『鉄胎の行軍』

 二十三歳のミナト・ロウが最初に教わったのは、引き金の絞り方ではなかった。

「名前は砂に返せ。番号は鉄に刻め」

 ザクロ曹長はそう言って、二十八人の胸へ焼き鏝を押し当てた。

 白熱した数字が皮膚を噛み、肉の焦げる甘い臭いが装甲車の腹に満ちた。悲鳴を上げた者は殴られ、歯を食いしばった者も殴られた。公平とは、痛みの量が同じであることだと曹長は言った。

 ミナトの番号は十三だった。

 徴集された二十八人は、全員が二十歳を越えていた。水泥棒、脱走兵、闇医者、食肉偽装屋、無許可の歌手。環状府では、生き延びるために何かをした者はたいてい犯罪者になった。

 彼らは走る兵営〈鉄胎〉の貨物室に詰め込まれていた。

 鉄胎は全長百六十メートル、十二対の車輪と四基の蒸気炉を持つ移動要塞である。車体中央には白い水嚢が幾層にも吊られ、砂漠から吸い上げた湿気を脈打ちながら濾過していた。その形は巨大な乳房に似ていた。薄い膜の下を青い管が走り、ときおり乳白色の雫が乳頭状の弁から落ちる。

 環状府の宣伝映像では、それを「母なる慈悲」と呼んだ。

 兵士たちは「ぶよぶよ」と呼んだ。

 鉄胎の任務は、北の塩都から南の井戸城まで、浄水触媒〈白骨花〉を運ぶことだった。

 ただし、二十八人全員が到着する必要はない。

「六人だ」

 ザクロ曹長は鉄板の床を軍靴で鳴らした。顔の左半分が火傷で溶け、笑うたびに奥歯まで見えた。

「井戸城の門をくぐれるのは六人。残りは途中で死ね。敵に撃たれてもいい。渇いて腐ってもいい。仲間に殺されても構わん。首輪の記録装置が、おまえらの働きを点数にする。上位六名には市民権、水券百年分、そして名前を返す」

 二十八人の喉には、銀色の輪が嵌められていた。

 脈拍、移動距離、発砲数、殺害数、命令違反。すべてを測る首輪だった。外そうとすれば、頸動脈の横に埋め込まれた針薬が心臓を止める。

「質問は」

 誰も口を開かなかった。

「よろしい。おまえらはすでに軍人らしい。つまり、考える能力がない」

 笑ったのは一人だけだった。

 二十一番、ナナセ・キリ。

 短く刈った黒髪。乾いた褐色の肌。右の鎖骨から臍へ、銀色の縫合痕が斜めに走っている。密輸団の狙撃手だったという噂があった。

 ザクロ曹長は彼女の前まで歩いた。

「何がおかしい、二十一番」

「六人も残すなんて、府は太っ腹だと思って」

 曹長は彼女の腹を蹴った。

 ナナセは折れなかった。唇から血を垂らしたまま、曹長の軍靴を見下ろした。

「磨きが足りないね」

 もう一度、蹴られた。

 今度は倒れた。

 それでも笑っていた。

 訓練は七日続いた。

 鉄胎は一度も止まらなかった。

 兵士たちは揺れる車内で走り、分解した銃を組み、泥水を飲み、吐瀉物の中で腕立て伏せをした。眠る時間は一日二時間。食事は灰色の蛋白煉瓦を一枚。遅れた者は水を減らされた。

 ザクロ曹長は、彼らから人間らしい癖を剥いでいった。

 目を伏せるな。

 死体を跨ぐな、踏め。

 負傷者に名前を聞くな、番号を読め。

 弾倉は恋人より近くに置け。

 恋人がいるなら弾倉にしろ。

 四日目、九番が壊れた。

 元は学校教師だった男だ。真夜中、眠っている全員の枕元を歩きながら、見えない生徒の出席を取った。

「アリサ」

「はい」

「ベル」

「はい」

「コータ」

「はい」

 返事をしているのは九番自身だった。

 ザクロ曹長は彼を射撃床へ連れ出し、二十八人を並ばせた。

「故障した部品はどうする」

 誰も答えなかった。

 曹長は十三番――ミナトへ拳銃を渡した。

「修理しろ」

 九番は跪かされた。砂埃が床の隙間から吹き込み、彼の白髪に積もった。

「私は、子どもを撃てなかった」

 九番は言った。

「だからここにいる。君は?」

 ミナトは拳銃を握ったまま答えなかった。

 彼は墓掘りだった。飢饉の年、埋葬前の死体から金歯を抜いた。それで妹に三日分の水を買った。妹は四日目に死んだ。

「十三番」

 ザクロ曹長が言った。

「考えるな」

 ミナトは九番の額を撃った。

 頭蓋の後ろが開き、灰色の脳漿が鉄板へ散った。九番の体は数秒だけ正座を保ち、それから横へ倒れた。

 首輪が小さく鳴った。

 得点、一。

 その夜、ミナトは水嚢区画へ忍び込んだ。

 白い膜の群れが暗闇の中でゆっくり膨らみ、縮んでいる。水滴の落ちる音が、どこかの寝室で交わされる接吻のように湿って響いた。

 ミナトは吐いた。

 胃には何もなく、酸っぱい唾液だけが糸を引いた。

「上手だったよ」

 背後でナナセが言った。

 彼女は上半身に薄い汗布一枚を巻き、脇腹の縫合痕を自分で消毒していた。薬液が傷のくぼみに溜まり、琥珀色に光った。

「何が」

「殺し方。迷ったのは減点だけど」

「見てたのか」

「全員、見せられた」

 ナナセは消毒布を噛み、縫合糸を一本抜いた。血が玉になって盛り上がる。

「手伝って」

 ミナトは彼女の前に膝をついた。

 傷は古かったが、腹の深いところで化膿していた。彼が布を当てると、ナナセは息を詰めた。汗と薬と血が混ざった匂いがした。生き物の匂いだった。

「優しくしないで」

「痛むだろ」

「優しくされるほうが痛い」

 ミナトは少し強く傷を押した。膿が血と一緒に溢れた。

 ナナセは笑い、それから彼の髪を掴んだ。

「十三番。あんた、死体に触れる手をしてる」

「墓掘りだった」

「なるほど。冷たい」

「生きてる人間には慣れてない」

「練習する?」

 彼女の指が、ミナトの首輪をなぞった。金属と皮膚の境目。そこは七日間洗えず、赤く擦れていた。

 ミナトは逃げなかった。

 ナナセの唇は切れていた。触れた瞬間、鉄の味がした。柔らかさより先に痛みが来た。その痛みが、二人の間に残っていた名前を一瞬だけ呼び戻した。

 ミナト。

 ナナセ。

 番号ではない。

 彼女は彼の下唇を歯で挟み、血が滲むまで噛んだ。ミナトの手は彼女の背へ回り、汗に濡れた肩甲骨を撫でた。皮膚の下で筋肉が動いた。傷だらけの体は美しかった。美しいから傷ついているのではなく、傷ついてなお体温を捨てていないことが美しかった。

 白い水嚢が二人の頭上で乳房のように揺れた。

「六人に入るつもり?」とナナセ。

「入ったら、水を墓に撒く」

「誰の」

「妹の」

「死体は残ってる?」

「砂になった」

「じゃあ、砂漠全部が墓だ」

 彼女はもう一度キスをした。

「たっぷり撒けるね」

 警報が鳴った。

 赤い灯が点き、白い水嚢を血の色に染めた。

 外部接敵。

 訓練は終わった。

 朝焼けの砂海を、鉄胎は時速百二十キロで走っていた。

 地平線から、黒い群れが湧いた。

 〈皮剝ぎ〉の襲撃車列。

 骨と鉄屑を組んだ一輪車、帆を張った三輪船、刃のついた車輪を回す装甲バイク。乗り手たちは全身に鏡片を縫いつけ、太陽をぎらつかせていた。喉には敵兵から切り取った声帯を干し、風に鳴らしている。

 鉄胎の側面装甲が開いた。

 二十七人――九番を除く――は射撃棚へ押し出された。

「浄化行軍、開始!」

 ザクロ曹長の声が拡声器から降る。

「敵を殺せ! 仲間を追い越せ! 点数の低い者から水を断つ!」

 車体が跳ねた。

 一番が足を滑らせ、外へ投げ出された。安全索が腰に食い込み、彼の体は車輪の横を引きずられた。砂が皮膚を削り、制服が裂け、腰から下が赤い布のようにはためいた。

「引き上げろ!」

 誰かが叫んだ。

「構うな!」

 別の誰かが撃った。

 弾は安全索を切った。

 一番は後輪へ吸い込まれ、肉と骨の混じった赤黒い泥になった。

 首輪が二つ鳴った。

 救助しようとした者は減点。

 索を撃った者は加点。

 ミナトは吐き気を呑み込み、短銃身銃を構えた。

 皮剝ぎのバイクが一台、鉄胎の脇へ寄せてきた。乗り手は女だった。頭髪を剃り、胸に白い手形を塗っている。彼女が鉤槍を振り上げた。

 ミナトは撃った。

 弾は頬から入り、耳の後ろを吹き飛ばした。女は笑ったように歯を見せたまま落ち、後続車に踏まれた。

 得点、一。

 次の敵。

 次。

 次。

 考えるな。

 鉄胎の砲塔が火を噴いた。砲弾は三輪船を直撃し、帆柱と人間を一緒に空へ放り上げた。燃える男が鉄胎の側面へ衝突し、ミナトの足元で潰れた。炭化した腕だけが彼の脚に絡みついた。

 ナナセは射撃棚の最上段にいた。

 長銃を膝で固定し、一発ごとに誰かの運転手を消していく。車両は制御を失い、横転し、後続を巻き込んだ。彼女の首輪は絶え間なく鳴った。

「二十一番、現在一位!」

 拡声器が告げた。

 兵士たちの視線が変わった。

 敵ではなく、ナナセへ向いた。

 六人しか残れない。

 ミナトはその意味を理解した瞬間、隣の十六番がナナセへ銃口を向けるのを見た。

 ミナトは十六番の肘を撃った。

 骨が砕け、腕が逆向きに折れた。

「何しやがる!」

「敵がいる」

「一位も敵だ!」

 十六番が腰の拳銃へ左手を伸ばす。

 ナナセの弾が彼の顎を下から貫いた。舌と歯が赤い霧になって飛び、十六番は後ろへ倒れた。

「貸し、一つ」

 ナナセは叫んだ。

「高利だぞ!」

 そのとき、皮剝ぎの最大車両が姿を現した。

 砂上戦艦〈百舌〉

 船体前面に、数十人の生首が棘で固定されている。新しい首はまだ瞬きをし、古い首は黒く縮んでいた。船尾の炉から青い炎が伸び、砂を溶かして硝子の尾を引いた。

 百舌の甲板に、鐘が吊られていた。

 巨漢が人骨の槌で鐘を打つ。

 低い音が砂漠を押し潰した。

 鉄胎の水嚢が一斉に震えた。

「共振兵器だ!」誰かが叫ぶ。

 白い膜の一つに亀裂が走った。

 裂けた。

 数千リットルの水が車内へ噴き出した。

 兵士たちは狂った。

 銃を捨て、床を這い、流れる水へ顔を突っ込んだ。汚れた靴底を舐める者、両手で掬って笑う者、他人の口から水を奪おうと喉を裂く者。

 ザクロ曹長が天井から機関銃を撃った。

 三人が水の上で跳ね、腹から腸をほどいた。

「配置へ戻れ! 水は府の財産だ!」

 水は瞬く間に血で薄紅色になった。

 それでも兵士たちは飲んだ。

 ミナトも膝をついた。

 喉が焼けていた。

 目の前を、水と血と脳漿の混じった液体が流れる。死んだ五番の開いた口に水が入り、頬が膨らんだ。まるで死体がまだ欲しがっているようだった。

 ミナトは両手を浸した。

「飲むな!」

 ナナセが彼の髪を掴んで引き起こした。

「汚れてる」

「水だ」

「毒だ」

 彼女は水嚢の裂け目を指した。

 膜の内側に、白い幼虫のようなものが無数に蠢いていた。濾過生物。水を清める代わりに、人間の血中へ入れば神経を食う。

 すでに飲んだ者たちが痙攣し始めた。

 一人は笑いながら自分の舌を噛み切った。

 一人は目玉を掻き出した。

 一人は水面に口づけたまま、背骨を弓なりにして死んだ。

 ザクロ曹長は彼らを見下ろし、拡声器へ言った。

「汚染水を飲んだ者は失格。処分しろ」

 生き残った兵士たちが銃を向けた。

 撃たれる前に、飲んだ者同士が互いを襲った。

 水の中で肉が裂けた。

 鉄胎の腹は、血の浴槽になった。

 百舌はなおも追ってきた。

 鐘の一打ごとに、水嚢が破裂する。

 鉄胎の操縦塔は進路を変え、骨の谷へ入った。かつて海だった場所だ。巨大な鯨の化石が肋骨を天へ突き出し、白い門をいくつも作っている。

 ここでは大型車両は速度を落とす。

 だが鉄胎も同じだった。

「外へ出る」

 ナナセが言った。

 生き残りは十四人になっていた。

 彼女は磁気鉤、爆薬、長銃を背負った。ミナトへ予備弾倉を投げる。

「百舌に乗り移って、鐘を壊す」

「命令は」

「今から作る」

 二人が外部ハッチへ向かうと、ザクロ曹長が立ちはだかった。

「持ち場へ戻れ」

「鐘を止める」とナナセ。

「砲塔がやる」

「間に合わない」

「命令違反は減点だ」

 ナナセは笑った。

「まだ点数を気にしてるの、あんただけだよ」

 曹長の拳が飛んだ。

 ナナセは避け、火傷側の頬へ肘を打ち込んだ。皮膚が裂け、膿と血が飛んだ。曹長は唸り、彼女の髪を掴んで壁へ叩きつけた。

 ミナトが曹長の背へ銃を向ける。

「撃て、十三番」

 曹長は振り向かなかった。

「教えただろう。考えるな」

 ミナトは引き金を絞った。

 弾は曹長の肩を抜いた。

 曹長はゆっくり振り返った。

「そこじゃない」

 笑いながら、腰の拳銃へ手を伸ばす。

 ナナセが曹長の首輪へ短剣を差し込んだ。

 金属が火花を散らした。

 首輪の針薬が作動し、ザクロ曹長の体が硬直した。彼は立ったまま数秒震え、鼻と耳から血を流した。

「曹長にも首輪が?」

 ミナトが言った。

「府では、鎖の長さが違うだけ」

 ナナセは曹長の死体から認証板を剥ぎ取った。

 二人は外へ出た。

 風が殴りつけた。

 鉄胎の屋根は、疾走する鋼鉄の平原だった。排気筒が炎を吐き、砲塔が回り、固定索が蛇のように暴れる。左右には皮剝ぎの車両。後方には百舌。

 ナナセは磁気鉤を撃った。

 鉤は百舌の船首へ食い込み、鋼索が張った。

「先に行く」

 彼女は滑車へ腰を吊り、鋼索を滑った。

 砂上を百二十キロで走る二台の間を、彼女の体が風に振られる。皮剝ぎが矢を放つ。一本が彼女の太腿を貫いた。

 ナナセは叫ばなかった。

 長銃を片手で撃ち、射手の胸を穿った。

 百舌の甲板へ着地する。

 ミナトも続いた。

 滑車が半ばまで来たとき、鉄胎と百舌の間隔が開いた。鋼索が悲鳴を上げた。下では剥き出しの車輪が砂を噛み、落ちれば体を一瞬で麺のように引き延ばす。

 矢がミナトの頬を掠めた。

 次の矢が鋼索に当たった。

 一本、素線が切れる。

 二本。

 三本。

 ミナトは滑車を蹴り、残り十メートルを飛んだ。

 百舌の船縁へ胸から衝突し、肋骨が軋む。指が縁を掴んだ。

 皮剝ぎの男が上から覗き込み、歯を見せた。歯一本ごとに小さな鈴が埋め込まれている。

 男は鉈を振り上げた。

 ナナセの弾が男の首を半分飛ばした。

 頭は皮一枚で肩にぶら下がり、鈴を鳴らしながら落ちていった。

 ミナトは甲板へ這い上がった。

 二人は背中合わせに撃った。

 敵は十五。

 十四。

 十二。

 ナナセの太腿から血が噴き、甲板に足跡を残す。ミナトは彼女の腰を支えた。汗布の下、熱い皮膚が掌に触れた。

「触る場所、選べよ」

「落ちるよりいい」

「あとで料金を取る」

「水で払う」

「高いね」

 鐘が鳴った。

 至近距離の音圧が内臓を揺さぶり、ミナトの耳から血が流れた。

 鐘突きの巨漢が迫る。胸郭に金属板を縫いつけ、両腕は油圧義肢だった。人骨の槌が振り下ろされる。

 ミナトは避けた。

 甲板が陥没した。

 ナナセが巨漢の眼窩を撃った。弾は金属板に逸れた。

 巨漢が笑い、彼女を裏拳で殴る。

 ナナセの体が鐘へ叩きつけられた。濁った音。長銃が落ちる。

 ミナトは巨漢へ飛びつき、首輪を掴んだ。

 皮剝ぎにも首輪があった。

 環状府のものとは違う。錆びた鉄に、数字ではなく歯形が刻まれている。

 誰も自由ではない。

 ミナトは短剣を首輪の継ぎ目へ差し、全体重をかけた。

 巨漢の義手がミナトの脇腹を掴む。指が肉へ沈み、肋骨が一本折れた。肺から空気が潰れた声になって漏れる。

 短剣を捻る。

 首輪が外れた。

 巨漢は動きを止めた。

 ミナトを離し、自分の喉を両手で触った。

 初めて裸になった皮膚を確かめるように。

 ナナセが立ち上がり、落ちた槌を拾った。

「どいて」

 ミナトが退く。

 ナナセは槌を鐘へ叩きつけた。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 鐘に亀裂が走った。

 四撃目で砕けた。

 割れた金属片が巨漢の胸を切り裂き、縫いつけられた板を剥がした。下から現れたのは、無数の古い銃創と、子どもの手形の刺青だった。

 巨漢はナナセを見た。

 彼女は槌を構えたが、振り下ろさなかった。

 巨漢は自分で胸の傷へ指を入れた。

 裂いた。

 肋骨の間から、黒い機械心臓が覗いた。彼は配線を引きちぎる。

 倒れる直前、ミナトへ笑った。

 自由な顔だった。

 百舌の速度が落ちた。

 鉄胎が骨の門を抜けて遠ざかる。

「戻るぞ」とミナト。

 ナナセは認証板を取り出した。

 表面に、鉄胎の内部図が表示されていた。

 その中央、司令区画の下に赤い部屋がある。

 〈最終選抜室〉

 入室予定者数、一。

「六人じゃない」

 ナナセが言った。

「最初から、一人だ」

 二人は百舌の小型車を奪い、鉄胎へ追いついた。

 磁気鉤で下部整備口へ張りつき、血と油にまみれて中へ戻った。

 生き残りは九人。

 彼らは食堂に集められていた。天井の表示板には順位が光っている。

 一位 二十一番。

 二位 十三番。

 三位 四番。

 以下、省略。

 六位と七位の間に、太い赤線。

 だが、ナナセが曹長の認証板を端末へ当てると、別の数字が現れた。

 最終収容人数、一。

 静寂。

 四番が笑った。

「嘘だ」

 元闇医者の女だった。両手の指を三本ずつ失っている。

「府は六人と言った」

「府が言ったから何だ」とナナセ。

「契約だ」

「首に爆薬をつける相手と、契約したつもりだった?」

 八番が銃を抜いた。

「一人なら、一位を殺す」

 ミナトが彼より先に撃った。

 八番の手首が吹き飛び、拳銃と一緒に床を転がった。

 そこから先は、理屈ではなかった。

 九人が同時に動いた。

 四番が食卓を倒す。

 十五番が照明を撃つ。

 暗闇で首輪の表示だけが青く光る。

 誰かが叫び、誰かの喉が裂け、誰かが床の水に滑る。

 ミナトは番号の光へ撃った。

 弾が肉へ入る鈍い音。

 骨へ当たる硬い音。

 肺から漏れる湿った音。

 照明が戻った。

 十五番が壁にもたれていた。腹が開き、腸がベルトへ絡んでいる。それでも引き金を引こうとしていた。

 ナナセが彼の額を撃った。

 四番は八番の切断面へ指を突っ込み、盾にしていた。八番は生きたまま悲鳴を上げている。

 ミナトは四番の膝を撃った。

 ナナセが胸を撃った。

 四番は倒れながら、八番の頸動脈を噛み切った。

 二人分の血が噴水のように混ざった。

 残り五人。

 六番が銃を捨てた。

「もういい。殺せ」

 彼は両手を広げた。

「俺は妻を売った。水二十リットルで。娘も売った。水十リットルで。三十リットルを一晩で飲んだ。腹を壊して半分吐いた」

 涙は出なかった。体に水がなかった。

「名前を返されても、持ち主がいない」

 ミナトは銃を下ろした。

 ナナセも撃たなかった。

 その瞬間、天井の自動銃が六番の頭を粉砕した。

 司令官の声が響いた。

「選抜候補者による処分拒否。全員減点」

 穏やかな女の声だった。

 鉄胎司令官、マダラ准将。

 食堂正面の壁が開き、彼女が現れた。

 白い軍服。剃り上げた頭。唇だけが濃い赤。背後には衛兵が六人。

「見事でした」

 准将は死体を踏まず、血のない場所を選んで歩いた。

「特に二十一番。あなたの狙撃技能と生存本能は、次代の鉄胎にふさわしい」

「次代?」

「この車両の中枢は、生体神経で制御されています」

 准将は天井を指した。

 白い水嚢が脈打つ。

「あれは水袋ではない。歴代優勝者の神経組織を培養し、濾過膜と演算器官へ育てたものです。優れた兵士一人の脳は、千の機械より柔軟に砂嵐を読み、敵を避け、水脈を嗅ぎ当てる」

 ナナセの顔から笑みが消えた。

「市民権は」

「中枢市民です。鉄胎そのものになる。百年どころか、部品を交換しながら永遠に水を運べます」

 准将が手を広げた。

「名誉でしょう?」

 ナナセは答えず、認証板を投げた。

 衛兵の視線が一瞬そちらへ動く。

 ミナトとナナセは同時に撃った。

 衛兵二人が倒れる。

 自動銃が火を噴く。

 食卓が穴だらけになり、死体が再び踊った。

 ミナトはナナセを抱えて床を転がった。弾が彼の背を掠め、制服と皮膚を一筋持っていく。

 残った兵士のうち、三番が衛兵へ突進した。

「名前を返せ!」

 彼は撃たれながら笑った。腹、胸、喉。最後まで走り、衛兵の腰へ抱きつく。

 自分の首輪へ指を差し込んだ。

 無理やり外そうとした。

 針薬が作動する前に、首輪の小型炸薬が爆発した。

 三番と衛兵二人の頭部が消えた。

 残り二人。

 ミナトとナナセ。

 准将は血の飛沫を白い頬につけたまま、微笑んでいた。

「理想的です」

「何が」とミナト。

「一人になるまで殺し合う必要がなくなりました。候補を二人同時に中枢へ接続し、適合率の低い方を切り捨てればいい」

 床が開いた。

 拘束具のついた機械腕が伸び、ナナセの脚を掴んだ。

 矢傷のある太腿から肉が裂け、彼女が叫んだ。

 ミナトは腕へ撃つ。

 弾かれる。

 別の腕が彼の喉を掴み、持ち上げた。

 准将が近づく。

「人間は自由を欲しがる。しかし自由は、水より浪費されやすい。だから府が管理するのです」

 彼女の指が、ミナトの頬の傷を撫でた。

「安心なさい。中枢になれば欲望は濾過されます。恐怖も、性欲も、罪悪感も。純粋な命令だけが残る」

 ナナセが血に濡れた顔を上げた。

「それ、生きてるって言うの?」

「役に立つ、と言います」

 機械腕が二人を最終選抜室へ引きずった。

 最終選抜室は、子宮に似ていた。

 赤い膜で覆われ、床も壁も湿っている。中央に二基の接続椅子。天井から透明な管が垂れ、その中を乳白色の液体が流れていた。

 歴代優勝者たちの声が聞こえた。

 言葉ではない。

 水嚢の収縮音、弁の開閉、車輪の回転、蒸気炉の唸り。鉄胎のあらゆる音が、人間の呻きに聞こえる。

 ミナトとナナセは椅子へ縛られた。

 服を裂かれ、背骨に沿って消毒液を塗られる。冷たい刃が皮膚へ入り、脊髄端子の位置を探った。

 ナナセがミナトを見た。

「墓掘り」

「何だ」

「私が先に死んだら、ちゃんと埋めて」

「砂漠全部が墓だろ」

「じゃあ、雑でいい」

 彼女は笑った。

 頬に血が乾いていた。裂けた唇。汗に濡れた首。首輪の下に赤い擦り傷。

 ミナトは、彼女に触れたかった。

 傷を押すためでも、体温を確かめるためでもない。名前を失わないために。

 拘束具の中で指を伸ばす。

 届かない。

 あと数センチ。

 ナナセも手を伸ばした。

 二人の中指の先が触れた。

 それだけで、暗い部屋の中に裸の火が灯った。

 ミナトは水嚢区画での彼女の口づけを思い出した。血の味。肩甲骨の動き。優しくするなと言った声。

「ナナセ」

 名前を呼ぶ。

「ミナト」

 返ってくる。

 針が背中へ刺さった。

 痛みは白かった。

 目の前が弾け、鉄胎の全感覚が流れ込んできた。

 十二対の車輪が砂を噛む感触。

 蒸気炉の熱。

 残存水量。

 外装に当たる風。

 死体から蒸発する微量の湿気。

 百舌の接近。

 骨の谷の出口。

 地下六百メートルに眠る巨大な水脈。

 ミナトは鉄胎になった。

 同時に、鉄胎の中にいる全員の鼓動を聞いた。

 マダラ准将。

 衛兵二人。

 整備兵十二人。

 操縦士三人。

 そしてナナセ。

 彼女の心臓は速く、強かった。

 接続椅子の横で、准将が数値を見ている。

「二十一番、適合率八十八。十三番、九十一」

 ナナセを切り捨てる準備が始まった。

 彼女の管へ黒い液体が満ちていく。

 神経融解剤。

 ミナトは叫ぼうとした。

 口は動かなかった。

 だが鉄胎の警笛が鳴った。

 車体全体が吠えた。

 准将が顔を上げる。

「制御を切れ!」

 整備兵が端末を操作する。

 ミナトは端末の電流を逆流させた。

 火花。

 兵士の手が焼け、皮膚が手袋の中で泡立つ。

 鉄胎の進路を変える。

 南ではない。

 東。

 地下水脈の真上へ。

「十三番、命令に従え!」

 准将の声が頭の内側に響く。

 首輪が熱くなる。

 処刑信号。

 ミナトは首輪を止めようとしたが、そこだけは外部回路だった。

 針薬が作動する。

 心臓が一度、大きく痙攣した。

 ナナセの指が、彼の指を強く押した。

「考えるな」

 彼女の声がした。

 ザクロ曹長と同じ言葉。

 けれど意味は逆だった。

「感じろ」

 ナナセの感覚が接続端子を通じて流れ込む。

 彼女の痛み。

 太腿の矢傷。

 脊髄を灼く薬。

 ミナトの指先の温度。

 水嚢区画で触れた唇。

 死にたくないという欲望。

 ミナトを死なせたくないという、もっと強い欲望。

 二人の神経が混線した。

 適合率が跳ね上がる。

 百七十七。

 あり得ない数字に、准将が後ずさった。

「切断しろ!」

 遅かった。

 ミナトとナナセは、同時に鉄胎の操縦権を奪った。

 十二対の車輪を東へ向ける。

 蒸気炉を最大出力。

 安全弁を閉鎖。

 砲塔を内側へ旋回。

 水嚢の圧力を上昇。

 首輪制御回路を開放。

 鉄胎内のすべての首輪が外れた。

 床に金属の輪が落ちる音が、雨のように続いた。

 マダラ准将は自分の喉を押さえた。

 彼女にも首輪があった。

 白い襟の下に隠されていた。

「何をする」

 ミナトは、鉄胎の拡声器を通じて答えた。

「墓に水を撒く」

 東の地平線に、環状府の給水管が見えた。

 地下水脈を独占するため、府が築いた黒い管。直径三十メートル。都市へ水を送り、周辺集落を干上がらせている。

 鉄胎は加速した。

 時速百四十。

 百六十。

 百八十。

 百舌が後方から追う。

 皮剝ぎたちは攻撃しなかった。

 先頭に立つ鐘なしの戦艦は、鉄胎と同じ東を目指していた。

 准将は接続椅子へ駆け寄り、ミナトの喉へ拳銃を向けた。

 ナナセが拘束具を引きちぎった。

 肩が外れた。

 肉が裂けた。

 それでも自由になった腕で、准将の手首を掴む。

 銃声。

 弾はナナセの腹を抜けた。

 彼女の血がミナトの胸へ降った。熱い。驚くほど熱い。

 ナナセは准将の赤い唇へ口づけた。

 准将の目が見開かれる。

 次の瞬間、ナナセは彼女の下唇を噛み切った。

 肉片を吐き捨てる。

 准将が悲鳴を上げる。

「優しくしないよ」

 ナナセは拳銃を奪い、准将の首輪を撃った。

 爆発。

 准将の頭部が赤い膜へ花のように広がった。

 同時に、鉄胎は給水管へ衝突した。

 世界が白くなった。

 鋼鉄が潰れ、骨が折れ、蒸気炉が破裂した。

 給水管に亀裂が走る。

 最初は一本の銀線。

 それが広がり、黒い管の腹を裂いた。

 水が噴き出した。

 何億リットルもの水が、砂漠の空へ柱となって立ち上がった。

 太陽を覆い、砕け、雨になった。

 鉄胎の装甲が剥がれる。

 白い水嚢が空へ放り出され、乳白色の膜を翻す。

 歴代優勝者たちの神経組織が、初めて外気に触れる。

 彼らの声が聞こえた。

 歓声だった。

 百舌が鉄胎の横へ突っ込み、船体で給水管の亀裂をさらに押し広げた。皮剝ぎたちは甲板で踊り、首輪を投げ捨てた。

 遠くの集落から、人々が出てきた。

 雨を見上げる。

 口を開く。

 泣く。

 砂は瞬く間に泥になり、死者の灰を抱いて流れた。

 最終選抜室は半分潰れていた。

 ミナトは接続椅子から落ち、赤い膜の上を這った。脊髄端子は抜け、背中から血が流れている。

「ナナセ」

 返事がない。

 彼女は准将の死体の隣に横たわっていた。

 腹の銃創から血が溢れ、雨水と混ざって薄くなる。ミナトは傷を押さえた。

「優しくしないで」

 ナナセが目を開けた。

「黙れ」

「命令?」

「頼みだ」

「じゃあ、聞く」

 彼女は咳をした。唇に泡立つ血。

 ミナトは裂けた服で傷を縛った。

「埋めるな」

 ナナセが言った。

「さっきと言うことが違う」

「水が来たから。泥は嫌い」

「死ぬな」

「それも命令?」

「頼みだ」

「高くつくよ」

「水で払う」

 ナナセは笑った。

 今度は血を吐かなかった。

 天井が軋む。

 ミナトは彼女を抱き上げた。外れた肩、矢傷の太腿、腹の銃創。壊れかけた体は軽かった。軽いのに、生きようとする力だけが重かった。

 二人は鉄胎の裂け目から外へ出た。

 雨が全身を打った。

 血を洗い、汗を洗い、焼きついた番号を濡らす。

 ミナトの胸には十三。

 ナナセの胸には二十一。

 消えない数字。

 だが彼らはもう番号ではなかった。

 皮剝ぎの巨漢を弔う者がいた。

 死んだ徴集兵を運び出す者がいた。

 水嚢から剥がれた神経膜を、濡れた布で包む者がいた。

 誰も命令していない。

 遠くで、環状府の警報塔が鳴っていた。

 装甲軍が来る。

 水を取り戻しに来る。

 自由を浪費だと呼ぶ者たちが、何度でも来る。

 ナナセはミナトの腕の中で目を細めた。

「次は、どうする」

 ミナトは雨の向こうを見た。

 給水管から溢れた水が谷を作り、南へ流れ始めている。乾いた大地が割れ目から飲み込み、それでも余った水が川になって進む。

「まず、飲む」

 二人は泥の中に膝をついた。

 ミナトは両手で水を掬った。

 血も、幼虫も、府の印もない。

 ナナセへ飲ませる。

 彼女の喉が動く。

 一口。

 二口。

 水が顎を伝い、首輪の痕を濡らした。

 ナナセはミナトの手首を掴み、残った水へ唇をつけた。舌先が掌に触れた。生き物の熱があった。

「料金、前払い」

 彼女は言った。

 ミナトも飲んだ。

 水は無味だった。

 無味であることが、奇跡だった。

 雨の中、鉄胎はゆっくり沈んでいった。

 巨大な車輪。

 砲塔。

 訓練場。

 食堂。

 死者の血。

 曹長の命令。

 准将の微笑み。

 すべてが泥に呑まれた。

 最後に、車体中央の警笛が一度だけ鳴った。

 名前は砂に返せ。

 番号は鉄に刻め。

 古い命令を、ミナトは胸の中で言い換えた。

 名前は口で呼べ。

 鉄は雨に錆びさせろ。

「ナナセ」

「うん」

「ナナセ」

「聞こえてる」

「もう一度」

 彼女は、血の気のない顔で笑った。

「ミナト」

 雨は止まなかった。

 砂漠が墓なら、その日、すべての死者へ水が撒かれた。

 そして泥の底では、錆び始めた鉄胎の神経が、誰にも命令されずに夢を見ていた。