終業のベルが鳴る前に
我輩は猫である。
名前は、あるにはある。チビ、泥棒、先生、疫病神。呼ぶ人間によって違うので、どれも本名とは認めていない。
人間は名札を好む。
生徒、教師、親、子、善人、悪人、生存者、感染者。首から札を下げれば、中身まで整理できた気になるらしい。だが、腹の減った者は皆よく似た目をするし、死にたくない者の足音にも大差はない。
もっとも、市立薄明中学校に残っている二人は、少しばかり例外だった。
一人は白川真白、十四歳。毎朝七時四十五分に昇降口を開け、誰もいない廊下へ向かって「おはようございます」と頭を下げる。
一人は波多野朔良、年齢不詳。口数が少なく、銃の手入れだけは丁寧で、真白からは用務員さんと呼ばれている。
そして我輩。
職業は猫である。職務内容は、日なたを選び、鼠を追い、必要に応じて人間の秘密を踏みつけることだ。
世界が壊れたのは、白い雨の降った日だという。
我輩は雨を嫌うので、当日はパン屋のひさしの下で丸くなっていた。あとから聞いた話では、雨粒に混じった粉を吸った人間は高熱を出し、三日ほど眠り、そのあと目を開けた。
ただし、起きたのは本人の全部ではなかった。
彼らは最後にしていたことを繰り返した。
駅員は来ない電車に笛を吹き、店員は空の棚へ「いらっしゃいませ」と言い、会社員は血のついた鞄を抱えて改札を噛んだ。
薄明中学校の周りを歩く連中は、授業開始の時刻になると校門へ集まり、窓を叩きながら、かすれた声で出席番号を唱えた。
生き残った人間は彼らを「居残り」と呼んだ。
言い得て妙である。人間は死んでも予定表から逃げられないらしい。
薄明中学校は、丘の上に建っていた。校門は鉄板で塞がれ、窓には机とロッカーが積まれ、屋上の太陽光パネルが放送室と地下の浄水器を細々と動かしていた。
真白はここを学校だと信じていた。
少なくとも、そう見えるように振る舞っていた。
「一時間目は国語です。教科書、三十二ページ」
朝の教室で、真白は黒板に大きく書いた。
――人はなぜ物語を必要とするのか。
机は二十四。座っているのは真白一人。窓際の一番うしろには我輩。波多野は廊下で針金罠を点検していた。
「高森くん、教科書忘れたの? また?」
真白は空席に向かって眉をひそめた。
「夕戸さん、見せてあげて。半分こね」
我輩は欠伸をした。
人間の子どもは、目に見えない同級生にまで規律を求める。たいした執念である。
廊下から戻った波多野が、教卓に缶詰を置いた。
「昼まで持たない。食え」
「授業中です」
「先生はいない」
「います」
真白は天井の隅を見た。そこには埃をかぶった監視カメラがあるだけだった。
「怒られますよ」
「誰に」
「先生に」
波多野は答えず、缶切りで桃の缶を開けた。甘い匂いが教室に広がる。我輩が机から降りると、彼は別の小皿に汁気を切った鯖を置いた。
「猫を甘やかすと居つきますよ」
「もう居ついてる」
「校則では、動物の持ち込みは禁止です」
「こいつが勝手に持ち込んだのは自分だ」
真白は少し考え、黒板の隅に書き足した。
――特例一名。
我輩は鯖を食べた。特例という肩書は悪くない。
波多野は、以前「片づけ屋」だった。
ごみを片づける仕事ではない。
人間関係のもつれ、借金の証拠、裏切った仲間、見られては困るもの。そういうものを、二度と騒がない形にする仕事だ。
これは本人が語ったのではない。波多野は過去について、猫ほどにも話さない。
真白が夜中に熱を出したとき、彼の鞄から古い身分証と、擦り切れた写真と、弾の入っていない拳銃が落ちた。写真には若い波多野と、顔を黒く塗りつぶされた三人の男が写っていた。身分証の会社名は存在せず、裏に小さく「処理部」とあった。
人間は隠したいものほど、丈夫な鞄に入れる。
猫は丈夫な鞄ほど、上で寝る。
ゆえに秘密はいずれ明るみに出る。これは自然法則である。
波多野が薄明中学校へ来たのは、白い雨から二か月後だった。右脇腹を裂かれ、弾を三発しか持たず、誰かに追われていた。
真白は体育館倉庫で彼を見つけた。
「保健室へ行きましょう」
彼女はそう言ったそうだ。
世界が滅びても、怪我人を見れば保健室を勧める。教育とは恐ろしい。
それから二百十三日、波多野は学校を守った。
真白は、彼を用務員さんと呼んだ。
波多野は訂正しなかった。
彼は真白に、奇妙な授業をした。
「部屋に入ったら出口を二つ探せ」
「非常口の確認ですね」
「音がしたら、音の方を見るな。反射する場所を見ろ」
「理科ですか?」
「怖いときほど息を吐け。吸おうとすると固まる」
「体育の補習ですね」
波多野は毎度、何かを諦めた顔で頷いた。
真白は射撃も習った。
もっとも、銃弾は貴重なので、最初は箒の柄だった。廊下の端から端まで、歩幅を崩さず運ぶ。次に、空き缶へ小石を投げる。最後に、音を立てず扉を閉める。
「当てることより、撃たずに済ませる方が難しい」
波多野が言うと、真白はノートに書いた。
――本日の道徳。
我輩は思う。
この男は人を殺す方法をいくつも知っていたが、人を育てる方法は一つも知らなかった。
だから真白が、勝手に授業へ変えたのだ。
七月十日、放送室の無線機が声を拾った。
『こちら南部臨時輸送隊。生存者は本日十七時四十分までに南貨物駅へ。装甲車両は一便のみ。繰り返す――』
雑音の向こうに、確かに人間の声があった。
波多野は三度録音を聞き直し、地図を広げた。学校から南貨物駅までは五・八キロ。平時なら子どもの足でも一時間半。今は道路に居残りが溢れ、地下道の一部は水没している。
「昼に出る」
波多野は言った。
「どこへですか」
「駅」
「午後は文化祭の準備です」
「中止だ」
「中止のお知らせはありません」
「今した」
「用務員さんに、その権限はありません」
真白は放送卓のマイクを布で磨いていた。声は穏やかだったが、指先は白くなっていた。
「明日は文化祭です。合唱もあります。みんな、練習しました」
「みんなはいない」
部屋の空気が止まった。
波多野は、言ったあとで自分の言葉に撃たれたような顔をした。
真白は笑った。
「いますよ」
窓の外で、校門を叩く音がした。
どん。
どん。
どん。
居残りたちが、朝礼の拍手のように鉄板を打っていた。
「高森くんも、夕戸さんも、宮田先生も」
真白は一人ずつ名を呼んだ。
「明日、ちゃんと来ます」
波多野は何も言わず、放送室を出た。
我輩は机の下へ潜った。人間が本当のことを言うときは、たいてい本当以上に残酷である。
その夜、我輩は真白の秘密を見つけた。
秘密は図書室の百科事典、『菌類と共生』の裏に挟まっていた。革表紙の小さなノートである。
我輩が見つけたのは偶然ではない。百科事典の上に乾燥鰹節の袋が置かれており、それを取ろうとして本を落とした。すなわち、秘密の方が我輩の食事を邪魔したのである。
ページには、日付と名前が並んでいた。
四月十二日 宮田先生 校門前。声に反応。もう先生ではない。
四月十三日 夕戸結衣 音楽室。歌を繰り返していた。窓を閉めた。
四月十五日 高森蓮 西階段。右足を引きずる。呼んでも返事は同じ。
五月二日 お母さん 体育館裏。見なかったことにする。
最後の行は、何度もなぞられて紙が破れていた。
六月二十日 波多野さん まだ生きている。たぶん、私が学校をやめたら、この人もやめる。
我輩はしばらく、その行を見た。
猫は文字を読めないと思っている人間が多い。正確には、読めても読む価値のある文章が少ないのだ。
「見たの?」
背後で真白が言った。
我輩は振り返らず、鰹節の袋を前足で押さえた。
「内緒だよ」
彼女は隣に座った。
「私、変だと思う?」
我輩は答えなかった。猫に相談する人間は、答えを求めていない。
「みんないないことくらい、知ってる」
真白は膝を抱えた。
「でも、いないって言ったら、本当に全部いなくなるでしょう。声も、席も、怒られたことも。波多野さんだって、私を駅まで運んだら、自分の仕事は終わったって思う」
図書室の外で、波多野が廊下を歩く音がした。四歩ごとに少しだけ間が空く。古傷が痛むときの歩き方だ。
「だから学校を続けるの。朝が来たら朝の会をして、昼には給食を食べて、帰りにはまた明日って言う。明日があるってことにしておけば、あの人も今日を終わらせないから」
真白は我輩の背を撫でた。
「明日の文化祭で、最後にするつもりだった」
外で風が鳴った。
「でも、駅の放送が来た。予定が一日ずれたね」
彼女は笑った。
子どもの笑い方ではなかった。
我輩は鰹節の袋から前足をどけた。
人間が守っているものは、たいてい見た目と逆である。
午前十一時、空が暗くなった。
雲が丘の上へ集まり、遠くで雷が鳴った。白い雨ではない。ただの夏の嵐だ。それでも波多野は窓を確認し、真白に防塵マスクをつけさせた。
「十二時に出る。荷物は一つ」
「はい」
真白はもう反対しなかった。
制服の上に雨合羽を着て、教科書の代わりに水と包帯を鞄へ詰めた。最後に、革表紙のノートを入れた。
波多野はその様子を見ていたが、何も訊かなかった。
「猫は?」
「置いていく」
「連れていきます」
「足手まといだ」
「用務員さんより足は速いです」
波多野は我輩を見た。
我輩も見返した。
足の速さについては異論がない。
十一時十七分、雷が屋上のアンテナへ落ちた。
校舎全体が青白く光った。
非常灯が一度消え、すぐに赤く点いた。放送室の機械が勝手に再起動し、古い時刻表を読み込んだ。
そして、校庭の外部スピーカーから、始業のチャイムが鳴った。
きん、こん、かん、こん。
世界が滅びてからも、毎朝校門の内側だけで鳴らしていた音が、丘の下まで響いた。
校門を叩く音が止んだ。
一瞬の静けさ。
次に聞こえたのは、何十、何百という足音だった。
波多野が窓へ走った。
丘の坂道を、居残りたちが上ってくる。学生服、作業着、病院着、泥だらけの背広。口を開けたまま、音の出た学校へ向かっている。
「放送を切れ!」
真白が卓へ飛びついた。しかし落雷で制御盤が固まり、チャイムは繰り返した。
きん、こん、かん、こん。
「主電源は地下です」
「俺が行く。お前は東階段から――」
校門が内側へ歪んだ。
鉄板のボルトが一本飛び、昇降口のガラスへ突き刺さった。
「間に合いません」
真白はマイクを掴んだ。
「何をする」
「予定を早めます」
彼女は放送のスイッチを入れた。
『生徒会からのお知らせです』
校庭に、真白の声が響いた。
居残りたちの顔が、一斉に校舎を見上げた。
『本日の文化祭は、体育館で行います。生徒のみなさんは、廊下を走らず、体育館へ集合してください』
「切れ!」
波多野が叫んだ。
真白はスイッチを押し続けた。
『繰り返します。文化祭は体育館です』
居残りの群れが、校門から体育館側へ向きを変えた。音に引かれ、規則に従うように。
真白はマイクを置いた。
「音楽室に、合唱の録音があります。体育館のスピーカーだけで流せます。みんなを中へ入れて、防火扉を閉める」
「誰が閉める」
「舞台袖に操作盤が」
「誰がそこまで行く」
真白は答えなかった。
波多野の顔から、表情が消えた。
「却下だ」
「ほかに方法は」
「俺がやる」
「駅まで案内する人が必要です」
「地図はある」
「途中で私が転んだら?」
「立て」
「怖くて息ができなくなったら?」
「吐け」
「撃たなきゃいけなくなったら?」
波多野は黙った。
真白は、ほんの少し笑った。
「授業、まだ終わってません」
そのとき、校門が倒れた。
居残りが校庭へ流れ込んだ。
波多野は最初の一体を撃った。乾いた音。作業着の男が倒れ、後ろの二体がつまずいた。
「音楽室へ!」
我々は走った。
正確には、真白と我輩が走り、波多野が後ろ向きに移動しながら撃った。彼は人を殺すときより、人を逃がすときの方が正確だった。
東廊下の角から、制服姿の居残りが現れた。
右足を引きずり、胸元の名札を何度も撫でている。
「……一番。たかもり、れん」
真白の足が止まった。
高森蓮だった。
ノートに書かれていた名前。
彼は生徒手帳を差し出すように腕を伸ばし、同じ言葉を繰り返した。
「一番。たかもり、れん。遅刻、しました」
波多野が銃を上げた。
「待って」
真白は一歩前へ出た。
「高森くん」
居残りが首を傾けた。
「文化祭、体育館だよ」
「たいいく、かん」
「うん。先に行ってて」
高森だったものは、音の残る方へゆっくり向きを変えた。
真白はその背中へ、小さく言った。
「出席」
そして我々は音楽室へ走った。
音楽室には、昨年の合唱コンクールのデータが残っていた。
真白が機械をつなぐあいだ、波多野は扉を押さえた。廊下の向こうで、足音と爪の音が増えていく。
「曲は?」
「校歌」
「最悪だな」
「みんな歌えます」
真白が再生を押した。
体育館のスピーカーから、子どもたちの歌声が流れた。
まだ世界が終わる前、音程を外し、誰かが笑い、先生が咳払いをした録音。
居残りたちは一斉に体育館へ向かった。
歌は、廊下の埃を震わせた。
真白は操作盤の鍵を取った。
「舞台袖まで三十メートル。北通路を使えば――」
「俺が行く」
波多野が鍵を奪った。
「波多野さん」
初めて、真白は彼を名前で呼んだ。
男の肩がわずかに動いた。
「私は知ってます」
校歌が二番へ進んだ。
「みんないない。先生も、お母さんも。高森くんも、さっきのは高森くんじゃない」
波多野は振り返らない。
「ずっと知ってました」
「なら、どうして」
「あなたが、用務員さんだったから」
真白の声は震えていた。
「学校なら、毎朝来る理由がある。壊れた窓を直す理由も、私に食べさせる理由も、明日まで生きる理由もある。片づけ屋じゃなくて、用務員さんなら、人を置いていかないでしょう」
波多野の手が鍵を握りしめた。
「俺は、置いてきた」
「昔の話です」
「何人も」
「今は一人です」
「だから、今度は間違えない」
彼はようやく振り返った。
「お前を駅へ連れていく。それで終わりだ」
真白は首を振った。
「終わりじゃない」
歌声が三番へ入った。
「駅の向こうに学校がなくても、朝は来ます。あなたが用務員さんじゃなくても、生きてていいんです」
廊下のガラスが割れた。
居残りの腕が扉の隙間から伸びた。
波多野はその腕を撃ち、真白を押しのけた。
「話はあとだ」
「あとがあるんですね」
真白は泣きながら笑った。
波多野は、ひどく不器用に頷いた。
計画は簡単だった。
波多野が北通路を抜けて舞台袖の操作盤へ行き、体育館の防火扉を閉める。真白は放送室で歌を流し続け、居残りを中へ集める。その後、二人は地下の設備通路から校外へ出る。
簡単な計画ほど、人間はよく失敗する。
まず、北通路の天井が落ちた。
次に、防火扉の遠隔回路が落雷で死んでいた。
最後に、地下通路へ続く鉄扉の電子錠が開かなかった。
「手動解除は向こう側だ」
波多野が鉄扉を蹴った。
扉の上部に、換気用の小さな格子があった。人間は通れない。猫なら通れる。
二人が同時に我輩を見た。
まったく、普段は足手まといと呼ぶくせに、穴が小さくなると急に期待する。
「できる?」
真白がしゃがんだ。
できるかどうかではない。
向こう側には、昼食用に詰めた鯖缶の匂いがした。
我輩は波多野の肩から格子へ飛び移った。爪で埃をかき、狭い管を進む。背後で校歌が途切れた。
再生が終わったのだ。
体育館の居残りたちが、次の音を探し始めた。
真白が放送室のマイクを入れた。
『生徒会からのお知らせです』
震えた声が校舎に響いた。
『ただいまより、薄明中学校の閉校式を行います』
我輩は換気管の出口へ着いた。下には鉄扉の裏側。壁に赤い解除レバーがある。
遠い放送が続いた。
『宮田先生。いつも宿題を忘れて、すみませんでした』
我輩は管から飛び降りた。
『夕戸さん。貸してくれた消しゴム、返せなくてごめん』
レバーは高い。棚へ飛び、配管へ乗り、前足で押した。動かない。
『高森くん。遅刻は、もうつけません』
廊下の向こうから、居残りが集まる音が近づいた。
『お母さん。見なかったことにして、ごめんなさい』
我輩は体重をかけた。
レバーが少し下がった。
『波多野さん』
真白の声が止まった。
波多野が何か叫んだ。銃声が二つ。三つ目は鳴らなかった。
『卒業しても、たまには会いに来てください』
我輩は配管から跳び、全身でレバーへぶら下がった。
がちり、と錠が外れた。
鉄扉が開き、波多野が真白を押し込んだ。彼の左腕から血が落ちていた。
「猫!」
真白が我輩を抱え上げる。
「行け!」
波多野は扉を閉めようとした。しかし、廊下の先に居残りが見えた。高森だったものが先頭にいる。
「一番。たかもり、れん」
その背後から、何十もの声が重なった。
「二番」「五番」「十一番」「出席」「遅刻」「先生」「おはようございます」
波多野は弾切れの銃を捨て、扉を押した。
居残りたちの指が隙間へかかった。
真白も反対側から押した。
「閉めろ!」
「一緒に!」
「離せ!」
「校則違反です!」
「そんな校則はない!」
「今作りました!」
我輩は真白の腕から床へ降り、鉄扉の脇を見た。
非常用のくさびが落ちている。
人間は力を競うことに夢中で、道具を見落とす。
我輩はくさびを前足で転がした。
真白が気づき、拾って扉の下へ差し込む。波多野が全身で押し、扉が居残りの指を振り落として閉まった。
真白が手動錠を回した。
向こう側から、無数の手が鉄を叩いた。
どん。
どん。
どん。
閉校式の拍手のようだった。
地下通路は、古い配水管に沿って丘の南側へ続いていた。
波多野の腕の傷は深くなかったが、血は多かった。真白が歩きながら包帯を巻いた。
「きつい」
「保健室の先生に習いました」
「いないんだろ」
「習ったことまで、いなくなるわけじゃありません」
波多野は黙った。
しばらくして、ぽつりと言った。
「卒業しても、会いに来いって、どこへだ」
真白は包帯の端を結んだ。
「知りません。あなたが決めてください」
「面倒だな」
「進路指導です」
波多野は、ほんの少し笑った。
この男が笑うところを、我輩は初めて見た。笑顔というより、長く使わなかった扉が錆びながら開くような顔だった。
通路の出口は、丘の南斜面にある排水溝へつながっていた。
外へ出ると、嵐は過ぎていた。雨上がりの空に、細い青が見えた。
学校の方角から、遅れて防火扉の落ちる重い音がした。
真白の仕掛けた蓄電池が復旧し、体育館を封鎖したのだろう。
薄明中学校は静かになった。
真白は振り返り、長い間見ていた。
「さようなら」
それだけ言った。
人間は別れのとき、言葉を増やしたがる。しかし本当に大きな別れには、短い言葉しか残らない。
南貨物駅へ着いたのは、十七時三十二分だった。
装甲車両は、錆びた保守用列車に鉄板を貼った代物だった。ホームには武装した四人と、子どもを抱いた女と、老人が二人いた。
真白が線路へ駆け下りる。
「待ってください!」
一人が銃を向けた。
「感染確認!」
波多野は両手を上げ、真白を前へ出した。
「咬まれてない。熱もない」
「お前は」
「腕を切っただけだ」
「武器を捨てろ」
「もうない」
隊員が近づき、傷と瞳を確かめた。
「猫は?」
我輩は真白の鞄の上に座っていた。
「学校関係者です」
真白が答えた。
「名前は」
真白は我輩を見た。
ついに来たか、と我輩は思った。
人間は、保護したものに必ず名前をつける。所有したいからではない。失くしたとき、呼び戻せる気がするからだ。
「校長先生」
真白は言った。
波多野が咳き込んだ。笑ったのを隠したつもりらしい。
「ずいぶん偉い猫だな」
隊員が銃を下ろした。
我輩は抗議のため、真白の肩へ爪を立てた。
「痛い!」
「就任拒否だな」
「だめです。もう名簿に書きます」
真白は革表紙のノートを開いた。
死者の名が並ぶ最後のページ、その次の白紙に、新しい日付を書いた。
七月十日。
波多野朔良 生存。
白川真白 生存。
校長先生 生存。たぶん不満。
列車が動き出した。
窓の外で、丘の上の学校が小さくなる。太陽光パネルが夕日を返し、一度だけ、遠くで終業のベルが鳴ったような気がした。
真白は目を閉じた。
波多野はその隣で、眠らずに座っていた。
我輩は二人の間に丸くなった。
人間は不思議な生き物である。
終わった場所を背負い、失った者を連れ、まだ見ぬ朝へ向かう。その荷物が重いほど、なぜか互いのそばへ寄る。
我輩は猫である。
名前は、校長先生ということになったらしい。
気に入ったとは言っていない。
ただ、次の朝も呼ばれたなら、返事くらいはしてやってもよい。
了