『第四碑文の王』

 王の墓を掘る者は、三つの嘘を用意しろ。

 ひとつは役人に。ひとつは雇い主に。

 最後のひとつは、墓の主に。

 葉室弦はそう書いて、旅行鞄の上で万年筆を止めた。

 乾いた風が、崩れかけた隊商宿の中庭を横切っていく。砂に削られた煉瓦壁の向こうでは、夕陽がザグロスの稜線を銅貨のように赤く染めていた。

「三つでは足りないかもしれません」

 向かいに座るドレミラ・ナーデリーが言った。

 彼女は三十代半ばの碑文学者で、日に焼けた指先に白い綿手袋をはめている。その手の中に、黒緑色の円筒印章があった。

「今度の墓には、四人目がいるので」

「墓の中に四人?」

「碑文が四つ、という意味です」

 ドレミラは円筒印章を柔らかな粘土板の上で転がした。

 現れたのは、玉座に座す王と、その前に進み出る諸国の使者たちだった。見慣れた王宮図像に見える。だが葉室は、すぐに異様な点に気づいた。

 王だけが跪いている。

 使者たちは贈り物を捧げているのではない。両手で耳を塞ぎ、顔を背けていた。

 玉座の上には翼ある円盤ではなく、四つの瞳を持つ星が浮かんでいる。

「贋物だな」

「そう思いますか」

「少なくとも正規の工房じゃない。王を膝につかせる図像を、帝国の印章師が彫るはずがない」

「では、何のために?」

「王を辱めるため。あるいは――」

 葉室は粘土板に顔を近づけた。

 王の足元に、微細な楔形文字が並んでいる。古代ペルシア語でも、エラム語でも、バビロニア語でもない。けれど完全に未知というわけでもなかった。三つの文字体系の特徴を、悪意ある子供がひとつに混ぜたような字形だ。

「あるいは、王に見えるものが王じゃない」

 ドレミラが微笑んだ。

「あなたの本は、正しかった」

「どの本だ」

「『無名王の火冠』。十一年前、あなたが学界から追放される原因になった本です」

「あれは冒険譚だ。史料の欠落を想像で埋めた」

「想像で埋めた名が、ここにある」

 ドレミラは印章の末尾を指した。

 葉室の笑みが消えた。

 アズ・マルク。

 無名なる王。

 葉室が本の中で作った言葉だった。

 古代語の断片を継ぎ合わせ、響きだけを整えた、存在しない王名。砂漠の地下に火の冠を隠したという、売れるための虚構。

 だが印章は、彼がその名を書く二千年以上も前に作られていた。

「どこで見つけた」

「叔母の遺品です」

「叔母さんは?」

「生きています。本人は、半分だけ、と言っていますが」

 風がやんだ。

 隊商宿の外で、繋いだラクダが一斉に鳴いた。

 ドレミラは印章を布に包んだ。

「明日の夜、地下水路に入ります。王墓ではありません。王墓のふりをした牢獄です」

「牢獄なら、中にいるものは出したくないな」

「だからあなたを呼びました」

「俺は錠前師じゃない」

「いいえ。あなたは嘘を本物にする人です」

 入口は、涸れた葡萄畑の井戸に偽装されていた。

 夜明け前、葉室とドレミラは縄梯子を三十メートル降り、古いカナートの横坑に立った。水はとうに失われ、底には塩の粉が雪のように積もっている。天井は低く、油灯の火が黒い煤を引いた。

 ドレミラが先を行き、葉室が続いた。

 彼は四十三歳だった。若いころほど速くはないが、危険を嗅ぐ勘だけは研ぎ澄まされている。大学で考古学を教えていた時代より、追放されてからの十一年のほうが長く感じられた。密輸業者、私設博物館、軍閥、収集家。どの雇い主も最後には同じ目をした。歴史を知りたいのではない。歴史を所有したいのだ。

 ドレミラは違う、と葉室は思いたかった。

 横坑はやがて、切石で組まれた回廊に変わった。

 壁面に浮彫が続いている。長衣の男たちが、壺、織物、牙、金杯を運ぶ。王宮の朝貢図に似ているが、足の向きがおかしい。全員、身体は前へ進みながら、足首だけが後ろを向いていた。

「帰ろうとしている」

 葉室が呟いた。

「何から?」

「王からだろう」

 回廊の終点には、三枚の石扉が並んでいた。

 一枚目には古代ペルシア語。

 二枚目にはエラム語。

 三枚目にはバビロニア語。

 帝国の王たちが権威を示すために用いた三言語碑文である。だが内容は一致していなかった。

 一枚目はこう刻む。

 王は天より落ちた火を討ち、地の底に埋めた。

 二枚目はこう告げる。

 王は天の火に選ばれ、永遠の身体を授かった。

 三枚目はこう否定する。

 王は生まれず、火も落ちず、この扉も存在しない。

「翻訳違いではありません」

 ドレミラは光を滑らせた。

「意図的な矛盾です」

「三人の書記が喧嘩していた」

「帝国の中枢で?」

「人間は場所を選ばず喧嘩する」

「あなたは、いつも冗談で恐怖を測るんですね」

「恐怖は目盛りが細かいからな」

 葉室は中央の床に膝をついた。

 三枚の扉から等距離の場所に、小さな円孔がある。円筒印章を差し込む形だ。

「鍵穴だ」

「触らないで」

「触ってない」

「嘘」

 葉室の指は、すでに縁の砂を払っていた。

 そのとき、背後で石が鳴った。

 低い音だった。

 巨大な動物が遠くで喉を鳴らすような音。

 回廊の浮彫に刻まれた使者たちの目から、黒い砂が流れ出した。

「走って!」

 ドレミラが叫んだ。

 床が傾いた。

 塩の粉の下から、青銅の格子が跳ね上がる。葉室はドレミラを突き飛ばし、自分も壁へ飛んだ。格子は二人の間を断ち切った。

 次の瞬間、天井の水門が開いた。

 涸れていたはずのカナートから、冷たい濁流が噴き込んできた。

「弦!」

 鉄格子の向こうでドレミラが手を伸ばす。

 葉室も手を伸ばした。

 指先が触れる寸前、横壁が割れた。

 白い仮面をつけた男たちが現れた。

 作業着姿の四人。手に短銃と鉤縄を持っている。

 ドレミラが振り返り、一人の膝を蹴った。だが別の男が彼女の首に布を押し当てた。

 葉室が格子をよじ登ろうとしたとき、足元の石床が抜けた。

 彼は暗闇へ落ちた。

 落下の途中で、誰かの声を聞いた。

 男でも女でもない。

 老人でも子供でもない。

 それは葉室自身の声で、まだ書いていない文章を読んでいた。

 ――四人目の碑文は、血で書かれる。

 岩に脚を打ちつけた。

 骨が折れる音を、葉室は自分の身体の外から聞いた。

 目覚めると、雨の音がしていた。

 砂漠ではあり得ない雨だった。

 葉室は白い寝台に横たわっていた。右脚は膝から足首まで副木で固定され、胸には包帯が巻かれている。窓には厚い木戸。壁紙には糸杉と孔雀の意匠。部屋の隅で、銅の水盤に細い水が落ち続けていた。

 雨音の正体はそれだった。

 扉には内側の取っ手がない。

「目覚めるまで四日かかりました」

 女の声がした。

 窓辺の肘掛椅子に、人が座っていた。

 六十代後半だろうか。銀色の髪をきっちりと後ろへ束ね、黒い長衣を着ている。顔立ちはドレミラに似ていたが、目の色だけが異様に淡い。

「マフターブ・ナーデリー」

 葉室が言うと、女は満足そうに頷いた。

「姪から聞いていましたか」

「遺品の持ち主だと」

「私はまだ、遺品になるほど死んでいません」

「ドレミラは」

 マフターブは答えず、小卓の上の注射器を取り上げた。

「痛みは?」

「上等だ。一本二千ドルで売れる」

「その冗談は、本の中のあなたほど面白くない」

 注射針が点滴管に刺さる。

 冷たい薬が腕から入り、砕けた脚の痛みを遠ざけた。

「ドレミラはどこだ」

「回廊が崩れました。あなたは下の水路に落ち、私の作業員が救助した。姪は――」

 わずかな間。

「見つかっていません」

「死体も?」

「ええ」

「なら生きている」

「そう書けば、生き返ると思いますか?」

 マフターブは立ち上がった。

 背が高い。歩くたび、長衣の裾から乾いた音がした。砂ではない。薄い金属片が擦れ合うような音。

 彼女は革装丁の本を寝台に置いた。

 葉室の著書『無名王の火冠』だった。

 頁の余白が、細かな書き込みで埋め尽くされている。文章の誤り、史料の出典、地形の矛盾。執念深いほど精密な注釈。

 最後の頁だけが切り取られていた。

「続きを書いてください」

「完結してる」

「いいえ。あなたは王墓を見つけ、火冠を海へ捨て、女と別れる。あんな結末は嘘です」

「小説だからな」

「嘘にも質があります。あなたの結末は、逃げた者の嘘だ」

 マフターブは小卓の引き出しを開け、原稿用紙の束と万年筆を出した。

「本当の結末を書いてください。第四碑文を」

「俺が何を書こうと、石扉は開かない」

「開きます」

「なぜ分かる」

「もう一度、あなたの名を読んだからです」

 彼女は長衣の袖をまくった。

 左腕の皮膚に、黒い結晶が生えていた。

 静脈に沿って細い楔形をつくり、肘から手首まで文字列のように連なっている。結晶は脈打つたび、微かな光を放った。

 葉室は息を止めた。

 字形は、あの円筒印章の第四の文字だった。

「それは何だ」

「私の読者です」

 マフターブは袖を戻した。

「そして、とても辛抱のない読者です」

 監禁は、奇妙な規則のもとで始まった。

 朝、マフターブが朝食と薬を運ぶ。

 午前中、葉室は原稿を書く。

 午後、マフターブが声に出して読む。

 気に入れば鎮痛剤が与えられ、気に入らなければ量が減る。

 夜、扉の外から鍵が三度鳴る。

 窓は開かない。扉に取っ手はない。水盤の排水口は指一本入らない。部屋にある金属は万年筆のペン先と、寝台の脚を留める四本の螺子だけだった。

 最初の日、葉室は一行だけ書いた。

 ――王は死んでいた。

 マフターブは読んで、紙を破った。

「死は結末ではありません」

「大抵はそうだ」

「読者にとっては違う。読者は死者を何度でも頁から起こす」

「本を閉じれば終わる」

「本の外へ出た読者なら?」

 二日目、葉室は百年前に王墓を発見した英国人探検家の手記をでっち上げた。

 マフターブは三頁で見抜いた。

「方位が逆です」

「砂嵐で磁針が狂った」

「磁針は砂嵐で狂いません」

「じゃあ、探検家が酔っていた」

「便利な逃げ道ですね」

 彼女は薬瓶を小卓に置いたまま、扉の外へ出た。

 手を伸ばせば届きそうで届かない距離だった。

 その夜、葉室は痛みで一睡もできなかった。

 三日目、彼は自分の過去を書いた。

 大学で発見した粘土板を、教授が偽物と決めつけたこと。

 反論して職を失ったこと。

 借金を返すため、発掘知識を収集家へ売ったこと。

 事実だけを書いた。

 マフターブは静かに読み終えた。

「最も退屈な嘘です」

「全部本当だ」

「だからです。事実を並べれば責任から逃げられると思っている」

「責任?」

「あなたは『アズ・マルク』という名を作った」

「語呂合わせだ」

「名は器です。空だった器に、あなたは取っ手をつけた。世界中の読者が持ち上げられるように」

 マフターブは本を開いた。

 葉室の小説は二十七か国語に翻訳され、映画化もされた。安っぽい冒険活劇として、何百万人もの頭の中に「無名王」の像を作った。

「あなたが嘘を語るたび、あれは少しずつ輪郭を得た」

「俺の小説が怪物を育てたと?」

「怪物ではありません。可能性です」

「同じことだ」

「違います。怪物には形がある。あれには、まだない」

 マフターブが部屋を出たあと、葉室は天井を見つめた。

 やがて、水盤の滴る音に混じって、別の音が聞こえた。

 こつ。

 こつ、こつ。

 こつ、こつ、こつ。

 壁の中からだった。

 一回、二回、三回。間を置いて、また一回。

 三つの言語。三枚の石扉。

 葉室は寝台脇の木枠を指で叩いた。

 一、二、三。

 壁の向こうが沈黙した。

 それから、規則正しい打音が返ってきた。

 長い。短い。長い。二度。

 軍用信号の簡易符号だった。

 イ・キ・テ・ル。

 葉室は目を閉じた。

 痛みとは別の熱が胸に上がった。

 サ・ミ・ラ?

 返事は一打。

 ハ・イ。

 壁の向こうの部屋まで、距離は二メートルほどだった。

 配管が水盤を通じて繋がっているらしい。声は通らないが、打音は届く。

 ドレミラは生きていた。

 左肩を負傷し、鎖で繋がれている。

 屋敷は砂漠北端の古い発掘基地。

 叔母マフターブが十五年前に放棄したはずの場所だった。

 ナ・ゼ・オ・バ・ハ。

 葉室が尋ねると、返事は長く途切れた。

 チ・チ・ヲ・モ・ド・ス・タ・メ。

 ドレミラの父、ファリド・ナーデリーは、マフターブの弟だった。

 二十年前、姉弟は同じ地下遺構を発見した。外郭の一室で、黒い隕鉄の破片を拾った。ファリドはその夜、四つの名を名乗り、翌朝には自分の舌を噛み切って死んだ。

 マフターブは遺体を地下に運び込んだ。

 戻ってきたとき、左腕に文字が生えていた。

 オ・バ・ハ・チ・チ・ノ・コ・エ・ヲ・キ・イ・テ・イ・ル。

 死者の声を餌にされている。

 葉室には理解できた。人は宝石のためより、死者のために深く掘る。

 第四碑文について、ドレミラはこう打った。

 三枚の碑文は、鍵ではなく錠だ。

 矛盾そのものが封印になっている。

 三つの言語が同じ出来事を別々に語るかぎり、中の存在はひとつの現実を選べない。

 第四碑文は、三つを統合する物語。

 マフターブは、それを書ける人間を探していた。

 断片から筋道を作り、矛盾を読者に信じさせる人間を。

 モ・ノ・ガ・タ・リ・ヲ・カ・ン・セ・イ・サ・セ・ナ・イ・デ。

 葉室は苦笑した。

 作家に向かって、完成させるなとは酷な注文だ。

 だが彼は作家である前に、墓泥棒だった。

 墓泥棒は、出口から逆算して仕事をする。

 彼は万年筆を分解した。

 ペン先。軸。吸入器。細い金属棒。

 螺子に差し込めるものはない。だが木製の寝台脚は、長年の乾燥で割れている。

 毎晩、物音を水盤の滴に合わせ、少しずつ木を削った。

 四晩目、一本の螺子が外れた。

 五晩目、寝台の横桟を持ち上げ、先端を尖らせた。

 六晩目、マフターブが原稿を読んでいるあいだ、葉室は彼女の影を見た。

 影は、本人より先に頁をめくった。

「見えましたか」

 マフターブが言った。

 葉室は視線を上げた。

「何が」

「私の中にいるもの」

「老眼だろう」

「あなたは恐怖に名前をつけない。だから長生きした」

「名前をつけると請求書が来る」

「でも今回は、名前をつけてもらいます」

 彼女は原稿を閉じた。

 葉室は六日かけて、王墓への道程を書いていた。三枚の碑文。塩の回廊。天から落ちた火。王がそれを冠として戴いたという伝説。

 マフターブは満足していた。

 物語が、彼女の望む形へ近づいているからだ。

「明日、戻ります」

「どこへ」

「あなたが落ちた場所へ」

「脚が折れてる」

「運ばせます」

「ドレミラも?」

 マフターブの瞳が細くなった。

 部屋の温度が下がったように感じた。

「壁は、よく響きますか」

 葉室は答えなかった。

「姪は私に似て、賢い。賢い人間は、世界が理解できると信じる。だから理解できないものに出会うと、すぐ壊れる」

「お前は壊れなかった?」

「私は、壊れたまま学びました」

 マフターブは長衣の胸元から、小さな銀箱を出した。

 蓋を開く。

 中には人間の乳歯が一本あった。

「ファリドが七歳のとき、私が抜いてやった歯です。あれは弟の声で言いました。この歯があれば、身体を作り直せると」

「信じたのか」

「二十年かけて信じました」

「それは信仰じゃない。拷問だ」

「ええ」

 マフターブは初めて、疲れた人間の顔をした。

「だから早く終わらせてください」

 その夜、葉室は脱出した。

 外した横桟を扉の下へ差し込み、蝶番側を梃子で浮かせた。脚の骨が軋み、視界が白くなった。声を噛み殺し、全身の体重を木へかける。

 古い蝶番の一本が抜けた。

 二本目は折れた。

 扉が内側へ傾いた。

 廊下は暗く、薬草と油の匂いがした。

 葉室は床を這った。右脚を引きずるたび、固定具の中で骨片が擦れる。冷や汗が額から落ちた。

 壁には発掘写真が並んでいた。

 若いマフターブとファリド。

 帝国期の列柱基壇。

 地下から出土した青銅器。

 最後の写真には、塩の壁に埋まった黒い球体が写っていた。

 球体の表面に、人間の顔が浮かんでいる。

 何百もの顔。

 どれも目を閉じ、口だけが開いていた。

 廊下の突き当たりに階段がある。

 下から、鎖の音がした。

「ドレミラ」

 葉室が小声で呼ぶ。

「弦?」

 地下室の扉は施錠されていた。

 葉室は万年筆の金属棒を鍵穴に差し込んだ。錠は古いが複雑だ。指先の感覚が薄れていく。

「急いで」

「分かってる」

「違う。叔母が来る」

 背後で、裸足の足音がした。

 葉室は振り返った。

 廊下の端にマフターブが立っている。

 黒い長衣を着ていない。

 寝間着の左半分が裂け、腕から肩、胸元にかけて黒い結晶が広がっていた。文字列は皮膚の上ではなく、皮膚の下を這っている。ひとつの文章が、彼女の身体を使って書き進められていた。

「戻りなさい」

 声が二重に響いた。

 マフターブの声と、葉室の声。

「結末がまだです」

 葉室は鍵穴から金属棒を抜いた。

 武器には短すぎる。

 マフターブが一歩進む。

 その影は三歩進んだ。

 影の腕が長く伸び、壁を伝って葉室の足首へ迫る。

「叔母さん!」

 地下室からドレミラが叫んだ。

「お父さんは戻らない! 聞こえているのは、お父さんじゃない!」

 マフターブの顔が歪んだ。

「黙りなさい」

「叔母さんは知ってる!」

「黙れ!」

 廊下のランプが一斉に割れた。

 闇が落ちる。

 葉室は金属棒を投げた。

 狙いはマフターブではない。

 壁の消火壺だった。

 壺が砕け、細かな砂が床へ広がる。

 伸びてきた影が、砂の上で輪郭を失った。

 葉室は扉の横へ身体を投げ、非常用の閂を引いた。

 地下室の扉が開く。

 ドレミラが飛び出した。左腕を吊り、右手には鎖の切れ端を握っている。

 二人は階段を上がろうとした。

 最上段に、白い仮面の作業員が二人立っていた。

 銃床が振り下ろされた。

 葉室の意識は、今度こそ完全に消えた。

 砂漠へ戻ったのは、星のない夜だった。

 葉室は木製の担架に縛られ、荷台へ積まれていた。隣にドレミラが座らされている。手首には青銅の枷。白仮面の男が四人、銃を持って囲んでいた。

 運転席の横にマフターブが座る。

 長衣に戻っていたが、左手の指先は黒く透けていた。

 車は涸れた河床を進み、やがて崩れた葡萄畑へ着いた。

 井戸の周囲には滑車と照明が組まれている。作業員たちは葉室を担架ごと吊り下げた。

 地下の冷気が上がってくる。

 落下した夜と同じ匂い。

 塩。古い油。濡れた石。

 そして、雷雨の前に似た金属臭。

「原稿は?」

 葉室が尋ねた。

 マフターブは胸元から革袋を出した。

「ここに」

「最後の頁は白紙だ」

「だから、あなたを連れてきた」

「万年筆がない」

 マフターブは微笑み、彼の胸ポケットに万年筆を差した。

「作家に武器を返すほど、私は愚かではありません」

「これは武器じゃない」

「知っています。武器より危険です」

 回廊は水害の跡を残していた。

 浮彫の使者たちは腰まで泥に埋まり、黒い砂の涙を流している。三枚の石扉は閉じたままだった。

 中央の円孔に、マフターブが円筒印章を差し込む。

 一回、回した。

 古代ペルシア語の扉が沈む。

 二回。

 エラム語の扉が沈む。

 三回。

 バビロニア語の扉が沈む。

 その奥に、第四の扉が現れた。

 扉ではなかった。

 磨き上げられた銀白色の鏡面。

 葉室たちの姿を映している。

 だが数が合わない。

 マフターブ。

 葉室。

 ドレミラ。

 四人の作業員。

 七人のはずだった。

 鏡の中には、八人いた。

 最後列に、王冠を戴いた長身の男が立っている。

 顔はない。

 顔のあるべき場所に、星空が開いていた。

「四枚目は最初からあった」

 ドレミラが息を呑んだ。

「碑文ではなく、読む者自身……」

「そうです」

 マフターブは鏡へ手を触れた。

「三つの矛盾を見た者が、最後に自分を見る。自分の中で意味を統合してしまう。古代の書記たちは、それを恐れて鏡を曇らせ、入口を隠した」

「なら、なぜ開ける」

「私にはもう閉じられないからです」

 鏡の中の王が、腕を上げた。

 現実のマフターブの腕も上がる。

 石壁が左右へ開いた。

 冷たい風が噴き出した。

 その先に、巨大な円形地下室があった。

 天井は黒いガラスで覆われ、無数の白点が埋め込まれている。星図に見えるが、知っている星座はひとつもない。

 周囲には牛頭柱が環状に並び、その間を金箔の帯が巡る。

 中央に、透明な塩の塊が浮いていた。

 塩の中には、拳ほどの黒い種子が封じられている。

 種子は脈打っていた。

 一度脈打つたび、天井の星が位置を変える。

 二度脈打つたび、牛頭柱の目が開く。

 三度脈打つたび、葉室の頭の中に知らない記憶が流れ込む。

 燃える都市。

 逆さに降る雨。

 皮膚の内側で羽化する黒い昆虫。

 四つの太陽の下、顔のない王に跪く無数の人々。

 作業員の一人が仮面を外した。

 顔には目も鼻もなかった。

 皮膚の中央に、縦長の口だけが開いている。

「名を」

 その口が言った。

「名を」

 他の三人も仮面を外す。

 同じ顔。

 同じ口。

「名を」

 声が地下室を満たした。

 マフターブは革袋から原稿を取り出し、葉室の胸へ置いた。

「書いて」

「何を」

「三つをひとつにする結末を」

「そうしたら、弟が戻る?」

「すべてが戻ります」

「死者も?」

「失われた都市も。焼かれた書物も。消えた王朝も」

「それは復元じゃない。複製だ」

「複製でも、抱きしめられるなら同じです」

 塩の塊の中で、黒い種子が裂けた。

 細い糸が一本、外へ伸びる。

 空気中に文字を書きながら、マフターブの胸へ繋がった。

 彼女の顔が若返った。

 皺が消え、髪が黒くなる。

 隣に、少年の幻が立った。

 七歳のファリドだろう。銀箱の乳歯と同じ、前歯の欠けた笑顔。

「姉さん」

 少年が言った。

 マフターブの唇が震える。

「ファリド」

「やっと見つけた」

 少年が両腕を広げた。

「見るな!」

 ドレミラが叫んだ。

 作業員が彼女を殴り倒す。

 葉室は万年筆を抜いた。

 原稿の最終頁を開く。

 白紙。

 マフターブが見守っている。

 顔のない作業員たちが見守っている。

 塩の中の種子が見守っている。

 読者が揃った。

 葉室は書き始めた。

 ――王は天から落ちた火を討った。

 古代ペルシア語の碑文と同じ文章。

 地下室の左側で金箔が輝いた。

 ――王は天の火に選ばれ、永遠の身体を授かった。

 エラム語の碑文と同じ。

 右側の牛頭柱が低く唸った。

 ――王は生まれず、火も落ちず、この部屋も存在しない。

 バビロニア語の碑文と同じ。

 天井の星が一斉に消えた。

「続けて」

 マフターブが囁く。

 少年ファリドが近づいてくる。

 足音はない。

 葉室は最後の一行を書いた。

 ――ゆえに王は、これを読む者の名を得て、ただ一度だけ生まれる。

 黒い種子が大きく脈打った。

「読んで」

 マフターブが言う。

「声に出して」

 葉室は原稿を持ち上げた。

「ドレミラ」

「何」

「二頁前の註釈、覚えてるか」

 ドレミラの目が動いた。

 原稿の余白に、彼は小さな記号を書き込んでいた。

 監禁中、壁越しの打音で伝えた合図。

 同じ文を、主語だけ変えて読む。

 一方は王。

 一方は書記。

「やめなさい」

 マフターブの影が膨らんだ。

 葉室は読み始めた。

「王は天から落ちた火を討った」

 同時に、ドレミラも声を上げる。

「書記は天から落ちた火を討った」

 地下室が震えた。

「王は天の火に選ばれた」

「書記は天の火を選んだ」

 鏡面に亀裂が走る。

「王は生まれなかった」

「書記は王を生まなかった」

「黙れ!」

 マフターブが叫んだ。

 彼女の影が黒い翼となり、ドレミラへ襲いかかる。

 葉室は万年筆の軸を折った。

 中から、濃い青のインクが流れた。

 彼はそれを原稿へ叩きつけ、最後の一行を滲ませた。

「王は、これを読む者の名を得る!」

「書記は、これを読む者から名を奪う!」

 二つの結末が重なった。

 黒い種子が、二つに割れた。

 いや、二つではない。

 見る者の数だけ、割れた。

 鏡の亀裂ひとつひとつに異なる王が映る。

 老人の王。女の王。子供の王。骨の王。無数の口を持つ王。

 可能性が互いを食い始めた。

 作業員たちが頭を抱えた。

 顔の縦口から黒い糸が噴き出し、隣の者へ絡みつく。

 牛頭柱が崩れ、天井の黒ガラスが雨のように降った。

「ファリド!」

 マフターブは少年の幻へ駆けた。

 少年の顔が開いた。

 内側に星空があった。

 ドレミラが叔母の腕を掴む。

「こっちへ!」

「離しなさい!」

「あれはお父さんじゃない!」

「分かっている!」

 マフターブの声が、突然ひとつに戻った。

 彼女はドレミラを強く突き飛ばした。

「だから、あなたは行きなさい」

 黒い糸が彼女の背中を貫いた。

 マフターブはよろめきながら、塩の塊へ両腕を回した。

 抱きしめるように。

 押さえ込むように。

「葉室弦!」

 彼女が叫ぶ。

「あなたの結末は、いつも逃げる!」

「生き残るのが俺の作風だ」

「では、今回もそうしなさい!」

 葉室は担架の革帯を切った。

 ドレミラが肩を貸す。

 二人は崩れる地下室を出口へ向かった。

 背後で、マフターブが歌い始めた。

 子供を寝かしつける古い歌だった。

 少年の幻も歌っていた。

 二つの声は少しずつずれ、やがて地鳴りに呑まれた。

 回廊へ出たとき、三枚の石扉は閉じ始めていた。

 葉室は片脚で跳び、ドレミラに支えられながら隙間へ滑り込む。

 白仮面の最後の一人が追ってきた。

 顔の口から伸びた黒い糸が、ドレミラの足首に絡む。

 彼女が倒れた。

 葉室は円筒印章を円孔から引き抜いた。

「それがないと出られない!」

「鍵は、内側からも使える」

 彼は印章を扉の歯車へ突っ込んだ。

 黒緑色の石が砕ける。

 歯車が噛み、石扉が途中で止まった。

 追手の腕だけが隙間から伸びる。

 葉室は浮彫の供物壺を蹴り倒した。

 中から石油臭い液体が流れ出した。

 二千年以上密封されていた灯火油。

 彼は油灯を落とした。

 炎が青く走った。

 黒い糸は音もなく燃え、追手の腕が灰になった。

「こっち!」

 ドレミラが壁の水門を指す。

 獅子頭の青銅取っ手。

 二人で引くと、古い機構が唸った。

 カナートの奥から水が来た。

 地下湖に蓄えられていた塩水が、濁流となって回廊を満たす。

 炎と水がぶつかり、白い蒸気が爆発した。

 浮彫の使者たちが、次々に壁から剥がれ落ちる。

 全員、やっと後ろ向きに逃げ始めたように見えた。

 葉室とドレミラは流れに乗り、横坑へ押し出された。

 岩に打たれ、泥を飲み、何度も沈んだ。

 前方に、井戸の縦穴から差す夜明けの光が見えた。

 葉室は壁の足場へ指をかけた。

 右脚はもう感覚がない。

 ドレミラが先に登り、上から手を伸ばす。

「掴んで!」

「俺は重いぞ」

「知っています!」

「本はもっと軽い」

「次の本の題名は?」

 葉室は彼女の手を掴んだ。

「もう書かない」

「それは四つ目の嘘ですね」

 二人が地上へ這い出した直後、井戸の底が崩れた。

 暗い穴から、熱い風が一度だけ吹き上がる。

 その風の中に、マフターブの声があった。

 ――結末を忘れないで。

 井戸は砂に埋まり、声も消えた。

 三か月後、葉室はイスタンブールの安宿にいた。

 右脚には金属の固定具が入り、杖が手放せない。

 ドレミラはテヘランへ戻った。叔母の発掘記録を整理し、地元当局へ匿名で提出したという。地下遺構の位置だけは除いて。

 円筒印章は失われた。

 写真は水没した。

 原稿は燃えた。

 証拠は何もない。

 出版社からは毎週、続編の催促が届いた。

『無名王の帰還』

『火冠再び』

『第四の王墓』

 題名案だけで十冊分ある。

 葉室はすべて断った。

 物語は、読まれた数だけ現実になる。

 そう信じたわけではない。

 ただ、信じないと断言するほど愚かでもなくなった。

 雨の夜、宿の受付から小包が届いた。

 差出人はない。

 中には革装丁の本が一冊入っていた。

『無名王の火冠』

 葉室の旧著だった。

 余白には、マフターブの細かな書き込み。

 最後の頁だけが新しい紙に差し替えられている。

 そこには、葉室の筆跡で一行だけ書かれていた。

 ――王の墓を掘る者は、四つ目の嘘を読者に残せ。

 葉室は本を暖炉へ投げ込んだ。

 革が縮み、頁が黒く巻き上がる。

 やがて一冊は灰になった。

 窓ガラスに、部屋の中が映っている。

 椅子。

 机。

 杖。

 立ち尽くす葉室。

 その背後に、王冠を戴いた影はない。

 葉室は長く息を吐いた。

 そして振り返らずに、窓の木戸を閉めた。

 閉じる直前、

 ガラスの中の四人目だけが、こちらを見ていた。