眠月荘壁中記
一 筆記を禁ぜられた者の記
目を覚ましたとき、枕元の置時計は三時十三分を指していた。
秒針はなかった。長針も短針も、黒い虫の脚のように固まっていた。耳を澄ますと、時計の代りに、岬の下で砕ける波が時を刻んでいた。三つ、休んで、また三つ。海は眠っている者の胸を借りて呼吸しているらしかった。
私は起き上がろうとして、右の手首に布紐が結ばれているのを見た。紐の先は寝台の鉄柵に結びついていた。きつくはない。眠ったまま歩き出す私を、やさしく引き留めるためのものだと理一は説明した。
「昨夜も窓へ行こうとしたんだよ、文」
朝の診察に来た彼は、私の手首を解きながら、子供の失敗を許すように笑った。
「私は何をしに?」
「月を近くで見ようとした。君は昔から、月に対して距離の見当をなくす」
「昔から?」
「そうだよ」
理一は私の夫で、精神科の医師である。
この二つの事実を私は毎朝教えられる。教えられれば納得するのだが、眠りを一枚隔てると、また他人の履歴のように思われる。
私は羽鳥文、三十二歳。翻訳と随筆を仕事にしていた。春から不眠と記憶の混乱がひどくなり、六月の初め、理一に連れられてこの眠月荘へ来た。ここは海に突き出した岬の上にある旧い別邸で、十数年前から理一の勤める療養所の分院として使われている。静養は六週間の予定。面会、読書、筆記は禁止。考えることも、できるだけ控える。
「言葉は君の神経にとって酒と同じだ」と理一は言う。「一文字でも書けば、次の一文字が欲しくなる」
だから私は書いている。
これは反抗ではない。自分が誰であるかを、眠りの向こうへ手渡すためである。
紙は食器棚の底に敷かれていた薄紙を剥いだ。鉛筆は窓枠の溝に溜まった黒鉛を、髪留めの先で掻き取って作った。文字は薄く、海霧が触れれば消えてしまいそうだ。しかし消えるものほど、今の私には信用できる。
部屋は二階の東端にある。三方に窓があり、窓の外には蘇鉄の葉と海ばかりが見える。昔は子供部屋だったと理一は言ったが、窓には鉄格子があり、扉は外からしか鍵を掛けられない。もっとも、療養所になる前につけたものかもしれない。
問題は壁である。
壁紙は黄色い。花の黄でも、灯の黄でもない。長く水に浸した骨を、弱い火で煮詰めたような色をしている。そこに灰白色の線で、半月とも、魚の鱗とも、閉じかけた瞼ともつかぬ模様が連なっている。一つの形が完成しそうになるたび、別の線が横から噛みつき、引き裂き、また次の形を作る。見続けていると、模様の表面とは別に、もっと大きな図柄が奥に浮かぶ。
女である。
女は壁の中で腰を折り、頭を横にして進む。立ち上がろうとするたび、細かい模様が肩や膝に絡みつき、引き戻す。昼はほとんど見えない。夕方、海から照り返す光が部屋の下半分だけを照らすころ、まず髪が現れる。夜、月が窓を渡ると、背骨の曲線まで見える。
私は最初の晩、その女を自分の影だと思った。しかし私が動かなくても、女は動いた。
私が眠っても、動いていたのではないかと思う。
理一に話すと、彼は壁を一瞥し、すぐ私の瞳孔を調べた。
「模様に意味を与えてはいけない」
「意味ではなく、人の形に見えるの」
「同じことだ。疲れた脳は偶然を人間に仕立てる。人間は偶然より恐ろしいからね」
「壁紙を替えて」
「替えれば、君は自分の訴えが正しかったと思う。治療にはよくない」
彼はそう言って、私の牛乳に白い粉を入れた。
私は飲むふりをし、あとで鉢植えの土へ捨てた。翌朝、名も知らぬ観葉植物の葉が一枚、黄色くなった。
置時計のことを尋ねると、理一は首を傾げた。
「この部屋に時計はないよ」
見ると、枕元には確かに何もなかった。ただ、円い埃の跡だけが残っていた。
二 眠月荘の来歴
昼すぎ、佐田富蔵という老人がシーツを替えに来た。
この屋敷の管理人である。潮に灼けた顔に深い皺があり、左手の人差指が第二関節からない。理一は、富蔵と長く話してはいけないと言った。老人は昔話を本当らしく語りすぎるからだという。
富蔵は私を見るなり、「絹枝さま」と呼んだ。
すぐ咳払いをし、「奥さま」と言い直した。
「絹枝とは誰?」
彼は窓を閉め、廊下を確かめてから、低い声で答えた。
「この家の、最初の奥さまでございます」
眠月荘は四十年ほど前、深見貞臣という男が建てた。深見は眼科医で、写真術と光学に凝り、東京で財を成したあと、この岬へ引きこもった。彼は美しいものに触れるのを嫌った。触れれば形が変わり、息をかければ曇り、手に入れれば所有した者の醜さが移る、と信じていた。
妻の絹枝は、近隣でも評判の美しい人だったらしい。
深見は彼女を愛したが、抱かなかった。手を取らず、髪にも触れず、食卓でも向かい合わなかった。代りに、屋敷の壁の中へ細い廊下を造らせ、無数の覗き穴と鏡とレンズを仕込んだ。絹枝が本を読む姿、眠る姿、湯上がりに髪を梳く姿を、彼は壁の裏から観察した。
「見るだけなら、何も損なわぬ、と旦那さまは申しておりました」
やがて見るだけでは足りなくなった。
深見は、絹枝の表情を変えるため、使用人たちにさまざまな仕掛けを命じた。庭の白孔雀を夜中に逃がし、その羽音に驚く顔を見た。大切にしていた手紙を一通だけ抜き取り、探す顔を見た。海へ出た小舟の綱を半分だけ切り、帰りを待つ顔を見た。
何が起きても、深見は自分のしたことだとは考えなかった。命じたのは口であり、実際に手を動かしたのは他人であり、自分はただ見ていただけだからである。
絹枝は次第に、誰もいない場所でも見られていると訴えるようになった。部屋の隅に布を掛け、鏡を伏せ、花瓶の水面まで新聞紙で覆った。すると深見は、彼女が視線に気づいたことを喜んだ。
「見られていると知った人間は、見られる前とは別の人間になる。ならば人の魂とは、目の置き場所にすぎぬ」
彼はそう書き残したという。
ある八月の晩、月蝕があった。
深見は絹枝に、二階東端の部屋でひと晩過ごすよう命じた。今の私の部屋である。壁には、深見自身が設計した新しい模様紙を貼らせた。人の目が無意識に追ってしまう線を幾重にも組み合わせ、見ている者の視線を一定の順序で壁じゅうに巡らせるものだった。
深見は壁裏の廊下に入り、絹枝を見た。
絹枝は夜半まで寝台に座っていた。月が欠けはじめると立ち上がり、壁へ近づいた。そして、覗き穴の一つを正確に見つけた。
「こちらへいらっしゃい」
唇だけで、そう言った。
深見は動かなかった。
絹枝は笑い、壁紙の模様を指でなぞりながら、部屋を一周した。月が完全に暗くなった瞬間、屋敷じゅうの鏡が一斉に割れる音がした。
使用人たちが駆けつけたとき、部屋は内側から鍵が掛かっていた。窓の格子も壊れていない。けれど絹枝は消えていた。
深見は壁裏の廊下で見つかった。
狭い場所を長く這ったせいで、両肩が外れ、爪がすべて剥がれていた。彼は生きていたが、二度と言葉を話さなかった。ただ、誰かに見られるのをひどく恐れ、目を布で覆ったまま三年後に死んだ。
「絹枝さまは、どうなったの?」
富蔵は新しいシーツの皺を、何度も手のひらで伸ばした。
「旦那さまが亡くなってから、壁を剥がしました。裏には誰もおりませんでした。ただ、壁紙の内側に、手の跡がございました。部屋の側から押した跡ではなく、壁の中から外へ押した跡が」
老人はそこで黙った。
「あなたは見たの?」
「わたくしの父が見ました。わたくしは、剥がした紙を焼く手伝いをしただけで」
「この壁紙は、そのときのもの?」
富蔵は私を見た。視線が私の顔を通り越し、背後の壁へ刺さった。
「同じ模様でございます。焼いたはずなのに」
廊下で足音がした。
富蔵は残ったシーツを抱え、急いで扉へ向かった。出る前に振り返り、囁いた。
「奥さま。月の欠ける晩には、壁を剥がしてはなりません。裏と表が、入れ替わります」
その日の夕方、理一は富蔵が何を話したか尋ねた。
私は「何も」と答えた。
彼は微笑んだが、私の脈を取る指が冷たかった。
三 壁の下から出た文書
書けば書くほど、記憶は戻るのではなく増えてゆく。
戻る記憶には、帰るべき元の場所がある。増える記憶には、それがない。
私は海辺の町で育ったことを覚えている。いいえ、山国の雪の匂いも覚えている。母の指は細かった。母には指がなかった。私は理一と教会で結婚した。私たちは結婚していない。私は小説を書いていた。私は医学校で神経解剖を教えていた。
どの記憶にも手触りがある。
だから、どれも嘘とは言い切れない。
昨夜、壁の女が初めて止まった。
私の枕元まで来て、模様の網の向こうから、片手を上げた。指は四本しかなかった。
女は壁を三度叩いた。
間を置いて、二度。
また三度。
三、二、三。
朝、私は寝台の位置をずらした。床板には、長く動かされていなかった家具の跡があった。巾木の一部だけ、釘が新しい。髪留めを差し込むと、板はあっけなく外れた。
壁と床の隙間から、油紙に包まれた冊子が出てきた。
表紙には青いインクで、こう記されていた。
視線転位療法 第三次実験要綱
於・眠月荘東端観察室
主任 羽鳥 文
私の名である。
しかも文字は、今この記録を書いている私の筆跡によく似ていた。
冊子の最初の数頁は、水に濡れたように滲んでいた。読める部分を写す。
人は自己を内部に所有しているのではない。
自己とは、見ている者と見られている者との間に生ずる、仮の焦点である。
長期間、一定の役割を期待する視線に晒された者は、記憶をその役割に適合するよう再編する。観察者もまた、記録する権利によって自らを正常者、医師、夫、裁判官等と認識する。
従って「患者」と「医師」は人格ではなく位置である。
壁のこちら側にいる者が患者となり、壁の向こう側にいる者が医師となる。
次の頁には、実験の手順があった。
一、東端室を被観察室とし、対象乙を収容する。
二、壁内廊下を観察室とし、対象甲に記録を行わせる。
三、甲を「夫/医師」、乙を「妻/患者」と呼ぶ。両者の戸籍上の関係は参照しない。
四、乙には筆記を禁じる。禁令に反して書かれた文章は、乙の同一性維持に重要な資料となるため、発見しても直ちに処分しない。
五、第二十一夜、月光遮断時に甲乙の位置を交換する。ただし交換の事実を両者に告げない。
六、交換後も役割が身体ではなく部屋に残存するかを観察する。
余白に赤鉛筆の走り書きがあった。
第三次、延期。
甲が予定より早く「夫/医師」を自称。
乙は自己を主任研究者と主張しはじめる。
どちらが暗示で、どちらが回復か、判定不能。
その下に、さらに小さな文字があった。
理一に鍵を渡してはならない。
そこまで読んだとき、扉の鍵が鳴った。
私は冊子を寝衣の中へ隠した。
理一は盆を持って入ってきた。牛乳、薬、青い葡萄。それから、私のためというより部屋のために持ってきたような、新しい南京錠。
「寝台を動かしたね」
「日が眩しかったから」
「巾木も外した」
彼はまっすぐ、冊子を隠した私の胸元を見た。
「何を見つけた?」
「何も」
「文」
「私は医師なの?」
理一の顔から、表情が一瞬だけ消えた。
怒りでも驚きでもない。舞台の幕が上がる前、役者がまだ誰でもないときの顔だった。
すぐに彼は笑った。
「またその考えに戻ったのか」
「私の名前で書かれた実験要綱がある」
「君が病気の最中に書いたものだ。医師になった妄想、私を患者にした妄想、屋敷の伝説を混ぜてね」
「だったら、なぜ隠したの?」
「君自身が隠したんだろう」
「理一に鍵を渡すな、と書いてある」
彼は笑うのをやめた。
「その冊子を渡しなさい」
「嫌です」
「君のためだ」
「私はあなたの妻?」
「そうだ」
「証拠は?」
彼は左手を上げた。薬指に金の環があった。
私の指にも同じ色の環がある。しかし私のものは少し大きく、手を下げると第二関節まで滑った。
「指輪は役名でも嵌められる」
そう言うと、理一は私の頬を打った。
弱い一打だった。けれど彼は、自分の手を見て、私以上に驚いていた。
「すまない」
彼は後ずさった。
その背後で、壁の女がゆっくりと顔を上げた。
理一には見えない。
女は四本の指を唇に当て、黙っていろ、と合図した。
私は冊子を渡さなかった。
理一は南京錠を外側に掛けた。
四 月蝕の夜
今日は何日か。
理一は七月二日だと言う。富蔵は、廊下ですれ違いざま七月十七日だと囁いた。冊子の予定表では、第三次実験の第二十一夜は今夜である。
夕方から、海の色が鉄のようになった。
鳥が一羽も飛ばない。蘇鉄の葉は風がないのに裏返り、白い腹を見せている。遠くで雷が鳴ったが、雲はなかった。
理一はいつもより早く来た。
白衣ではなく、黒い背広を着ていた。襟元に汗が滲んでいる。
「今夜はよく眠れる薬を使う」
「月が欠けるから?」
「誰に聞いた」
「壁に」
彼は注射器を取り出した。
私は抵抗しなかった。針が腕に入る瞬間、身体を捻り、薬液の大半をシーツへこぼした。理一は気づかなかった。あるいは、気づかない役を演じた。
眠ったふりをすると、彼は長いあいだ寝台の脇に立っていた。
「文」と呼んだ。
返事をしなかった。
「君がどちらでも、もう構わない」
独り言のように言って、彼は出ていった。
外で南京錠が閉まった。
月が窓へ来た。
満月の右端から、黒い影が齧りついていた。部屋の黄色は次第に色を失い、古い写真のような灰色になった。
そのとき、壁の模様が止まった。
今まで動いているように見えた線が、本当に一斉に静止したのだ。波の音も消えた。屋敷全体が巨大な耳となり、私の息を聞いていた。
壁の女が立ち上がった。
初めて見る全身は、思っていたより背が高かった。髪は腰まであり、顔は模様に裂かれていた。けれど左の眉の上に小さな傷があるのが見えた。
私にも同じ傷がある。
女は壁の内側から両手を当てた。
私は外側から手を重ねた。紙一枚を隔てているはずなのに、冷たい指の形がはっきり伝わった。
「あなたは誰?」
女の口が動いた。
声は私の背後から聞こえた。
「見られていた者」
「絹枝?」
「文」
「どちら?」
「名前は、こちら側にはない」
女の指が、壁紙の継ぎ目を示した。
富蔵の忠告を思い出した。
月の欠ける晩には、壁を剥がしてはならない。裏と表が入れ替わる。
私は髪留めを差し込み、紙を裂いた。
音は驚くほど小さかった。
長く閉じた瞼が、乾いて開くような音だった。
壁紙の下には漆喰がなかった。黒い木枠に紙が張られているだけで、その向こうに、人一人が横向きで通れるほどの隙間があった。冷たい空気が流れ出し、古い薬品と海藻と、長く閉じた本の匂いがした。
私は裂け目を広げ、壁の中へ入った。
廊下は部屋を囲むように続いていた。両側に小さな鏡が並び、月の残光を次々に受け渡している。鏡の中では、私が少しずつ違う動きをした。ある鏡では目を閉じ、ある鏡では笑い、ある鏡では四つん這いになっていた。
床には帳面が積まれていた。
表紙の日付は四十年前から今年まで続いている。筆跡はそれぞれ違うのに、どの帳面も同じ一文から始まっていた。
目を覚ましたとき、枕元の置時計は三時十三分を指していた。
その先は、私の記録とほとんど同じだった。
ただし、女の名だけが違った。
絹枝。
澄子。
八重。
美奈。
千佳。
文。
中には男の名もあった。
理一。
廊下の突き当たりに、灯の漏れる扉があった。
隙間から覗くと、狭い観察室が見えた。机、記録用紙、薬瓶、蓄音機。そして理一がいた。
彼は壁の覗き穴に目を当て、何かを書いていた。
「対象乙、二十三時四十一分。覚醒。壁面に対する注視あり。独語あり」
低い声で読み上げると、机の蓄音機が同じ文を少し遅れて繰り返した。
私は彼の背後へ立った。
「誰を見ているの?」
理一の肩が跳ねた。
ゆっくり振り返った顔は、血の気を失っていた。
「どうして、そこに」
「誰を見ているの」
「君を」
「私はここにいる」
私は覗き穴へ目を寄せた。
黄色い部屋の中に、私がいた。
寝衣の私が、壁へ背を向けて立っていた。髪は乱れ、左の眉の上に傷がある。彼女は私たちに気づいているように、ゆっくり振り返った。
顔は私だった。
けれど目だけが、私よりずっと古かった。
覗き穴の向こうの私は微笑み、唇を動かした。
こちらへいらっしゃい。
理一が叫んだ。
彼は私を突き退け、隠し扉を開けて黄色い部屋へ駆け込んだ。部屋の中の女は、彼が入る寸前に壁へ溶けるように消えた。
「待て!」
理一は壁紙を掻きむしった。
彼の爪の下に黄色い紙が入り、血が滲んだ。
私は観察室から隠し扉を閉めた。
掛金があった。
掛けた。
理一はすぐにこちらへ気づいた。
「文、開けろ」
私は答えなかった。
「私は医師だ。君は病気なんだ」
彼は扉を叩いた。
「聞こえるか。私は羽鳥理一、医師だ。君の夫だ。君を治療している」
その声を、机の蓄音機が少し遅れて繰り返した。
――私は医師だ。
――君は病気なんだ。
――君の夫だ。
反復されるたび、声は理一のものではなくなった。もっと古い男の声、もっと若い女の声、子供の声が重なった。
机の上に白衣があった。
胸の名札には「羽鳥 文」とある。
私はそれを着た。
袖の長さはぴたりと合った。
観察記録の最後の頁を開くと、まだ濡れたインクで一行だけ記されていた。
第二十一夜、位置交換完了。
その下に署名欄があった。
私は迷わず、羽鳥文、と書いた。
文字は冊子の表紙と同じだった。
部屋の中で、理一はまだ自分の名を叫んでいた。やがて叫びは訴えに変わり、訴えは説明に変わった。彼は壁に向かって、自分の出生、学歴、結婚、研究を順序正しく語りはじめた。
自分を証明しようとする者の声ほど、患者らしく聞こえるものはない。
月蝕が終わりかけていた。
細い銀色が月の縁に戻り、鏡の一枚一枚を点した。
廊下の奥に、外へ続く小扉があった。
開けると、岬の裏手へ下る石段が見えた。夜明け前の海が、鉛の板のように静まっている。
私は一歩、外へ出た。
背後で紙の擦れる音がした。
振り返ると、裂いたはずの壁紙が、誰の手もないのにゆっくり元へ戻っていた。継ぎ目が閉じ、黄色い模様が理一のいる部屋を覆った。
模様の奥で、男が腰を折り、横向きに這いはじめた。
そのさらに奥に、髪の長い女が立っていた。
女はもう這っていなかった。
私に向かって、四本の指を上げた。
別れの挨拶のようにも、数を教えるようにも見えた。
五 県立潮見療養所・事故記録抄
以下は、眠月荘閉鎖後に作成された記録の写しである。
原本の所在は不明。
七月十八日午前五時十分、看護人二名が眠月荘二階東端室より男性の叫声を聞く。
同室は外側から施錠されていた。解錠して入室すると、羽鳥理一医師が壁際にうずくまっていた。両手指に裂傷。壁紙の一部を口に含み、意味不明の発言を反復。
主な発言は以下の通り。
「妻が壁の裏へ逃げた」
「私は見ていただけだ」
「部屋を替えれば戻れる」
「こちらが表だ」
羽鳥医師は重度の錯乱状態と判断され、本院へ収容された。以後、みずからを医師と主張し続けたが、診察者の質問には過度に詳細な経歴を述べ、かえって妄想性を疑わせた。
東端室の壁裏から、観察用と思われる廊下と記録室を発見。多数の帳面、録音盤、光学器具を押収した。
療養所の正式な雇用記録に「羽鳥文」の名はない。
ただし職員十二名のうち九名が、同名の女性医師を知っていると証言した。三名は彼女を羽鳥理一の妻と記憶し、四名は主任研究者と記憶し、二名は患者と記憶していた。
戸籍照会の結果、羽鳥理一に婚姻歴なし。
一方、帝都医科大学の古い名簿には、羽鳥文という女性研究者の名がある。視覚と人格形成の関係を研究し、二年前から消息不明。写真は水損のため顔貌を確認できず。
管理人・佐田富蔵の証言。
「女先生は確かにおりました。男先生も確かにおりました。けれど、同時にお二人を見たかと聞かれますと、自信がございません。あの家では、見る側にいる人が先生で、見られる側にいる人が患者でございました。人間が何人いたかは、たいした問題ではないのでしょう」
七月十九日未明、眠月荘は原因不明の火災により全焼。
焼跡から人骨は発見されず。
押収品の帳面は、保管庫への移送中に一冊を除き紛失した。残った一冊が本記録の前半に相当するが、筆跡鑑定では全頁が羽鳥理一の筆跡と一致した。
ただし最終頁の裏面に、別筆で次の文章がある。
六 裏面
この記録を読む人へ。
私は今、岬から三つ離れた町の待合室にいる。
始発列車を待っている。白衣は脱いだ。指輪は海へ捨てた。鏡のある場所には近づかないようにしている。
駅員は私を「先生」と呼んだ。
茶を売る女は私を「奥さん」と呼んだ。
切符には「小児」と印字されていた。
どれも間違いではない気がする。
窓ガラスには私が映っている。
私が瞬きをすると、映った女は一拍遅れて瞬きをする。左の眉の上に傷があり、右手の指が四本しかない。
私は手を隠した。
女は隠さなかった。
列車が来るまで、あと少しである。
時計は三時十三分を指している。
今度の時計には秒針があるのに、動いていない。
理一の声は、もう聞こえない。
代りに、紙の裏から小さな音がする。
三度。
間を置いて、二度。
また三度。
あなたはここまで、私を見ていた。
私が妻であるか、医師であるか、患者であるかを、文章のこちら側から判定しようとしていた。判定する権利を持つ自分は正常だと、疑わずに。
それは壁裏の椅子に座ることと同じである。
どうか、もう読まないでほしい。
目を閉じてほしい。
頁を伏せてほしい。
見ている者と、見られている者との間には、紙一枚の厚さしかない。
そして今、その紙が少しずつ、こちらへ膨らんでいる。
――もう、あなたのいる側が見える。