『砂漠は空を覚えている』

 ――ナスカの地上絵をモチーフにした、完全オリジナルのトレジャーハンター小説。

一 自分の死体

 砂漠で自分の死体を見つけたとき、飛鳥井玲司はまず腕時計を確かめた。

 午前四時十七分。

 地下四十メートル。空気は乾き、懐中電灯の光は粉塵に吸われていた。

 目の前の遺体も腕時計をしていた。同じ古い潜水時計。同じ亀裂が文字盤の七時から十時へ走り、針は同じ時刻で止まっている。

「触らないで」

 背後でイネス・キスペが言った。息が浅い。考古学者らしい慎重さではなく、獣を前にした人間の声だった。

 玲司は答えず、膝をついた。

 遺体は十一年前の服を着ていた。砂色のシャツ。焦げた革の肩当て。右手の小指が第一関節から欠けている。玲司の右手も同じだった。二十代の終わり、シリア国境で石棺の蓋に挟んだ傷だ。

 遺体の顔には乾いた布が巻かれていた。

「やめて、玲司」

「俺の名前を呼ぶな」

「では、何と呼べばいいの」

 その問いに答えられない自分が腹立たしかった。

 玲司は布の端をつまんだ。砂がさらさらと落ちた。

 現れた顔は、彼自身より十歳若かった。

 閉じていた瞼が開いた。

 眼球はなく、穴の奥に星空があった。

『今度は、弟を置いていくな』

 声は口からではなく、玲司の奥歯の内側で鳴った。

 次の瞬間、遺体の胸が裂けた。血も臓器もなく、黒い陶器の腕が何本も伸びた。掌には小さな口があり、一斉に息を吸った。

 イネスが叫び、照明弾を投げた。

 赤い光が地下広間を照らした。壁いっぱいに描かれた鳥、蜘蛛、猿、鯨。その線は天井へ、床へ、さらには二人の影の中へまで続いていた。

 中央の祭壇で、顔のない像が笑った。

 玲司は拳銃を抜いた。

 そして、四十八時間前にはまだ信じていたことを思い出した。

 自分は宝を盗みに来たのだ、と。

二 空から消えた絵

 四十八時間前、セスナ機はナスカ台地の南端を低く旋回していた。

 窓の下を、褐色の大地が流れていく。無数の直線が砂漠を切り、巨大な鳥や蜘蛛の輪郭が朝日に浮かんでいた。

「有名な絵を滑走路だの宇宙人への合図だのと言う者がいるが、実際にはもっと複雑だ」

 向かいの席で、イネス・キスペがヘッドセット越しに言った。

 三十代半ば。黒髪を短く束ね、日焼けした頬に細い傷がある。ペルー文化省の調査員だったが、盗掘組織への内部告発をして職を失った、と資料にはあった。

「水、儀礼、移動、共同体。地上絵は一つの答えに押し込められるほど単純ではない」

「俺は答えより入口が欲しい」

「あなたはいつもそうやって文明を扉に変えるの?」

「扉に鍵が掛かっていればな」

 玲司は膝の上の航空写真を見た。

 一九五二年に撮影された白黒写真。現在の地図にはない地上絵が写っている。頭が二つある人間が、黒い四角を抱えている。その輪郭は翌年の洪水と道路工事で消えたことになっていた。

 写真の裏には日本語で一行。

《空が見えない場所に埋めた》

 玲司自身の筆跡だった。

 しかし、書いた記憶はない。

「飛鳥井さん」

 操縦席からエステバン・サラス博士が振り返った。銀髪を丁寧になでつけ、砂漠には場違いな白いシャツを着ている。

「間もなく着陸します。体調は?」

「死んだ友人に招待されたにしては悪くない」

 依頼状の差出人はアルバロ・メンドーサ。十一年前、玲司とともにこの砂漠へ入り、帰らなかった地質学者だ。

 封筒には航空写真と、焼け焦げた陶製の笛、それにサラスの名刺が入っていた。

 サラスは神経精神医学者であり、古代儀礼における集団幻覚の研究者でもある。そして、アルバロの遺品管理人だと名乗った。

「メンドーサ博士は三か月前に亡くなりました」

「十一年前に死んだと聞いた」

「人は一度しか死なないとは限りません」

 サラスは冗談のように言ったが、笑わなかった。

 セスナは白い丘の上へ降りた。

 そこには修道院に似た建物があった。厚い壁、小さな窓、中央の中庭。入口の上にスペイン語で《ラ・ビウダ神経療養所》と刻まれている。

「病院に泊まるとは聞いていない」

「今は観測施設です。地上絵の保護活動にも使われています」

 滑走路脇で、武装した大男が待っていた。ブルーノ・ベラスコ。元軍人で、サラスの警備主任。首が太く、笑うと犬歯だけが白く見えた。

 もう一人、痩せた整備士サソレが荷物を受け取った。左耳の半分が欠けている。

「今夜から風が強くなる」

 サソレは空を見て言った。

「砂嵐が来れば、三日は飛べない。砂漠が口を閉じる前に帰ったほうがいい」

「口を開ける前ではなく?」

 玲司が訊くと、サソレは笑わなかった。

 療養所の中は冷え切っていた。

 廊下には十七の扉が並び、すべて外側から施錠できる造りだった。壁の塗装は新しいが、消毒薬と古い汗の匂いが残っている。

 玲司の部屋は十七号室だった。

 ベッド、机、洗面台。窓には鉄格子。机の引き出しには、彼が長年使ってきたものと同じ型の革手袋が入っていた。

 サイズまで合っていた。

 廊下の端に、白衣の老女が立っていた。乾いた指で空中に線を描いている。

「啓さん」

 老女は玲司を見て言った。

「今度はお兄さんを連れて帰ってね」

 玲司が近づくと、老女は扉の向こうへ消えた。

「誰だ」

 背後のサラスに問う。

「清掃員です。認知症がある」

「俺を別人の名で呼んだ」

「この土地では、名前は風に混じります」

「詩人の診察料は高そうだな」

 玲司は部屋へ入り、扉を閉めた。

 洗面台の鏡に、自分の顔が映る。

 額から右頬へ走る薄い傷。十一年前、ナスカから帰国したあとにはじめて気づいた傷だ。傷を負った場面だけが、記憶から抜け落ちている。

 その夜、鏡の中の男は玲司より一瞬遅れて瞬きをした。

三 ハチドリの喉

 午後六時、作戦会議が始まった。

 中庭の長机に、航空写真、衛星画像、地質図、古い土器片が並べられた。風が壁を叩き、砂が窓を曇らせている。

 イネスが三枚の透明シートを重ねた。

「消えた双頭人形は単独の図形ではない。ハチドリの嘴、蜘蛛の後脚、シャチの尾。その延長線が一点で交わる」

 彼女が鉛筆の先で示したのは、療養所から北西へ十二キロの乾いた谷だった。

「そこにはプキオがある」とサソレが言った。「地下水路へ降りる螺旋井戸だ。だが、途中で崩れている」

「崩落の先に空洞がある」

 サラスが地中レーダーの図を広げた。

「メンドーサ博士は、ナスカ文化より古い祭祀層を《下の空》と呼んでいました。彼が最後に送った通信には、こうある。《地上絵は絵ではない。巨大な記憶の索引だ》

 ブルーノが鼻を鳴らした。

「索引なら本がある。宝は本か?」

「おそらく鏡です」とサラス。「黒い鏡。古文書では《逆さの太陽》と呼ばれている」

「値段は」

「国家が買えない程度には」

 ブルーノが笑った。

 玲司は焼けた陶笛を机に置いた。

 ハチドリの形をしている。翼の内側に、人間の歯のような細かい突起が並んでいた。

「アルバロの封筒に入っていた。音は出ない」

 イネスは笛を手に取り、底の穴を見た。

「壊れているんじゃない。人の息で鳴らすものではない」

 彼女は窓際へ行き、風の隙間に笛をかざした。

 かすかな音がした。

 耳ではなく、肋骨に響く低い震え。

 中庭の砂が動き、一本の細い線を作った。

 線は北西を指していた。

「出発は今だ」

 玲司が言った。

「夜を待つ予定でした」とサラス。

「砂嵐も待ってくれそうにない。宝も病人も、機嫌のいい時に会うに限る」

 四人は二台の四輪駆動車で谷へ向かった。

 日は沈みかけ、砂漠の色は銅から紫へ変わっていた。遠くの山脈に雷光が走る。雨雲は見えない。

 螺旋井戸は巨大な耳のように地面へ開いていた。

 石積みの斜面を回りながら降りる。底には冷たい風が流れていた。サソレが崩れた壁を外すと、その奥に人一人が通れる横穴が現れた。

「ここから先は記録にない」

 イネスがヘルメットの灯を点けた。

「記録にある場所なら、俺は呼ばれない」

 玲司は先頭に立った。

 地下水路は低く、ところどころに古い木材が渡されていた。壁には小さな鳥の線刻が続いている。すべて翼を閉じ、同じ方向を向いていた。

 百メートルほど進むと、道が三つに分かれた。

 中央に石柱があり、ハチドリ、蜘蛛、シャチの顔が彫られている。

「三つの地上絵」とイネス。

「正解はどれだ」とブルーノ。

「三つとも間違いだ」

 玲司は石柱の下へしゃがんだ。

 床の砂に、風でできた細い筋がある。筋は壁へ向かい、壁の前で消えていた。

 ハチドリの笛をかざす。低い震えが強くなった。

 玲司は壁を蹴った。

 表面が割れ、向こうに縦穴が現れた。

「鳥の嘴は、穴をあけるためにある」

 ロープを固定し、一人ずつ降りた。

 途中、ブルーノが呟いた。

「下から歌が聞こえる」

 誰も返事をしなかった。

 玲司にも聞こえていた。

 子どもの声で、日本の古いわらべ歌を歌っている。

 十一年前、弟の啓が酔うと口ずさんだ歌だった。

四 下の空

 縦穴の底には、星空があった。

 正確には、天井に埋め込まれた雲母と黒曜石の粒だった。懐中電灯を動かすたび、無数の点がまたたく。地下なのに、見上げるという感覚だけが異様に強かった。

 床には白い線で巨大な鳥が描かれている。

 地上絵と同じく、一筆書きの道だった。

「触れないで」

 イネスが言った。

 ブルーノはもう線を踏んでいた。

 乾いた破裂音がした。

 壁から槍が飛び出すのではなかった。床の線が一斉に沈み、四方の穴から砂が噴き出した。細かな砂は水のように足首へまとわりつき、瞬く間に膝まで上がる。

「走れ!」

 玲司は鳥の輪郭に沿って進んだ。

 線の内側へ踏み込むと沈み、線上だけが固い。迷路ではない。儀式の道そのものが安全地帯なのだ。

 イネス、サソレが続く。ブルーノは近道をしようとして腰まで沈んだ。

 玲司はロープを投げた。

「線を踏め! 鳥になれ!」

「鳥は嫌いだ!」

「なら化石になれ!」

 ブルーノは悪態をつきながら線へ這い上がった。

 四人が鳥の眼にあたる円へ到達すると、砂の流入が止まった。

 円の中心に、陶製の台座がある。

 台座の穴はハチドリの笛と同じ形だった。

 イネスが笛を差し込む。

 天井の星が一斉に消えた。

 暗闇の中で、誰かが玲司の耳元へ囁いた。

『兄さん』

 振り向くと照明が戻った。

 サソレがいなかった。

 彼のヘルメットだけが、線の外側の砂に浮かんでいる。左耳の欠けた影が砂の中へ沈んだように見えた。

 イネスが駆け出そうとしたのを玲司が止めた。

「待て」

「まだ生きているかもしれない!」

「砂の深さは二メートルもない。人間一人が消える量じゃない」

 玲司はヘルメットを拾った。内側に血はない。代わりに、乾いた赤い花びらが詰まっていた。

「最初から、ここにサソレはいなかったのかもしれない」

 ブルーノが拳銃を抜いた。

「ふざけるな。車を運転していた。俺と話した」

「記憶が事実の証拠になるなら、俺はここへ来ていない」

 鳥の眼の先で、石扉が開いた。

 冷たい空気が流れてくる。血と雨上がりの土を混ぜた匂い。

 奥は円形の広間だった。

 壁には人の頭を模した壺が千個近く並んでいる。目を閉じた顔、泣く顔、笑う顔。どれも生々しいが、耳の位置や歯の数が少しずつ人間からずれていた。

 中央に黒い像が座っている。

 高さは子どもほど。胴は丸く、脚は六本。頭部に顔はなく、両手の掌に口がある。背中から薄い板が二枚伸び、翼にも、切り開かれた肋骨にも見えた。

 像の膝に、黒い円盤が置かれている。

 直径十五センチほど。鏡のように光を返すが、そこに映るのは現在の顔ではなかった。

 玲司が覗くと、少年時代の自分がいた。

 いや、弟の啓だった。

 啓は画面の向こうで泣いていた。背後には崩れる神殿。血まみれの男を抱えている。

「兄さん、目を開けて」

 円盤の中の啓が言った。

 抱かれている男の顔は玲司だった。

 ブルーノが円盤を奪った。

「俺のだ」

 その声には、別人の幼さが混じっていた。

 円盤に映ったものを見た瞬間、ブルーノの顔から血の気が引いた。

「違う。俺は撃っていない」

 壁の壺が一斉に目を開けた。

 すべてブルーノの顔になっていた。

『撃っていない』

『命令だった』

『埋めただけだ』

『子どもはいなかった』

 無数の口が彼の言い訳を繰り返す。

 ブルーノは乱射した。

 壺が砕け、乾いた毛髪と小さな歯が降った。銃弾の一発が黒い像の肩を欠いた。

 像の掌の口が開いた。

 ブルーノの影だけが床から立ち上がった。

 影は本人の首へ腕を回し、背後へ引いた。ブルーノは叫びながら発砲したが、弾は自分の足を撃ち抜いた。

 玲司とイネスは床へ伏せた。

 照明が消えた。

 数秒後、静かになった。

 灯りを戻すと、ブルーノはいなかった。

 床には銃と、真新しい軍靴だけが残っていた。

 黒い円盤は像の膝へ戻っている。

「これは宝じゃない」

 イネスの唇が震えた。

「知っている」

 玲司は円盤を布で包んだ。

「宝でないものほど、高く売れる」

 そのとき、広間の奥で何かが倒れた。

 乾いた遺体だった。

 砂色のシャツ。古い潜水時計。欠けた右手の小指。

 玲司は、自分の死体の前へ歩み寄った。

五 午前四時十七分

 死体の胸から伸びた黒い腕を、玲司は三発で砕いた。

 陶器の破片が床へ散り、中から白い糸のようなものが這い出した。糸は互いに絡み、弟の啓の顔を作ろうとした。

 イネスの照明弾がそれを焼いた。

 広間が赤く染まる。

「出口が閉じる!」

 鳥の間へ通じる石扉が降り始めていた。

 二人は走った。

 背後で壺が棚から落ち、砕ける。中から乾いた指や眼球ではなく、声が溢れた。スペイン語、ケチュア語、日本語。祈り、悲鳴、子守歌、死者の名前。

 鳥の線を逆にたどる。

 砂が再び流れ込み、足元を奪う。イネスが転び、玲司は彼女の腕をつかんだ。

 その瞬間、玲司の視界が二つに割れた。

 一つの視界では、彼がイネスを引き上げている。

 もう一つでは、弟の啓が崩れた洞窟で玲司の手をつかんでいる。

『兄さん、円盤を捨てて』

『これは俺たちが探していたものだ』

『兄さん』

『先に行け』

 記憶の中で、玲司は弟の手を振りほどいた。

 現実で、イネスの指が滑った。

 玲司は円盤を肩から外し、砂へ投げた。

 両手でイネスを引き上げる。

 黒い円盤は沈まなかった。

 砂の上を滑り、自ら玲司の足元へ戻ってきた。

「捨てられないみたいね」

「宝は持ち主を選ぶ、という話が嫌いでね」

「どうして?」

「たいてい持ち主を殺すからだ」

 二人は縦穴を登った。

 地上へ出ると、砂嵐が谷を呑み込んでいた。車のライトは十メートル先も照らさない。

 サソレの車は消えていた。

 玲司とイネスは残った車で療養所へ戻った。

 午前四時十七分。

 門は開いていた。

 中庭にサラスが立ち、白衣の男女を従えている。全員が防塵眼鏡をつけ、手には麻酔銃を持っていた。

 その隣に、サソレがいた。

 無傷だった。

 左耳も欠けていない。

「お帰りなさい、飛鳥井さん」

 サラスが言った。

「今回も、そこまで辿り着けましたね」

 玲司が拳銃へ手を伸ばすより早く、首に針が刺さった。

 膝が崩れる。

 イネスが何か叫び、白衣の者たちに取り押さえられた。

 サラスが近づき、玲司の肩から黒い円盤を外した。

 布の中には何もなかった。

「残念です」

 サラスは空の布を見てため息をついた。

「まだ、本物の場所を思い出していない」

六 十七号室の患者

 目を覚ますと、玲司は十七号室のベッドに拘束されていた。

 窓の鉄格子。白い天井。消毒薬の匂い。

 服は清潔な患者着に替えられている。右足にブルーノの弾がかすめたはずだが、傷はない。手には砂の感触だけが残っていた。

 サラスが椅子に座っていた。

「何日目だ」

 玲司は訊いた。

「その質問は良い兆候です」

「何日目だ」

「あなたがここへ来てから、二千九百二十一日目です」

 玲司は笑った。喉が乾き、咳になった。

「八年?」

「正確には七年十一か月と二十九日。あなたは何度も同じ探索を経験しています。細部を変え、同行者を変え、目的を変えて」

「薬か」

「薬だけではありません。匂い、音、温度、地形、役者。あなたの記憶は、環境から手掛かりを与えれば驚くほど精密に過去を再演する」

「サソレは」

「職員です」

「耳が違った」

「あなたが過去の人物を重ねた。ブルーノも生きています。地下広間も黒い像も、あなたの内面で構成されたものです」

 サラスは分厚いファイルを開いた。

 最初のページに写真が貼られている。

 二人の日本人の男が肩を組んでいた。

 一人は玲司。もう一人は、玲司より五歳ほど若い。目元がよく似ている。

《飛鳥井玲司――古美術回収業。二〇一五年死亡》

《飛鳥井 啓――映像技師。二〇一五年救出。解離性同一性障害、および外傷性記憶転移妄想》

 患者名の欄には《飛鳥井 啓》とあった。

「これは偽物だ」

「あなたの顔は崩落で損傷し、複数回の手術を受けた。兄の写真を自分だと思い込むようになった。兄の知識、癖、罪悪感まで引き受けた」

「俺の小指はシリアで失った」

「啓さんは兄の死後、自分で切断しました」

「時計は」

「同じ型を買った」

「俺しか知らない墓の開け方は」

「兄から聞いていた。映像記録も見ていた。人間は、自分の記憶がどこから来たかを正確には区別できません」

 サラスは小さな鏡を持ち上げた。

 玲司――あるいは啓――の顔が映る。

「あなたは宝を探す兄を演じ続けている。なぜなら、弟として兄を見殺しにした事実に耐えられないからです」

「逆だ」

 玲司は即答した。

「兄の俺が、弟を置いてきた」

「それが妄想の核です」

「では、なぜ俺を何度も砂漠へ連れ出す」

 サラスの目がわずかに細くなった。

「治療のためです」

「嘘だ。医者は患者に拳銃を持たせない。文化財を探すために麻酔銃も使わない」

 沈黙が落ちた。

 外で風が唸る。

 玲司はサラスの袖口を見た。白衣の下、手首に赤い砂がこびりついている。

「地下は実在する」

「あなたにとっては」

「お前は入口を知らない。だから俺の記憶を掘っている」

 サラスはファイルを閉じた。

「記憶は墓に似ています。掘る者がいれば、必ず副葬品が出る」

「患者を盗掘しているのか」

「あなたは患者ではない。鍵です」

 サラスは立ち上がった。

《逆さの太陽》は、発見者の記憶へ地図を分割して隠す。メンドーサ博士はそう仮説を立てた。あなたの中には兄と弟、二人分の断片がある。どちらか一方を治療して消せば、地図も半分失われる」

「だから両方を生かしてきた」

「ええ」

「アルバロは生きていたのか」

「三か月前まで。彼は最後にあなたへ笛を残した。自分を八年間ここへ閉じ込めた男への、ささやかな復讐でしょう」

「お前が閉じ込めた」

「彼も鍵でした」

 サラスは扉へ向かった。

「明朝、最後の試行を行います。砂嵐の電気が最も強くなる。地上絵の線と地下の鉱脈が共鳴するのです」

「失敗したら?」

「あなたはまた、四十八時間前から始める」

 扉が閉まった。

 玲司は天井を見た。

 兄か、弟か。

 どちらでもない可能性を、サラスは一度も口にしなかった。

七 病院の地下

 消灯から一時間後、換気口が外れた。

 イネスが顔を出した。

「動ける?」

「見ればわかる」

「口は元気ね」

 彼女は細い工具を差し込み、拘束具を外した。左手首に注射痕がある。

「君も役者か」

「半分は」

「半分?」

「私は文化財調査のために雇われた。サラスから、あなたは危険な盗掘者で、記憶に埋蔵地を隠していると聞かされた。探索は治療プログラムだと」

「どこまで演技だった」

「セスナ、会議、プキオの入口までは本物。地下で見たものは……わからない。戻ってきたら、服に砂はついていた。でも映像記録では、私たちは入口の前で二時間立ち尽くしていただけ」

「ブルーノとサソレは」

「二人とも職員。ブルーノは元軍人ではなく看護主任。暴力歴は本物みたいだけれど」

 イネスは廊下を見た。

「私の記憶にも、あの円盤が映したものがある。死んだ妹。私は妹などいないのに」

 玲司はベッドから降りた。

「借り物の罪悪感か」

「あるいは、誰かの記憶を入れられた」

 二人は廊下へ出た。

 十六の部屋は空ではなかった。

 一号室では老人が床に巨大な蜘蛛を描いている。

 二号室では若い女が空中へ見えない水を汲み上げている。

 三号室では少年が日本語で、玲司の弟しか知らない歌を口ずさんでいた。

 すべての扉の覗き窓から、患者たちが玲司を見た。

『兄さん』

『弟よ』

『博士』

『泥棒』

『帰ってきた』

 呼び名はばらばらだった。

 廊下の突き当たりに、地下へ降りるエレベーターがある。イネスが職員カードを使った。

 地下二階は診療施設ではなかった。

 金属棚に、何百本もの磁気テープ、脳波記録、土器片、黒曜石の破片が保管されている。中央には、地上絵全体を模した巨大な模型があった。

 模型の線上に小さなランプが点り、病室番号が表示されている。

「患者を線の上に配置している」

 イネスが息を呑んだ。

「療養所そのものが地上絵の一部なのよ」

 中庭、廊下、病室。上から見れば、それらは双頭の人形の消えた輪郭を再現していた。

 十七号室は、人形が抱く黒い四角の中心にある。

 玲司は記録棚を調べた。

 《試行三十一 患者Aを探検家人格へ誘導》

 《試行四十六 患者Bにメンドーサ記憶群を移植》

 《試行五十二 飛鳥井人格の混線を確認》

 《試行六十三 外部観察者キスペ、共鳴反応あり》

「君まで実験体だ」

 イネスは唇を噛んだ。

 別の棚に、アルバロ・メンドーサの映像記録があった。

 古いモニターに再生する。

 映ったアルバロは痩せ、頭髪を剃られ、椅子に縛られていた。

『これを見ているのが玲司でも啓でも、どちらでも構わない』

 彼は日本語で話した。十一年前より流暢だった。

『サラスは間違っている。《逆さの太陽》は記憶を保存する道具ではない。人間を使って、自分自身を保存する生き物だ。黒い像は容器、地上絵は神経、私たちは一時的な肉体にすぎない』

 画面の外でサラスの声がした。

『本体はどこだ』

『空が見えない場所だ』

『座標を言え』

『砂漠は空を覚えている。だが、空は砂漠の下を知らない』

 アルバロはカメラへ顔を近づけた。

『飛鳥井。兄を助けようとするな。弟を救おうとするな。二人とも、もう死んでいる』

 映像が乱れた。

 最後の一秒、アルバロの瞳の中に黒い円盤が映った。

 玲司の頭蓋の奥で、何かが開いた。

八 二人分の死

 十一年前の記憶が戻った。

 玲司は自分を二つの角度から見ていた。

 兄の玲司は、崩れる地下広間で黒い円盤を抱えていた。

 弟の啓は、カメラを捨てて兄へ駆け寄った。

 サラスの若い声が無線から響く。

『円盤を持ち帰れ。人命より優先しろ』

 天井が落ちた。

 玲司の脚が岩に潰された。啓は兄を引きずろうとしたが、動かない。

『置いていけ』と玲司は言った。

『嫌だ』

『これは命令だ』

『いつも命令する。兄さんは、俺がいなければ靴下の場所もわからないくせに』

 啓は泣きながら笑った。

 黒い円盤が二人の間へ落ちた。

 表面が液体のように波打ち、細い糸が伸びた。一本は玲司の眼へ、一本は啓の耳へ入った。

 兄の痛みが弟へ流れた。

 弟の恐怖が兄へ流れた。

 幼少期、父の葬儀、初めて盗んだ土器片、母の声、恋人の名前、裏切り、喧嘩、赦せなかった言葉。

 二人の人生が混ざった。

 玲司の肉体は死んだ。

 啓の肉体は立ち上がった。

 だが、その中で目を開けた者は、自分を玲司だと思った。

 それだけではなかった。

 円盤の中には、何千人もの記憶がいた。古代の祭司、首を刎ねられた捕虜、砂漠を歩いた子ども、盗掘者、調査員、兵士。啓の脳はそれらを閉じ込めるため、最も強い人格――兄の玲司――を蓋にした。

 アルバロが生き残った啓を地上へ運んだ。

『本体を隠せ』と、啓の口を使って玲司が言った。

 二人は円盤を、療養所が建つ前の空洞へ運んだ。

 地上絵の消えた双頭人形。その黒い四角にあたる場所。

 だが、座標は一つの人格では思い出せないよう、兄の記憶と弟の記憶へ分けて封じた。

 サラスに奪われないために。

 玲司はモニターの前で目を開けた。

「俺は啓だ」

 声に出してみる。

 胸の奥で、別の声が答えた。

『俺は玲司だ』

「どちらも本物」とイネスが言った。

「都合のいい慰めだ」

「違う。記憶が人を作るなら、あなたには二人分ある。体が人を作るなら啓。選択が人を作るなら、これから決めればいい」

 警報が鳴った。

 模型のすべてのランプが赤く点いた。

 地上で砂嵐が最高潮に達し、壁の金属が低く唸る。患者たちの足音が廊下を移動し始めた。

 モニターにサラスが映った。

『試行六十四を開始します。すべての被験者は指定された線を歩いてください』

 映像の中庭で、白衣の職員が患者を一列に並べている。

 一人ひとりが地上絵の輪郭をなぞって歩き始めた。

 玲司は模型を見た。

「最後の線が完成する」

「何が起きるの?」

「空が下を向く」

九 逆さの太陽

 地下施設の床が割れた。

 亀裂は模型の線に沿い、黒い砂を噴き上げた。砂の中に雲母が混じり、星空のように光る。

 玲司とイネスは非常階段を駆け上がった。

 中庭では、患者たちが嵐の中を歩いている。雷が落ちるたび、足元の線が青白く発光した。

 サラスは中央に立っていた。

 手には本物の黒い円盤がある。

 玲司の記憶が戻ったことで、十七号室の床下に隠された空洞が開いたのだ。

「おめでとう、飛鳥井さん」

 サラスの白衣が風にはためく。

「あなたはついに治癒した」

「医者は治った患者を殺すものか」

「鍵は扉を開ければ不要です」

 ブルーノが銃を向けた。地下で消えた姿と同じ軍靴を履いている。

 サソレもいる。耳は両方あったが、雷光が走るたび左耳だけが欠けて見えた。

「全員、円盤に記憶を重ねられている」とイネス。「誰が職員で誰が患者なのか、もう区別できない」

「区別する必要はありません」

 サラスは円盤を掲げた。

「個人という病から解放される。死者の経験を生者へ移し、文明の記憶を永遠に保存する。王も兵士も学者も、同じ器の中で生きる」

「墓場を図書館と呼び替えただけだ」

「あなた自身が成功例でしょう。弟の肉体で兄が生きている」

 玲司は首を振った。

「違う。弟の人生を兄が食っている」

 サラスの笑みが消えた。

 黒い円盤から糸が伸び、彼の手首へ潜り込んだ。

 患者たちが一斉に止まった。

 全員がサラスを見た。

 その口から、別々の声が漏れ始める。

『水を』

『母さん』

『首を返して』

『私はここにいる』

『空が落ちる』

『兄さん』

『弟よ』

 サラスの顔が波打った。

 皮膚の下で無数の表情が押し合い、頬や額に目と口の形が浮かぶ。彼は苦痛に膝をつきながら、それでも円盤を離さなかった。

「見える……すべてが見える。二千年前の雨、祭司の夢、星の落ちた夜……」

「それは記憶じゃない」と玲司。「飢えだ」

 地面が大きく陥没した。

 中庭の中央に円形の穴が開き、下の空へ続く階段が現れた。

 サラスは立ち上がり、穴へ向かう。

 玲司は追おうとした。

 ブルーノが発砲した。

 弾は玲司の脇腹をかすめた。イネスがブルーノへ体当たりし、二人は砂の上へ転がった。

 玲司はハチドリの陶笛を取り出した。

 嵐へかざす。

 低い音が鳴り、中庭の線が震えた。

 患者たちの視線が一斉に笛へ向く。

 玲司は笛をブルーノの足元へ投げた。

 ブルーノが反射的に拾う。

 円盤から伸びた糸が彼へ向きを変えた。ブルーノは叫び、笛を放した。その隙にイネスが銃を奪い、柄で彼を殴り倒した。

「本体を壊せる?」

 イネスが訊く。

「わからない」

「宝の専門家でしょう」

「壊した宝は査定できない」

「今度だけ無料でお願い」

 二人は階段を降りた。

 地下広間は、先ほどの幻と同じだった。

 星の天井。鳥の線。千の顔を持つ壺。中央の黒い像。

 ただし、像は陶器ではなかった。

 呼吸していた。

 表面は黒い石に見えたが、膨張と収縮を繰り返している。六本の脚が床の亀裂へ根を張り、地上絵すべてとつながっていた。

 サラスが像の前に立ち、円盤を頭部の窪みへはめ込んだ。

 像の掌の口が開く。

 広間の壺が一斉に喋った。

『器を選べ』

 玲司の目の前に、二人の男が現れた。

 一人は兄の玲司。

 一人は弟の啓。

 兄は血まみれで笑っている。

『俺を残せ。お前はずっとそうしてきた』

 弟はカメラを抱え、泣いている。

『兄さんを消さないで』

 黒い像が囁く。

『一人を選べ。もう一人を食わせろ。器は軽くなる』

 玲司は二人を見た。

 十一年間、兄として生きた。

 十一年間、弟を殺した罪に追われた。

 だが、罪を背負っていたのは兄だけではない。弟もまた、兄を忘れることを拒んだ。

「どちらも選ばない」

『器は壊れる』

「壊れた器で十分だ」

 玲司は鳥の線へ足を置いた。

 兄の記憶では、右回りに歩く道。

 弟の記憶では、左回りに歩く道。

 線は一つだが、意味は逆だった。

 玲司は一歩ごとに呼吸を変えた。

 兄として右へ。

 弟として左へ。

 同じ肉体で、二つの儀式を重ねる。

 像が震えた。

 地上絵の神経に、矛盾した信号が流れる。

 サラスが叫んだ。

「やめろ! 記憶が失われる!」

「お前のものじゃない」

「人類の遺産だ!」

「遺産は、死者が生者を支配する免許じゃない!」

 イネスが壁の水路を見つけた。

 古い石栓を引き抜く。

 地下水が噴き出し、床の白線を洗った。乾燥した砂漠で二千年守られた回路が、泥に変わって崩れていく。

 黒い像の背が割れた。

 中から骨も機械も出なかった。

 夜空が出た。

 星々の間に、無数の人間の顔が浮かんでいる。誰もが口を開き、最後の一言を言おうとしていた。

 玲司の頭の中から、記憶が引き出される。

 兄の初恋。

 弟の卒業式。

 母の手。

 父の葬儀。

 アルバロの笑い声。

 地下で死んだ者たちの恐怖。

 すべてが像へ戻っていく。

 玲司は倒れそうになった。

 イネスが手を伸ばす。

「あなたの名前は?」

 試すような問いだった。

 玲司は答えようとした。

 玲司。

 啓。

 どちらの名も、遠い部屋に置き忘れた荷物のように感じた。

 サラスが像へ飛びついた。

「私を残せ! 私を記録しろ!」

 掌の口が彼の腕へ噛みついた。

 サラスの身体から、幾千もの声が吸い出される。彼自身の声は最後まで聞こえなかった。

 像は内側へ崩れた。

 星空が一点に縮み、黒い円盤だけが床へ落ちた。

 玲司は円盤を拾った。

 表面には何も映らない。

 彼は膝で割った。

 二つに割れた円盤は、ただの黒い土になった。

 地下広間の天井が崩れ始めた。

「走って!」

 イネスに引かれ、玲司は階段へ向かった。

 背後で壺が砕けた。

 今度は悲鳴ではなく、風の音だけがした。

十 砂漠は空を覚えている

 夜明け前、嵐は止んだ。

 療養所の半分は陥没し、中庭には泥水が溜まっていた。患者たちは砂の上に座り、それぞれ自分の名前を確かめるように繰り返している。

 ブルーノは生きていた。自分が看護師なのか兵士なのか思い出せず、両手を見つめていた。

 サソレは二人いた。

 一人は左耳が欠け、一人は欠けていない。

 やがて、欠けていない方は鏡に映った像だとわかった。朝日が昇ると消えた。

 救難ヘリが到着したのは午前八時だった。

 イネスは文化省と警察へ連絡し、地下資料の保全を要請した。サラスの研究記録は大半が残っている。療養所で何が行われたか、いずれ明らかになるだろう。

 玲司は滑走路の端に立っていた。

 脇腹には包帯。右手の小指は欠けたまま。古い潜水時計は午前四時十七分で止まっている。

 イネスが隣に来た。

「報告書に名前が必要」

「飛鳥井でいい」

「名は?」

 玲司は砂漠を見た。

 遠くにハチドリの線がある。人間には地上から全体が見えない。それでも、線を引いた者たちは完成した形を知っていた。

 見えないものを信じたのではない。

 歩いた道を覚えていたのだ。

「空欄にしてくれ」

「逃亡者みたい」

「トレジャーハンターはたいていそうだ」

「宝は何か残った?」

 玲司はポケットから陶製の笛を出した。

 焼け焦げたハチドリ。金銭的な価値はほとんどない。

 笛を朝の風へかざす。

 今度は低い震えではなく、澄んだ一音が鳴った。

 患者たちが顔を上げた。

 誰も泣かなかった。

「これだけだ」と玲司。

「持ち出すの?」

 彼は少し考え、イネスへ渡した。

「博物館に置け。説明札には、空を飛ばなかった鳥と書いてくれ」

「正確ではないわ」

「学者が直せばいい」

 二人はヘリへ向かった。

 離陸すると、崩れた療養所と中庭の線が一つの形になった。

 双頭の人間。

 黒い四角は消え、二つの頭の間に一本の道が引かれている。

 その道は地上絵の外へ伸び、砂漠の彼方へ続いていた。

「十一年前の写真にはなかった線よ」

 イネスが窓から見下ろした。

「誰が描いたの?」

 玲司は答えなかった。

 眼下で朝日が砂を照らす。

 兄の記憶もある。

 弟の記憶もある。

 だが、これから歩く道は、どちらのものでもない。

 砂漠は空を覚えている。

 空が忘れても、歩いた者が忘れても。

 線だけは、次に進む方向を残していた。