『翡翠急行と雨神の心臓』
一
列車がメキシコ湾を離れたとき、空にはまだ青が残っていた。
だが、ベラクルスの椰子並木が後方へ消え、線路が湿地とサトウキビ畑のあいだを登りはじめるころには、山脈の上に鉛色の雲が城壁のように積み上がっていた。
特別急行《ラ・エスメラルダ》――翡翠急行。
深緑に塗られた機関車と三両の客車、食堂車、荷物車から成る短い列車は、雨季の熱気を切り裂きながら内陸へ向かっていた。
「雨は今夜、線路を食べます」
向かいの席でルシア・セラーノが言った。
黒い髪を首のうしろで束ねた、二十代半ばの碑文学者である。膝の上には真鍮の筒を抱えている。大砲の薬莢ほどの太さで、両端を蝋封され、表面には古びた革紐が巻かれていた。
「線路なら、食べられ慣れている」
霧丘真砂は窓の外を見たまま答えた。
三十四歳。横浜生まれ。海底の沈没船から銀貨を引き上げ、ゴビ砂漠で王墓を掘り当て、マルセイユでは贋作師の指を二本折った――という噂の半分は嘘で、残り半分は本人が忘れたことにしている。
肩までの髪を男物の帽子に押し込み、生成りのシャツに乗馬ズボン。腰には拳銃ではなく、折り畳み式の測量尺と細い鋼索を巻いた小型の投索器を下げていた。
「あなたは恐くないのですか、霧丘さん」
「雨が?」
「父の手紙が」
真砂はようやくルシアを見た。
真鍮筒は、十八年前に密林で消息を絶った考古学者ラファエル・セラーノが娘へ残したものだった。二週間前、ベラクルスの教会に、差出人不明で届けられたという。
同じ日に、ルシアのもとへ翡翠急行の招待状が届いた。
――セラーノ博士の最後の発見を知りたければ、黒曜石の円盤を持って列車に乗れ。
「恐いさ」と真砂は言った。「だから来た」
食堂車には、招待客がすでに揃っていた。
列車の所有者セバスティアン・バルガは、銀色の髪と白い麻服を着た鉄道王だった。右手の小指に、牙を剥くジャガーの指輪をはめている。
英国人の古美術商アーサー・ベルグレイヴは、汗をかきながらシェリー酒を飲んでいた。太った指の間で、黒い円盤を何度も裏返している。円盤には、泣く赤子にも吠える獣にも見える顔が刻まれていた。
片腕のグラトス・バルデス大佐は、革命戦争の英雄だった。左袖を空のまま制服のポケットへ留め、黙って窓を睨んでいる。
フランス人奇術師コレット・オーブリーは、赤い手袋を外しながら、招待状を香水の匂いごと灰皿へ押し込んだ。
米国人地質学者イライアス・クロウは、泥のついた地図筒を抱え、誰とも目を合わせなかった。
そしてエステバン神父。痩せた老人で、銀の十字架の隣に、やはり黒曜石の円盤を下げていた。
バルガが立ち上がった。
「皆さん。今夜、われわれはサン・ロレンソ山地の北側を通過し、明朝にはカベサス盆地へ入ります。近年の地震で、これまで埋もれていた古代遺跡が露出しました。巨大な玄武岩の頭像が七体――すべて、セラーノ博士の未発表ノートに記されていた位置と一致します」
ベルグレイヴのグラスが止まった。
「七体だと?」
「ええ。七つの頭、七枚の円盤。そして、博士が《雨神の心臓》と呼んだもの」
その名が出た瞬間、食堂車の空気がひやりとした。
外ではまだ一滴も降っていない。にもかかわらず、屋根を何かが四つ足で歩いたような音がした。
どす、どす、どす。
全員が天井を見上げた。
給仕が、荷物車から運ばれてきた木箱を押して入ってきた。蓋には墨で、
七番目の口が飲むとき、八番目の頭が目を覚ます。
と書かれていた。
バルガが釘を抜く。
藁の中から現れたのは、黒い石で彫られた掌大のジャガー像だった。口を大きく開け、舌の代わりに細い溝が奥へ伸びている。
「誰が送った?」とバルデス大佐が訊いた。
「送り状には、ただ《エル・オクタボ》――八番目、と」
ベルグレイヴの額から、ひと筋の汗が流れた。
真砂はそれを見逃さなかった。
二
午後十一時四十七分、翡翠急行は《死者の喉》と呼ばれる隧道へ入った。
車輪の轟音が石壁に跳ね返り、ガラス窓が震えた。食堂車の灯が一度、二度またたき、消えた。
暗闇の中で、誰かが息を呑んだ。
その直後、列車の前方から、硬いものが割れる音がした。
ごつん。
悲鳴ではない。
人間の頭蓋骨を、石槌で叩いたような鈍い音だった。
隧道を抜け、非常灯が点く。
ベルグレイヴの席は空だった。
「客室へ戻ったのだろう」とクロウが言った。
だが十分後、給仕が青ざめて食堂車へ駆け込んできた。
「ベルグレイヴ様が返事をなさいません。扉には内側から閂が」
バルデス大佐が体当たりで扉を破った。
ベルグレイヴは机に突っ伏していた。
右のこめかみが陥没し、白い上着の襟を血が染めている。窓は施錠され、隙間には雨除けの封蝋が残っていた。室内に人が隠れられる場所はない。
床には、濡れた土で押されたジャガーの足跡が一つ。
机の上には、例の石像があった。
口を開けたまま、こちらを笑っている。
「呪いだ」とクロウが呟いた。
「便利な言葉ね」
コレットが言い、手袋の指で十字を切る真似をした。
真砂は死体へ近づいた。
ベルグレイヴの右手は机の端を握り、左手は石像の台座に触れている。指先に黒い粉がついていた。傷口は一撃。凶器は見当たらない。
室内を一周し、真砂は扉の壊れた閂を持ち上げた。
「外から糸を使った跡はない」とバルデス大佐が言った。「床下も天井裏も塞がっている。わしら全員、灯が消えたあいだ食堂車にいた」
「全員?」
真砂の問いに、バルガは眉を上げた。
「私は給仕と配電盤を見に出ました。しかし隧道内で、この客室まで来ることは不可能です」
「そう」
真砂は石像の顔へ鼻を寄せた。
石と血の匂い。その下に、かすかな甘い臭気がある。
焦げた天然ゴム。
像の右の牙には、小さな欠けがあった。
彼女は足跡へしゃがみ込み、指先で泥をつまんだ。粘土に混じって、透明な細糸が一本、蛭のように縮れている。
「何かわかりましたか」
ルシアが訊いた。
「この部屋には、殺人犯は入らなかった」
「では、どうやって」
「殺された男が、自分で戸を閉め、自分で殺人犯を働かせた」
そのとき、機関車が長い汽笛を鳴らした。
急制動。
食堂車の食器が一斉に床へ落ち、人々は壁へ投げ出された。
翡翠急行は、雷鳴のただ中で停止した。
雨が来た。
窓の外が、一瞬で水の壁になった。
三
線路の先は、山腹ごと消えていた。
土砂崩れが谷を埋め、赤茶色の濁流が枕木を呑み込んでいる。後方では、古い鉄橋の橋脚が傾き、戻る道も断たれていた。
無線機は沈黙していた。アンテナ線が刃物で切られていたからだ。
「偶然ではないな」
バルデス大佐が言った。
真砂は雨合羽の襟を立て、切断面を確かめた。鋭い刃。錆びた線を引きちぎったのではない。誰かが列車を孤立させたのだ。
機関士によれば、夜明けまでにさらに斜面が崩れる可能性があるという。客車の停まった場所は谷底に近く、安全ではない。
バルガが地図を広げた。
「東へ三キロ、尾根の上に古代の祭祀域があります。石造建築なら雨をしのげる。そこから北へ抜ければ、私の会社の保線小屋へ着く」
「ずいぶん都合よく遺跡の前で止まったものね」とコレット。
「土砂崩れに目的地を選ぶ知恵があるとは知らなかった」
バルガは微笑んだが、目は笑わなかった。
ルシアは真鍮筒の蝋封を切った。
中には、油紙に包まれた手帳と、薄い蛇皮紙が入っていた。手帳の冒頭にはラファエル・セラーノの筆跡で、こう記されていた。
われわれは王墓を発見したのではない。
牢獄を発見した。
巨石の頭は神を讃えるためではなく、神の声を分散させるために置かれている。
心臓は宝ではない。栓である。
蛇皮紙には七つの円が描かれ、それぞれ異なる顔の文様が添えられていた。招待客の黒曜石円盤と同じだった。
中央には、人間とジャガーの中間のような輪郭がある。
胸の部分だけが、緑色の顔料で塗られていた。
「父はオルメカの神話体系を研究していました」とルシアが言った。「けれど、この図像は知られているものと違う。彼らが崇拝したのではなく、封じたというなら……」
「空から落ちた石を、神と呼んだのかもしれない」
地質学者クロウが口を挟んだ。
「この地域にはニッケルを含む異常な岩体がある。父は油田を探していて、磁針が狂う場所を見つけた。セラーノ博士の遺跡と一致する」
ベルグレイヴの黒曜石円盤は、死体のそばから消えていた。
全員の視線が交錯した。
バルガはしばらく黙った後、胸ポケットから一枚の円盤を取り出した。
「彼の上着の裏地に縫い込まれていました。混乱を避けるため、私が預かっていた」
「さっきまで言わなかったのは?」と真砂。
「誰が殺人者かわからないからです」
「ふうん」
真砂は円盤を受け取り、縁を爪でなぞった。
溝の一部に、黒い石粉とは異なる茶色い繊維が付いている。
天然ゴムだった。
彼女は何も言わず、円盤を返した。
午前二時すぎ、一行は荷物をまとめた。
その直前、客車の連結部で金属音がした。
最後尾の寝台車が、ゆっくり後方へ動き出した。
「誰かが連結器を外した!」
機関士が叫ぶ。
寝台車の中には、ルシアとコレットが残っていた。車輪は雨に濡れた線路を滑り、傾いた鉄橋へ向かって加速していく。
真砂は投索器を抜いた。
鋼索の鉤を食堂車の手摺へかけ、走り去る寝台車へ飛び移る。
足が空を踏んだ。
鋼索が腕に食い込み、身体が車体へ激突した。窓ガラスが目の前を流れていく。真砂は靴底を壁へ押しつけ、開いたデッキへ這い上がった。
「手動制動機!」
コレットが車内から叫ぶ。
真砂は車端の大輪を両手で回した。錆びついた軸は動かない。ルシアが鉄棒を差し込み、二人で押す。
車輪が火花を噴いた。
鉄橋まで、二十メートル。
十五。
十。
寝台車は、前輪を橋へ乗せたところで止まった。
下では濁流が、黒い口を開けていた。
真砂は息を整えながら、連結器のそばへ戻った。
泥の上に片足を引きずった跡がある。
バルデス大佐は戦傷で右脚が不自由だった。
だが、跡の靴底には、ジャガーの爪を模した三本の鋲が打たれていた。
大佐の軍靴ではない。
「犯人は、わざと大佐を疑わせた」
ルシアが言った。
「それだけじゃない」
真砂は外された連結ピンを拾った。
表面に、白い麻布の繊維が絡んでいる。
バルガの服と同じ生地だった。
四
夜明け前、一行は列車を捨てた。
雨は弱まったが、密林の葉から落ちる雫が絶え間なく肩を打った。空気は湯気のように重く、土は一歩ごとに靴を吸い込む。
先頭をルシアが歩き、真砂が続いた。バルガはベルグレイヴの円盤を含む七枚を革袋に入れ、胸元へ下げている。バルデス大佐は拳銃を抜き、コレットは銀色の化粧鏡を握っていた。クロウは方位磁針を見ていたが、針は狂った虫のように回り続けた。
エステバン神父は、道すがら何度も後ろを振り返った。
「何かいるのですか」とルシア。
「いるのではなく、聞いているのです」
老人は答えた。
「何を?」
「われわれを」
やがて、密林の壁が途切れた。
谷いっぱいに、巨大な石の顔が並んでいた。
高さ三メートルを超える玄武岩の頭像。丸い兜をかぶり、厚い唇を結び、雨水を頬へ流している。半ば地中に埋もれたもの、蔓に覆われたもの、裂けた額から木を生やしたもの――合計七体。
どの顔も、眠っているようでありながら、一行の足音を数えているように見えた。
「父の図と同じだ」
ルシアが呟いた。
それぞれの口の奥に、黒曜石円盤ほどの円形の窪みがある。
谷の中央には、八角形の石壇があった。
その上にだけ、頭像はない。
代わりに、地面へ続く縦穴が黒く開いていた。
「八番目の頭は、地の下か」
バルガの声に、抑えきれない熱が混じった。
その瞬間、背後の茂みが爆ぜた。
黒い影がバルガへ飛びかかった。
人間ほどの大きさ。ジャガーの毛皮をまとい、顔には黒曜石の仮面。爪のような刃が、バルガの喉を狙う。
真砂は横から体当たりした。
影と一緒に泥へ転がる。仮面の奥から、若い男の息が聞こえた。
「やめろ!」
ルシアが、古いナワ語の一種で叫んだ。
影の動きが止まった。
男は仮面を外した。褐色の顔。頬に三本の白い傷跡がある。
「セラーノの娘か」
彼はスペイン語で言った。
「私はナウム。谷を守る者の最後だ。おまえの父は、十八年前にここで死んだ。あの男の父親に撃たれて」
刃の先が、バルガを指した。
バルデス大佐が目を閉じた。
「その場に、わしもいた」
雨音だけが残った。
大佐はゆっくり拳銃を下ろした。
「セバスティアンの父、ロドルフォ・バルガは遺跡の出資者だった。われわれは《心臓》を持ち出そうとした。セラーノ博士は止めた。ロドルフォは彼を撃ち、案内人を皆殺しにするよう命じた。わしは兵を率いていた」
ルシアの顔から血の気が引いた。
「父は、そのあと?」
「瀕死のまま石室へ戻り、入口を閉じた。ロドルフォも中に残された。七枚の円盤は同行者が一枚ずつ持ち帰った。二度と揃わぬように」
バルガが笑った。
「美しい懺悔だ、大佐。だが父は怪物ではない。彼は力を見つけた。雨を呼び、川を変え、国を変える力を」
「だから招待客の親や師から円盤を買い集めたのか」とクロウ。
「買えない者には、乗車券を送った」
バルガは革袋を握った。
「ここまで来れば、もう隠す必要はない」
彼の手に、小型拳銃が現れた。
発砲。
ナウムが胸を押さえて倒れた。
同時に、谷の七つの頭像が低く唸った。
風ではない。
石の喉から、地の底を擦るような声が湧き上がったのだ。
五
「円盤を口へ入れろ」
バルガは全員を銃で従わせた。
一枚目を北の頭像へ。
二枚目を西へ。
円盤が窪みへ収まるたび、石の内部で巨大な歯車が回るような響きがした。頭像の目から雨水が噴き、谷の石壇へ細い流れを作った。
七枚目が入ったとき、地面が震えた。
八角形の石壇が割れ、螺旋階段が現れた。
地下から吹き上がった風は、冷たく、海の底の匂いがした。
バルガは一行を先に降ろした。
階段の壁には、奇妙な浮彫が続いていた。
空から炎の尾を引く黒い星が落ちる。人々がそれを掘り出す。星の中から、雨と獣の輪郭を持つものが生まれる。人々はひれ伏していない。縄をかけ、石の頭を並べ、地下へ押し戻している。
「彼らはこれを神として授かったのではない」
ルシアが壁をなぞった。
「災厄として封じた。頭像は共鳴器。雷の力を七方向へ逃がす装置です」
「オルメカ人が、こんな機構を?」とクロウ。
「文明を侮る人間ほど、文明を滅ぼす」
真砂が言った。
階段の先に、地下都市が広がっていた。
黒い水路、磨かれた玄武岩の柱、天井から垂れる緑色の鉱物。壁面は雷光もないのに淡く明滅し、影が人の形になって歩いていた。
中央神殿の正面には、八番目の頭像があった。
他の七体よりも大きく、顔の半分が人、半分がジャガー。閉じた口の奥で、何かが呼吸している。
どくん。
床が脈打った。
どくん。
コレットが化粧鏡を落とした。
鏡面には彼女たちではなく、毛皮をまとった人影が何十人も映っていた。
エステバン神父が祈りを唱える。
その声に重なって、神殿の奥から赤子の泣き声が聞こえた。次の瞬間、それは猛獣の咆哮へ変わった。
「魔神国……」
クロウが呆然と呟いた。
バルガだけが笑っていた。
「父は正しかった」
彼は八番目の頭像へ近づき、額の窪みに七枚の円盤を重ねて差し込んだ。
石の顔が、ゆっくり口を開いた。
内部に、拳ほどの緑黒色の物体が浮かんでいた。
翡翠に似ている。だが鉱物ではない。
表面に細い血管のような筋が走り、雨粒を吸い寄せながら、収縮している。
雨神の心臓。
バルガが手を伸ばした。
「触るな!」
ルシアが叫ぶ。
「それは力の源ではない。封印の栓です!」
バルガは心臓を引き抜いた。
地下都市のすべての光が消えた。
一拍遅れて、闇そのものが立ち上がった。
黒い水路から霧が噴き、獣の背骨を形作る。稲妻が輪郭を縫い、巨大なジャガーの頭部が天井近くに現れた。目は空洞で、その奥に星のない夜が回転していた。
神ではない。
生物とも呼べない。
空から落ち、雨と電気と恐怖を食って育つ、古い異物。
それが八番目の頭像を仮面として被った。
バルガの右腕へ緑黒色の筋が這い上がる。
「見ろ!」
彼は歓喜した。
「私を選んだ!」
次の瞬間、腕が人間の関節ではありえない方向へ折れ曲がった。
バルガは絶叫した。
六
混乱の中で、真砂はバルガの拳銃を蹴り飛ばした。
銃は水路へ落ち、青白い火花を散らして消えた。
「ルシア、封じ方は!」
「円盤を逆順に回して、心臓を戻す! でも、順序が――」
「お父さんの手帳!」
ルシアは真鍮筒から手帳を取り出した。頁が風もないのにめくれ、最後の見開きで止まった。
七つの顔の下に、短い文章がある。
泣く顔から始め、笑う顔で終われ。
人は悲しみから生まれ、傲慢によって檻を開く。
「順番がわかった!」
ルシアが円盤へ駆ける。
バルガが立ちはだかった。
もう右腕は腕ではなかった。黒い石と筋肉の混ざった鉤爪になり、肩から雨水を噴き出している。顔の半分に、ジャガーの斑紋が浮かんでいた。
「これは私の国だ」
声が二重に響いた。
「地上の川も、都市も、人間も、すべて私が流す」
「列車一つまともに走らせられない男が、国を流すって?」
真砂は投索器を撃った。
鋼索の鉤が石柱へ絡む。彼女は反対端をバルガの異形の腕へ巻きつけ、床の回転軸へ引っかけた。
ルシアが最初の円盤を回す。
神殿の水路が逆流し、石の軸が動いた。
鋼索が巻き取られ、バルガの腕が柱へ引かれる。
彼は咆哮し、鋼索を引きちぎろうとした。
コレットが化粧鏡を拾い、心臓を包む稲妻へ向けた。
鏡面が光を反射する。
巨大な影の頭が、そちらへ振り向いた。
「怪物は観客の視線に弱いものよ」
奇術師は震えながら笑った。
「見られているうちは、種がばれるから」
バルデス大佐がナウムの落とした黒曜石の刃を拾い、バルガの前へ出た。
「セラーノ博士には、わしが入口を守ると約束した」
「十八年遅い!」とバルガ。
「知っている」
大佐は片腕でバルガへ組みついた。
「だから、今度は逃げん」
二枚目。
三枚目。
ルシアが円盤を回すたび、頭上から岩が落ちた。
神殿全体が崩れはじめている。
クロウとエステバン神父は負傷したナウムを担ぎ、階段へ向かった。コレットも鏡を掲げたまま後退する。
四枚目。
影のジャガーが前脚を振り下ろした。
石床が裂け、黒い水が噴き上がる。触れた柱が一瞬で苔に覆われ、次の瞬間には白く乾いて崩れた。
五枚目。
バルガの異形の腕が鋼索を断った。
大佐を投げ飛ばし、ルシアへ鉤爪を伸ばす。
真砂はその軌道へ飛び込んだ。
爪が帽子を裂き、こめかみをかすめる。熱い血が頬を伝った。
彼女は床へ転がりながら、ベルグレイヴの客室から持ち出していた細いゴム紐をバルガの顔へ投げつけた。
バルガが一瞬、目を見開いた。
「覚えている?」と真砂。「あんたの密室殺人の、余り物だ」
「何を――」
「ベルグレイヴは戸を閉め、自分で石像の口へ円盤を差し込んだ。中には捻った天然ゴムと石の撃針が仕込まれていた。円盤が留め金を外し、撃針がこめかみを砕き、また像の口へ戻る。反動で台座の粘土印が床へ落ち、水差しを倒して濡れた足跡を残した」
六枚目。
地下の風が逆巻いた。
「円盤は装置の内側に噛み込んだ。あんたは証拠を確認するふりをして像をすり替え、円盤を回収した。でも替えた像の右牙には欠けがあった。食堂車で見た最初の像には、欠けなどなかった」
バルガの顔から、人間らしい歓喜が消えた。
「ベルグレイヴは父の死の真相を知り、私を脅した。必要な犠牲だった」
「殺人者はたいてい、必要という言葉を好む」
真砂は足元のゴム紐を踏み、片端を引いた。
紐には、コレットが密かに結んだ銀の手品糸がつながっていた。糸の先は、神殿の天井を支える古い楔へ回してある。
楔が抜けた。
頭上から巨大な石梁が落ち、バルガと大佐のあいだへ突き刺さる。
大佐は弾き飛ばされたが、ルシアへの道は塞がれた。
七枚目。
「今!」
ルシアが叫ぶ。
真砂は地面に落ちた雨神の心臓へ飛びついた。
触れた瞬間、世界が裏返った。
海の底。
黒い星。
何千人もの叫び。
巨大な石頭を曳く人々。
血まみれのラファエル・セラーノが、最後の力で緑黒色の心臓を石の口へ押し戻す姿。
そして彼が、まだ幼い娘の名を呼ぶ声。
――ルシア。
真砂は歯を食いしばった。
「娘なら、ここにいるよ」
心臓を八番目の頭像の口へ叩き込む。
石の顎が閉じた。
影のジャガーが、音のない咆哮を上げた。
霧の身体が七方向へ引き裂かれ、谷の頭像へ吸い込まれていく。地下都市を満たしていた光が一点へ縮み、心臓の奥で消えた。
バルガの身体から黒い筋が抜けた。
彼は人間へ戻った。
ただし、崩れ落ちる石梁の真下で。
「待て!」
バルガが手を伸ばした。
真砂はその手を見た。
ベルグレイヴを殺し、列車を谷へ落とそうとし、ナウムを撃った手。
彼女は手を伸ばさなかった。
石の頭が落ち、鉄道王の姿を闇の底へ押し潰した。
七
地上へ出たとき、夜が明けていた。
雨は止み、谷の上に薄い朝霧が流れていた。
七つの巨石頭像は、何事もなかったように黙っている。八番目への入口は崩れ、石壇の下へ埋まっていた。
ナウムは生きていた。弾は肺を外れていた。
バルデス大佐は肋骨を折ったが、自分の足で歩いた。
一行が翡翠急行へ戻ると、土砂崩れはさらに進み、先頭の機関車は半ば泥へ埋まっていた。それでも食堂車の銀食器は棚に残り、ベルグレイヴの客室には壊れた扉と乾いた血痕があった。
昼すぎ、保線隊の汽笛が谷の向こうから聞こえた。
救助を待つあいだ、コレットは食堂車で紅茶を淹れた。
「警察には、どう説明するの?」
「石像を調べれば仕掛けは出る」と真砂。「すり替えたほうは荷物車にあるはず。バルガの工具箱には、同じゴムと撃針が残っている」
「遺跡のことは?」とクロウ。
ルシアは父の手帳を閉じた。
「地図から位置を消します。発見したのは七体の頭像だけ。地下構造は崩落し、調査不能」
「歴史を隠すのか」とクロウ。
「歴史ではありません。警告を守るのです」
エステバン神父が静かに頷いた。
真砂はベルグレイヴの石像を分解した。
台座の内部には、二本の太いゴム束、金属の留め金、血のついた翡翠の撃針が収まっていた。撃針は舌のように、像の喉へ引き込まれる仕掛けになっている。
コレットが肩をすくめた。
「呪いより、ずっと下品な手品ね」
「人間の殺しは、だいたいそうさ」
救助列車が到着する直前、ルシアが真砂へ真鍮筒を差し出した。
「父の手帳は、あなたが持っていてください」
「学者が持つべきだ」
「あなたは宝を持ち帰らなかった」
「持ち帰ったら、世界中の鉄道王が追いかけてくる」
「それだけ?」
真砂は答えず、筒を押し返した。
「お父さんは、あれを見つけた人じゃない。閉じた人だ。論文の題には、そのほうを書きな」
ルシアはしばらく真砂を見つめ、やがて笑った。
「あなたは墓荒らしではなかったのですね」
「高く売れる墓しか荒らさない主義なんだ」
八
三日後、ベラクルス。
真砂は港の防波堤を歩いていた。
事件の生存者たちは事情聴取に呼ばれ、新聞は《鉄道王、土砂崩れで死亡》《英国古美術商、謎の石像に殺害》と騒いでいる。
海は青く、雨の気配はない。
真砂は煙草を探して上着のポケットへ手を入れた。
指先に、硬いものが触れた。
小豆ほどの緑黒色の欠片。
翡翠のようで、鉱物ではない。
どくん。
掌の上で、一度だけ脈打った。
真砂は無言でそれを海へ投げた。
欠片は陽光を弾き、波間へ消えた。
沖合に、雲が一つ生まれた。
細長く伸び、四本の脚と尾を持つ獣の形になる。
港の人々は誰も気づかなかった。
真砂だけが帽子を深くかぶり、背を向けた。
雲の中で、何かが一度だけ喉を鳴らした。
了