『砂漠は空を覚えている』
――ナスカの地上絵をモチーフにした、完全オリジナルのトレジャーハンター小説。
一 自分の死体
砂漠で自分の死体を見つけたとき、飛鳥井玲司はまず腕時計を確かめた。
午前四時十七分。
地下四十メートル。空気は乾き、懐中電灯の光は粉塵に吸われていた。
目の前の遺体も腕時計をしていた。同じ古い潜水時計。同じ亀裂が文字盤の七時から十時へ走り、針は同じ時刻で止まっている。
「触らないで」
背後でイネス・キスペが言った。息が浅い。考古学者らしい慎重さではなく、獣を前にした人間の声だった。
玲司は答えず、膝をついた。
遺体は十一年前の服を着ていた。砂色のシャツ。焦げた革の肩当て。右手の小指が第一関節から欠けている。玲司の右手も同じだった。二十代の終わり、シリア国境で石棺の蓋に挟んだ傷だ。
遺体の顔には乾いた布が巻かれていた。
「やめて、玲司」
「俺の名前を呼ぶな」
「では、何と呼べばいいの」
その問いに答えられない自分が腹立たしかった。
玲司は布の端をつまんだ。砂がさらさらと落ちた。
現れた顔は、彼自身より十歳若かった。
閉じていた瞼が開いた。
眼球はなく、穴の奥に星空があった。
『今度は、弟を置いていくな』
声は口からではなく、玲司の奥歯の内側で鳴った。
次の瞬間、遺体の胸が裂けた。血も臓器もなく、黒い陶器の腕が何本も伸びた。掌には小さな口があり、一斉に息を吸った。
イネスが叫び、照明弾を投げた。
赤い光が地下広間を照らした。壁いっぱいに描かれた鳥、蜘蛛、猿、鯨。その線は天井へ、床へ、さらには二人の影の中へまで続いていた。
中央の祭壇で、顔のない像が笑った。
玲司は拳銃を抜いた。
そして、四十八時間前にはまだ信じていたことを思い出した。
自分は宝を盗みに来たのだ、と。
二 空から消えた絵
四十八時間前、セスナ機はナスカ台地の南端を低く旋回していた。
窓の下を、褐色の大地が流れていく。無数の直線が砂漠を切り、巨大な鳥や蜘蛛の輪郭が朝日に浮かんでいた。
「有名な絵を滑走路だの宇宙人への合図だのと言う者がいるが、実際にはもっと複雑だ」
向かいの席で、イネス・キスペがヘッドセット越しに言った。
三十代半ば。黒髪を短く束ね、日焼けした頬に細い傷がある。ペルー文化省の調査員だったが、盗掘組織への内部告発をして職を失った、と資料にはあった。
「水、儀礼、移動、共同体。地上絵は一つの答えに押し込められるほど単純ではない」
「俺は答えより入口が欲しい」
「あなたはいつもそうやって文明を扉に変えるの?」
「扉に鍵が掛かっていればな」
玲司は膝の上の航空写真を見た。
一九五二年に撮影された白黒写真。現在の地図にはない地上絵が写っている。頭が二つある人間が、黒い四角を抱えている。その輪郭は翌年の洪水と道路工事で消えたことになっていた。
写真の裏には日本語で一行。
《空が見えない場所に埋めた》
玲司自身の筆跡だった。
しかし、書いた記憶はない。
「飛鳥井さん」
操縦席からエステバン・サラス博士が振り返った。銀髪を丁寧になでつけ、砂漠には場違いな白いシャツを着ている。
「間もなく着陸します。体調は?」
「死んだ友人に招待されたにしては悪くない」
依頼状の差出人はアルバロ・メンドーサ。十一年前、玲司とともにこの砂漠へ入り、帰らなかった地質学者だ。
封筒には航空写真と、焼け焦げた陶製の笛、それにサラスの名刺が入っていた。
サラスは神経精神医学者であり、古代儀礼における集団幻覚の研究者でもある。そして、アルバロの遺品管理人だと名乗った。
「メンドーサ博士は三か月前に亡くなりました」
「十一年前に死んだと聞いた」
「人は一度しか死なないとは限りません」
サラスは冗談のように言ったが、笑わなかった。
セスナは白い丘の上へ降りた。
そこには修道院に似た建物があった。厚い壁、小さな窓、中央の中庭。入口の上にスペイン語で《ラ・ビウダ神経療養所》と刻まれている。
「病院に泊まるとは聞いていない」
「今は観測施設です。地上絵の保護活動にも使われています」
滑走路脇で、武装した大男が待っていた。ブルーノ・ベラスコ。元軍人で、サラスの警備主任。首が太く、笑うと犬歯だけが白く見えた。
もう一人、痩せた整備士サソレが荷物を受け取った。左耳の半分が欠けている。
「今夜から風が強くなる」
サソレは空を見て言った。
「砂嵐が来れば、三日は飛べない。砂漠が口を閉じる前に帰ったほうがいい」
「口を開ける前ではなく?」
玲司が訊くと、サソレは笑わなかった。
療養所の中は冷え切っていた。
廊下には十七の扉が並び、すべて外側から施錠できる造りだった。壁の塗装は新しいが、消毒薬と古い汗の匂いが残っている。
玲司の部屋は十七号室だった。
ベッド、机、洗面台。窓には鉄格子。机の引き出しには、彼が長年使ってきたものと同じ型の革手袋が入っていた。
サイズまで合っていた。
廊下の端に、白衣の老女が立っていた。乾いた指で空中に線を描いている。
「啓さん」
老女は玲司を見て言った。
「今度はお兄さんを連れて帰ってね」
玲司が近づくと、老女は扉の向こうへ消えた。
「誰だ」
背後のサラスに問う。
「清掃員です。認知症がある」
「俺を別人の名で呼んだ」
「この土地では、名前は風に混じります」
「詩人の診察料は高そうだな」
玲司は部屋へ入り、扉を閉めた。
洗面台の鏡に、自分の顔が映る。
額から右頬へ走る薄い傷。十一年前、ナスカから帰国したあとにはじめて気づいた傷だ。傷を負った場面だけが、記憶から抜け落ちている。
その夜、鏡の中の男は玲司より一瞬遅れて瞬きをした。
三 ハチドリの喉
午後六時、作戦会議が始まった。
中庭の長机に、航空写真、衛星画像、地質図、古い土器片が並べられた。風が壁を叩き、砂が窓を曇らせている。
イネスが三枚の透明シートを重ねた。
「消えた双頭人形は単独の図形ではない。ハチドリの嘴、蜘蛛の後脚、シャチの尾。その延長線が一点で交わる」
彼女が鉛筆の先で示したのは、療養所から北西へ十二キロの乾いた谷だった。
「そこにはプキオがある」とサソレが言った。「地下水路へ降りる螺旋井戸だ。だが、途中で崩れている」
「崩落の先に空洞がある」
サラスが地中レーダーの図を広げた。
「メンドーサ博士は、ナスカ文化より古い祭祀層を《下の空》と呼んでいました。彼が最後に送った通信には、こうある。《地上絵は絵ではない。巨大な記憶の索引だ》」
ブルーノが鼻を鳴らした。
「索引なら本がある。宝は本か?」
「おそらく鏡です」とサラス。「黒い鏡。古文書では《逆さの太陽》と呼ばれている」
「値段は」
「国家が買えない程度には」
ブルーノが笑った。
玲司は焼けた陶笛を机に置いた。
ハチドリの形をしている。翼の内側に、人間の歯のような細かい突起が並んでいた。
「アルバロの封筒に入っていた。音は出ない」
イネスは笛を手に取り、底の穴を見た。
「壊れているんじゃない。人の息で鳴らすものではない」
彼女は窓際へ行き、風の隙間に笛をかざした。
かすかな音がした。
耳ではなく、肋骨に響く低い震え。
中庭の砂が動き、一本の細い線を作った。
線は北西を指していた。
「出発は今だ」
玲司が言った。
「夜を待つ予定でした」とサラス。
「砂嵐も待ってくれそうにない。宝も病人も、機嫌のいい時に会うに限る」
四人は二台の四輪駆動車で谷へ向かった。
日は沈みかけ、砂漠の色は銅から紫へ変わっていた。遠くの山脈に雷光が走る。雨雲は見えない。
螺旋井戸は巨大な耳のように地面へ開いていた。
石積みの斜面を回りながら降りる。底には冷たい風が流れていた。サソレが崩れた壁を外すと、その奥に人一人が通れる横穴が現れた。
「ここから先は記録にない」
イネスがヘルメットの灯を点けた。
「記録にある場所なら、俺は呼ばれない」
玲司は先頭に立った。
地下水路は低く、ところどころに古い木材が渡されていた。壁には小さな鳥の線刻が続いている。すべて翼を閉じ、同じ方向を向いていた。
百メートルほど進むと、道が三つに分かれた。
中央に石柱があり、ハチドリ、蜘蛛、シャチの顔が彫られている。
「三つの地上絵」とイネス。
「正解はどれだ」とブルーノ。
「三つとも間違いだ」
玲司は石柱の下へしゃがんだ。
床の砂に、風でできた細い筋がある。筋は壁へ向かい、壁の前で消えていた。
ハチドリの笛をかざす。低い震えが強くなった。
玲司は壁を蹴った。
表面が割れ、向こうに縦穴が現れた。
「鳥の嘴は、穴をあけるためにある」
ロープを固定し、一人ずつ降りた。
途中、ブルーノが呟いた。
「下から歌が聞こえる」
誰も返事をしなかった。
玲司にも聞こえていた。
子どもの声で、日本の古いわらべ歌を歌っている。
十一年前、弟の啓が酔うと口ずさんだ歌だった。
四 下の空
縦穴の底には、星空があった。
正確には、天井に埋め込まれた雲母と黒曜石の粒だった。懐中電灯を動かすたび、無数の点がまたたく。地下なのに、見上げるという感覚だけが異様に強かった。
床には白い線で巨大な鳥が描かれている。
地上絵と同じく、一筆書きの道だった。
「触れないで」
イネスが言った。
ブルーノはもう線を踏んでいた。
乾いた破裂音がした。
壁から槍が飛び出すのではなかった。床の線が一斉に沈み、四方の穴から砂が噴き出した。細かな砂は水のように足首へまとわりつき、瞬く間に膝まで上がる。
「走れ!」
玲司は鳥の輪郭に沿って進んだ。
線の内側へ踏み込むと沈み、線上だけが固い。迷路ではない。儀式の道そのものが安全地帯なのだ。
イネス、サソレが続く。ブルーノは近道をしようとして腰まで沈んだ。
玲司はロープを投げた。
「線を踏め! 鳥になれ!」
「鳥は嫌いだ!」
「なら化石になれ!」
ブルーノは悪態をつきながら線へ這い上がった。
四人が鳥の眼にあたる円へ到達すると、砂の流入が止まった。
円の中心に、陶製の台座がある。
台座の穴はハチドリの笛と同じ形だった。
イネスが笛を差し込む。
天井の星が一斉に消えた。
暗闇の中で、誰かが玲司の耳元へ囁いた。
『兄さん』
振り向くと照明が戻った。
サソレがいなかった。
彼のヘルメットだけが、線の外側の砂に浮かんでいる。左耳の欠けた影が砂の中へ沈んだように見えた。
イネスが駆け出そうとしたのを玲司が止めた。
「待て」
「まだ生きているかもしれない!」
「砂の深さは二メートルもない。人間一人が消える量じゃない」
玲司はヘルメットを拾った。内側に血はない。代わりに、乾いた赤い花びらが詰まっていた。
「最初から、ここにサソレはいなかったのかもしれない」
ブルーノが拳銃を抜いた。
「ふざけるな。車を運転していた。俺と話した」
「記憶が事実の証拠になるなら、俺はここへ来ていない」
鳥の眼の先で、石扉が開いた。
冷たい空気が流れてくる。血と雨上がりの土を混ぜた匂い。
奥は円形の広間だった。
壁には人の頭を模した壺が千個近く並んでいる。目を閉じた顔、泣く顔、笑う顔。どれも生々しいが、耳の位置や歯の数が少しずつ人間からずれていた。
中央に黒い像が座っている。
高さは子どもほど。胴は丸く、脚は六本。頭部に顔はなく、両手の掌に口がある。背中から薄い板が二枚伸び、翼にも、切り開かれた肋骨にも見えた。
像の膝に、黒い円盤が置かれている。
直径十五センチほど。鏡のように光を返すが、そこに映るのは現在の顔ではなかった。
玲司が覗くと、少年時代の自分がいた。
いや、弟の啓だった。
啓は画面の向こうで泣いていた。背後には崩れる神殿。血まみれの男を抱えている。
「兄さん、目を開けて」
円盤の中の啓が言った。
抱かれている男の顔は玲司だった。
ブルーノが円盤を奪った。
「俺のだ」
その声には、別人の幼さが混じっていた。
円盤に映ったものを見た瞬間、ブルーノの顔から血の気が引いた。
「違う。俺は撃っていない」
壁の壺が一斉に目を開けた。
すべてブルーノの顔になっていた。
『撃っていない』
『命令だった』
『埋めただけだ』
『子どもはいなかった』
無数の口が彼の言い訳を繰り返す。
ブルーノは乱射した。
壺が砕け、乾いた毛髪と小さな歯が降った。銃弾の一発が黒い像の肩を欠いた。
像の掌の口が開いた。
ブルーノの影だけが床から立ち上がった。
影は本人の首へ腕を回し、背後へ引いた。ブルーノは叫びながら発砲したが、弾は自分の足を撃ち抜いた。
玲司とイネスは床へ伏せた。
照明が消えた。
数秒後、静かになった。
灯りを戻すと、ブルーノはいなかった。
床には銃と、真新しい軍靴だけが残っていた。
黒い円盤は像の膝へ戻っている。
「これは宝じゃない」
イネスの唇が震えた。
「知っている」
玲司は円盤を布で包んだ。
「宝でないものほど、高く売れる」
そのとき、広間の奥で何かが倒れた。
乾いた遺体だった。
砂色のシャツ。古い潜水時計。欠けた右手の小指。
玲司は、自分の死体の前へ歩み寄った。
五 午前四時十七分
死体の胸から伸びた黒い腕を、玲司は三発で砕いた。
陶器の破片が床へ散り、中から白い糸のようなものが這い出した。糸は互いに絡み、弟の啓の顔を作ろうとした。
イネスの照明弾がそれを焼いた。
広間が赤く染まる。
「出口が閉じる!」
鳥の間へ通じる石扉が降り始めていた。
二人は走った。
背後で壺が棚から落ち、砕ける。中から乾いた指や眼球ではなく、声が溢れた。スペイン語、ケチュア語、日本語。祈り、悲鳴、子守歌、死者の名前。
鳥の線を逆にたどる。
砂が再び流れ込み、足元を奪う。イネスが転び、玲司は彼女の腕をつかんだ。
その瞬間、玲司の視界が二つに割れた。
一つの視界では、彼がイネスを引き上げている。
もう一つでは、弟の啓が崩れた洞窟で玲司の手をつかんでいる。
『兄さん、円盤を捨てて』
『これは俺たちが探していたものだ』
『兄さん』
『先に行け』
記憶の中で、玲司は弟の手を振りほどいた。
現実で、イネスの指が滑った。
玲司は円盤を肩から外し、砂へ投げた。
両手でイネスを引き上げる。
黒い円盤は沈まなかった。
砂の上を滑り、自ら玲司の足元へ戻ってきた。
「捨てられないみたいね」
「宝は持ち主を選ぶ、という話が嫌いでね」
「どうして?」
「たいてい持ち主を殺すからだ」
二人は縦穴を登った。
地上へ出ると、砂嵐が谷を呑み込んでいた。車のライトは十メートル先も照らさない。
サソレの車は消えていた。
玲司とイネスは残った車で療養所へ戻った。
午前四時十七分。
門は開いていた。
中庭にサラスが立ち、白衣の男女を従えている。全員が防塵眼鏡をつけ、手には麻酔銃を持っていた。
その隣に、サソレがいた。
無傷だった。
左耳も欠けていない。
「お帰りなさい、飛鳥井さん」
サラスが言った。
「今回も、そこまで辿り着けましたね」
玲司が拳銃へ手を伸ばすより早く、首に針が刺さった。
膝が崩れる。
イネスが何か叫び、白衣の者たちに取り押さえられた。
サラスが近づき、玲司の肩から黒い円盤を外した。
布の中には何もなかった。
「残念です」
サラスは空の布を見てため息をついた。
「まだ、本物の場所を思い出していない」
六 十七号室の患者
目を覚ますと、玲司は十七号室のベッドに拘束されていた。
窓の鉄格子。白い天井。消毒薬の匂い。
服は清潔な患者着に替えられている。右足にブルーノの弾がかすめたはずだが、傷はない。手には砂の感触だけが残っていた。
サラスが椅子に座っていた。
「何日目だ」
玲司は訊いた。
「その質問は良い兆候です」
「何日目だ」
「あなたがここへ来てから、二千九百二十一日目です」
玲司は笑った。喉が乾き、咳になった。
「八年?」
「正確には七年十一か月と二十九日。あなたは何度も同じ探索を経験しています。細部を変え、同行者を変え、目的を変えて」
「薬か」
「薬だけではありません。匂い、音、温度、地形、役者。あなたの記憶は、環境から手掛かりを与えれば驚くほど精密に過去を再演する」
「サソレは」
「職員です」
「耳が違った」
「あなたが過去の人物を重ねた。ブルーノも生きています。地下広間も黒い像も、あなたの内面で構成されたものです」
サラスは分厚いファイルを開いた。
最初のページに写真が貼られている。
二人の日本人の男が肩を組んでいた。
一人は玲司。もう一人は、玲司より五歳ほど若い。目元がよく似ている。
《飛鳥井玲司――古美術回収業。二〇一五年死亡》
《飛鳥井 啓――映像技師。二〇一五年救出。解離性同一性障害、および外傷性記憶転移妄想》
患者名の欄には《飛鳥井 啓》とあった。
「これは偽物だ」
「あなたの顔は崩落で損傷し、複数回の手術を受けた。兄の写真を自分だと思い込むようになった。兄の知識、癖、罪悪感まで引き受けた」
「俺の小指はシリアで失った」
「啓さんは兄の死後、自分で切断しました」
「時計は」
「同じ型を買った」
「俺しか知らない墓の開け方は」
「兄から聞いていた。映像記録も見ていた。人間は、自分の記憶がどこから来たかを正確には区別できません」
サラスは小さな鏡を持ち上げた。
玲司――あるいは啓――の顔が映る。
「あなたは宝を探す兄を演じ続けている。なぜなら、弟として兄を見殺しにした事実に耐えられないからです」
「逆だ」
玲司は即答した。
「兄の俺が、弟を置いてきた」
「それが妄想の核です」
「では、なぜ俺を何度も砂漠へ連れ出す」
サラスの目がわずかに細くなった。
「治療のためです」
「嘘だ。医者は患者に拳銃を持たせない。文化財を探すために麻酔銃も使わない」
沈黙が落ちた。
外で風が唸る。
玲司はサラスの袖口を見た。白衣の下、手首に赤い砂がこびりついている。
「地下は実在する」
「あなたにとっては」
「お前は入口を知らない。だから俺の記憶を掘っている」
サラスはファイルを閉じた。
「記憶は墓に似ています。掘る者がいれば、必ず副葬品が出る」
「患者を盗掘しているのか」
「あなたは患者ではない。鍵です」
サラスは立ち上がった。
「《逆さの太陽》は、発見者の記憶へ地図を分割して隠す。メンドーサ博士はそう仮説を立てた。あなたの中には兄と弟、二人分の断片がある。どちらか一方を治療して消せば、地図も半分失われる」
「だから両方を生かしてきた」
「ええ」
「アルバロは生きていたのか」
「三か月前まで。彼は最後にあなたへ笛を残した。自分を八年間ここへ閉じ込めた男への、ささやかな復讐でしょう」
「お前が閉じ込めた」
「彼も鍵でした」
サラスは扉へ向かった。
「明朝、最後の試行を行います。砂嵐の電気が最も強くなる。地上絵の線と地下の鉱脈が共鳴するのです」
「失敗したら?」
「あなたはまた、四十八時間前から始める」
扉が閉まった。
玲司は天井を見た。
兄か、弟か。
どちらでもない可能性を、サラスは一度も口にしなかった。
七 病院の地下
消灯から一時間後、換気口が外れた。
イネスが顔を出した。
「動ける?」
「見ればわかる」
「口は元気ね」
彼女は細い工具を差し込み、拘束具を外した。左手首に注射痕がある。
「君も役者か」
「半分は」
「半分?」
「私は文化財調査のために雇われた。サラスから、あなたは危険な盗掘者で、記憶に埋蔵地を隠していると聞かされた。探索は治療プログラムだと」
「どこまで演技だった」
「セスナ、会議、プキオの入口までは本物。地下で見たものは……わからない。戻ってきたら、服に砂はついていた。でも映像記録では、私たちは入口の前で二時間立ち尽くしていただけ」
「ブルーノとサソレは」
「二人とも職員。ブルーノは元軍人ではなく看護主任。暴力歴は本物みたいだけれど」
イネスは廊下を見た。
「私の記憶にも、あの円盤が映したものがある。死んだ妹。私は妹などいないのに」
玲司はベッドから降りた。
「借り物の罪悪感か」
「あるいは、誰かの記憶を入れられた」
二人は廊下へ出た。
十六の部屋は空ではなかった。
一号室では老人が床に巨大な蜘蛛を描いている。
二号室では若い女が空中へ見えない水を汲み上げている。
三号室では少年が日本語で、玲司の弟しか知らない歌を口ずさんでいた。
すべての扉の覗き窓から、患者たちが玲司を見た。
『兄さん』
『弟よ』
『博士』
『泥棒』
『帰ってきた』
呼び名はばらばらだった。
廊下の突き当たりに、地下へ降りるエレベーターがある。イネスが職員カードを使った。
地下二階は診療施設ではなかった。
金属棚に、何百本もの磁気テープ、脳波記録、土器片、黒曜石の破片が保管されている。中央には、地上絵全体を模した巨大な模型があった。
模型の線上に小さなランプが点り、病室番号が表示されている。
「患者を線の上に配置している」
イネスが息を呑んだ。
「療養所そのものが地上絵の一部なのよ」
中庭、廊下、病室。上から見れば、それらは双頭の人形の消えた輪郭を再現していた。
十七号室は、人形が抱く黒い四角の中心にある。
玲司は記録棚を調べた。
《試行三十一 患者Aを探検家人格へ誘導》
《試行四十六 患者Bにメンドーサ記憶群を移植》
《試行五十二 飛鳥井人格の混線を確認》
《試行六十三 外部観察者キスペ、共鳴反応あり》
「君まで実験体だ」
イネスは唇を噛んだ。
別の棚に、アルバロ・メンドーサの映像記録があった。
古いモニターに再生する。
映ったアルバロは痩せ、頭髪を剃られ、椅子に縛られていた。
『これを見ているのが玲司でも啓でも、どちらでも構わない』
彼は日本語で話した。十一年前より流暢だった。
『サラスは間違っている。《逆さの太陽》は記憶を保存する道具ではない。人間を使って、自分自身を保存する生き物だ。黒い像は容器、地上絵は神経、私たちは一時的な肉体にすぎない』
画面の外でサラスの声がした。
『本体はどこだ』
『空が見えない場所だ』
『座標を言え』
『砂漠は空を覚えている。だが、空は砂漠の下を知らない』
アルバロはカメラへ顔を近づけた。
『飛鳥井。兄を助けようとするな。弟を救おうとするな。二人とも、もう死んでいる』
映像が乱れた。
最後の一秒、アルバロの瞳の中に黒い円盤が映った。
玲司の頭蓋の奥で、何かが開いた。
八 二人分の死
十一年前の記憶が戻った。
玲司は自分を二つの角度から見ていた。
兄の玲司は、崩れる地下広間で黒い円盤を抱えていた。
弟の啓は、カメラを捨てて兄へ駆け寄った。
サラスの若い声が無線から響く。
『円盤を持ち帰れ。人命より優先しろ』
天井が落ちた。
玲司の脚が岩に潰された。啓は兄を引きずろうとしたが、動かない。
『置いていけ』と玲司は言った。
『嫌だ』
『これは命令だ』
『いつも命令する。兄さんは、俺がいなければ靴下の場所もわからないくせに』
啓は泣きながら笑った。
黒い円盤が二人の間へ落ちた。
表面が液体のように波打ち、細い糸が伸びた。一本は玲司の眼へ、一本は啓の耳へ入った。
兄の痛みが弟へ流れた。
弟の恐怖が兄へ流れた。
幼少期、父の葬儀、初めて盗んだ土器片、母の声、恋人の名前、裏切り、喧嘩、赦せなかった言葉。
二人の人生が混ざった。
玲司の肉体は死んだ。
啓の肉体は立ち上がった。
だが、その中で目を開けた者は、自分を玲司だと思った。
それだけではなかった。
円盤の中には、何千人もの記憶がいた。古代の祭司、首を刎ねられた捕虜、砂漠を歩いた子ども、盗掘者、調査員、兵士。啓の脳はそれらを閉じ込めるため、最も強い人格――兄の玲司――を蓋にした。
アルバロが生き残った啓を地上へ運んだ。
『本体を隠せ』と、啓の口を使って玲司が言った。
二人は円盤を、療養所が建つ前の空洞へ運んだ。
地上絵の消えた双頭人形。その黒い四角にあたる場所。
だが、座標は一つの人格では思い出せないよう、兄の記憶と弟の記憶へ分けて封じた。
サラスに奪われないために。
玲司はモニターの前で目を開けた。
「俺は啓だ」
声に出してみる。
胸の奥で、別の声が答えた。
『俺は玲司だ』
「どちらも本物」とイネスが言った。
「都合のいい慰めだ」
「違う。記憶が人を作るなら、あなたには二人分ある。体が人を作るなら啓。選択が人を作るなら、これから決めればいい」
警報が鳴った。
模型のすべてのランプが赤く点いた。
地上で砂嵐が最高潮に達し、壁の金属が低く唸る。患者たちの足音が廊下を移動し始めた。
モニターにサラスが映った。
『試行六十四を開始します。すべての被験者は指定された線を歩いてください』
映像の中庭で、白衣の職員が患者を一列に並べている。
一人ひとりが地上絵の輪郭をなぞって歩き始めた。
玲司は模型を見た。
「最後の線が完成する」
「何が起きるの?」
「空が下を向く」
九 逆さの太陽
地下施設の床が割れた。
亀裂は模型の線に沿い、黒い砂を噴き上げた。砂の中に雲母が混じり、星空のように光る。
玲司とイネスは非常階段を駆け上がった。
中庭では、患者たちが嵐の中を歩いている。雷が落ちるたび、足元の線が青白く発光した。
サラスは中央に立っていた。
手には本物の黒い円盤がある。
玲司の記憶が戻ったことで、十七号室の床下に隠された空洞が開いたのだ。
「おめでとう、飛鳥井さん」
サラスの白衣が風にはためく。
「あなたはついに治癒した」
「医者は治った患者を殺すものか」
「鍵は扉を開ければ不要です」
ブルーノが銃を向けた。地下で消えた姿と同じ軍靴を履いている。
サソレもいる。耳は両方あったが、雷光が走るたび左耳だけが欠けて見えた。
「全員、円盤に記憶を重ねられている」とイネス。「誰が職員で誰が患者なのか、もう区別できない」
「区別する必要はありません」
サラスは円盤を掲げた。
「個人という病から解放される。死者の経験を生者へ移し、文明の記憶を永遠に保存する。王も兵士も学者も、同じ器の中で生きる」
「墓場を図書館と呼び替えただけだ」
「あなた自身が成功例でしょう。弟の肉体で兄が生きている」
玲司は首を振った。
「違う。弟の人生を兄が食っている」
サラスの笑みが消えた。
黒い円盤から糸が伸び、彼の手首へ潜り込んだ。
患者たちが一斉に止まった。
全員がサラスを見た。
その口から、別々の声が漏れ始める。
『水を』
『母さん』
『首を返して』
『私はここにいる』
『空が落ちる』
『兄さん』
『弟よ』
サラスの顔が波打った。
皮膚の下で無数の表情が押し合い、頬や額に目と口の形が浮かぶ。彼は苦痛に膝をつきながら、それでも円盤を離さなかった。
「見える……すべてが見える。二千年前の雨、祭司の夢、星の落ちた夜……」
「それは記憶じゃない」と玲司。「飢えだ」
地面が大きく陥没した。
中庭の中央に円形の穴が開き、下の空へ続く階段が現れた。
サラスは立ち上がり、穴へ向かう。
玲司は追おうとした。
ブルーノが発砲した。
弾は玲司の脇腹をかすめた。イネスがブルーノへ体当たりし、二人は砂の上へ転がった。
玲司はハチドリの陶笛を取り出した。
嵐へかざす。
低い音が鳴り、中庭の線が震えた。
患者たちの視線が一斉に笛へ向く。
玲司は笛をブルーノの足元へ投げた。
ブルーノが反射的に拾う。
円盤から伸びた糸が彼へ向きを変えた。ブルーノは叫び、笛を放した。その隙にイネスが銃を奪い、柄で彼を殴り倒した。
「本体を壊せる?」
イネスが訊く。
「わからない」
「宝の専門家でしょう」
「壊した宝は査定できない」
「今度だけ無料でお願い」
二人は階段を降りた。
地下広間は、先ほどの幻と同じだった。
星の天井。鳥の線。千の顔を持つ壺。中央の黒い像。
ただし、像は陶器ではなかった。
呼吸していた。
表面は黒い石に見えたが、膨張と収縮を繰り返している。六本の脚が床の亀裂へ根を張り、地上絵すべてとつながっていた。
サラスが像の前に立ち、円盤を頭部の窪みへはめ込んだ。
像の掌の口が開く。
広間の壺が一斉に喋った。
『器を選べ』
玲司の目の前に、二人の男が現れた。
一人は兄の玲司。
一人は弟の啓。
兄は血まみれで笑っている。
『俺を残せ。お前はずっとそうしてきた』
弟はカメラを抱え、泣いている。
『兄さんを消さないで』
黒い像が囁く。
『一人を選べ。もう一人を食わせろ。器は軽くなる』
玲司は二人を見た。
十一年間、兄として生きた。
十一年間、弟を殺した罪に追われた。
だが、罪を背負っていたのは兄だけではない。弟もまた、兄を忘れることを拒んだ。
「どちらも選ばない」
『器は壊れる』
「壊れた器で十分だ」
玲司は鳥の線へ足を置いた。
兄の記憶では、右回りに歩く道。
弟の記憶では、左回りに歩く道。
線は一つだが、意味は逆だった。
玲司は一歩ごとに呼吸を変えた。
兄として右へ。
弟として左へ。
同じ肉体で、二つの儀式を重ねる。
像が震えた。
地上絵の神経に、矛盾した信号が流れる。
サラスが叫んだ。
「やめろ! 記憶が失われる!」
「お前のものじゃない」
「人類の遺産だ!」
「遺産は、死者が生者を支配する免許じゃない!」
イネスが壁の水路を見つけた。
古い石栓を引き抜く。
地下水が噴き出し、床の白線を洗った。乾燥した砂漠で二千年守られた回路が、泥に変わって崩れていく。
黒い像の背が割れた。
中から骨も機械も出なかった。
夜空が出た。
星々の間に、無数の人間の顔が浮かんでいる。誰もが口を開き、最後の一言を言おうとしていた。
玲司の頭の中から、記憶が引き出される。
兄の初恋。
弟の卒業式。
母の手。
父の葬儀。
アルバロの笑い声。
地下で死んだ者たちの恐怖。
すべてが像へ戻っていく。
玲司は倒れそうになった。
イネスが手を伸ばす。
「あなたの名前は?」
試すような問いだった。
玲司は答えようとした。
玲司。
啓。
どちらの名も、遠い部屋に置き忘れた荷物のように感じた。
サラスが像へ飛びついた。
「私を残せ! 私を記録しろ!」
掌の口が彼の腕へ噛みついた。
サラスの身体から、幾千もの声が吸い出される。彼自身の声は最後まで聞こえなかった。
像は内側へ崩れた。
星空が一点に縮み、黒い円盤だけが床へ落ちた。
玲司は円盤を拾った。
表面には何も映らない。
彼は膝で割った。
二つに割れた円盤は、ただの黒い土になった。
地下広間の天井が崩れ始めた。
「走って!」
イネスに引かれ、玲司は階段へ向かった。
背後で壺が砕けた。
今度は悲鳴ではなく、風の音だけがした。
十 砂漠は空を覚えている
夜明け前、嵐は止んだ。
療養所の半分は陥没し、中庭には泥水が溜まっていた。患者たちは砂の上に座り、それぞれ自分の名前を確かめるように繰り返している。
ブルーノは生きていた。自分が看護師なのか兵士なのか思い出せず、両手を見つめていた。
サソレは二人いた。
一人は左耳が欠け、一人は欠けていない。
やがて、欠けていない方は鏡に映った像だとわかった。朝日が昇ると消えた。
救難ヘリが到着したのは午前八時だった。
イネスは文化省と警察へ連絡し、地下資料の保全を要請した。サラスの研究記録は大半が残っている。療養所で何が行われたか、いずれ明らかになるだろう。
玲司は滑走路の端に立っていた。
脇腹には包帯。右手の小指は欠けたまま。古い潜水時計は午前四時十七分で止まっている。
イネスが隣に来た。
「報告書に名前が必要」
「飛鳥井でいい」
「名は?」
玲司は砂漠を見た。
遠くにハチドリの線がある。人間には地上から全体が見えない。それでも、線を引いた者たちは完成した形を知っていた。
見えないものを信じたのではない。
歩いた道を覚えていたのだ。
「空欄にしてくれ」
「逃亡者みたい」
「トレジャーハンターはたいていそうだ」
「宝は何か残った?」
玲司はポケットから陶製の笛を出した。
焼け焦げたハチドリ。金銭的な価値はほとんどない。
笛を朝の風へかざす。
今度は低い震えではなく、澄んだ一音が鳴った。
患者たちが顔を上げた。
誰も泣かなかった。
「これだけだ」と玲司。
「持ち出すの?」
彼は少し考え、イネスへ渡した。
「博物館に置け。説明札には、空を飛ばなかった鳥と書いてくれ」
「正確ではないわ」
「学者が直せばいい」
二人はヘリへ向かった。
離陸すると、崩れた療養所と中庭の線が一つの形になった。
双頭の人間。
黒い四角は消え、二つの頭の間に一本の道が引かれている。
その道は地上絵の外へ伸び、砂漠の彼方へ続いていた。
「十一年前の写真にはなかった線よ」
イネスが窓から見下ろした。
「誰が描いたの?」
玲司は答えなかった。
眼下で朝日が砂を照らす。
兄の記憶もある。
弟の記憶もある。
だが、これから歩く道は、どちらのものでもない。
砂漠は空を覚えている。
空が忘れても、歩いた者が忘れても。
線だけは、次に進む方向を残していた。
了