百二十日目の遠足

 山のてっぺんに、窓のないホテルがあった。

 景色が悪いからではない。景色を見ると、外へ出たくなるからだった。

 ホテルの名は〈楽園館〉といった。楽園というものには窓がないらしい、とコマは覚えた。

 コマは十一歳で、麓の郵便局を手伝っていた。

 切手の裏の味は好きではなかったが、手紙がどこかへ着くのは好きだった。紙切れ一枚が、谷を越え、雨に濡れ、犬に追われ、それでも誰かの名前までたどり着く。考えてみると、手紙はずいぶん根性がある。

 その日、コマは赤い鞄を肩から下げ、楽園館の鉄門を叩いた。

 門の上には札があった。

  幸福実験 第百十九日

  本日、外の話をした者は、外へ出す。

  ただし地下から。

「地下も外なのか?」

 コマが札に訊くと、門番が小窓を開けた。

「誰だ」

「郵便。みんな宛て」

「みんなという名の者はいない」

「じゃあ、ここの人ぜんぶ宛て」

「ぜんぶという名の者もいない」

「めんどくさい家だな」

 門番は怒るより先に困った顔をした。怒るには許可が必要なのかもしれなかった。

 コマは封筒を見せた。宛名には、たしかに〈楽園館に滞在する全員へ〉と書いてある。差出人は県の管理局、赤い封蝋、書留、受領印必須。大人が好きそうな重さのある手紙だった。

 しばらくして門が開いた。

 中には庭があったが、花は全部、頭を切られていた。花が勝手に咲くのは規律違反なのだそうだ。噴水には水がなく、代わりに白い皿が積まれていた。皿の一枚一枚に、昨日のごちそうが乾いてこびりついている。

 痩せた人たちが、その皿を磨いていた。

「おなか、すいてる?」

 コマが訊くと、いちばん近くの女は、磨く手を止めずに言った。

「幸福です」

「それ、おなかいっぱいの言い方じゃないね」

「幸福です」

「二回言うと、もっとちがうね」

 女はほんの少しだけ笑った。笑ってから、周りを見て、笑いを飲み込んだ。

 楽園館には四人の理事がいた。総裁、校長、博士、会計士。四人は百二十日間、人間を幸福にする実験をしているのだという。

 初日は、全員に同じ服を着せた。

 十七日目は、食事の前に空腹へ感謝させた。

 三十九日目は、泣いた者に笑顔税を払わせた。

 六十一日目は、家族を番号で呼ばせた。

 八十八日目は、各自のいちばん大切な物を広間に持ち寄らせ、値段の安い順に燃やした。

 そして毎晩、四人は宴会をしながら「人はどこまで命令を受け入れられるか」という話を聞き、翌朝、その話を新しい規則にした。

 規則を思いつくたびに、四人はよく笑った。

 コマは、悪い大人にはもっと分かりやすい顔があると思っていた。角とか、黒い歯とか、耳から煙が出るとか。だが四人の歯は白く、服はよく似合い、爪の間まできれいだった。

 悪さは、汚れない場所にも住めるらしい。

 広間で、四人は昼食をとっていた。

 大きな卓上には、鶏が三羽、魚が五尾、丸いパンが二十個、果物が山ほどあった。四人はそれぞれ一口ずつ食べ、残りを床へ落とした。食べ物が落ちるたび、会計士が銀の鈴を鳴らし、滞在者たちは拍手した。

「食べないの?」

 コマは訊いた。

「食べきれないほど持つことが、豊かさなのだよ」と総裁が言った。

「じゃあ、食べきれるぶんしかない人は?」

「努力不足だ」

「鶏も?」

「何?」

「食べきれないの、鶏の努力不足?」

 博士がむせた。校長は笑いかけて、笑う相手を間違えたことに気づき、咳に変えた。

 コマは書留を差し出した。

「受領印」

「まず内容を検査する」と総裁が言った。

「みんな宛てだよ」

「我々は、みんなを代表している」

「四人しかいないのに?」

「優れた四人は、劣った四百人に等しい」

「足し算へただな」

 校長がコマの腕をつかもうとした。その前に、給仕の少年が盆を滑らせた。銀の杯が落ち、床を転がり、校長の靴へ葡萄の汁をかけた。

 少年はコマより三つか四つ年上に見えた。髪が長く、左の眉に小さな傷があった。

「失礼しました」

 少年は頭を下げた。

「アヌイ。今夜、反省室だ」と校長が言った。

「はい」

「はい、じゃない」とコマが言った。「ぶどうが靴に行っただけだよ。靴は飲まないのに」

「黙れ」

「それ、郵便局では受領印にならない」

 その隙に、アヌイがコマの手から封筒を取った。

 すばやく封を切り、中身を広げる。

 総裁の顔から、豊かさが消えた。

 手紙にはこうあった。

  楽園館の臨時管理権は、明日、第百二十日の日没をもって失効する。

  以後、門扉を開放し、滞在者の自由な退去を妨げてはならない。

  本書は館内滞在者全員へ告知されたものとみなす。

 広間は静かになった。

 皿を磨く音も、鍋の煮える音も、どこかの咳も止まった。

 アヌイは手紙を高く掲げた。

「明日で終わりだ!」

 その声は、窓のない壁にぶつかって、何度も返った。

 終わりだ。

 終わりだ。

 終わりだ。

 会計士が暖炉から火掻き棒を取り、手紙を叩き落とした。博士が拾い、炎へ投げた。

 紙は一度だけ青く光り、端から黒く縮んだ。

 総裁はゆっくり立ち上がった。

「偽造文書だ」

「封蝋も書留番号も本物だよ」とコマは言った。

「証拠は燃えた」

「郵便局に控えがある」

「では、取りに行けばよい」

 総裁は笑った。

 その笑顔を見て、門番たちがコマの後ろへ回った。

「明日の日没までに控えを持ち帰れたなら、門を開こう。持ち帰れなければ、この少年が文書偽造の罪を負う。おまえも二度と館へ入ることはできぬ」

「アヌイは何も偽造してない」

「ならば、戻ればよいだけだ」

「戻るよ」

「コマ!」とアヌイが叫んだ。

 コマは振り返った。

 アヌイは首を横に振っていた。麓の郵便局までは、山道を走っても半日以上。昨夜の雨で吊り橋が落ちたという話もある。楽園館の馬車なら間に合うが、もちろん貸す気はないのだ。

 総裁は、間に合わないことを知っていた。

 そのうえで、約束の形にして人を壊すのが好きなのだ。

「だいじょうぶ」とコマは言った。

「どうして」

「郵便だから」

 それは説明になっていなかったが、コマには十分だった。

 第百二十日の朝、楽園館では、夜明け前から鐘が鳴った。

 最後の規則が発表された。

  本日、希望を口にした者は、嘘つきとみなす。

 滞在者たちは広間へ集められ、アヌイは中央の椅子に座らされた。手首には白い紐が巻かれていた。逃げないようにするためではない。逃げようと思っても無駄だ、と全員に見せるためだった。

 四人の理事は朝から酒を飲み、日没を待った。

 一方、コマは走っていた。

 はじめの一時間は、世界のすべてが味方だった。

 空気は冷たく、靴は軽く、下り坂は勝手に足を運んでくれた。コマは、走るのは地面が後ろへ行く遊びだと思った。

 道ばたに大きなきのこがあった。

「帰りに見るからね」

 きのこは返事をしなかった。帰りを信じている顔だった。

 二時間目、世界は少し考え直した。

 昨夜の雨で道が崩れ、赤土が谷へ流れていた。吊り橋は本当に落ちていた。向こう岸まで、濁った川が太い音を立てている。

 コマは上流へ走った。倒れた杉が川にかかっているのを見つけ、四つん這いで渡った。

 真ん中まで来たところで、杉がぎしりと鳴った。

「折れる?」

 杉は答えなかった。

「折れない?」

 やはり答えなかった。

「木は返事がわるいな!」

 コマは腹ばいになり、腕で幹を抱え、一尺ずつ進んだ。下では茶色い水が、先に行こう、先に行こうと急いでいた。

 向こう岸へ転がり落ちたとき、右の靴が流された。

「あっ、それ私の!」

 靴は川の仕事を手伝うことにしたらしく、すぐ見えなくなった。

 コマは片足だけ靴下になった。濡れた靴下は、走るたびにぺたぺた鳴った。

 片方の足だけ拍手しているみたいだった。

 三時間目、腹が減った。

 ポケットには、昨日アヌイがこっそり入れてくれた小さな焼き芋があった。星の形に切ってある。楽園館では、芋は丸いままだと「自由すぎる」と言われるので、角を作られるのだそうだ。

 コマは半分食べ、半分を包み直した。

「帰ったら、いっしょに食べる」

 声に出したあと、最後の規則を思い出した。

 ここは館の外だから、希望を言ってもよい。

 外というのは、ずいぶん便利だった。

 昼すぎ、麓の郵便局へ着いた。

 局長はコマの叔父で、眼鏡を額に乗せたまま、眼鏡を探す癖があった。

「コマ! その足はどうした」

「右足は元気。左の靴が旅に出た」

「何の話だ」

「控え。昨日の書留の控え!」

「配達したのか?」

「燃やされた」

「燃やされた?」

「でも届いた。届いたから、燃やされたんだよ」

 叔父は事情を聞き、顔を青くした。

 書留の文面を写した副本は、県の役所にある。ここにあるのは、差出人、宛先、番号、受領時刻を記した台帳だけだった。

「これでは内容まで証明できん」

「昨日の封筒、薄かった」

「何?」

「赤い字が、裏までちょっと見えてた。写す紙を使ったでしょ」

「複写紙か。だが、文面の控えは発送簿から切り離して、役所へ……」

 叔父は言葉を止め、棚のいちばん下を引き出した。

 そこには、書き損じの紙を入れる箱があった。正式な副本を書く前、役人が下書きに使った薄紙。裏返すと、複写紙の圧で、左右の逆になった文字がかすかに残っている。

 コマは鏡を持ってきた。

 鏡の中で、文字は正しい向きになった。

  臨時管理権は、明日、第百二十日の日没をもって失効する。

「あった」

「正式な証書ではない」

「でも、書いたものは同じ」

「理事たちは認めないぞ」

「認めないのは、行く前から知ってる」

「では何のために戻る」

「アヌイが待ってるから」

「門を閉じられたら?」

「叩く」

「捕まったら?」

「困る」

「負けたら?」

「それは、戻ってから決める」

 叔父はコマを見つめた。

 大人は、勝てると分かってからでないと始めたがらない。子どもは、始めてしまったあとで勝ち方を探す。

 叔父は台帳、下書き、郵便局の公印を鞄へ入れた。自分も行くと言ったが、コマは首を振った。

 大人の足では日没に間に合わない。

 それに楽園館の門は、コマ一人を通す約束だった。

「じゃあ、これを持っていけ」

 叔父は片方だけの長靴を出した。左足用だったが、大きすぎた。

 コマは履き、紐で足首をぐるぐる巻いた。

「へんな足」

「左右そろっている」

「種類がそろってない」

 郵便局を出ると、村の人たちが集まっていた。

 楽園館に家族を残した人。働きに行ったきり帰らない娘を待つ人。百二十日が終わると聞いて、門の前まで行くと言う人。

 コマは大人たちに公印の押された紙を一枚ずつ渡した。

「これ、読める人は読んで。読めない人には読んであげて。そしたら、みんな知ってることになる」

「何枚いる?」

「知らない。いっぱい」

「いっぱいとは?」

「破られても、まだあるくらい」

 村の学校の謄写器が回った。

 薄い紙が百枚、二百枚と吐き出された。子どもたちが乾かし、大人たちが束ねた。

 文字は紙へ移り、紙は人の手へ移った。

 手紙は、数が増えると群れになる。

 帰り道は上りだった。

 世界は、さっきよりはっきり敵になった。

 大きすぎる長靴は、三歩に一度、土を食べた。右足の靴は小石を拾い、左足の長靴は泥を飼った。息を吸うたび、胸の奥が紙やすりになった。

 空の太陽は、約束を知らない顔で西へ進んだ。

 杉の橋まで戻ると、上流から流木がぶつかり、幹が半分折れていた。

 コマは立ち止まった。

 川は朝より太くなっている。

 回り道をすれば二時間。もう、そんな時間はない。

「飛べないかな」

 自分に訊いた。

 飛べない。

「泳げないかな」

 泳げるが、鞄が濡れる。

「川が止まらないかな」

 川は忙しそうだった。

 そのとき、下流で山羊が鳴いた。

 岸辺に、炭焼きの老人が小舟をつないでいた。舟というより、大きな木の桶だった。

「向こうへ渡りたい!」

「流されるぞ!」

「急いでる!」

「急いで流されるぞ!」

 老人は文句を言いながら舟を出した。

 山羊も乗った。乗る必要はなかったが、山羊は必要という言葉を知らなかった。

 川の真ん中で舟が回り、コマと老人と山羊は、三人で別々の方向を向いた。

「そっち漕いで!」

「どっちだ!」

「山羊のしっぽじゃないほう!」

「山羊が回っとる!」

 どうにか対岸へ着いた。

 礼を言おうとしたとき、老人はコマの赤い鞄を見た。

「楽園館か」

「うん」

「わしの息子もいる」

「じゃあ、門へ来て」

「行って、何になる」

「一人増える」

「それだけか」

「一人増えるのが、何回もあると、いっぱいになるよ」

 老人はしばらく黙り、山羊の角を撫でた。

「先に行け。わしらは遅い」

「山羊は?」

「もっと遅い」

「でも来る?」

「行く」

「じゃあ、遠足だ」

 コマはまた走った。

 峠の手前で、楽園館の門番が二人、道を塞いでいた。

 総裁が先回りさせたのだ。

「鞄を渡せ」

「郵便は渡すよ。宛名の人に」

「ここで渡せ」

「名前は?」

「命令だ」

「命令さん宛てじゃない」

 一人が腕を伸ばした。

 コマは鞄から紙束をひとつ放り上げた。

 風がさらった。

 白い紙が、鳥の群れみたいに峠へ散った。

 門番たちは慌てて追った。総裁から、一枚も館へ持ち込ませるなと言われている。

 コマは二人の間をすり抜けた。

 鞄には、まだ台帳と下書きと、公印がある。

 そして紙は、拾われるためだけに飛んだのではなかった。

 木の枝に引っかかり、岩に貼りつき、道の上へ落ちた。後から来る村人たちは、一枚ずつ拾いながら進んだ。

 山道そのものが、手紙になった。

 峠を越えたところで、コマは転んだ。

 膝が切れ、血がにじんだ。

 立とうとして、足が動かなかった。

 日が傾いていた。

 楽園館の屋根は、遠くに小さく見える。

 どう考えても遠かった。

 世界は広すぎる。人の脚は二本しかない。約束は、どうして距離を考えてから作られないのだろう。

 コマは道の脇へ座り込んだ。

 息が戻るまで、と目を閉じた。

 目を閉じると、アヌイの顔より先に、焼き芋が浮かんだ。

 半分残した星の芋。

 くだらない、とコマは思った。

 人が大変な目にあっているのに、芋を思い出すなんて。

 けれど、たぶん約束は、立派な言葉だけでできてはいない。

 半分残した芋とか、靴にかかった葡萄の汁とか、笑ってはいけない場所で少し笑ったこととか。そういう小さなものが、見えない糸になって人を引っぱる。

 コマはポケットの芋を確かめた。

 つぶれていたが、まだ半分あった。

「待ってて」

 希望を口にした。

 館の最後の規則を破った。

 すると、不思議なことに、脚が少しだけ自分のものに戻った。

 日没が近づくと、楽園館の広間には長い影が伸びた。

 窓はないのに、天井の細い明かり取りから、赤い光が一本だけ落ちていた。その光が床の黒線を越えたら、日没と決められている。

 総裁はアヌイの前に立った。

「友人は来ない」

 アヌイは黙っていた。

「おまえを置いて逃げた」

「コマは逃げるとき、もっと大きな声を出す」

「信じているのか」

「たぶん」

「たぶん?」

「あいつ、途中で変な虫を見たり、雲の形を数えたりするから。時間は間違える。でも、戻る方向は間違えない」

 校長が白い紐を締め直した。

 博士は滞在者たちに笑うよう命じた。

「希望が外れた者を見るのは、幸福である。笑え」

 誰も笑わなかった。

 会計士が銀の鈴を鳴らした。

 それでも誰も拍手しなかった。

「笑え!」

 総裁が叫んだ。

 そのとき、遠くで何かが門を叩いた。

 一度。

 二度。

 三度。

「郵便!」

 声は小さかった。

 だが、館の中は静かすぎたので、全員に聞こえた。

 総裁が門番を見た。

「開けるな」

「約束では、あの子一人を通すと」

「約束を守る相手は、我々が選ぶ!」

 もう一度、門が鳴った。

 今度は、外から大勢の声がした。

「開けろ!」

「百二十日は終わりだ!」

「家族を返せ!」

 門の隙間から白い紙が差し込まれた。

 一枚、また一枚。

 風に押されて、庭を転がり、広間の扉まで来た。

 滞在者の女が拾った。

 逆さの文字を、鏡に映して読んだ。

「臨時管理権は、本日の日没をもって失効する」

 総裁が紙を奪い、破った。

 次の紙を、別の男が拾った。

「門扉を開放し――」

 校長がそれも破った。

 また一枚。

 また一枚。

 紙は庭のあちこちから入ってきた。排水溝、塀の割れ目、屋根の上。村人たちが外から投げ入れているのだ。

「燃やせ!」と博士が叫んだ。

 料理人が紙を拾った。

「どれを?」

 庭じゅうが白かった。

「全部だ!」

「昨日まで、紙を粗末にするなという規則でした」

「今日は違う!」

「では、昨日の規則は嘘だったのですか」

 その問いは小さかったが、広間の奥まで届いた。

 門が、今度は内側から開いた。

 最初に動いたのは、あの女だった。皿を磨いていた女。次に料理人。次に、銀の鈴を鳴らしていた使用人。門番の一人が鍵を床へ置いた。

 誰も命令していないのに、人々は同じ方向へ歩いた。

 開いた門から、コマが転がり込んだ。

 本当に転がった。長靴が石につまずき、両手と膝をつき、赤い鞄が頭を越えて飛んだ。

 広間の入口まで来ると、顔を上げた。

「まにあった?」

 アヌイが笑った。

「ぎりぎり」

「まだ光が線を越えてない」

「じゃあ、すごくまにあった」

 コマは立ち上がり、鞄から台帳と下書きを出した。

 総裁はそれを見ても笑った。

「正式な証書ではない。無効だ」

「そっか」

 コマは言った。

「なら、紙には力がないんだね」

「何?」

「紙に力がないなら、みんなが書かされた契約も、反省文も、借金の札も、ぜんぶ力がない」

 広間の人々が顔を上げた。

 会計士が叫んだ。

「それらは正式な書類だ!」

「こっちは正式じゃないの?」

「そうだ!」

「同じ公印なのに?」

「我々が認めぬ!」

「じゃあ、紙じゃなくて、あんたたちが勝手に決めてるだけだ」

 コマは、いちばん大事なことを見つけた子どもの顔で言った。

「だったら、みんなも勝手に決めていいじゃん」

 赤い光が床の黒線へ触れた。

 その瞬間、アヌイが手首の白い紐を引いた。紐はするりとほどけた。見せるための結び目だったので、ほんとうに人を縛る強さはなかった。

 彼は立ち上がり、総裁の前を通り、コマの隣へ来た。

「出よう」

 誰かが言った。

「出よう」

 別の誰かが繰り返した。

 声は広がった。

 百二十日間、命令に使われてきた口が、初めて自分のために同じ言葉を言った。

 四人の理事は、門を閉めろ、鐘を鳴らせ、捕まえろ、笑え、ひざまずけ、と次々に命じた。

 だが命令は、聞く者がいなくなると、ただの大声だった。

 総裁が銀の鈴を奪って鳴らした。

 誰も拍手しなかった。

 鈴は小さく、みじめな音を立てた。

 人々は門を出た。

 外には村人たちがいた。炭焼きの老人もいた。山羊もいた。山羊は門の花壇へ入り、首を切られた花の葉を食べた。

「それ、食べていいの?」とコマが訊いた。

 山羊は返事をしなかった。

「ま、今日からいいか」

 空は赤く、その上にもう夜が来ていた。

 楽園館の人々は、長いあいだ空を見ていなかった。見上げたまま泣く者がいた。笑う者がいた。泣きながら笑う者もいた。

 博士が見たら、分類に困っただろう。

 第百二十一日の朝、みんなで山を下りた。

 列は長く、速さはばらばらだった。

 老人がいて、子どもがいて、荷物を抱えた人がいて、途中で何度も休んだ。遠足にしては暗い服が多く、弁当も足りなかったが、誰も列から外れなかった。

 アヌイはコマの隣を歩いた。

「昨日、ほんとに戻ると思ってた?」

 コマが訊いた。

「思ってた」

「たぶん、って言ってた」

「聞いてたのか」

「門のところで」

「正直に言うと、半分」

「半分しか?」

「半分も」

「じゃあ、これも半分」

 コマはポケットから、つぶれた星形の焼き芋を出した。

 二人で分けた。

 冷たく、泥の味が少しして、それでも楽園館のどんな料理よりうまかった。

 昼になると、草原で休んだ。

 誰かが丸いパンを取り出した。切り分けようとすると、みんなが少し身構えた。パンを踏む日や、空腹へ感謝する日や、食べる前に許可を待つ日が、体の中にまだ残っていた。

 コマはパンをひとつ取り、かじった。

「今日は、何の日?」

 小さな子が訊いた。

「百二十一日目」

「何する日?」

「遠足」

「規則は?」

「おなかすいた人から食べる」

「笑ってもいい?」

「口にパン入ってないときね」

 みんなが笑った。

 今度は、誰も周りを見なかった。

 山の上では、四人の理事が空っぽの広間に残っていた。

 総裁は鐘を鳴らし、校長は椅子を叱り、博士は沈黙を測り、会計士は誰もいない人数を帳簿につけていた。

 窓のない楽園は、命令する相手を失うと、ただの大きな箱だった。

 草原を風が渡った。

 コマは寝転び、雲を指さした。

「あれ、長靴に似てる」

「どこが」とアヌイが言った。

「大きすぎるところ」

「雲は履かない」

「知ってるよ」

 空は広かった。

 広すぎて、誰の許可も届かなかった。

 そして空は、百二十日間のどの規則にも、入っていなかった。