『鉛の雨がやむまで』
一 乾いた刑事
太陽は、死体より口数が多かった。
白く焼けた塩原の真ん中で、神谷トウマは車を止めた。十二気筒の追跡車〈ハウンド〉は、咳き込むように排気を吐き、錆びた車体を震わせた。かつて都市保安局の紋章があった扉には、いまは砂と銃痕しか残っていない。
道端には男が一人、背中を標識に預けて座っていた。
胸から流れた血は、地面に落ちる前に黒く乾いていた。
「遅いぞ、トウマ」
翠谷ミノルは、昔と同じ不機嫌そうな声で言った。二人が殺人課で組んでいたころ、彼はいつも時計を三分進めていた。世界が焼け、時計が役に立たなくなっても、遅刻を責める癖だけは残っていたらしい。
「呼び出した場所が悪い」
「景色はいい」
「死ぬにはな」
トウマは膝をつき、傷を見た。弾は肋骨の下から入り、肺を裂いている。手当てをする時間はなかった。ミノルも分かっていた。
「灰鐘市へ行け」
「断る」
「まだ何も言ってない」
「お前が俺を呼ぶときは、ろくな仕事じゃない」
ミノルは笑おうとして、血を吐いた。
それでも右手を上げ、真鍮の鍵を差し出した。鍵の頭には、小さな鐘が三つ刻まれていた。
「下渠区で、人が死んでる。喉を焼かれて、目を白くしてな。疫病じゃない。井戸に毒を入れられた」
「誰が」
「保安局だ」
風が止まった。
遠くで、廃発電塔の羽根が一枚だけ軋んでいた。
「総監のディアム・グレインは、街を空にする気だ。下渠区の地下に、新しい水脈が見つかった。住民が邪魔なんだ」
「証拠は」
「水医者が持ってる。トキワ・ミズホ。こいつを渡せ」
トウマは鍵を受け取らなかった。
「俺はもう刑事じゃない」
「知ってる。刑事なら、こんな頼みはしない」
ミノルは鍵をトウマの胸ポケットへ押し込んだ。
「鐘を三度鳴らせ。そうすれば、街の腹が開く」
「謎かけは嫌いだ」
「お前は昔から、答えが一つしかない問題が好きだったな」
ミノルの目から光が消えた。
最後まで、時計の針を急がせるような死に方だった。
トウマはしばらく立ち上がらなかった。
やがて死体の目を閉じ、古い保安局の記章を外してミノルの胸へ置いた。
「三分だけ待ってろ」
彼は〈ハウンド〉へ戻った。
エンジンが吠え、塩の粉を噴き上げる。
地平線の向こうに、灰鐘市の塔が見えた。
巨大な鐘楼を中心に、崩れた高架道路と給水塔が針のように空へ突き出している。九年前から鳴らない鐘。その下で、法と水は同じ男に握られていた。
二 水の値段
灰鐘市の門には、二種類の列ができていた。
水を買える者の列と、買えない者の列だ。
買える者は銀貨を払い、青い通行札を受け取る。
買えない者は荷台から降ろされ、腕に赤い焼き印を押される。下渠区行きの印だった。
トウマの車を見た門番は、鼻で笑った。
「骨董品だな。通行税は燃料五リットル」
「三リットル」
「決めるのは俺だ」
「そうか」
トウマは回転式拳銃を抜き、門番の後ろにある料金表を撃った。錆びた鉄板が落ち、その裏から正式な税額が現れた。
燃料二リットル。
「二リットルだな」
「……字が読めるなら最初から払え」
「お前の説明が長かった」
街の中心へ近づくほど、道はきれいになった。
上層区では噴水が空へ水を投げ、白い服の子どもたちがその下を笑って走っていた。下層へ目を向ければ、乾いた運河の底に小屋が密集し、人々は排水管の雫を布で受けていた。
水医者トキワ・ミズホの診療所は、その境目にあった。
かつて銀行だった建物の金庫室が薬品庫になり、窓口には包帯と濾過布が積まれていた。
トキワは三十歳前後に見えた。
短く切った髪を油で後ろへ撫でつけ、白衣の代わりに灰色の作業服を着ている。右頬には薬品火傷の痕があった。
「翠谷さんは?」
トウマは答えず、真鍮の鍵を机へ置いた。
トキワはそれを見て、ゆっくり目を伏せた。
「そう」
悲しむ時間を、彼女は一度だけ深く息を吸うことで済ませた。
下渠区では、涙も水分だった。
トキワは金庫から三本の試験管を出した。どれも底に薄紫の沈殿物がある。
「井戸水から出た硫化鉱滓。古い精錬所の廃液です。少量なら吐き気と失明。濃ければ肺が内側から焼ける」
「事故か」
「三つの井戸で、同じ時刻に濃度が上がった。事故は時計を持ちません」
彼女は街の図面を広げた。
下渠区の井戸はすべて、中央浄水場から伸びる補助管につながっている。
「保安局は『荒野の略奪団が毒を投げ込んだ』と発表しました。でも補助管の弁室は、総監の認証札がないと入れない」
「認証札を盗まれた可能性は」
「盗まれたことにする可能性なら高い」
トウマは試験管を光に透かした。
「何人死んだ」
「確認できたのは四十八人。明日の配給祭で中央槽が開けば、十倍になります」
「なぜ祭りを中止しない」
「総監は、むしろ人を集めています。『清浄な水を無償で配る』と言って」
トウマは図面の鐘楼を指で叩いた。
「この鍵は」
「旧式の緊急水門鍵です。大干ばつの前、鐘楼は街の水圧を知らせる信号所でした。三度の鐘は、非常迂回路を開けという合図」
「いまも動くのか」
「主弁が生きていれば。ただし、迂回路へ流す水を浄化する触媒がありません」
「どこにある」
「北岸の旧海水処理場。ここから百二十キロ」
百二十キロ。
そのうち八十キロは、道路ではなく墓場だった。
トキワは別の紙を出した。輸送車の見取り図だった。
「今夜、整備組合の装甲給水車〈青鯨〉が出ます。触媒を積んで戻る。私は同行します」
「護衛は」
「雇った人が六人」
「帰ってくるのは二人だ」
「では、あなたを入れて三人」
トウマは彼女を見た。
「俺は高い」
「翠谷さんの借りは?」
「死んだ男は値切り方が汚い」
そのとき、診療所の外で複数の靴音が止まった。
扉が蹴り開けられ、黒い胸甲をつけた保安官たちが入ってきた。
先頭の男は、磨かれた銀の杖をついていた。
背が高く、髪は白い。砂漠に似合わないほど清潔な制服を着ている。灰鐘市保安総監、ディアム・グレインだった。
「久しぶりだな、神谷警部補」
「その呼び方をする奴は、たいてい俺を逮捕したがる」
「逆だ。雇いたい」
ディアムは笑い、机の試験管を杖の先で転がした。
「市民を怯えさせる偽の証拠を作る者がいる。私は秩序を守らねばならん」
「秩序は便利な言葉だ。死体を並べても、列が揃っていればそう呼べる」
保安官たちの手が銃へ動いた。
ディアムは杖を上げ、止めた。
「明日の祭りへ来い。上層区の水利監察官の席を用意しよう。水も燃料も、女も選べる」
「席はいらない」
「では、何が欲しい」
「お前が話を短くすることだ」
ディアムの笑みが消えた。
「街の外では、正義は一日も生きられんぞ」
「街の中で死んでるなら、同じことだ」
しばらく二人は見つめ合った。
やがてディアムは帽子の縁に触れ、踵を返した。
「夜道には気をつけろ、元刑事」
「お前もな。街灯が多いぶん、よく狙える」
三 青い鯨
日が沈むと、砂漠は急に牙を見せた。
装甲給水車〈青鯨〉は、全長二十メートルの古い採掘用輸送車だった。六つの車輪には鉄板が巻かれ、運転席の前には牛の頭蓋骨が吊られている。荷台の巨大な水槽は空で、その中へ浄化触媒を積んで帰る予定だった。
護衛六人のうち、まともに銃を整備していたのは二人。
トウマの見立ては甘かった。帰ってくるのは一人かもしれない。
運転手のレンガは、腕ほど太い葉巻を噛みながら言った。
「噂じゃ、北道は鉄面党が押さえてる。奴ら、車の皮を剥ぐ」
「人の皮は?」
「売れれば剥ぐ」
「なら安心だ。俺のは古い」
トキワは助手席で薬箱を固定していた。
トウマが乗り込むと、彼女は銃の弾数を数えた。
「十二発?」
「十八だ」
「予備は」
「六発を三か所に分けてる」
「なぜ」
「一か所を盗られても、まだ二回は腹が立てられる」
〈青鯨〉が門を出た。
〈ハウンド〉はその右後ろにつき、黒い車体を月明かりに滑らせた。
最初の三十キロは静かだった。
静かすぎた。
トウマは無線を取った。
「レンガ、速度を落とせ」
『なんでだ』
「道に死体がない」
『平和でいいじゃねえか』
「この道で平和なのは、待ち伏せしてる側だけだ」
言い終わる前に、前方の砂丘が爆発した。
鋼索が道路を横切り、〈青鯨〉の前輪へ絡みつく。車体が傾き、火花を散らした。
左右の廃ビルから改造車が飛び出した。
鉄板で顔を覆った男たちが、長槍と散弾銃を振り上げている。先頭車の屋根には、赤い回転灯がついていた。かつて救急車だったものだ。
「患者が多い夜だ」
トウマは〈ハウンド〉を加速させた。
最初の改造車が横へ並ぶ。
男が槍を突き出した。トウマは急にブレーキを踏み、槍を前へ流させ、その柄を窓からつかんだ。次の瞬間にはアクセルを踏み込み、男を屋根から引きずり落とす。
後方から銃声。
〈ハウンド〉の後窓が砕けた。
トウマはハンドルを片手で切り、車体を半回転させながら二発撃った。一発は敵車の前照灯、もう一発は運転席脇の燃料管。火はつかなかったが、燃料が噴き出し、後続車の視界を奪った。
〈青鯨〉の屋根へ三人が飛び移る。
トキワが助手席の扉から身を乗り出し、照明弾を撃った。白い火球が男たちの間で炸裂し、夜が昼より明るくなる。
「撃てるのか」
『薬を届ける仕事は、邪魔が多いので』
トウマは笑い、〈青鯨〉へ車を寄せた。
屋根へ飛び移り、最初の男の手首を銃身で打つ。散弾銃が落ちる。二人目の肘を逆へ折り、三人目の顎へ肩を入れた。
彼の動きに派手さはなかった。
人間の骨が、どちらへは曲がらないかを知っているだけだった。
鉄面党の頭らしい大男が、鎖付きの鉤を振り回して迫る。
鉄仮面には、黒い犬の絵が描かれていた。
「神谷トウマ!」
大男が叫んだ。
トウマは拳銃を向けたまま、動きを止めた。
「名乗った覚えはない」
「総監が言ってた。黒い追跡車を潰せば、家族を返すと!」
その瞬間、遠くの丘から銃火が走った。
大男の肩が弾け、彼は膝をつく。
狙撃手は鉄面党ではなかった。
灰鐘市の制式長銃。銃声の間隔も、保安局の射撃教範どおりだ。
「伏せろ!」
トウマは大男を倒し、自分も水槽の陰へ転がった。
丘から弾が降る。鉄面党も護衛も区別なく撃たれた。
「口封じか」
「たぶんな!」
大男は仮面を外した。四十代の痩せた顔。左目の下に、数字の焼き印があった。下渠区の住民印だ。
「俺はルクス。鉄面党なんて名前は、保安局がつけた。俺たちは追い出された工夫だ」
「説明は生き残ってからにしろ」
トウマは〈青鯨〉の固定具を撃った。
空の補助タンクが一つ外れ、坂を転がり落ちる。狙撃手たちの注意がそれへ向いた瞬間、トキワが二本目の照明弾を丘へ撃ち込んだ。
白光の中に、黒い胸甲が六つ浮かんだ。
トウマは三発撃った。
三人が倒れた。
ルクスが落ちた長銃を拾い、残りを撃ち返した。
戦いは一分もかからなかった。
砂埃が落ち着くと、護衛は二人死に、三人逃げ、一人は車の下で震えていた。
レンガは葉巻を噛んだまま、額から血を流していた。
「お前の予想、当たったな。帰るのは一人だ」
「まだ行きだ」
「縁起でもねえ」
トキワはルクスの肩を縫いながら尋ねた。
「家族を人質に?」
「ああ。下渠区から連れていかれた。俺たちに輸送車を襲わせ、街の外が危険だと見せる。明日になれば、毒も俺たちのせいになる」
「人質はどこだ」
「鐘楼の地下牢」
トウマは真鍮の鍵を握った。
三つの鐘。
「目的地は変えない」と彼は言った。「触媒を取る。それから街へ戻る」
ルクスが顔をしかめた。
「保安局と戦争する気か」
「戦争じゃない」
「じゃあ何だ」
「逮捕だ」
レンガが大声で笑った。
笑いすぎて傷が開き、トキワに殴られた。
四 海の墓
夜明け前、彼らは旧海岸線へ着いた。
海は、もうなかった。
地平線まで続く灰色の窪地に、船が何百隻も横たわっている。巨大な貨物船、軍艦、漁船。すべてが砂へ沈み、潮を待つ骨の群れになっていた。
旧海水処理場は、その墓場の端に立っていた。
錆びた配管が絡み、巨大な濾過塔が朝焼けを遮っている。
トキワとレンガが触媒を探すあいだ、トウマとルクスは周囲を見張った。
ルクスは鉄仮面を膝に置き、ぼそりと言った。
「俺の娘は十二だ。下渠区の学校で、鐘の絵を描いてた。鳴ったところを見たこともないのに」
「子どもは、見たことのないものを描く」
「大人は?」
「見たくないものに名前をつける。秩序とか、必要な犠牲とか」
ルクスはトウマを横目で見た。
「刑事だったんだろ。なぜ辞めた」
「水利商の息子が、配給所で一家を撃った。俺は逮捕した。判事は翌朝釈放した」
「それで?」
「次の夜、息子はまた撃った。今度は俺が先に撃った」
「正しいじゃないか」
「正しいことと、法に合うことは別だ。だから辞めた」
「後悔してるか」
「質問が多い」
「死ぬ前に聞いときたい」
「死んだあとで考えろ」
処理場の奥から、トキワの声がした。
「見つけた!」
青い樹脂の円筒が四本、保冷庫に残っていた。
触媒は十分だった。中央槽へ入れれば、毒を吸着できる。
そのとき、処理場の警報が鳴った。
遠くの海底を、黒い点がいくつも走ってくる。
保安局の装甲車。先頭には、前部へ巨大な衝角をつけた指揮車がいた。車体側面に、鐘を噛み砕く狼の絵が描かれている。
無線が割れ、ディアムの声が響いた。
『神谷。君は昔から、他人の事件へ首を突っ込みすぎる』
「お前の街では、事件のほうが寄ってくる」
『触媒を置いて去れ。過去の罪も不問にする』
「死んだ四十八人は?」
『街が生きるには、古い肉を切り落とす必要がある』
「医者に診てもらえ。腐ってるのは街じゃない」
ディアムはため息をついた。
『君は正義に酔っている』
「水より安いからな」
トウマは無線を切った。
正面から戦えば負ける。
〈青鯨〉は重く、敵は速い。弾も足りない。
彼は船の墓場を見た。
傾いた貨物船の腹から、巨大な錨鎖が海底へ伸びている。さらに向こうには、崩れかけた燃料貯蔵塔。
「レンガ。青鯨をまっすぐ走らせろ。あの船と塔の間だ」
「幅が足りねえ」
「だからいい」
「お前、俺の車を何だと思ってる」
「大きな蓋だ」
「褒めてねえな?」
敵車が迫る。
〈青鯨〉は触媒を積み、低く唸って走り出した。〈ハウンド〉が最後尾につく。
最初の装甲車が追いつき、側面から火炎を吐いた。
トウマは車を揺らして避け、敵の車輪へ撃つ。弾は鉄板に弾かれた。
二台目が〈青鯨〉へ鉤を撃ち込む。
鎖が張り、輸送車の速度が落ちた。
ルクスが屋根へ登り、切断用の斧を振るう。
銃弾が周囲を叩く。彼は一度倒れたが、また立ち上がり、三撃目で鎖を切った。
「娘に鐘を聞かせるんだろ!」とトウマが叫ぶ。
「だから急いでる!」
貨物船と燃料塔の隙間が近づく。
〈青鯨〉はぎりぎり通れる。追ってきた装甲車は、横幅が広い。
レンガは速度を落とさなかった。
左右の鉄板が船腹と塔を削り、火花が滝のように流れる。
敵の一台目が貨物船へ激突した。
二台目は避けようとして貯蔵塔の支柱を折る。
塔が傾いた。
「今だ!」
トウマは〈ハウンド〉を横滑りさせ、錨鎖へ車体後部をぶつけた。
錆びた留め具が外れる。何十トンもの鎖が蛇のように落ち、海底を横切った。
ディアムの指揮車が鎖へ乗り上げ、宙へ跳ぶ。
そのまま横転し、砂を巻き上げた。
だが止まらない。
指揮車は補助輪を展開し、車体を起こした。運転席の防弾窓の向こうで、ディアムが笑っている。
貯蔵塔が完全に倒れた。
残っていた燃料が砂へ流れ、敵の火炎放射器から落ちた火を拾う。
朝焼けより赤い炎が、海の墓を走った。
〈青鯨〉と〈ハウンド〉は爆風に押されながら、処理場を離れた。
背後で装甲車が燃え、船の骨が長い影を投げる。
トキワが無線で叫んだ。
『ディアムは?』
「生きてる」
『見えたの?』
「悪党は、自分の結末に遅刻しない」
灰鐘市の空に、配給祭の花火が上がった。
昼まで、あと二時間。
五 鐘の下
灰鐘市へ戻る北門は閉ざされていた。
壁の上には保安官が並び、機関銃の銃口を〈青鯨〉へ向けている。門前には、下渠区から逃げてきた住民が何百人も集まっていた。彼らは街を出たいのではない。中に残された家族へ戻りたかった。
トウマは車を降りた。
両手を見える位置に上げ、一人で門へ歩く。
「止まれ!」
拡声器が鳴る。
「神谷トウマ、保安総監暗殺未遂および給水車強奪の容疑で逮捕する!」
「総監は生きてる。仕事が雑だった」
「武器を捨てろ!」
トウマは拳銃を地面へ置いた。
予備弾も一本ずつ落とす。
門の小窓が開き、保安官が三人出てきた。
先頭の若い男が、トウマの腹を銃床で殴る。膝をついたところへ、もう一度。
「英雄気取りか、元刑事」
「いや」
トウマは男の靴を見た。
かかとに新しい泥がついている。中央浄水場の青い粘土だ。
「お前たちが証拠を持ってきてくれた」
「何を――」
トウマは立ち上がりながら、男の顎を頭で打った。
二人目の銃口を外へ払い、肘を脇へ落とす。関節が鳴った。三人目が引き金を引く前に、その手首をつかみ、門の鉄枠へ叩きつける。
落ちた鍵束を拾う。
壁の上で機関銃が旋回した。
その瞬間、〈青鯨〉の巨大な補助タンクが撃ち出された。
レンガが圧縮弁を開いたのだ。
空のタンクは鉄の砲弾になって門へ突っ込み、蝶番を吹き飛ばした。
「蓋ってのは、こう使うんだ!」とレンガが叫んだ。
門が内側へ倒れる。
住民がなだれ込んだ。ルクスと工夫たちは鉄仮面をかぶり、保安官の詰所へ走る。今度は誰かに命じられた襲撃ではなかった。
「トキワ、触媒を中央槽へ」
「あなたは?」
「鐘を鳴らす」
「一人で?」
「人数が多いと、逮捕状を書くのが面倒だ」
トキワは何か言いかけ、やめた。
代わりにトウマの掌へ一発の弾を置いた。
「診療所の金庫にあった。翠谷さんが預けていました」
「一発だけか」
「『あいつは最後の一発を無駄にしない』と」
弾の底には、ミノルが針で小さな三本線を刻んでいた。
トウマは拳銃を拾い、弾を込めた。
「相変わらず、値切り方が汚い」
鐘楼へ続く中央大通りでは、配給祭が始まっていた。
上層区の市民は白い天幕の下で杯を掲げ、下渠区の人々は柵の外へ押し込められている。中央槽の水は、銀色の管を通って巨大な配給塔へ上がっていた。
ディアムは壇上に立っていた。
制服は焼け、額から血が流れている。それでも銀の杖を握り、声だけは威厳を保っていた。
「市民諸君! 荒野の賊が、我々の水を奪おうとしている! だが恐れるな。保安局は――」
遠くで門が崩れる音がした。
人々が振り返る。
トウマは大通りの中央を歩いた。
銃は腰に戻し、手には泥のついた保安官の靴を持っている。
「続けろ」と彼は言った。「秩序の話だったな」
ディアムの目が細くなる。
「その男を撃て!」
保安官たちは動かなかった。
門から逃げてきた者が、すでに彼らへ何が起きているかを叫んでいた。さらに、トキワの診療所の助手たちが試験管を掲げ、毒の名前を群衆へ伝えている。
トウマは靴を壇上へ投げた。
青い泥が、白い幕へ散った。
「中央浄水場の弁室にしかない粘土だ。門番の靴についていた。街の外の賊が毒を入れたなら、なぜこいつらが弁室へ行った」
「作り話だ!」
「なら、中央槽を開けて飲んでみろ」
群衆がざわめいた。
ディアムは銀の杖を強く握った。
「街を守るには、決断が要る。下渠区は病巣だ。水を浪費し、犯罪を生み、未来を食う。少数を切り捨てれば、多数が生きられる」
下渠区の柵の向こうで、誰かが泣いた。
誰かが石を投げた。
ディアムは杖を上げた。
先端が割れ、中から小型拳銃が現れる。
「未来に、君のような古い刑事はいらん」
銃声が鳴った。
トウマは身をひねった。
弾は肩をかすめる。彼も抜き撃ちしたが、ディアムの胸甲に弾かれた。
最後の一発ではない。
自分の弾だった。
ディアムは壇上の裏へ逃げ、鐘楼へ続く昇降機へ飛び乗った。
トウマは肩を押さえながら追った。
六 三度の鐘
鐘楼の内部は、巨大な機械の墓だった。
歯車、滑車、錘、錆びた水圧計。
中心には、街の地下水路を動かす手動制御盤があり、その上に三つの鍵穴が並んでいた。トウマの真鍮鍵は、一番左へ合った。
だが鍵を回すには、残る二つも必要だった。
昇降機が上で止まる。
ディアムの足音が、鉄の階段を駆け上がっていく。
トウマは制御盤を調べた。
鍵穴の下に古い文字が刻まれている。
第一鍵――保安。
第二鍵――水利。
第三鍵――市民。
非常水門は、一人の命令では開かない仕組みだった。
昔の街は、権力を三つに分けていた。いま、すべてをディアムが集めている。
背後で銃声。
弾が制御盤をかすめた。
ディアムが上階から見下ろしていた。
首には二本の鍵が下がっている。
「よくできた制度だろう?」と彼は言った。「だから私は、鍵を一つに集めた。決断が速くなる」
「盗みが速くなるだけだ」
「水は力だ。力は分ければ弱くなる」
「水は分けなきゃ腐る」
ディアムが撃つ。
トウマは歯車の陰へ転がった。肩の傷から血が流れ、指先が痺れている。
残弾は一発。
ミノルの弾。
ディアムはゆっくり階段を下りてきた。
胸甲の下には、旧暴動鎮圧用の補助骨格を着けている。腕と脚の油圧筒が唸り、一歩ごとに鉄床のような音を立てた。
「君はいつも、悪人を一人倒せば世界が戻ると思っている」
「思ってない」
「では、なぜ戦う」
「お前が邪魔だからだ」
ディアムが突進した。
銀の杖が横薙ぎに振られ、鉄柱がへこんだ。トウマは懐へ入り、脇腹へ拳を打つ。胸甲の下で骨が鳴ったが、補助骨格は止まらない。
裏拳を受け、トウマの体が歯車へ叩きつけられた。
拳銃が床へ落ちる。
ディアムは彼の首をつかみ、片手で持ち上げた。
「法を捨てた男が、最後に頼るのは暴力か」
「お前よりは……手続きが多い」
トウマは腰の工具袋から、門で拾った短い鎖を抜いた。
ディアムの右腕の油圧筒へ巻きつけ、歯車の歯へ投げる。
機械が鎖を巻き込んだ。
補助骨格の腕が逆方向へ引かれる。ディアムが叫び、首をつかんだ手が緩む。
トウマは着地し、膝裏の可動軸を蹴った。
鉄の脚が折れ、ディアムが片膝をつく。
それでも彼は強かった。
胸甲を開き、非常切離しレバーを引く。補助骨格を捨て、トウマへ体当たりした。
二人は階段を転げ落ち、制御盤の前へ倒れた。
ディアムが先に起きた。
床の拳銃へ手を伸ばす。
トウマも手を伸ばした。
だが肩が動かない。
ディアムは銃を拾い、笑った。
「最後の弾だな」
「そうだ」
「遺言は?」
「引き金を引け。答えが出る」
ディアムは一瞬だけ眉をひそめた。
そして撃った。
銃口から火が出る。
弾はトウマではなく、その背後の水圧計へ当たった。
ミノルが刻んだ三本線は、ただの目印ではなかった。
弾頭には浅い溝が切られ、命中した瞬間に割れるよう細工されていた。
破片が水圧計の三本の導管を同時に裂いた。
高圧水が噴き出し、制御盤へ叩きつけられる。
錆びついた安全機構が目を覚まし、三つの鍵穴の内部ピンを押し上げた。
緊急時、水圧が失われれば、鍵の同意を待たずに主弁を手動へ戻す。
古い技師たちは、権力より故障を信用していた。
トウマは真鍮鍵を差し込み、回した。
地下で、何か巨大なものが動いた。
街全体が低く震える。
「やめろ!」とディアムが叫ぶ。「下渠区へ水を流せば、上層の備蓄が減る! 街が弱くなる!」
トウマは鐘を動かす綱をつかんだ。
「街ってのは、壁のことじゃない」
一度、引く。
ゴオォン。
九年ぶりの音が、灰鐘市を打った。
屋根の砂が落ち、窓が震え、人々が空を見上げる。
二度目。
ゴオォン。
中央浄水場で、トキワが触媒筒を槽へ落とした。
青い樹脂が毒を吸い、紫から黒へ変わっていく。
三度目。
ゴオォン。
非常迂回路の弁が開いた。
清められた水が、乾いた下渠へ流れ込む。
最初は細い筋だった。
やがて道路の埃を押し、石を転がし、運河いっぱいに広がった。下渠区の人々が叫び、笑い、泣いた。子どもたちは靴を脱ぎ、まだ冷たい流れへ飛び込んだ。
鐘楼で、ディアムは窓の外を見ていた。
顔から血の気が失われている。
「私がいなければ、この街は奪い合いになる」
「お前がいたから、もうなってる」
ディアムは懐から小さな起爆器を出した。
「なら、街ごと乾け」
親指がボタンへ触れる。
トウマは撃てなかった。
弾はない。
代わりに、鐘の綱を横へ振った。
太い綱の結び目がディアムの手首を打ち、起爆器が宙へ飛ぶ。
二人は同時に飛びついた。
起爆器は窓枠へ当たり、外へ落ちた。
ディアムも身を乗り出す。
トウマは彼の腕をつかんだ。
下には、開いた放水路。濁流が白く泡立っている。
「助けろ」とディアムが言った。
初めて、総監ではなく一人の男の声だった。
「裁判を受けろ」
「私を誰が裁く」
「水を待ってた連中だ」
トウマは引き上げようとした。
だがディアムは空いた手で袖口の刃を出し、トウマの腕を刺した。
掴んでいた指が開く。
ディアムは落ちた。
白い流れに一度だけ姿が見え、すぐに消えた。
七 鉛の雨
戦いは、鐘が鳴ったあとも一時間続いた。
保安局の一部は武器を捨て、一部は倉庫へ立てこもった。
ルクスたちは地下牢を開け、家族を連れ出した。十二歳の娘は、父の鉄仮面を見て泣く代わりに、「ださい」と言った。
レンガは〈青鯨〉を中央広場へ乗り入れ、残った触媒と医薬品を配った。
トキワは負傷者を敵味方に分けず診た。
夕方、空が黒くなった。
砂嵐かと思った者たちは、建物へ逃げ込もうとした。
だが落ちてきたのは砂ではなかった。
雨だった。
大粒の雨が、焼けた屋根を叩く。
古い鉛板の上で、銃撃のような音を立てる。
人々は最初、信じなかった。
一人が手を出した。
次に子どもが口を開けた。
そして街じゅうの者が、空を見上げた。
トウマは診療所の軒下に座り、トキワに肩を縫われていた。
「痛い?」
「質問が遅い」
「麻酔は貴重なの」
「糸は?」
「もっと貴重」
トキワは結び目を作り、包帯を巻いた。
「翠谷さんは、非常水圧機構まで知っていたのね」
「昔、水利課にいた。刑事になる前にな」
「だから一発を用意した」
「俺が外す可能性は考えなかったらしい」
「外したら?」
「死んだあとで笑うつもりだったんだろう」
診療所の前を、ルクスと娘が通った。
娘は雨水を金属杯に集め、父へかけていた。鉄仮面はもう持っていない。
広場では、市民たちが臨時評議会を作っていた。
上層区と下渠区から同じ数の代表を出すという。話し合いはすでに怒鳴り合いになっている。
「秩序が始まったな」とトウマが言った。
「うん。うるさくて、遅くて、面倒なやつ」
トキワは隣へ座った。
「街に残らない?」
「医者は足りてる」
「保安官が足りない」
「俺は向いてない」
「今日、一人逮捕したでしょう」
「逃げられた」
雨脚が強くなる。
〈ハウンド〉の錆びた車体から、何年分もの砂が流れ落ちていた。
トキワはポケットから、ミノルの古い記章を出した。
塩原でトウマが死体へ置いたはずのものだ。
「ルクスが持ってきた。翠谷さんを埋めたって」
「仕事が早い」
「あなたより三分早かったそうよ」
トウマは記章を受け取り、しばらく見つめた。
そして診療所の扉の横へ釘で留めた。
「ここに置くの?」
「街に刑事が必要なんだろ」
「あなたは?」
「事件の後始末しかできない」
トキワは雨の向こうに広がる街を見た。
「街って、だいたい後始末から始まるよ」
トウマは答えなかった。
八 道の先
翌朝、雨はやんだ。
灰鐘市の空は、洗った金属のように青かった。
下渠にはまだ水が流れ、人々は壊れた配管を直し、共同槽を組み立てていた。鐘楼の三つの鍵は、別々の代表へ渡されることになった。
〈ハウンド〉は門の外でエンジンを温めていた。
レンガが燃料缶を積み、ぶつぶつ文句を言う。
「俺の青鯨は穴だらけだ。修理代、誰に請求すりゃいい」
「新しい評議会」
「あいつら会議しかしてねえ」
「秩序は高くつく」
ルクスは工具箱を抱えて現れた。
娘も一緒だった。
「北道を直す。もう人を襲わなくて済むようにな」
「車の皮を剥ぐ仕事は廃業か」
「お前の車だけは、いつか剥いでやる」
「予約しておく」
娘がトウマへ、小さな水筒を差し出した。
表面に鐘の絵が描かれている。
「雨の水。持ってって」
「街で使え」
「また降るから」
根拠のない自信だった。
だが、根拠がある絶望よりは役に立つ。
トウマは水筒を受け取った。
トキワは門の上に立っていた。
別れの言葉は言わず、ただ片手を上げた。トウマも同じように返した。
〈ハウンド〉が走り出す。
塩原へ続く道は、雨に濡れて黒く光っていた。
背後で鐘が鳴った。
一度。
朝の給水開始を告げる音。
かつて鐘は、権力者が水を与える合図だった。
いまは、人々が自分たちで水を分ける合図になった。
トウマは窓を開けた。
湿った風が車内へ入り、火薬と血と古い革の匂いを少しずつ追い出していく。
助手席には、弾のない拳銃と、満ちた水筒。
胸ポケットには、もう鍵はない。
道の先には、別の街が見えた。
煙が上がり、遠くで銃声がした。
トウマはアクセルを踏んだ。
太陽は相変わらず、死体より口数が多かった。
だがその朝だけは、鐘のほうがよく響いた。
了