空室回線

 誰もいない部屋には、音がある。

 冷蔵庫を抜いたあとの床が軋む音。壁の中を下りていく水の音。窓枠が夜気に縮み、爪を立てるように鳴る音。古い集合住宅では、隣室の咳や、何階も離れた蛇口の震えまで、空室の呼吸に混じる。

 三島澪は、それらを三十分ずつ録音する仕事をしていた。

 建物を解体する前に、不法侵入者や残置設備がないことを映像と音で証明する。会社では「無人確認」と呼ばれていたが、澪はひそかに「空室の遺言」と呼んでいた。

 星見坂団地E棟の解体前調査は、十一月最後の月曜日に行われた。

 築四十七年。地上七階。住民は半年前に退去し、電気も水道も止まっている。窓には合板が打たれ、廊下の蛍光灯だけが仮設電源で白く瞬いていた。

「四階だけ、映像が飛ぶんだよ」

 機材を運び込んだとき、管理会社の宇田川が言った。

「飛ぶ?」

「昨日、下見の人間が回したら、四〇三の次が四〇五になってる。まあ、もともと四〇四号室はないんだけど」

 澪はタブレットに表示された平面図を見た。

 四階は四〇一、四〇二、四〇三、四〇五、四〇六。縁起を担いで四を重ねた番号を飛ばす古い建物は珍しくない。

「番号がないなら、飛んでいて正常でしょう」

「そうじゃなくてさ。録画を見返すと、四〇三を出てから四〇五に入るまで、必ず四十四秒だけ真っ黒になる。音は残ってるんだけど」

「何が入ってるんです?」

 宇田川は笑わなかった。

「電話の呼び出し音」

 E棟には固定電話など残っていない。回線設備は十年前に撤去されている。

 澪はそれ以上聞かなかった。怪談めいた前置きをする現場担当者は多い。空室では誰もが、自分の立てた音を誰かの気配だと思いたがる。

 ただ、宇田川が帰り際に言った言葉だけは、少し気になった。

「この棟、昔、電話工事の人が一人いなくなってるらしい。名字、たしか三島だったかな」

 澪の父も、電話設備の保守員だった。

 十八年前、仕事に出たきり帰らなかった。

 午後九時十三分、澪は四階に上がった。

 無人確認は一室三十分。七階から始めて、上から順に下りてきた。宇田川は一階の管理室で映像を遠隔確認している。

 四〇三号室の録画を終え、廊下へ出る。

 左手に四〇二。右手に四〇五。

 その間は、幅三メートルほどの灰色の壁だった。

 澪は胸元のカメラを確認した。録画ランプは点いている。タブレットにも同じ映像が映っていた。

 画面の中だけに、扉があった。

 灰色の壁の中央。塗装の剥げた鉄扉。上部に、黒い数字で「404」と貼られている。

 澪は顔を上げた。

 肉眼では壁しかない。

 再び画面を見る。扉はある。

「宇田川さん、見えてますか」

 イヤホンに雑音が走った。

『……何が?』

「四〇四号室です」

『冗談やめてよ。画面、また落ちてる。真っ黒だ』

 タブレットの映像では、扉の郵便受けがゆっくり開いた。

 内側は暗い。

 その闇から、細い電子音が漏れた。

 プルルルル。

 プルルルル。

 古い電話の呼び出し音だった。

 澪は後ずさった。

 画面の中で、扉が少しだけ開いた。

 現実の壁から、冷たい空気が流れ出した。

 指先を伸ばすと、壁に触れるはずの位置で、何か金属の縁に当たった。肉眼では何もない。だがカメラ越しには、澪の手が扉を押していた。

「入ります」

『待て、三島さん。こっちは何も――』

 音声が切れた。

 澪はタブレットだけを見ながら、存在しない扉の隙間へ身体を滑り込ませた。

 中は六畳ほどの和室だった。

 畳は黒ずみ、天井から裸電球がぶら下がっている。電気は止まっているはずなのに、橙色の光が弱く灯っていた。

 窓はない。

 壁際に低い机が一つ。机の上に、黄ばんだプッシュ式電話機が置かれていた。電話線はどこにもつながっていない。

 それでもベルは鳴っていた。

 プルルルル。

 プルルルル。

 澪は受話器を取らなかった。

 呼び出しは十四回で止まった。

 直後、胸元でスマートフォンが震えた。

 留守番電話が一件。

 発信者は、三島澪。

 自分の番号だった。

 受信時刻は午後九時三十七分。

 現在時刻は、午後九時二十五分。

 十二分後の自分から届いている。

 澪は再生した。

『――聞こえる? 三島澪、よく聞いて』

 確かに自分の声だった。息が乱れ、何か硬いものを何度も叩いている。

『カメラを切らないで。名前を言わないで。机の下を見て。そこに父さんの――』

 激しい雑音。

 遠くで、あの電話が鳴っている。

 そして最後に、幼い子どもの声が入った。

『お名前を、どうぞ』

 録音はそこで切れた。

 澪は、留守番電話の冒頭で自分が自分の名を口にしたことに気づいた。

 部屋の電話機が、かちりと鳴った。

 誰も触れていないのに、受話器がわずかに持ち上がった。

 澪は机の下にしゃがんだ。

 埃の中に、古い社員証が落ちていた。

 写真の男は、今の澪より少し若い。

 勤務先は東央通信設備。氏名欄には「三島和也」とある。

 父の社員証だった。

 その下に、小型のデジタルビデオカメラがあった。

 電池は腐食している。だが澪が手に取ると、液晶画面が青白く点灯した。

 再生マーク。

 日付は二〇〇八年六月十七日。

 父が消えた日だった。

 映像の中で、父は同じ廊下を歩いていた。

 今より髪が黒い。作業服の胸に、小さなカメラを固定している。

『四階、未使用回線の確認に入ります』

 父は誰かに報告し、四〇三号室と四〇五号室の間で立ち止まった。

 画面の中だけに現れた扉を見つけ、澪と同じように中へ入った。

 部屋の電話が鳴る。

 父はためらわず受話器を取った。

『もしもし』

 しばらく無音が続いた。

 やがて、幼い少女の泣き声が聞こえた。

『お父さん、どこ?』

 澪の声だった。

 七歳のころ、父に買ってもらった録音玩具へ吹き込んだ、自分の声。

『迎えに来て』

 映像の中の父が息を呑んだ。

『澪か? どうしてここに』

 電話の向こうで、子どもの澪が繰り返す。

『お名前を、どうぞ』

 父は周囲を見回し、受話器を握り直した。

『三島和也だ。澪、今どこにいる』

 その瞬間、映像が大きく乱れた。

 父の右腕から輪郭が消えた。

 モザイクでも、暗転でもない。そこに映るべき人間だけを、映像が思い出せなくなったように、身体が背景へ溶けていく。

 父は叫び、受話器を落とした。

 画面は畳の上に倒れた。

 父の靴だけが映った。

 靴はゆっくり持ち上がり、宙で消えた。

 その後、四十四秒間、無人の部屋が映り続けた。

 四十四秒目。

 画面奥の押し入れが開いた。

 暗闇の中に、父が立っていた。

 顔は見えない。けれど作業服の胸に、社員証の白い四角があった。

 父は画面へ向かい、唇だけを動かした。

 名前を言うな。

 映像が終わった。

 澪の背後で、押し入れの襖が鳴った。

 ぎ、と木が擦れる。

 澪は振り返らず、タブレットの前面カメラを起動した。

 画面には、背後の押し入れが映っている。

 襖は指一本分、開いていた。

 その隙間に、人の目が並んでいた。

 一つではない。

 高さも大きさも違う目が、棚の奥から、床下から、天袋から、ぎっしりと澪を見ていた。

 誰も瞬きをしなかった。

 部屋の電話が再び鳴った。

 今度は一度だけだった。

 呼び出し音が途切れると、受話器が自分で外れた。

『入居確認です』

 機械の女声が、机の上から流れた。

『未割当回線を検出しました。契約者のお名前を、フルネームでお願いします』

 澪は黙った。

『お名前を、どうぞ』

 押し入れの目が一斉に瞬いた。

 タブレットに着信が入った。宇田川からだ。

 澪は通話ボタンを押したが、声を出さなかった。

『三島さん? 聞こえる?』

 宇田川の声は遠く、何度も反響していた。

『急に映像が戻った。けど、おかしい。今、君の後ろに――』

 電話機の女声が割り込んだ。

『契約者のお名前をお願いします』

『宇田川です。誰だ、これ』

 澪は反射的に叫んだ。

「名乗らないで!」

 遅かった。

 タブレットの通話画面から、宇田川の名前が消えた。

 連絡先欄には「未登録」と表示された。

 受話器の向こうで、宇田川が短く息を呑んだ。

『三島さん、管理室の壁に、扉が――』

 衝撃音。

 通話が切れた。

 押し入れの中で、新しい目が二つ開いた。

「宇田川さん」

 返事はない。

 代わりに、ビデオカメラの液晶が勝手に再生を始めた。

 日付は現在。

 管理室の映像だった。

 宇田川が机の下へ逃げ込んでいる。壁には、存在しない鉄扉が開いていた。暗い室内から、何本もの電話線が蛇のように這い出し、彼の足首へ絡みついている。

『三島さん!』

 映像の宇田川がカメラへ手を伸ばした。

『切ってくれ! 映像を切れば、こいつは――』

 未来の自分の留守番電話が脳裏によみがえった。

 カメラを切らないで。

 澪は録画を続けた。

 映像の宇田川は床を引きずられ、扉の向こうへ消えた。

 鉄扉が閉じる直前、暗闇の奥に、作業服の男が立っていた。

 父だった。

 父は電話線を両腕で抱え、引き止めようとしていた。

 その顔が、初めてはっきり見えた。

 十八年前と同じ若さだった。

 父はカメラを見て、首を横に振った。

 そして自分の背後を指さした。

 畳の下に、鉄の蓋があった。

 澪が剥がすと、古い電話交換盤が埋め込まれていた。

 緑青の浮いた端子。布巻きの配線。焼け焦げたリレー。中央に、小さな紙札が挟まっている。

 星見坂団地E棟 四〇四号室

 加入者名 空欄

 その下に、工事報告書が折りたたまれていた。

 一九七九年十二月二日。E棟四階で一酸化炭素事故。四〇四号室の母子が死亡。事故当夜、室内電話から管理室へ四十四回の発信記録があったが、建物台帳では四〇四号室が欠番扱いとなっており、交換機は発信元を特定できなかった。

 通話はすべて、同じ部屋へ転送されていた。

 受話器の向こうにいたのは、自分たちだった。

 事故後、部屋は封鎖され、番号は平面図から削除された。だが旧交換盤だけは撤去されなかった。回線上では四〇四号室が「存在するのに契約者がいない場所」として残り続けた。

 紙の余白に、父の筆跡があった。

 回線は、空欄を埋めようとしている。

 声、映像、名札、記録。名前が載るものは、すべて電話帳になる。

 名を受け取るたび、人を一人、部屋へ割り当てる。

 ただし回線は人間と建物を区別できない。

 最後の一行だけ、血のように黒いインクで強く書かれていた。

 部屋そのものに名前を与えろ。

 澪は交換盤を見下ろした。

 端子の一つに「音声登録」と刻まれている。

 傍らには小さなマイクがあった。

 電話機の女声が繰り返す。

『契約者のお名前をお願いします』

 澪は口を開きかけ、止めた。

 建物の名前を言えばいい。

 だが、未来の留守番電話で、自分はすでに「三島澪」と口にしている。

 あの録音をこの部屋で再生した時点で、回線は名前を聞いてしまったのではないか。

 交換盤の小窓に、赤い文字が浮かんだ。

 候補名:三島澪

 登録保留

「まだ、保留……」

 確定には返答が要る。

 澪はスマートフォンを交換盤のマイクへ近づけた。録画中の画面には、自分と電話機と交換盤が映っている。

 電話機の受話器を、スマートフォンのスピーカーの前へ置く。

 次に、ビデオカメラを電話機へ向け、その液晶画面をタブレットのカメラへ映し、タブレットの画面を胸元のカメラへ映した。

 画面の中に画面が続き、その奥で同じ部屋が小さく、小さく、無限に重なった。

 一番奥の部屋で、父が立っていた。

 父の隣には、見知らぬ男女と、制服姿の少年と、赤ん坊を抱いた女がいた。宇田川もいる。

 全員が、同じ言葉を口の形だけで伝えた。

 今だ。

 澪は管理用タブレットの建物情報を開いた。

 正式名称を確認する。

「東都住宅公社星見坂団地E棟」

 交換盤へ向かって、はっきり発音した。

「契約者名は、東都住宅公社星見坂団地E棟」

 女声が答えた。

『確認します。契約者名、東都住宅公社星見坂団地E棟』

 映像の中の電話機から、同じ声が返る。

『確認します。契約者名、東都住宅公社星見坂団地E棟』

 さらにその奥の画面から、同じ声。

 奥へ、奥へ、無限に反復していく。

 交換盤のリレーが激しく動き始めた。

 候補名:三島澪

 登録保留

 表示が明滅する。

 その上から、新しい文字が重なった。

 契約者名:東都住宅公社星見坂団地E棟

 所在地:東都住宅公社星見坂団地E棟

 転送先:東都住宅公社星見坂団地E棟

 建物が、自分自身へ転送され始めた。

 最初に鳴ったのは、机の電話だった。

 次に、壁の中。

 天井裏。床下。押し入れの奥。廊下の向こう。上階、下階、管理室、屋上、配電盤、エレベーターの非常電話。

 E棟じゅうの呼び出し音が、一斉に重なった。

 プルルルルルルルルルルルルルルルルルル――。

 音が建物の形を歪めた。

 畳が波打ち、壁紙の下から無数の受話器の輪郭が浮かび上がる。押し入れの目が見開かれ、その奥の人々が暗闇から押し出されるように前へよろめいた。

 父が一歩、部屋へ出た。

「澪」

 十八年ぶりに聞く、生の声だった。

 澪は返事をしそうになり、唇を噛んだ。

 父は悲しそうに笑った。

「よく来たな」

「帰ろう」

「俺はもう、この部屋の側だ」

「名前を消せば――」

「名前だけじゃない。十八年分、ここで呼び出し音を聞いた。人は長く住んだ場所に似てくる」

 天井が大きく裂けた。

 裂け目の向こうに夜空はなく、同じ六畳間が上下逆さに重なっていた。その部屋にも父と澪がいる。さらにその上にも、下にも。

 父は澪の肩をつかみ、現れた鉄扉へ押した。

「カメラを切るな。見られている間だけ、出口は出口のままだ」

「お父さん!」

「名を呼ぶな!」

 父の声に、部屋全体が震えた。

 澪は扉へ走った。

 画面越しにしか見えない廊下へ飛び出す。背後で、電話線の束が鞭のように伸び、父の身体へ巻きついた。

 父は両腕を広げてそれを受け止めた。

 宇田川が暗闇から転がり出てきた。澪は彼の腕をつかみ、引きずる。

「走って!」

 廊下の左右で、すべての部屋の扉が開いた。

 四〇一号室の中に四〇二号室があり、その奥に四〇三号室があり、さらに四〇四号室が続いている。建物が自分の内部へ折れ込み、同じ廊下を飲み込んでいく。

 澪と宇田川は階段を駆け下りた。

 五階へ上がるはずの踊り場が一階へつながり、一階の管理室を抜けると、また四階の廊下へ出た。

 胸元のカメラを見る。

 画面の隅で、父が非常口の方向を指している。

 澪は肉眼では壁にしか見えない場所へ突っ込んだ。

 冷たい金属扉が肩に当たる。

 非常口が開いた。

 二人は屋外階段へ転がり出た。

 その瞬間、E棟の全窓が内側から白く光った。

 呼び出し音が止まる。

 一拍遅れて、四階が建物の内側へ潰れた。

 爆発ではなかった。

 巨大な手が、一枚の紙を中心線で折るように、E棟を静かに折り畳んだ。七階と一階が触れ、コンクリートの箱が自分自身へめり込む。

 土煙が上がる直前、四階の窓に父が立っていた。

 父は澪を見ていた。

 そして、もう一度だけ唇を動かした。

 名前を言うな。

 事故は「老朽化による局所崩落」と発表された。

 宇田川は両足を骨折したが、生きていた。病院で目を覚ました彼は、自分の名前を思い出せなくなっていた。

 身分証を見せても、首を傾げる。

「これ、俺ですか」

 連絡先のデータからも、会社の名簿からも、「宇田川」という文字だけが抜け落ちていた。顔写真も住所も残っているのに、氏名欄はすべて空白だった。

 父の社員証は、澪の手元に残った。

 ただし、氏名欄は白紙になっていた。

 解体会社はE棟の残骸から電話交換盤を見つけられなかった。四〇四号室に相当する空間も存在しなかった。

 澪の胸元カメラには、午後九時十三分から十時二分まで、四十九分間の映像が残っていた。

 だが再生すると、四〇三号室を出た直後に画面が暗転し、四十四秒後、澪と宇田川が非常口から飛び出す場面へつながっていた。

 父も、部屋も、交換盤も映っていない。

 澪は安心した。

 映像に残らなければ、回線は途切れる。

 そう思った。

 一週間後の午前零時四十四分、澪のスマートフォンが鳴った。

 表示は「自宅」。

 自宅の番号など登録していない。固定電話もない。

 呼び出しは十四回で止まった。

 直後、会社のクラウドサービスから通知が届いた。

 ――無人確認映像の自動解析が完了しました。

 澪は通知を開いた。

 星見坂団地E棟の映像に、自動生成された字幕が付いている。

 暗転している四十四秒間にも、音声だけは残っていた。

 画面に白い文字が浮かぶ。

【話者1:三島澪】

 聞こえる? 三島澪、よく聞いて。

 カメラを切らないで。名前を言わないで。

 あの未来の留守番電話だ。

 クラウドは声紋から話者を推定し、映像のメタデータへ澪のフルネームを書き込んでいた。

 続いて、解析結果が表示された。

 検出された部屋数:一

 部屋番号:404

 入居者名:三島澪

 状態:転送待ち

 部屋の外で、何かが鳴った。

 プルルルル。

 玄関ではない。

 澪の部屋にはないはずの、廊下の奥から聞こえる。

 スマートフォンのカメラを起動して向ける。

 画面の中で、寝室と浴室の間に、鉄の扉があった。

 黒い数字で「404」と貼られている。

 肉眼では、白い壁しかない。

 スマートフォンに留守番電話が届いた。

 受信時刻は、十一月最後の月曜日、午後九時二十五分。

 すでに一週間前の時刻だった。

 発信者は、三島澪。

 澪は理解した。

 あのとき聞いた警告は、これから自分が録音する。

 録音しなければ、過去の自分は机の下を見ない。父の社員証もビデオカメラも見つけない。宇田川を連れて脱出できない。

 録音すれば、自分の名が過去の部屋へ届く。

 どちらを選んでも、回線はつながる。

 鉄扉の向こうで、父の声がした。

「澪」

 昔と同じ、穏やかな呼び方だった。

「迎えに来たぞ」

 澪はスマートフォンの録音ボタンを押した。

 十二分前の自分へ送る言葉を、息を殺して吹き込む。

「聞こえる? 三島澪、よく聞いて。カメラを切らないで。名前を言わないで。机の下を見て。そこに父さんの――」

 背後で、電話が鳴った。

 振り向くと、机の上に黄ばんだ受話器が置かれていた。

 コードは、壁の中へ消えている。

 録音の残り時間は四秒。

 受話器がひとりでに持ち上がった。

『入居確認です』

 押し入れのないはずの壁が、内側から膨らんだ。

『契約者のお名前を、フルネームでお願いします』

 澪はカメラを切らなかった。

 画面の中で、背後の鉄扉が、音もなく半分まで開いていた。