『視聴者ゼロのアンコール』
午前零時十七分、湾岸第七码頭テレビセンターの自動販売機は、必ず一度だけ唸った。
古い冷蔵庫が寝返りを打つような音だった。百目鬼小夜子は、その音を合図にモップを壁へ立てかけ、紙コップのボタンを押した。
「今日もココアですか」
背後から声がした。
夜間警備員の峰山冬一だった。六十二歳。背が高く、髪はほとんど白い。制服を着ると校長先生のように見え、笑うと急に少年の面影が出た。
「コーヒーよ。砂糖とミルクを多めにしただけ」
「それを世間ではコーヒー味のココアと言います」
「世間は夜中の零時に床を磨いてくれないでしょう」
小夜子が紙コップを二つ取り出すと、冬一は片方を受け取った。
第七码頭テレビセンターは、かつて歌番組とドラマを週に何十本も撮った巨大施設だった。今では半分が倉庫、四分の一が配信会社のスタジオ、残りは取り壊しを待つ空洞になっている。
その夜、第七スタジオでは配信ドラマ『星のない夏』の撮影が続いていた。
三十八年前、絶頂期に突然姿を消したアイドル、SAYA。その失踪の真相を描く、という触れ込みだった。
十七歳の人気アイドル、椎名つむぎがSAYAを演じている。スタジオの廊下には、銀色の衣装を着たつむぎの巨大ポスターが並んでいた。
コピーはこうだ。
――彼女は、なぜファンを捨てたのか。
「ひどい言い方ね」
初めてそのポスターを見た夜、小夜子はつぶやいた。
冬一は隣で、少しだけ間を置いて答えた。
「捨てられたことにしたほうが、残った人は楽なんでしょう」
その答えを聞いて、小夜子はこの男が自分の正体を知っているのだと悟った。
けれど、彼は何も聞かなかった。
SAYAの本名は、百目鬼小夜子。
十九歳のときにデビューし、二十一歳の夏、全国生放送の歌番組から消えた。その後は芸能界と縁を切り、地方のホテルで働き、結婚し、離婚し、母を看取り、いくつかの町を転々とした。
六十歳を目前にした今、かつて自分が歌っていたスタジオで、清掃員をしている。
運命と呼ぶほど美しくもない。
求人票に「深夜手当あり」と書いてあっただけだ。
「日曜日、屋上に上がりませんか」
冬一が言った。
「警備員がそんなことを勧めていいの?」
「警備員同伴です」
「何があるの」
「流星群。午前二時ごろが見頃らしいです」
小夜子はカップの縁を指でなぞった。
「星は、もう十分見たわ」
「本物は別でしょう」
廊下のポスターでは、十七歳のつむぎが作り物の星を背負って笑っていた。
小夜子は答えなかった。
代わりに、冬一の胸ポケットからのぞいている古い布切れを見た。青地に銀色の星。三十八年前のSAYA公式ファンクラブ、その会員章だった。
「それ、まだ持っているのね」
「ばれていましたか」
「そんなものを胸に差している警備員、ほかにいないもの」
冬一は会員章を取り出し、掌に載せた。端が擦り切れ、星の刺繍は半分ほど解けている。
「二十四歳のとき、あなたの歌を聴きました」
「やめて。昔の歌を褒められると、腰まで痛くなる」
「歌の話ではありません」
彼は笑わなかった。
「あなたが消えた夜、僕は手紙を出しました。返事はいらないから、生きていてください、と」
小夜子の指が止まった。
何万通も届いた手紙の中で、たった一通だけ、今も引き出しにしまってある。
便箋は安物で、字は不器用だった。
あなたが歌わなくても、笑わなくても、こちらを見なくても、生きていてください。
ファンでいることを、あなたの仕事にしないでください。
「峰山冬一……」
小夜子が名前を呼ぶと、彼は目を伏せた。
「覚えていましたか」
「手紙だけね。顔は今日まで知らなかった」
「それで十分です」
小夜子は紙コップを捨てた。
「日曜日、晴れたらね」
冬一が顔を上げた。
「流星群」
「警備員同伴で」
そのとき第七スタジオから、何かが倒れる音がした。
床に落ちていたのは、銀色のマイクだった。
セットの中央で、椎名つむぎが泣いていた。
スタッフは全員、食事休憩に出ている。残っていたのは、若いマネージャーと、モニター越しに指示を出すプロデューサーの藍倉だけだった。
『もう一回。泣くなら、カメラを見て泣いて』
天井のスピーカーから藍倉の声が響いた。
「できません」
つむぎは俯いた。
『できるよ。明日の謝罪配信の練習だと思えばいい』
「だって、私、誰とも付き合ってません」
『知ってる。だから安心して泣けるだろ』
小夜子は足を止めた。
つむぎのマネージャーが、困ったように笑った。
「来週、ドラマの中盤で数字を上げたいんです。軽い熱愛記事を出して、本人が謝罪。その直後にSAYA役の覚醒回を配信する。全部、宣伝の一環です」
「本人には今、初めて説明したの?」
「サプライズのほうが、表情が本物になりますから」
『清掃の人、そこ映り込んでる。出てって』
小夜子は動かなかった。
つむぎの頬には涙が流れていた。完璧な形の涙だった。照明を受け、顎の先で一度だけ光って落ちる。若いころの小夜子も、同じ角度で泣くよう教えられた。
「その涙は、あなたのものよ」
小夜子は言った。
つむぎが顔を上げる。
「勝手に商品にさせちゃだめ」
『誰だ、あんた』
小夜子はセットへ入り、落ちたマイクを拾った。銀色の塗装は軽く、昔使っていたものよりずっと安っぽかった。
舞台の奥には、ドラマ用に再現されたSAYAの引退前ラストステージがあった。
白い階段。銀の月。星を模した豆電球。
何もかも、少しずつ間違っている。
「振り付けも違うわ」
小夜子はマイクを持ったまま、最初の八小節を踊った。
右へ二歩。左肩を引く。指先で夜空を切り、振り返る。
身体は重かった。膝も昔のようには曲がらない。
それでも、三十八年という時間を飛び越えて、筋肉が次の動きを覚えていた。
モニターの向こうで、藍倉が黙った。
つむぎが、息を呑んだ。
「もしかして……」
小夜子は踊るのをやめた。
遅かった。
天井の収録ランプが赤く点いていた。
翌日の昼、小夜子の顔はインターネット中に広がった。
――伝説の失踪アイドル、清掃員として発見。
――三十八年ぶり、奇跡の復活か。
――SAYA、なぜファンを裏切った?
撮影現場の映像は、誰かが偶然録画したことになっていた。もちろん偶然ではない。
藍倉は満面の笑みで契約書を持ってきた。
「百目鬼さん。いや、SAYAさん。今度こそ、あなた自身の言葉で真実を語りましょう」
「私自身の言葉を、あなたが編集するのね」
「編集は嘘ではありません。伝わりやすくする作業です」
「昔も、そう言われたわ」
三十八年前、同じグループで歌っていた梨花が急死した。
事務所は小夜子に、全国生放送で追悼文を読ませようとした。梨花とは永遠の親友だった。最後まで互いを支え合っていた。天国でも笑っているはずだ。
用意された原稿には、そう書かれていた。
けれど二人は、死ぬ前の晩に激しく喧嘩をしていた。
小夜子は梨花の才能を妬んでいた。梨花も小夜子を憎んでいた。仲直りできないまま、梨花は帰らなかった。
悲しかった。
同じくらい、腹が立っていた。
許してほしかった。
許したくもなかった。
そのどれもが本当だったのに、事務所は「美しい友情」だけを選び、残りを切り捨てた。
生放送で原稿を渡された小夜子は、一行目を読んだところで黙った。
そしてカメラに背を向け、スタジオを出た。
世間は彼女を「仲間の死にも涙を見せない冷たいアイドル」と呼んだ。
小夜子は反論しなかった。
反論すれば、梨花との喧嘩まで商品になると知っていたからだ。
「今なら名誉を取り戻せます」
藍倉は言った。
「SAYAは被害者だった。そういう物語に変えられる」
「今度は聖女にするの?」
「悪女よりはいいでしょう」
「どちらも私じゃないわ」
藍倉は契約書を机に置いた。
「今夜零時、緊急生配信をします。椎名つむぎとの対談です。出るだけで構いません。話したくないことは話さなくていい」
「話さない私を、どう編集するの」
「沈黙には、何より強い意味があります」
その言い方を、小夜子は知っていた。
沈黙に意味をつけるのは、いつだって沈黙していない側だ。
午後十一時五十分。
小夜子は第七スタジオの裏口から逃げようとした。
しかし廊下の先に、冬一が立っていた。
「止めるの?」
「警備員ですから」
「そう」
「正面玄関は記者でいっぱいです。逃げるなら、旧中央調整室を抜けたほうがいい」
冬一は鍵束を持ち上げた。
二人は、使用禁止と書かれた鉄扉を開けた。
旧中央調整室には、埃をかぶった機材が並んでいた。ブラウン管のモニターが二十台。映像卓。電話機。灰色の椅子。
電源は何年も前に切られているはずだった。
それなのに、一番奥のモニターだけが青白く光っていた。
砂嵐の中から、拍手が聞こえた。
『皆さま、こんばんは』
男とも女ともつかない声だった。
画面には、顔のない司会者が立っていた。黒いスーツ。白い手袋。頭部は照明に塗り潰され、輪郭しか見えない。
『今夜の「人生再放送」、出演者は百目鬼小夜子さん。芸名、SAYA』
小夜子と冬一は、同時にモニターを見た。
『あなたは現在、三百八十四万二千百十六人の記憶に保存されています。歌声、笑顔、失踪、憶測。断片の総再生時間は、一万九千八百六十二年』
「何の番組?」
『あなたが選ばなかった人生を、選び直す番組です』
画面が切り替わった。
二十歳のSAYAが、満員のドームで歌っている。
顔も声も、若い日の小夜子そのものだった。
観客が泣き、名前を叫び、手を伸ばしている。数十年後も彼女は老いず、毎晩、新しい歌を歌う。広告になり、映像になり、人工の声になり、永遠に愛され続ける。
『第一の選択。再演』
司会者が白い手を差し出した。
『あなたは二十歳の姿で復帰します。失踪以後の人生は消去され、SAYAとして永久に保存されます』
次の映像が映った。
がらんとしたスタジオ。
ポスターから顔が消え、音源から歌声が消え、雑誌の記事は白紙になっている。誰もSAYAという名を知らない。
『第二の選択。終演』
『すべての記録と、あなたをスターとして愛した者の記憶から、SAYAを消去します。あなたは百目鬼小夜子として残ります。ただし、消去による人間関係の変化は保証されません』
小夜子は冬一を見た。
彼の胸ポケットには、青い会員章があった。
「あなたの手紙も消えるのね」
冬一は答えなかった。
画面の中で時計が動き始めた。
零時まで、あと六分。
『選択がない場合、視聴率の高い人生を自動採用します』
「ずいぶん親切な地獄ね」
小夜子は笑った。
だが、目の前に映る二十歳の自分から目を離せなかった。
肌は輝き、髪は風に揺れ、声はどこまでも伸びていた。
もう一度だけ、あの身体で歌えたなら。
もう一度だけ、梨花の名前を正しく呼べたなら。
もう一度だけ、カメラに背を向けず、すべてを話せたなら。
そんな考えが胸をよぎった。
「戻りたいですか」
冬一が訊いた。
「少しね」
「僕なら戻るかもしれない」
「あなたが正直で助かったわ」
「妻が死ぬ前に、もっと話せたことがあった。息子と喧嘩した日に、違う言葉を選べたかもしれない。人間は、過去に入口があると聞けば、用事もないのに覗きます」
小夜子は、画面の若い自分を見つめた。
「あなたは、あの子が好きだったのよね」
「好きでした」
「今も?」
冬一は胸の会員章を外した。
長いあいだ指で挟み、それから映像卓の上に置いた。
「SAYAは、僕の返事を必要としませんでした。何を言っても笑ってくれた。何歳にもならなかった。だから、好きでいるのは簡単でした」
「私は面倒よ」
「知っています。甘いコーヒーしか飲めないのに、ブラックを頼んだふりをする。腰が痛い日はモップを右手だけで持つ。腹が立つと丁寧語になる。昔の話になると、急に早口になる」
「よく見てるのね」
「ファンをやめたからです」
時計は、あと三分を示していた。
「ファンをやめると、人が見えるんです」
小夜子は目を閉じた。
第七スタジオでは今ごろ、藍倉が彼女の不在さえ演出に変えているだろう。
つむぎはカメラの前で泣かされているかもしれない。
SAYAという物語が残れば、次の誰かがその役を演じる。傷も、沈黙も、後悔も、見やすい長さに切られ、再生され、数字になる。
消すことが正しいとは思わなかった。
けれど、残すことが正しいとも思えなかった。
小夜子はモニターに向かって言った。
「終演を選ぶわ」
『確認します。SAYAを消去しますか』
「ええ」
『あなたをスターとして愛した者の記憶からも』
小夜子は冬一を見た。
彼は何も言わず、ただ頷いた。
「消して」
残り一分。
『最後に、視聴者へ一言』
小夜子は笑った。
三十八年前、言えなかった言葉があった。
ファンにも、事務所にも、梨花にも、自分にも。
「私の人生を見てくれて、ありがとう」
一度、息を吸った。
「でも、ここから先は見ないで」
時計が零時になった。
すべてのモニターが白く光った。
朝六時。
第七スタジオでは、歯磨き粉のコマーシャルが撮影されていた。
白い階段も、銀の月も、SAYAのポスターもなかった。
藍倉は小夜子を見ても、眉一つ動かさなかった。
「清掃は収録後にお願いします」
それだけ言い、忙しそうに去っていった。
携帯電話で検索しても、SAYAというアイドルは出てこなかった。
三十八年前の歌番組には、別の歌手が映っていた。梨花はソロでデビューし、二十一歳で活動を休止している。記事には「理由は公表されず」とだけあった。
椎名つむぎは、コマーシャルの後ろで踊る六人のうちの一人になっていた。
休憩中、彼女は小夜子のところへ来た。
「あの、変なこと言っていいですか」
「どうぞ」
「昨日、夢を見たんです。知らない女の人に、泣くなら自分のために泣けって言われて」
つむぎは照れくさそうに笑った。
「だから、さっきマネージャーに言いました。嘘の熱愛記事を出すなら辞めるって。そんな企画、最初からなかったらしいんですけど」
「そう」
「でも、言えてよかったです」
つむぎは頭を下げ、呼ばれて走っていった。
小夜子は、その背中がセットの向こうへ消えるまで見送った。
背後で、靴音がした。
「百目鬼さん」
冬一だった。
小夜子は振り返れなかった。
もし彼の中からすべてが消えていたら。
自動販売機の前で交わした言葉も、手紙のことも、日曜日の約束も。
それでも、仕方がない。
自分で選んだことだった。
「清掃用具、旧中央調整室に置きっぱなしでしたよ」
「……ごめんなさい」
「それから」
冬一は、小夜子の前へ回った。
「日曜の屋上、午前二時でいいですか」
小夜子は顔を上げた。
「覚えているの?」
「何をです」
「SAYAを」
冬一は首を傾げた。
その目には、嘘をついている気配がなかった。
「それは誰ですか」
胸ポケットに会員章はなかった。
小夜子の中で、細い糸が切れた。
悲しいのか、ほっとしたのか、自分でも分からなかった。
冬一は続けた。
「ただ、あなたが昔、何か面倒な仕事をしていたことは覚えています。僕が手紙を書いたことも。その内容も」
「矛盾してるわ」
「人生なんて、だいたいそうでしょう」
「私のファンだったことは?」
冬一は少し考えた。
「覚えていません」
「そう」
「たぶん、もう対象外だったんじゃないですか」
「何の?」
「さあ」
彼は、あの少年のような笑い方をした。
「少なくとも今は、ファンではありません。日曜に星を見たあと、あなたと朝ごはんを食べたいと思っている男です」
小夜子は泣きそうになった。
つむぎの涙はつむぎのものだ。
ならば、この涙は自分のために流していい。
日曜の午前二時、二人はテレビセンターの屋上にいた。
雲はなく、街の明かりの上に、かすかな星が見えた。
「本当に流れるの?」
「予報では」
「テレビの予告より信用できる?」
「同じくらいです」
冬一がそう言った直後、夜空の端を細い光が走った。
一瞬だった。
願い事を考える暇もない。
「何か願いましたか」
「いいえ」
「僕もです」
「大人になると、願い事まで反応が遅くなるのね」
もう一つ、星が流れた。
小夜子は空を見上げたまま、冬一の手を握った。
恋と呼ぶには静かすぎ、友情と呼ぶには少し熱かった。
黄昏のあとに来るのは夜だ。
けれど夜には、昼間には見えないものがある。
屋上を下り、二人は朝食を食べに歩いた。
駅前の電器店を通り過ぎたとき、ショーウインドーの奥で、一台だけ古いテレビが点いていた。
砂嵐が晴れ、若い女が映った。
二十歳のSAYAだった。
観客のいないスタジオで、誰にも聞こえない歌を歌っている。
画面の隅には、白い数字が出ていた。
視聴者数 0
歌い終えた彼女は、カメラではなく、舞台袖の誰かに向かって微笑んだ。
そして深く頭を下げた。
小夜子も、ガラス越しに小さく頭を下げた。
「どうしました?」
先を歩いていた冬一が振り返る。
「昔の知り合いに、お別れを」
テレビは砂嵐に戻った。
午前五時の街に、始発電車の音が響いた。
「朝ごはん、何にしますか」
「コーヒー」
「砂糖とミルクは?」
「多めに」
「やっぱりココアじゃないですか」
二人は笑いながら、明るくなり始めた道を歩いていった。
もう、どこにもカメラはなかった。
了