第八の罪は、無垢
ノアゼル王国では、死者を埋める前に、その名を三度呼ぶ。
一度目は、死者が自分を忘れないため。
二度目は、生者が死者を忘れないため。
三度目は、世界そのものに覚えさせるため。
だから、名のない死体ほど始末の悪いものはない。
一 名のない死者
墓守見習いのモメラがその死体を受け取ったのは、十六歳の誕生日だった。
空はよく晴れていた。ところが正午になると、太陽の真ん中に小さな黒い穴が開いた。鳥は一斉に鳴くのをやめ、町じゅうの時計が、まだ昼だというのに零時を指した。
そのとき、王都から来た黒い馬車が墓地の門前に止まった。
御者は顔を布で隠していた。荷台から降ろされた棺には、王家の紋章も、教会の印もなかった。書類の「氏名」の欄は、刃物で何度も削られている。
「名前は?」
モメラが尋ねると、御者は首を振った。
「名はない」
「そんな人はいません」
「では、おまえがそう書いておけ」
御者は銀貨を一枚投げ、逃げるように去った。
師匠の墓守は町へ出ていた。仕方なく、モメラは一人で棺の蓋を外した。
中にいたのは、ひどく老いた男だった。胸に大きな穴が開き、右手には折れた剣の柄が握られている。奇妙なことに、死後何日も経っているはずなのに、指先だけはまだ温かかった。
モメラには、生まれつき妙な力があった。
死者に触れると、その者が最後に言えなかった言葉が聞こえる。
母の死体からは「窓を閉めて」と聞こえた。
溺れた粉ひきの娘からは「青い靴を妹に」と聞こえた。
戦場から戻った兵士からは、ただ何度も、「ごめんなさい」と聞こえた。
名のない老人の額に触れた瞬間、モメラの耳の奥で鐘が鳴った。
一つ。
二つ。
三つ。
音は次第に近づき、七つ目で止まった。
そして老人が目を開いた。
『八つ目の鐘が鳴る前に』
唇は動いていない。声だけが、モメラの頭の内側を引っかいた。
『俺たちの名を呼べ』
モメラが手を引こうとすると、死者の指がその手首をつかんだ。
『勇者になるな』
折れた剣の柄が白く光った。
光はモメラの腕を這い上がり、胸の上で八芒星の形に焼きついた。あまりの痛みに倒れたとき、墓地の門が乱暴に開く音がした。
銀色の甲冑を着た王国騎士が、二十人。
その先頭に、白い外套をまとった宰相オルゼンが立っていた。
「見つけたぞ」
宰相は墓ではなく、モメラの胸の印を見て微笑んだ。
「今代の勇者だ」
町の人々は歓声を上げた。
菓子屋は祝いの砂糖菓子を配り、鍛冶屋は店先に旗を掲げた。昨日までモメラを「死人と話す薄気味悪い子」と呼んでいた人々が、肩を叩き、手を握り、口々に言った。
王国を救ってくれ。
魔物を倒してくれ。
英雄になって帰ってこい。
モメラは怖かった。
けれど同じくらい、うれしかった。
そのことを、彼は誰にも言わなかった。
二 七人の咎人
王都の地下牢には、昼も夜もなかった。
壁に埋め込まれた青い石がぼんやり光り、格子の向こうには七人の囚人がいた。
最初に目についたのは、片目を失った大男だった。赤錆びた鎖を両腕に巻き、床に座ったまま眠っている。名はガド。かつて北方軍を率いた将軍で、降伏した村を焼き、命令を下した上官を斬った男。
その隣では、小柄な女が看守の署名を真似て釈放状を作っていた。名はミュン。王印を偽造し、存在しない停戦命令を前線へ送った詐欺師。
包帯だらけの巨漢はオルカ。疫病の村で、助からない患者たちに眠り薬を与え、二百十三人を死なせた医師。
柱の影から片目だけをのぞかせている若者はフェル。戦場から逃亡し、一人だけ生き残った斥候。
白髪の女サナは、自分の髪を細い糸にして、何かを縫っていた。兵士たちから戦争の記憶を抜き取り、代わりに家族の記憶まで奪った魔術師。
小さな鈴を手首に縫いつけた僧ボウは、何もしゃべらなかった。王妃暗殺の真相を知りながら、七年間沈黙を守った証人。
最後の一人は、鉄格子の前に立っていた。
黒い髪を短く切った女。鎖につながれていても、王冠をかぶっているように背筋が伸びている。
「エステルだ」
女は自分から名乗った。
「前王の娘で、王宮の門を反乱軍に開けた。公式には、国を売った裏切り者ということになっている」
「公式には?」
モメラが聞くと、エステルは薄く笑った。
「非公式の話を聞くほど、勇者様は長生きできない」
宰相オルゼンが格子の前へ進み出た。
「百年に一度、王国の西端に〈逆さ塔〉が現れる。塔の鐘が八度鳴れば、空は閉じ、海は腐り、死者が地上を歩く」
「どうして僕が?」
「勇者の印を持つ者だけが、塔の主を倒せるからだ」
「この人たちは?」
「七つの災いだ」
宰相は淡々と言った。
「塔が現れる前には、必ず七人の大罪人が生まれる。彼らの罪が世界を歪ませ、塔を呼ぶ。勇者は七人を討ち、その力を剣に集めなければならない」
騎士が運んできた長剣の柄には、七つの窪みがあった。
剣先から伸びた銀の鎖が、囚人たちの首輪へ一本ずつつながれる。
モメラが剣を握ると、七人の胸の奥で鼓動が鳴った。
ひとつの心臓を、八人で分けたような音だった。
「塔までの道は彼らにしか開けない」
オルゼンは言った。
「一人死ぬごとに、剣の窪みに光が宿る。七人全員を斬れば、おまえは完成した勇者となる」
モメラは剣を落とした。
「そんなの、勇者じゃない」
「何と呼ぶかは、勝った者が決める」
宰相は拾い上げた剣を、モメラの腰に差した。
牢を出るとき、エステルが背後から声をかけた。
「勘違いするな、墓守」
彼女の鎖が鳴った。
「王国は私たちにおまえを守らせたいんじゃない。おまえに私たちを殺させたいんだ」
三 罪のなかった宿
逆さ塔は、王都から西へ七日の場所に現れていた。
旅の一日目、道端の石碑から地名が消えた。
二日目、川が山へ向かって流れ始めた。
三日目、夕日が二つ沈んだ。
四日目には、一行の影が全員、空を指していた。
その夜、彼らは地図にない村へ入った。
村人はみな笑っていた。
家々には喪章がなく、墓地もなく、老人も子どもも同じ顔をしている。宿の主人は八人を見て、八本の指を立てた。
「お部屋は八つございます」
「七つでいい」
ガドが言った。
「俺は廊下で寝る」
「いいえ。お部屋は、八つございます」
主人は同じ笑顔のまま繰り返した。
食堂には湯気の立つスープが並んでいたが、匂いがない。壁には家族の肖像画が何枚も掛かっている。どの絵でも、人物の顔だけが白く塗り潰されていた。
モメラが尋ねた。
「この村には、お墓がないんですか」
食堂にいた全員が、同時にスプーンを止めた。
「ここでは誰も死にません」
主人が答えた。
「ここでは誰も間違えません」
「ここでは誰も傷つけません」
「ここでは誰も覚えていません」
最後の言葉だけ、肖像画の中から聞こえた。
白く塗られた顔が、一斉にこちらを向く。
壁紙の下で、何百本もの指が動いた。
ミュンが立ち上がり、笑顔で宣言した。
「この壁は、紙だ」
彼女の声が青く光った。
嘘が一時だけ真実となり、石壁が薄い紙へ変わる。ガドが拳で突き破ると、壁の向こうから黒い塊がなだれ込んだ。
人の形をしているのに、顔も名もない。
口のある場所に、白い札が貼られている。
〈なかったこと〉
怪物たちは札を震わせ、八人へ飛びかかった。
ガドの鎖が赤熱し、振るうたび火の輪を描いた。フェルは床に落ちた影と自分の位置を入れ替え、怪物の背後へ回る。サナの髪の糸が空を走り、ばらばらになった村人の記憶を縫い止めた。
ボウが手首を振る。
鈴は鳴らない。
その無音が部屋を満たした瞬間、怪物たちの叫びも、魔術の唸りも消えた。オルカは仲間の傷口へ掌を当て、痛みを自分の体へ引き受ける。腕や頬に裂傷が増えても、巨漢は眉ひとつ動かさなかった。
それでも怪物は増え続けた。
斬っても燃やしても、白い札が床から湧き出し、新しい身体を作る。
「モメラ!」
エステルが叫んだ。
「おまえは死者の声を聞けるんだろう。こいつらが何だったか聞け!」
モメラは剣を捨て、最も近い怪物の胸に触れた。
冷たい闇の中から、小さな声が聞こえた。
『エラ』
モメラは叫んだ。
「君の名は、エラだ!」
白い札にひびが入った。
怪物の顔に、泣いている少女の目が戻る。
『ダン』
「ダン!」
『ロジェ』
「ロジェ!」
『母さん』
「それは名前じゃない! あなたの名前を教えて!」
『……メイ』
「メイ!」
名を呼ばれるたび、怪物は人の形へ戻り、光の粒になって消えた。
最後の一体が消えると、宿も村もなくなった。
八人は荒野の真ん中に立っていた。
足元には、苔むした墓標が数百並んでいる。削り取られていた名が、月明かりの下でゆっくり浮かび上がった。
「この村は昔、王国軍に焼かれた」
サナが墓標を撫でた。
「記録からも、人の記憶からも消された。忘れられた死者は、〈なかったこと〉になるしかなかった」
ガドは炎の消えた拳を見つめていた。
「焼いたのは、俺の部隊だ」
誰も言葉を挟まなかった。
「反乱軍が隠れていると言われた。俺は命令に従った。終わってから、命令を出した将軍を斬った。復讐したから正義に戻れると思った」
「戻れた?」
モメラが聞いた。
「戻れるわけがない」
ガドは墓標の前に膝をついた。
「だが王国は、俺一人を怪物にすれば済んだ。命令した者も、見ていた者も、喝采した者も、きれいなままだ」
ミュンが乾いた声で笑った。
「私の嘘も似たようなものよ。偽の停戦命令で一万人を救った。でも、命令を信じて武器を置いた兵のうち三百人は、敵に殺された。救った命だけ数えれば英雄。死なせた命だけ数えれば詐欺師。王国は後者を選んだ」
オルカは包帯を巻き直しながら言った。
「疫病の村に、薬は届かなかった。王都の倉庫にはあった。高官の家族のために残されていた。私は苦しむ者を眠らせた。息子も、その中にいた」
フェルは影から顔を出さないままつぶやいた。
「俺は逃げた。砦が落ちると知らせるために。近くの三つの町は避難できた。でも仲間は全員死んだ。だから今でも、夢の中では逃げ続けてる」
サナは自分の白髪を一本切った。
「兵士たちは、眠るたび戦場へ戻った。私は記憶を抜いた。優しさのつもりだった。けれど痛みだけを選んで抜くことはできなかった。妻の顔も、子の声も、一緒に消えた」
ボウの鈴が一度だけ鳴った。
彼は初めて口を開いた。
「王妃を殺した者たちは、孤児院の子ども百人を人質にした。私が証言すれば殺すと。私は黙り、子どもたちは助かった。代わりに、無実の者が処刑された」
声は錆びた扉のようだった。
最後に、エステルが逆さの影を見上げた。
「父王は、塔の秘密を守るため、反対者を地下牢に集めていた。私は反乱軍に門を開けた。囚人だけを救うはずだった。だが群衆は止まらなかった。王宮は血で満ちた」
「じゃあ、誰が正しいんだ」
モメラはたまらず言った。
「正しい人が一人もいないなら、僕は誰を斬ればいい」
「それを決めなくていい者を、王国は勇者と呼ぶ」
エステルは答えた。
「勇者は勝つ。勝てば、迷いは全部、物語から消してもらえる」
荒野の先に、一軒の宿が見えた。
今度は本物の宿に見えた。
扉には金文字で、こう書かれていた。
〈罪のなかった朝を、あなたに〉
中には八つの部屋があった。
ガドの部屋では、焼かれなかった村の子どもたちが走っていた。
ミュンの部屋では、本物の和平文書に王が署名していた。
オルカの部屋では、息子が薬を飲み、熱を下げていた。
フェルの部屋では、砦の仲間が全員、生きて笑っていた。
サナの部屋では、兵士たちが悪夢を見ず、家族の名を呼んでいた。
ボウの部屋では、王妃は生き、孤児たちは庭で遊んでいた。
エステルの部屋では、父王が娘の肩を抱き、王宮の門は閉じたままだった。
七人は、それぞれの扉の前に立ち尽くした。
モメラの部屋には、故郷の墓地があった。
母が生きていた。
師匠がパンを焼いていた。
王都から黒い馬車は来ず、誰もモメラを薄気味悪いとは呼ばない。英雄にもならず、毎日土を掘り、夕方には家へ帰る。
「おかえり、モメラ」
母が笑った。
モメラは一歩、部屋へ入った。
もう一歩で、母の手に触れられた。
そのとき気づいた。
墓地に墓石が一つもない。
「母さん。ここで死んだ人たちは?」
「誰も死んでいないわ」
「じゃあ、誰のことを覚えてる?」
母は笑ったまま答えなかった。
家の壁から、白い札が一枚はがれ落ちた。
〈なかったこと〉
モメラは後ろへ下がった。
「これは朝じゃない」
彼は言った。
「夜を忘れただけだ」
八つの部屋が一斉に軋んだ。
ガドが自分の扉を閉めた。
続いてミュン、オルカ、フェル、サナ、ボウ、エステルも、扉から手を離した。
宿全体が、古い紙のように折れ曲がった。
主人の声が天井から降ってきた。
「なぜ苦しみを選ぶのです」
モメラは答えた。
「苦しみたいんじゃない。名前を消したくないだけだ」
宿は八つ折りになり、最後には一枚の白い札となって風に飛んだ。
その向こうに、逆さ塔が見えた。
塔は地面から立っていなかった。
黒い太陽から、尖った先端を下へ向けて垂れ下がっていた。
四 逆さ塔
塔の入口は空中にあった。
エステルが剣の鎖を引くと、八人の影が地面から剥がれ、階段の形に重なった。一行は自分たちの影を踏みながら、空へ上った。
塔の中では、重力が何度も向きを変えた。
床だと思った場所が壁になり、落ちた涙が天井へ吸い込まれる。窓の外には王国全土が見えたが、町も森も海も、古い絵本の挿絵のように平たかった。
螺旋階段の壁には、無数の壁画があった。
剣を掲げる少年。
その足元に倒れる七匹の怪物。
歓声を上げる民衆。
王から冠を授かる少年。
次の絵では、少年は年老いていた。
その次では、顔を失っていた。
最後の絵では、白い仮面をかぶり、次の少年へ剣を渡していた。
「これまでの勇者だ」
エステルが言った。
「全員、同じ結末?」
モメラの問いに、彼女は答えなかった。
塔の半ばで、下から甲冑の音が追ってきた。
白い仮面をつけた王国騎士たちが、影の階段を上ってくる。胸には〈潔白〉の二文字が刻まれていた。
先頭の騎士が剣を抜く。
「七つの罪を、塔へ入れるな」
「勇者に手を汚させろ」
「王国に罪なし」
同じ言葉を、百人が同じ声で唱えた。
「王国に罪なし」
「王国に罪なし」
「王国に罪なし」
ガドが鎖を引きちぎる勢いで前へ出た。
「その台詞が、一番腹立つ」
拳が燃えた。
塔の内部で戦いが始まった。
ガドの炎が白い仮面を赤く染める。ミュンは崩れた階段を指して「橋はまだある」と叫び、透明な足場を作った。フェルは敵の影から影へ飛び、剣だけを奪って落とした。
サナの髪の糸が騎士の兜へ刺さる。
彼らが忘れさせられていた光景が戻った。
焼かれた村。
空になった薬箱。
地下牢の悲鳴。
処刑台の朝。
騎士たちは次々と剣を落とした。
「違う」
一人が仮面を押さえた。
「知らなかった」
「命令だった」
「俺は見ていない」
「聞いていない」
「選んでいない」
ボウが両手を広げると、塔から音が消えた。
言い訳も、剣戟も、悲鳴も消えた。
静寂の中で、オルカだけが動き続けた。敵味方の区別なく傷口を塞ぎ、痛みを自分へ移す。全身が血に染まり、ついに片膝をついた。
白仮面の隊長が、倒れたオルカへ剣を振り下ろす。
モメラは反射的に勇者の剣を抜いた。
剣の七つの窪みが赤く光り、彼の腕を勝手に動かした。
刃は隊長ではなく、オルカの首へ向かった。
「止まれ!」
モメラは両手で剣を押さえた。
刃がオルカの皮膚を薄く切る。
最初の窪みに、かすかな光が宿った。
塔全体が歓喜するように震えた。
『一人目』
どこからともなく声がした。
モメラは剣を床へ叩きつけた。
「僕は、斬らない」
白仮面の隊長が立ち上がる。
「ならば世界が滅ぶ」
「その言葉を誰に教わった」
エステルが隊長の喉元へ剣を突きつけた。
「王か。宰相か。それとも、白い仮面の内側か」
隊長は答えられなかった。
ガドが拳を振り上げる。
誰もが、彼が隊長を殺すと思った。
しかし拳は、その横の壁を砕いた。
「行け、墓守」
壁の向こうに、塔の頂上へ続く階段が現れた。
「俺たちが、こいつらを止める」
「でも」
「きれいな結末を選ぶな」
ガドは笑った。
「英雄になるなら、せめて面倒な英雄になれ」
七人は追手へ向き直った。
モメラは一人、最上階へ走った。
五 第八の罪
最上階には、巨大な鐘が吊られていた。
鐘は白かった。
骨を磨いて作ったような白さだった。
その下に、一人の老人が立っている。
白い仮面。
胸に八芒星の痕。
右手には、折れた剣の柄。
墓地へ運ばれてきた死者と、同じ姿だった。
「あなたは死んだはずだ」
「死んだとも」
老人は仮面の奥で笑った。
「何度も」
壁画の勇者たちが、一斉に顔を上げた。
少年、少女、老人、兵士、農夫、王子、奴隷。時代も姿も違う勇者が、白い仮面の下で同じ目をしている。
「我らは〈管理人〉」
声が幾重にも重なった。
「七人を斬り、王国を救い、歓声を浴びた者の残りかすだ」
モメラの剣から銀の鎖が飛び出した。
下の階にいる七人の首輪へつながり、彼らを鐘の間まで引き上げる。
ガドも、ミュンも、オルカも、フェルも、サナも、ボウも、エステルも、傷だらけだった。
七人は鐘の周りに円を描いて倒れた。
「百年前」
管理人は語った。
「王国は長い戦争に疲れていた。誰もが誰かを殺し、奪い、見捨てた。だが平和になったとき、人々は自分の手についた血を見たくなかった」
鐘の表面に、昔の光景が映る。
王も、兵士も、商人も、農夫も、祈るように塔を囲んでいた。
『忘れさせてくれ』
『悪かったのは、ほかの誰かだと言ってくれ』
『私たちは善良だったことにしてくれ』
「塔は願いを聞いた」
管理人が両腕を広げる。
「人々の罪と記憶を集め、七人の人間へ注いだ。復讐、虚偽、慈悲、逃亡、執着、沈黙、反逆。複雑な歴史を、わかりやすい七つの顔へ変えた」
「だから、この人たちが選ばれた?」
「彼らは罪を犯した。だから器にふさわしかった」
「王国の罪まで、背負わされた」
「物語には悪役が必要だ」
管理人はモメラへ近づいた。
「そして、悪役を倒す無垢な英雄が必要だ」
剣の柄が熱くなった。
七つの窪みが口のように開き、光を欲しがっている。
「七つの罪は、どれも人間的だ。怒りには理由があり、嘘には目的があり、逃亡には恐怖がある。ゆえに人々は、いつか理解してしまう」
白い仮面が、モメラの顔すれすれまで迫った。
「だが八つ目の罪は違う」
「八つ目?」
「無垢だ」
管理人の声が甘くなる。
「自分だけは関係がないと信じること。自分だけは正しい側に立っていると信じること。剣を振るえば世界が単純になると信じること」
鐘の下に、八本目の鎖が現れた。
それはモメラの胸につながっていた。
「おまえは墓守だった。だが英雄と呼ばれて、うれしかった」
「……そうだ」
「七人が本当に怪物ならいいと思った」
「思った」
「彼らを斬れば、皆がおまえを愛すると知っている」
「知ってる」
「ならば完成せよ」
剣がひとりでに持ち上がる。
七人の姿が歪んだ。
ガドは炎を吐く巨獣に。
ミュンは舌が千本ある蛇に。
オルカは死者を食う鬼に。
フェルは足のない影に。
サナは顔を縫い合わせた蜘蛛に。
ボウは口のない僧兵に。
エステルは黒い冠をかぶる魔女に。
管理人が囁く。
「ほら。物語の形になった」
モメラの腕が剣を振り上げた。
ガドが目を閉じる。
ミュンは笑うのをやめる。
オルカは祈る。
フェルは逃げない。
サナは髪を切る。
ボウの鈴が震える。
エステルだけが、モメラをまっすぐ見た。
「名前を呼べ」
彼女は言った。
「私たちを許すためじゃない。怪物にしないために」
モメラは剣に逆らい、叫んだ。
「ガド・エルゼン!」
炎の巨獣がひび割れ、中から片目の男が現れた。
「おまえは村を焼いた! 命令した者を殺した! それでも、あの村の名を覚えている!」
一本目の鎖が切れた。
「ミュン・ロア!」
千の舌が消え、小柄な女が戻る。
「おまえは嘘をついた! その嘘で救われた者と、死んだ者の数を、どちらも覚えている!」
二本目。
「オルカ・ネヴ!」
鬼の腹が裂け、包帯の医師が立ち上がる。
「おまえは人を死なせた! 苦痛を終わらせたかった! 息子の名を、一日も忘れていない!」
三本目。
「フェル・アシェ!」
足のない影に、震える両脚が戻る。
「おまえは逃げた! 町へ知らせるために走った! 生き残ったことを、今も罰だと思っている!」
四本目。
「サナ・リィ!」
蜘蛛の糸がほどける。
「おまえは記憶を奪った! 優しさだけではなかった! 自分が必要とされたかった! それも全部、おまえだ!」
五本目。
「ボウ・ハルン!」
口のない顔が開く。
「おまえは黙った! 子どもを守り、無実の者を見殺しにした! どちらか一つにするな!」
六本目。
「エステル・ノアゼル!」
黒い冠が砕ける。
「おまえは門を開けた! 人を救おうとして、別の人を死なせた! 姫でも魔女でもなく、おまえはおまえだ!」
七本目の鎖が切れた。
勇者の剣から光が消えた。
ただの鉄になった刃が、鐘の床へ落ちる。
管理人は初めて動揺した。
「七人を人間に戻せば、世界は彼らを裁けなくなる」
「裁けばいい」
モメラは答えた。
「人間として」
「真実は人を救わない。国は混乱し、憎しみが戻り、復讐が始まる」
「かもしれない」
「忘却こそ平和だ」
「名前のない墓の上に立つ平和は、墓場と同じだ」
管理人が鐘を打った。
一つ目の音が鳴る。
王国中の空が暗くなった。
二つ目。
海から死者の手が伸びた。
三つ目。
町の人々の顔が白く塗り潰されていく。
四つ目。
七人の身体が再び怪物へ変わり始める。
五つ目。
モメラの故郷から墓石が消える。
六つ目。
母の声を思い出せなくなる。
七つ目。
管理人が新しい白い仮面を差し出した。
「かぶれ。おまえは善でいられる」
八つ目の鐘を鳴らす槌が、ゆっくり持ち上がる。
モメラの胸には、まだ一本の鎖が残っていた。
八本目。
彼は折れた剣を拾い、鐘ではなく、自分の胸の鎖へ突き立てた。
「僕は、英雄になりたかった!」
鎖に亀裂が入る。
「皆に愛されたかった! この七人が怪物であれば、迷わず斬れて楽だと思った! 僕だけは何もしていない、きれいな人間だと思いたかった!」
白い仮面に亀裂が走る。
「僕の罪は、無垢だ!」
八本目の鎖が切れた。
槌が鐘を打つ。
だが、鳴ったのは一つの音ではなかった。
焼かれた村の名。
薬を与えられなかった者の名。
戦場で死んだ者の名。
処刑された者の名。
忘れられた母の名。
記録から削られた子どもの名。
数えきれない名前が、鐘の音となって世界へ降った。
白い鐘は砕けた。
管理人の仮面の下には、モメラと同じ顔があった。
未来の顔。
疲れ、老い、物語に負けた顔。
「また人は忘れる」
管理人は崩れながら言った。
「塔がなくても、物語が我らを作る」
モメラは答えた。
「なら、何度でも名前を呼ぶ」
逆さ塔が空から落ちた。
六 鐘のあと
世界は滅びなかった。
ただし、誰も無事ではなかった。
人々は思い出した。
王家が隠した虐殺を。
教会が燃やした記録を。
商人が戦争で得た金を。
兵士へ渡した命令を。
命令を知りながら黙った自分を。
王都では三日三晩、誰も眠れなかった。
像は引き倒され、地下牢は開かれ、役所の壁から封印された名簿があふれ出た。復讐も起きた。暴動も起きた。真実を知れば皆が善くなる、などという奇跡は起こらなかった。
それでも、名のない墓は減った。
七人は英雄にはならなかった。
ガドは焼いた村の生存者たちの前で罪を認め、終身の労役を受け入れた。彼は毎年、村に家を一軒ずつ建てた。許した者も、許さなかった者もいた。
ミュンは裁判で、救われた一万人と死んだ三百人の名を読み上げた。判決の後、牢の中から各国の和平文書を直す仕事を始めた。今度は偽の印ではなく、自分の名で署名した。
オルカは医師の資格を失った。それでも病院の地下で、死を待つ者の手を握ることだけは許された。
フェルは逃亡兵ではなく伝令として記録され直した。名誉を戻されても、夜ごとの悪夢は消えなかった。
サナは奪った記憶を一人ずつ返した。返された者たちは泣き、怒り、彼女を殴り、抱きしめた。
ボウは孤児院へ戻った。彼は毎朝、子どもたちの前で一つずつ、過去の名を読むようになった。
エステルは王位を勧められたが断った。
「冠は、人を一つの顔にしすぎる」
そう言って、誰でも記録を読める〈記憶院〉を作った。
モメラは故郷へ戻った。
再び墓を掘り、石に名を刻んだ。
英雄の剣は、鍬に打ち直した。
最初の冬、町に旅の語り部が来た。
酒場は満員になった。語り部は色鮮やかな絵本を開き、子どもたちへ新しい物語を聞かせた。
『昔々、七匹の魔物が王国を滅ぼそうとしました。そこへ、汚れなき勇者モメラが現れます。勇者は一人で魔物を倒し、白い塔を砕き、永遠の平和をもたらしました』
客たちは拍手した。
モメラは酒場の隅で、鍬についた土を落としていた。
絵本の中で、ガドには角が生え、ミュンには蛇の舌があり、オルカは人骨を食べていた。フェルは影、サナは蜘蛛、ボウは口のない怪人、エステルは黒い冠の魔女として描かれている。
勇者だけが、白い服で笑っていた。
モメラは立ち上がった。
「その話は違う」
酒場が静まり返る。
語り部は笑顔を崩さない。
「物語ですよ、勇者様。子どもにもわかる形にしただけです」
「わかりやすくするために、名前を消すのか」
「人は複雑な話を好みません」
一瞬だけ、語り部の顔が白い仮面に見えた。
「人は、英雄と怪物を好むのです」
モメラは絵本を閉じた。
そして子どもたちの前で、一人ずつ名を呼んだ。
ガド・エルゼン。
ミュン・ロア。
オルカ・ネヴ。
フェル・アシェ。
サナ・リィ。
ボウ・ハルン。
エステル・ノアゼル。
客の何人かは席を立った。
何人かは笑った。
何人かは、不機嫌そうに酒を飲んだ。
けれど最前列の小さな少女だけは、空いている椅子を数えていた。
「一、二、三、四、五、六、七、八」
少女はモメラを見上げた。
「ねえ。八人目の怪物は、誰だったの?」
モメラは卓上の杯を見た。
水面に映る自分の顔へ、ほんの一瞬、白い仮面が重なる。
「自分だけは怪物じゃないと、信じた人だよ」
「じゃあ、今もいるの?」
「ああ」
モメラは絵本の白い勇者を指で隠した。
「だから、名前を呼ぶんだ」
少女はうなずき、七人の名を最初から読み直した。
そのとき、酒場の奥にあった八脚目の椅子が、誰も触れていないのに、ゆっくりとモメラの方を向いた。
鐘のない町で、八度目の鐘が鳴った。