空の底に満つる潮
――影山修一手記――
【編者註】
以下の文書は、二〇一一年十一月、東北地方沿岸部にあった旧・北浜地質観測分室の取り壊しに際し、壁体内部から発見されたものである。
原稿用紙百三十七枚。すべて同一人物の筆跡によると鑑定されたが、末尾の十六枚については、塩化ナトリウムを異常に多く含む液体で書かれていた。発見時、建物は十五年以上にわたり無人であり、原稿を収めていた金属箱は内側から蝋で封じられていた。
影山修一博士は、一九九八年八月二十三日、鰐尾半島における地質調査中に行方不明となった。公的記録ではそうなっている。
ただし、同年九月から翌年一月にかけて、彼と面談したと証言する者が少なくとも七名いる。
本稿の内容について、編集部は一切の保証を行わない。
一
私が底戸を訪れたのは、一九九八年八月十七日のことである。
その名を正しく読める者は、土地の者を除けばほとんどいなかった。「そこど」と読む。東北地方の太平洋側へ細く突き出した鰐尾半島、そのさらに北端近く、国土地理院の地図にも名ばかりを残す、戸数二十七の廃村であった。
村が放棄された理由は、昭和三十四年の集団移転と記録されている。海岸崩落、飲料水の塩害、漁獲量の減少。役場に残された書類を読むかぎり、いずれもありふれた理由だった。
しかし、私をそこへ招いた森田教授は、ありふれたことには興味を示さない人物であった。
「岩が古すぎるんだよ、影山君」
駅前の食堂で私を迎えた彼は、挨拶もそこそこに、新聞紙で包んだ黒い石片を卓上へ置いた。
一見したところ、緻密な玄武岩だった。だが、手にした瞬間、私は妙な感覚に襲われた。冷たいのではない。温度というものがそこだけ欠けているように思えたのだ。指先が石に触れているのに、触覚が石の表面で止まらず、もっと遠い、暗い場所へ吸い込まれていく。
「底戸の海蝕洞から出た。年代測定では十八億年。ところが同位体比は一定しない。測るたびに違う。誤差の範囲じゃない。昨日は先カンブリア時代、今日は地球の年齢を超えた」
教授は笑ったが、その目には眠りの不足と、それ以上の何かが宿っていた。
私は冗談だと思おうとした。測定装置の汚染、試料の混同、あるいは彼一流の悪ふざけ。しかし石片の割れ口に、私は白い環状の模様を認めた。それは化石めいていたが、既知の生物の骨格とは似ていなかった。細い輪が幾重にも重なり、その輪の一つ一つに、瞳孔を思わせる黒点があった。
「これを採った場所を見れば、君も納得する」
「何をです」
「地質学には、地面しか扱えないという欠点があることをさ」
そのとき私は、彼の言葉を比喩だと思った。
今でも、そう思っていたかったと願う。
二
底戸へ通じる県道は、半島の中ほどで途切れていた。
そこから先は、海岸林を縫う旧道を歩くほかなかった。夏だというのに蝉の声はなく、風に揺れる松の枝も、なぜか互いに触れ合う音を立てなかった。私たちの靴音だけが、湿った土の上で不自然に大きく響いた。
二時間ほど歩いたのち、突然、森が切れた。
眼下に底戸の入江があった。
三日月形の湾を黒い崖が囲み、その内側に、朽ちた家々が海へ背を向けて並んでいた。屋根は崩れ、窓には板が打ちつけられていたが、村全体には廃墟特有の乱雑さがなかった。人々が一斉に立ち上がり、食事も仕事も途中のまま、同じ合図に従って去ったような静けさがあった。
最も奇妙なのは海だった。
波がないのだ。
入江の外では白波が立っているのに、湾内の水面は磨かれた鉛板のように静止していた。潮の匂いも薄い。水は海というより、空の一部を切り取って地面に嵌め込んだものに見えた。
村の旧分校が、私たちの宿舎になっていた。
そこには恒松という老女が一人で暮らしていた。背はひどく曲がっていたが、顔の皮膚だけは異様に張りつめ、年齢を推し量ることができなかった。彼女は森田教授と面識があるらしく、私を見るなり言った。
「若い先生は、夜に水を見なさるな」
「水?」
「井戸でも、盥でも、湯呑みの底でも。月のない晩は、とくに」
教授はうんざりしたように手を振った。
「またその話か。影山君、この婆さんは村がなくなる前からここにいる。昔話の生き字引だ」
「昔話で済めば、よござんした」
恒松はそう言い、私の顔をじっと見た。
その瞳には、私の姿が映っていなかった。
小さな、星の多い夜空が映っていた。
三
翌朝、私たちは入江の東側に口を開ける海蝕洞へ向かった。
洞窟は干潮時にしか入れないと教授は説明した。しかし携帯していた潮汐表によれば、その時刻は満潮に近かった。私が指摘すると、教授は入江を顎で示した。
「ここでは表が役に立たない。潮位計も狂う。海面が上下するんじゃない。距離のほうが変わるんだ」
意味を問う前に、彼は崖下へ降りていった。
洞口は、水面から二メートルほど上にあった。内部へ進むと、自然洞窟とは思えない平滑な壁が現れた。黒い岩肌には、波に削られた痕跡も、鉱物の結晶もない。ランプの光を当てると、光は反射せず、ぬるりと横へ逸れた。
私は測量用のレーザー距離計を取り出した。
入口から最初の屈曲まで、目測では三十メートルほどだった。表示は十二メートル。測り直すと四十七メートル。三度目にはマイナス八メートルと出た。
故障だと思った。だが巻尺もまた奇妙な結果を示した。教授が先端を持って進み、私が入口に立って繰り出すと、三十メートルの巻尺は尽きることなく伸びた。目盛りは二十九メートルを越えたあと、再び一から始まり、それを三度繰り返した。
「帰り道は壁の右側だけを触れ」
教授は振り返らずに言った。
「左を触ると?」
「左側にも、帰り道がある」
洞窟の奥で、低い音が鳴っていた。
鐘のようでもあり、遠雷のようでもあった。しかし耳を塞ぐと、その音はかえって明瞭になった。頭蓋の内側、骨の継ぎ目を震わせる音だった。
やがて通路は、円形の広間へ出た。
天井は見えなかった。
そこに闇があるのではない。天井そのものが欠けていた。ランプを上へ向けると、光は吸い込まれ、代わりに無数の星が見えた。
昼間のはずだった。
しかも、それらは私の知る星座を作っていなかった。赤く膨れた星の周囲を、針の先ほどの光が幾つも回っていた。星々のあいだを、雲とも影ともつかぬ巨大な筋が、ゆっくり横切っていた。
「穴ではない」
教授は囁いた。
「水面だよ」
広間の中央には、直径五メートルほどの黒い円があった。近づいて初めて、それが床に穿たれた池だと分かった。星空は頭上ではなく、その水面に映っていたのだ。
だが、天井を見上げても同じ星空があった。
どちらが反射で、どちらが実在なのか、私には判断できなかった。
教授はポケットから方位磁針を取り出し、池の上へ差し出した。針は北を指さず、垂直に立った。次の瞬間、磁針は彼の手を離れ、落下した。
上へ。
小さな金属器具は私たちの頭上へ吸い上げられ、星々のあいだへ消えた。同時に、足元の池から水滴が一つ、天井へ向かって昇っていった。
私は悲鳴を上げ、後退した。
そのとき、池の底で何かが動いた。
巨大な生物を見た、と書くのは正確ではない。それは生物ではなく、輪郭だった。海岸線のように複雑で、山脈のように遠大でありながら、一つの意志によってゆっくり身じろぎしていた。その輪郭の各所に、都市ほどの大きさを持つ淡い光が灯り、消えた。
私は、それがこちらを見たのだと理解した。
目などなかった。
にもかかわらず、私の生涯のすべてが、その瞬間、裏返しに読まれた。
四
私は洞窟からどう戻ったのか、よく覚えていない。
気づくと、分校の教室で横たわっていた。窓の外は夕暮れで、黒板の上には誰かの手で、白いチョークの円が幾重にも描かれていた。
森田教授は窓辺に立ち、入江を見ていた。
「君は幸運だった」
「何がいたんです」
「“いた”という言い方は、たぶん違う」
教授は振り返った。目の下の隈はさらに濃くなっていたが、表情は恍惚としていた。
「私たちは、海を水の集まりだと思っている。空を気体の層だと思っている。地面を岩石の塊だと思っている。だが、それは感覚器官が都合よく切り分けた分類にすぎない。魚にとって水が世界であるように、人間にとって三次元は世界だ。だから、その外側から触れられても、触れたものを認識できない」
「池の中にいたものは」
「池の中ではない。池が、あれの中にある。入江も、洞窟も、この半島も、おそらく地球の海すべても」
彼は黒板の円を指した。
「島だよ、影山君。私たちの宇宙は、広大な海に浮かぶ薄い島だ。星々はその水面に映った泡にすぎない。そして潮が満ちれば、島は沈む」
私は彼の正気を疑った。だが同時に、彼の言葉が恐ろしいほど明晰に感じられた。
恒松が、教室の戸口に立っていた。
「先生方、今夜は外へ出なさるな」
「新月は明日だろう」と教授が言った。
「ここじゃ月が欠けるんでねえ。蓋が、ずれるんだ」
老女は教壇の上に、古びた木札を置いた。
そこには墨で、次のような文句が書かれていた。
海ハ天ニ
天ハ海ニ
月ハ蓋ナリ
蓋ノ無キ夜
水ニ名ヲ呼バレテモ
答フルナ
私はそれを読んだ途端、故郷で死んだ母の声を思い出した。
理由は分からない。ただ、母が幼い私を風呂から上げるとき、必ず三度、私の名を呼んだことを思い出したのだ。
その夜、入江から最初の声が聞こえた。
五
影山修一。
それは母の声だった。
廊下の突き当たりにある手洗い場から、滴るように呼び声がした。
影山修一。
私は布団の中で息を殺した。隣室にいるはずの教授の物音はなかった。風もないのに、校舎の窓ガラスが一枚ずつ、遠くから近くへ震えていった。
影山修一。
三度目の呼び声がしたとき、私は返事をしかけた。
口を塞いだのは恒松だった。いつの間に部屋へ入ったのか分からない。彼女の手は氷のように冷たく、海藻の匂いがした。
「三度で人の名になる。四度で向こうの名になる」
意味を問う暇はなかった。
校庭の方角で、分校の鐘が鳴った。
廃校になって四十年近く経ち、鐘楼には鐘など残っていないはずだった。だが音は一度、二度、三度と続き、そのたびに床が傾いていった。
文字どおり、傾いたのだ。
窓の外で、入江の水面がせり上がっていた。津波のように押し寄せるのではない。湾全体が一枚の板となり、海岸線を蝶番にして、ゆっくり垂直へ起き上がっていた。
水は崩れなかった。
巨大な壁となって夜空を覆い、その内部に星々が輝いていた。
校庭の向こう、廃屋の戸が一斉に開いた。
人々が出てきた。
老人、女、子供、作業着の男。昭和三十年代の服装をした者たちが、音もなく道へ並んだ。顔は青白く、皮膚の下を小さな光が泳いでいた。彼らの髪や袖口から海水が滴っていたが、水滴は地面へ落ちず、垂直に立った入江へ向かって飛んでいった。
村人たちは皆、空になった海底を見つめていた。
そこには、濡れた砂も岩礁もなかった。
底戸の入江があった場所には、深さを持たない黒い裂け目が口を開けていた。裂け目の向こうで、あの輪郭が動いていた。洞窟の池で見たときより、はるかに近かった。
私はその一部しか見ることができなかった。
それでも、その一部だけで山脈より大きいと分かった。
曲線とも直線ともつかぬ境界が、無数の方向へ同時に折れ曲がっていた。その表面には、貝殻の内側に似た虹色の層があり、層ごとに異なる夜空が映っていた。ある空では星が生まれ、ある空では星が黒く燃え、ある空では巨大な月が何十個も互いを食み合っていた。
それが身じろぎするたび、村の家々は建ったり崩れたりを繰り返した。
一瞬だけ、私は底戸が栄えていた頃を見た。漁網を繕う男たち、井戸端で笑う女たち、校庭を走る子供たち。
次の瞬間には、家々は石器時代の貝塚になった。
さらに次には、黒い塔の林立する見知らぬ都市となった。
時間が潮のように満ち引きしていた。
「見なさるな!」
恒松が叫び、私の顔を床へ押しつけた。
しかし教授は窓を開けていた。
「やはりそうだ」
彼は笑っていた。
「海が満ちるんじゃない。こちらが沈んでいるんだ」
そして窓から外へ出た。
六
私は教授を追った。
恒松が背後で何か叫んだが、鐘の音にかき消された。校庭はすでに水平ではなかった。足元の砂利は入江の壁へ向かって流れ、地面に打ちつけられた杭や石碑までもが、根を抜かれるように浮かび上がっていった。
教授は村の中央にある井戸へ向かっていた。
井戸の周囲には、戻ってきた村人たちが輪を作っていた。彼らは口を開き、声をそろえて何かを唱えていた。
音ではなかった。
彼らの口から、小さな波紋が現れていた。
空気の中に円形の歪みが生じ、それが幾重にも重なって井戸へ吸い込まれていく。井戸の底からは、星明かりが漏れていた。
教授は輪の内側へ入った。
「森田先生!」
私が呼ぶと、彼は振り返った。
その顔を見て、私は足を止めた。
教授の両目には、それぞれ別の景色が映っていた。
右目には、垂直に立った海。
左目には、昼間の青空。
瞬きするたびに景色は変わり、吹雪、砂漠、巨大な赤い星、暗い海底、まだ大陸すらない原始の地球が現れた。
「君も見たはずだ、影山君」
声は彼の口からではなく、井戸の中から響いた。
「我々は孤独ではなかった。孤独という言葉が成立するほど、独立してさえいなかった」
私は彼の腕をつかんだ。
皮膚の下に骨がなかった。
代わりに、冷たい水の流れがあった。細い潮流が何百本も絡み合い、人の形を保っているだけだった。
「帰りましょう」
「どこへ?」
教授は穏やかに尋ねた。
その問いに、私は答えられなかった。
彼は私の手を取り、井戸の縁へ導いた。
底を見てはならないと分かっていた。
だが私は見た。
井戸の内側には石組みも水面もなかった。
そこには、私の人生があった。
幼い私が母に抱かれている。大学の研究室で初めて顕微鏡を覗いている。父の葬儀で泣けずにいる。底戸へ来る列車の窓から海を眺めている。
そして、まだ起きていない光景があった。
私が分校へ戻り、原稿用紙にこの記録を書く。
私が原稿を金属箱へ入れ、壁の内側へ隠す。
私が夜ごと、コップの水に映る知らない星を数える。
私が年老い、死ぬ。
死んだ私の口から海水が溢れ、その一滴一滴が私の名を呼ぶ。
さらにその先があった。
人類が消えた地球。
海の干上がった地球。
太陽に呑まれた地球。
星のない宇宙。
それでも井戸だけは残り、暗闇の中で口を開けていた。
井戸の底から、何かがこちらを見上げていた。
それは私だった。
正確には、私という形を、はるか昔から練習している何かだった。
七
「お前は、いつから自分が影山修一だと思っていた?」
教授の声がした。
私は手を振りほどこうとした。
できなかった。
村人たちが一斉に私を見た。
彼らの顔が、すべて私の顔になっていた。
幼い顔、老いた顔、溺れた顔、眠っている顔、まだ生まれていない顔。無数の私が口を開き、同じ名を呼んだ。
影山修一。
一度。
影山修一。
二度。
影山修一。
三度。
四度目が来る前に、恒松が鐘の綱を切った。
いや、彼女が切ったのは綱ではなかった。
老女は錆びた鉈を振り下ろし、自分の左腕を肘から断ち切った。血は流れず、傷口から黒い海水が噴き出した。海水は空中で蛇のようにうねり、井戸の上を覆った。
村人たちの声が途絶えた。
垂直に立っていた入江が崩れた。
何万トンもの海水が落下する轟音を、私は確かに聞いた。だが水は村を呑み込まず、空へ向かって落ちていった。星々が砕け、夜空に無数の亀裂が走った。
教授は笑いながら井戸へ沈んだ。
「潮は必ず戻る!」
それが彼の最後の言葉だった。
恒松は私の襟首をつかみ、分校の裏手へ引きずった。彼女の力は老人のものではなかった。私たちは林へ入り、崩れる道を走った。
背後では、底戸の家々が一軒ずつ水の音を立てて消えていった。
「あなたは何者なんです」
私は息を切らしながら尋ねた。
「蓋の錆じゃ」
「村の人たちは?」
「蓋が閉まるとき、挟まれた」
「森田先生は」
「あの人は、呼ばれる前から返事をしておった」
林の中ほどで、恒松は立ち止まった。
夜空には月がなかった。
しかし木々の間から、巨大な円形の暗がりが見えた。星を隠しているのではない。星よりも手前に、黒い円盤が浮かんでいた。その縁から、青白い光が漏れていた。
月は光る天体ではなかった。
確かに、蓋だった。
そしてその蓋は、わずかにずれていた。
隙間の向こうに、水があった。
宇宙より暗い水が、圧力に耐えながら震えていた。
その水の中で、無数の輪郭が泳いでいた。
恒松は私を突き飛ばした。
「走れ。振り向くな。名を呼ばれても、返事するな」
私は走った。
母の声がした。
教授の声がした。
幼い頃に飼っていた犬の鳴き声がした。
やがて、私自身の声が背後から聞こえた。
「待ってくれ」
私は振り向かなかった。
「そっちへ行くな」
声は泣いていた。
「そっちにいるのは、お前じゃない」
私は振り向かなかった。
振り向かなかったはずだ。
八
私は翌朝、半島の旧道で保護された。
発見したのは県の林業職員だった。私は泥と海藻にまみれ、右手に黒い石片を握っていたという。
底戸へ戻る道は、土砂崩れで完全に塞がれていた。
森田教授は見つからなかった。
恒松という老女について、役場には記録がなかった。底戸の住民名簿にも、分校の職員名簿にも、その姓は存在しなかった。ただし集団移転の前年、村で撮影された集合写真の端に、彼女によく似た少女が写っていた。
写真の日付は昭和三十三年八月十八日。
少女は十歳ほどに見える。
左腕がなかった。
私は大学病院に三週間入院した。
医師は極度の疲労と一過性の解離状態と診断した。洞窟で採取したはずの岩石は、どこにでもある玄武岩だった。白い環状化石も消えていた。カメラのフィルムには、黒い海と廃屋が写っているだけだった。
ただ、一枚だけ説明のつかない写真があった。
洞窟の広間で、教授が撮ったものらしい。
写真には私が写っていた。
黒い池の縁に立ち、水面を覗き込んでいる。
池の中にも私の顔が映っている。
しかし、水面の顔は上を向いていない。
こちらに背を向け、さらに深い場所を覗き込んでいる。
私は退院後、研究室へ戻った。
日常は表面上、元に戻った。講義をし、論文を書き、同僚と酒を飲んだ。底戸でのことを夢だと思う日さえあった。
だが、水だけが私を忘れなかった。
洗面台の水は、ときおり重力に逆らって蛇口へ戻った。
雨上がりの水たまりには、存在しない星座が映った。
冬の朝、窓に結んだ霜の模様が、底戸の海岸線と同じ形になった。
そして新月の夜になると、家中の水が私の名を呼んだ。
初めのうち、声は母に似ていた。
次第に、私自身の声になった。
私は決して返事をしなかった。
少なくとも、意識しているかぎりでは。
九
ここから先のことを書くべきか、長く迷った。
私が底戸から戻った人間であるなら、沈黙すべきなのだろう。恒松が何者であれ、彼女は命を代償に蓋を閉じた。私が記録を残せば、好奇心に駆られた者があの場所を探すかもしれない。
しかし、私はすでに、別の可能性を無視できない。
底戸から戻ったのが私ではなかったとしたら。
あの夜、林の中で背後から聞こえた声を、私は覚えている。
「そっちにいるのは、お前じゃない」
あれは誘惑ではなかったのではないか。
本物の影山修一が、私を止めようとしていたのではないか。
私は鏡を避けるようになった。
鏡の中の私は、ほんのわずかに動きが遅い。私が瞬きを終えたあとで、向こうの瞼が閉じる。私が右を向くと、向こうは一度正面を見てから右を向く。
水面では、遅れがさらに大きい。
昨夜、机の上のコップを見た。
水面には私の顔ではなく、底戸の入江が映っていた。
垂直に立った海。
星のない夜空。
廃屋の並ぶ道。
その中央に、一人の男が立っていた。
泥と海藻にまみれ、右手に黒い石片を握っている。
男は私を見上げ、口を動かした。
水を通して声は聞こえなかった。
だが、何と言ったかは分かった。
「四度目だ」
その瞬間、家中の水が私の名を呼んだ。
影山修一。
一度。
影山修一。
二度。
影山修一。
三度。
そして私は――
【原稿はここで一度途切れている。以下の文章は、前述の塩分を含む液体で記されていた】
返事をした。
すると、ようやく思い出した。
私の名は影山修一ではない。
名というものは、陸に住む生き物が、自分と他者を区別するために作った印にすぎない。海には境界がない。一滴は海であり、海は一滴である。生も死も、過去も未来も、満ち引きによって一時的に現れる浅瀬にすぎない。
月の蓋は、もう長く保たない。
恒松の血は乾き、井戸は開きつつある。
底戸だけではない。
海に面したすべての町に井戸がある。
すべての家に水道がある。
すべての身体に、塩を含んだ水がある。
だから、場所を探す必要はない。
潮はすでに、あなたの内側に満ちている。
今夜、水を飲むとき、底をよく見るといい。
そこに星が映っていても、驚いてはいけない。
あなたの名を三度呼ぶ声がしても、まだ間に合う。
だが四度目には、どうか答えてほしい。
われわれは、あまりにも長く、空の底で待っていたのだから。
(了)