『盲天の千点棒』

――完全オリジナル読み切り小説――

【断章〇 星の裏】

 星は光っているのではない。

 夜という蓋に穿たれた穴から、向こう側の白さが漏れているのだ。

 兄のノートは、その一文から始まっていた。

 次の頁には、十三種類の牌が描かれていた。

 一萬、九萬。一筒、九筒。一索、九索。東、南、西、北、白、發、中。

 その中央に、鉛筆を何度も突き立てた黒い点。

 最後の頁には、たった一行。

 ――十三枚目を、揃えるな。

【断章一 屋上の配牌】

 星陵学院の屋上には、もう星を見ない天文台があった。

 ドームの回転機構は錆び、望遠鏡の主鏡には薄く埃が積もっている。けれど放課後になると、丸卓を囲む牌の音だけは絶えなかった。

「ロン。タンヤオ、赤一。二千点」

 霞戸灯が牌を倒すと、向かいに座った七瀬ユイが机へ突っ伏した。

「またそれ! 灯ってさ、宇宙とか運命とか語るくせに、和了りが安すぎない?」

「安くても和了りは和了りだよ」

「夢がない」

「夢は見るもの。点棒は取るもの」

 灯は千点棒を二本、自分の箱へ移した。

 十八歳。星陵学院三年。天文麻雀部部長。

 身長は百五十八センチ。格闘技の大会歴なし。麻雀の全国大会歴もなし。

 ただし、牌を伏せたまま、その音を聞き分けることができた。

 萬子は低く、筒子は丸く、索子は細い。

 字牌には、それぞれ異なる風の音がある。

 もちろん本当に音が鳴っているわけではない。少なくとも、普通の牌なら。

 扉が開き、校長と、灰色のスーツを着た男が入ってきた。

 男は机に黒い封筒を置いた。

 封蝋には、拳と四枚の牌を組み合わせた紋章が押されていた。

「企業代闘仲裁委員会からの召喚状です」

 ユイの顔から笑いが消えた。

 校長は、錆びたドームを見上げた。

「玄鉄鉱業が、この山ごと学院を買収する。地下の希少鉱床を採掘するためだ。理事会は売却を拒否したが、先方は旧契約の代闘条項を行使した」

「まさか」

「四家闘牌です」

 勝てば、学校は残る。

 負ければ、卒業式を待たずに閉鎖される。

 校長は灯を見なかった。召喚状にも、彼女の名はない。

 学院側の代表には、卒業生のプロ雀士と総合格闘家を別々に立てる案が出ていた。だが四家闘牌では、牌を打つ者と拳を振るう者は同一でなければならない。

 灯は黒い封筒へ手を伸ばした。

 触れる寸前、封筒の奥から笛の音がした。

 一本ではない。

 何百本もの笛が、互いの調子を知らぬまま、暗い場所で吹かれている。

 灯は手を止めた。

「この会場、どこですか」

 スーツの男が答えた。

「地下競技場《黒天井》

 兄が三年前、姿を消した場所だった。

「私が出ます」

 ユイが椅子を蹴って立った。

「待って。あれは麻雀大会じゃない。人が死ぬやつだよ」

「知ってる」

「灯!」

 灯は封筒を取った。

 中で、見えない牌が十三枚、笑うように鳴った。

「だから行くんだよ。学校を取り返しに。それから――兄さんの負けを、確かめに」

【断章二 三秒の値段】

 企業代闘仲裁法。

 巨大企業同士の紛争が、裁判だけでは終わらなくなった時代に作られた法律である。

 水源、採掘権、医薬特許、人工島、軌道エレベーターの使用枠。数千億円の権利を、選ばれた代闘士が奪い合う。

 競技形式は契約書によって異なる。

 星陵学院の土地契約に記されていたのは、《四家闘牌》だった。

 四人打ち半荘戦。

 和了った者には、翻数一つにつき三秒の《撃間》が与えられる。

 ロンなら放銃者を。

 ツモなら任意の一人を。

 その時間だけ、素手で攻撃してよい。

 攻撃される側は、防御と回避のみ許される。

 意識を失えば失格。

 零点を割っても失格。

 最後まで立っていた者、または終局時に最も多く点を持つ者が、契約上の勝者となる。

 一翻、三秒。

 満貫なら十二秒。

 役満なら三十九秒。

 三十九秒あれば、鍛えた人間は、鍛えていない人間を何度殺せるだろう。

 灯は、その答えを考えないことにしていた。

 兄の朔はよく言っていた。

「喧嘩で一番大事なのは、強い拳じゃない。終わる時刻を知っていることだ」

 朔は麻雀が弱かった。

 その代わり、時間の使い方を知っていた。

 台所の狭い床で、灯に足運びを教えた。

 一歩目で線を外れ、二歩目で相手の肩を見て、三歩目で出口へ向く。

「倒そうとするな。三秒なら三秒、十二秒なら十二秒、生き残れ。鐘が鳴った瞬間、世界で一番強い奴だって殴れなくなる」

 その兄は、《黒天井》で鐘が鳴る前に消えた。

 遺体は出なかった。

 返されたのは、焦げた学生証と、十三枚の牌を描いたノートだけだった。

【断章三 黒天井】

 競技場は、都心から地下二百四十メートルにあった。

 観客席は円形に積み上がり、中央に全自動卓と、直径十二メートルの闘技床が置かれている。天井は照明を吸うほど黒く、見上げても高さがわからない。

 入場時、ユイが防弾ガラス越しに拳を握った。

「無理だと思ったら、すぐ棄権して」

「契約上、学校も一緒に棄権になる」

「学校なんか建て直せる。灯は建て直せない」

 灯は返事の代わりに、自分の胸を二度叩いた。

 兄と決めた合図だった。

 まだ立っている。

 四方の扉が開いた。

 東家、玄鉄鉱業代表――大嶽玄道。

 二メートルを超える体が、入口を狭く見せた。鉱山事故の救助隊にいた男で、地下格闘では二十七戦無敗。拳は人間の頭より大きく、首には古い落盤事故の傷が走っている。

 南家、オラクル・レジャー代表――榎塚ミナセ。

 銀縁眼鏡の若い女だった。企業リーグ年間放銃率二・一パーセント。視線、呼吸、捨て牌の角度から相手の手牌を推定する《鏡面演算》で知られている。

 西家、ノクス信託代表――薄羽ニル。

 年齢不詳。白いスーツ。痩せた指。

 入場曲も紹介映像もなく、気づけば席に座っていた。

 北家、星陵学院代表――霞戸灯。

 制服の上に薄い競技用ジャケットを着ただけの少女へ、観客席から失笑が落ちた。

 大嶽が灯を見た。

「帰れ。ここは部活の卓じゃねえ」

「学校の卓も、点棒は同じです」

「骨は違う」

「そこは気をつけます」

 ミナセが眼鏡を押し上げた。

「あなたの牌譜は二百四十七局確認した。守備寄り。平均打点は低い。身体能力は一般女子高校生の範囲。合理的な勝率は〇・〇三パーセント未満」

「結構ありますね」

「誤差よ」

 薄羽だけは、灯を見なかった。

 彼は黒い天井へ耳を澄ませていた。

「今夜は、よく鳴る」

 審判が卓の起動鍵を回した。

 中央が開き、牌がせり上がる。

 牌の背は黒かった。

 樹脂ではない。微細な銀色の粒を含む、重い石。

 灯の鼓膜の奥で、無数の笛が一斉に息を吸った。

 兄のノートと同じ音だった。

【断章四 東一局、六秒】

 最初に仕掛けたのはミナセだった。

 六巡目、立直。

 捨て牌は整いすぎていた。迷いのない外切り。待ちは二択まで絞れる。

 観客席の大型画面には、ミナセの和了率七十八パーセントと表示された。

 灯は手の中の四筒を撫でた。

 黒い牌は、一枚ごとに異なる音を含んでいた。

 四筒の奥では、遠い潮が逆さに流れている。

 耳を澄ませば、山の次の牌も、その次の牌も聞こえそうだった。

 だが灯は聞かなかった。

 兄のノートには、もう一つ、何度も書き直された言葉がある。

 ――向こうから聞かせてくる音を、情報だと思うな。

 灯は四筒を切った。

 ミナセの眉が、髪一本分だけ動く。

 当たり牌ではない。

 次巡、ミナセが六萬を捨てた。

「ロン」

 灯は手を開いた。

「平和、ドラ一。二千点」

 場内が一瞬、静まった。

 年間放銃率二・一パーセントの女が、初見の高校生へ放銃した。

 撃間、六秒。

 対象、榎塚ミナセ。

 椅子が床下へ沈み、卓の周囲が闘技床へ変わる。

 赤い数字が頭上に灯った。

 6.00

 ミナセは半身に構えた。

 打撃を避けるより、急所を隠す構えだ。

 5.21

 灯は正面から踏み込んだ。

 ミナセの視線が、灯の右肩、腰、前足を順に読む。

 予測に従い、左へ半歩ずれた。

 灯は殴らなかった。

 3.84

 右手を引くふりをして、左手の指先でミナセの右前腕を打った。

 拳ではなく、尺骨神経の走る細い場所。

 ミナセの小指が跳ねた。

 2.90

 灯はさらに一歩入り、同じ場所へ掌底を重ねた。

 1.41

 三発目は打たず、距離を取った。

 0.00

 鐘が鳴る。

 ミナセは右手を握ろうとした。

 薬指と小指が、わずかに遅れた。

「骨を折るより、牌を一ミリ傾けるほうが安いので」

 灯が席へ戻ると、大嶽が初めて笑った。

「なるほど。喧嘩じゃなく、次局を殴ったか」

【断章五 東二局、十二秒】

 大嶽玄道の麻雀は、巨体に似合わず静かだった。

 鳴かない。

 追わない。

 危険牌を抱えたまま、山が自分の形になるまで待つ。

 十三巡目、ツモ。

「門前清自摸、三色同順、ドラ一。満貫」

 撃間、十二秒。

 ツモ和了のため、対象は自由。

 大嶽は灯を指した。

「悪く思うな。仕事だ」

「こちらもです」

 椅子が沈む。

 12.00

 大嶽が一歩踏み出しただけで、床が鳴った。

 10.92

 右の直突き。

 灯は兄に教わった一歩目で、拳の線を外した。

 風圧が頬を叩き、後ろの防護壁が低く震えた。

 9.63

 大嶽は拳を戻さず、肘を横へ振った。

 灯は身を沈める。

 髪が数本、持っていかれた。

 8.10

 前蹴り。

 避けきれない。

 灯は両腕を重ね、正面ではなく斜めに受けた。

 衝撃が腕から肩へ、肩から肋骨へ抜けた。

 体が二メートル滑る。

 肺から空気が消えた。

 6.44

 大嶽が追う。

 灯は立てない。

 床へ片手をつき、そのまま横へ転がった。

 拳が、直前まで頭のあった場所を打つ。

 硬質床の表面が割れた。

 4.02

 二歩目で肩を見る。

 兄の声がした。

 大嶽の左肩が落ちる。

 掴みだ。

 灯は自分から懐へ入り、伸びてきた腕の下をくぐった。

 2.17

 三歩目で出口へ向く。

 だが出口はない。

 あるのは卓だけだ。

 灯は卓を背にして止まった。

 0.81

 大嶽の拳が上がる。

 0.00

 鐘。

 拳は灯の額から一センチの場所で止まった。

 大嶽の腕は、鋼鉄の柱のように微動だにしない。

「時間を見る目はある」

 灯は息を吸おうとして、脇腹に熱い痛みを覚えた。

「牌を見る目も、あります」

「次は十二秒もいらん」

「次は、あげません」

 席へ戻るまで、灯は一度も脇腹を押さえなかった。

 防弾ガラスの向こうで、ユイが泣きそうな顔をしていたからだ。

【断章六 捨て牌で描く空】

 東三局。

 薄羽ニルは、中張牌ばかりを捨て始めた。

 二萬、五筒、六索、三萬。

 代わりに、么九牌と字牌を手の内へ残している。

「国士狙い?」

 ミナセが独り言のように言った。

 薄羽は微笑んだ。

「国ではない。もっと大きなものだ」

 黒い牌が打たれるたび、卓の下で低い音がした。

 灯には、捨て牌の河が別の形に見え始めていた。

 四人の河を線で結ぶ。

 東西南北を角に置く。

 一と九を外周に並べる。

 それは麻雀の進行ではなかった。

 星図だった。

 兄のノートに描かれた、名前のない星座。

 中央の黒い点だけが、まだ空いている。

 薄羽が白を切った。

 天井の闇が、一度だけ瞬いた。

 誰も見上げなかった。

 灯以外は。

 そこに星はなかった。

 巨大な何かの瞼が、閉じたまま動いたように見えた。

【断章七 十八秒の指】

 東四局。

 薄羽がミナセから和了った。

「立直、一発、混一色、發、ドラ一。跳満」

 撃間、十八秒。

 対象、榎塚ミナセ。

 ミナセは右腕の痺れを隠し、両足を広げた。

「あなたの挙動データは存在しない。けれど人体の可動域には限界がある」

「人体ならね」

 数字が減り始めた。

 17.52

 薄羽は歩かなかった。

 立っていた場所から、体だけが前へ滑った。

 踵が床を離れず、膝も動いていない。

 ミナセの演算が止まる。

 15.90

 白い指が、彼女の額へ触れた。

 打撃には見えなかった。

 だがミナセの頭が後方へ跳ね、眼鏡が宙を舞った。

 14.71

 二本目の指が鎖骨の下へ沈む。

 ミナセの右腕が垂れた。

 13.88

 三本目が喉へ向かう。

 ミナセは床を蹴って後退した。

 それでも指先が皮膚をなぞる。

 声の代わりに、細い空気が漏れた。

 12.00

 薄羽は追わなかった。

 残り十二秒を捨て、席へ戻った。

 ミナセは膝をつき、左手で喉を押さえた。

「なぜ……止めたの」

「壊す必要がないからだ。あなたはもう、正しい確率を見られない」

 ミナセの右目の瞳孔が、開いたまま戻らない。

 審判医が続行可能の旗を上げた。

 灯は薄羽の指を見た。

 関節の数が、一本だけ多かった。

【断章八 中心にいるもの】

 宇宙の中心には、王はいない。

 王という形をした空席があり、その空席が夢を見ている。

 夢の中では、星が生まれ、冷え、砕ける。

 文明が言葉を作り、神を作り、神を殺す。

 すべては、眠るものの寝返りにすぎない。

 眠るものには目がない。

 耳もない。

 心もない。

 だから、こちらを見る必要がない。

 人間のほうが、勝手に見られたと思うのだ。

 黒い牌は、その夢からこぼれた歯だった。

【断章九 殴れない相手】

 南一局。

 大嶽が薄羽から満貫を直撃した。

「タンヤオ、対々和、ドラ一」

 撃間、十二秒。

 対象、薄羽ニル。

 大嶽は立ち上がる前に言った。

「お前、何者だ」

「席だよ」

「何の」

「まだ座っていないものの」

 12.00

 大嶽の右拳が走った。

 薄羽の頭が、首から消えたように沈む。

 拳は空を切った。

 10.36

 左の鉤突き。

 薄羽の胴が、紙を折るように背後へ曲がる。

 踵も肩も床につかない。

 8.72

 大嶽は間合いを潰し、両腕で捕まえにいった。

 薄羽の胸郭が細く潰れ、腕の隙間を抜けた。

 観客席から悲鳴が上がった。

 6.01

 大嶽は攻撃を止めた。

 残り時間を見ているのではない。

 薄羽の足元を見ていた。

 白い靴の下に、影がない。

 3.44

「霞戸!」

 大嶽が突然叫んだ。

「こいつの河を見ろ!」

 灯はすでに見ていた。

 薄羽の捨て牌。

 ミナセの捨て牌。

 大嶽の捨て牌。

 自分の捨て牌。

 四本の河が、十三の門を描いている。

 0.00

 鐘が鳴った。

 その余韻に重なって、天井から笛が聞こえた。

 今度は、観客にも聞こえた。

【断章十 兄の最後の局】

 照明が一度、落ちた。

 暗闇の中で、灯は兄の声を聞いた。

 ――灯。

 振り返りそうになる。

 だが兄は、彼女を名前で呼ぶ時、いつも「あかり」と平仮名のように柔らかく発音した。

 今の声は、正確すぎた。

 人間の記憶を読んで、同じ音を再生しただけだ。

 ――次の牌がわかる。

 声は甘く言った。

 ――全部わかる。誰が切るか。誰が殴るか。どこへ避ければいいか。学校も救える。朔も返せる。

 灯の目の前に、あり得ない光景が開いた。

 卒業式。

 満開の桜。

 屋上の天文台。

 錆びの取れたドームを、兄が笑いながら回している。

 灯は目を閉じた。

「兄さんは、麻雀が弱かった」

 声が止まる。

「そんなに先の牌が見えるなら、兄さんじゃない」

 照明が戻った。

 卓の向こうで、薄羽が初めて灯を見た。

 その両目は閉じていた。

 まぶたの下に、眼球の膨らみがなかった。

「一度、ここへ来た男も同じことを言った」

 灯の指が止まる。

「霞戸朔は、最後まで安い手を作っていた。意味のない千点を何度も和了り、門を閉じた。実に不愉快だったよ」

「兄さんをどうした」

「席を温めてもらった」

 薄羽の喉の奥で、笛が鳴った。

 灯は立ち上がりかけた。

 大嶽の声が飛ぶ。

「座れ!」

 灯の膝が止まる。

「撃間じゃねえ。今殴れば、お前の負けだ」

 薄羽は笑った。

 灯は座り直した。

 怒りで牌を切れば、相手の手になる。

 兄が最後に残したのは、復讐の方法ではない。

 和了らせない方法だ。

【断章十一 十三面】

 南二局、十一巡目。

 灯の耳には、薄羽の手牌の奥で十二種類の么九牌が鳴っていた。

 一萬、九萬。

 一筒、九筒。

 一索。

 東、南、西、北、白、發、中。

 欠けているのは、九索。

 そこに、捨てるためだけの七萬が一枚。

 国士無双、十三面待ちへの一向聴。

 九索を引けば十三種類が揃い、七萬を捨てた瞬間、么九牌と字牌のどれでも和了れる形になる。

 灯には牌山の音が聞こえていた。

 残り山の中で、一萬が鳴る。

 九萬が鳴る。

 東が鳴る。

 白が鳴る。

 十三種類すべてが、薄羽の次の巡目から順番を待っていた。

 偶然ではない。

 牌山そのものが、彼へ和了らせようとしている。

 役満、三十九秒。

 だが問題は殴打時間ではなかった。

 十三面待ちの完成と同時に、四本の捨て牌の河が閉じる。

 卓の中央が、星図の中心になる。

 兄のノートに鉛筆で穿たれた、あの黒い点。

 灯の手は、すでに二度鳴いていた。

 三四五筒を鳴き、六七八索を鳴いた。

 手の内には二萬が三枚、五索の対子、五萬六萬。

 残る形は、四萬と七萬の両面待ち。

 タンヤオのみ。

 千点。

 薄羽が牌を引いた。

 九索。

 十三種類目。

 彼の手が完成する。

 まだ和了りではない。対子がない。

 薄羽は不要になった中張牌へ指をかけた。

 七萬。

 灯の当たり牌。

 その瞬間、世界が二つに割れた。

 一つの世界で、灯は黙っていた。

 薄羽の次のツモは東。

 国士無双十三面。

 三十九秒の撃間。

 天井が開く。

 星ではない白いものが、空の裏から降りる。

 もう一つの世界で、灯は声を出す。

 たった千点。

 学校を守るには小さすぎる。

 兄を取り戻すには軽すぎる。

 宇宙を相手にするには、冗談のような点数。

 だから灯は、そちらを選んだ。

「ロン」

 薄羽の指が止まった。

 灯は牌を倒す。

「タンヤオのみ。千点です」

 巨大画面に、1000の数字が出た。

 観客席の誰かが、場違いな笑いを漏らした。

 薄羽は笑わなかった。

「千点で、何を止めるつもりだ」

 灯は立ち上がった。

「あなたの次の一手」

 撃間、三秒。

 対象、薄羽ニル。

【断章十二 千点の拳】

 3.00

 灯は、薄羽の顔を狙わなかった。

 2.61

 一歩で懐へ入る。

 薄羽の体が、また紙のように折れようとする。

 灯は追わない。

 鳩尾へ、拳一つ分だけ沈む短い掌底を打った。

 2.08

 薄羽の肺から空気が押し出される。

 喉の奥で、笛が鳴った。

 灯はその音を待っていた。

 1.54

 薄羽の口から、黒く濡れた細いものが覗く。

 舌ではない。

 骨でもない。

 何かの気管を削って作った、一本の笛だった。

 1.03

 灯は左手で薄羽の顎を押し上げ、右の手刀を喉の脇へ落とした。

 0.47

 笛が折れた。

 音が、裏返った。

 0.00

 鐘。

 薄羽の体が床へ崩れる。

 同時に、全自動卓の中央が開いた。

 牌を吸い込む穴ではなかった。

 円形の闇。

 底のない瞳孔。

 黒い天井が消えた。

 頭上には、星のない白い空があった。

 白さの中で、都市より大きな何かが眠っている。

 形は見えない。

 見えないことだけが、輪郭になっていた。

 観客席の人々が一斉に立ち上がり、そして一斉に座った。

 誰も命じていないのに、全員が同じ角度で首を傾けた。

 薄羽の折れた笛が、床で鳴り続ける。

 大嶽が動いた。

 撃間は終わっている。

 彼は卓へ飛びつき、開いた中央蓋を両腕で押さえた。

「霞戸! 何か噛ませろ!」

 灯は点箱を見た。

 白い千点棒が一本、震えている。

 手に取ると、兄の体温がした。

 錯覚だ。

 そう決めて、灯は卓の隙間へ千点棒を差し込んだ。

 歯車が噛む。

 細い棒が折れそうにしなる。

 ミナセが左手だけで非常停止盤を開いた。

「主電源を落とす! 三、二、一!」

 暗転。

 大嶽が吠える。

 灯は千点棒を押し込む。

 ミナセがレバーを引く。

 最後に聞こえたのは、宇宙の声ではなかった。

 聞き慣れた、兄の舌打ちだった。

 ――安すぎる手だな。

 灯は歯を食いしばった。

「和了れないより、ましでしょ」

 卓の蓋が閉じた。

 白い空が細い線になり、消えた。

 黒天井へ照明が戻る。

 そこには最初から何もなかったように、平らな闇だけがあった。

【断章十三 契約に終末条項なし】

 薄羽ニルは、担架の上で空の白い服だけになった。

 正確には、誰も彼の体が消える瞬間を見ていない。

 審判医が脈を確認しようと布をめくると、中には折れた黒い笛と、十三枚の么九牌しか残っていなかった。

 運営は試合を中止しようとした。

 玄鉄鉱業の法務担当が拒否した。

 星陵学院の校長も拒否した。

 契約書には、停電、地震、火災、テロ行為についての中断条項があった。

 宇宙の裏側が開いた場合については、何も書かれていなかった。

 薄羽は資格詐称により失格。

 ノクス信託の権利請求も失効。

 ミナセは右半身の感覚障害により攻撃不能となったが、左手での競技続行を選んだ。

「ここまで来て観測をやめるほうが、非合理的よ」

 大嶽は両手の皮が裂けていた。

 灯は肋骨を二本痛め、左足首が腫れていた。

 得点は、大嶽三万二千点。

 灯三万百点。

 ミナセ一万七千九百点。

 差は千九百。

 残り一局。

 灯が大嶽から千点を直撃すれば、得点差は二千縮まり、百点上回る。

 大嶽は席へ戻る前に、灯へ言った。

「玄鉄が欲しがってたのは鉱石じゃねえ。あの卓の下にある何かだ。俺も今知った」

「それでも打つんですか」

「こっちには閉山予定の鉱区が六つある。六百人の仕事が、この土地の契約金にぶら下がってる」

「こっちには生徒が百二十人います」

「なら、譲れねえな」

「はい」

 大嶽は血のついた拳を卓へ置いた。

「今度こそ、麻雀をしよう」

【断章十四 最終局】

 配牌は悪かった。

 役牌なし。

 対子なし。

 端牌が浮き、形も遠い。

 灯は少し安心した。

 完璧な配牌は、あの白い空を思い出させる。

 悪い配牌は人間のものだ。

 大嶽は八巡目に立直した。

 宣言牌は三筒。

 迷いなし。

 灯の手は、二度の鳴きでようやくタンヤオの形になった。

 二三四萬を鳴き、四五六筒を鳴いた。

 手の内には七索が三枚、五筒の対子、五萬六萬。

 最後の形は、五萬六萬。

 四萬と七萬の両面待ち。

 また、千点。

 大嶽の立直に対し、四萬も七萬も危険だった。

 ミナセは完全に降りている。

 自動代行となった西家は、機械的に現物を切る。

 灯のツモ番。

 引いたのは一索。

 不要牌。

 牌山の奥から、声がした。

 ――次は七萬。

 灯は聞かなかった。

 一索を切る。

 大嶽のツモ番。

 彼の右肩が、わずかに下がった。

 灯は牌を見ない。

 肩を見る。

 重い牌を引いた時、大嶽は右肩を下げる。

 黒石牌の重さではない。

 切るか抱えるか、一瞬迷った時の癖だ。

 大嶽の河には五萬がある。

 四萬は筋に見える。

 だが灯の待ちは四萬と七萬。

 大嶽は牌を指で押し出した。

 四萬。

「ロン」

 灯は静かに手を開いた。

「タンヤオのみ。千点」

 三万一千百点。

 大嶽、三万一千点。

 百点差。

 場内の巨大画面が、何度も計算をやり直した。

 100

 星陵学院、暫定首位。

 だが、まだ撃間が残っている。

 三秒。

 大嶽は闘技床の中央に立った。

「来い。最後までが契約だ」

 灯も立つ。

 肋骨が痛む。

 左足首は、踏み込むだけで熱を持つ。

 正面から殴っても、大嶽は倒れない。

 急所へ届く前に、三秒が終わる。

 だから灯は、倒そうとしなかった。

 3.00

 大嶽が両腕を上げる。

 2.42

 灯は右へ踏み込むふりをした。

 大嶽の重心が、傷んだ左脚から右へ移る。

 1.83

 灯は方向を変え、彼の左足の外へ自分の踵を置いた。

 1.16

 左手で大嶽の肘を引き、右肩を胸へ当てる。

 力ではない。

 彼が自分で移した重心を、そのまま半歩先へ送る。

 0.51

 大嶽の巨体が傾く。

 片膝が床についた。

 0.00

 鐘。

 灯はすぐに手を離した。

 大嶽は膝をついたまま、しばらく動かなかった。

 やがて、大きな声で笑った。

「千点で空を閉じて、百点で会社を倒したか」

 審判が旗を上げる。

「終局! 勝者、星陵学院代表、霞戸灯!」

 観客の歓声は、遠い波のようだった。

 灯は防弾ガラスの向こうを見た。

 ユイが泣きながら、胸を二度叩いている。

 まだ立っている。

 灯も二度、胸を叩いた。

【断章十五 星のある夜】

 星陵学院の売却契約は無効となった。

 玄鉄鉱業とノクス信託に対する調査が始まったが、《黒天井》で起きたことは、公式には変電設備の爆発と集団性失神で処理された。

 大嶽玄道は玄鉄鉱業を辞め、閉山地域の救助会社を立ち上げた。

 榎塚ミナセは右手のリハビリをしながら、確率モデルから「天井が消える場合」を除外しない新しい論文を書いた。

 薄羽ニルという人物は、出生記録にも企業登録にも存在しなかった。

 黒い牌はすべて押収された。

 ただし、卓の歯車に挟まっていた千点棒だけは見つからなかった。

 卒業式の前夜、灯とユイは屋上の天文台へ上がった。

 ドームの錆はそのまま。

 望遠鏡も古いまま。

 けれど空には星があった。

「ねえ」

 ユイが望遠鏡を覗きながら言った。

「あの時、何を見たの?」

「星の裏側」

「何がいた?」

 灯は少し考えた。

「何も」

「嘘」

「うん。嘘」

 二人は丸卓を出し、いつもの白い牌を混ぜた。

 ユイが山を積みながら、灯へ一本の千点棒を投げた。

「貸し。黒天井でなくしたんでしょ」

「返せないかも」

「千点くらいいいよ」

「千点を笑うと、痛い目見るよ」

 配牌を取る。

 灯の手はひどかった。

 么九牌が散らばり、対子もなく、役の種もない。

 十三枚目を取る。

 白。

 普通の白い牌。

 何の音もしない。

 灯は笑った。

 悪い配牌だった。

 誰かに用意された完璧な未来ではなかった。

 自分で切り、自分で拾い、自分で間違えられる手だった。

 窓の外で、星が一つ瞬いた。

 灯は千点棒を卓の中央へ置いた。

 今夜、宇宙はそれ以上を要求しなかった。