『終幕は、星の外で』

一 盗めない顔

 宇宙で盗めないものは三つしかない。

 死者の昨日。恒星の影。それから、本気で役を生きている俳優の顔だ。

 もっとも、最初の二つについては、まだ試したことがない。

 俺の名はカイ・ローヴァン。星系警察の手配書では「遺物専門の窃盗犯」、酒場の女たちは「口だけは皇帝」、昔の仲間はもう少し短く「疫病神」と呼ぶ。

 どれも半分だけ正しい。

 その夜、俺の船〈笑い鴉〉は、死んだ惑星ネブラの裏側を滑っていた。

 ネブラは、かつて海を持っていたらしい。今は灰色の雲に覆われ、地表には都市の骨だけが残っている。その周回軌道を、巨大な劇場船〈エウリュディケ〉が回っていた。

 黒い船体に、金色の文字が浮かんでいる。

 ――最終公演『最後の地球に雨は降る』。

 ――今夜零時、開幕。

 ――一夜限り。再演なし。

 招待客は九百九十九人。王族、富豪、軍人、機械知性、姿を公表できない異星の使節。席料は小惑星ひとつ分だという。

 俺は招待されていなかった。

 だから来た。

 依頼人から届いた通信は、声も顔もなかった。黒い画面に白い文字が三行だけ。

 〈無貌鏡を盗め〉

 〈女優に最後の台詞を言わせるな〉

 〈報酬は、おまえの本当の名前だ〉

 俺には八年前より前の記憶がない。

 目覚めたとき、俺は火星圏の漂流棺桶に入っていた。ポケットにはカイ・ローヴァン名義の偽造証明書と、薄い金属札が十二枚。それだけだった。

 金属札は〈欺瞞札〉と呼ばれる旧文明の道具で、投げれば偽の熱源を作り、扉に貼れば別人の認証を吐き、銃口に差し込めば一秒だけ「そこに銃は存在しない」と機械に信じ込ませる。

 便利な札だ。

 ただし、過去を教えてはくれない。

 依頼人はそれを知っていた。

「罠だな」

 俺が言うと、船の操縦席が無愛想に明滅した。

〈罠でない仕事を受けたことが?〉

「ない。だから信用できる」

 俺は密輸業者の笑顔を作り、劇場船の廃棄物投入口へ〈笑い鴉〉を潜り込ませた。

二 代役

 劇場船の裏側は、表よりずっと正直だった。

 表玄関には赤い絨毯と香水と拍手がある。裏口には配管、埃、汗、怒鳴り声、切れた照明、泣いている役者、泣かせた演出家がいる。

 俺は後者のほうが好きだ。金庫はたいてい、正直な場所の近くにある。

 作業員の制服を盗み、搬送路から舞台裏へ入った。開演まで四十二分。

 無貌鏡は主役だけが使う舞台装置で、公演直前まで衣裳部の保管庫に置かれる。警備図面によれば、保管庫は地下二層――のはずだった。

 ところが、最初の角を曲がったところで、俺は女王に出会った。

 細い女だった。

 年は二十代半ば。長い黒髪を無造作に束ね、灰色の稽古着を着ている。化粧はしていない。舞台裏の床に白い円を描き、その中心で一人、王座に座る仕草をしていた。

 椅子などない。

 王冠もない。

 だが、彼女が顎をわずかに上げただけで、埃っぽい通路が謁見の間になった。

「近う」

 俺は足を止めた。

 命令されたからではない。

 彼女の声が、そういう距離を作ったからだ。

「盗賊よ。そなたは何を盗みに来た」

「休憩室の珈琲だ。ここのは銀河一まずいと聞いてね」

「嘘」

 女王の目が、ただの若い女の目に戻った。

「作業員なら、右足から角を曲がる。あなたは左足から入った。舞台に立つ人の歩き方よ」

「俺が役者に見える?」

「役者より悪い。自分の嘘を楽しんでる人」

 女は立ち上がった。

 その瞬間、王座も謁見の間も消えた。

「エリス・ナハト。白い女王の代役」

「代役が、どうしてこんな場所で一人芝居を?」

「主役は舞台を独り占めできる。代役は、空いている場所を全部舞台にするしかないの」

 彼女は俺の胸元を見た。制服の名札には、さっき眠らせた作業員の名がある。

「その人、身長があなたより十二センチ低いわ」

「靴がいいんだ」

「それに、保管庫は反対側」

 俺の笑顔が、ほんの少し固まった。

「何の保管庫かな」

「あなたが盗みに来たものの」

 女優という生き物は恐ろしい。観客が見落とすほど小さな動きを、彼らは拾う。

 俺は彼女を気絶させるべきだった。

 代わりに、帽子を取って一礼した。

「カイ・ローヴァン。珈琲専門の泥棒だ」

「知ってる。手配書より感じが悪いのね」

「写真写りがいいんだ」

 エリスは笑わなかった。

「取引しましょう。無貌鏡まで案内する。その代わり、今夜、私を舞台に立たせて」

「代役なら、主役が転べば出番だろう」

「主役は転ばない。ラウラ・セインは、転ぶくらいなら床のほうを倒す人よ」

 その名は俺でも知っていた。

 ラウラ・セイン。四十年間、銀河中の劇場で主役を演じ続けた伝説。ひとつの視線で観客の心拍を揃え、泣く場面では医療班が客席に待機するという。

「で、その床を俺に倒せと?」

「違う。男主役が消えたの」

「消えた?」

「楽屋には靴だけ残ってた。演出知性は、公演を中止するくらいなら通りすがりの犯罪者を舞台に上げるはずよ」

「ずいぶん雑な演出知性だ」

 天井から冷たい声が降ってきた。

〈その評価は、終演後のアンケートへ〉

 赤い光が俺をなぞった。

〈骨格、声紋、反射速度、虚言傾向を照合。男性主役『星盗人アルゴ』への適合率、九十六・八パーセント〉

「待て」

〈代役を登録〉

「待てと言った」

〈開演まで三十七分。台詞は神経投射で補助します〉

 壁が開き、衣裳係の機械腕が六本飛び出した。

 俺は上着を奪われ、寸法を測られ、顔に薄い化粧を吹きつけられた。

 エリスが初めて笑った。

「似合うわ、盗賊王」

「俺の契約料は高いぞ」

「安心して。今夜の観客は、あなたが死ねばもっと払う」

三 鏡の中の稽古

 無貌鏡は、鏡ではなかった。

 透明な仮面だった。

 薄い硝子のように見えるが、縁も留め具もない。触れても冷たくない。保管台の上で、そこだけ空気が人の顔の形に抜け落ちているようだった。

 俺は見るなり、盗む価値があるとわかった。

 価値のあるものは、たいてい周囲の人間を不幸にする顔をしている。

「それを着けて、白い女王を演じる」

 エリスが言った。

「何をする道具だ」

「観客の記憶を読み、役に必要な感情を舞台へ投射する。悲しみを演じれば、客席の全員が失った人を思い出す。恐怖を演じれば、全員が自分だけの怪物を見る」

「趣味が悪い」

「劇場は昔からそういう場所よ。違うのは、昔は俳優が腕でやっていたことを、機械が手伝うようになっただけ」

「着けた人間は?」

「役に近づく」

「どのくらい」

「戻れなくなるくらい」

 背後から拍手が二度だけ鳴った。

 ラウラ・セインが立っていた。

 舞台衣裳のままではない。黒い長衣を肩にかけ、銀色の髪をきっちり結い上げている。化粧をしていないのに、その場の照明が彼女に合わせて明るくなった気がした。

「説明が甘いわ、エリス」

 彼女は俺を一瞥した。値札を見る目だった。

「無貌鏡は役へ近づけるのではない。役に、あなたの顔を貸すの。返してくれる保証はない」

「それでも着けます」

「あなたには無理よ」

 エリスの肩がわずかに硬くなった。

「十二年、あなたの代役をしてきました」

「だからよ。あなたは私の怒りを真似できる。私の呼吸も、指先も、老いさえ真似できる。でも、白い女王は私ではない」

「あなたでもない」

 空気が切れた。

 俺は銃撃戦には慣れているが、名優同士の沈黙に挟まれるのは初めてだった。弾丸なら避けられる。視線は無理だ。

 ラウラはゆっくりとエリスへ近づいた。

「そう。私でもない。だから怖いの」

 声が、急に老いた。

「あなたは、空っぽになる才能がありすぎる」

「俳優にとって褒め言葉です」

「人間にとっては違うわ」

 エリスは保管台へ手を伸ばした。

「一度だけ、試させてください」

 ラウラは止めなかった。

 止められないことを知っている顔だった。

 透明な仮面が、エリスの皮膚へ吸い込まれた。

 何も変わらなかった。

 彼女は彼女のままだった。

 次の瞬間、俺の呼吸が止まった。

 エリスが俺を見た。

 その目は黒ではなく、記憶の底にある淡い茶色だった。

 知らないはずの、懐かしい目。

「ホメク」

 彼女の声ではなかった。

 世界が遠ざかった。

 赤い雨。焦げた芝生。小さな手を握っている誰か。顔は見えない。けれど、その声だけは知っている。

「幕が下りても、客席を見てはいけないよ」

 胸の奥で、鍵がひとつ壊れた。

 俺は反射的に欺瞞札を抜き、エリスの喉元へ突きつけていた。

「誰だ、その声は」

 仮面が剥がれ、保管台へ戻った。

 エリスは膝をつき、激しく息をした。

「わからない……あなたの中から、聞こえた」

「俺の何を見た」

「舞台。雨。たくさんの顔。みんな、あなたと同じ顔をしてた」

 ラウラが俺を見た。

 値札を見る目ではなかった。

 墓碑銘を読む目だった。

 俺の耳の奥で、依頼人の通信が開いた。

〈警告。対象との接触を中止せよ〉

 文字ではない。

 今度は声だった。

 俺の声だった。

〈開演後、第三幕の終了前に無貌鏡を奪取しろ。女優に最後の台詞を言わせるな〉

「理由を言え」

〈おまえが消える〉

 通信は切れた。

 俺は鏡を見た。

 鏡は透明だった。

 それなのに、その向こうで誰かが笑った気がした。

 俺と同じ笑い方で。

四 最後の地球に雨は降る

 開幕の鐘が鳴った。

 客席の九百九十九人は、全員が銀色の仮面を着けていた。

 身分を隠すためだと聞いていた。だが舞台袖から眺めると、仮面というより、顔が最初から存在しないように見えた。

「見るな」

 ラウラが俺の横で言った。

「客の顔を?」

「客は、役者が自分を見ていると思うと残酷になる」

「役者は?」

「見られていると思うと、残酷になれる」

 彼女は白い女王の衣裳をまとっていた。

 白銀の長衣。ひび割れた王冠。頬には、乾いた涙の跡を描く細い線。

「主役はあなただろう。エリスを立たせる気はない?」

「今夜の舞台に立つ者を決めるのは、私ではない」

「演出知性か」

「舞台よ」

 第一幕が始まった。

 舞台は、死ぬ前の地球を再現した。

 青い空。雲。風に揺れる草。遠い海の匂い。

 俺は地球を見たことがない。それでも胸が痛んだ。懐かしいという感情は、記憶より先に生まれることがあるらしい。

 物語は単純だった。

 滅びかけた地球の最後の国に、星盗人アルゴが現れる。彼は、雨を呼ぶと伝えられる女王の王冠を盗みに来る。女王は、王冠などただの飾りで、雨を呼ぶのは人々の願いだと言う。盗人は信じない。女王も信じていない。だが二人は、信じているふりをする。

 人は、信じているふりを長く続けると、本当に信じ始める。

 それが悲劇の仕掛けだった。

 神経投射が台詞を頭へ流し込んできた。

 だが、最初の場面で俺はそれを切った。

 星盗人アルゴが、女王の前へ連行される。

 ラウラが王座から見下ろした。

「盗賊よ。そなたは何を盗みに来た」

 稽古でエリスが口にしたのと同じ台詞。

 俺は決められた返事を捨てた。

「あなたが、誰にも見せたことのない顔を」

 客席が静まった。

 ラウラの瞳に、ほんの一瞬だけ火が入った。

 彼女は笑った。

「ならば、命が九百九十九あっても足りぬ」

 そこから舞台は生き物になった。

 俺が台詞を変えれば、ラウラはもっと遠くへ投げ返した。俺が剣を抜く前に、彼女は俺が抜く理由を奪った。俺が笑えば、彼女はその笑いの裏にある怯えを客席へ見せた。

 悔しいが、楽しかった。

 金庫を破るときと同じだった。こちらがひとつ仕掛ければ、向こうは二つ鍵を増やす。

 第二幕の途中で、雨が降った。

 舞台装置の雨だった。

 だが水滴が頬に触れた瞬間、記憶がまた開いた。

 赤い空。

 崩れる観覧席。

 誰かが俺の手を引いている。

 ――走って、ホメク。

 ――客席を見ないで。

 俺は台詞を忘れた。

 そのとき、舞台上の兵士役が本物の銃を抜いた。

 銃口がラウラを向く。

 俺は欺瞞札を投げた。

 札は空中で青白く燃え、銃の照準知性へ「標的は三歩右にいる」という嘘を送り込んだ。

 弾丸が王座を砕いた。

 客席が沸いた。

 兵士役が二人、三人、同時に衣裳を脱ぎ捨てた。鉛色の装甲服。胸に猟犬の紋章。

 依頼人が寄越した回収屋だ。

〈対象を確保。抵抗者は排除〉

 劇場船の警備機械は動かなかった。

 演出知性の声が、天井から響く。

〈第二幕、戦乱の場面へ移行。照明、赤。音響、砲撃〉

「公演を止めろ!」

〈公演中止は、劇場船の存在目的に反します〉

「役者が死ぬぞ」

〈歴史上、珍しいことではありません〉

「最低の演出家だな」

〈アンケートへ〉

 猟犬たちが一斉に撃った。

 俺は王座を蹴り倒し、ラウラを床へ引きずった。舞台の重力が切り替わり、雨粒が宙に浮く。俺は浮遊する水滴の中へ欺瞞札を三枚放った。

 一枚は俺を十人に増やした。

 一枚は床を天井だと信じ込ませた。

 一枚は、すべての銃へ「今は休憩時間だ」と告げた。

 銃が沈黙した。

「休憩は大事だ」

 俺は最前列の猟犬を殴り倒した。

 別の男が短剣を抜き、ラウラへ突進する。

 だが、その間へ灰色の影が入った。

 エリスだった。

 白い女王の予備衣裳を着ている。

 無貌鏡を顔に重ねていた。

 短剣が彼女へ届く寸前、エリスは男を見た。

「息子よ」

 たった一言だった。

 男の動きが止まった。

 仮面が彼の記憶から、死んだ母親の声を引き出したのだ。

「もう帰っておいで」

 短剣が落ちた。

 男は子供のように泣き始めた。

 客席は静まり返っていた。

 ラウラが立ち上がった。

 彼女はエリスを見た。

 その顔に嫉妬はなかった。

 敗北もなかった。

 長いあいだ閉じていた扉を、ようやく開ける人の顔だった。

「白い女王は、あなたよ」

 ラウラは自分の王冠を外し、エリスの頭へ載せた。

 次の瞬間、猟犬の銃が再起動した。

 発砲。

 ラウラの身体が揺れた。

 胸元に赤い花が開いた。

 俺が支えるより先に、彼女は自分の足で舞台中央へ歩いた。

 血が白い衣裳の裾へ落ちる。

 エリスが仮面の下で叫んだ。

「ラウラ!」

「役を奪うのは、三流」

 ラウラは客席へ微笑んだ。

「役を渡せるのが、一流よ」

 そして倒れた。

 一秒の沈黙。

 九百九十九人の観客が、立ち上がった。

 拍手が始まった。

 本物の死を前にして。

 美しい場面を見たという理由だけで。

 俺は初めて、客席が恐ろしいと思った。

五 客席の顔

 第三幕。

 舞台には、エリスと俺だけが残った。

 猟犬たちは倒れたか、泣いているか、舞台装置に飲み込まれていた。ラウラの身体は暗転のあいだに運ばれた。

 雨は激しくなった。

 偽物の海が舞台の端まで迫り、遠くで都市が崩れている。

 物語の最後、星盗人アルゴは女王の王冠を奪う。

 王冠を失った女王は雨を呼べず、国は滅びる。

 盗人はたった一人で星へ逃げる。

 それが台本だった。

 俺の耳に、依頼人の声が戻った。

〈今だ。無貌鏡を奪え〉

 エリスが俺を見た。

 仮面の向こうに、何百もの表情が流れている。少女。老女。兵士。母親。ラウラ。そして、俺。

「ホメク」

「その声で呼ぶな」

「どの声なら、あなたは自分を信じられるの」

 俺は剣を向けた。

 舞台上では小道具だ。だが今夜は、何が本物で何が芝居なのか、もう誰にもわからない。

「仮面を渡せ」

「渡したら?」

「俺は自分の過去を取り戻す」

「私たちは?」

「知らない」

「台本どおりね」

 エリスは笑った。

 白い女王の笑いではない。

 代役として通路で一人芝居をしていた、あの女の笑いだった。

「盗人は、いつも一人で星へ逃げる」

「一人なら、分け前でもめない」

「寂しくない?」

「寂しさは荷物にならない」

「嘘」

 彼女が一歩近づいた。

「あなたは最初に会ったときから、ずっと客を探してる。冗談を言うたび、誰かが笑うのを待ってる」

 剣先が彼女の胸へ触れた。

 依頼人が叫ぶ。

〈奪え。最後の台詞を阻止しろ〉

「最後の台詞は何だ」

〈聞くな〉

「なぜだ」

〈おまえが、おまえでなくなる〉

「それは困るな」

 俺は笑った。

 そして無貌鏡へ手を伸ばした。

 透明な表面に触れた瞬間、劇場が消えた。

 俺は暗闇に浮いていた。

 星もない。

 身体もない。

 無数の記録が、光る塵のように周囲を流れている。

 地球。

 戦争。

 病。

 海の蒸発。

 最後の都市。

 地下劇場。

 ひとりの少女。

 少女は空襲の中、母親に手を引かれていた。

 母親は役者だった。

 崩れかけた劇場で、最後まで物語を演じていた。

 ――幕が下りても、客席を見てはいけないよ。

 少女の名は、エリス・ナハト。

 いや、違う。

 少女には、ひとつの名しかなかったわけではない。

 記録が開く。

 人類が滅びる直前、最後の文化保存装置が打ち上げられた。歴史、言語、芸術、遺伝情報、そして数十億人分の断片的な人格記録。

 装置は七万年、宇宙を漂った。

 やがて、名もない異星文明に拾われた。

 彼らは人類を復元しようとした。

 だが記録は壊れていた。

 数十億の記憶が混ざり、ひとつの心になろうとして争っていた。

 そこで装置は、劇場を作った。

 物語の中なら、矛盾する人格を役として分けられる。

 勇気は英雄に。

 欲望は王に。

 恐怖は兵士に。

 執念は名優に。

 想像力は、代役の少女に。

 そして、生き残るための冷酷さは――星盗人になった。

 俺だ。

〈人格候補K-999〉

 依頼人の声が響いた。

 いや、演出知性の声だった。

 いや、俺自身の声だった。

〈選抜劇を終了せよ。無貌鏡は肉体への接続権である。奪取すれば、おまえが復元個体となる〉

 暗闇に、九百九十九の顔が浮かんだ。

 すべて俺の顔だった。

 傷の位置が違う。年齢が違う。笑い方が違う。

 だが、どれも俺だった。

〈過去九百九十八回の選抜において、K人格は他候補を排除し、接続権を獲得した〉

「じゃあ、あいつらは?」

〈失敗した復元〉

「観客か」

〈観客ではない。証拠だ〉

 俺は理解した。

 客席を見るな。

 そこには、自分が何度も同じ選択をした証拠がいる。

 物語が変わっても、衣裳が変わっても、俺は最後に王冠を奪い、一人で星へ逃げる。

〈今回も同様にせよ〉

「エリスが最後の台詞を言ったら?」

〈人格統合が発生する。単一自我を維持できない。人類個体の復元は失敗する〉

「つまり?」

〈おまえは消える〉

 暗闇の向こうで、エリスが俺を見ていた。

 彼女の顔には無数の人間が重なっている。

 ラウラもいる。母親もいる。名も残らなかった者たちもいる。

「ホメク」

「俺は本物じゃないらしい」

「本物よ」

「八年前に作られた役だ」

「役は嘘じゃない。誰かが生きられなかった人生を、代わりに生きることよ」

「きれいな台詞だ」

「今、考えたの」

 俺は笑った。

 今度は、誰かが笑い返した。

 エリスだった。

〈時間切れ。接続権を確定せよ〉

 無貌鏡が俺の手の中で輝いた。

 九百九十八人の俺たちが、客席から立ち上がる。

 みな、同じ目をしていた。

 生きたい。

 それだけだった。

 責めることはできない。

 俺も同じだったからだ。

 俺は無貌鏡を自分の顔へ近づけた。

 依頼人が満足げに沈黙した。

 そして、そのまま仮面をエリスへ投げた。

「受け取れ、主役」

 エリスが両手で受け止める。

〈警告。K人格が接続権を放棄〉

「分け前でもめるのは嫌いだ」

〈おまえは消滅する〉

「役者は終幕で消える。珍しいことじゃないんだろ」

 演出知性は答えなかった。

 舞台が戻った。

 雨。崩れる地球。立ち尽くす女王。

 客席の九百九十九人が、全員、俺の顔でこちらを見ていた。

 エリスは仮面を着けた。

 光が彼女の皮膚へ溶ける。

「最後の台詞を」

 俺が言った。

「あなたが消える」

「名優なら、客を泣かせろ」

「私、まだ代役よ」

「じゃあ今、主役になれ」

 エリスは息を吸った。

 人類最後の舞台で。

 滅びた星の雨の中で。

 数えきれない顔をひとつの身体に宿して。

 彼女は、台本にない最後の台詞を言った。

「私は、一人で生き残らない」

 世界が白く弾けた。

六 星の外

 エリスは、硝子の槽の中で目を覚ました。

 肺へ空気が入る。

 心臓が一度、強く打つ。

 指が動く。

 皮膚が冷気を感じる。

 たった一つの肉体だった。

 だが頭の中には、たくさんの呼吸があった。

 ラウラの厳しい沈黙。

 母親の温かい手。

 名もない兵士の恐怖。

 観客たちの飢え。

 そして、誰より騒がしい男の笑い声。

 ――化粧が薄いぞ、主役。

 エリスは笑った。

 槽の外には、三体の生物がいた。

 細長い四肢。半透明の皮膚。頭部には目がなく、胸に輪のような感覚器官がある。

 彼らの背後には、巨大な展示室が広がっていた。

 透明な箱が何千も並んでいる。

 箱の中には、滅びた文明の最後の記録が保存されていた。

 エリスの槽の前に、文字が浮かぶ。

 〈展示番号四二〇一〉

 〈種名:ヒト〉

 〈状態:絶滅〉

 〈復元試験:失敗〉

 〈理由:単一人格の形成不能〉

 三体のうち、一番背の高い者が音を発した。

 意味が、なぜか理解できた。

「再び統合を選んだ」

「欠陥だ」

「個体でありながら、群れを捨てられない」

「廃棄するか」

 エリスは槽の内側から、彼らを見た。

 俳優は、相手を見る。

 呼吸を見る。重心を見る。言葉になる前の迷いを見る。

 三体は、自分たちが観察者だと思っていた。

 だから無防備だった。

 エリスは一番背の高い者の姿勢を真似た。

 胸の感覚器官をわずかに反らし、指を二本曲げる。

 それだけで、残りの二体が硬直した。

「その仕草を、どこで知った」

 背の高い者が後ずさる。

 エリスは、彼の声で答えた。

「幼生を慰めるときの仕草でしょう」

 三体の胸が一斉に明滅した。

 無貌鏡は、観客の記憶を読む。

 そして今、観客は彼らだった。

 槽の留め具が外れた。

 誰が操作したのか、三体にはわからなかった。

 エリスにはわかった。

 ――欺瞞札は、こういう扉が好きなんだ。

 掌を見ると、薄い金属札が一枚あった。

 存在するはずのないもの。

 舞台の小道具。

 役の記憶。

 だが、宇宙は一度信じた嘘を、簡単には手放さない。

 エリスは槽から降りた。

「止まれ」

 三体が同時に命じる。

 彼女はラウラの目で彼らを見た。

 たったそれだけで、命令は頼みごとに変わった。

「あなたは何者だ」

 エリスは考えた。

 代役。

 女王。

 少女。

 母親。

 兵士。

 名優。

 盗人。

 九百九十九の失敗。

 数十億の、終わらなかった人生。

「人類」

 彼女は答えた。

 展示室の照明が落ちた。

 どこからともなく、開幕の鐘が鳴る。

 三体の異星人が、暗闇の中で身を寄せ合った。

「これは何だ」

 一体が震える声で訊いた。

 エリスは微笑んだ。

 その笑い方だけは、星盗人のものだった。

「あなたたちの出番よ」

 展示室の壁が、ゆっくりと左右へ開いた。

 その向こうには、存在しないはずの客席があった。

 銀色の仮面を着けた観客が、果てしなく座っている。

 三体は、ようやく気づいた。

 自分たちが博物館を見ていたのではない。

 ずっと、見られていたのだと。

 エリスは客席へ向かって一礼した。

 宇宙のさらに外側から、拍手が届いた。

 ひとつ。

 またひとつ。

 そして無数に。

 幕は、まだ下りなかった。