『鉄棺の荒野』

一 棺を引く男

 太陽は、十九年前から白かった。

 空を焼いた大災害〈白灼〉のあと、海は退き、街は塩に埋まり、雨は年に二度しか降らなくなった。文明は死ななかった。ただ、死にきれずに腐った。

 旧国道四十七号。そのひび割れた路面を、一人の男が歩いていた。

 名は冬馬。

 年は三十をいくつか越えたあたり。髪は砂に焼け、左頬には耳から口元まで古い裂傷が走っている。長い外套の下に、軍用の防刃布を継ぎ合わせた服を着ていた。

 男の腰には短い鉄鋤。右手には太い鎖。

 鎖の先で、黒い鉄棺が路面を削っていた。

 車輪はない。棺の底が、じかに地面を噛んでいる。

 ずるり。

 ずるり。

 鉄と石の擦れる音だけが、死んだ荒野に残った。

 道の先で、笑い声がした。

 冬馬は止まらなかった。

 崩れた料金所の陰で、五人の男が旅人を囲んでいた。そろいの犬皮を頭からかぶり、口元に金属の牙を縫いつけている。〈犬面組〉。水袋と歯と女を奪うことで知られた、塩街道の小さな害虫だった。

 地面には女が倒れていた。胸を撃たれている。傍らで、十三、四の少女が錆びたナイフを構えていた。

「もう一度だけ聞くぞ、小娘」

 犬面の頭目が言った。右耳がなく、代わりに瓶の蓋を縫いつけている。

「井戸はどこだ」

「母さんを返せ」

「そいつはもう土のものだ。生きてるおまえが、死体に口をきくな」

 頭目の手が少女の髪をつかんだ。

 その手首に、鉄鋤が突き刺さった。

 頭目は一拍遅れて絶叫した。

 冬馬は鉄鋤を抜き、少女と男たちの間に立った。

「その女には名があるか」

 少女は息を呑んだ。

「……マリュル」

「そうか」

 冬馬は倒れた女を見た。

「マリュル。ここは風が強い。少し先の岩陰に埋める」

「誰だ、てめえ」

 頭目が血まみれの手首を押さえ、喚いた。

 冬馬は振り向きもしない。

「墓掘りだ」

 犬面の一人が散弾銃を上げた。

 銃声。

 冬馬の姿が消えた。

 いや、低く沈んだのだ。散弾が外套を裂くより早く、鎖が地を這った。鉄棺の角が振り子のように跳ね、散弾銃の男の膝を横から砕く。骨が布を破り、男は自分の脚に噛みつくように倒れた。

 冬馬は鎖を引き戻した。

 黒い棺が砂を噴き上げる。

 二人目が鉈を振り下ろす。冬馬は手首を取り、肘を逆に折り、折れた腕ごと鉈を持ち替えさせた。その刃を三人目の首筋へ押し込む。

 四人目が背後から抱きついた。

 冬馬は頭を後ろへ打ちつけた。鼻骨が潰れる音。続けて踵で足の甲を踏み抜き、相手が緩んだ瞬間、腰を落として投げる。

 男の背が、鉄棺の縁に落ちた。

 鈍い音がした。

 残った頭目は、腰の拳銃を抜いた。

「動くな!」

 冬馬は動かなかった。

 頭目は勝ったと思った。

 少女が投げた錆ナイフが、頭目の頬に刺さった。

「ぎゃっ――」

 その一瞬で、冬馬は間合いを潰した。

 拳銃を持つ手を両手で包み、銃口を頭目の顎へ向ける。

「待て。水をやる。女もやる。何でも――」

「死体から奪った水は、死体に返せ」

 冬馬は引き金を引かせた。

 乾いた音が、料金所の屋根を震わせた。

 静寂が戻った。

 少女は震えながら、母のそばへ膝をついた。

「助けられたのに」

 冬馬は傷を見た。胸を貫いた弾は肺と心臓を裂いていた。

「嘘は言わん」

「助けてって、言ったのに」

「聞こえなかった」

「言った!」

「俺が来た時には、もう死んでいた」

 少女は冬馬を睨んだ。涙は出ていなかった。水を失うことを、荒野の子供は本能で恐れる。

「名前は」

「……ユズ」

「ユズ。母親を運べ。埋めるぞ」

 冬馬は犬面たちの水袋を拾い、ひとつを女の口元に傾けた。

 水は閉じた唇を濡らし、砂へ落ちた。

 それから彼は、岩陰に穴を掘った。

 鉄鋤を振るたび、乾いた大地が小さく鳴った。

二 灯井

 少女の村は、旧高速道路の高架下にあった。

 名を〈灯井〉という。

 崩れた橋脚の間に鉄板と布を張り、百二十人ほどが暮らしている。村の中央には、白灼以前の揚水ポンプが一本だけ残っていた。日に三度、地の底から濁った水を汲み上げる。

 村の名は、そのポンプの始動灯がまだ緑に光ることからついた。

 冬馬がマリュルの亡骸を担いで入ると、人々は口を閉ざした。

 ユズは誰にも縋らなかった。

「母さんは犬面に殺された。こいつが埋めてくれた」

 それだけ言った。

 村長のヴェヴァンは、片脚の女だった。五十前後。失った右脚の代わりに、農機具の軸を加工した義足を使っている。

 彼女は冬馬の鉄棺を見るなり、眉をひそめた。

「軍のものだね」

「昔の話だ」

「昔は死なない。姿を変えて追ってくる」

「だから引いている」

 ヴェヴァンは棺の側面に刻まれた文字を見た。

 人の名だった。

 二十七。

 小さな文字が、鉄板を埋め尽くしている。

「宿はない。食い物も余ってない」

「墓をひとつ掘った。水を一杯もらう」

「それで出ていくのかい」

「夜明けに」

 ヴェヴァンはしばらく冬馬を見た。

「今夜は出ない方がいい」

「なぜだ」

 答える前に、遠くで汽笛が鳴った。

 低く、長く、獣の腹鳴りのような音だった。

 村人たちが一斉に俯いた。

 高架の向こう、塩の平原に黒煙が立っている。

 それは列車だった。

 線路など、とうに砂に埋まっている。だがその怪物は、履帯を何十本も連ね、自ら道を噛み砕きながら進む。旧貨物車両と装甲板を継ぎ合わせた移動要塞。先頭には巨大な鋼鉄の顎があり、地表の残骸を呑み込んで燃料へ変える。

 〈大顎城〉

 荒野を支配するガイエン軍の城だった。

「三日ごとに来る」

 ヴェヴァンが言った。

「水の半分、作物の半分、働ける者を二人。今日は子供を十人よこせと言ってきた」

「何に使う」

「旧地下管の掃除だ。狭い穴に入れて、詰まった死体や錆を掻き出させる。戻った子は一人もいない」

 冬馬は黒煙を見た。

「ガイエンという男は、左の首に三本の焼き傷があるか」

 ヴェヴァンの目が細くなった。

「あんた、知ってるのかい」

「答えろ」

「ある。あれを王の爪と呼ばせてる」

 冬馬の手の中で、鎖が軋んだ。

 ユズがそれを見ていた。

「そいつを殺しに来たの」

「違う」

「じゃあ、何しに」

 冬馬は棺を一度だけ振り返った。

「埋めに来た」

三 王の使い

 夕刻、ガイエン軍の徴税隊が来た。

 装甲車三台。兵は二十人。

 全員が胸に白い手形を描いている。乾いた人骨を砕き、油で練った塗料だった。

 隊長は穴熊ダンバと呼ばれる巨漢だった。

 身長は二メートルを越え、背中に工事用の油圧補助架を背負っている。腕に沿った二本のピストンが、動くたびに白い蒸気を吐いた。皮膚には無数の金属輪が埋め込まれ、そこから鎖が垂れている。

「十匹、並べろ」

 ダンバは子供を人間として数えなかった。

 村人たちは沈黙した。

 ポンプの前に十人の子供が並ばされた。ユズもいた。

「ユズはだめだ」

 ヴェヴァンが前へ出た。

「ポンプを直せるのは、この子だけだ。連れていけば、おまえたちが次に来た時、水はない」

「なら村ごと噛ませるだけよ」

 ダンバが笑った。

 補助架が唸り、巨大な手がヴェヴァンの首をつかむ。片手で持ち上げた。

 冬馬は高架の柱にもたれ、見ていた。

 ユズが叫ぶ。

「墓掘り!」

 冬馬は動かない。

「母さんを埋めたんでしょ! 生きてる人間はどうでもいいの!」

 ダンバが振り向いた。

「なんだ、あの棺桶は」

 部下の一人が冬馬へ近づき、棺を蹴った。

「死体でも入ってんのか?」

 冬馬は言った。

「二十七人分の名前が入っている」

「名前?」

「おまえにはないものだ」

 兵が顔を歪め、銃床を振り上げた。

 冬馬の鎖が鳴った。

 次の瞬間、兵の顎が消えた。

 鉄棺の角が下から突き上げ、歯と骨を空へ撒き散らしていた。

 ダンバはヴェヴァンを投げ捨てた。

「面白え」

 白い蒸気が噴き、補助架の腕が膨らむ。

 冬馬は棺の上に片足を置いた。

「子供を放せ」

「断ったら?」

「二十一個、墓を掘る」

 ダンバは大笑いした。

「てめえの分を忘れてるぞ!」

「俺は墓に入らん」

「なぜだ!」

「墓が歩いているからだ」

 銃声が重なった。

 冬馬は棺を蹴って横滑りさせ、その陰へ伏せた。弾丸が黒い鉄板を叩き、火花を散らす。鎖を柱へ回し、全身で引く。

 鉄棺が弧を描いた。

 三人の兵が脚を刈られ、宙へ浮く。冬馬は棺の陰から飛び出し、一人の喉へ鉄鋤を打ち込み、その体を盾にした。二発、三発。死体が跳ねる。

 盾を押し出す。

 背後の兵とぶつかったところへ、冬馬の膝がめり込んだ。

 肋骨が内側へ折れた。

「囲め!」

 兵が散開する。

 ユズは子供たちの縄を、隠し持っていた切れた鋸刃で削っていた。

 ダンバが冬馬へ突進した。

 油圧拳が棺を殴る。

 轟音。

 鉄棺が三メートル吹き飛んだ。冬馬の手から鎖が抜け、掌の皮が裂ける。

「墓ごと潰してやる!」

 第二撃。

 冬馬は拳の内側へ踏み込み、ダンバの肘に鉄鋤を差し込んだ。だが補助架の鋼板に弾かれる。

 巨腕が横殴りに振られた。

 冬馬の体が柱へ叩きつけられる。口から血が飛ぶ。

 ダンバは笑いながら近づいた。

「軽いな。干物か、てめえ」

 冬馬は膝をつき、血を吐いた。

「重いものは、後ろに置いてきた」

 足元に、棺の鎖があった。

 冬馬はそれをダンバの足首へ巻きつけた。

「何を――」

 ヴェヴァンがポンプの始動レバーを倒した。

 緑の灯がつく。

 地の底で、古い機械が目を覚ました。

 冬馬は鎖の反対端を、回転する揚水軸へ投げ込んだ。

 鎖が巻き取られる。

 ダンバの脚が引かれた。巨体が倒れ、補助架の腕が地面を掴む。油圧が唸り、土を抉った。

 それでも止まらない。

 鎖は張り、足首の肉へ食い込む。

「止めろ! 止めろお!」

 冬馬は立ち上がった。

「機械は命乞いを聞かない」

 鎖が骨を断ち、ダンバの片脚を膝から奪った。

 巨漢の絶叫に、残った兵たちが怯む。

「逃げろ!」

 彼らは装甲車へ走った。

 ユズは縄を切り終えていた。子供たちが散る。

 冬馬は逃げる兵を追わなかった。

 地面を這うダンバの前に立つ。

「ガイエンに伝えろ」

 ダンバは泡を吹きながら、冬馬を睨んだ。

「第九工兵隊の冬馬が、棺を届けに来たとな」

 その名を聞いた瞬間、ダンバの顔から血の気が引いた。

「まさか……黒杭の冬馬……」

「まだ覚えていたか」

「おまえは、北門で死んだはずだ」

「二十七人が代わりに死んだ」

 冬馬は棺を引き寄せた。

「だから、俺は死ねない」

四 二十七の名前

 夜、灯井に火はなかった。

 大顎城から見つからぬよう、炊事も灯りも高架の地下で行う。

 冬馬は棺についた弾痕を、油と砂で磨いていた。

 ユズが隣に座った。

「逃げた兵が、城を連れてくる」

「ああ」

「勝てるの」

「勝つ気はない」

「またそれ」

「やることをやる。結果に名前をつけるのは、生き残った奴だ」

 ユズは棺の名を指でなぞった。

「この人たち、仲間?」

「部下だ」

「みんな死んだの」

「ああ」

「ガイエンに?」

 冬馬の手が止まった。

 十九年前、白灼の後。

 冬馬は再建軍第九工兵隊の隊長だった。

 彼らの任務は、旧北部都市から避難民を南へ逃がすこと。地下鉄の保守坑を通し、三千人を乾燥地帯の外へ運ぶ計画だった。

 ガイエンは当時、再建軍の大佐だった。

 彼は避難民が持つ水と燃料を奪うため、保守坑の北門を封鎖した。老人と子供を先に閉じ込め、酸素が尽きるまで待てと命じた。

 冬馬は命令を拒否した。

 第九工兵隊は北門を爆破し、避難民を逃がした。

 ガイエンは味方の砲を向けた。

 冬馬の部下は、撤退用の装甲掩体――棺に似た黒い箱――へ重傷者を入れた。だが収容できたのは一人だけだった。

 隊員たちは隊長を殴り倒し、箱へ押し込み、外から閉じた。

 最後に蓋を叩いた副長の声を、冬馬はいまも夢で聞く。

『隊長。生き残るのも、命令です』

 砲撃は五分続いた。

 蓋が開いた時、北門には誰も立っていなかった。

 二十七人の部下は、冬馬一人を残すために死んだ。

 逃がした避難民の多くも、別の戦場で死んだ。

 ガイエンだけが生き延び、兵と武器を集め、王になった。

「俺はあいつを殺すために棺を引いてきた」

 冬馬は言った。

「それだけが、死んだ連中に返せるものだと思っていた」

「違うの」

「分からん」

「母さんは、死ぬ前に言った」

「何を」

「水は、飲んだ人の中で歩き続けるって。だから自分が死んでも、私の中に残るって」

 ユズは自分の胸を叩いた。

「死んだ人に返すものって、仇じゃなくて、続きなんじゃないの」

 冬馬は答えなかった。

 棺の二十七番目の名。

 副長、間宮セイジ。

 その横に、爪で刻んだ小さな言葉がある。

 生きろ。

 その時、高架の外で鐘が鳴った。

 一回。

 二回。

 三回。

 見張りの合図だった。

 地平線が、赤く燃えていた。

 大顎城が来る。

五 大顎城

 夜明け前、怪物は灯井の前に姿を現した。

 全長百五十メートル。

 先頭の鋼鉄顎には、車や家屋の残骸が歯の間に挟まっている。車体の上には砲塔、投光器、檻、処刑台。煙突から吐き出される黒煙が空を汚した。

 城の正面に、百人の兵が並ぶ。

 その中央を、一人の男が歩いてきた。

 ガイエン。

 六十に近いはずだが、背は真っ直ぐだった。頭髪は剃り、首の左側に三本の焼き傷。白い外套の下に、黒い機械鎧をまとっている。

 鎧は建設用外骨格を軍用に改造したものだった。胸部に小型炉。背骨に沿って油圧管。両腕には、岩盤を砕くための衝撃槌。

 ガイエンは、冬馬を見て笑った。

「久しいな、隊長」

「その呼び方をするな」

「なぜだ。おまえは優秀だった。命令に従わぬことを除けば」

「おまえの命令は、命令ではない。腹を空かせた獣の鳴き声だ」

「獣こそ正しい」

 ガイエンは両腕を広げた。

「見ろ。国も法も神も消えた。残ったのは、食う者と食われる者だけだ。私はただ、その理を認めた」

「理を語るには、腹が出すぎている」

 兵たちがざわめく。

 ガイエンの笑みが薄れた。

「棺を渡せ」

「中身を知っているのか」

「第九工兵隊が運んでいた地殻穿孔弾〈黒杭〉。一発で地下十メートルを砕く。あれがあれば、水脈を奪える」

「これは墓だ」

「墓は資源だ。骨は肥料に、鉄は武器になる」

 ガイエンは灯井を指した。

「棺と子供をよこせ。村は残してやる」

 ヴェヴァンが笑った。

「昨日も同じことを言ったね。あんたの言う『残す』は、ゆっくり殺すって意味だ」

「選択肢があるだけ、慈悲深いと思え」

 村人の中から、一人の老人が歩み出た。

 名はバク。孫が徴発される十人に入っていた。

 彼は震える手で、門の閂を抜いた。

「すまん……すまん……」

 門が開く。

 兵が雪崩れ込んだ。

 誰も老人を責める暇はなかった。

「ポンプを守れ!」

 ヴェヴァンが叫ぶ。

 灯井の戦いが始まった。

 村人たちは兵ではない。

 だが、死ぬ順番を待つ家畜でもなかった。

 農具を槍に、鍋蓋を盾にした。高架から砂袋を落とし、狭い通路へ敵を誘い込む。ユズは子供たちを率い、古い配管へ油を流した。

 冬馬は正面から兵の群れへ入った。

 鎖が鳴る。

 棺が跳ぶ。

 一人の胸板を潰し、返す軌道で二人目の腰を折る。鉄鋤が銃身を叩き下げ、放たれた弾が味方の脚を撃ち抜く。

 冬馬は止まらない。

 銃剣を脇で挟み、兵の喉へ額を叩き込む。目に指を入れ、倒れた体を蹴り、次の銃弾の盾にする。

 血が砂を黒くした。

 敵の一人が火炎瓶を投げた。

「伏せろ!」

 冬馬は棺を立てた。

 炎が鉄板を舐める。

 二十七の名が赤く照らされた。

 火の向こうから、ガイエンが歩いてくる。

 機械鎧の衝撃槌が唸った。

 冬馬は棺を盾にする。

 槌が落ちた。

 爆発に似た音。

 棺の側面が大きく凹み、冬馬ごと吹き飛ぶ。

「それがおまえの十九年か」

 ガイエンが迫る。

「死者を引きずり、腐らせ、最後には盾にする。私と何が違う?」

 冬馬は立とうとした。

 右脚が動かない。

 衝撃槌がもう一度振り下ろされる。

 冬馬は転がって避けた。地面が割れ、拳ほどの石が飛ぶ。

「おまえは、あの日から一歩も進んでいない」

 ガイエンの蹴りが腹へ入る。

 冬馬の体が宙を舞い、ポンプの基部へ叩きつけられた。

 骨が鳴った。

 ユズが駆け寄ろうとする。

「来るな!」

 冬馬の叫びに、少女の足が止まった。

 ガイエンは棺へ向き直った。

「黒杭をもらう」

 衝撃槌が蓋を叩く。

 一撃。

 二撃。

 三撃。

 蝶番が千切れた。

 蓋が開く。

 中に死体はなかった。

 折り畳まれた軍用外套。

 二十七枚の認識票。

 そして中央に、黒い鉄の杭が固定されている。長さ二メートル。根元に炸薬筒と点火柄。地中へ撃ち込み、岩盤を縦に裂く工兵用兵器だった。

 ガイエンが手を伸ばす。

「やっと世界が、私の喉を潤す」

「違う」

 冬馬が立っていた。

 右脚を引きずり、片目を血で塞がれながら。

「それは、おまえの墓穴を掘る道具だ」

六 生きる命令

 ガイエンの衝撃槌が冬馬の左肩を捉えた。

 鎧の中で骨が砕けた。

 冬馬は膝をつく。

 ガイエンは髪を掴み、顔を上げさせた。

「まだ分からんか。弱者を守れば、強者が死ぬ。おまえの部下がそうだった」

「違う」

「何が違う」

「あいつらは、守ったから死んだんじゃない」

 冬馬は血の混じった唾を吐いた。

「おまえが殺した」

 ガイエンの顔から表情が消えた。

 衝撃槌が上がる。

 その時、ポンプ塔の上から油が降った。

 ユズだった。

「冬馬! 右へ!」

 冬馬は地を蹴った。

 直後、子供たちが火のついた布を投げた。

 油が燃え上がる。

 兵たちが悲鳴を上げ、通路が炎の壁に変わった。

 ガイエンの外套にも火がつく。だが機械鎧は止まらない。

「小虫が!」

 衝撃槌が塔の支柱を砕く。

 ユズの足場が傾いた。

「ユズ!」

 少女が落ちる。

 冬馬は走った。

 ガイエンの背後には黒杭がある。今なら奪える。十九年追い続けた男を殺す機会だった。

 冬馬は黒杭に背を向けた。

 落ちてきたユズを、右腕一本で受け止める。

 二人とも地面へ転がった。

 ユズが咳き込む。

「どうして……」

「命令だからだ」

「誰の」

 冬馬は棺の中の認識票を見た。

「死んだ馬鹿どもの」

 生きろ。

 十九年前の言葉が、初めて命令として胸に届いた。

 ガイエンが黒杭を引き抜く。

「結局、また選べなかったな!」

 冬馬はユズをヴェヴァンへ投げるように預けた。

「ポンプの下に古い導水管があると言ったな」

 ヴェヴァンは頷く。

「ある。だけど岩塩で塞がってる」

「水脈は?」

「その下だ。昔の図面が正しければね」

 冬馬はガイエンを見た。

 黒杭。

 地を裂く一発。

 殺すためではなく、生かすために使える。

 その考えを、十九年間一度も持たなかった。

「ユズ」

「なに」

「始動灯が三度明滅したら、ポンプを最大にしろ」

「壊れるよ」

「壊せ」

 冬馬は鎖を拾った。

 黒い棺は蓋を失い、火に焼かれ、もう棺の形を保っていない。

 それでも鎖の先にあった。

「最後の墓だ」

 冬馬は走った。

七 黒杭

 ガイエンが黒杭の点火柄を握る。

「近づけば撃つぞ!」

「撃て」

「何?」

「おまえには撃てん」

 冬馬は歩みを止めない。

「それを撃てば、おまえの欲しい水脈も壊れるかもしれん。おまえは命を賭けられない。王だからじゃない。ただの臆病者だからだ」

「黙れ!」

 ガイエンが杭を横薙ぎに振る。

 冬馬は鎖で受けた。

 火花。

 左肩は死んでいる。右腕だけで鎖を操る。

 二撃目が脇腹を抉る。防刃布が裂け、血が飛んだ。

 三撃目。

 冬馬は避けず、杭を脇に抱え込んだ。

 黒い先端が腹の肉へ食い込む。

「捕まえたぞ」

 ガイエンが笑う。

「俺もだ」

 冬馬は鎖を杭の根元へ巻いた。

 そして自分の体ごと、ポンプ基部の裂け目へ飛び込んだ。

 ガイエンも引かれる。

 二人は配管室へ落ちた。

 地下は暗く、古い鉄管が獣の骨のように走っている。床の中央に、白い岩塩の塊が盛り上がっていた。

 冬馬は黒杭の先端を岩塩へ叩きつけた。

「やめろ!」

 ガイエンが初めて恐怖の声を出した。

 冬馬は杭を押し込む。

 機械鎧の腕が背中を殴る。

 一撃で息が止まる。

 二撃で視界が暗くなる。

 三撃目を受けながら、冬馬は鎖を点火柄へ絡めた。

「ユズ!」

 地上で、始動灯が一度明滅した。

 冬馬が鎖を引く。

 二度。

 ガイエンが冬馬の首をつかむ。

「おまえも死ぬぞ!」

「だから何だ」

「生きろと言われたんじゃないのか!」

 冬馬は笑った。

 口の中が血で満ちた。

「生きるために、死なないだけだ」

 三度目の明滅。

 ユズがポンプの最大弁を開いた。

 地の底で、巨大なものが回り始める。

 冬馬は点火柄を引いた。

 黒杭が撃ち込まれた。

 衝撃は音より先に骨へ来た。

 岩塩が縦に裂ける。

 床が沈む。

 ガイエンの機械鎧が、崩れた配管に挟まった。

 次の瞬間、地底の水が噴き上がった。

 十九年、岩の下に閉じ込められていた圧力。

 濁流が配管室を満たし、天井を突き破る。

 灯井の中央から、水の柱が上がった。

 兵も村人も、戦うことを忘れて見上げた。

 水は朝焼けを砕き、赤い光を無数の粒に変えた。

 大顎城の前部が陥没する。

 巨大な履帯が空転し、鋼鉄顎が地面へ突き刺さった。車体が傾き、砲塔が落ち、兵たちは雪崩のように逃げた。

 地下では、冬馬が水に呑まれていた。

 片腕で配管を掴む。

 ガイエンが目の前にいた。

 機械鎧の半分を失い、それでも生きている。

「助けろ」

 ガイエンが言った。

「おまえは弱者を見捨てないんだろう」

 冬馬はガイエンの手を見た。

 その手は、まだ衝撃槌の引き金を握っていた。

 冬馬が近づいた瞬間、ガイエンは笑い、槌を放った。

 冬馬は身を沈めた。

 衝撃槌が配管を砕く。

 噴き出した水が機械鎧の炉へ入った。

 蒸気爆発。

 ガイエンの腕が肩から吹き飛ぶ。

 それでも男は叫びながら、残った手で冬馬の喉を掴んだ。

「私は王だ! 私が死ねば、また別の獣が来る! 何も変わらん!」

 冬馬はガイエンの手首を握った。

「そうだ」

 指を一本ずつ外す。

「だから、一度で終わらせようとした俺が間違っていた」

 ガイエンの親指を折る。

「墓は一つずつ掘る」

 人差し指。

「水は一口ずつ分ける」

 中指。

「生きるのも、一日ずつだ」

 最後の指を外し、冬馬はガイエンの胸当てへ鎖を巻きつけた。

 鎖の先には、壊れた鉄棺。

 濁流が棺を引く。

 ガイエンの体も引かれる。

「冬馬あああ!」

「隊長と呼ぶな」

 冬馬は鎖を放した。

 ガイエンは棺とともに、裂けた地の底へ消えた。

 水音だけが残った。

八 棺のない朝

 三日後。

 灯井の井戸は、まだ水を吐いていた。

 最初の濁りは沈み、やがて飲めるほど澄んだ。大顎城の残骸からは食料、薬、工具が見つかった。逃げた兵の半分は荒野へ消え、半分は武器を捨てて村に水を乞うた。

 ヴェヴァンは全員に同じ量を与えた。

「昨日まで敵だった」と村人が言うと、彼女は答えた。

「今日も敵にしたいなら、乾かして追い払えばいい。違う明日がほしいなら、飲ませな」

 バク老人は、自分が開けた門の前に座り続けていた。

 孫が隣に座った。

 誰も許したとは言わなかった。

 誰も出ていけとも言わなかった。

 冬馬は三日眠った。

 目を覚ました時、左腕は布で胸に固定され、脇腹には粗い縫い目が走っていた。

 ユズが水の椀を差し出した。

「死んだと思った」

「勝手に埋めるな」

「墓掘りのくせに」

「だから言っている」

 冬馬は水を飲んだ。

 冷たかった。

 喉を通る感触に、なぜか胸が痛んだ。

 村の外れには、新しい壁ができていた。

 壊れた鉄棺の板を伸ばし、高架の柱へ打ちつけたものだ。二十七の名前が、朝日に照らされている。

 その下に、ユズが小さな文字を加えていた。

 マリュル。

 そして、戦いで死んだ村人たちの名。

「勝手に使ったな」

「棺じゃなくて、碑にした」

「俺のものだ」

「名前はあんたのものじゃない」

 冬馬はしばらく壁を見た。

 風が吹いた。

 鉄板はもう地を擦らない。

 鎖も鳴らない。

「行くの」

 ユズが聞いた。

「ああ」

「どこへ」

「東に井戸を独り占めしている奴がいるらしい」

「埋めに?」

 冬馬は鉄鋤を肩へ担いだ。

「話をしに行く」

「話が通じなかったら?」

「穴を掘る」

 ユズは笑った。

 冬馬は村を出た。

 背後で、ポンプの始動灯が緑に光る。

 ずるり。

 ずるり。

 もう、棺を引く音はしない。

 代わりに聞こえるのは、水を汲む人々の声だった。

 太陽は相変わらず白い。

 世界も、まだ腐っている。

 それでも荒野のどこかで、人は今日の分だけ水を分け、今日の分だけ墓を掘り、今日の分だけ生きる。

 冬馬は一度も振り返らなかった。

 振り返る必要がなかった。

 死者はもう、後ろにはいなかった。

 彼の中で、歩いていた。