『第十九都市の黒い結び目』

1 息をしない笛

 死者が吹く笛は、息を吸わない。

 スーペ谷の夜明け前、盗掘屋のネロムはそのことを知った。

 砂漠はまだ青黒く、東の山並みだけが刃のように白んでいた。涸れた川床の向こうには、発掘区域から外れた小丘がうずくまっている。何の変哲もない砂山だ。だが三日前の小地震で斜面が崩れ、石組みの縁が露出した。

 ネロムは懐中電灯を口にくわえ、葦を編んだ古い袋を引きずり出した。シクラ――石を詰め、巨大建造物の中身にした運搬袋である。五千年近い時間を経てなお、乾いた繊維は指の形を保っていた。

 袋の中に石はなかった。

 人の頭蓋ほどの黒い塊があった。

 表面から無数の細い紐が生え、それぞれに結び目が連なっている。煤けた綿にも見えたが、触れると冷たく、金属より重かった。

「金じゃないのか」

 舌打ちしたとき、背後で笛が鳴った。

 高く、細く、鳥の骨を風が通り抜けるような音。

 振り返っても誰もいない。そもそも風がなかった。砂粒一つ動いていない。

 笛は二度目の音を出した。

 今度は小丘の内部からだった。

 露出した石組みの隙間が、暗い口のように開いている。ネロムは黒い塊をリュックへ押し込み、隙間に肩をねじ入れた。足元は急な階段になっていた。降りるほど空気は冷え、潮の匂いが濃くなった。海は二十キロ以上も西だというのに。

 階段の先に、円形の広場があった。

 地上の星明かりなど届かないはずなのに、広場は薄青く見えた。中央に一人の男が立っている。

 白いシャツ。つばの広い帽子。二十年以上前に流行った型の眼鏡。

 両手で、ペリカンの骨らしい笛を持っていた。

「何だ、お前」

 男は笛を口に当てていない。

 それでも音がした。

 ネロムの背で、リュックの中身がほどけ始めた。一本、また一本と黒い紐がファスナーの隙間から這い出し、彼の首筋を探った。

 男が言った。

「十九番目の部屋へ、ようこそ」

 その朝、砂漠に残っていたのは、空のリュックと一足の靴だけだった。

2 盗むべきもの

 峰島ジンは、宝を三種類に分けていた。

 持ち主を豊かにするもの。

 持ち主を殺すもの。

 持ち主だと思い込んだ人間を、別の何かに変えるもの。

 リマ旧市街、植民地時代の邸宅を改装した私設博物館で、ガラスケース越しに黒い結縄を見た瞬間、ジンはそれが三番目だと悟った。

 招待客は百人を超えていた。鉱山会社の役員、政治家、収集家、外国の学芸員。中庭では弦楽四重奏が演奏され、噴水に浮かべた蝋燭が風に震えている。壁には金銀の仮面や彩色土器が並び、その中央に、場違いなほど地味な黒い紐の束が展示されていた。

 説明板には《年代・出土地不明 初期アンデス文化の結縄資料》とある。

「年代も出土地も、持ち主の良心も不明よ」

 隣でファラ・バルディビアが囁いた。

 三十四歳。スーペ谷を専門とする考古学者。黒いドレスの肩に、発掘現場の日焼けがくっきり残っている。

「最後の項目は見ればわかる」

 ジンは二階回廊を見上げた。

 館の主エセキエル・オルドニェスが、葉巻を片手に客たちを見下ろしていた。銀鉱山と港湾運輸で財を築き、遺跡保護基金への寄付で勲章をもらい、その十倍の額を闇市場へ流している男だ。

「あなたの仕事は、あれを盗むことじゃない」とファラは言った。

「ここまで連れてきておいて?」

「返してもらうの。もともと父の発掘品よ」

「所有証明は」

「父ごと消えた」

 彼女の父ラファエル・バルディビアは、二十七年前、未登録遺跡の予備調査中に失踪した。残された野帳には、六つの大建造物と二つの円形沈床広場で知られる都市配置を写した図、その外側にもう一つ、墨で塗り潰された円が描かれていた。

 余白の一文。

 ――十八の町は地上にあり、十九番目は人の内側にある。

「詩を書く考古学者は信用できないな」

「父は詩が嫌いだった」

「なら、もっと悪い」

 ジンはシャンパンを一口飲み、グラスを給仕の盆へ戻した。

 左手首の古い火傷痕が疼いた。黒い結縄を見てから、ずっとだ。

 展示ケースの警報は床下の圧力センサーと連動している。ケースを割れば全館封鎖。鍵はオルドニェスの胸ポケット。警備員は七人、うち二人が軍隊上がり。正面から盗むのは三流で、手品で盗むのは二流だ。

 一流は、持ち主に自分で持ち出させる。

 ジンは中庭の隅に置かれた配電盤を見た。そこへ、あらかじめ厨房の氷箱から延ばしておいた細い銅線が届いている。

「停電まで三十秒。君はオルドニェスに、あれが偽物だと言え」

「なぜ?」

「本物を見せたくなる」

 ファラは眉をひそめたが、すぐに微笑みを作って階段へ向かった。

 三十秒後、邸宅の照明が落ちた。

 悲鳴。グラスの割れる音。非常灯が赤く点灯し、警備員が出口を塞ぐ。

「湿気た屋敷だ」

 ジンは小声で呟き、展示室へ入った。

 計算どおり、オルドニェスは黒い結縄をケースから取り出し、自分の革鞄へ移そうとしていた。偽物だと公衆の面前で言われ、鑑定室へ運ぶつもりなのだ。二人の警備員が左右につく。

 ジンは壁の消火器を外し、床へ噴射した。

 白煙が広がる。警備員が咳き込み、オルドニェスが革鞄を抱えて身を屈める。

 その頭上を、ジンは走った。

 正確には、展示台を踏み、壁の飾り梁に手をかけ、振り子のように飛び越えた。着地と同時に革鞄の底をナイフで裂く。黒い結縄が落ちる。右手で受け、代わりに同じ重さの鉛袋を押し込む。

 見事だった。

 ただし黒い紐の一本が、ジンの火傷痕へ針のように刺さるまでは。

 視界が裏返った。

 砂の円形広場。

 千人の人間が、声を出さずに空を見上げている。

 空には星が一つしかない。

 その星が、落ちてくる。

 ジンは床に片膝をついた。

「捕まえろ!」

 オルドニェスの声で我に返る。

 ジンは結縄を上着へ押し込み、噴水の縁へ走った。追ってきた警備員の拳をかわし、弦楽四重奏の譜面台を蹴り倒す。ヴァイオリンの弓が宙を舞った。

 二階の窓から外の庇へ飛び移り、雨樋を滑り降りる。背後で銃声。石壁が欠けた。

 路地にはファラの四輪駆動車が待っていた。

「詩人じゃないあなたの感想は?」

 彼女がアクセルを踏み込む。

 ジンは胸元で蠢く黒い結縄を押さえた。

「これは地図じゃない」

「では何?」

「たぶん、扉の鍵だ」

 後方で、博物館の門を突き破って黒いSUVが出てきた。

「そして持ち主は、返してもらう気らしい」

3 海から来る砂

 リマを出て北へ向かうパン・アメリカン・ハイウェイは、海と砂漠の境目を切り裂いていた。

 左には鉛色の太平洋。右には水気を忘れた丘陵。途中、漁村の色鮮やかな舟と綿畑の緑が現れては消える。

 追跡車をまくため、ジンたちは幹線道路を外れ、古い灌漑路沿いの道へ入った。

 日没前、スーペ川の上流に雨雲が溜まり始めた。海岸砂漠では珍しい、鉄色の雲だった。

「目的地はカラルじゃないのか」とジンが訊いた。

「観光客が行く聖都から西へ七キロ。登録番号のない丘よ」

「宿は?」

「一軒だけ。父も泊まった」

 ファラが見せた古写真には、白い平屋の宿が写っていた。中庭を囲む回廊、丸い噴水、壁に大きく《HOSTAL LA SHICRA》とある。玄関前にはラファエルと、よく似た顔の若い男女が立っていた。

「カルデナス兄妹。マテオとクソエ。父の調査助手だった。兄のマテオは父と同じ日に失踪。妹が今も宿を守っている」

「二十七年も、客の来ない砂漠で?」

「待っているのかも」

「何を」

「帰ってくる人を」

 最初の雨粒がフロントガラスを叩いた。

 直後、地面が低く唸った。

 上流から土石流が来たのではない。道の先で砂丘そのものが崩れ、茶色い壁となって道路を横切った。ファラが急ブレーキを踏む。車は横滑りし、灌漑路の縁ぎりぎりで止まった。

 背後も崩れた。

 退路が塞がれる。

 雨は三分でやんだ。

 雲の切れ目から夕陽が差し、濡れた砂漠を血の色に染めた。

「歓迎されているな」とジンが言った。

「楽観的ね」

「歓迎と好意は別物だ」

 徒歩で一キロほど進むと、ユーカリの防風林の向こうに白い建物が現れた。

 オスタル・ラ・シクラ。

 写真より古びていたが、形は同じだった。四角い外壁の中央にアーチ門。屋根の上には骨で作った風見があり、風もないのにゆっくり回っている。

 玄関のベルを鳴らすと、すぐに鍵が開いた。

 女が立っていた。

 六十代半ば。灰色の髪を後ろで束ね、白いブラウスに黒いロングスカート。顔は古写真のクソエと同じだが、時間がその輪郭を鋭く削っていた。

「ファラ」

 女は驚かなかった。

「お父さまに、よく似てきた」

「クソエさん」

 二人は抱き合わなかった。

 砂漠の人間同士のように、互いの目の奥を長く見た。

 クソエは次にジンを見た。

 視線が胸元で止まる。上着の下に隠した黒い結縄を見透かしたようだった。

「十九号室を用意してあります」

「予約はしていない」とジン。

「していましたよ。二十七年前に」

 宿の中庭は、写真どおり円形だった。

 ただし噴水には水がなく、底に白い小石が敷き詰められていた。二階建ての回廊に客室の扉が並ぶ。番号を目で追うと、一から十八までしかない。

「十九号室は?」

 ジンが訊くと、クソエは微笑んだ。

「地下です」

4 壁の向こうの客

 実際に渡された鍵は七号室だった。

 部屋には鉄枠のベッドが二つ、洗面台、鏡、壁掛けの十字架。窓は中庭に面し、レースのカーテンが黄ばんでいる。床は古い石板で、ところどころに葦の繊維が挟まっていた。

「遺跡の石を使った宿か」

「昔は普通だった」とファラ。「今なら逮捕ものだけど」

 ジンは黒い結縄を机へ置いた。

 紐は二十三本。太さも長さも違い、結び目の位置に規則がある。綿に見えるが、ルーペで覗くと一本一本が微細な透明管の束だった。内部を青い光が流れている。

 ファラが父の野帳を開いた。

 見開きに笛の図が六本。穴の位置と、その横に短い線、長い線、円。

「カラルでは骨製の笛が見つかっている。父は音階を記録していた。でも、この記号は音符じゃない」

「結び目の手順だ」

 ジンは黒い紐を一本持ち上げた。「短い線は単結び、長い線は八の字、円は輪。笛の音を、紐の形へ置き換えている」

 廊下の奥で床が軋んだ。

 誰かが、ゆっくり歩いている。

 足音は七号室の前を通り過ぎ、隣の八号室で止まった。扉の開く音。低い男の咳。

「ほかに客が?」

 ファラが言う。

 夕食の席で、クソエは三人分の皿を並べた。

 煮豆、焼いたカボチャ、塩漬けの小魚、平たいパン。三つ目の席は空いたまま、食器だけが新しかった。

「お兄さんの分?」とファラが訊いた。

 クソエの手が止まった。

「マテオは身体が弱くなりました。人前へ出られません」

「失踪したのでは」

「失踪とは、場所を知らない人が使う言葉です。私は知っています」

 壁の向こうで、男が咳をした。

 食堂に接した小部屋らしい。

「クソエ」

 掠れた声がした。

「その男に、紐を渡すな」

 ジンは椅子から立った。

 小部屋の扉へ近づく。

 クソエが肉切り包丁をまな板へ突き立てた。

「兄は光を嫌います」

「声くらい聞けるだろう」

「もう聞いたでしょう」

 壁の向こうで椅子が動く。

 次いで、紐同士が擦れ合うような音がした。

 その夜、ジンはベッドへ入らなかった。

 椅子を扉の下へ噛ませ、黒い結縄を胸に巻き、灯りを消して待った。

 午前二時十三分。

 洗面台の鏡が、内側から曇った。

 白い膜の上に、指で文字が書かれる。

 カ エ セ

 ジンは鏡へ触れなかった。

 ベッド脇の旅行鞄から小型カメラを出し、赤外線に切り替える。

 鏡の中央に、針ほどの穴があった。

 壁の裏に空間がある。

 廊下へ出ると、ファラの部屋の扉が半開きだった。

 中は空。ベッドの上に父の野帳が落ちている。洗面台から黒い水が細く流れ、排水口に白い綿糸が絡みついていた。

 足音が階下へ続いている。

 ジンは追った。

 食堂は暗く、三人分の食器が片づけられていた。

 空席だったはずの皿だけ、骨まできれいに食べられている。

 小部屋の扉には鍵がかかっていなかった。

 中には人間が住める場所などなかった。

 幅一メートルほどの縦長の空間。壁一面に数千本の紐が吊られ、天井から床まで、密林の蔓のように垂れている。紐には髪、爪、歯、写真の切れ端、身分証の一部が結びつけられていた。

 中央に古い木椅子。

 その背もたれへ、男物の上着と帽子が掛けられている。

「マテオ?」

 返事は壁の中から来た。

「君は、何を置いてきた」

 低い男の声。

 だが一か所からではない。数千の結び目が少しずつ震え、声を合成している。

「山か。雪か。女か」

 ジンの左手首が焼けた。

 白い斜面。

 切れかけたロープ。

 下で叫ぶミカ。

 右手には黄金の小像。左手には彼女を支える確保索。

 両方は持てなかった。

 ジンは壁へナイフを突き立てた。

 幻は消えた。

「趣味の悪い宿だ」

「宝を選んだ男が、それを言うのか」

 背後で扉が閉まった。

 クソエが立っていた。白いブラウスの上に、古写真のマテオと同じ茶色い上着を着ている。

 顔つきまで変わって見えた。

 顎を引き、肩を広げ、兄の低い声で言う。

「黒いキープを返せ、峰島ジン」

 次の瞬間には、クソエ自身の声へ戻った。

「お願い。兄を怒らせないで」

「兄は二十七年前に死んだ」

 クソエの頬が痙攣した。

「死とは、結び目がほどけることです。ほどけなければ、人はここにいる」

 床下で笛が鳴った。

 六つの音が順番に重なり、宿全体が共鳴する。

 遠くでエンジン音がした。

 砂に塞がれたはずの道から、複数の車が近づいてくる。

 クソエが目を閉じる。

「遅かった。あの男が来る」

 玄関が銃撃で破られた。

5 第十九都市

 オルドニェスは、砂塵をまとった白いスーツで現れた。

 背後に四人の武装男。さらに手錠をかけられたファラがいた。彼女のこめかみには血が一筋流れている。

「私の博物館から物を持ち出すとは、文化財への敬意が足りない」

「盗品を盗むと、所有権はどうなる?」

「勝った者のものになる」

 オルドニェスは笑い、ジンの胸へ拳銃を向けた。

 クソエは壁際に立っていた。兄の上着を脱ぎ、何も知らない宿主の顔へ戻っている。

「入口を開けろ」とオルドニェス。

「何の入口です?」

「二十七年、守ったつもりか。あなたが旅行者を何人ここへ埋めたか、私は知っている。警察へ渡す証拠もある」

 紐の部屋で、無数の結び目がざわめいた。

「彼らは埋まっていない」とクソエが言った。「ここにいる」

「もっと都合が悪い」

 オルドニェスは部下に合図した。

 一人が中庭の乾いた噴水へ爆薬を置く。

「やめろ!」とファラ。

 爆発が宿を持ち上げた。

 白い小石が雨のように降り、噴水の底が崩れる。下から現れたのは土ではなく、螺旋状に降りる石段だった。

 宿の中庭そのものが、円形沈床広場の上に作られていたのだ。

「父は、これを見つけたのね」

 ファラが呟く。

「見つけたのではない」と、紐の部屋からマテオの声がした。

「呼ばれた」

 床が再び揺れた。

 石段の奥から冷気が吹き上がり、潮と、長く閉じた墓の匂いを運んでくる。

 オルドニェスはジンから黒いキープを奪った。

 その瞬間、二十三本の紐が男の手首へ巻きつき、皮膚の下へ根を伸ばした。オルドニェスの顔に苦痛と恍惚が同時に浮かぶ。

「見えるぞ」

 彼は暗い穴を見下ろした。

「星の配置が。地下の道が。これは記録装置だ。人類最古の図書館だ」

「図書館なら、利用者カードを忘れるな」とジン。

 銃床が腹へ入った。

 ジンは膝をつく。

 全員が石段を降ろされた。

 クソエも同行した。拒めば宿を焼くと脅されたからではない。暗闇の奥から、兄の声が彼女を呼び続けていたからだ。

 石段は百段を超えた。

 壁は切石から、葦袋を積んだ構造へ変わった。袋の網目には丸石が詰められている。だが一つ一つの石が、脈打つ青い光を発していた。

 ジンは通りすがりに指で触れた。

 石ではない。薄い殻の内側で、何かがゆっくり瞬いている。

「空だ」と彼は言った。

「何?」とファラ。

「袋の中に、夜空が詰まっている」

 通路の先に巨大な空間が開けた。

 そこは都市だった。

 六つの段状建造物が、地下の闇へ向かってそびえている。中央には円形広場。周囲に住居区画と階段、通路、吹き抜け。地上のカラルに似ているが、すべてが反転していた。ピラミッドは天井から下へ伸び、広場は底なしの穴の縁にあり、階段は上っているのか下っているのかわからない。

 そして最奥に、七つ目の建造物があった。

 黒く、継ぎ目がない。

 巨大な繭、あるいは折り畳まれた夜そのもの。

 表面から無数の細い線が都市全体へ伸び、葦袋、石壁、床、天井を縫い合わせている。

「インカより古い。エジプトの古王国と同じ時代……」

 ファラの声が震えた。

「違う」とクソエ。

「あれは、もっと古い」

 円形広場の縁に、白い人影が立っていた。

 帽子と眼鏡。二十七年前の姿のままのラファエル・バルディビア。

「お父さん」

 ファラが一歩出る。

 ジンは彼女の腕を掴んだ。

「影がない」

 ラファエルは微笑んだ。

 口が動く前に、都市中の結び目が声を出した。

「ファラ。遅かったね」

6 空の内側

 武装男の一人、パルドがラファエルへ近づいた。

「本物か?」

 銃口で肩を突く。

 ラファエルの身体が綿埃のように崩れた。

 中から、細長いものが飛び出した。

 骨ではなかった。

 透明な節を持つ六本の肢。中央に口も目もなく、代わりに無数の結び目が密集している。肢の先から黒い糸が射出され、パルドの顔へ貼りついた。

 男は引き金を引いた。

 銃声が反響する。怪物は砕けず、薄く広がった。糸が耳と鼻へ潜り込む。

 パルドの悲鳴が止まる。

 彼はゆっくり振り返った。

「母さん?」

 幼児の声だった。

 次の瞬間、自分から円形広場の穴へ歩き出した。

 仲間が腕を掴んだが、皮膚の下を黒い糸が走り、腕だけがするりと抜けた。パルドは笑ったまま闇へ落ち、音は返ってこなかった。

「撃つな!」とファラ。「音に反応している!」

 遅かった。

 残る男たちが一斉射撃した。

 地下都市が目を覚ました。

 六つのピラミッドから骨笛の音が噴き出す。高低の違う音波が空間を切り分け、石段が波のように動いた。壁に並んだシクラ袋が内側から膨らみ、無数の透明な肢が網目を破る。

 オルドニェスが黒いキープを掲げた。

「止まれ!」

 怪物たちは止まった。

 すべての結び目が彼へ向く。

 オルドニェスの目が青く光る。

「私を主人と認識している」

「餌と認識している可能性は?」とジン。

 床が割れた。

 ジンはファラとクソエを突き飛ばし、自分も転がる。先ほどまで立っていた場所から黒い壁がせり上がり、オルドニェスたちと分断された。

 新しい壁には扉が一つあった。

 七号室の扉だった。

 黄ばんだ番号札。真鍮のノブ。

 ありえない場所に、宿の一室が再現されている。

「入るしかない」とファラ。

「入らせたいんだ」とジン。

「ほかに道は?」

「あるように見える道ほど、たぶん罠だ」

 扉の向こうは雪山だった。

 凍った風が吹きつける。

 白い斜面の下で、赤いジャケットの女がロープにぶら下がっていた。ミカ。八年前、ヒマラヤの洞窟で死んだ共同探索者。

「ジン!」

 声も、唇の震えも、あの日のまま。

 彼の右手には黄金の小像が握られていた。

 記憶の再現ではない。指に重さがある。金属の冷たさがある。

「今度は間違えないで」

 ミカの確保索が岩角で擦れ、一本ずつ切れていく。

 ジンは小像を捨てた。

 両手でロープを掴む。

 世界が軋んだ。

 雪が黒い糸へ変わり、斜面が宿の廊下へ戻る。だがミカはまだ下にいる。ジンは体重を後ろへかけ、彼女を引き上げた。

 ロープの先にいたのは、透明な六肢の怪物だった。

 それがジンの顔へ跳びかかる。

 ナイフを抜く暇はない。

 ジンはロープを手放し、怪物の勢いを利用して扉へ叩きつけた。透明な肢が折れ、内部から人間の声がいくつも漏れた。

 助けて。

 寒い。

 母さん。

 ここにいる。

 ジンは踵で中央の結び目を潰した。

 怪物は乾いた綿の束になった。

 廊下の先でファラが父と話していた。

「なぜ帰らなかったの」

「帰ったよ。ずっと、お前の記憶の中にいた」

「そういう言葉が聞きたいんじゃない」

「なら、どんな父親を作ればいい?」

 ラファエルの顔が歪んだ。

 若くなり、老い、泣き、怒り、ファラが求める表情を探して高速で変化する。

 ファラは目を閉じた。

「父は、私に謝らない」

 腰のハンマーを振り抜く。

 ラファエルの額が砕け、黒い糸の塊になった。

「ずいぶんな見分け方だ」とジン。

「最低の父親にも使い道はある」

 クソエだけが動かなかった。

 廊下の突き当たりに、若いマテオが立っている。

 古写真のままの姿。茶色い上着。優しい目。

「クソエ。帰ろう」

 彼女は両手で口を覆った。

「兄さん」

「長かった。もう守らなくていい」

 クソエが近づく。

 ジンは止めようとしたが、ファラが首を振った。

 マテオは妹を抱きしめた。

 その腕は人間の温度を持っているように見えた。

「黒いキープを持ってきて」と彼は囁いた。「身体を作るには、あと少し記憶が要る。あの男たちでは足りない。ファラと、峰島ジンを結べば、僕は完全になる」

 クソエの顔から涙が消えた。

「兄さんは、私をマリータと呼んだ」

「何?」

「小さいころから。二人だけの呼び名。あなたは一度も呼ばない」

 マテオの笑顔が裂けた。

 口の中に歯はなく、無数の小さな輪が回っている。

「クソエ」

 声が低くなる。

「お前が私を作った。お前が旅行者を結んだ。お前が食わせた。今さら母親ぶるな」

 クソエは後ずさった。

 壁、床、天井の結び目が一斉に彼女を責め始めた。二十七年間に消えた旅人たちの声。懇願、罵倒、すすり泣き。

 クソエは耳を塞ぎ、膝をつく。

 ジンは彼女を立たせた。

「罪悪感は後で使え。今は出口に使う」

 彼は父の野帳をファラから受け取った。

 六本の笛。結び目の記号。その下に、ラファエルが最後に書いた一文がある。

 ――城は人の記憶で部屋を作る。自分を忘れた者だけが、中心へ行ける。

「忘れるなんて無理よ」とファラ。

「忘れる必要はない。こいつに読ませなければいい」

 ジンは黒い布を裂き、三人の目を覆った。

「視覚だけで?」

「記憶には入口がある。匂い、音、像。全部は塞げないが、迷わせることはできる」

 彼は廊下の壁から乾いた綿を取り、鼻へ詰めた。

 次に骨笛の音が響くたび、舌を噛んだ。現在の痛みで、過去の声を上書きする。

「手をつなげ。右の壁だけ触って進む」

 三人は闇の中を歩いた。

 足元が砂、石、水、雪へ変わる。死者の声が左右から呼ぶ。ジンは答えなかった。

 やがて右手が壁を失った。

 目隠しを外す。

 七つ目の黒い建造物の内部にいた。

7 記憶を食う王

 内部は、巨大な楽器だった。

 円筒形の空間を何千本もの弦が縦横に渡り、中央には直径十メートルほどの輪が浮かんでいる。輪の内側には星空があった。地球から見える星座ではない。暗い赤色の恒星の周りを、黒い影が群れ飛んでいる。

 壁には人間の歴史が映っていた。

 石を運ぶ人々。綿を撚る手。魚網を直す海辺の家族。円形広場で笛を吹く祭司。旱魃にひび割れる畑。幼児を抱いて泣く母親。

 映像は古代で終わらない。

 スペイン兵、修道士、盗掘者、測量隊、クソエの宿へ来た旅行者たち。ラファエル。マテオ。ネロム。

 最後に、今ここに立つ三人が映った。

「記録している」とファラ。

「違う」とジン。「練習している」

 輪の下に、人型が形成され始めた。

 最初はオルドニェスだった。

 白いスーツ、銀の髪、黒いキープを巻いた腕。次に同じ顔がもう一つ、その隣にもう一つ。十人、百人。空間を埋めるほど増える。

「これが宝だ!」

 百の口が同時に叫ぶ。

「死は複製で敗北する。王は肉体ではなく、情報だ!」

 中央の一体だけが生身だった。

 残りは黒い糸と透明な殻で作られている。だがどれも本人と同じ記憶を持ち、自分こそ本物だと信じていた。

 最初の銃声を誰が撃ったかはわからない。

 百人のオルドニェスが互いを偽物と呼び、一斉に殺し合いを始めた。銃弾は殻を割り、黒い糸が飛び散る。倒れた複製の記憶を別の複製が吸い込み、さらに増える。

 王の不死は、王国を必要としなかった。

 王だけで世界を満たせばよかった。

「中心を止める!」とファラ。

 父の野帳によれば、六本の笛に対応する六つの結び目を、特定の順で解く必要がある。だが黒いキープは生身のオルドニェスの腕に絡み、彼は複製の群れの奥にいる。

 ジンは腰のロープを外した。

 天井の弦へ鉤を投げ、引く。一本が低く鳴った。

 怪物たちが一斉に振り向く。

「音に反応するんだったな」

「何をする気?」

「演奏だ」

 ジンはロープを弦へかけたまま走り、円筒の壁を蹴った。身体が宙へ弧を描く。下でオルドニェスたちが手を伸ばす。黒い糸が靴底を掠める。

 反対側の足場へ着地。

 すぐ次の弦へ鉤を移し、別の音を鳴らす。

 六つのピラミッドから返事が来た。

 地下都市全体が共鳴し、オルドニェスの複製が苦しみ始める。

「ファラ、順番を読め!」

「高音、低音、低音、中央、最高音――最後がない!」

「ページを破ったのは?」

 クソエが兄の上着の内ポケットを探った。

 古びた紙片が出てくる。二十七年前、マテオが持ち去った野帳の一部。

「兄は知っていた」

 紙片には、六番目の笛の絵ではなく、人の口が描かれていた。

「最後は声よ」とクソエ。「特定の音程じゃない。言葉」

「何と言う?」

 クソエは紙片の裏を見た。

 古代の言葉ではない。ラファエルのスペイン語だった。

 ――われらは、死者の家ではなく、生者の朝を選ぶ。

 そのとき、生身のオルドニェスがジンのロープを掴んだ。

「私の朝だ!」

 恐るべき力で引く。

 ジンは足場から引きずり落とされた。中央の輪の上で宙吊りになる。星空の向こうから、細長い影がこちらへ近づいていた。城を送り出した何か。記憶を食う種子を、世界から世界へ撒くもの。

 オルドニェスが黒いキープを振り上げる。

 ジンはロープを登らず、手を放した。

 落下しながら身体を捻り、オルドニェスの腕へ飛びつく。二人は輪の縁へ激突した。星空が水面のように揺れ、吸引が始まる。

 黒いキープの紐がジンの首へ巻きついた。

 頭の中へ無数の人生が流れ込む。

 石を運ぶ男の腰痛。

 初めて綿糸を撚った少女の誇り。

 海で息子を失った母。

 旱魃。

 祭り。

 笛。

 空から落ちた黒いものを神と呼び、やがて神ではなく飢えだと知った人々。

 彼らは戦って封じたのではなかった。

 都市中の人間が一人ずつ、自分の最も大切な記憶を結び目へ預けた。

 城を満腹にするためではない。

 記憶の一つ一つに「終わり」を結び、複製できない形へしたのだ。

 完全な記録ではなく、欠落を選んだ。

 不死ではなく、忘却を受け入れた。

 ジンは理解した。

「このキープは鍵じゃない」

 オルドニェスの指を一本ずつ剥がす。

「墓石だ」

 黒いキープを奪った。

 結び目は六つではなかった。二十三本すべてが絡み合い、一つの大きな輪を作っている。

 解くのではない。

 最後の結び目を、加えるのだ。

「クソエ!」とジンは叫んだ。「お前の兄を終わらせろ!」

 若いマテオが彼女の背後に現れた。

「やめろ、マリータ」

 初めて、その呼び名を使った。

 クソエの顔が崩れた。

 望み続けた一言だった。偽物だと知っていても、手を伸ばせば二十七年を取り戻せる。

 マテオが両腕を広げる。

「帰ろう」

 クソエは一歩近づいた。

 そして兄の上着を脱ぎ、床へ置いた。

「帰る場所は、もうないの」

 壁から伸びていた一本の黒い紐を掴む。

 それは宿の紐部屋まで続き、二十七年かけて編まれたマテオの人格そのものだった。

 クソエは肉切り包丁を振り下ろした。

 紐が切れた。

 マテオの身体がほどける。

 怒りも恐怖もなく、最後だけは本物の兄に似た穏やかな顔になった。

「朝だよ、マリータ」

 消えた。

 ジンは切れた紐の端を黒いキープへ結んだ。

 ファラが五つの音の順に、足元の弦を鳴らす。

 高音。

 低音。

 もう一度、低音。

 中央。

 最高音。

 最後に三人で言った。

「われらは、死者の家ではなく、生者の朝を選ぶ」

 結び目が閉じた。

8 崩れる城

 最初に消えたのは、星空だった。

 中央の輪が黒い板へ変わり、ひび割れる。向こうから近づいていた影が無数の腕を伸ばしたが、亀裂ごと折り畳まれた。

 次に、オルドニェスの複製が崩れた。

 白いスーツだけを残し、黒い糸の山になる。生身の一人はなお立っていた。自分が本物だと確信している顔だった。

「私の記憶は消えない」

 彼の皮膚の下で青い光が走る。

「会社が、都市が、歴史が私を残す」

「それは記憶じゃない」とファラ。「請求書よ」

 床が傾いた。

 オルドニェスは輪の縁から滑り、黒い板へ爪を立てた。ジンの足首を掴む。

「助けろ!」

 ジンの左手首が疼いた。

 雪山の記憶。ミカのロープ。宝を選んだ右手。

 今度は迷わなかった。

 腹ばいになり、オルドニェスの腕を両手で掴む。

「何をしてるの!」とファラ。

「同じ間違いは二度しない!」

 引き上げようとした瞬間、オルドニェスの背から黒い肢が六本開いた。

 男はもう人間ではなかった。

 笑いながらジンの腕を登り、口のない顔を近づける。

「君の記憶も、私になる」

 クソエが横から上着を投げた。

 茶色い布が怪物の頭へ被さる。

 その一瞬にジンは腕を振りほどいた。

 オルドニェスはマテオの上着を抱えたまま、閉じていく黒い輪の向こうへ落ちた。

 城が吠えた。

 音ではない。

 三人の頭蓋の内側で、失われることを拒む何億もの記憶が同時に叫んだ。

 弦が切れ、天井から夜空を詰めたシクラ袋が降る。地面へ落ちるたび、袋の中の小さな星が潰れ、青い火を噴いた。

「来た道は消えてる!」とファラ。

 円筒の壁に、宿の十九号室が現れた。

 扉ではない。石の壁に、白い数字だけが浮かんでいる。

 クソエが数字へ手を当てた。

「宿へ戻して。兄さんを返したでしょう」

 壁は動かない。

 ジンは周囲を見た。

 六本の太い弦が上方へ伸びている。笛の音を地上へ運ぶ共鳴管だ。その一本に、外気で揺れる微かな綿毛が付着していた。

「出口は部屋じゃない。楽器の喉だ」

 三人は弦を伝って登った。

 背後から崩壊が追う。黒い糸が蛇の群れのように壁を這い、足首へ絡みつく。ジンはナイフで切り、ファラを押し上げる。

 途中、弦が切れた。

 クソエが宙へ投げ出される。

 ジンは片腕で弦にぶら下がり、もう一方で彼女を掴んだ。肩が抜けそうになる。

「放して」とクソエ。

「今日はそういう気分じゃない」

 ファラが上からロープを下ろす。

 二人を引き上げる。

 共鳴管の出口は、地下ピラミッドの頂上にある祭壇室だった。

 床には六本の骨笛が円形に並べられている。中央に、白骨化した二人の遺体が座っていた。

 一人はマテオ。

 もう一人はラファエル。

 ファラは足を止めた。

 父の骨は壁にもたれ、手に小さな結び目を握っている。

 彼女はそれを取った。

 指先ほどの綿紐。ほどけかけた単純な輪。

 結び目が、ラファエルの声を一度だけ再生した。

「ファラ。私を探すな。私の先を探せ」

 それだけだった。

 ファラは泣かなかった。

 紐を父の手へ戻し、額に触れた。

「命令するのが遅いのよ」

 祭壇室が割れた。

 三人は骨笛を一本ずつ掴み、崩れた壁の向こうへ飛び出した。そこは石段ではなく、急傾斜の灌漑水路だった。上流の一時的な豪雨で水が流れ込み、泥と石を巻いて地下へ落ちている。

「これに乗るの?」とファラ。

「階段より速い」

 三人は水路へ滑り込んだ。

 暗闇の中を、濁流に運ばれる。

 頭上を石梁がかすめ、背後で青い火が爆ぜる。途中、流路が二つに分かれた。ジンは右を選ぶ。直後、左の穴から透明な肢が伸び、空を掴んだ。

 前方に朝の光が見えた。

 だが出口は崩れた石で半分塞がれている。

 ファラが骨笛を投げ捨て、両腕で頭を守る。

「伏せろ!」

 ジンは自分の笛を石の隙間へ差し込んだ。

 水圧を受けた骨が折れ、その瞬間、内部に残っていた高音が爆発的に鳴る。

 石組みが共鳴し、崩れた。

 三人は泥水とともに地上へ吐き出された。

9 生者の朝

 夜が終わっていた。

 スーペ谷の東から太陽が昇り、段状建造物の輪郭を金色に縁取っている。

 オスタル・ラ・シクラは半分崩れ、中庭の穴へゆっくり沈んでいた。十九号室など最初から存在しなかったように、地下への階段も砂で埋まっていく。

 オルドニェスの車は残っていた。

 武装男たちの姿はない。無線機だけが運転席で雑音を吐いている。

 クソエは泥の中に座り、宿を見つめた。

「私は何人も殺した」

 誰も否定しなかった。

「兄を残すために。最初は、死にかけた旅人の記憶だけだった。次は悪人。次は、誰にも探されない人。選んでいるつもりだった。けれど最後には、城が選び、私は扉を開けた」

 ファラが言った。

「警察へ行きましょう」

「ええ」

 クソエは立った。

 兄の上着を探すように一度だけ周囲を見たが、もうどこにもなかった。

 ジンは黒いキープを確認した。

 最後の結び目を加えたそれは、ただの炭化した綿の束になっている。青い光も、冷たさもない。

「持ち帰る?」とファラ。

「持ち帰れば、オルドニェスの次が来る」

「考古学者としては、保存すべきだと言わなければならない」

「トレジャーハンターとしては?」

 ファラは崩れゆく穴を見た。

「宝には、発見されたくない権利もある」

 ジンは黒い束を円形広場の底へ投げた。

 砂が覆う。

 三人は車で谷を出た。

 崩落した道の手前で警察と遺跡管理当局の車列に出会い、クソエは自分から手を上げた。

 事情聴取は長引いた。

 地下都市について、調査隊は何も発見できなかった。宿の下にあったのは浅い基壇と古い水路だけ。オルドニェスは行方不明。私設博物館の倉庫から大量の盗掘品が見つかり、世間はそちらの事件に夢中になった。

 ラファエルとマテオの遺骨も出なかった。

 数週間後、リマの海岸通りで、ジンとファラは紙コップのコーヒーを飲んだ。

 灰色の海にサーファーが浮かんでいる。

「報酬の残り」とファラが封筒を差し出した。

「成功したのか?」

「黒いキープを取り戻した。父も見つけた。依頼内容は満たしている」

「どちらも手元にない」

「あなたは、手元に残ったものだけを発見と呼ぶの?」

 ジンは封筒を受け取らなかった。

「代わりに一つ頼みがある」

「何?」

「父親の野帳を写させてくれ。十九番目の都市について、まだ読めていない箇所がある」

「懲りてないのね」

「宝を捨てたからといって、性格まで良くなるわけじゃない」

 ファラは笑った。

 初めて見る、父親の影がない笑顔だった。

「次はどこへ?」

「決めていない」

「嘘。顔に地図が出てる」

 ジンは左手首を見た。

 火傷痕の痛みは消えていた。ミカの最期を思い出しても、右手に黄金の重さは戻らない。記憶は変わらない。だが、その先の選択は変えられる。

 海風が吹いた。

 どこかで、細い笛の音がした。

 ジンは振り返った。

 遊歩道の露店で、少年が安物の笛を吹いているだけだった。音程は外れ、母親に笑われている。

 六つの音。

 高音。

 低音。

 もう一度、低音。

 中央。

 最高音。

 少年は笛を口から離した。

 それでも、最後の音が鳴った。

 ジンのポケットの中で、何かが動く。

 手を入れると、見覚えのない一本の黒い紐があった。

 指ほどの長さ。結び目はまだない。

 海の向こうで、昼の空に一つだけ星が光った。

 紐が自分から曲がり、最初の輪を作り始めた。

【創作注】

 本作はフィクションです。実在の遺跡・文化・研究とは異なる架空の設定を含みます。