『鉄鍋のバン ―天喰い城の大冒険―』
空の腹が鳴ると、砂漠に城が降ってくる。
カラカラ村の子どもなら、みんな一度は聞かされる昔話だ。
山より大きな空鯨が、百年に一度だけ砂海へ降りてくる。その背には、滅びた王国の城が丸ごと乗っている。城のいちばん深い場所には、永遠に水を生む青い宝石――〈星のしずく〉が眠っている。
もちろん、大人は笑う。
水の一滴が銀貨一枚で売られるこの時代に、そんな都合のいい宝があるものか、と。
だが、その日。
砂の地平線の向こうで、空が本当に鳴った。
「待ちやがれ、ドロ水ネズミどもォーッ!」
十四歳の少年バンは、家々の屋根を蹴って走っていた。
赤茶けた髪。日に焼けた頬。つぎはぎだらけの半ズボン。その背中には、少年の体よりひと回り大きい、真っ黒な鉄鍋がくくりつけられている。
前方では、三人の水泥棒がトカゲ車に飛び乗ろうとしていた。
荷台には、村の共同井戸から盗まれた水樽が一つ。
「へっ、ガキ一匹だ!」
「撃て撃て!」
泥棒が振り向き、短弓を放つ。
ヒュン、ヒュン、ヒュン!
「甘え!」
バンは背中の鉄鍋を引き抜いた。
ガガガンッ!
三本の矢が、鍋底に弾かれて宙を舞う。
「な、鍋ぇ!?」
「鍋だからいいんだろーが!」
バンは屋根の端を蹴った。
地面までは三階分。下には急な砂坂。その先をトカゲ車が逃げていく。
「盾じゃメシは作れねえ!」
空中で鉄鍋を足元へ回し、両足を乗せる。
着地と同時に、鍋が砂坂を滑り出した。
ザザザザザザァッ!
「鍋で滑ったァ!?」
「便利だろ!」
砂煙を上げながら、バンはトカゲ車へ迫る。
泥棒の一人が槍を突き出した。バンは鍋の縁を蹴り、くるりと横回転。槍をかわしざま、鍋の取っ手を車輪へ引っかける。
「せーのっ!」
全身で引いた。
バキン!
車軸が折れ、トカゲ車が斜めに跳ね上がる。泥棒たちは悲鳴を上げて砂へ突っ込んだ。
だが、水樽まで宙へ放り出される。
「うおおおおおおっ!」
バンは鍋を頭上へ投げた。
くるくる回った鉄鍋が、水樽の真下へ滑り込む。
ズンッ!
樽は鍋底で受け止められ、ひび一つ入らなかった。
砂に埋まった泥棒が、目だけを出してうめいた。
「そ、それ……本当に鍋かよ……」
バンは胸を張った。
「母ちゃんの形見、万能鉄鍋〈テンガイ〉だ。煮る、焼く、守る、殴る、滑る。なんでもござれだ!」
「最後の二つは鍋の仕事じゃねえ……」
そのときだった。
ゴォォォォォォン――。
遠い空から、腹の底まで震わせる音が響いた。
バンも、泥棒たちも、村じゅうの人間も、同時に顔を上げた。
青空に、黒い影が浮かんでいた。
最初は雲に見えた。
だが、雲にしては大きすぎる。長すぎる。なにより、尾が動いていた。
山脈ほどもある巨大な鯨が、空を泳いでいる。
その背には、尖塔、城壁、橋、崩れた宮殿が幾重にも重なっていた。
空鯨は苦しそうに身をよじりながら、ゆっくりと砂海へ降りてくる。
城の窓という窓が夕日を反し、まるで無数の目が開いたように輝いた。
村の誰かが、震える声で言った。
「天喰い城だ……」
昔話の城が、百年ぶりに降ってきた。
村の広場に、空っぽの水がめが並んでいた。
共同井戸は、もう泥しか吐かない。
残った水は、バンが取り戻した樽一つ。百二十七人が飲めば、三日ともたない。
村長のクシェク婆は、杖で地面に円を描いた。
「空鯨が降りた場所は、ここから北へ半日の距離。昔話が本当なら、背中の城には〈星のしずく〉がある」
集まった大人たちがざわめく。
「誰が行くんだ」
「城には化け物がいるって話だぞ」
「そもそも宝石なんて――」
「俺が行く」
バンは即答した。
広場が静まり返る。
「バン、おまえはまだ子どもだ」
「子どもでも喉は渇く。村が干からびるのを見てる方が、よっぽど怖えよ」
クシェク婆は、バンの背の鉄鍋を見た。
「おまえの母、アカネも十年前、天喰い城を探して旅に出た」
バンの笑顔が、ほんの少しだけ固まった。
母は冒険料理人だった。
見たことのない土地へ行き、見たことのない食材を食べ、腹を空かせた人間へ鍋を振るう。豪快に笑う人だった。
十年前、母は帰らなかった。
残ったのは、黒い鉄鍋〈テンガイ〉と、焦げ跡だらけの料理帳だけ。
「だから行くんだ」
バンは鍋の取っ手を握った。
「宝を持って帰る。母ちゃんが行けなかった城の一番奥まで行って、俺はちゃんと帰ってくる」
「入口も知らないくせに?」
澄ました声が、人垣の外から飛んできた。
砂色の外套をまとった少女が立っていた。
年はバンと同じくらい。短い青髪。丸い眼鏡。胸元には真鍮の方位盤を下げ、腰には巻物を何本も差している。
少女は一枚の古びた地図を広げた。
中央には、空鯨と、その背の城の断面が描かれている。
「天喰い城は生きている。入口は三分ごとに位置を変える。正しい道を知っているのは、この砂海で私だけ」
バンは地図をのぞき込み、堂々と言った。
「読めねえ!」
「威張るところじゃないわよ!」
少女はこめかみを押さえた。
「私はルウ。地図師よ。城へ入りたい理由がある。あなたには足と、その妙な鍋がある。私には頭と地図がある」
「妙な鍋じゃねえ。万能だ」
「はいはい。組みましょう」
「分け前は?」
「〈星のしずく〉は村へ。城の地図は私へ。それ以外の宝は半分」
「七対三だ」
「どうしてあなたが七なのよ」
「鍋がでかいから」
「意味がわからない!」
クシェク婆が杖で二人の頭を同時に叩いた。
「ケンカは帰ってからにせい」
バンとルウは顔を見合わせた。
「絶対に帰るぞ」
「当然。地図は、帰るために描くものだもの」
二人は握手した。
その上空で、天喰い城がもう一度、苦しげに鳴いた。
バンの砂走り船〈ヒトコブラ号〉は、船というより、大きなそりに帆をつけた代物だった。
風をはらみ、砂海を猛烈な勢いで滑っていく。
「右へ三度!」
「三度ってどれくらいだ!」
「ほんの少し!」
「最初からそう言え!」
「左! やっぱり右! 岩!」
「うおおおおおっ!」
そりは岩を跳び越え、空中で一回転して着地した。
ルウの眼鏡がずれた。
「……あなた、運転を誰に習ったの?」
「独学!」
「でしょうね!」
二人の前方に、天喰い城が横たわっている。
近くで見る空鯨は、もはや生き物というより大陸だった。
青灰色の皮膚に無数の建物が食い込み、鱗の隙間から滝のように砂がこぼれている。
だが、その巨体には、何本もの黒い鎖が突き刺さっていた。
鎖は砂上に並ぶ鉄塔へつながり、空鯨を地面へ縫い止めている。
「誰があんなものを……」
ルウの顔色が変わった。
遠くから、銅鑼の音が響く。
黒い帆を張った砂船が、砂丘の向こうから次々に現れた。
船首には、白い鴉の紋章。
「まずい」
ルウがつぶやく。
「知ってるのか?」
「〈白鴉商会〉。砂海じゅうの井戸と水路を買い占めている商人よ。その会頭、ゼドは……」
先頭の巨大船に、一人の男が立っていた。
白い長衣。黒い手袋。銀色の仮面で右半分の顔を隠している。細身の体には似合わぬ、太い鎖を肩から何重にも巻きつけていた。
男は笑いながら、拡声筒を口へ当てた。
『ようやく見つけたぞ、九号』
バンがルウを見る。
「九号?」
「……あとで話す」
『帝国測量局から地図を盗み、辺境の村へ逃げ込むとは。優等生らしくないな、ルウ・アステラ』
「帝国?」
バンの声が低くなる。
ルウは唇をかんだ。
「私は帝国の地図師候補だった。ゼドの隊に配属されていたの。でも、こいつらの目的を知って逃げた」
『目的とは人聞きが悪い。私はただ、世界で最も価値ある商品を手に入れたいだけだ』
ゼドが指を鳴らす。
黒帆船の甲板で、大砲が一斉にこちらを向いた。
『雨そのものをな』
砲口が火を噴いた。
「伏せろ!」
バンは鉄鍋を立て、ルウごと背後へかばう。
ドドドドン!
黒い弾丸が鍋を打ち、白い粉をまき散らした。
粉が触れた砂から、わずかな湿り気まで奪われ、ぱきぱきとひび割れていく。
「吸水塩弾……! 体に当たれば、血まで干上がる!」
「ずいぶん性格の悪い弾だな!」
バンは鍋を盾にしたまま、帆の縄を切った。
外れた帆が風を受け、大きくはためく。
「何をするの!?」
「近道だ!」
砂走り船は、前方の砂丘を駆け上がった。
頂上で跳ぶ。
その先は、空鯨の脇腹まで続く巨大な鎖だった。
「まさか――」
「そのまさか!」
ヒトコブラ号は鎖の上へ着地した。
ギャリギャリギャリッ!
そりの底から火花を散らしながら、鎖を駆け上がる。
背後で砲弾が爆ぜる。鎖が大きく揺れる。下は底の見えない砂煙だ。
「入口は!?」
ルウは必死に地図を開いた。
「七十歩先! 鱗が三角に並んだ場所!」
「どれも鱗だ!」
「中央に傷がある!」
「どれも傷だらけだ!」
「もう! あそこよ!」
ルウが投げた方位盤が、空鯨の脇腹にある裂け目へ突き刺さった。
バンは鍋をオールのように振るい、そりの向きを変える。
「飛べぇぇぇっ!」
二人と一隻は鎖から跳び、裂け目へ吸い込まれた。
直後、入口は鱗に覆われ、跡形もなく閉じた。
天喰い城の中は、夜だった。
青白い苔が壁を照らし、遠くで水滴の音がする。
石の廊下に見えた場所は、よく見ると巨大な骨と金属が絡み合ってできていた。城と空鯨の肉体が、長い年月で一つに結びついている。
「建物じゃない……生きた迷宮だわ」
ルウが壁へ手を当てる。
その奥で、どくん、と大きな鼓動が響いた。
バンは天井を見上げた。
「なあ。外に刺さってた鎖、こいつを苦しめてるんじゃないか?」
「たぶんね。ゼドは天喰い城を地上へ引きずり下ろした。〈星のしずく〉を奪うために」
「じゃあ、急ぐぞ」
二人は奥へ走った。
最初の広間には、扉が七つあった。
ルウが地図を広げるが、描かれた扉は六つしかない。
「城が形を変えてる……」
「どれが正解だ?」
「考えてる!」
バンは一枚ずつ扉の前に立ち、鼻をひくつかせた。
「これだ」
「どうして?」
「風が生ぬるい。奥にでかい空間がある。それと、ちょっと魚臭い」
「地図師の立場がないわね……」
扉を開けた瞬間、二人の体が横へ落ちた。
「うわっ!」
そこでは重力の向きが九十度曲がっていた。
壁が床になり、床が崖になる。はるか下で、巨大な歯車が回っている。
ギギギギギ……。
その歯車に、小さな生き物が挟まっていた。
雲のように白い体。ひらひらした翼。手のひらほどの空エイだ。
「キュウゥ……」
「動かないで!」
ルウが叫ぶ。
「歯車の回転が不規則よ。次の停止まで二分四十秒。先を急がないと――」
「二分も苦しませるのか?」
バンは鉄鍋を背負い直した。
「行ってくる」
「ちょっと!」
回る歯車へ飛び移る。
歯と歯の隙間を駆け、迫る金属板を鍋で受け止める。
ギャアアアン!
「ぬおおおおっ、重てええええ!」
「無茶よ! 鍋がつぶれる!」
「こいつは母ちゃんが百人分のシチューを煮た鍋だ! このくらいでへこむか!」
片腕で歯車を支え、もう一方の手で空エイを引き抜く。
「ほら、出ろ!」
空エイは転がるように飛び出した。
バンも間一髪で跳び、ルウのいる足場へ戻る。
「キュイ!」
助けられた空エイは、バンの頭へ乗った。
「腹減ってんのか?」
「どうしてわかるの?」
「腹減ったやつは、だいたい同じ目をしてる」
バンは腰袋から干し肉を出し、半分を空エイへ渡した。
「それ、最後の食料でしょう」
「半分ある」
「あなたの分が半分になったのよ」
「一人で全部食うより、二人で半分の方がうまい」
空エイは干し肉を一息に飲み込み、嬉しそうに鳴いた。
「おまえ、フワリな。ふわふわしてるから」
「命名が雑……」
フワリは二人の周囲を一周すると、暗い通路の奥へ飛んでいった。
「案内してくれるみたいだぞ」
「地図師の立場が、ますますない……」
だがルウは、少しだけ笑っていた。
フワリを追った先に、円形の礼拝堂があった。
壁いっぱいに、青い石の絵が刻まれている。
空を泳ぐ巨大な鯨。
海から水を吸い上げ、雲を生み、砂漠へ雨を降らせる姿。
その雨を追って、人々が町を作り、畑を耕している。
そして最後の壁には、胸に青い星を抱いた空鯨が描かれていた。
ルウの顔から血の気が引く。
「〈星のしずく〉は……宝石じゃない」
バンも絵を見つめた。
「心臓だ」
「この空鯨は、何百年も砂海へ雨を運んできた。あれを奪えば、無限に水が出るんじゃない。空鯨が死ぬ」
そのとき、礼拝堂の反対側で拍手が響いた。
「正解だ」
ゼドが立っていた。
背後には白鴉商会の兵士たち。別の入口から先回りしていたのだ。
「さすが測量局きっての天才、九号。壁画を読むのも早い」
ルウが前へ出る。
「ゼド。外の鎖を外しなさい」
「外すとも。心臓を抜いたあとにな」
「そんなことをしたら、砂海から雨が消える!」
「だから価値が上がる」
ゼドは両腕を広げた。
「雨が誰にでも降るから、水は安い。雨が降らなくなれば、水は金より高くなる。空鯨の心臓を私の装置へつなげば、雨を降らせる場所も、量も、すべて選べる。王も皇帝も、私の水を買うしかない」
バンの奥歯が鳴った。
「カラカラ村の井戸が枯れたのも、おまえのせいか」
「空鯨の通り道を鎖で変えたからな。辺境の村が二つ三つ干上がる程度、商売の必要経費だ」
バンが飛び出した。
「てめえええええっ!」
鉄鍋を横薙ぎに振るう。
だがゼドの肩から鎖が蛇のように伸び、鍋の取っ手へ巻きついた。
「感情で飛び込む。母親そっくりだ」
バンの動きが止まる。
「……母ちゃんを、知ってるのか」
ゼドは懐から、焦げた真鍮の方位盤を取り出した。
蓋には、赤い花の印。
バンはそれを知っていた。
母がいつも首から下げていたものだ。
「十年前、アカネは私の案内人だった。天喰い城の秘密を見つけたまでは優秀だったが、心臓を奪う計画に反対した。鎖を切ろうとして……落ちた」
礼拝堂の空気が、凍りつく。
「おまえが、母ちゃんを……」
「冒険家は、足場を選ぶべきだったな」
バンの視界が赤く染まった。
「うおおおおおおおおッ!」
鍋を引き、鎖ごとゼドを引き寄せる。
拳が届く――その直前。
ゼドの手袋から、黒い針が飛び出した。
針がバンの肩をかすめる。
じゅっ、と音がして、皮膚から水分が奪われた。腕がしびれ、力が抜ける。
「バン!」
ゼドは鎖を大きく振った。
鉄鍋ごとバンの体が宙へ投げ出される。
ルウが腕をつかみ、床の縁でどうにか止めた。
しかし鉄鍋〈テンガイ〉は取っ手から鎖を外され、そのまま礼拝堂中央の深い穴へ落ちていく。
「テンガイ!」
黒い鍋は闇へ消えた。
ゼドは笑った。
「鍋を失えば、ただの子どもだ」
「違う!」
ルウが叫ぶ。
「この子は――」
「九号。おまえは地図を描けばいい。誰が生き、誰が死ぬかを決めるのは、地図を使う側だ」
ゼドは礼拝堂奥の扉へ手をかざした。
奪った地図の断片が光り、扉が開く。
その先で、青い光が脈打っていた。
空鯨の心臓。
〈星のしずく〉。
「やめろ!」
バンが立ち上がろうとする。
だが乾いた肩に激痛が走り、膝をついた。
ゼドの鎖が心臓へ食い込む。
ズルリ、と青い光が胸壁から引き抜かれた。
世界が、悲鳴を上げた。
ゴォォォォォォォォン!
城全体が大きく傾く。
壁が裂け、柱が崩れ、床の下から猛烈な風が噴き上がった。
空鯨が、死に始めた。
礼拝堂が崩れる。
兵士たちは心臓を運び、ゼドとともに上層へ逃げた。
残されたバンとルウの足元で、床が次々に割れていく。
「追うわよ!」
ルウがバンの腕を肩へ回す。
「今ならまだ――」
かすかな鳴き声がした。
「キュウ……!」
割れた床の向こうで、フワリが落ちかけている。
翼が石材に挟まり、抜けない。
ゼドを追える道は左。
フワリは右。
城はあと何分ももたない。
バンは一瞬だけ目を閉じた。
母の声が、記憶の底から聞こえた。
『バン。冒険先で一番大事なこと、わかるか?』
『宝を見つけること!』
『はずれ。腹を空かせた命を、置いていかないことだ』
幼い自分の頭を、母の大きな手がくしゃくしゃになでる。
『宝なんて、帰って鍋を囲めなきゃ、ただの重たい石ころさ』
バンは右へ走った。
「フワリ!」
ルウも迷わず続く。
二人で石材を持ち上げ、空エイを引き抜く。
直後、さっきまで立っていた場所が崩れ落ちた。
「キュイッ!」
自由になったフワリが宙を舞う。
そして暗い穴へ急降下したかと思うと、何か大きなものを背に乗せて戻ってきた。
黒い鉄鍋〈テンガイ〉だった。
「おまえ……拾ってきてくれたのか!」
バンは鍋を抱きしめる。
落下の衝撃で、鍋底を覆っていた長年の煤がはがれていた。
そこに、細い文字が刻まれている。
――腹を空かせた命を置いていくな。
――宝は、帰り道を増やすものだ。
母の字だった。
その下には、小さな矢印と、見慣れない印。
ルウが目を見開く。
「これ、地図よ」
「鍋底に?」
「城の中枢から上層へ抜ける、緊急路。あなたのお母さんは、いつか誰かがここへ来ると考えて、鍋に道を刻んだんだわ」
バンは袖で目元をぬぐった。
「母ちゃん。十年も鍋を焦がしっぱなしにしやがって」
「泣いてる?」
「煤が目に入った!」
「はいはい」
ルウは鍋底の地図を一度見ただけで、周囲の崩れ方を確かめた。
「行ける。上層まで最短で三百二十七歩。ただし、道は半分壊れてる」
バンは鍋を背負い直した。
「半分あるなら十分だ」
「残り半分は?」
「作る!」
二人は走り出した。
フワリが先頭を飛ぶ。
崩れる橋を鍋でつなぎ、回転する柱を踏み台にし、吹き上がる風へ外套を広げて跳ぶ。
道が途切れれば、バンが壁を殴って穴を開ける。
分かれ道では、ルウが一秒も迷わず進路を示す。
「右!」
「了解!」
「上!」
「上ってどこだ!」
「天井!」
「無茶言うな!」
「あなたならできる!」
「そういう無茶なら大歓迎だ!」
バンは鉄鍋を壁へ叩きつけ、取っ手を引っかけた。そこを支点に体を振り、天井に開いた穴へ飛び込む。
二人が上層へ抜けた瞬間、背後の通路がすべて崩れ落ちた。
目の前に、嵐の空が広がる。
天喰い城の最上部。
空鯨の背に築かれた王宮跡へ、黒雲が渦巻いていた。
ゼドの巨大砂船は、帆をたたみ、空鯨の背へ直接つながれている。
甲板中央の機械に、〈星のしずく〉がはめ込まれていた。
青い光が管を走り、雲から水を吸い寄せる。
船の水槽が、みるみる満たされていく。
「見ろ!」
ゼドは雨の中で笑っていた。
「王国百年分の水だ! これで世界は私の値札を見る!」
その足元で、空鯨の巨体が沈み続けている。
砂海まで、もう遠くない。
この高さから落ちれば、空鯨も、背中の城も、周囲の村々もただでは済まない。
「値札なら、自分の墓にでも貼っとけ!」
バンが王宮の屋根から飛び降りた。
鉄鍋がゼドの頭上へ振り下ろされる。
ガァン!
ゼドは鎖を束ね、盾のようにして受け止めた。
「戻ってきたか、鍋の子ども!」
「バンだ! 覚えとけ、雨を盗みそこねた男!」
鎖と鍋がぶつかり、火花を散らす。
ゼドの鎖は生き物のようにうねり、四方からバンへ襲いかかった。
バンは鍋で弾き、潜り、跳ぶ。
一撃でも体へ巻きつけば、水分を奪われる。
頬をかすめただけで皮膚が裂けるように乾き、視界が揺れた。
「バン、三歩下がって!」
ルウが叫ぶ。
バンは理由を聞かず跳び下がる。
直後、雷が落ち、さっきまでいた場所を焼いた。
「次は右へ五歩! 柱が倒れる!」
「見えてんのか!?」
「雲の流れと船の傾きと、城の崩壊線を読んでる!」
「やっぱおまえ、すげえな!」
「今ごろ気づいたの!?」
ルウは走りながら、王宮の床へ白墨で線を引いていた。
逃げ道ではない。
バンが勝つための道だ。
「左二歩、前へ七歩! そこで鍋を立てて!」
バンは白線どおりに動く。
鉄鍋を正面へ構えた。
ゼドが鼻で笑う。
「また盾か。芸のない!」
太い鎖を一直線に放つ。
鎖の鉤が、鉄鍋の縁へ食い込んだ。
「捕らえた!」
ゼドが鎖を引く。
バンは、逆に笑った。
「捕まったのは、おまえだ」
「何?」
ルウが空を見上げる。
「今!」
黒雲の中心が白く光った。
バンは鍋を頭上へ掲げ、全身でひねる。
「母ちゃん直伝――」
雷が落ちた。
鍋底へ直撃する。
黒鉄の表面を青白い稲妻が走り、鉤へ、鎖へ、一気に流れ込んだ。
「大雨返しィィィッ!」
ドガァァァァン!
雷は鎖を伝い、ゼドの背後にある水収集装置を貫いた。
機械が爆発し、固定具が弾け飛ぶ。
〈星のしずく〉が宙へ投げ出された。
「私の雨が!」
ゼドが手を伸ばす。
バンも跳ぶ。
だが、心臓は崩れた王宮の外へ落ちていく。
「フワリ!」
「キュイィィッ!」
小さな空エイが急降下しながら、見る間に体を膨らませた。
雲を吸い、翼を広げ、バンを乗せられるほどの大きさになる。
バンはフワリの背へ着地した。
「行けええええっ!」
嵐の中を一直線に飛ぶ。
落下する〈星のしずく〉へ手を伸ばす。
あと一歩。
その足首に、鎖が巻きついた。
「渡さん!」
ゼドだ。
崩れた船縁に片手でつかまりながら、鎖でバンを引き戻す。
「水を持つ者が世界を持つ! 正義も命も、渇けば私にひざまずく!」
バンの指先が、青い光へ届かない。
空鯨は墜ちる。
砂海が迫る。
バンは鉄鍋を見た。
鍋底に刻まれた母の言葉が、雷光に浮かぶ。
宝は、帰り道を増やすものだ。
「違う」
バンは鎖を両手でつかんだ。
「水は、誰かをひざまずかせるためにあるんじゃねえ」
乾きの力が腕を走る。
皮膚がひび割れ、喉が焼ける。
それでも、バンは鎖を離さない。
「立ち上がらせるためにあるんだ!」
鎖を自分の方へ引いた。
予想外の力に、ゼドの体が船縁から宙へ飛び出す。
バンは回転し、鉄鍋を振り抜いた。
「鉄鍋――満腹打ァァァァァッ!」
ゴォン!
鍋底がゼドの仮面を真正面からとらえた。
銀の仮面が真っ二つに割れ、ゼドは鎖ごと吹き飛ぶ。
バンの足が自由になる。
伸ばした手が、〈星のしずく〉をつかんだ。
「ルウ! 心臓の場所は!」
王宮の上から、ルウが白墨の筒を空へ撃つ。
白い煙が一本の線を描き、空鯨の胸に開いた穴まで続いた。
「その線の先! 絶対に外さないで!」
「誰に言ってやがる!」
フワリが翼をたたむ。
バンと〈星のしずく〉を乗せたまま、矢のように急降下した。
風が頬を裂く。
砂海まで、あとわずか。
空鯨の胸の穴が見える。
だが、周囲の骨が閉じ始めていた。
「間に合ええええええっ!」
バンは鉄鍋を前へ構えた。
閉じる骨の隙間へ、鍋ごと突っ込む。
ガガガガガガッ!
鍋が骨を押し開く。
腕が震える。肩の傷が裂ける。
「こんなもん……百人分のシチューより……軽いッ!」
最後の力で〈星のしずく〉を押し込んだ。
青い心臓が、元の場所へ収まる。
一秒。
二秒。
どくん。
空鯨の鼓動が戻った。
どくん!
城じゅうの青い苔が、一斉に輝く。
ゴオオオオオオオオオオオオオオ――ッ!
空鯨が、天へ向かって吠えた。
墜落寸前だった巨体が、砂海を翼で叩く。
巻き上がった風が砂丘を割り、天喰い城を再び空へ押し上げた。
黒い鎖が一本、また一本と引きちぎれる。
白鴉商会の船が傾き、兵士たちは水槽へ転がり込んだ。
そして空鯨の頭上で、黒雲が大きく開いた。
雨が降った。
砂海全体を包む、猛烈な大雨だった。
雨の中、ゼドは空中でもがいていた。
切れた鎖の先が、辛うじて王宮の柱へ引っかかっている。
「助けろ!」
仮面を失った顔には、恐怖だけが浮かんでいた。
バンは柱の上から見下ろした。
「辺境の村一つ二つ、必要経費なんだろ?」
ゼドの顔が引きつる。
「わ、悪かった! 金なら払う! 水もやる!」
「水はおまえのもんじゃねえ」
バンは鉄鍋の取っ手を鎖へ引っかけ、力いっぱい引いた。
ゼドの体が王宮跡へ転がり込む。
「どうして助けた……」
ゼドが呆然とつぶやく。
バンは息を切らしながら笑った。
「落としたら後味悪いだろ。それに、おまえには仕事が残ってる」
「仕事?」
「カラカラ村の井戸を掘り直す。水路も直す。おまえが枯らした村、全部だ」
ルウがゼドの両手へ鎖を巻き、きつく縛り上げた。
「帝国測量局へ送る報告書も、山ほどあるわ」
「九号……」
「私はルウよ。もう番号じゃない」
彼女は眼鏡を押し上げた。
「地図を使う人間が、誰を生かすか決めるんじゃない。私は、誰もが帰れる道を描く」
空鯨が大きく身を震わせた。
背中の城から、何百年分もの塵が雨に洗われ、滝となって流れ落ちていく。
遠く、砂の地平線にカラカラ村が見えた。
乾いた水がめに雨がたまり始める。
子どもたちが空を仰ぎ、口を開けて笑っている。
バンは鉄鍋を上向きに置いた。
雨粒が、ぽつり、ぽつりと鍋底を叩く。
やがて音は重なり、にぎやかな拍手のようになった。
「母ちゃん」
バンは空を見上げた。
「宝、持って帰れなかった」
ルウが隣へ立つ。
「持って帰ったでしょう」
「どこに?」
ルウは雨の向こうに広がる砂海を指した。
乾いた谷に水が走り、眠っていた種が割れ、小さな緑が顔を出している。
村へ続く道が、雨の中で何本も光っていた。
「帰り道が、こんなに増えた」
バンはしばらく黙ってから、にっと笑った。
「じゃあ、腹いっぱいだな」
三週間後。
カラカラ村の井戸は、以前より深く、頑丈に掘り直された。
働いているのは白鴉商会の男たちだ。先頭でつるはしを振るうゼドの足には、逃亡防止の重しがついている。
「腰が入ってねえぞ、元会頭!」
バンが鉄鍋をお玉でカンカン叩く。
「うるさい! なぜ私が穴掘りなど!」
「掘ったぶんだけ昼メシ増やすぞ!」
「……あと十尺掘れ!」
部下たちが一斉につるはしを振り始めた。
広場では、〈テンガイ〉いっぱいのシチューが煮えている。
雨で芽吹いた香草、砂トカゲの肉、村じゅうから持ち寄った豆。百人分どころか、二百人分だ。
クシェク婆が一口すすり、顔をしかめた。
「塩が足りん」
「今日は雨味だ!」
「料理人が味をごまかすでない」
ルウは木箱へ腰かけ、新しい地図を描いていた。
地図の中央にはカラカラ村。
そこから北へ、天喰い城の飛んだ道が青い線で続いている。
ただし、その先は真っ白だった。
「なあ、ルウ」
バンがのぞき込む。
「この白いところ、何がある?」
「わからない」
「地図師なのに?」
「地図師だからよ。わからない場所を、わからないままにしておくのも地図の仕事。でも――」
ルウは新しい巻物を丸め、立ち上がった。
「見に行けば、描ける」
バンはにやりと笑う。
鉄鍋〈テンガイ〉を背負い、残ったシチューを小さな瓶へ詰めた。
空では、天喰い城が青い影となって遠ざかっている。
その周囲を、少し大きくなったフワリが楽しそうに飛んでいた。
「次はどこへ行く?」
「空鯨の向こう。地図の白い場所」
「食えるもん、あるかな」
「最初に気にするのがそれ?」
「未知の土地で最初に探すのは宝じゃねえ。食えるもんだ!」
バンは村の門を飛び越えた。
ルウがあきれながら、そのあとを追う。
二人の頭上で、フワリが高く鳴いた。
バンは走りながら鉄鍋を抜き、朝日に向かって思いきり打ち鳴らす。
カァン――!
澄んだ音が、新しい地平線まで飛んでいく。
それが、次の冒険の合図だった。
〈了〉