蜃気楼街道の星喰い
一
「旧ラクサル区は、三日後の日の出をもって取り壊す」
赤い公印の下にそう書かれていた。
羊皮紙は、月裏湯の脱衣場にある柱へ、釘を四本も使って打ちつけられていた。柱そのものが曲がっているので、布告も少し右へ傾いている。まるで役人まで、ここに長居したくないと言っているようだった。
「四万二千ルク」
ナジャが布告の末尾を読んだ。煤けた額にかかった髪を吹き上げ、もう一度、声に出した。
「滞納した水税と地代が四万二千ルク。三日以内に払わなければ、旧区を平らにして、竜骨街道の荷車置き場にする。はい、おしまい」
「おしまいじゃない」
リオは言った。
「そうだな。正しくは、私たちの家がおしまい」
ナジャは釘を一本抜こうとしたが、錆びてびくともしない。代わりに布告の角を破り、くしゃくしゃに丸めた。
月裏湯は、百年前に湯が枯れた公衆浴場だった。丸天井には青い月のモザイクが残り、空の浴槽には月底団の財産が詰まっている。壊れた橇、銅線の束、片方だけの長靴、鳴らないオルゴール、秘密の旗。それから、家出したときに食べる予定の干し杏が三袋。
月底団とは、ナジャが十二歳のとき勝手につけた名前だ。団員は五人。
錠前師の娘で、針金一本あれば王宮にだって入れると豪語するナジャ。
粉屋の息子で、石臼を持ち上げられるのに蛾を怖がるバシュ。
市場の屋根を地面より速く走る伝令娘ピルカ。
神殿学校を三度追い出された呪文見習いのオル。
そして、地図屋の息子であるリオ。
リオの家は、昔は「アルザイ卿」と呼ばれていたらしい。もっとも、爵位を売ったのは祖父の代、屋敷を売ったのは父の代、銀食器を売ったのは去年だ。いま残っているのは、旧区の隅にある傾いた地図店と、家名を刻んだ真鍮の方位器だけだった。
「四万二千なら、金貨でどれくらい?」バシュが訊いた。
「お前を三十七人売ったくらい」とナジャ。
「僕、そんなに安いの?」
「小麦粉つきなら三十五人」
ピルカが梁から逆さにぶら下がり、布告を覗いた。
「三日で稼ぐ方法、あるよ。王様をさらう」
「王様が身代金を払う側だろ」とオルが言った。「あと王様をさらうのは、たぶん校則違反だ」
「学校を追い出された人が校則を心配するんだ」
「追い出されたからこそ、次は慎重に違反する」
いつもなら笑うところだった。
だがその日、五人は笑えなかった。月裏湯だけではない。ナジャの錠前店も、バシュの粉屋も、ピルカが祖母と暮らす屋根裏も、オルの叔父が営む写本屋も、三日後には石屑になる。
リオは父の方位器を握った。
三年前、父は一枚の地図を持って砂海へ出たまま帰らなかった。出発の前夜、父はリオの頭に手を置いて、妙なことを言った。
――地図には二種類ある。帰るための地図と、帰れなくするための地図だ。
そのときは、酒に酔っていると思った。
いまは、どちらだったのか知りたかった。
「金なら、あるかもしれない」
リオが言うと、四人の顔が上がった。
「父さんの仕事机を片づけてたら、これが出てきた」
方位器の蓋を開く。針は北を指さず、月裏湯の奥、男湯の壁を指した。
「壊れてるんじゃなくて?」ナジャが言った。
「三年間、ずっと北しか指さなかった」
「じゃあ今日、壊れた」
「ナジャ」
「冗談。半分は」
五人は灯蛾のランタンを手に、男湯へ入った。
浴槽の底には、ひび割れた青タイルが敷かれている。方位器の針は、壁に描かれた雲の模様をまっすぐ指していた。
バシュが拳で叩く。
ごん、と鈍い音。
少し右を叩く。
こん、と空洞の音。
「下がって」
ナジャが錠前道具から平たい鏨を出し、タイルの縁へ差し込んだ。ピルカが上から蹴る。タイルは二枚まとめて外れ、その奥から黒い穴が現れた。
穴の中には、真鍮の筒が一本入っていた。
リオが引き出す。筒の蓋には、アルザイ家の紋章――輪の中で眠る、尾の長い白い獣――が刻まれていた。
「父さんのだ」
蓋をひねると、中から薄い絹が滑り落ちた。
絹には何も描かれていない。
「宝の地図って、だいたい何か描いてない?」ピルカが言った。
オルが絹をランタンへ透かした。
「月光インクだ。青い月の光で出る」
「天井は?」
「あるけど、屋根がある」
「屋根を壊す?」バシュが訊く。
「三日後まで待てば、役所が無料でやってくれる」とナジャ。
その瞬間、地下深くで何かが鳴った。
ぼうん。
巨大な壺の口を、遠くで誰かが叩いたような音だった。月裏湯の床が揺れ、天井から漆喰が落ちる。男湯の壁に一本の亀裂が走った。
亀裂の奥から、青い光が差した。
壁の向こうには、外ではなく、もう一枚の壁があった。そこに埋め込まれた月晶石が淡く輝き、絹の上へ冷たい光を投げている。
白紙だった絹に、線が浮かんだ。
塔。砂丘。裂けた山。地底を走る一本の街道。
その終点に、面紗をつけた女が立っていた。
女の頭上には、父の字でこう記されていた。
〈リオへ。
蜃気楼の女を追うな。
だが、街を救いたいなら、女より先に九王の鐘を見つけろ。
アルザイの血を、扉に与えてはならない。〉
地図の下端から、一滴の黒いインクが垂れた。
それは乾かず、血のように脈打っていた。
二
隠し壁は、バシュが肩を入れると内側へ倒れた。
向こうには階段があった。狭く、急で、闇の中へ螺旋を描いている。
「大人に知らせるべきだ」とオルが言った。
「どの大人?」ナジャが訊く。「三日で四万二千ルクを用意できる大人?」
「役人とか、衛兵とか」
「その役人が布告を貼った。衛兵は役人の荷物持ち」
「じゃあ僕の叔父さん」
「昨日、パンの値上げに三時間泣いてた叔父さん?」
「感受性が豊かなんだ」
リオは階段を見下ろした。
父の文字だった。間違いない。
そして父は「追うな」と書きながら、道を残した。
「僕は行く」
言った途端、膝が震えた。
ナジャはそれを見たが、何も言わず、腰の道具帯を締め直した。
「団則その二。誰か一人が馬鹿をやるときは、全員でやる」
「団則その一は?」バシュ。
「おやつは均等」
「干し杏、持ってくる」
五人はそれぞれ家へ戻り、旅支度をした。
ナジャは鍵開け道具と折りたたみ弩。
バシュは粉袋二つ、水筒、鍋、それから母親に見つかり、耳を引っぱられながらも盗み出した蜂蜜パン。
ピルカは縄、投石紐、屋根瓦を削った投石二十個。
オルは呪符、火打ち石、辞典三冊。重いので辞典は一冊に減らされた。
リオは父の方位器と地図、短剣、それに家族の肖像が入った銀の小箱。
日が落ちるころ、五人は月裏湯へ戻った。
入口に立ち、右手を重ねる。
「月は上に」
「秘密は下に」
「帰るときは全員で」
最後の言葉だけ、いつもより大きかった。
階段は、数えて六百二十一段あった。
六百二十二段目はなかった。
先頭のナジャが足を止めた。
「床がない」
階段の先は断崖になっていた。ランタンを掲げても底は見えない。正面には、黒い空間を隔てて石の門が浮かんでいる。門までの間に、幅の細い石板が十二枚、ばらばらに突き出していた。
「跳べってこと?」ピルカの声が弾んだ。
「お前だけ嬉しそうなのはなぜだ」
「地面がないから」
石板には、それぞれ違う動物が彫られていた。狼、蛇、駱獣、魚、蛾、白い尾長獣。
地図の縁に、細かな文字が浮いている。
〈王は獣を数えず、影を数えた。〉
オルがランタンを左右へ振った。石板の影が断崖の壁へ伸びる。十二の影のうち、いくつかは彫刻と形が違った。狼の板は鹿の影を落とし、魚の板は鳥の影を落とす。
「月の満ち欠けだ」とリオは言った。「白い月の十二獣。新月から順に影を踏む」
「間違えたら?」
バシュが小石を狼の板へ投げた。
石板がひっくり返り、裏側から鉄針が百本飛び出した。小石は粉になって落ちた。
「間違えないようにしよう」とバシュ。
リオが順番を読み、ピルカが先に跳んだ。鹿、鳥、蛾、蛇。ナジャ、オル、リオが続く。バシュは二枚目で足を滑らせたが、ナジャが縄を投げ、リオとオルが引いた。
「蜂蜜パンを捨てろ!」オルが叫ぶ。
「それはできない!」
「命とパンのどっちが大事だ!」
「今決めてる!」
ピルカが向こう岸から縄を柱に巻き、三人がかりでバシュを引き上げた。バシュは門の前へ転がり、胸元から潰れたパンを取り出した。
「両方助かった」
門には鍵穴がなかった。
代わりに、人の手形が彫られている。六本指だった。
リオが近づくと、方位器が熱くなった。門の中央に、アルザイ家の紋章が浮かぶ。
「血を与えるなって書いてあった」とナジャ。
「手を置くだけなら」
「それが扉の言い分だとしたら、信用する?」
ナジャは手形を調べ、指の一本へ細い針を差し込んだ。内部で小さな歯車が鳴る。二本目、三本目。六本目を押すと、門はため息のような音を立てて開いた。
「血筋より針金」とナジャが言った。「覚えといて」
門の先には、街道があった。
地底とは思えないほど広い石畳が、暗闇の彼方へまっすぐ延びている。両側には、頭のない王の像が並び、像の手から青白い火が灯った。
石畳の中央には、古い轍が二本。
その間を、人の裸足の跡が続いていた。
足跡は新しかった。
濡れて、光っていた。
「誰かいる」とピルカが囁いた。
遠くで、鈴がひとつ鳴った。
しゃらん。
街道の果てに、面紗の女が立っていた。
地図に描かれた女だ。
青い衣が、風もないのに揺れている。顔は見えない。ただ、リオには分かった。
「母さん?」
女が手を上げた。
次の瞬間、すべての火が消えた。
三
「リオ!」
頬を打たれ、リオは息を吸った。
暗闇の中で、ナジャのランタンだけが揺れている。女はいない。濡れた足跡も消えていた。
「何を見た?」ナジャが訊いた。
「女の人。母さんに見えた」
「私は大錠前師になった自分」とナジャ。
「僕はパンの塔」とバシュ。
「空飛ぶ家」とピルカ。
「校長が僕に謝ってた」とオル。
五人は黙った。
「性格の悪い蜃気楼だな」とオルが言った。「一番見たいものを見せる」
石畳の脇に、古代文字の碑があった。オルが埃を払い、指で文字を追う。
「『望む者は近道を得る。恐れる者は帰り道を得る』」
「帰り道にしよう」とバシュ。
「続きがある。『ただし、どちらも同じ門へ至る』」
「碑文を書いた人、友達いなかったと思う」
彼らは進んだ。
街道は時折、ありえない曲がり方をした。右へ曲がったのに左の壁から出る。坂を下ったのに、振り返ると高い場所にいる。石像の列は何度数えても一体増えた。
やがて道は、巨大な地下水路へ行き着いた。
黒い水の上に、石造りの船が浮かんでいる。船首は六脚の駱獣、船尾には折れた帆柱。岸の碑には〈九王隊商・第三渡し〉と刻まれていた。
「船が沈まない理由、分かる人?」ナジャが訊く。
「魔法」とオル。
「便利な言葉」
五人が乗り込むと、船は勝手に岸を離れた。
水路の天井には、星のような菌が青く光っている。黒い水の下で、ときどき大きな影が動いた。
「魚?」バシュ。
「魚だと思うことにしよう」とリオ。
半ばまで来たとき、背後で金属音がした。
石の門から、灯りが三つ現れる。
「いたぞ!」男の声が響いた。
黒い外套の男たちが岸へ飛び出した。灰色の犬面をつけ、短弩を構えている。その後ろから、杖をついた細身の男が現れた。
ムラド・サフィル。
竜骨街道の工事を請け負い、旧区の立ち退きを命じた商会主だった。白い髪を後ろへ撫でつけ、砂色の外套を着ている。笑うと、金歯が一本だけ光った。
「こんばんは、リオ・アルザイ」
地下水路の向こうからでも、声はよく通った。
「君のお父上には、ずいぶん道案内をしてもらった。最後まで協力的ではなかったがね」
リオは立ち上がった。
「父さんを知ってるのか!」
「よく知っている。彼はここまで来た。鐘を見つけた。だが扉を開ける勇気がなかった」
「父さんはどこだ!」
ムラドは杖の石突で岸を叩いた。
水面が赤く光る。
「それを知りたければ、私より先に進むことだ」
灰犬たちが弩を放った。
「伏せろ!」
矢が船縁へ刺さる。ナジャが折りたたみ弩で射返し、ピルカが投石紐を振った。石が灰犬のランタンを砕く。
船の下で、影が身をよじった。
黒い水が盛り上がり、白い頭が現れた。
魚ではなかった。
目のない巨大な山椒魚が、船より長い口を開けた。歯の代わりに、細い人間の指のようなものが何列も並んでいる。
「魚じゃない!」バシュが叫ぶ。
「もう知ってる!」
山椒魚が船尾へ噛みついた。石造りの船が傾く。オルが呪符を一枚投げた。
「火よ!」
呪符は濡れていた。
小さな煙を出しただけだった。
「火!」
もう一枚。今度は爆ぜ、青い火球が山椒魚の鼻先へ当たった。怪物は身を反らし、尾を振る。大波が岸を襲い、灰犬たちを二人まとめて水へ落とした。
「助けろ!」と灰犬。
「泳げ!」とムラド。
「雇い主として最悪だな」とナジャ。
船は勢いを増し、暗い水路を滑った。
前方に石の壁が迫る。
「行き止まり!」ピルカが叫ぶ。
リオの方位器は、壁の中央を指していた。
「帆を上げろ!」
「帆、折れてる!」
「じゃあ全員つかまれ!」
船が壁へ激突する。
石は砕けなかった。
水面のように波打った。
五人を乗せた船は壁をすり抜け、眩しい光の中へ飛び出した。
四
砂だった。
船は砂丘の斜面へ落ち、石の腹で砂を削りながら滑り降りた。五人は帆柱や船縁にしがみつく。
頭上には、見たことのない空が広がっていた。
白い太陽が二つ。
紫色の雲。
西の地平に、鋸のような黒い山脈。
ラクサルの街はどこにもない。
「私たち、地下に入ったよね?」ピルカ。
「入った」とオル。
「空がある」
「見れば分かる」
「じゃあ地下じゃない」
「それも分かる」
石船は砂丘の底へ突っ込み、半分まで埋まって止まった。
地図を広げると、描かれた線の一部が消え、新しい線が浮かんでいた。ここは〈折畳砂海〉。ラクサルから西へ千二百里とある。
「千二百里を、階段と船で来た?」バシュが呟く。
「帰りも同じならいいけど」とナジャ。
砂丘の向こうで、鈴が鳴った。
しゃらん。
面紗の女が立っていた。
今度は五人とも同じ姿を見た。
女は青い衣をまとい、裸足で砂の上にいる。顔は面紗の奥で白く霞んでいた。その背後には、蜃気楼の都が浮かぶ。百本の塔、金の円蓋、空を渡る橋。
女は山脈を指した。
リオの耳の奥で、声がした。
――帰っておいで。
「聞こえた?」リオが訊く。
四人は首を横に振った。
女の面紗の下で、何かが横へ長く裂けた。
笑ったのだ、とリオは思った。
太陽が雲へ隠れると、女も都も消えた。
代わりに、砂丘の上へ黒い帆が現れた。
砂橇が三台、風をはらんで斜面を駆け下りてくる。船上には灰犬たち。中央の橇にムラドが立っていた。
「近道を知ってる人って腹立つ!」ナジャが叫んだ。
石船のそばには、古い隊商駅が半ば砂に埋もれていた。屋根の下に、骨組みだけの砂橇が二台ある。
「動くかな?」バシュ。
「動かす!」
ナジャが一台へ飛び乗り、帆索を調べる。リオとオルが砂を掘り、ピルカが柱を蹴って折れた帆板を落とした。バシュが橇を持ち上げる。
「右の車輪、ないよ!」
「砂橇に車輪はない!」
「じゃあ完璧!」
風が来た。
ナジャが帆を開く。ぼろ布が膨らみ、橇は横倒しになりかけてから前へ飛び出した。
五人は砂丘を走った。
帆柱がきしむ。砂が顔へ刺さる。谷間に埋もれた石像をかわし、骨の森を縫う。背後から矢が飛び、帆に穴を開けた。
「もっと速く!」リオ。
「これ以上は空を飛ぶ!」
「ピルカは喜ぶ!」
「私だけ降ろして!」
灰犬の橇が横へ並んだ。犬面の大男が鉤縄を投げ、月底団の橇へ引っかける。二台が近づく。
ピルカが縄を伝って敵の橇へ渡った。
「ピルカ!」
「すぐ戻る!」
彼女は帆柱を駆け上がり、てっぺんから飛び降りた。灰犬の一人の頭を踏み、もう一人の帯から短剣を抜き、帆索を切る。
黒い帆が落ち、敵三人を包んだ。
橇は砂丘へ突っ込み、宙返りした。
ピルカは鉤縄を振り子にして戻ってくる。
「短剣もらった!」
「盗みは団則違反!」オル。
「敵からは拾得物!」
今度は右から二台目が迫った。巨漢の灰犬が跳び移り、バシュへ殴りかかる。
バシュは拳を受け止めた。
「僕、けんか嫌いなんだけど」
もう一発を受け、橇の床板が割れた。
「でも粉屋の朝は早いんだ!」
バシュの頭突きが犬面を砕いた。巨漢はよろめき、ナジャが帆柱を回す。横帆が男を払い、砂へ落とした。
前方に峡谷が開いた。
入り口は狭く、両側から赤い岩が牙のように突き出している。
地図の線は、峡谷の中へ続いていた。
ナジャは舵板を蹴った。
橇が横滑りし、岩の隙間へ飛び込む。
黒い帆の一台は曲がりきれず、岩へ激突した。
だがムラドの橇は帆を畳み、細い刃のように隙間を抜けてきた。
峡谷の奥で、地面が途切れている。
向こう岸まで十歩。
その下は、底の見えない裂け目。
「止まれない!」ナジャ。
「飛べばいい!」ピルカ。
「お前の意見は聞いてない!」
リオは父の方位器を開いた。針は裂け目の向こうを指す。
橇の帆を見上げる。
「帆を全部開け!」
「裂ける!」
「飛ぶんだ!」
ナジャは一瞬だけリオを見た。
それから笑った。
「月底団、飛行試験!」
五人が帆索を引く。
ぼろ帆が最大まで膨らんだ。
砂橇は崖から飛び出した。
空中で、橇の底板が一枚ずつ剥がれていく。
バシュの蜂蜜パンが一つ落ちた。
「ああっ!」
「前を見ろ!」
橇は向こう岸へ届いた。
正確には、橇の前半分だけが届いた。
五人は砂と木片と一緒に転がり、岩壁へぶつかった。
背後でムラドの橇が止まる。
彼は跳ばなかった。
杖を上げると、灰犬たちが折りたたみ橋を運び始めた。
「大人ってずるい」とピルカ。
「賢い、とも言う」とオル。
「逃げよう」
峡谷の行き止まりに、巨大な女神像が彫られていた。
六本の腕。
目のない顔。
胸元に、アルザイ家の紋章。
リオが近づくと、像の口が開いた。
冷たい風が吹き出す。
その奥に、上へ続く階段があった。
五
階段は山の内部を貫いていた。
登るほど空気は冷え、砂の匂いが消えていく。壁には隊商の行列が彫られていた。六脚の駱獣、冠を戴く王、首輪をつけられた白い獣。
その白い獣だけ、顔が削り取られていた。
階段の途中で、バシュが止まった。
「聞こえる」
下から、靴音が響いてくる。
ムラドたちが橋を渡ったのだ。
五人は走った。
やがて階段は、風の唸る岩棚へ出た。
そこは山腹に築かれた都市だった。
千の窓が断崖へ穿たれ、石の橋が空中で交差している。円い塔は氷に包まれ、その上を透明な羽を持つ山鯨がゆっくり泳いでいた。
都市に人影はない。
ただ、すべての窓から白い布が垂れ、風にはためいている。
「カル・シラ」とオルが地図を読んだ。「『家系を数える都』」
「嫌な名前」とナジャ。
中央広場に、青銅の扉があった。
扉には人の顔が百以上、浮き彫りにされている。
リオは息を呑んだ。
一番下の列に、父の顔があった。
「父さん」
彫刻は目を閉じている。頬は痩せ、額に細い傷。三年前の姿より年老いて見えた。
リオが触れると、青銅の瞼が開いた。
父の声がした。
〈リオ。ここまで来たなら、私は止められなかったということだ〉
ナジャたちが左右を見回す。声は扉の内側から響いていた。
〈ムラドを信じるな。だが、私の言葉も信じすぎるな。アルザイ家は、真実を隠すことで生き延びた。私は真実を知り、隠す側へ回った〉
扉の顔が次々に目を開ける。
祖父。
曾祖母。
肖像でしか知らない先祖たち。
全員が同じ言葉を囁いた。
〈血を、扉へ与えるな。〉
最後に父の顔だけが言った。
〈お前が何者でも、お前を決めるのは血ではない。〉
扉が開いた。
中は、円形の大広間だった。
壁一面に、家系図が描かれている。
金の枝が人から人へ伸び、千年分の名をつないでいた。リオは自分の名を見つける。父、祖父、さらに上へ辿る。
アルザイ家の始祖は、サルハン・アルザイ。
砂海を渡った探検家。
その隣に、妻の名があった。
シラ=アズ。
白塔の王女。
肖像の女は、あの蜃気楼と同じ青い衣を着ていた。
「美人だね」とピルカ。
「待って」とオル。
彼は壁の煤を袖で拭いた。
女の肖像の下に、もう一枚の絵が隠れていた。
古い絵の上から、人間の姿を描き足してあったのだ。
ナジャがナイフで表面の漆喰を剥がす。
青い衣の下から、別のものが現れた。
腕が長い。
脚は短く、逆向きに曲がっている。
全身を硝子糸のような白い毛が覆い、六本の指が地面へ届いている。
顔は黒い卵のように滑らかで、目も鼻もない。
頭頂から、細い管が冠のように伸び、夜空へつながっていた。
その傍らに、人間との間に生まれた子どもたちが描かれている。
最初の子は、ほとんど母親と同じ姿。
次の世代は、人に近い。
さらに次は、もっと人に近い。
十代目で、アルザイ家の紋章になった白い尾長獣が消えた。
リオの名へ至る枝だけが、淡く脈打っていた。
「これは、ただの象徴かもしれない」とオルが言った。
声が震えていた。
壁の古代文字を読む。
「『虚空を渡るラハスは、星を食み、世界の殻を着る。九王はその一体を捕らえ、人の姿を教え、道を開く子を産ませた』」
バシュが顔をしかめた。
「産ませた、って……」
「続きがある。『子らは門。血は鍵。望みは餌』」
リオは自分の手を見た。
指は五本だ。
だが影は、六本あった。
ランタンを動かしても、六本目の影は消えない。
「リオ」
ナジャが腕をつかんだ。
「見ないで」
「何を」
「僕を」
「もう見てる」
リオは振り払おうとした。ナジャは離さなかった。
「僕の家は、人間じゃない」
「壁の絵がそう言ってるだけ」
「影が――」
「六本あったら、鍵開けが楽だろ」
「冗談を言うな!」
声が広間へ跳ね返った。
そのとき、奥の扉から鈴が鳴った。
しゃらん。
蜃気楼の女が立っている。
面紗の向こうから、母の声で言った。
――お前だけは、私を見ても美しいと思える。
リオの足が、一歩前へ出た。
ナジャが頬を殴った。
「二回目!」
「効くから」
女の姿は薄れ、奥の扉が残った。
扉の上に〈九王霊廟〉とある。
下の階段から靴音が近づく。
「行くしかない」とオル。
「罠だとしても?」バシュ。
「後ろも罠。なら前の罠を選ぶ」
五人は霊廟へ入った。
六
霊廟は、金でできていた。
床も、柱も、天井を支える九人の王像も。ランタンの光が跳ね返り、目が痛むほど輝いている。
中央に、黒い石棺があった。
その周囲には、宝箱が山のように積まれていた。
金貨。星銀。拳ほどの紅玉。青い炎を閉じ込めた瓶。王冠。剣。象牙の札。
四万二千ルクどころではない。
「旧区を百回買える」とナジャが呟いた。
「パンの塔も建つ」とバシュ。
ピルカは紅玉へ手を伸ばした。
箱の上に刻まれた文字を見て、止める。
〈欲する手を、宝は欲する。〉
「触ったら食べられるやつだ」
「学習したな」とオル。
地図の線は、黒い石棺へ続いていた。
棺の蓋には、青い衣の女が彫られている。その両手が抱くように、銀の鐘が置かれていた。
九王の鐘。
小さかった。
子どもの拳ほどしかない。
だが、リオが見ると、鐘の表面に街が映った。旧ラクサル区。月裏湯。家々の煙突。路地で遊ぶ子ども。三日後には失われるすべて。
「これを持って帰れば」とバシュが言った。
「帰り道を閉じる鍵でもある」とオル。「碑文にある。『鐘は道を束ね、道をほどく』」
ナジャが周囲を調べる。
「棺を開けずに取れる」
「待って」とリオ。
鐘の把手には細い針がついていた。
握れば掌を刺す位置に。
血を与えるな。
「布で包む」
リオが外套を外したとき、背後で拍手が鳴った。
「見事だ」
ムラドが霊廟へ入ってきた。
灰犬は六人残っていた。弩を構え、入口を塞ぐ。
「子どもは大人より道を疑わない。だから古い仕掛けには強い」
「近づくな」とナジャが弩を向けた。
「撃てばいい。君が一人倒す間に、五人とも射られる」
ムラドは杖をつきながら、ゆっくり進んだ。
その目は宝ではなく、リオを見ていた。
「君の父は、鐘を持ってここを出た。だが帰り道で私に奪われるのを恐れ、自ら道を閉じた。彼は折畳砂海の隙間に残った。生きても死んでもいない」
「嘘だ」
「では、彼の顔が扉にあったのはなぜだと思う?」
リオは答えられなかった。
「扉は通った者の顔を記す。死者だけではない」
「父さんを戻せるのか」
「門を開けば」
ムラドの声は優しかった。
「星の向こうにいるものは、時間を畳める。都市を一夜で築き、死者の記憶を肉へ戻せる。君の父も、母も、旧区も、すべて救える」
「その代わりは?」
ナジャが訊いた。
「世界が少し広くなる」
「商売人が『少し』って言うときは、だいたい全部だ」
ムラドは笑った。
「ナジャ・ベク。君は利口だ。だから貧しい。世界は、利口さではなく扉を持つ者のものだ」
彼は杖の頭をひねった。
中から細い刃が飛び出し、リオの腕をかすめた。
熱い痛み。
血が一滴、床へ落ちる。
金の床が脈打った。
石棺から、低い音が響く。
ごん。
ごん。
ごん。
ムラドが灰犬へ合図した。
二人がナジャとバシュを押さえ、別の二人がリオを棺の前へ引きずった。ピルカは蹴りつけ、オルは呪符を投げたが、弩の先が仲間へ向けられると止まるしかなかった。
「君の血が必要だ」とムラド。「私もアルザイの傍流だが、薄すぎる。影は五本しかない」
彼はリオの傷口を鐘の針へ押しつけた。
一滴。
銀の鐘が、ひとりでに鳴った。
しゃらん。
石棺の蓋が開いた。
中に、白塔の王女が横たわっていた。
金の仮面。
青い衣。
胸の上で組まれた、六本指の手。
ムラドが震える手で仮面を外した。
その下に、人の顔はなかった。
黒く滑らかな頭部が、乾いた皮に包まれている。眼窩も鼻孔もなく、口だけが横一文字に閉じていた。白い硝子毛が頬から首へびっしり生え、管のような冠が頭蓋に食い込んでいる。
何百年も死んでいるはずなのに、口が開いた。
中から、星空が見えた。
リオは叫んだ。
霊廟の金の天井が裂ける。
その向こうに夜があった。
この世界の夜ではない。
星々が、円を描いて並んでいる。
ひとつの巨大な口の歯のように。
暗闇の奥で、数えきれない白いものが枝から枝へ渡るように星間を這っていた。長い腕。六本の指。黒い顔。
ラハス。
一体がこちらを向いた。
顔のない頭に、リオ自身の顔が浮かんだ。
――帰っておいで。
霊廟にいた全員が、同時に自分の望みを見た。
灰犬の一人は金貨の山へ飛び込み、そのまま金へ沈んだ。
別の一人は「母さん」と泣きながら虚空へ歩き、空中で白い腕に抱き取られた。
ムラドは両腕を広げた。
「私は扉を持つ者だ!」
棺の死体が起き上がった。
金の仮面をムラドの顔へ押しつける。
仮面は柔らかく溶け、皮膚へ食い込んだ。ムラドは笑いながら叫んだ。背骨が伸び、両腕が床へ届く。指の間から、六本目の骨が生えた。
「リオ!」
ナジャの声が、遠く聞こえる。
リオの前には母が立っていた。
三年前に病で死んだときと同じ、白い頬。やさしい目。
「帰りましょう」と母は言った。「お父さんも待っている」
その背後に父がいた。
笑っている。
さらに旧区の人々がいた。取り壊しは止まり、月裏湯には湯気が戻り、月底団の五人が大人になって笑っている。
全部、本物に見えた。
「僕は何なの」
リオは母へ訊いた。
「私の子」
「人間じゃなくても?」
「人間という殻は、狭いでしょう」
母の口が横へ裂けた。
白い硝子毛が頬へ生える。
「殻を脱げば、星々が食べられる」
リオの影から、六本目の指が伸びた。
仲間たちの頭上へ伸びる。
ナジャの喉へ。
バシュの胸へ。
ピルカの目へ。
オルの額へ。
望みは餌。
血は鍵。
子らは門。
リオは理解した。
ラハスは自分を連れ帰りたいのではない。
自分を通って、こちらへ来たいのだ。
「お前は母さんじゃない」
「記憶が同じなら、何が違うの?」
「母さんは、僕を食べない」
「愛することと、食べることはよく似ている」
「全然違う!」
リオは母の幻へ頭突きした。
幻は硝子片になって砕けた。
霊廟へ戻る。
変わり果てたムラドが、ナジャへ手を伸ばしている。灰犬たちは逃げ惑い、宝箱から生えた金の腕に捕まっていた。
「鐘!」リオは叫んだ。「ナジャ、鐘を!」
「針がある!」
「血をつけずに鳴らすんだ!」
ナジャは押さえていた男の足を踏み、頭を後ろへ叩きつけた。男が怯んだ隙に抜け出し、棺へ滑り込む。
だが、ムラドの長い腕が先に鐘をつかんだ。
針が掌へ刺さる。
銀の鐘が黒く染まった。
「道は開いた!」ムラドが吠えた。声が二重三重に重なる。「九王の財も、星の軍勢も、私のものだ!」
「そういうこと言う人、だいたい最後に何も持ってない!」
ピルカが投石紐を振った。
石がムラドの手首へ命中する。
鐘が宙へ飛ぶ。
オルが呪符を投げた。
「風よ!」
呪符はムラドの顔へ貼りつき、爆風を起こした。
鐘がさらに高く舞う。
バシュがリオを両手で持ち上げた。
「行け!」
「僕を投げるな――!」
投げた。
リオは空中で鐘をつかんだ。
針が掌へ迫る。
父の方位器を開き、針の上へ挟み込む。真鍮が刺され、火花が散った。血はつかない。
床へ落ちながら、リオは鐘を振った。
しゃらん。
音は小さかった。
だが世界の裏側で、巨大な鎖が切れた。
星空の口が閉じ始める。
ラハスたちが一斉に腕を伸ばした。
ムラドがリオへ飛びかかる。
ナジャが間へ入り、道具帯から最後の針金を引き抜いた。ムラドの長い指へ巻きつけ、棺の把手へ結ぶ。
「血筋より針金!」
バシュが棺の蓋を蹴った。
蓋が閉まり、ムラドの腕を挟む。
彼は絶叫した。
霊廟全体が傾く。
金貨の山が滝のように流れ、宝箱が虚空へ落ちていく。
「もう一度!」オルが叫ぶ。
リオは鐘を鳴らした。
しゃらん。
折畳砂海が震えた。
千二百里の道が、紙のように折れ始める。
九王像が崩れ、天井の裂け目が狭まる。向こう側から白い六本指が何百本も入り込み、床を掻いた。
その一本が、リオの足首をつかんだ。
冷たくない。
熱くもない。
触れられた場所から、自分の名前だけが消えていく感覚だった。
リオは鐘を落としかけた。
ナジャが右手をつかむ。
バシュがナジャの腰をつかむ。
ピルカがバシュの帯をつかむ。
オルがピルカの足をつかんだ。
「帰るときは!」ナジャが叫ぶ。
「全員で!」
五人が引いた。
白い指が、リオの靴を奪って虚空へ消えた。
裂け目が閉じる直前、向こうに父が見えた。
幻ではなかった。
白い砂の上に立ち、三年前と同じ外套を着ている。父は何かを叫び、胸元を指した。
リオは自分の胸元を探った。
銀の小箱。
家族の肖像が入っているはずの箱が、いつの間にか重くなっていた。
父は笑った。
そして裂け目が閉じた。
七
静寂は、一秒しか続かなかった。
霊廟の床が割れた。
「走れ!」
五人は出口へ向かった。
背後で石棺が砕け、白塔の王女の死体とムラドが金の濁流へ呑まれた。彼が最後に何を叫んだかは、崩落の音で聞こえなかった。
家系図の広間へ戻ると、金の枝が壁から剥がれ、蛇のように暴れていた。先祖たちの肖像が一枚ずつ目を開ける。
リオの肖像もあった。
描かれた自分は、黒い卵のような顔をしていた。
「趣味悪い!」
ピルカが石を投げ、肖像を割った。
都市全体が崩れ始める。空中橋が落ち、塔が断崖から剥がれる。透明な山鯨が驚き、低い声で鳴いた。
「帰り道はどこ!」バシュ。
地図は白くなっていた。
線が一本もない。
代わりに、九王の鐘が青く光り、山の下を指した。
「鐘が地図だ!」
「でも道がない!」
目の前で橋が落ちた。
向こう岸まで二十歩。
ピルカが辺りを見回し、広場に繋がれた山鯨を指した。
「あれ」
「生き物だぞ」とオル。
「だから飛ぶ」
「乗り方は?」
「上!」
五人は繋留塔へ走った。
山鯨は家ほど大きく、透明な翼の間に荷籠を背負っている。目は金色で、鼻先から霜を吐いていた。
ナジャが鎖の錠へ針金を差す。
手が震えている。
「急いで!」リオ。
「六本指じゃないから時間かかる!」
錠が外れた。
山鯨は身を翻し、荷籠ごと断崖から飛び出した。
五人は籠へしがみつく。
落下。
風。
胃袋だけが山頂へ残ったような感覚。
山鯨の翼が開いた。
彼らは崩れ落ちるカル・シラの下を滑空した。
背後で山が折り畳まれていく。峰と峰が重なり、峡谷が紙の皺のように消える。砂海が空へ持ち上がり、巨大な波になった。
「どこへ飛ばせばいい!」ナジャ。
リオは鐘を掲げた。
青い光が、山鯨の額へ落ちる。
山鯨は方向を変え、砂の波へ突っ込んだ。
「また壁!」バシュ。
「今度もたぶん通れる!」
「たぶんが多い!」
砂の波が世界を埋める。
リオは息を止めた。
八
冷たい水へ落ちた。
五人は月裏湯の空のはずの浴槽で、盛大に水しぶきを上げた。
湯が戻っていた。
山鯨はいない。
荷籠もない。
ただ五人と、九王の鐘と、リオの片方だけの靴が浴槽に浮いている。
外で怒鳴り声がした。
「工事開始! 住民を下がらせろ!」
窓から朝日が差していた。
「三日経った?」ピルカ。
月裏湯を出ると、旧区の大通りは大騒ぎだった。
家々の前に住民が立ち、向かいには役人と衛兵と、竜骨で補強した巨大な破城車が並んでいる。布告の期限、三日目の日の出だった。
ナジャの母が娘を見つけた。
「どこへ行ってたの!」
抱きしめてから、頭を叩いた。
バシュの母も同じことをした。
ピルカの祖母は泣き、オルの叔父は感受性豊かに倒れた。
リオは人混みの中に父を探した。
いない。
胸元の銀の小箱を思い出す。
蓋を開いた。
家族の肖像の裏に、薄い石板が一枚入っていた。見たことのない青い文字が刻まれている。
オルが覗き込む。
「古代ラクサルの勅許状だ」
「何て?」
「『九王の鐘を持ち帰り、街道を閉じた者に、東門から月裏湯までの土地と水を永代で与える』」
ナジャが鐘を見た。
役人を見た。
にやりと笑った。
「ちょうどいい」
工事監督が旗を振り上げる。
「破城車、前へ!」
リオは大通りの中央へ走った。
「待て!」
誰も待たなかった。
破城車が動く。
竜骨の衝角が、月裏湯へ向かう。
リオは九王の鐘を鳴らした。
しゃらん。
旧区の地面が光った。
石畳の下から金の線が走り、路地を巡り、家々を囲む。月裏湯の丸天井で青い月が輝く。
大通りの両側に埋もれていた石像が、千年ぶりに立ち上がった。
頭のない九人の王。
王像の一体が片手を上げる。
破城車は見えない壁へぶつかり、前半分が粉々になった。
役人の帽子が飛んだ。
九王の声が、街全体へ響いた。
〈帰還者を認める。
鐘の守り手を認める。
この地は隊商の子ら、旅人、逃亡者、孤児、よそ者のための自由区である。
王も、商人も、これを奪うことあたわず。〉
石板の文字が空へ投影される。
役人たちは口を開けたまま見上げた。
「古代勅許は現行法より上位です」
オルが胸を張った。
「本当に?」ピルカが小声で訊く。
「たぶん」
「たぶんが多い」
旧区の長老が杖を振り上げた。
「聞いたか、役人ども!」
住民たちが歓声を上げる。
工事監督は青ざめ、破れた布告を拾った。そこにはムラド・サフィル商会の印がある。
「サフィル卿はどこだ!」
「星を食べに行った」とピルカが答えた。
誰も意味を尋ねなかった。
役人と衛兵は、壊れた破城車を置いて退いた。
朝日が旧区の屋根を照らす。
煙突から煙が上がり、粉屋の風車が回り、錠前店の看板が揺れた。
月裏湯の煙突からは、百年ぶりに白い湯気が上がっていた。
九
その日の夕方、月底団は月裏湯の屋根に座った。
バシュの母が焼いた蜂蜜パンを、一人二個ずつ持っている。団則その一に従った配給だ。
「宝石、一個くらい持ってくればよかった」とピルカ。
「金の腕に食われたかった?」ナジャ。
「小さいやつなら勝てた」
「宝ならある」
リオは銀の小箱を開いた。
古代勅許状の下に、もう一枚の紙が入っていた。
父の字だった。
〈リオへ。
この手紙を読んでいるなら、お前は道を閉じた。
私は折畳砂海に残る。ここでは一日が外の一年にも、一年が一息にもなる。
探しに来るな、と父親らしく書くべきなのだろう。
だが地図屋としては、道がある限り、いつか誰かが来ると知っている。
そのときは、帰るための地図を持ってきてくれ。
追伸。
お前の曾祖母は六本指だった。
編み物がとても速かった。
それ以外は、ひどく普通の人だった。〉
リオは何度も読み返した。
「生きてる」とバシュ。
「たぶん」とオル。
「その言葉、今日は信用する」
ナジャがリオの手を見た。
影の指は五本に戻っていた。
けれど掌には、鐘の針が触れていないはずの場所に、小さな銀色の三日月がある。
「怖い?」リオが訊いた。
「何が」
「僕の血」
ナジャは蜂蜜パンを半分に割った。
「お前が夜中に寝言で地図の座標を言うことは怖い。お前の父さんの方位器が勝手に動くのも怖い。六本目の指が生えて、私の鍵開け記録を抜かすのはもっと怖い」
「真面目に」
「真面目だよ」
彼女は片方をリオへ渡した。
「血は扉かもしれない。でも扉は、開けるか閉じるか選べる」
ピルカが屋根の端で叫んだ。
「見て!」
西の空に、蜃気楼が浮かんでいた。
遠い砂海。
崩れた山。
白い砂の上に立つ、一人の男。
リオの父だった。
父は胸の前で両手を動かした。
地図屋が旅先で使う手信号。
〈道を見つけた。〉
リオも手を上げる。
〈必ず行く。〉
蜃気楼の背後で、白い六本指が一瞬だけ空を掻いた。
リオは九王の鐘を握った。
ナジャは針金を確かめた。
バシュは残りのパンを袋へ詰めた。
ピルカはもう屋根から屋根へ走り出していた。
オルは辞典を二冊に増やすべきか悩んだ。
月は上に。
秘密は下に。
帰るときは全員で。
旧ラクサル区の煙突から湯気が立ちのぼり、青い月へ届いた。
そして、誰にも聞こえないほど遠い星で、
もうひとつの鐘が、答えるように鳴った。
了