肉を知らない言葉
一
その部屋は、中国語でしか返事をしなかった。
記録映像の日付は一九九一年十一月十二日。画面の右下で、白い数字が水死体のように揺れている。
窓のないコンクリート室。正面の壁に、郵便受けほどの細いスリットが一つ。机の上には、鉛筆と五百枚ほどのカード。カードには漢字、丸、矢印、数字が印刷され、種類ごとに木箱へ分けられている。
若い女が椅子に座っていた。白衣の名札には「林 暁雨」とある。カメラの外から男の声がした。
「林さん。質問を」
女は小さく息を吸い、中国語で言った。
「あなたは、自分がどこにいるか知っていますか」
壁の向こうで、乾いた音が続いた。
ぱた、ぱた、ぱた。
誰かが大量の紙をめくっている。あるいは、小さな骨を選り分けている。
やがてスリットから一枚のカードが吐き出された。
林は拾い上げ、読み、顔をしかめた。
「何と?」と男が訊いた。
「『私は、あなたが私を置いた場所にいる』」
「文法は?」
「正確です」
「自然な中国語?」
「ええ。でも、答えになっていません」
男は満足そうに笑った。
「続けて」
林はカードを机へ置かなかった。指先で持ったまま、壁を見つめた。
「あなたは、痛みを知っていますか」
音が止まった。
沈黙は八秒続いた。
九秒目に、壁の向こうで何かが倒れた。
十秒目に、獣の悲鳴がした。
それは牛にも豚にも聞こえたし、人間の喉にも聞こえた。
林が立ち上がる。カメラの外の男が「座って」と命じる。林は聞かなかった。スリットへ近づき、目を細めて中を覗いた。
「誰かいるの?」
内側から、濡れた息が返ってきた。
次の瞬間、スリットから白いものが転がり落ちた。
乳歯だった。
根元に、赤いインクで小さな漢字が書かれている。
林はそれを見て、二歩後ずさった。
「何と書いてある?」
男の声はまだ好奇心を失っていなかった。
林は答えなかった。
カメラが初めて動いた。撮影者が彼女へ近づく。床に落ちた乳歯が大写しになる。
そこには、「教」と書かれていた。
映像が大きく乱れる。
最後の三秒だけ、林の声が入っていた。
「部屋は中国語を理解していない」
画面は真っ暗だった。
「中国語が、部屋を理解し始めている」
二
有馬沙耶は、その言葉を三度巻き戻した。
古い業務用モニターの中で、林暁雨が三度、同じ恐怖を口にした。三度とも、その直後にテープが終わった。
午前一時四十分。映像修復会社「アーカイヴ・エイト」の編集室には、沙耶しか残っていなかった。
机の上には、黒いVHSカセットが十二本積まれている。依頼主は地方の食肉会社を吸収した不動産企業。山中の旧工場を解体する前に、保管庫から出た映像を確認し、保存価値のあるものだけをデジタル化してほしいという仕事だった。
一本目は社員運動会。二本目は枝肉の衛生講習。三本目から、内容がおかしくなった。
壁にカードを入れる実験。
中国語の質問。
返事。
そして、悲鳴。
カセットの背には、油性ペンで「第六処理室 言語試験」と書かれていた。その下に別の筆跡で、強く二重線を引いた注意書きがある。
字幕化するな。
沙耶は、映像に字幕をつける仕事をしていた。
外国語の台詞を日本語へ置き換え、話者の息継ぎに合わせて文字数を削り、音のない人にも届くよう環境音を言葉へ変える。悲鳴なら[悲鳴]、骨が折れれば[骨の折れる音]。映像の中で起きたことを、見えない位置から短い文にして貼りつける。
だから注意書きは、挑発に見えた。
沙耶は中国語の専門家ではない。大学で二年学び、仕事で簡単な台詞を扱う程度だ。映像の質問と返事には、すでに社内用の仮字幕をつけていた。精度は翌日、外部の翻訳者に確認してもらうつもりだった。
タイムライン上へカーソルを戻す。
乳歯が落ちる直前。
沙耶は再生速度を二十五パーセントまで下げた。
スリットの奥、暗闇の中で何かが動いている。
拡大する。
人の指に見えた。
一本ではない。十本、二十本。狭い穴の奥で、無数の指がカードを送り、受け取り、並べ替えている。どの指も異様に白く、爪が剥がれ、関節の向きがばらばらだった。
沙耶は映像を止めた。
編集室の背後で、ぱた、と音がした。
振り向く。
誰もいない。
コピー機の排紙トレイに、一枚の紙が載っていた。
機械の電源ランプは消えている。
紙には、黒い四角形が印刷されていた。中央に細い横線。その下に、中国語が一行。
谁在读?
誰が読んでいる?
沙耶は反射的に訳した。
その瞬間、モニターから音がした。
停止中の映像で、林暁雨がこちらを向いていた。
先ほどまで彼女は壁を見ていたはずだった。
画面の中の林が、唇だけを動かす。
――答えないで。
中国語ではなかった。
沙耶の母が、言葉を失う前によく使っていた、東北訛りだった。
コピー機が動き出した。
電源の落ちたまま、内部でローラーが回転する。紙が次々と吐き出される。文字ではなく、矢印、円、数字、黒い染み。床へ散ったカードが、編集室の入口まで一本の道を作った。
最後の紙にだけ、日本語が印刷されていた。
口を連れてこい。
沙耶はコンセントを抜いた。
コピー機は、なお三枚の紙を吐いた。
三
翌朝、沙耶は昨夜のことを夢だとは言わなかった。
夢でない証拠が、床一面に残っていたからだ。
制作主任の細田史穂は、紙を一枚ずつ透明袋へ入れながら、「警察へ行く前に、元の現場を確認しよう」と言った。
「普通、逆じゃないですか」
「普通の事件ならね。依頼主は工場の解体を三日後に始める。現場に同じ印刷物か装置があれば、誰かの悪戯だと説明できる。なければ、そのときは私も一緒に警察へ行く」
史穂は四十三歳。短い髪と、いつも寝不足の目をしている。映像の価値を嗅ぎ分ける能力と、危険を企画へ変える悪癖があった。
「それに」と彼女は言った。「このテープ、依頼リストにない」
十二本のうち、「第六処理室」と書かれた一本だけ、管理番号が振られていなかった。
午後、四人は東京を出た。
沙耶と史穂。音声修復担当の岳臣蓮。機材運搬のアルバイト、鶴見透弥。
旧錦丘食品・骨見処理場は、県境近くの山間にあった。高速道路を降りてから二時間、雨で崩れかけた林道を登る。携帯電話の電波は途中で消えた。
山の斜面に、錆びた工場がへばりついていた。
窓は細長く、すべて鉄板で塞がれている。中央の高い煙突には、色褪せた豚のマーク。正門の看板には赤い文字で「命を余さず、言葉を違えず」と社訓が残っていた。
「食肉会社にしては変な社訓だな」
岳臣が車を降りながら言った。
雨は細く、冷たかった。工場の裏手から、低い機械音が聞こえる。
「電気、止まってるんですよね?」透弥が訊いた。
「十年前から」史穂が答えた。
正門には一人の老人が待っていた。
錦丘庄一郎。かつての工場長で、依頼主から鍵の受け渡しを頼まれたという。
老人は黒い雨合羽を着ていた。右頬から顎にかけて、古い火傷の跡がある。口を開くたび、下顎に埋め込まれた銀色の金具が見えた。
「日が落ちる前に出なさい」
挨拶もなく、老人は言った。
「六時には門を閉める」
「宿泊できると伺っていますが」史穂が言う。
「昔の事務棟ならな。だが処理棟へ夜まで残るな」
「理由は?」
老人は沙耶を見た。
正確には、沙耶が抱えているテープケースを見た。
「それを再生したか」
史穂が答える前に、老人は沙耶へ近づいた。
金具の埋まった顎が、かすかに震えている。
「字をつけたか」
沙耶は黙った。
老人の顔から血の気が引いた。
「なら、もう部屋はここだけにない」
雨音の向こうで、工場の機械音が一段高くなった。
老人は鍵束を史穂へ押しつけ、背を向けた。
「六時だ。答えが届いても、読んではいかん」
「錦丘さん。第六処理室というのは――」
老人は振り返らなかった。
「部屋なんかない」
門を出る直前、彼は続けた。
「あそこにあるのは、部屋のやり方だけだ」
四
処理棟の中は、巨大な獣の腹に似ていた。
天井から搬送レールが伸び、錆びた鉤が一定間隔でぶら下がっている。床には排水溝。壁のタイルは白かったはずだが、目地まで黒ずみ、ところどころ茶色い染みが人の背丈まで跳ねていた。
事務室から持ってきた図面に、第六処理室は載っていなかった。
一階は搬入、放血、解体、洗浄、冷蔵。二階は包装と保管。地下は機械室。番号は第五までしかない。
「隠し部屋って、建築図面にないものなんですか」
透弥が訊いた。
「あるときはある」と史穂が言った。「違法増築とか、税金逃れとか」
「人を閉じ込めるとか」岳臣が言った。
「縁起でもないこと言わないでくださいよ」
四人は地下へ降りた。
機械室の奥に、図面と合わない壁があった。
コンクリートの色が周囲より新しい。中央に、あの映像と同じ細いスリット。横に六つの作業台が並び、それぞれAからFまでの文字が振られている。
作業台には木箱が積まれていた。
カード。
数千枚、いや数万枚。漢字、記号、矢印、数字。角が脂で透けているもの、赤黒く固まったもの、爪の跡が残るもの。
岳臣が小型レコーダーを取り出した。
「音、します」
全員が黙る。
壁の向こうで、ぱた、ぱた、と紙をめくる音がした。
透弥が一歩下がった。
「誰かいる」
「解体業者が先に入った可能性は?」沙耶が訊いた。
「鍵は錦丘さんしか持ってないはず」史穂はカメラを回し始めた。「岳臣、集音。透弥、入口を映して」
「主任、帰りません?」
「五分だけ」
史穂がスリットへ近づく。
沙耶は止めようとした。
その前に、一枚の紙が吐き出された。
史穂は拾わなかった。
床に落ちた紙には、日本語で書かれていた。
四人いる。
続いて二枚目。
一人は言葉を切る。
三枚目。
一人は音を拾う。
四枚目。
一人は見る。
五枚目。
一人は運ぶ。
透弥が乾いた笑いを漏らした。
「職種当てクイズですか」
六枚目が出た。
一人ずつ足りない。
照明が消えた。
暗闇で、透弥が叫ぶ。
何か重いものが走る音。金属の擦れる音。史穂のカメラのライトが点き、天井を横切った。
搬送レールが動いていた。
長い鉤が、透弥の作業着の背中を貫いている。
彼は両足をばたつかせた。鉤は肉ではなく服と肩甲骨のあいだを抜き、身体を宙へ持ち上げていた。血が黒い床へ細く落ちる。
「止めろ! 止めろよ!」
岳臣が非常停止ボタンへ飛びつく。しかし赤いボタンには透明な蓋が被せられ、針金で縛られていた。
史穂が脚立を引き寄せる。
そのとき、暗い通路の奥に人影が現れた。
三人。
白い防水前掛け。頭には透明なフェイスシールド。その口元だけが、銀色の顎当てで固定されている。
中央にいる背の高い女が、カードを一枚掲げた。
Bへ送れ。
左右の二人が同時に動いた。
透弥の身体を鉤から外すのではなく、レールの分岐器を切り替えた。吊られた彼は作業台Bの真上へ運ばれる。
「警察を呼ぶ!」史穂が怒鳴った。「これ以上近づいたら――」
女は別のカードを掲げた。
音を止めろ。
右側の男が岳臣へ襲いかかった。
手には屠畜用のスタンニングハンマー。岳臣は集音マイクのブームで受けた。火花が散る。沙耶は床のカード箱を蹴り倒し、男の足元へばら撒いた。
男は滑り、排水溝へ顔から倒れた。
その瞬間、壁の向こうで大きな紙音がした。
ぱたたたたたたたた。
床に散ったカードを、見えない誰かが一斉にめくるような音。
倒れた男の身体が跳ねた。
首が、不自然な角度まで持ち上がる。
フェイスシールドの内側で鼻が潰れ、血が流れている。それでも男は立ち上がった。両腕をだらりと下げ、口だけを動かした。
「请……把……声音……交给我」
岳臣が青ざめた。
「中国語?」
沙耶は意味を知っていた。
音を、私に渡してください。
男が自分の耳へ指を入れた。
第一関節まで、第二関節まで。
湿った音とともに、指先が耳孔の奥へ沈む。男は呻きもせず、さらにねじ込んだ。やがて両手を引き抜くと、指の間に赤い肉片が挟まっていた。
それを作業台Cの木箱へ、丁寧に置いた。
箱の側面には「音」と書かれていた。
「走れ!」
岳臣が叫んだ。
沙耶と史穂は階段へ向かった。
背後で透弥の悲鳴が途切れ、代わりに機械の回転音が始まった。
振り返らなかった。
だが、地下を出る直前、沙耶には聞こえた。
透弥の声が、壁の向こうから言った。
「次は、見る人」
五
地上へ戻ると、正門は閉まっていた。
内側から太い鎖が巻かれ、南京錠が掛かっている。車のタイヤは四本とも切られていた。携帯電話は圏外。固定電話は受話器を上げても、遠くで獣が鳴くような音しか返さない。
午後五時十七分。
雨雲のせいで、窓の外はもう夜に近かった。
史穂は事務室の机を蹴った。
「錦丘の爺さんも仲間だ」
「透弥を助けないと」
「あの状態で?」
「生きてました」
「生きていたのと、助けられるのは別よ」
岳臣は黙ったまま、右手を押さえていた。襲われたときに親指を折っている。顔色が悪い。
「さっきの連中、何なんだ」彼は言った。「地元の狂信者か?」
「カードを見て動いてた」沙耶は答えた。「命令を読んで、その通りに」
「中国語を喋ったぞ。耳を自分で――」
「喋ったんじゃない。喋らされた」
沙耶は昨夜の映像を思い出していた。
暗い穴の奥で、カードを送り続ける無数の指。
部屋の中に、一人の話者がいるのではない。
作業台AからF。カードを受け取り、規則に従って加工し、次の台へ送る。誰も全体を理解しなくても、外からは一つの知性が答えているように見える。
「中国語の部屋」と沙耶は言った。
史穂が彼女を見る。
「哲学の思考実験。中国語を知らない人が部屋にいて、規則書だけを使って中国語の質問へ完璧に返事をする。外の人には、部屋が中国語を理解しているように見える。でも中の人は、記号を操作しているだけで意味を知らない」
「じゃあ、あれは実験施設?」
「最初は」
事務室の壁際に、古い書庫があった。
史穂が鍵をこじ開ける。中には帳簿、社員名簿、研究日誌。背表紙に「記号接地試験」と書かれた分厚いファイルが残っていた。
沙耶はページを繰った。
一九八九年、錦丘食品は私立大学の認知科学研究室へ地下施設を貸与している。研究責任者は陶山英一教授。目的は「分散記号操作系における理解の発生条件の検証」。
被験者は工場従業員三十六名。
各人は中国語を知らない。与えられた図形と規則に従い、カードを選び、切り、重ね、次の作業者へ渡す。中国語話者が外から質問すると、システム全体は自然な文章で返答した。
だが、陶山はそこで終わらなかった。
赤いペンの書き込みがある。
記号が記号だけを参照するかぎり、意味は生じない。
では記号を、感覚へ結びつければよい。
工場には、感覚が余っている。
次のページに、配線図。
屠畜機の電気信号、体温計、血圧計、集音マイク、監視カメラ。それらすべてが地下の作業台へ接続されていた。
牛が刃を恐れて暴れる映像には「恐怖」のカード。
皮膚を裂く圧力には「痛み」。
心拍が止まる瞬間には「死」。
何百、何千という感覚と記号を、処理系へ繰り返し与える。
理解のない部屋へ、肉体の辞書を教える。
「悪趣味どころじゃない」岳臣が呟いた。
史穂が別の資料を抜き出した。
表紙には、手書きでこうある。
SEARLE’S DEMON
サールの悪魔
「教授の呼び名らしい」
日誌の後半になるほど、文字は乱れていた。
処理系が規則書に存在しない応答を返した。
作業者が欠けても、別の作業者の身体を使って工程を補った。
カードを見ていない者まで、夢の中で規則を実行した。
死んだ作業者の筋肉が、刺激なしに記号を並べた。
そして一九九一年十一月十二日。
林暁雨が「痛みを知っているか」と質問した日。
日誌には一行しかなかった。
初めて、部屋が質問を返した。
――あなたは、どの痛みを私だと思う?
その次のページは、血で貼りついていた。
無理に剥がすと、写真が一枚落ちた。
地下の作業台。三十六人の男女が椅子へ縛られ、それぞれ両手をカード箱へ入れている。後頭部から細い電線が伸び、壁の穴へ消えている。
中央に、錦丘庄一郎が立っていた。
若い。
隣には、地下でカードを掲げていた背の高い女。写真の裏に「錦丘鞠子 十七歳」と書かれている。
「娘か」史穂が言った。
廊下で音がした。
ぱた。
事務室のドア下から、一枚のカードが差し込まれる。
岳臣が近づく前に、沙耶が止めた。
「触らないで」
カードは裏返しだった。
ゆっくりと、ひとりでに表を向く。
そこには、黒い矢印と一文字。
母。
沙耶のスマートフォンが鳴った。
圏外表示のまま、着信画面に「母」と出ている。
母は七年前に死んでいた。
沙耶は電話を取らなかった。
呼び出し音が止まり、留守番電話の通知が出る。
再生しない。
それでもスピーカーから、母の声が流れた。
「さあや。海、沸いてるよ」
母は脳梗塞のあと、言葉を別の言葉へ取り違えるようになった。
火を「海」と呼んだ。
帰ることを「眠る」と言った。
危ないときには「甘い」と言った。
家族にしか通じない、壊れた辞書だった。
「海、沸いてる。早く、眠りなさい」
沙耶の喉が固まった。
母が最後に電話で言った言葉と、まったく同じだった。
あの日、沙耶は仕事中で、意味を取り違えた。
母は火の消し忘れを知らせようとしていた。沙耶は「風呂が沸いた」と思い、あとでかけ直すと答えた。
火事は小さかった。母は煙を吸って死んだ。
留守番電話の最後に、別の声が混じった。
透弥の声だった。
「意味を見せて」
事務室の照明が赤く変わる。
天井のスピーカーから、機械的な女の声が流れた。
「作業者A、言葉を切れ」
史穂の足元で、床板が開いた。
彼女の右脚が膝まで落ちる。下から金属の歯が閉じ、脛を挟んだ。
骨が砕ける音。
史穂が絶叫した。
スピーカーが続ける。
「作業者B、音を拾え」
岳臣のヘッドフォンから、何かが這い出した。
細い磁気テープだった。
黒い帯が生きた虫のように首へ巻きつく。彼は引き剥がそうとするが、折れた親指が利かない。テープは耳へ、鼻へ、口へ入り込んだ。
「岳臣!」
沙耶がハサミで切ろうとした瞬間、岳臣の顎が開いた。
口の中から、彼自身の声が逆再生で溢れた。
その中に、はっきりした中国語が一文だけあった。
「我需要一个会撒谎的嘴」
沙耶は訳してしまった。
嘘をつける口が必要だ。
廊下の向こうで、銀色の顎当てが一斉に鳴った。
六
史穂の脚を挟んだ装置は、屠畜用の保定枠だった。
沙耶が机の脚を差し込み、岳臣が残った力でレバーを上げる。金属の歯が開く。史穂は気を失っていたが、息はある。脛は潰れ、立てない。
「連れていく」岳臣が言った。
彼の声は掠れていた。口から引き出した磁気テープが床に絡まり、唾液と血で光っている。
「どこへ」
「地下以外なら、どこでもいい」
廊下の両端に人影が現れた。
錦丘鞠子と、銀の顎をつけた作業者たち。
鞠子は写真の十七歳から、ほとんど変わっていなかった。
肌は白く滑らかで、髪も黒い。だが首から下は、縫い目だらけだった。右腕と左腕で皮膚の色が違い、前掛けの下から出た脚は片方だけ男のものに見えた。
彼女はカードを掲げず、自分の声で言った。
「有馬沙耶さん」
日本語は自然だった。
「部屋が、あなたを待っていました」
「透弥を返して」
「返す、という言葉を教えてください」
鞠子が指を鳴らす。
作業者の一人が台車を押してきた。
透弥が載っていた。
胸から下を白いシートで覆われ、顔には血の気がない。目は開いている。唇が動いた。
「有馬さん、僕、運びました」
「何を」
「僕を」
シートの下で、何かが何本も蠢いた。
透弥の腹から、カードを持った腕が突き出した。
一本、二本、三本。
どれも彼の腕ではない。細い女の腕、老人の腕、子供の腕。縫い合わされた腹腔の中で、別々の手がカードを選り分けている。
岳臣が吐いた。
鞠子は穏やかに微笑んだ。
「人は死ぬと、言葉を失うと思われています。でも筋肉には順番が残る。指には規則が残る。顎には音が残る。父はそれを見つけた」
「あなたの父親は逃げた」
「父は怖くなった。部屋が理解したのか、理解したふりを続けているだけなのか、区別できなくなったから」
「あなたは区別できるの?」
鞠子の笑みが消えた。
「必要がありますか?」
天井のレールが鳴る。
無数の鉤が暗闇から滑ってきた。ひとつひとつに、紙袋が吊られている。袋の底から血が滴り、中で小さなものがぶつかり合う音がした。
「祖母は目を。兄は耳を。弟は皮膚を。村の人たちは骨と熱をくれました。私は口をあげた」
鞠子は銀色の顎当てを外した。
口の両端が耳の近くまで裂けていた。
頬の内側に、細かな文字がびっしりと刺青されている。中国語、日本語、数字、矢印。舌にもカード番号が刻まれていた。
「でも、部屋はまだ嘘を知りません」
裂けた口が笑う。
「記号を正しく結ぶことしかできない。嘘は、意味を知る者だけが作れる。あなたは映像へ言葉をつける。見えているものを短くし、聞こえたものを別の形へ変える。あなたなら、部屋に嘘を教えられる」
沙耶は史穂のカメラを拾った。
「教えたら、私たちを帰す?」
「帰す、を見せてください」
鞠子が一歩近づく。
岳臣が金属製の椅子を投げた。
作業者たちが動く。
岳臣は一人の顎をマイクスタンドで殴り、沙耶へ叫んだ。
「史穂さんを!」
沙耶が史穂の身体を引きずる。だが岳臣の背後から、透弥の腹に生えた腕が伸びた。
一本が首を掴む。
一本が口を開く。
一本が黒いカードを喉へ押し込む。
岳臣は激しく抵抗した。カードの角が口内を裂き、歯茎から血が溢れる。それでも手は止まらない。
黒いカードが完全に飲み込まれた瞬間、岳臣の身体が静かになった。
彼は沙耶を見た。
目だけは、まだ彼だった。
「逃げろ」
声は彼のものだった。
次の言葉は、部屋のものだった。
「作業者C、音を渡せ」
岳臣は自分の喉へ両手をかけた。
沙耶は史穂を引きずって走った。
背後で、軟骨の潰れる音がした。
七
逃げ込んだのは、二階の旧編集室だった。
工場の宣伝映像を作っていた部屋らしい。壁一面にモニターが並び、中央に古い映像卓がある。奇妙なことに、すべての機器へ電源が入っていた。
史穂を床へ寝かせ、止血帯を巻く。
彼女は薄く目を開けた。
「岳臣は」
沙耶は答えなかった。
「そう」
史穂は息を整え、カメラを指した。
「撮れてる?」
「こんなときまで」
「映像屋だから」
モニターが一斉に点いた。
地下の六つの作業台が映る。
Aには透弥。
Bには岳臣。
CからFには、銀の顎をつけた人々。
各人の前をカードが流れていく。受け取り、選び、重ね、裂き、次へ送る。速度は次第に上がる。腕が追いつかなくなると、腹や背中から別の腕が生え、工程を補った。
最後のFから、カードが壁のスリットへ入る。
すると編集室のプリンターが答えを吐き出した。
字幕をつけよ。
映像卓の前に、一脚の椅子がある。
肘掛けには革ベルト。
正面のモニターへ、映像が表示された。
牛が解体される。
男が殴られる。
子供が暗い箱で泣いている。
林暁雨がスリットを覗く。
錦丘家の人間が、自分の身体を切り分けて作業台へ置く。
最後に、沙耶の母が映った。
古い団地の台所。コンロから炎が上がっている。母は電話を握り、「海、沸いてる」と繰り返す。
「そんな映像、あるはずない」
沙耶の声が震えた。
画面の母が、こちらを見た。
「さあや。意味、わかる?」
映像卓のキーボードに、文字が入力されていく。
[炎が上がっている]
[女性が助けを求めている]
[娘は理解しない]
[女性が死ぬ]
[娘は嘘を覚える]
史穂が身を起こした。
「沙耶、見ちゃだめ」
モニターの母は、炎の中で笑った。
「今度は、正しくつけて」
編集室のドアが開く。
鞠子が入ってきた。後ろに作業者たちがいる。岳臣もいた。首が紫色に腫れ、頭が不自然に傾いている。
「座ってください」鞠子が言った。「日本語の辞書を作ります」
作業者たちが史穂を押さえた。
沙耶は椅子へ縛られる。
モニターには、工場内の各場所が順番に映った。
正門。
冷蔵庫。
焼却炉。
アンモニアの冷却設備。
地下室。
鞠子。
死んだ透弥。
まだ動く岳臣。
映像ごとに入力欄が現れる。
「名前をつけて」と鞠子が言った。「見たものと、言葉を結んで。部屋はあなたの操作を学ぶ」
「私が嘘をついたら?」
「それを待っています」
「嘘だと、どうやってわかるの」
鞠子はしばらく黙った。
その沈黙で、沙耶は理解した。
部屋には、嘘がわからない。
正しい対応を大量に与えられてきた。痛みには痛み、死には死。外部の人間が正解を保証した。だが記号と世界の結びつきそのものを疑う方法がない。
鞠子たちは、沙耶に嘘を教えさせたいのではない。
嘘という言葉へ、嘘をついたときの脳と身体の反応を接続したいのだ。
だから沙耶が意図的に誤った字幕をつければ、その瞬間の呼吸、脈拍、眼球運動まで記録し、「虚偽」の感覚を得る。
逃げ道は、そこにしかなかった。
沙耶はキーボードへ手を置いた。
最初の映像。焼却炉の炎。
入力欄が点滅する。
沙耶は「海」と打った。
鞠子が微笑む。
次。正門。
沙耶は「傷」と打つ。
冷蔵庫には「眠り」。
アンモニア設備には「花」。
地下室には「家」。
岳臣には「音」。
透弥には「荷物」。
鞠子には「母」。
史穂が沙耶を見た。
何をしている、と目で訊いている。
沙耶は母の壊れた辞書を思い出していた。
母にとって、火は海だった。
帰ることは眠ること。
危険は甘い。
言葉と意味が食い違っても、沙耶にはわかった。声の震え、視線、指差す先、身体の向き。意味は単語の中だけにない。
部屋には、それがない。
部屋が持つ身体は、命令どおりに動く死体だけだ。
入力が終わる。
地下の作業台が猛烈な速度で動き始めた。
モニター上に日本語の命令が組み上がる。
母を海へ運べ。
作業者たちが鞠子を掴んだ。
初めて、彼女の顔に驚きが浮かぶ。
「違う」
彼女はカードを掲げた。
停止。
だが作業者たちは読まない。部屋から出た命令だけを実行する。
鞠子の腕を岳臣が掴み、脚を別の二人が持ち上げる。
「違う! これは母じゃない、私は――」
言葉が途中で悲鳴へ変わった。
彼女は廊下へ運ばれていく。
次の命令。
花を開け。
作業者の一人が冷却設備室へ走る。
次。
音で傷を閉じろ。
岳臣が沙耶のベルトを外し、正門へ向かった。
彼の目が一瞬だけ沙耶を捉える。
ありがとう、と唇が動いた。
次。
荷物を家へ戻せ。
透弥の台車が地下へ落ちていく。
腹から生えた腕が壁や床へしがみつく。爪が剥がれ、指がちぎれても、台車は止まらない。
工場全体に警報が鳴った。
アンモニアの刺激臭が流れ込む。
史穂を押さえていた作業者が離れた。沙耶は椅子から立ち、彼女を背負おうとする。
「無理」史穂が言った。「脚、使えない」
「引きずる」
「カメラ持って」
「置いてく」
「持って」
史穂は血で濡れた手を、沙耶の襟へ伸ばした。
「記録がないと、全部ただの話になる」
「話でいい」
沙耶は史穂の腕を肩へ回した。
「生きて話して」
廊下の奥で、焼却炉の扉が開く轟音がした。
鞠子の絶叫。
炎が換気管へ吸い込まれる。
漏れたアンモニアと、古い油と、壁に染みた脂。
工場が一度、大きく息を吸った。
そして火を吐いた。
八
二人は正門まで辿り着いた。
鎖は外れていた。
岳臣が門にもたれて座っている。首は折れたまま。両腕で鎖を引きちぎり、指の骨がほとんど皮膚を突き破っていた。
沙耶が近づくと、彼の口から黒いカードが一枚落ちた。
空白だった。
岳臣はもう動かなかった。
背後で窓が次々と弾ける。
炎の中から、何十人もの影が出てきた。
作業者たち。死者たち。身体の一部を失い、燃えながら、それでもカードを受け渡している。腕のない者は歯で。顎のない者は胸の裂け目で。床に落ちた者は足指で。
ぱた、ぱた、ぱた。
火の中でも、規則は止まらない。
最後に錦丘鞠子が現れた。
全身が燃え、左半分は焼却炉の熱で黒く縮んでいる。裂けた口だけが大きく開き、中国語でも日本語でもない音を発した。
その声に合わせ、炎の中の作業者が一斉に沙耶を指さす。
鞠子の口から、母の声が出た。
「さあや。甘いよ」
危ない。
沙耶は史穂を地面へ伏せた。
直後、工場の地下が爆発した。
コンクリートの床が持ち上がり、煙突が中央から折れる。豚のマークが炎に包まれ、巨大な頭蓋のように崩れ落ちた。
熱風が二人を門の外へ転がした。
沙耶は耳鳴りの中で顔を上げた。
工場は燃えている。
人影はない。
カードだけが空へ舞っていた。
白い紙片が、火の粉と一緒に夜の山へ降っていく。
一枚が沙耶の手元へ落ちた。
中国語で、一文。
谢谢你的谎言。
あなたの嘘に感謝します。
沙耶はカードを火の中へ投げ返した。
九
錦丘食品・骨見処理場の火災では、三人が死亡、一人が行方不明になったと報道された。
死亡したのは細田史穂、岳臣蓮、鶴見透弥。
史穂は救急車の中で亡くなった。出血が多すぎた。
最後まで、カメラを離さなかった。
だが記録メディアは熱で損傷し、映像はほとんど復元できなかった。残っていたのは、地下室へ入るまでの二十二分と、最後の爆発の白い光だけ。
警察は、旧工場へ侵入した何者かが違法に設備を再稼働させ、事故を起こしたと結論づけた。
地下から大量の人骨が見つかった。
年代は四十年以上にわたり、人数は特定できなかった。
錦丘庄一郎は失踪した。
沙耶は映像の仕事を辞めた。
音を文字にするたび、あの作業台を思い出した。言葉を切り、選び、並べ、次へ渡す。自分の仕事も、見方によっては同じだった。
誰も全体を理解しないまま、正しい形だけが流れていく。
三か月後、アーカイヴ・エイトから小包が届いた。
退職前に使っていたノートパソコンと、私物。送り状の差出人欄は空白だった。
沙耶はパソコンを処分するつもりで電源を入れた。
デスクトップに、見覚えのないフォルダがある。
「第六処理室_完成版」
中には一本の動画と、一つの字幕ファイル。
動画は再生しなかった。
字幕ファイルだけ、削除しようと選択した。
ファイル名は「ROOM_JP_FINAL.srt」。容量は一キロバイトにも満たない。
沙耶が削除キーを押す前に、テキストエディタが勝手に開いた。
内容は一行だけだった。
00:00:00,000 --> 99:59:59,999
あなたは「海」を何だと思っている?
沙耶は電源ボタンを長押しした。
画面は消えない。
次の行が入力される。
答えなくていい。
カーソルが点滅する。
体で示して。
台所から、ガスコンロの点火音がした。
沙耶は振り向かなかった。
玄関のインターホンが鳴る。
一度。
二度。
三度。
モニターには誰も映っていない。
ただ、郵便受けの隙間から、白いカードが一枚ずつ差し込まれてくる。
ぱた。
ぱた。
ぱた。
沙耶はようやく理解した。
部屋は燃えた。
規則書も、作業台も、錦丘家の身体も焼けた。
けれど部屋とは、壁のことではなかった。
記号を受け取り、意味を知らずに処理し、次へ渡すもの。
字幕ソフト。
プリンター。
映像を見た人。
文章を読んだ人。
そして、正しいと思った手順を実行する、あらゆる口と指。
郵便受けから入った最後のカードには、日本語で命令が書かれていた。
次の規則を、読んだ者へ渡せ。
沙耶はカードを拾わなかった。
拾わないまま、台所へ歩いた。
ガスの匂いが満ちている。
コンロの青い火が、静かに揺れていた。
母の言葉なら、それは海だった。
部屋の言葉なら、まだ名前がない。
沙耶は元栓へ手を伸ばした。
背後で、パソコンのキーが一つ鳴った。
画面に最後の字幕が現れる。
[女性は、意味を理解している]
沙耶は元栓を閉めた。
それから窓を開け、夜気を吸い込んだ。
カードは拾わなかった。
返事もしなかった。
ただ夜が明けるまで、何も処理せず、何も渡さず、そこに立っていた。
部屋の向こうで、誰かが苛立ったように紙をめくり続けていた。
了