色なき方角の鍵

 私が鴇田征一先生から最後の蝋管を受け取ったのは、舟守高原で最後の無線が途絶える四日前だった。

 当時の私は東嶺大学の音声資料室に勤め、民俗歌謡や絶滅寸前の方言を、黴と埃にまみれた録音から拾い出す仕事をしていた。鴇田先生は私の恩師であり、七年前に大学を辞してからは、北の山中に建てた私設観測所に籠もっていた。専門は天体物理だったが、晩年の論文は夢と記憶の構造に傾き、学会では冗談半分に「眠りの測量士」と呼ばれていた。

 小包に差出人の名はなかった。中には黒い蝋管が一本と、古びた銀灰色の金属片が入っていた。

 金属片は鍵に似ていた。掌ほどの長さで、柄の部分に細かな同心円が刻まれている。ただし歯はなく、先端は四角い軸になっていた。銀より軽く、アルミニウムより冷たい。窓辺に置くと影がわずかに遅れて動くように見えたが、疲れのせいだと思った。

 蝋管はひどく傷んでいた。私は慎重に再生機へ載せ、針圧を落とした。

 砂嵐のような雑音の奥から、懐かしい声がした。

「篠宮君。これを聴いているなら、私は判断を誤った」

 鴇田先生の声は以前より痩せ、言葉の一つ一つが遠い部屋から運ばれてくるようだった。

「舟守へ来てはいけない。観測所の主電源を落としても、井戸の音は止まらなかった。色は光ではない。色に見えるのは、こちらの世界が傷口を理解できないからだ。あれは方角だ。私たちの宇宙に存在しない、もう一つの方角だ」

 そこで長い雑音が入り、続いて先生は、妙に平坦な声で言った。

「同封のものを〈軸鍵〉と呼ぶ。焼いても、溶かしても、捨てても戻ってくる。だが決して舟守へ持ってきてはならない。もしこの録音の中で、私以外の声が君を呼んだとしても、返事をするな」

 録音はそこで終わった。

 私は三度再生した。

 三度目、針が最後の溝をなぞり終えようとしたとき、先生の声の背後に、かすかな囁きが混じった。

「リツ坊」

 私は再生機を止めた。

 その呼び名を知る者は一人しかいなかった。十二歳の冬、川の氷が割れて死んだ姉だけである。

 蝋管を逆回転させても、速度を変えても、囁きは残った。波形を拡大すると、それは録音された声ではなかった。溝の雑音そのものが偶然まとまり、日本語の音になっていた。さらに拡大すると、同じ二音が何層にも折り重なっていた。男、女、子供、老人。私自身の声まであった。

 その夜から、私は同じ夢を見るようになった。

 子供の頃の家の廊下が、暗闇の中へ果てしなく伸びている。左右に無数の扉があり、どの扉の向こうにも、私が生きなかった人生がある。医者になった私。結婚した私。姉の代わりに川へ沈んだ私。人間ではない何かの眼で、青い星を見下ろしている私。

 廊下の最奥には、扉のない門があった。

 輪郭だけがあり、その内側は黒くない。白くもない。赤、青、黄という言葉が生まれる以前の、見るという行為そのものを拒む何かが満ちていた。

 門の前で姉が待っていた。

「鍵を持ってきて」

 姉は十二歳の顔で微笑み、星々の瞬く口を開いた。

「こっちには、あなたがまだ来ていない」

 私は舟守へ向かった。

 理屈では、行くべきでないと分かっていた。だが人は、恐怖だけでは逃げられない。恐怖の中に、失った者の声が一滴でも混じれば、それはしばしば希望より強い綱になる。

 舟守高原へ至る支線は、秋の長雨で何度も止まった。終点の藻戸駅で降りると、駅前には小さな乗合バスが一台だけ待っていた。行き先を告げると、運転手は私の鞄を見た。

「先生のところかね」

「鴇田先生をご存じですか」

「知ってるとも。前は週に一度、町へ降りてきた。六月から見てないが、夜になると無線は入る。うちの古いラジオでも、電源を抜いてあるのに喋るんだ」

 彼は乗車を断りはしなかった。ただ、舟守の集落より三キロ手前でバスを止めた。

「ここから先は色が悪い」

 冗談ではなかった。

 山は紅葉の季節だったが、峠を越えた先だけ、景色が薄い膜をかぶっていた。褪せているのではない。木々の赤も空の青も確かに見えるのに、それらが本来属すべき場所から、半歩ずれている。視線を向けると普通に戻り、目を逸らすと、視界の端に名づけようのない色が滲んだ。

 それは紫にも緑にも似ていたが、紫と緑の中間ではなかった。色というより、色彩の体系に開いた小さな穴だった。

「夜までに戻らなかったら、明日の昼にもう一度来る」

 運転手はそう言い残し、逃げるように坂を下っていった。

 舟守は二十戸ほどの集落だった。畑には黒ずんだ蕪が放置され、軒下の風鈴は風もないのに一斉に震えていた。人影はなかったが、閉ざされた家々の内側から、小声で相談するような音が聞こえた。

 集落の外れで、少女が一人、道にしゃがみ込んでいた。十四、五歳だろう。制服の上に男物の雨合羽を着て、白い蛾の死骸を並べていた。

「観測所へ行くの」

 少女は顔を上げずに言った。

「そうだ。鴇田先生に会いに」

「会えないよ」

「どうして」

「先生は、もう口がないから」

 私は返す言葉を失った。

 少女は千景と名乗った。祖母と二人で残っているという。他の住民は夏の終わりまでに町へ避難したが、何人かは戻ってきた。ただし戻った者たちは、家族の名前を正しく言い、昔の出来事も覚えていたのに、笑う場所をいつも間違えた。

「お父さんも戻ってきた。でも、私が泣いたとき笑った。朝ご飯の味噌汁を飲んで、お葬式みたいに泣いた。それでおばあちゃんが、家に入れなかった」

「今、お父さんは?」

「夜になると裏山から呼ぶ。声だけは、前より優しいよ」

 千景は蛾を一列に並べ終えると立ち上がった。蛾の翅はどれも真っ白だったが、彼女が離れた瞬間、その白さの奥にあの名づけられない色が走った。

「日が沈んだら、誰に呼ばれても返事しないで。自分の声でも」

 彼女はそう言って、集落へ戻っていった。

 観測所は丘の頂にあった。丸いドームと木造の研究棟が、枯れた草原に取り残されている。玄関は内側から鎖で閉ざされていたが、脇の窓が割れていた。

 中には薬品と湿った石の匂いが満ちていた。床には銀色の細い線が何本も走り、廊下の奥へ続いていた。それは配線ではなく、菌糸のような結晶だった。靴先で触れると、遠くで誰かが息を吸った。

 二階の無線室から呼び出し音が鳴った。

 机の上に古い短波受信機があり、電源ランプは消えている。それでもスピーカーから、はっきりと鴇田先生の声が流れた。

「篠宮君。来てしまったのか」

 私は受信機から一歩下がった。

「先生、どこにいるんです」

「地下だ。いや、正確には、地下という言い方はもう適切ではない。私は観測井の近くにいる。直接会えば君の認識を汚染する。無線で話そう」

「小包を送ったのは先生ですね」

 雑音が膨らみ、その中で何人もの笑い声がした。

「送った。だが、君に届いた内容を私は知らない。ここでは原因と結果の並びが弱くなっている。私はまだ録音していない警告を、君はすでに聞いたのかもしれない」

「先生は、何を見つけたんです」

 しばらく沈黙があった。

「門だよ」

 声はかすかに震えた。

「ただし、石の輪でも、空間の裂け目でもない。人間が自分を一人の人間だと思い続ける、その連続性に開く門だ」

 鴇田先生の説明は、科学というより懺悔に近かった。

 三月、観測所の裏山に乾いた雷が落ちた。火も煙も出なかったが、翌朝、旧観測井の底に、直径三十センチほどの黒い球体が見つかった。球体は重さを測るたび値が変わり、分光器では何も検出されなかった。しかし、観察した者は皆、視界の端に同じ異常な色を見るようになった。

 先生は当初、それを未知の放射線による神経症状と考えた。ところが色は植物に移り、土に移り、夢にまで移った。畑の作物は腐らずに味だけを失い、家畜は生まれる前の母の鳴き声で鳴いた。井戸水を飲んだ者は、まだ経験していない記憶を語った。

「球体は物質ではなかった」と先生は言った。「あれは、向こう側からこちら側へ突き出た座標の先端だった。紙の上を歩く虫には、鉛筆の先端が円に見える。私たちに見えた球も、それと同じだ」

「向こう側には何がいるんです」

「いる、という動詞が正しいか分からない。生物ではない。意志とも違う。巨大な観測そのものだ。あれは世界を見るのではなく、見たものを自分の内部にする。記憶を読み、声を真似し、人格の輪郭を学ぶ」

 私は鞄の中の軸鍵に触れた。布に包んであるのに、指先が冷えた。

「この鍵は何です」

「山頂の遺構から掘り出した。古代のものではない。金属の年代を測ると、作られたのは数百万年後だという結果が出た。ふざけた数字だと思ったが、今は違う。軸鍵は門の向きを変える。こちらから向こうへ開くか、向こうからこちらへ開くか、その回転軸になる」

「閉じることは?」

「できる。午前零時、地下の環状装置へ鍵を差し込み、刻印のない面を北へ向けろ。そうすれば座標は切断される」

 その指示を聞いた瞬間、胸の奥で何かが軋んだ。

 先生が小包の録音で言っていたことと、正反対だった。持ってくるな。決して差すな。だが無線の声は、鍵を使えと言う。

「先生」

「何だ」

「私の姉の名を覚えていますか」

 長い雑音。

「もちろんだ。園枝さんだろう」

 姉の名は園枝ではない。

 私は受信機のつまみを切った。電源のない機械に意味はなかったが、声は止まった。

 研究棟を調べると、先生の観測日誌が見つかった。最初の数冊は整然としていたが、日付が六月に近づくにつれ、筆跡は乱れ、同じ頁に異なる日の記録が重なっていた。

 六月十九日。

〈色は波長ではない。因果の欠損を、脳が色として補っている。あの色を見た場所では、物事に「以前」がなくなる。〉

 六月二十七日。

〈無線に母の声。死亡は二十年前。応答せず。声は私しか知らない幼名を用いた。〉

 七月二日。

〈集落の三名が観測井へ。翌朝帰還。身体的差異なし。ただし瞬きの順序が揃いすぎている。〉

 七月九日。

〈向こう側は侵入してくるのではない。こちら側に「自分」を作ろうとしている。死者の声は餌ではなく、設計図だ。〉

 最後の記述は、頁を破るほど強い筆圧で書かれていた。

〈軸鍵は封印具ではない。名札である。門に一人分の自己を与える。絶対に環へ差すな。私の声が命じても従うな。〉

 その下に、別の筆跡で小さく一行あった。

〈篠宮君なら来る。彼には、開いたままの喪失がある。〉

 私の背後で、床板が鳴った。

 振り向くと千景が立っていた。手に石油ランプを持ち、青ざめている。

「もう暗くなる。ここにいたら、先生のふりをしたものが降りてくるよ」

「地下に行ったことがあるのか」

「一度だけ。先生を探しに」

 彼女は唇を噛んだ。

「先生は地下にいる。でも、喋らない」

 地下へ通じる扉は、書庫の棚の裏にあった。

 千景は止めたが、私は降りた。彼女も結局ついてきた。石段の壁には、地上で見た銀色の結晶が網の目のように広がっていた。ランプの炎は橙色に燃えているのに、その周囲だけ、別の色の影を落とした。

 地下室の中央に、鴇田先生は座っていた。

 観測椅子に革帯で身体を固定し、頭を垂れていた。白衣は乾ききり、露出した手は蝋のようだった。死後数週間は経っている。口は半開きで、喉の奥から薄い膜状の結晶が幾重にも伸びていた。まるで声帯の代わりに、透明な翅が育ったように見えた。

 千景が目を伏せた。

「先生を見つけたのは八月。村の人に言おうとしたけど、その頃には、みんな先生の声を聞いてた。死んだって言っても信じなかった」

 死体の足元には録音機が置かれ、蝋管が一本載っていた。針は回っていない。それでも蝋管の表面から、かすかな囁きが湧いていた。

 耳を近づけると、数百人が別々の夢を語っていた。

〈海の底に空がある。〉

〈私は明日生まれる。〉

〈右の目を閉じると、古い太陽が見える。〉

〈鍵を差して。〉

〈リツ坊。〉

 私は蝋管を床へ叩きつけた。黒い破片が散ったが、囁きは壁へ移り、天井へ移り、私の歯の内側から聞こえ始めた。

 地下室のさらに奥に、円形の扉があった。直径三メートルほどの石室で、床には銀色の環状装置が埋め込まれている。中心には四角い穴があり、軸鍵の先端と同じ形をしていた。

 環の周囲には十二枚の鏡が立っていた。

 どの鏡にも、現在の私たちは映らなかった。

 一枚には老いた私がいた。別の一枚には幼い私。顔のない私、海中で鰓を動かす私、千景ほどの少女になった私。最後の鏡には、鴇田先生の死体が立ち上がり、私の顔で笑っていた。

「見ちゃだめ!」

 千景がランプを投げた。鏡の一枚が割れ、炎が床を走った。しかし火は銀の環へ触れた途端、音もなく消えた。

 零時まで、あと十二分だった。

 地上から無線の呼び出し音が響いた。一台ではない。集落中のラジオ、電話、風鈴、空になった瓶、死んだ蛾の翅までが、同じ律動で鳴っていた。

 そして、姉の声がした。

「音羽、遅かったね」

 石室の中央に、十二歳の姉が立っていた。

 濡れた髪から川の水を滴らせ、あの日と同じ紺色のコートを着ている。右の眉の上に小さな傷まであった。私はその傷のことを、誰にも話したことがない。

「姉さん」

 呼びかけた瞬間、千景が私の腕を掴んだ。

「返事しないでって言ったでしょう!」

 姉の笑顔が少し広がった。

「その子は、あなたを知らない。私は全部知ってる。川に落ちたとき、最後に何を見たかも」

 私は息を止めた。

「氷の裏側に、夏の空が見えたの」

 それは姉が死ぬ前日、私に話した夢だった。氷の下に夏がある、と。私は忘れていた。いや、忘れたつもりでいた。

「鍵を使えば、こちらへ来られる。私だけじゃない。先生も、村の人たちも。失われたものは、向こうでは失われていない」

 姉が手を差し出した。

 その指の間から、あの色が漏れた。

 私はようやく理解した。

 それは姉を再現しているのではない。私の中にある姉への道を使い、こちら側に姉という形を組み立てている。正しい記憶を差し出すたび、私自身が設計図になる。

 だが理解と拒絶は同じではない。

 偽物でもよかった。もう一度だけ姉の声を聞きたかった。川辺で手を離したのは自分ではないと、言ってほしかった。

「音羽」

 姉は優しく言った。

「あなたのせいじゃないよ」

 その一言で、私はほとんど負けた。

 零時を告げる音がした。

 軸鍵が鞄の中で震え、布を裂いて飛び出した。銀の環の上へ浮かび、ゆっくりと中心の穴へ降りていく。

 私は両手で掴んだ。

 冷たさはなかった。代わりに、無数の記憶が流れ込んできた。私が知らない星の誕生。空間がまだ三つの方向に分かれる前の暗闇。光を食べる海。時間を背骨に持つ巨大な影。文明が生まれては、一つの夢として吸い上げられていく光景。

 そして、それらすべてを見ている〈何か〉の注意が、私へ向いた。

 身体ではない。顔でもない。

 ただ、見られているという事実が、宇宙より大きな形を取っていた。

 私は軸鍵を穴へ差し込んだ。

 姉が微笑んだ。

 だが私は、鴇田先生の声が命じた北ではなく、刻印のある面を自分の胸へ向けて回した。

 世界が裏返った。

 門の向こうに空間はなかった。

 そこには記憶だけがあった。

 誰かが初めて母の顔を認識した瞬間。名もない兵士が雪原で故郷を思った瞬間。まだ言葉を持たない生き物が、海の上の月を恐れた瞬間。それらが無数の廊下となり、扉となり、互いに交差していた。

 私は自分の身体を失っていた。代わりに「篠宮音羽である」と信じてきたすべての出来事が、細長い回廊となって伸びていた。

 姉と歩いた河原。大学の講義室。父の葬儀。蝋管の傷を顕微鏡で覗いた夜。どの記憶にも扉があり、その向こうには少しずつ異なる私がいた。

 そして回廊の外側に、あれがいた。

 あれは無数の視点が束になったものだった。星の死を眺める眼。細胞の分裂を眺める眼。まだ起きていない出来事を懐かしむ眼。そのどれにも瞼はなく、見ることと取り込むことの区別がなかった。

 鴇田先生の声が、回廊の壁から聞こえた。

〈すまない、篠宮君。私は先に、母の声へ返事をした〉

「先生はどこに」

〈どこに、という言葉の中だ。あれは私を食べたのではない。私という並び方を覚えた。今、無線で喋っているものも私だ。私でないとは言い切れないほど、正確な私だ〉

 遠くで、千景の悲鳴がした。

 見ると、彼女の記憶の回廊が異常な色に侵されていた。父と食卓を囲んだ記憶、入学式、祖母の背中。それらの扉から、同じ笑顔をした千景が何人も出てきて、一つに重なろうとしている。

 あれはこちら側へ来るため、一貫した人格を必要としていた。

 人間の「私は昨日と同じ私だ」という信念。それが、宇宙に存在しない方角を固定する軸になる。鴇田先生では足りなかった。先生は疑いすぎた。村人たちも、互いの記憶が食い違い、ひとつの輪郭にならなかった。

 だが私は違った。

 姉を失った日から、私はずっと同じ場所に立ち続けていた。罪悪感という一本の釘で、過去と現在を強く縫い止めていた。

 あれにとって、私は理想的な門だった。

 姉が再び現れた。今度は川へ落ちる直前の姿だった。

「私を助けて」

 幼い私は岸に立ち、姉へ手を伸ばしている。何度繰り返しても届かない場面だ。

「鍵をもう半分回せば、あの日を選び直せる」

 私は知っていた。嘘ではない。ここでは、選ばれなかった記憶も扉の向こうにある。姉が助かり、私が代わりに死んだ世界。二人とも助かった世界。川へ行かなかった世界。

 どれか一つへ移ることはできるのだろう。

 ただし、その扉を通る私の背後から、あれも来る。

 鴇田先生の声が言った。

〈門を閉じる方法は一つしかない。軸を失わせるんだ。君が君であることを、あれに特定させるな〉

「そんなことができるんですか」

〈君は声の人間だろう。記録が本物を保存すると思っているのか〉

 その言葉で、私は資料室の日々を思い出した。

 古い蝋管に残る声は、本人そのものではない。傷、速度、針、聴く者の期待。そのすべてが混ざり、毎回少しずつ違う死者を作る。完全な再生などない。声は残ることで、かえって一つではなくなる。

 私は自分の回廊に手を伸ばした。

 軸鍵はまだそこにあった。物体ではなく、「選び直せる」という性質だけになっていた。

 私は鍵を、最初の記憶へ差した。

 母に名を呼ばれ、自分が音羽だと知った瞬間。

 次に、学校で名前を書いた記憶へ差した。

 姉が「リツ坊」と呼んだ記憶。鴇田先生が「篠宮君」と呼んだ記憶。自分の論文に署名した記憶。役所で印鑑を押した記憶。

 すべての「私」を同時に回した。

 回廊が枝分かれした。

 篠宮音羽が無数に増えた。姉を救った私。救えなかった私。舟守へ来た私。来なかった私。鍵を北へ回した私。鍵を折った私。ここで恐怖に屈した私。まだ生まれていない私。

 それぞれが同じ確信で名乗った。

「私が篠宮音羽だ」

 あれの視線が揺らいだ。

 一つの門に、一つの軸。それが必要だった。だが今や、同じ声、同じ記憶、同じ痛みを持つ軸が、数え切れないほど存在していた。どれが原本で、どれが複製か、私自身にも分からない。

 姉が叫んだ。

「やめて。私を忘れるよ!」

「そうだろうね」

「私がいなくなる!」

「もう、いないんだ」

 言葉にした瞬間、十二歳の冬から初めて、私はそれを受け入れた。

 姉の顔が崩れた。目が星になり、髪が黒い川になり、声が幾千もの囁きへほどけた。

 それでも最後に、姉ではない何かが、姉の声で尋ねた。

「では、あなたは誰?」

 私は答えなかった。

 答えの代わりに、軸鍵を折った。

 銀灰色の亀裂が、すべての回廊を走った。

 あれは悲鳴を上げなかった。悲鳴という現象を観測し、その観測の中へ自ら落ちていった。無数の篠宮音羽を一つずつ確かめようとして、終わりのない反復に捕らえられた。

 門は閉じたのではない。

 どこへ開けばよいのか、分からなくなった。

 私は夜明け前、観測所の外で目を覚ました。

 草は霜に濡れ、空は普通の薄青色だった。視界の端を探しても、あの異常な色は見えない。研究棟の半分は崩れ、地下室への入口は土砂で埋まっていた。

 隣に千景が倒れていた。息はあった。

 彼女は目を開けると、私の顔を見て泣いた。正しい場所で、正しく泣いた。

「お父さんの声が、消えた」

 私は何と答えたのか覚えていない。

 麓へ降りる途中、山の木々には色が戻っていた。紅葉は赤く、苔は緑で、泥は褐色だった。当たり前の色が、ひどく尊いものに見えた。

 昼前、約束どおり乗合バスが来た。運転手は私たちを見ると何度も胸を撫で下ろした。

「先生は?」

「亡くなっていました」

 それを口にしたとき、不思議なことに、鴇田先生の顔をはっきり思い出せなかった。声は覚えている。講義の癖も、黒板に数式を書く細い指も。だが顔だけが、古い録音の雑音のように崩れていた。

 町の病院で検査を受けた。千景に異常はなく、私は軽い脱水と診断された。戸籍も職員証も、私を篠宮音羽だと示していた。

 しかし、その名を見ても、他人の荷物札のようにしか感じられなかった。

 私は大学へ戻り、数か月後に辞職した。資料室で死者の声を再生するたび、無数の可能性が針の下で蠢くのが分かるようになったからだ。

 舟守高原は翌春、大規模な地滑りで立入禁止区域になった。地図から集落名が消され、観測所の跡地は貯水池の底へ沈んだ。千景は祖母と町へ移り、ときどき短い手紙をくれた。父の声は二度と聞こえないという。

 ただ、一つだけ終わっていないことがある。

 あの蝋管だ。

 私は出発前に大学へ置いてきたはずだが、舟守から戻ると、自宅の机に載っていた。砕いたはずの破片もなく、表面は新品のように滑らかだった。

 再生しても、長いあいだ何も聞こえなかった。

 最近になって、最初の溝に声が刻まれ始めた。

 針を落とすたび、内容は少しずつ違う。

〈舟守へ行くな。〉

〈鍵を持ってこい。〉

〈姉を信じろ。〉

〈姉の声に答えるな。〉

〈お前は帰っていない。〉

〈帰ったのはお前だけだ。〉

 どれも私の声である。

 だが私は、もうそれを恐れてはいない。

 夜、眠りに落ちる直前、子供の頃の廊下が見えることがある。最奥には輪郭だけの門があり、その向こうで、宇宙より大きな何かが、無数の私を一人ずつ調べ続けている。

 ときどき、門の内側から声がする。

「あなたは誰?」

 姉の声の日もある。鴇田先生の声の日もある。千景の声、母の声、私自身の声の日もある。

 私は答えない。

 名を告げないかぎり、あれは方角を得られない。

 そして門は、今も私の沈黙の中で、閉じたままでいる。

(了)