時九分。
廊下のどこかで、扉を叩く音がした。
三回。
少し間を置いて、一回。
私は顔を上げた。
面接を終える直前、冴木が言っていた。
「死にかけた人間は、三回叩いてから一回休むそうです。助けを呼ぶというより、自分がまだ四つ数えられると確かめるために」
また、三回。
間。
一回。
私は立ち上がりかけたが、やめた。
予告を聞いた直後に音へ反応すること自体が、冴木の誘導に思えた。病棟では配管も扉も鳴る。私は記録へ視線を戻した。
午前二時十七分。
非常ベルが一度だけ短く鳴り、止まった。
その直後、御薬袋が当直室へ駆け込んできた。
「佐久間先生がいません」
私たちは廊下を走った。
〇号室の表示灯は赤かった。御薬袋は赤を見て息を呑み、非常用カードを端末に当てた。端末は拒否音を返した。
「内側から施錠されています」
「保護室に内鍵があるのか」
「昔の設備が残っているんです」
小窓の曇りを袖で拭った。
佐久間は、部屋の中央に置かれた拘束椅子に座っていた。
頭を垂れ、両腕を肘掛けに載せている。首には白い固定帯が食い込み、床には使い終えた注射器が一本落ちていた。
壁に黒い文字があった。
正常 一名
私は何度も小窓を叩いた。返事はない。
御薬袋が配電盤から磁気錠を落とし、私は肩で扉を押した。重い扉が開いた。
室内は廊下より冷えていた。
佐久間の頬は白く、口がわずかに開いていた。私は頸動脈へ指を当てた。脈はなかった――そう記憶している。
ただ、後になって何度思い返しても、私は彼の顔をはっきり思い出せなかった。
目を閉じていたのか。
開いていたのか。
眼鏡をかけていたのか。
そもそも、顔を見たのか。
「口に何かあります」
御薬袋が言った。
佐久間の唇の間に、細く折られた紙が挟まっていた。私はピンセットで引き出した。
紙には、佐久間の筆跡でこう書かれていた。
問診の順番を守れ。
鍵。
薬。
顔。
名前。
あなた。
その下に、空欄が一つあった。
犯人 ________
病棟の外線は不通だった。非常回線で本館へ連絡はついたが、警察が除雪車とともに到着するまで数時間かかるという。
「現場を保存しましょう」
私は言った。
御薬袋は紙の順番を見たまま、低く答えた。
「やれと書いてあるなら、佐久間先生は死んでも佐久間先生です」
「これは捜査ではない」
「では、治療ですか」
彼女は笑わなかった。
「この病棟では、その二つは昔からよく似ています」
二 鍵の告白
最初は大貫庄三だった。
彼は談話室で、壊れた南京錠を分解していた。私が佐久間の死を告げても、驚かなかった。
「〇号室だろう」
「なぜわかる」
「あそこは、人が死ぬために残してある部屋だからだ」
大貫は小さなバネを指先で転がした。
「扉は内側から施錠されていた。あなたに開けられるか」
「開けたさ」
彼は即座に言った。
「今夜?」
「今夜も、十三年前も」
大貫は患者衣の裾から細いナイロン糸を出した。釣り糸ほどの太さだった。
「昔の〇号室には、換気口の裏に非常解錠の腕木があった。糸を通し、輪を引っかける。外から開けて、閉めたあと、もう一度引く。記録には何も残らん」
「あなたが佐久間を殺したのか」
「わしが扉を開けた。あとは誰でも入れる」
「誰が入った」
「それを一人に決めるのが、先生の仕事なんだろう」
私は糸を受け取った。先端に小さな鉛の輪が結ばれていた。
「十三年前、何があった」
大貫の指が止まった。
「四十二号が入れられた」
「名前は」
「美緒だったと思う」
「患者か」
「人間だ」
大貫は顔を上げた。
「患者だったかと聞くな。あの晩、みんなそれを聞いた。患者なら閉じ込めてよい。患者なら叫びは症状だ。患者なら寒いと言っても、体感の異常だ」
当時、大貫は病棟の看護補助者だった。四十二号は興奮していると判断され、〇号室のベッドへ固定された。佐久間はまだ若い医師で、拘束の継続を指示した。御薬袋が鎮静薬を打ち、当直責任者が承認した。
「わしは鍵をかけた。夜中にあの子が、寒い、寒いと呼んだ。開けようと思えば開けられた。だが、鍵というものはな、入れないためにあるんじゃない」
大貫は、分解した錠前を掌で覆った。
「開けなくて済むようにある」
朝、四十二号は死んでいた。
死因は、衣服の一部を用いた自傷による窒息と記録された。大貫は半年後に退職し、その三年後、駅や学校の非常口を片端から開けて回って保護された。診断名は「施錠に関する妄想性障害」。彼は自分からこの病棟を希望したという。
「今夜、わしは〇号室を開けた。だから、わしが殺した」
「糸を使った痕跡はない。換気口は金網で塞がれている」
「今の話を聞くまで、先生は金網を調べていなかった」
大貫は笑った。
「ほら。告白が証拠を作った」
私は〇号室へ戻り、換気口を確認した。
金網はネジで固定され、埃も乱れていなかった。糸を通せる隙間はない。
ただし壁の中から見つかった古い設備図には、たしかに非常解錠用の腕木が描かれていた。
可能だった。
今夜でなければ。
三 薬の告白
御薬袋芳江は薬品庫にいた。
棚の薬剤を一本ずつ数え、台帳と照合していた。佐久間の死体はまだ〇号室にあり、白いシーツをかけられていた。
「床の注射器は何です」
「短時間の鎮静薬です」
「佐久間先生が自分で?」
「私が用意しました」
御薬袋は台帳を閉じた。
「今夜、佐久間先生は訓練をすると言いました。拘束された患者が、どこまで声を上げずに耐えられるか。自分で試すと」
「そんな訓練を認めたのか」
「ここでは、認めるという言葉は、あとから書類に印刷されるものです」
彼女は二本の空アンプルを並べた。
「鎮静薬と、その作用を打ち消す薬。本来は両方を渡すはずでした。でも私は、二本目を生理食塩水に替えました」
「なぜ」
「怖がらせたかった」
御薬袋の声は平らだった。
「十三年前、あの人は一度も怖がらなかった。四十二号の呼吸が浅くなっても、記録を続けろと言った。死んだあとも、観察手順に問題はなかったと言った。だから、ほんの数分だけ、自分が助けを呼んでも誰も来ない時間を知ればいいと思った」
「殺すつもりだった?」
「殺すつもりがなければ、殺したことにならないんですか」
彼女は私を見た。
「先生方は、いつもそこから始めますね」
十三年前、御薬袋は新人看護師だった。
四十二号には規定量を超える鎮静薬が投与された。最初の注射をしたのは御薬袋。追加を命じたのは佐久間。承認欄に署名したのは当直責任者。投与後の観察記録は、翌朝まとめて書かれた。
「彼女の名前は茜でした」
「大貫さんは美緒だと言った」
「大貫さんは、いつも誰かを美緒と呼びます」
「どちらが本名だ」
「本名が死因を変えますか」
御薬袋はアンプルを廃棄箱へ落とした。
「今夜、佐久間先生を見つけたとき、〇号室の表示灯は何色でした」
「赤です」
「私は緑だったと覚えています」
「赤だった」
「非常電源に切り替わると、赤は解錠です。通常電源では赤が施錠。設備更新のとき、表示だけ直さなかった」
私は返事ができなかった。
「扉は、最初から開いていたのか」
「私はそう覚えています。でも先生が『鍵がかかっている』と言ったので、カードを当てました。すると本当に開かなかった」
「私の言葉に従った?」
「ええ」
御薬袋は、空になった台帳の頁を指で撫でた。
「病棟では、医師が『閉まっている』と言えば、開いている扉も閉まります」
四 顔の告白
早瀬紗久は、娯楽室の床に座っていた。
停電でテレビは消え、窓の外の雪明かりだけが室内を照らしていた。彼女は白い紙を折っていた。細い指が二度、三度と紙を返すと、一匹の蛾ができた。
私が向かいに座ると、紗久はメモ用紙へ書いた。
死体の顔を見ましたか。
「見た」
すぐに次の紙が差し出された。
描いてください。
「絵は苦手だ」
目、鼻、口。簡単な線でよいはずだった。だがペン先は紙の上で止まった。
佐久間の眉は太かったか。
鼻は曲がっていたか。
唇は薄かったか。
私は毎日ではないにせよ、彼と何度も話した。夕食時にも向かいに座った。それなのに、〇号室の椅子にいた男の顔だけが、白い染みのように抜け落ちている。
「シーツをかける前に確認した」
紗久は首を振った。
していない。
「した」
あなたが触ったのは、あなたの手首です。
私は強く否定しようとした。その前に、紗久は折りかけの紙を開いた。
古い診療記録だった。
紙は黄ばみ、何度も折られた筋が走っている。上部に〈患者番号四十二〉。氏名欄は黒く塗り潰されていた。
下部には、若い実習生の所見があった。
〈訴えは演技的で、緊急性に乏しい印象。環境調整を優先してよいと思われる〉
署名は、名取周。
私の字だった。
「これは偽造だ」
紗久は別の紙を出した。医学生の実習名簿。十三年前の日付。そこにも私の名があった。
記憶が、匂いから戻った。
消毒液。
煮すぎた白菜。
濡れた毛布。
私は二十一歳で、二週間だけ旧北病棟に実習へ来た。
夜、廊下を通ったとき、壁の向こうから「寒い」と聞こえた。私は御薬袋に尋ねた。御薬袋は、患者は不安が強いと体感温度を誤る、と答えた。佐久間は、訴えの内容ではなく訴え方を観察しなさい、と教えた。
私は〇号室を覗いた。
固定帯の間から、若い女がこちらを見ていた。
目が合った。
それでも私は所見に「演技的」と書いた。
翌朝、実習は中止になった。大学には急変による死亡とだけ伝えられた。私はその後、長いあいだ眠れなくなり、旧北病棟の記憶を「見学した古い施設」の一言に畳んだ。
紗久は、四十二号の記録を一枚ずつ折って蛾にしていた。
「なぜ持っている」
彼女は初めて声を出した。
「捨てる紙だって、言ったから」
かすれた、小さな声だった。
「みんな、捨てる紙は見ない。だから折れば、残る」
紗久は十三年前、〇号室の隣に入院していた。壁越しに「寒い」を聞き続けた。朝になって職員が慌ただしく行き交う間、廃棄箱から記録を拾った。以来、一言も話さなくなったとされている。
「今夜の死体は、誰だった」
私は尋ねた。
紗久は新しい紙に顔を描いた。
右半分は佐久間に似ていた。
左半分は私に似ていた。
目だけが若い女のものだった。
その下に、彼女は書いた。
顔を見ないで、名前をつけた人。
五 名前の告白
田口道夫は食堂で蜜柑を剥いていた。
「冷えると甘くなるんですよ」
彼は半分を私に差し出した。私は受け取らなかった。
「あなたは、この病院の元院長だと言っているそうですね」
「言っているのではなく、言われなくなっただけです」
田口は白い筋を丁寧に取り除いた。
「十三年前の当直責任者は、あなたですか」
「責任者というのは、責任を持つ人ではありません。責任がどこへ行ったか、最後に署名する人です」
「四十二号の本名を知っている?」
田口の手が止まった。
「一つではありませんでした」
保護入院の手続きに不備があり、四十二号は転院のたびに仮名を与えられていた。家族との紛争、保護命令、未整理の戸籍。記録には〈美緒〉、〈茜〉、〈篠崎ユキ〉という三つの名が残り、どれが本人の名か確定しないまま死亡した。
「死んだあと、遺族へ連絡できなかった。だから私は、身元不明として処理した」
「院長として?」
「院長として」
「患者記録には、あなたは元市役所職員だとある」
「病院の記録は、人を病院に都合よくするための文章です。元院長より元市役所職員のほうが、私をここへ置いておきやすい」
田口は胸元から古い写真を出した。
開院記念式典の集合写真だった。中央に若い田口が立ち、その一列後ろに佐久間がいた。裏には〈院長 田口道夫〉と印刷されていた。
「四十二号の件を公表しようとしたんですか」
「いえ。最初は隠しました」
田口はあっさり言った。
「病棟を守るため。職員を守るため。治療への信頼を守るため。守るものを並べると、人間はいつも最後になります」
数年後、田口は内部資料を持って告発しようとした。しかしそのころには、彼自身が「罪責感を伴う妄想状態」と診断されていた。診断したのは佐久間だった。
「本当に病気だったのかもしれませんよ」
田口は蜜柑を一房、口に入れた。
「自分の署名で人が消えたと知って、平気でいるほうが正常なら、私は病気でよかった」
「佐久間を殺した?」
「私が佐久間を作りました」
田口は言った。
「若い医師に教えたんです。事故には原因を一つだけ与えろ。報告書は読みやすくしろ。責任の所在を明確にしろ。人間を一人選び、その人の性質にしてしまえ、と」
四十二号は〈衝動的な自傷〉になった。
大貫は〈施錠への妄想〉になった。
御薬袋は〈手順を守った看護師〉になった。
紗久は〈発語のない患者〉になった。
田口は〈誇大妄想の老人〉になった。
「佐久間は、私の教えをいちばん忠実に守った。だから今夜、私が殺したと言っても、間違いではない」
田口はポケットから小さな真鍮の鍵を出した。
「記録庫です。佐久間先生は、あなたが四人の話を聞き終えたら渡せと言いました」
「なぜ私に」
「あなたが最後の患者だからでしょう」
私は鍵を受け取った。
「私は医師です」
「ええ」
田口は穏やかに頷いた。
「この病棟で、いちばん長く続く症状です」
六 あなたの告白
冴木玲二は、面接室の医師側に座っていた。
私は注意しなかった。あるいは、注意したが、椅子を替わらせなかった。
「順番どおりですね」
冴木は私の前に、佐久間の紙と同じ形の空欄を置いた。
「鍵。薬。顔。名前。次は、あなた」
「佐久間に何をした」
「何をしたと思います」
「質問に質問で返すな」
「私は質問していません。先生の言葉を返しています」
冴木は机に両手を置いた。
「推理というのは、引き算です。現場から無関係な人間を一人ずつ消し、最後に残った人へ死体を渡す。診断もよく似ている。家族を消し、職場を消し、貧困を消し、恐怖を消し、最後に残った仕草へ病名をつける」
「講義はいい」
「では、告白を」
「お前の?」
「先生の」
私は笑ったつもりだった。喉が乾いて、音にならなかった。
冴木は言った。
「十三年前、壁の向こうから何が聞こえました」
「寒い、という声だ」
「誰の声でした」
「四十二号」
「人の名前で」
「わからない」
「あなたはどうしました」
「看護師に伝えた」
「それから」
「記録を書いた」
「それから」
「何もしなかった」
冴木は私の最後の言葉を、ほとんど同じ音で繰り返した。
「何もしなかった」
面接室が静かになった。
「今夜、扉を叩く音を聞きましたか」
「聞いた」
「どうしました」
「何もしなかった」
また、彼は繰り返した。
「何もしなかった」
「冴木」
「はい」
「お前が音の意味を予告した。だから私は、誘導だと思った」
「私は、死にかけた人は三回と一回叩く、と言っただけです。先生は、だから行かない、と自分で決めた」
冴木は少し身を乗り出した。
「言葉は人を操りません。人は、自分が従ったことを隠すために、言葉へ力を与えるんです」
「佐久間を殺したのはお前か」
「私は、あの人に一つだけ提案しました」
冴木の瞳に、非常灯の緑が映っていた。
「この病棟の罪を証明したいなら、報告書ではなく死体になればいい、と」
「自殺を教唆した?」
「提案しただけです。医師が患者へ言うと治療で、患者が医師へ言うと教唆になるんですね」
「佐久間は何を計画した」
「記録庫で聞けます」
冴木は真鍮の鍵を見た。
「その前に、先生。私がどうやって人を告白させるか、知りたいですか」
私は黙った。
「簡単です。人は、事実を話して苦しくなるのではない。事実がばらばらだから苦しい。私は順番を与える。鍵、薬、顔、名前、あなた。順番ができると、ばらばらだった後悔は物語になる。物語には主人公が必要です。主人公は最後にこう言う」
冴木は、私の声を真似た。
「私が殺した」
「私は言っていない」
「まだ」
彼は机の下から、小さな録音機を出した。
「佐久間先生からです。あなたが五番目まで来たら渡せと」
私が手を伸ばすと、冴木は録音機を離さなかった。
「一つだけ覚えてください。告白は真実の反対ではない。告白は、真実に出口を一つしか残さない部屋です」
そして手を放した。
「今度は、先生が鍵をかける番だ」
七 再生
記録庫は地下にあった。
真鍮の鍵で古い扉を開けると、湿った紙と黴の匂いがした。停電で照明は点かず、私は懐中電灯を口にくわえて棚を探した。
いちばん奥に〈白紙療法 症例〇〉と書かれた箱があった。
中には、十三年前の資料がそろっていた。
四十二号の拘束記録。
御薬袋の投薬記録。
大貫の夜間巡視表。
田口の事故報告書。
紗久が折らずに残した一枚。
そして、私の実習所見。
どの紙にも、一つだけ共通する欠落があった。
四十二号の本名である。
箱の底に、佐久間の研究計画書があった。
〈白紙療法〉
〈集団的に生じた有害事象は、単一原因へ還元されたとき、当事者の記憶を個別の病理へ変換する。よって同一集団に模擬的な死を提示し、各自がどのように原因を引き受けるかを観察する〉
対象者の欄には、五つの役割が書かれていた。
鍵――大貫庄三。
薬――御薬袋芳江。
顔――早瀬紗久。
名前――田口道夫。
選択――名取周。
冴木の名だけがない。
代わりに、欄外へ手書きされていた。
質問――冴木玲二。
私は録音機の再生ボタンを押した。
佐久間の声が流れた。
『十三年前、患者四十二号は、十九時間の身体拘束後に死亡した。死因を一つに決めることはできなかった。薬剤、低体温、固定帯による呼吸制限、発見の遅れ。どれも単独では十分ではなく、どれも除外できなかった』
紙をめくる音。
『しかし調査委員会は、原因を一つ求めた。私は患者の自傷を選んだ。死者を犯人にすれば、職員は治療を続けられるからだ』
佐久間の声は落ち着いていた。
『その後、関係者はそれぞれ別の症状を呈した。大貫は鍵を開け続け、御薬袋は投薬量を数え続け、紗久は記録を折り続け、田口は自分を院長だと主張し続けた。名取は医師になった』
私は思わず再生を止めた。
名取は医師になった。
それは症状の列の最後に置かれていた。
私は続きを再生した。
『私は彼らを旧北病棟へ集めた。治療のためではない。治療と呼べば、また私が正常な側に立つからだ。今夜、私は〇号室で死を模擬する。鎮静薬を使用し、拘束椅子に座り、午前二時十七分まで救助を禁ずる。危険は管理されている』
少し間があった。
『ただし、私は心臓に持病がある。御薬袋には知らせていない』
私は録音機を握りしめた。
『もし私が生きていれば、彼らの告白は芝居になる。もし私が死ねば、告白は証拠になる。真実には、いつも死体が必要だ』
そこで別の声が入った。
冴木だった。
『名取先生が、一人を選ばなかったら?』
佐久間は答えた。
『そのときは、彼が患者になる』
録音は終わった。
箱の横には、監視映像の保存端末があった。非常電源でかろうじて動いていた。
〇号室前の映像を開く。
午前一時三十八分。
佐久間が一人で〇号室へ入る。注射器と固定帯を持っている。扉は外から閉まった。誰も糸を使わない。誰も続いて入らない。
午前二時六分。
室内の佐久間が身を起こそうとする。固定帯が首へずれる。彼は片手を外そうとするが、うまく動かない。
午前二時九分。
佐久間が壁を叩く。
三回。
間。
一回。
廊下の画面には、当直室の私が映っていた。私は扉の音を聞き、顔を上げる。立ちかける。座り直す。
看護詰所の御薬袋も気づいていた。彼女は警報表示を見る。佐久間が残した〈二時十七分まで介入禁止〉の紙を見る。手を伸ばし、引っ込める。
大貫は病室の小窓から廊下を見ていた。彼の手にはナイロン糸がある。だが扉は開けない。
紗久は耳を塞いでいた。
田口はナースコールを押していた。患者の呼び出しとして消音された。
冴木だけが、カメラを見上げていた。
午前二時十四分。
佐久間はもう一度、壁を叩こうとした。
腕は一度しか上がらなかった。
午前二時十七分。
動かなくなった。
私は映像を止めた。
密室へ入った者はいなかった。
問題は、犯人がどうやって入ったかではなかった。
助けられた者たちが、どうして入らなかったかだった。
そして、その問いには答えが多すぎた。
八 解答欄
警察が到着したのは、午前六時四十分だった。
除雪車の橙色の灯が窓の外を横切り、白一色だった世界に初めて色が戻った。
担当の刑事は海藤という四十代の女性だった。彼女は〇号室を見て、監視映像を確認し、五人分の告白を聞いた。冴木は告白しなかった。彼は、自分は質問の役だと言った。
「医学的には、自死か事故の可能性が高い」
海藤は言った。
「ただし薬剤の準備、救助の遅れ、実験計画の妥当性は別に調べる。法的責任は職務上の義務に沿って分けることになるでしょう」
「分ける?」
「一人に全部負わせるとは言っていません」
「でも報告書には、主たる原因を書く」
「書かなければ手続きが進みません」
海藤は私に事情聴取票を渡した。
死因。
発見時刻。
発見者。
被疑者の有無。
小さな欄が整然と並んでいた。
「あなたは鑑定医ですね。専門家として、もっとも可能性の高い説明を」
私はペンを持った。
佐久間は自分で薬を打ち、自分で固定帯を締めた。
御薬袋は拮抗薬を替えた。
大貫は扉を開ける技術を持ちながら使わなかった。
紗久は助けを呼べなかった。
田口の呼び出しは病者の訴えとして消された。
冴木は死体になることを提案した。
私は音を聞き、意味を知りながら、行かなかった。
どれを消しても、佐久間は助かったかもしれない。
どれか一つだけでも、佐久間は死んだかもしれない。
因果は一本の鎖ではなかった。
網だった。
「一つに絞れません」
海藤は疲れた顔で息を吐いた。
「先生。絞れないことと、書かないことは違います」
背後で冴木が笑った気がした。
「ほら」
彼は言った。
「あなたが一人に決める」
私は事情聴取票の〈被疑者〉欄へ、大貫庄三と書いた。
鍵をかけた人。
その名を線で消し、御薬袋芳江と書いた。
薬を替えた人。
それも消し、冴木玲二と書いた。
言葉を渡した人。
また消し、佐久間義彦と書いた。
死ぬことを選んだ人。
最後に、自分の名を書いた。
音を聞いた人。
紙は黒い線だらけになった。
「訂正用紙を出します」
海藤が言った。
「いいえ」
私は用紙を裏返した。
裏は白紙だった。
そこへ、十三年前の夜から順に、起きたことをすべて書いた。薬の量が曖昧なこと。室温の記録がないこと。固定帯の位置。呼吸の観察。名前の不一致。実習生の所見。廃棄された記録。院長の署名。今夜の模擬実験。三回と一回の音。私が立たなかったこと。
書きながら、私は理解した。
四十二号を殺したのは、誰か一人の悪意ではない。
佐久間を殺したのも、誰か一人の意志ではない。
だが「誰も殺していない」と書けば、また同じことになる。
誰も、という言葉は、もっとも大きな密室だ。
私は用紙の余白から、机の上の別紙へ書き続けた。別紙が尽きると、封筒の裏へ書いた。海藤は止めなかった。御薬袋も、大貫も、紗久も、田口も見ていた。
最後に〈被疑者〉欄へ、こう書いた。
この欄に一人の名を書かせる仕組み。
海藤は長いあいだそれを見ていた。
「これは受理できません」
「わかっています」
「では、なぜ書いたんです」
「受理されないものがあったと、残すためです」
紗久が、私の書いた紙を一枚取った。
折らないでくれ、と言いかけた。
彼女は紙を半分にし、さらに折り、角を開いた。
白い蛾が一匹できた。
「捨てる紙じゃない」
私が言うと、紗久は首を振った。
「だから、折るの」
九 最初の患者
午前八時、雪が止んだ。
佐久間の遺体は本館へ運ばれた。〇号室には椅子と、壁の〈正常 一名〉だけが残った。
警察の聴取が一段落すると、御薬袋は私に言った。
「白衣を返してください」
「なぜ」
「朝の先生が来ますから」
「私が担当医だ」
御薬袋は答えず、私の胸元へ手を伸ばした。
名札を外す。
透明なケースの中に、〈鑑定医 名取周〉と印刷された紙が入っていた。その下に、もう一枚の札が透けて見えた。
御薬袋が上の紙を抜いた。
下から現れた文字は、〈患者 第〇号 名取周〉だった。
「これは何だ」
「十三年前、あなたは実習を終えられなかった」
御薬袋は静かに言った。
「四十二号の死後、あなたは何度もここへ戻ってきました。医師になれば、あの晩の続きを変えられると言って。大学へ戻った時期もある。資格を取ったという記録もある。取っていないという記録もある。どちらが正しいか、私はもう知りません」
「中央鑑定室から派遣された」
「そう書かれた手紙を、佐久間先生があなたに渡しました」
「冴木の鑑定は」
「佐久間先生の治療計画です」
「警察は私を医師として扱った」
「あなたが白衣を着て、専門用語で話したからです。病棟では、肩書きの確認は後回しになります」
私は海藤を探した。
玄関にはもう警察車両がなかった。雪の上に轍はある。机には事情聴取票も、私の報告書もない。紗久が折った白い蛾だけが、窓枠に残っていた。
「全部、治療だったのか」
御薬袋は首を振った。
「佐久間先生は死にました」
「それ以外は」
「人が死んだとき、それ以外を芝居と呼べば楽になります」
廊下の奥で、鉄扉が開いた。
本館から来た若い女性が、雪を肩に載せて立っていた。濃紺の鞄を持ち、白衣の胸には身分証があった。
「中央鑑定室の柴田です」
彼女は周囲を見回した。
「冴木玲二さんの再鑑定に来ました。担当の佐久間先生は?」
誰もすぐには答えなかった。
柴田は〇号室の開いた扉を見つけ、近づいた。壁の文字を読み、空の椅子を見た。
「何があったんですか」
大貫が言った。
「鍵のせいだ」
御薬袋が言った。
「薬のせいです」
紗久は、私の顔を指さした。
田口は蜜柑の皮を丸めながら言った。
「名前のせいですよ」
柴田は困惑し、最後に冴木を見た。
「亡くなったのは、誰ですか」
冴木だけが答えなかった。
彼は私でも柴田でもなく、その場にいない誰かのほうを見た。
それから、〇号室の空いた椅子を指さした。
「問診を始めてください」
廊下の扉が閉まった。
鍵の音がした。
話はそこで、最初へ戻った。