『真空で、君の鼓動を狩る』
死んだ宇宙船は、眠っている獣に似ている。
照明を失った窓は閉じた瞼で、冷え切った通路は喉。ときどき船殻をきしませる金属音だけが、夢の底で歯を鳴らす音のように響く。
漂流研究施設〈ヘカテ〉へ足を踏み入れたとき、俺はそう思った。
「デネブ、酸素濃度は?」
船長のマーカスが先を照らしながら訊いた。
「十八パーセント。吸えなくはないけど、胞子と揮発毒の反応が出てる。ヘルメットは外すな」
俺は携帯分析器を振り、淡い緑の波形を確認した。
〈ヘカテ〉は三か月前、辺境惑星ルドーラの衛星軌道で消息を絶った。乗員は四十二名。救難信号なし。航路会社は事故と判断し、内部資産の回収を民間サルベージ船〈ファティア〉に委託した。
つまり俺たちだ。
依頼書には「未知生物災害の可能性あり」と一行だけ記されていた。その一行に、依頼料の桁が二つ増えていた。
金に困った人間は、一行の警告より桁の多い数字を信じる。
「生命反応は?」
「なし」
そう答えた直後、分析器の画面に赤い点が灯った。
俺は足を止めた。
「……訂正。前方二十メートル。ひとつ」
護衛役のネリーが銃を構えた。機関士のオドが後ろで悪態をつく。
赤い点は静止していた。
俺たちは研究区画へ続く隔壁を手動で開けた。
その向こうに、人間が立っていた。
正確には、人間だったものが。
白衣を着た男が、壁から生えていた。背中から黒い樹脂状の物質が広がり、肋骨の間を貫いて床と天井に根を張っている。顔は乾き切っていたが、胸だけがゆっくり上下していた。
生きている。
死体の顔で。
「医者」
マーカスに促され、俺は近づいた。
男の瞼が開いた。
白濁した眼球が俺を捉える。
「に、げ……」
唇が動いた。
次の瞬間、胸骨が内側から割れた。
骨の隙間から飛び出したものは、幼体というには大きすぎた。濡れた灰色の外殻。四本の脚。顔のあるべき場所に、花弁のように開閉する感覚器。
ネリーの銃声が狭い通路を殴った。
怪物は壁を蹴り、一瞬で天井へ張りついた。弾丸が外殻を削り、そこから銀色の体液が噴いた。
飛沫を浴びた床が白く凍りつく。
「冷却性の血液だ!」
俺が叫ぶ間に、怪物は照明の外へ消えた。
そして背後で、オドが短く息を呑んだ。
振り返る。
暗闇から伸びた透明な刃が、彼の胸を貫いていた。
怪物ではない。
何もない空間から、人の輪郭だけが浮かび上がる。
水面に油を垂らしたような揺らめきが剥がれ、黒い装甲に包まれた巨躯が現れた。二メートルを超える。肩から下げた布は星明かりのように微細な光を流し、顔は滑らかな白い仮面で覆われている。
そいつはオドの身体から刃を抜いた。
オドが崩れ落ちる。
「撃て!」
マーカスが叫んだ。
ネリーが引き金を引くより早く、白い仮面の怪人は腕を振った。細い光の輪が飛び、ネリーの銃身を切断する。
俺は倒れたオドへ駆け寄った。
傷口から、血と一緒に黒い糸が這い出していた。
皮膚の下を、何かが泳いでいる。
「待て、こいつは感染して――」
言い終える前に、白い仮面の刃がオドの首を断った。
赤い血が俺のフェイスシールドを叩いた。
俺はそいつを見上げた。
怒りで、視界が白くなる。
「この、化け物……!」
腰のパルス銃を抜き、仮面の中央へ押しつけた。
そいつは避けなかった。
代わりに、仮面の奥から低い声がした。
『撃てば、群れが来る』
機械翻訳された共通語だった。
俺の指が止まる。
天井の奥から、硬い爪が金属を掻く音がした。
一匹ではない。
通路のあちこちで、同じ音が応える。
白い仮面の怪人は、俺の銃口をゆっくり押し下げた。
『走れ、人間』
照明が消えた。
研究区画を抜けた時点で、生き残っていたのは俺とマーカスだけだった。
ネリーは暗闇で連れ去られた。悲鳴は三秒で途切れた。
仮面の怪人は、俺たちを助けたわけではない。追ってきた灰色の怪物を二体、冷徹に切り伏せ、俺たちを無視して先へ進んだだけだ。
だが結果として、俺たちは生き延びた。
「ドッキングベイへ戻る」
マーカスが荒い息で言った。
「駄目だ。さっきの襲撃で連絡が切れた。〈ファティア〉側の気密も落ちてる可能性がある」
「じゃあどうする」
「中央管制室。施設の記録を見れば、何が起きたか分かる」
「分かってどうするんだ」
「死に方くらい選べる」
マーカスは笑わなかった。
俺たちは保守用ダクトを通り、中央管制室へ向かった。
途中、壁に残された緊急記録を拾った。
〈ヘカテ〉はルドーラ地表で発見した隕石性繭を研究していた。繭の内部には、極低温下でも活動する多細胞生物がいた。生物は他種の神経系に寄生し、宿主の記憶と発声器官を利用する。
研究員たちはそれを〈コーラス〉と呼んだ。
合唱。
ひとつの巣が、食べた者たちの声で歌うからだ。
「趣味の悪い名前だ」
マーカスが呟いた。
記録の末尾には、もっと悪い事実が残されていた。
生物災害発生後、施設長は救難信号を止めた。外へ広がることを恐れ、原子炉を臨界暴走させて自爆しようとした。しかし何者かが原子炉制御を封鎖した。
その何者かの映像に、白い仮面の怪人が映っていた。
「奴が止めたのか」
「たぶん。獲物を狩る前に焼かれたくなかったんだろう」
「俺たちも獲物か?」
答えようとしたとき、管制室の扉が閉じた。
同時に、マーカスが俺を突き飛ばした。
銃声。
弾丸が俺の肩をかすめる。
「何を――」
「動くな、デネブ」
マーカスは銃を向けていた。
顔が青白い。唇が震えている。
首筋の皮膚の下で、黒い糸が脈打っていた。
「船長」
「分かってる」
「感染はまだ初期だ。冷却睡眠に入れば進行を――」
「嘘をつくな。お前、嘘が下手なんだよ」
彼は銃口を俺から外し、自分の顎へ向けた。
俺は一歩踏み出した。
「やめろ」
「近づくな!」
マーカスの声に、別の声が重なった。
女の声。子供の声。老人の声。
もう〈コーラス〉は、彼の喉を使い始めていた。
「デネブ」
今度は、マーカス自身の声だった。
「〈ファティア〉を頼む」
引き金が引かれる直前、天井が破れた。
白い仮面の怪人が落下し、マーカスを床へ押さえつける。
俺は叫んだ。
「殺すな!」
怪人の刃が止まった。
仮面が俺を向く。
『すでに群れの一部だ』
「まだ話せる」
『声は罠だ』
「それでも、まだ彼だ」
床に押さえられたマーカスが笑った。
「医者ってのは……面倒だな」
次に彼は、怪人の腰から円筒状の武器を抜き取った。
赤い警告光が点滅する。
怪人が初めて動揺した。
『離せ』
「こいつ、手榴弾だろ」
『反物質杭だ。ここで起動すれば区画が消える』
「ちょうどいい」
マーカスは俺を見た。
「走れ、デネブ」
俺は動けなかった。
「行け!」
その声だけは、最後まで彼のものだった。
怪人が俺の胴を抱え、閉じかけた扉の外へ跳んだ。
背後で、白い光が弾けた。
音はなかった。
管制室も、マーカスも、そこへ集まりつつあった〈コーラス〉も、真円形に切り取られて消えた。
気がつくと、俺は補助医療室の床に寝かされていた。
肩の傷は止血されている。
白い仮面の怪人が、壁際に座っていた。
黒い装甲の脇腹が裂け、銀色の血が滴っている。その周囲の床には霜ではなく、細い青い結晶が伸びていた。
「お前も、あいつらと似た血なんだな」
俺が言うと、怪人は仮面をこちらへ向けた。
『似ていない』
「でも凍る」
『我々の血は熱を奪わない。熱を記憶する』
「詩的だな」
『医学的事実だ』
妙に真面目な返答に、俺は笑ってしまった。
笑った途端、マーカスの最後の顔が浮かび、喉が詰まった。
怪人は何も言わなかった。
俺は立ち上がり、医療棚を探った。人間用の凝固剤が未知種に効く保証はない。だが傷口を開いたままにするよりはましだ。
「装甲を外せ」
『必要ない』
「その出血量で強がるな。助けてもらった借りは返す」
『借りではない。お前を運んだのは、群れが生きた宿主を求めるからだ』
「つまり餌を守った?」
『そうだ』
「正直すぎるぞ」
『嘘は群れの武器だ。私は使わない』
俺は怪人の前に膝をついた。
「じゃあ正直に訊く。お前は何者だ」
沈黙の後、仮面の側面が開いた。
圧縮気体の抜ける音がして、白い面が外れる。
現れた顔を見て、俺は息を止めた。
人間に似ていた。
額から頬へかけて滑らかな黒曜石色の皮膚。鼻梁は低く、耳の代わりに薄い鰭状の器官がある。両目には金色の虹彩が二重に重なり、光量に合わせて別々に収縮していた。口元は意外なほど繊細で、下唇の端に古い傷が走っている。
恐ろしいというより、美しかった。
冬の夜にだけ咲く、名も知らない花のように。
『私はエイド。ヴァルクの追葬者』
「追葬者?」
『星間を渡る災厄を狩り、死んだ世界へ終わりを与える』
「〈コーラス〉を追ってきたのか」
『三つの星系で巣を焼いた。ここが最後の母巣だ』
「原子炉の自爆を止めたのはなぜだ」
エイドの二重の瞳が細くなる。
『母体は熱を感知すると幼体を宇宙へ射出する。原子炉を爆発させれば、数千の繭が軌道へ散る』
「じゃあ、どうやって殺す」
『母体の内核だけを破壊し、その後に施設を焼く』
「一人で?」
『そのために来た』
「怪我してる」
『狩りに傷は含まれる』
「死ぬことも?」
『当然だ』
腹が立った。
自分でも理由が分からなかった。
マーカスを失ったばかりなのに、目の前の異星人が死ぬことまで当然のように受け入れている。それがどうしようもなく気に障った。
「勝手に当然にするな」
俺は装甲の留め具を外した。
エイドが俺の手首を掴む。
指は四本で、人間より長い。体温は低いが、触れた場所から奇妙な脈が伝わった。鼓動が二つある。
『何をする』
「治療だ。暴れるなら麻酔を打つ」
『私の代謝に人間の麻酔は効かない』
「試してみるか?」
しばらく睨み合い、先に目を逸らしたのはエイドだった。
装甲の下の身体は、幾重もの傷跡に覆われていた。
古い裂傷。焼け跡。噛み傷。どれも勲章のように整えられてはいない。ただ、生き残った結果としてそこにある。
新しい傷は脇腹から背中へ抜けていた。〈コーラス〉の鉤爪が深く入り、内部に外殻の破片が残っている。
「抜くぞ」
『早くしろ』
「痛かったら言え」
『痛みは情報だ』
「可愛げがないな」
鉗子を差し込むと、エイドの腹筋が硬くなった。
破片を引き抜いた瞬間、彼の手が俺の肩を掴んだ。爪がスーツをへこませる。
「痛いんじゃないか」
『情報量が多いだけだ』
「そういうことにしておく」
凝固剤と皮膜材で傷を閉じる。
処置を終えて手を離そうとしたが、エイドの指は俺の肩から動かなかった。
近い。
二重の瞳に、自分の顔が四つ映っている。
『デネブ』
「名前を覚えたのか」
『死者が呼んでいた』
胸の奥が刺された。
エイドは俺の頬へ手を伸ばした。硬い指先が、フェイスシールドに乾いた血をなぞる。
『これはお前の血ではない』
「マーカスのだ」
『お前の群れの長か』
「友人だ」
『ならば、その死はお前の中で続く』
「慰めてるつもり?」
『慰めという行為を、私は知らない』
「そうか」
『だが、お前の呼吸が乱れるのは好ましくない』
それは十分に慰めだった。
俺はエイドの手の甲に、自分の手を重ねた。
彼は振り払わなかった。
中央記録の残骸から、母体の位置は判明していた。
施設最下層の重力炉。
〈コーラス〉は炉心周辺の廃熱と電磁場を利用して成長している。母体を殺すには、重力炉の整流器を逆転させ、局所的な高重力圧縮を起こす必要がある。
問題は、逆転操作が二か所同時だったことだ。
一人が制御室で主系統を操作し、もう一人が炉心で手動レバーを固定する。
「俺が制御室へ行く」
エイドは即座に首を振った。
『お前は脱出艇へ向かえ』
「脱出艇は施設のロックが解除されないと動かない。解除には母体を殺す必要がある」
『私が両方行う』
「同時操作だと言っただろ」
『私の装備なら遠隔で――』
「仮面の通信機、壊れてる。さっきから俺の翻訳端末を経由して話してるの、気づいてないと思った?」
エイドが黙る。
「俺は研究員じゃないが、医者だ。機器の死にかけくらい分かる」
『お前は戦士ではない』
「お前は患者だ」
『患者』
「今は俺のほうが立場が上だ」
エイドは理解できないものを見る目をした後、低く喉を鳴らした。
笑ったのだと気づくまで少しかかった。
『奇妙な人間だ』
「よく言われる」
重力炉へ向かう通路は、巣に侵食されていた。
黒い樹脂状の膜が壁を覆い、内部で無数の影が蠢いている。ところどころに人間の顔が埋まり、俺たちが近づくたび目を開いた。
「デネブ」
ネリーの声がした。
壁の中から。
「助けて。暗い。ここ、寒いよ」
俺の足が止まりかける。
エイドが肩を掴んだ。
『聞くな』
「分かってる」
「デネブ」
今度はマーカスの声だった。
「お前のせいだ」
息が詰まる。
「お前が〈ヘカテ〉へ行こうと言った。金が必要だと言った。お前が全員を連れてきた」
事実だった。
高額依頼を受けるようマーカスを説得したのは俺だ。〈ファティア〉の修理費、乗組員の未払い給与、俺自身の医療免許更新料。どれも言い訳にはならない。
「お前が殺した」
壁から、何十ものマーカスが囁いた。
膝が震える。
そのとき、エイドが俺の手を取った。
手袋越しではない。
いつの間にか彼は装甲の右手を外していた。冷たい皮膚が俺の掌に触れる。
『私を見ろ』
俺は顔を上げた。
金色の目が、暗闇で四つの月のように光っている。
『群れは死者の声を使う。だが死者の意志は使えない』
「分かってる」
『分かっていない。お前の鼓動が、嘘を信じている』
エイドは俺の手を自分の胸へ当てた。
装甲の隙間から、二つの心臓が互い違いに打つ。
強く、確かなリズム。
『私の鼓動を数えろ』
「何のために」
『狩りでは、見えない獲物を鼓動で追う』
「俺は獲物じゃない」
『今は違う』
「今は?」
エイドは答えず、俺の手を握ったまま歩き出した。
壁の声は続いていたが、二つの心臓の音に耳を澄ませると、少しずつ遠のいていった。
重力炉は巨大な縦穴だった。
中心に青白い人工重力核が浮かび、その周囲を黒い母体が包んでいる。
母体は生物というより、ひとつの建築物に見えた。何百もの肢体が柱となり、半透明の膜が天井まで広がる。膜の内側には繭が脈打ち、食われた人間たちの顔が夢見るように浮かんでは消えた。
そして母体の中心に、巨大な眼が開いた。
眼球の中に、四十二人分の口があった。
『エイド』
口々が、彼の名を呼んだ。
俺は横を見る。
「お前の知り合いの声か」
『かつての狩りで失った者たちだ』
『エイド、お前はまた遅かった』
『お前だけが生きた』
『臆病者』
エイドの手に力が入る。
彼にも、死者がいる。
当たり前のことを、俺は初めて理解した。
「俺を見ろ」
さっきと同じ言葉を返す。
エイドの瞳が俺へ向いた。
「死者の意志までは使えないんだろ」
長い沈黙の後、彼は頷いた。
『制御室まで百二十秒。私が道を開く』
「炉心レバーを固定したら、すぐ離れろ。圧縮開始まで十二秒しかない」
『了解した』
「それと」
『何だ』
「死ぬな」
エイドの鰭状の耳が、わずかに開いた。
『命令か』
「患者への指示だ」
『従おう、医者』
彼は白い仮面を被った。
次の瞬間、狩りが始まった。
エイドの身体が視界から消える。
透明な揺らめきだけが宙を走り、天井から飛び降りた幼体を切り裂いた。銀色の体液が霧になり、周囲の空気を凍らせる。
俺は凍結した床を滑り、制御室へ続く梯子を登った。
背後で金属音、咆哮、熱線の弾ける音。
振り返らない。
振り返れば、きっと足が止まる。
制御室へ飛び込み、主系統を起動する。画面に古い警告が並んだ。
《整流器逆転は炉心崩壊を招きます》
《二名の認証が必要です》
俺はマーカスの認証タグを端末へ置いた。
「一名」
自分のタグを重ねる。
「二名」
主系統レバーを下ろす。
炉心側の固定信号は、まだ来ない。
「エイド」
通信に雑音だけが返る。
残り九十秒。
モニターに炉心映像を出す。
エイドは母体の触肢に囲まれていた。
片腕の装甲が剥がれ、仮面の半分が砕けている。それでも彼は進んでいた。伸縮槍で触肢を払い、炉心下部の手動レバーへ向かう。
母体の眼が彼を追う。
四十二の口が同時に開いた。
音ではない衝撃が走り、モニターが乱れた。
エイドが膝をつく。
「立て」
通信は繋がっていない。
「立て、エイド」
俺の声は届かない。
母体の触肢が槍のように持ち上がる。
考えるより先に、俺は制御室を飛び出していた。
梯子を滑り降り、パルス銃を撃つ。
触肢が一本、弾ける。
母体の眼が俺を見た。
四十二の口が笑った。
『デネブ』
マーカスの声。
『来ると思っていた』
「黙れ」
撃つ。撃つ。撃つ。
銃身が赤く焼ける。
幼体が左右から迫る。
エイドが立ち上がり、俺の前へ滑り込んだ。白い刃が弧を描き、二体を同時に断つ。
『なぜ戻った』
「患者が指示を無視したからだ!」
『私は立った』
「遅い!」
俺は予備の医療用発煙カートリッジを母体の眼へ投げた。
高温の殺菌煙が噴き出す。
母体が身をよじる。
「今だ!」
エイドが跳躍し、手動レバーへ槍を突き立てた。全体重をかけて押し下げる。
制御室から固定信号が鳴った。
《圧縮開始まで十二秒》
「離れろ!」
俺たちは出口へ走った。
十一。
母体の触肢が床を砕く。
十。
エイドが俺の背を押し、落下物を肩で受けた。
九。
通路の隔壁が閉まり始める。
八。
俺が先に滑り込む。
七。
エイドの脚へ触肢が絡みつく。
六。
彼が刃で切断する。
五。
隔壁の隙間が人一人分になる。
四。
エイドが俺を見た。
そして、足を止めた。
『行け』
「ふざけるな!」
三。
俺は隙間から腕を伸ばした。
二。
エイドも手を伸ばす。
指先が触れる。
一。
俺は彼の手首を掴み、全身で引いた。
局所重力が反転した。
世界が折れ曲がる。
母体も、触肢も、空気も、光さえも一点へ吸い込まれた。
エイドの身体が隔壁の向こうへ引かれる。
肩が抜けそうになる。
「離すな!」
『離しているのは、お前ではない』
「屁理屈を――」
エイドのもう一方の手が隔壁を掴んだ。
金属がへこむ。
彼は咆哮し、俺の側へ身体を投げた。
直後、隔壁が閉じる。
向こう側で、青白い光が潰れた。
重力炉の振動が止まる。
俺たちは床に倒れ込んだ。
しばらく、どちらも動けなかった。
やがてエイドが仰向けになり、砕けた仮面を外した。
『命令に従った』
「ぎりぎりだ」
『死ななかった』
「そうだな」
『治療が必要か』
「たぶん、お互いに」
笑いが込み上げた。
泣いているのかもしれなかった。
俺はエイドの胸へ額を押しつけた。二つの心臓が、乱れて、それでも確かに動いている。
彼の手が迷うように宙をさまよい、やがて俺の背へ触れた。
『デネブ』
「何だ」
『お前の呼吸は、まだ乱れている』
「今度は悪い意味じゃない」
『意味を説明しろ』
顔を上げる。
近すぎる距離で、金色の瞳が俺を映している。
説明する代わりに、俺は彼の頬へ手を当てた。
黒曜石色の皮膚は冷たく、下に微かな熱がある。
「嫌なら押し返せ」
『何を――』
唇を重ねた。
エイドの身体が硬直する。
触れただけの短い口づけ。
離れると、彼は四つの瞳孔を大きく開いていた。
『これは医療行為か』
「違う」
『狩りの儀式か』
「それも違う」
『では何だ』
「慰め。あと、生きててくれて嬉しいって意味」
エイドは長く考え込んだ。
やがて俺の後頭部へ手を回す。
『もう一度、情報が必要だ』
「痛みと同じ扱いかよ」
『情報量が多い』
今度の口づけは、彼からだった。
慎重で、ぎこちなくて、驚くほど優しかった。
母体の死後、施設の封鎖は解除された。
俺たちは残った繭を焼き、脱出艇へ向かった。
〈ファティア〉はドッキング部を損傷していたが、船体そのものは生きていた。自動修復には二日かかる。
エイドの船は、施設外殻に擬態して停泊していた。
彼は自分の船へ戻れば、すぐに去れる。
なのに、〈ファティア〉の医療室で大人しく縫合を受けていた。
「もう終わったぞ」
『まだ傷がある』
「それ、十年前の傷だろ」
『再評価が必要かもしれない』
「患者は医者の指示に従うんじゃなかったか?」
『私は学習した。人間の医者は、患者が近くにいると呼吸が安定する』
「誰の話だ」
『お前だ』
俺は返す言葉を失った。
エイドは無表情に見えて、耳の鰭だけがわずかに開いている。彼が面白がっているときの癖だと、この二日で知った。
「お前、故郷へ帰らなくていいのか」
『帰る』
「いつ」
『お前の船が航行可能になってから』
「それから?」
尋ねた声が、自分でも情けないほど弱かった。
エイドは腰の装置から、小さな黒い環を外した。
俺の掌へ置く。
内側に、星図のような光が流れている。
『追葬者の航路標だ。持つ者の位置を、私はどの星系からでも追える』
「それって、発信機?」
『そうだ』
「勝手に追跡する気か」
『嫌か』
俺は環を指にはめた。
大きさが自動で縮み、ぴたりと収まる。
「嫌なら捨てる」
『捨てた場合も探す』
「怖いこと言うな」
『私は狩る者だ』
「俺は獲物じゃないって言っただろ」
エイドが立ち上がる。
大きな身体が目の前まで来る。
彼は俺の指の環へ唇を触れ、それから静かに言った。
『今は違う』
「またそれか。じゃあ、今は何だ」
二つの心臓が近づく。
俺の翻訳端末は、次の言葉をうまく訳せなかった。
画面に《同伴個体》《帰還地点》《生涯追跡対象》と候補が並び、最後に《伴侶》で停止した。
エイドは端末を見て、頷いた。
『その語が最も近い』
宇宙では、音は伝わらない。
だから死んだ船は、永遠に眠っているように見える。
けれど俺はもう知っている。
真空の向こうでも、誰かは鼓動を見つける。
暗闇の果てから追いついて、手を伸ばす。
決して獲物を逃さない狩人のように。
あるいは、帰る場所を見失わない恋人のように。
俺はエイドの胸に手を置き、二つの鼓動を数えた。
ひとつ、ふたつ。
その間に、自分の心臓が重なる。
今度はもう、どの声にも惑わされなかった。
了