色彩は名前を持たない

一 白 03:17

雪は、音を殺すために降るのだと、男は思った。

目を開けたとき、車は杉林の斜面に鼻先を突っ込み、運転席の窓には白い亀裂が走っていた。エンジンは止まっている。ラジオだけが生きていて、聞き取れないほど小さなワルツを流していた。

男は自分の名を知っていた。

岬里亮一。四十五歳。神経科学者。妻は美弥。右の奥歯に治療途中の穴があり、シナモンの匂いが嫌いで、嘘をつくとき左の耳朶を触る。

だが、ここへ来た理由だけがなかった。

腕時計は午前三時十七分を示していた。助手席には誰もいない。代わりに赤い革手袋が片方落ちていた。拾い上げると、指先に乾きかけた血がついている。

自分の左手にも、同じ血がこびりついていた。

「美弥」

声にすると、名前は車内でひどく他人行儀に響いた。

コートの内ポケットから携帯電話が見つかった。暗証番号は考える前に指が入力した。待ち受けは、湖畔で笑う美弥の写真だった。撮った日の風向きまで思い出せる。北からの風。彼女の髪が口紅に貼りつき、彼が指で取ってやった。

未再生の動画が一件あった。撮影時刻は二時五十一分。画面に映ったのは自分だった。顔色が悪く、右のこめかみに血がにじんでいる。

『よく聞け。これを見ているおまえは、たぶんまた岬里亮一だと思っている』

男は息を止めた。

画面の自分は、何度も背後を振り返っていた。

『五つ鐘が鳴るたびに、直前の記憶が抜ける。ホテル・ティニスへ行け。十九号室を探せ。赤い服の女を信じるな。たとえ彼女がおまえの名前を知っていても』

映像の自分は少し迷い、それから付け加えた。

『美弥を見ても、妻だと思うな』

そこで動画は終わった。

男は笑おうとした。乾いた息が漏れただけだった。

フロントガラスの向こう、雪の木立の奥に、建物の灯が見えた。

崖にへばりつくように建つ古いホテルだった。中央の塔だけが、赤、青、緑のステンドグラスで内側から照らされている。吹雪の中で、その色は火事のようにも、深海魚の腹のようにも見えた。

ホテル・ティニス。

男は車を降りた。

雪面には、車からホテルへ向かう足跡が一人分だけ、すでについていた。

自分は今、初めて車を降りたはずだった。

【欠落記録 02:51】

カメラの前で、男は三度、自分の名を言い直した。

「皆川透。俺は皆川透だ」

四度目には、その名が誰のものだったか分からなくなった。

だから彼は録画ボタンを押し、未来の自分に嘘をつかないための嘘を残した。

二 赤 03:34

ホテルの回転扉は、触れていないのにゆっくり回った。

ロビーには客がいなかった。黒い大理石の床に、天井から落ちる色だけが揺れている。赤い光は絨毯を血の川にし、青い光は柱を氷に変え、緑の光は古い肖像画の目を病人のように濁らせていた。

正面のカウンターに、痩せた男が立っていた。名札には「綾小路」とある。

「岬里亮一です」

そう告げた瞬間、綾小路の顔から血の気が引いた。

「先生は、もうお着きです」

「何を言っている」

「二時間前に。奥様とご一緒に」

綾小路は男の肩越しを見た。

ロビーの奥で扉が開き、ワルツが少し大きくなった。

舞踏室だった。

古いシャンデリアの下に十数人の男女がいる。誰も踊ってはいない。ただ、同じ方向を向いて立っていた。全員が黒い服で、中央にいる女だけが白い。

美弥だった。

記憶の中より髪が短い。左の眉の端に、小さな傷がある。その傷を彼は知っていた。結婚前、割れたワイングラスで切った。傷が残ると泣く彼女に、残ったら毎朝そこへキスをすると約束した。

「美弥」

彼女が振り向いた。

その目に浮かんだのは安堵ではなかった。恐怖だった。

「近づかないで」

男の足が止まる。

彼女の隣に、もう一人の男が立っていた。

自分と同じ顔をしていた。

完全に同じではない。鏡に映した像を、数年だけ先に老いさせたような顔だった。鼻筋の曲がり、唇の右端の癖、右眉の上の薄い傷。違うのは目だけだった。もう一人の男の目には、他人の恐怖を何度も見た者の疲れがあった。

「美弥から離れろ」

もう一人の男が言った。

声まで同じだった。

男は笑った。今度は音になった。

「ふざけるな。俺は岬里亮一だ」

「違う」

「美弥はシナモンが嫌いだ。寝るときは右足から毛布を蹴る。雨の日に耳鳴りがする。初めて会った店では、彼女は赤い傘を忘れた」

美弥の唇が震えた。

「やめて」

「北窓の雀」

それは二人だけの言葉だった。喧嘩の終わりに彼女が言う合図。意味などない。昔住んでいた部屋の北窓に、毎朝一羽だけ雀が来たからだ。

美弥は左の耳朶に触れた。

嘘をつくときの癖。

男は勝ったと思った。

だが彼女は、耳朶を押さえたまま言った。

「その部屋に、北窓はなかった」

舞踏室のワルツが止んだ。

天井のどこかで、鐘が鳴った。

一つ。

綾小路がカウンターの陰へ身を沈める。

二つ。

黒服の男たちが一斉にこちらを向く。

三つ。

もう一人の岬里亮一が、美弥を背後へかばう。

四つ。

男は携帯電話を握りしめる。動画の声が頭の中で叫ぶ。

五つ。

世界から色が抜けた。

三 青 03:58

男は青い廊下で目を覚ました。

膝をついていた。右手には細身のナイフがあり、刃に血がついている。目の前の壁に黒服の男が倒れていた。胸は上下している。生きている。

「置いて」

女の声がした。

廊下の先に、赤いドレスの女が立っていた。

青い光の中で、彼女の服だけが本来の色を保っているように見えた。長い黒髪。白い手袋。年齢は三十にも五十にも見える。

男はナイフを離さなかった。

「あなたは誰だ」

「環」

「名字は」

「今夜は必要ないわ」

彼女は床の男をまたいで近づいた。

「岬里先生、時間がありません」

その呼び方に、男の胸がわずかに緩んだ。携帯電話の警告を思い出し、すぐに身構える。

「赤い女を信じるな、と自分で言っていた」

環は微笑んだ。

「記憶を壊された人間は、自分を壊した相手を味方だと思い込むことがある。あなたの動画を撮ったのが、あなた自身だと誰が証明したの?」

「顔が映っていた」

「このホテルに同じ顔が二つあるのに?」

答えられなかった。

環は白い手袋を外し、男の右耳の後ろに触れた。薄い痛みが走る。

「縫合痕。三週間前、彼らはあなたの顔を作り直した。記憶まで削って、別の男として捨てるつもりだった。でも手術は完全ではなかった。あなたは戻ってきた」

「では、あれは誰だ」

「代用品」

環は簡単に言った。

「あなたの研究所で作られた、最初の成功例」

廊下の壁には青いガラスの魚が埋め込まれていた。光を受けて、泳いでいるように見える。

「十九号室へ」

環が言う。

「そこに、あなたが誰かを証明するものがある」

「なぜ知っている」

「あなたに頼まれたから」

「いつ」

「あなたがまだ、あなたを覚えていたとき」

彼女は背を向けた。

男は赤い背中を追った。

追わないという選択肢があったことを、十歩進んでから思い出した。

十九号室は廊下の突き当たりにあった。鍵穴はなく、扉の中央に手のひらほどの鏡がはめ込まれている。

男が近づくと、鏡の奥で赤い文字が灯った。

SUBJECT M

環が言った。

「触れて」

男が鏡に手を当てると、扉が開いた。

部屋の中にはベッドも窓もなかった。

四方の壁を、写真が埋め尽くしていた。

岬里亮一の顔。

笑う顔。怒る顔。泣く顔。眠る顔。傷だらけの顔。髪を剃られた顔。顔に白い線を引かれた手術前の顔。

そして、写真の半分には別の男が写っていた。

三十代後半。頬が痩せ、目つきが鋭い。短く刈った髪。首の左側に火傷の痕。

その下に名前があった。

皆川透。

壁際のモニターが勝手に点いた。

椅子に縛られた男が映っている。岬里亮一だった。顔は腫れ、片目が塞がっている。画面の外から質問が飛ぶ。

『奥様が嘘をつくときの癖は?』

『左の耳を……触る』

『二人だけの合図は?』

『北窓の雀』

『本当に北窓があった?』

岬里亮一はしばらく黙った。

『なかった。美弥が作った。窓は西向きだった』

モニターの前で、男の記憶が音を立てて割れた。

北向きの窓。朝の雀。美弥の横顔。

だが思い出の窓から差す光は、朝日ではなく夕日だった。

映像は切り替わった。

今度は別の男――皆川透が椅子に座っている。無表情で、同じ質問に答えていた。

『左の耳を触る』

『北窓の雀』

一字一句、同じ声の調子で。

さらに映像が進む。

皆川の頭には電極がつけられている。顔に手術用の線が引かれている。白衣の女が彼の耳元で囁く。

『あなたの名前は?』

『岬里亮一』

白衣の女が振り向いた。

環だった。

男は背後を振り返る。

赤いドレスの女は、もう部屋にいなかった。

【欠落記録 02:13】

「北窓なんかなかった」

美弥は録音機に向かって言った。

頬に殴られた痕があった。それでも声は震えていなかった。

「あなたたちが覚えさせたいなら、好きにすればいい。でも、偽物はいつか光の向きを間違える」

ガラスの向こうで、皆川透はその言葉を聞いていた。

彼はそのとき初めて、奪うのは顔でも名前でもなく、他人が世界を見た方向なのだと知った。

四 緑 04:16

十九号室を出ると、廊下は緑に変わっていた。

天井のガラスに葉脈のような亀裂が走り、壁紙の百合は腐った肉の色をしている。ワルツは低く、床下から響いていた。

男は携帯電話を開いた。

動画をもう一度再生する。

『赤い服の女を信じるな』

自分の顔がそう言う。

だが、その顔が岬里亮一のものか、皆川透のものか、もう分からない。

画面を止めると、動画の背景に一瞬だけ数字が映っていた。鏡文字で「B1・POOL」。

地下のプール。

エレベーターは動かなかった。非常階段を下りる。途中、踊り場の鏡に自分が映った。

顔は岬里亮一だった。

少なくとも写真の岬里に似ている。だが右耳の輪郭がわずかに違う。首の左側、襟の下に皮膚移植の薄い境目がある。

男は襟を引き下げた。

火傷の痕を消した跡だった。

皆川透の写真にあった場所。

喉の奥がひくついた。

「俺は、皆川なのか」

鏡の男は答えなかった。

地下プールの扉を開けると、緑の光が溢れた。

水は抜かれていた。深い空の浴槽の底に、綾小路が横たわっている。白いシャツが緑に染まり、胸元には赤い筋が一本だけ走っていた。

男は階段を駆け下りた。

綾小路は生きていた。呼吸は浅い。首の横に切り傷がある。

「誰がやった」

綾小路の目が開く。男を見るなり、逃げようとして背中を打った。

「俺じゃない」

そう言いながら、自信がなかった。

綾小路は震える指で、プールサイドの監視モニターを示した。

映像には数分前のプールが映っていた。

赤い非常灯の下、男が綾小路を引きずってくる。今ここにいる男自身だ。動きには迷いがない。綾小路を底へ落とし、ナイフを喉に当てる。

画面の外から環の声がした。

『赤は前進』

映像の男が答える。

『青は回想』

『緑は?』

『消去』

次の瞬間、映像が乱れた。

男の手から携帯電話が落ちた。

綾小路がかすれた声を絞り出す。

「鐘だけじゃない……色も、合図です。ここはホテルじゃない。巨大な……記憶装置だ」

「誰のための」

「あなたのためです、皆川さん」

その名を聞いた途端、頭の奥で扉が開いた。

赤い部屋。

拳銃を分解する自分の手。

拘束された岬里亮一。

泣きながら質問に答える美弥。

環の声。

――名前は制服よ。必要なら着替えればいい。

男はプールの底で吐いた。

綾小路が彼の袖をつかむ。

「五時に、アイリスが消去されます」

「アイリス?」

「岬里先生が隠した記録です。環たちはあなたに開けさせる。岬里先生の記憶を、本物だと思わせて」

「偽物の記憶で、どうやって」

「鍵は言葉じゃない。本人だと信じたときの脳の反応です。だから今夜を作った。妻。偽物。追跡。恐怖。あなたが岬里亮一として怒り、愛し、絶望するほど、鍵に近づく」

綾小路の指が緩んだ。

「本物の岬里は?」

「舞踏室にいた人です」

分かっていたはずなのに、その答えは胸をえぐった。

「美弥は」

「岬里先生の妻です」

綾小路は途切れそうな息を継いだ。

「私が二人を館内へ入れました。研究所から逃れた二人は、アイリスを持ち出すため戻った。環はそれを知って、あなたを処分役にした」

「俺の妻ではない」

綾小路は目を閉じた。

「記憶の中では、そうでしょう」

頭上でワルツが止まった。

鐘が一つ鳴る。

男は監視モニターへ駆け寄り、壁からケーブルを引き抜いた。

二つ。

スピーカーをナイフの柄で叩き割る。

三つ。

音は天井ではなく、自分の内側から鳴っているようだった。

四つ。

彼は携帯電話のメモを開き、震える指で打つ。

「俺は皆川透。赤は命令。美弥は妻ではない」

五つ。

緑の光が暗転した。

五 紫 04:31

目を開けると、男は空のプールにいた。

知らない男が倒れている。

携帯電話の画面には、自分で書いたらしい文章があった。

俺は皆川透。赤は命令。美弥は妻ではない。

何度読んでも、意味が感情に届かなかった。

「皆川さん」

プールサイドに美弥が立っていた。

白いドレスの裾が濡れている。手には小型の拳銃があった。

男は反射的に腰を落とした。奪う手順が、頭より先に筋肉へ浮かぶ。

美弥は銃口を下げなかった。

「その構えを、亮一は知らない」

男はゆっくり立った。

「俺はあなたを愛している」

「それは、私が拷問されながら話した愛よ」

「湖畔で髪が口紅に貼りついた」

「録音した」

「結婚式の夜、停電した。あなたはキャンドルを――」

「それも話した」

「あなたの寝言は――」

「やめて!」

銃口が震えた。

「私の人生を、あなたの口で再生しないで」

その一言で、男の中の美弥が二人に裂けた。

記憶の中で笑う妻。

目の前で彼を憎む他人。

どちらも本物に見えた。

「なぜ俺を殺さない」

美弥は答えなかった。

彼女の背後から、もう一人の男が現れた。岬里亮一。同じ顔。だが近くで見ると違いが分かる。左手の小指がわずかに曲がっている。

男はその指を知っていた。

八歳の冬、凍った池で転んで折った。母には階段から落ちたと嘘をついた。

だが自分の左小指はまっすぐだった。

「皆川透」

岬里が言った。

「あなたは私を十九日間拘束した。妻から記憶を聞き出し、私の生活を写し取った。そして環の実験に志願した」

「志願?」

「報酬のためだと言っていた。顔も名前も捨てられる、と」

男の頭に、短い映像が刺さった。

手術台へ横たわる自分。まだ皆川の顔をしている。

環が尋ねる。

――怖くないの?

自分は笑う。

――名前なんて、仕事のときに着る上着だ。

「嘘だ」

「そう思わせるのが成功条件だった」

岬里は一歩近づいた。

「ただし、計画は途中で変わった。あなたが変えた」

「俺が?」

「移植された記憶の中で、私の恐怖や、美弥への気持ちを追体験した。あなたは環を裏切ろうとした。アイリスの消去手順に細工をしたらしい」

美弥が低く言った。

「それを信じろというの?」

「信じなくていい」

岬里の声には、怒りがあった。それ以上に疲労があった。

「私も彼を許していない。ただ、五時までにアイリスを外へ送らなければ、環の実験はなかったことになる。協力が必要だ」

「なぜ俺が鍵になる」

「環が私から奪えなかった最後の記憶を、あなたに埋め込んだからだ」

「何の記憶だ」

岬里は答えようとした。

そのとき、天井の照明が赤に変わった。

女の声が館内放送から流れる。

『赤は前進』

男の体から躊躇が消えた。

視界の中心に岬里の喉が入る。距離三・二メートル。美弥の銃口は下がっている。二歩で懐へ入り、手首を折り、銃を奪い、岬里を撃てる。

世界が手順になった。

美弥が叫ぶ。

「皆川透!」

その名は止めなかった。

「北窓なんてなかった!」

一瞬、夕日が差した。

記憶の中の窓。朝だと思っていた光が、西から部屋を染めている。

男は踏み出した足を止めた。

岬里が壁の青い非常灯を拳で割った。青い光が赤を汚す。

男の膝から力が抜けた。

「走れ」

岬里が言った。

三人はプールを出た。

背後で、環の笑い声がワルツに混じった。

【欠落記録 01:27】

手術後の鏡に、岬里亮一の顔があった。

皆川透はその頬に触れた。

「これで、あの人の人生に入れる」

環は満足そうに頷いた。

「入るだけじゃない。あなたが本物になるの」

「本物って何だ」

「最後まで信じた方よ」

皆川は鏡の向こうの男を見た。

その目に浮かんでいた恐怖が、自分のものか岬里のものか、もう判別できなかった。

六 金 04:47

舞踏室へ戻るには、劇場を横切るしかなかった。

ホテル・ティニスはかつて、冬の音楽祭で栄えたという。劇場には二百の赤い座席が並び、舞台の奥には巨大なガラスのオルガンがあった。今は誰もいない。

それでも幕が上がった。

舞台に、白い仮面をつけた踊り手が十二人立っていた。

全員が人形のように同じ姿勢をしている。胸に細いケーブルが伸び、天井へ消えていた。

ワルツが鳴る。

踊り手たちが一斉に首を傾けた。

「人形よ」

美弥が囁いた。

次の瞬間、人形の一体が舞台から飛び降りた。

足音が重い。人間だった。

黒服の警備員たちが仮面をつけて待ち伏せていたのだ。

赤い照明が点滅する。

男の中で皆川透が目を覚ました。

最初の一人の拳を外へ流し、肘を逆に折る。二人目の膝を蹴り、仮面の縁を掌底で打つ。三人目のナイフを奪う。動くたび、知らない記憶が体の奥から出てくる。

港の倉庫。

雨の屋上。

名も知らない男の最期の息。

「赤を見るな!」

岬里の声。

美弥が舞台袖の照明盤を撃った。火花が散り、赤が消える。

暗闇の中、金色の非常灯だけが点いた。

男は警備員の首にナイフを当てていた。

あと少し力を入れれば終わる。

手を離した。

警備員が床へ崩れた。

「なぜ」

美弥が呟いた。

問いが責めているのか、驚いているのか分からない。

「次に記憶を失ったとき、自分へ説明しやすい方を選んだ」

男はそう答えた。

舞台のガラスオルガンに、小さな録画機が貼りつけられているのを見つけた。携帯電話と同じ型だった。画面には一件だけ動画がある。

再生すると、皆川透の顔が映った。

手術前の顔。首に火傷の痕。目の下に濃い隈。

『これを見ている俺へ』

画面の男は、笑わなかった。

『おまえは岬里亮一じゃない。皆川透だ。岬里をさらい、美弥を脅し、二人の人生を奪った。綾小路を刺したのも、おそらくおまえだ。命令されたからじゃない。命令される場所へ、自分で来た』

美弥が息を呑む。

岬里は黙って画面を見ていた。

『だが、岬里の記憶を入れられてから、俺は眠れなくなった。借り物の罪悪感だと思った。違った。罪悪感だけは最初から俺のものだった』

画面の皆川は、何かを確かめるように自分の胸へ手を置いた。

『環は午前五時にアイリスを消す。俺たちがしたことの記録が全部入っている。彼女は岬里の最後の記憶を鍵にした。俺が本気で岬里だと信じた瞬間、その記憶を開かせるつもりだ』

『だから仕掛けを変えた。最後の音を一つだけ変えろ。正しい音では消去、半音下なら外部送信になる』

画面の外で鐘が鳴った。皆川が振り返る。

『たぶん、未来の俺はこれも忘れる。だから覚えなくていい。選べ。名前じゃなく、次の一手を』

動画は終わった。

舞台の向こうで、巨大な扉が開いた。

舞踏室から赤い光が差し込んでいる。

環が中央に立っていた。

左手だけに、赤い革手袋をしていた。車の助手席に残されていた片方と、同じものだった。

「よくできました」

彼女は拍手した。

「反抗まで含めて、あなたは完成したわ」

七 黒 04:55

舞踏室から客たちは消えていた。

中央に一脚の椅子が置かれている。背後には半円形のガラス鍵盤。天井のステンドグラスはすべて赤く、シャンデリアの影が床を巨大な蜘蛛の脚のように這っていた。

「座って」

環が言った。

男は動かなかった。

「アイリスを外へ送る」

「ええ。そのつもりで来たのでしょう?」

「止めないのか」

環は首を傾けた。

「止める必要がある?」

岬里が男の腕をつかんだ。

「罠だ」

「もちろん罠よ」

環は楽しそうだった。

「でも、あなたたちは一つ勘違いしている。アイリスは証拠の保管庫ではない。実験そのもの。今夜のあなたの恐怖、愛情、混乱、選択、そのすべてが最後のデータになる」

「何のために」

「人間が自分を何だと思えば、何にでもなれるのかを知るため」

環は左手の赤い手袋を外した。

その下の白い手袋も外す。

左手の薬指がなかった。

男の中で、忘れていた映像が弾けた。

倉庫で、環の手を刃物が貫く。

皆川透がそれを抜く。

環は血を流しながら笑っている。

――痛みも名前と同じ。意味を与えなければ、ただの刺激よ。

「俺を作ったのは、あんたか」

「いいえ。あなたは自分で自分を空にした。私は、空いた場所へ物語を入れただけ」

環は美弥を見た。

「彼があなたを愛しているのは本当よ。由来が偽物なだけ」

美弥の顔が歪む。

「愛は由来で決まるの?」

「それを調べているの」

環は床のスイッチを踏んだ。

赤い光が強くなる。

男の呼吸が浅くなった。

赤は前進。

岬里は標的。

美弥は障害。

椅子に座り、記憶を開き、命令を完了する。

「座れ、皆川」

環の声が命令の形になる。

男の足が一歩進んだ。

美弥が彼の前に立つ。

「あなたの妻じゃない」

彼女はまっすぐに言った。

「あなたを許さない。あなたが覚えている私の笑い方も、好きだった料理も、全部返してほしい」

男の足が止まる。

「でも、今ここで何をするかは、盗んだ記憶のせいにしないで」

岬里が彼女の肩を引こうとする。

美弥は動かなかった。

環が銃を抜いた。

男は椅子へ飛び込んだ。

背もたれから金属の輪が下り、こめかみを挟む。ガラス鍵盤が青く点灯した。

世界が裏返った。

彼は八歳だった。

雪の夜、古い音楽学校が燃えている。母の手を離し、講堂のピアノの下へ隠れている。煙の向こうで、母が自分の名を呼んでいる。

亮一。

違う。これは岬里の記憶だ。

それでも熱は頬を焼き、煙は肺へ入った。母を助けられなかった罪が胸を裂いた。

ピアノの上から、色ガラスが落ちてくる。

赤。

青。

緑。

母は最後に、五つの音を弾いた。

避難口の鍵を開けるための、音の合図。

岬里亮一はその旋律を、誰にも話さなかった。

環は薬と電気と恐怖で、記憶だけを皆川の中へ押し込んだ。

男の指がガラス鍵盤へ伸びる。

一音目。

舞踏室の床に白い線が走る。

二音目。

壁の肖像画が裏返る。

三音目。

環の顔から笑みが消える。

四音目。

天井のステンドグラスが内側から輝く。

最後の音。

記憶の中の母は、正しい鍵を弾いている。

だが画面の皆川は言った。

――最後を半音下げろ。

男は目を閉じた。

自分が岬里亮一であるなら、母の音を変えることは裏切りだった。

自分が皆川透であるなら、その記憶に従う資格はなかった。

だから、どちらでもない手で、半音下を押した。

館内のすべての色が消えた。

暗闇。

一秒遅れて、赤い警告灯が回り始める。

〈EXTERNAL TRANSMISSION〉

環が叫んだ。

銃声。

ガラス鍵盤が砕け、男の頬を破片がかすめる。

二発目の前に、岬里が環へ飛びついた。銃が床を滑る。美弥が蹴り飛ばす。

環は岬里の喉へ細い針を向けた。

男は椅子の拘束を引きちぎり、二人の間へ入った。針が肩に刺さる。冷たい液体が血管へ広がった。

今度の暗闇は、照明のせいではなかった。

環が耳元で囁く。

「次に目を覚ましたら、また私を信じるわ」

男は彼女の手首をつかんだ。

「なら、次の俺にも選ばせる」

彼は環を突き放し、床の銃を拾った。

環ではなく、天井を撃った。

シャンデリアを支える鎖が切れた。

巨大な灯りが落ち、環と出口の間で砕けた。無数のガラス片が赤、青、緑の火花になって跳ねる。環は後退し、ドレスの裾を割れた金具に縫い止められた。

岬里が彼女から針を奪った。

美弥が送信表示を見上げる。

四十パーセント。

六十。

八十。

男の視界が狭くなる。

「綾小路を」

彼は言った。

「地下にいる。生きてる」

九十七。

「あなたは?」

美弥の声が遠い。

「俺は――」

名前が出てこない。

百。

ホテル・ティニスの塔で、五つの鐘が鳴った。

八 白 05:12

夜明け前の雪は青かった。

男はホテルの玄関前に座っていた。

肩に包帯が巻かれている。隣には、自分とよく似た顔の男がいる。白いドレスの女は、その男のそばに立っていた。

遠くでサイレンが聞こえる。

「ここはどこです」

男が尋ねると、二人は顔を見合わせた。

似た顔の男が答えた。

「ホテル・ティニス」

「あなたは?」

「岬里亮一」

胸の奥が痛んだ。理由は分からない。

「では、俺は」

岬里はすぐには答えなかった。

白いドレスの女が、男の右手を開いた。

手のひらに油性ペンで文字が書かれていた。自分の筆跡らしい。

おまえは岬里亮一ではない。

皆川透だ。

許されないことをした。

今夜、同じことを繰り返さなかった。

次も、名前ではなく行動を選べ。

男は何度も読んだ。

「俺は、誰かを殺しましたか」

岬里が言った。

「過去には」

「今夜は」

「殺さなかった」

「あなたに、何をした」

岬里の左小指がわずかに曲がっている。見た瞬間、雪の池と、母についた嘘が胸に浮かんだ。

自分の記憶ではない。

それなのに懐かしかった。

「私の人生を盗んだ」

岬里は言った。

男は白いドレスの女を見る。

彼女の名を知っていた。笑い方も、寝言も、傷の場所も、口紅の色も。愛している、と体のどこかが断言している。

だが彼女は彼の妻ではない。

「返せますか」

男が尋ねると、女――美弥は首を振った。

「記憶は物じゃないから」

「では、どうすれば」

美弥はしばらく考えた。

「持っていることを、権利だと思わないで」

男は頷いた。

サイレンが近づく。雪の向こうに赤い回転灯が見えた。

その色に、体が一瞬だけ強ばった。

男は目を閉じ、手のひらの文章を指でなぞった。

警官が駆け寄ってくる。

「お名前は?」

男は岬里亮一を見た。

次に美弥を見た。

最後に、色を失っていくホテルを振り返った。

夜の間あれほど鮮烈だったステンドグラスは、朝の白い光の中では、ただの傷だらけの窓だった。

「皆川透です」

男は言った。

少し置いて、付け加えた。

「少なくとも、ここからは」

雪はまだ降っていた。

だがもう、音を殺してはいなかった。

鐘の余韻も、サイレンも、誰かの泣く声も、すべてが白い朝の中で聞こえていた。

そして皆川透は、自分のものではない記憶を抱えたまま、自分で選んだ最初の一歩を踏み出した。