額縁の外で、泥棒は口笛を吹く

――オリジナル読み切り小説――

 泥棒が予告状を送れば、警察はそれを挑発と呼ぶ。

 ルシアン・デルヴォーが予告状を送れば、仕立屋はそれを服装規定と呼んだ。

 十二月十三日、プラハ旧市街のホテル〈オルロイ〉には、夜会服より派手な警備が集められていた。

 屋上の天文舞踏室。ガラスの丸天井には雪が貼りつき、その下で、各国の資産家、学芸員、外交官、密輸商と、そのうち三種類を兼業していそうな人物たちがシャンパンを傾けている。

 今夜の競売品は、たった一枚だった。

 縦一メートル、横七十センチ。作者不詳。制作年不詳。

 題名だけが残っている。

『十三番目の窓』

 絵には、青い夕闇に沈む小さな町が描かれていた。石畳の広場を囲む家々には、黄色い窓が十二。どれだけ数えても十二しかないのに、古い目録には必ず「十三の窓を有する」と記されている。

 過去の所有者は、破産、失踪、発狂、突然の改宗など、競売会社が「由緒」と呼びたがる種類の不幸に見舞われていた。

 絵の前には、文化財犯罪対策局のアンセルム・クルーガー警視が立っていた。

 灰色の髪、灰色の目、灰色の礼装。祝祭という概念を個人的な敵と見なしているような男である。

「警視、笑顔を。今夜はパーティーです」

 隣で言ったのは、シビラ・ノックスだった。

 二十七歳。古美術修復家。呪物鑑定人。本人の希望とは無関係に、物品が最後についた嘘を聞き取ってしまう体質の持ち主でもある。

「私は勤務中だ」

「勤務中でも、顔の筋肉は使えます」

「泥棒の侵入予告が出ている」

「だからこそです。警備責任者が葬式みたいな顔をしていたら、犯人に士気の低さを悟られます」

「君の雇い主は、いつもこうなのか」

 クルーガーが視線だけを動かす。

 シビラの背後には、背の高い紳士が立っていた。

 黒い燕尾服。銀のステッキ。顔には、目も口も描かれていない白磁の仮面。その襟元から、ときおり灰色の蛾が一匹ずつ出入りしている。

「彼女は、私に対してはもっと遠慮がありません」

 声は仮面の奥ではなく、袖口やポケットや靴底のあたりから、ささやかな合唱のように聞こえた。

 彼は人間ではない。

 人間の形を借りた無数の蛾であり、古い魔術師であり、シビラが十五年にわたって「先生」と呼んできた存在だった。

 正式な名は長すぎるので、社交界ではミスター・モスで通している。

「それにしても」とミスター・モスは絵を見上げた。「これはよろしくない」

「呪われている?」とクルーガー。

「呪いなら、まだ礼儀があります。呪いは原因と結果を結びつける。これは境界そのものが曖昧だ」

「具体的に言え」

「警視、魔術師に具体性を要求すると、たいてい料金が上がりますよ」とシビラが言った。

 彼女は手袋を外し、額縁に指を触れた。

 木は冷たかった。

 次の瞬間、耳のすぐ後ろで、子どもの声がした。

 ――わたしは出口を描いた。

 シビラは息を止めた。

 ――だれも、入口だとは言っていない。

「何が聞こえた?」

「絵は、出口だと言っています」

「どこからの」

「そこまでは」

 舞踏室の時計が、零時十二分を指した。

 そのとき、給仕の一人がシャンパンの盆を高く掲げた。

 金色の液体が照明を反射し、天井いっぱいに光の孔雀が羽を広げる。

 クルーガーが叫んだ。

「伏せろ!」

 灯りが消えた。

 悲鳴。ガラスの割れる音。オーケストラが、なぜか最後まで小節を弾き切る音。

 闇の中で、誰かが楽しそうに口笛を吹いた。

 三秒後、非常灯が点いた。

 絵は消えていた。

 代わりに、壁へ一枚のカードが短剣で留められている。

〈世界で最も高価な窓を、少々拝借する。

 返却予定――夜明けまで。

 状態――おそらく良好。

 敬意――必要最低限。

            ルシアン・デルヴォー〉

 クルーガーのこめかみに、血管が一本浮かんだ。

「屋上を封鎖しろ。階段、昇降機、排気口、すべてだ」

「排気口を礼装で通る泥棒ですか」

「奴なら通る」

「警視は彼を高く評価しているんですね」

「逮捕したいだけだ」

「長年の片思いに似ていますね」

「ノックス君」

「はい、黙ります」

 シビラは黙らず、床を見た。

 薄い青色の絵具が、点々と続いている。

 足跡ではない。雪の結晶に似た、小さな筆跡だった。

 それは屋上庭園へ向かっていた。

 ルシアン・デルヴォーは、ガラス温室の中央で絵を抱えていた。

 白いタキシードに、深い青のマント。黒髪はきちんと撫でつけられ、胸には本物かどうか疑わしい巨大なサファイア。

 片手で一メートルの絵を抱えながら、もう片方の手で蘭の鉢を整える余裕まである。

「そこまでだ、デルヴォー」

 クルーガーが拳銃を向ける。

 ルシアンは振り返り、微笑んだ。

「警視。今夜も灰色がよくお似合いだ。あなたが立つと、色彩が自首してしまう」

「絵を置け」

「これは盗難ではない。救難活動だ」

「窃盗犯は全員そう言う」

「言わないと思うが」

「私は実際に聞いている」

「では犯罪者の想像力が衰えている。嘆かわしい」

 シビラとミスター・モスが温室へ入った瞬間、絵の表面が揺れた。

 油絵具の町に、風が吹いた。

 描かれた煙突から煙がのぼり、石畳を白い紙片が横切る。

 十二の窓が、一つずつ消えた。

 最後の一つが消える直前、その内側から少女の手が現れた。

 絵の表面を、こちら側からではなく、向こう側から叩く。

「伏せて!」

 シビラが叫ぶ。

 十三回目の鐘が鳴った。

 ホテルの時計に、十三時など存在しない。

 それでも鐘は、確かに十三回鳴った。

 絵の中の町が膨らんだ。

 額縁よりも大きく、温室よりも大きく、夜空よりも大きく。

 クルーガーがルシアンの腕をつかみ、シビラがクルーガーの上着をつかみ、ミスター・モスの無数の蛾がシビラを包んだ。

 四人は、世界の継ぎ目から落ちた。

 雪が上へ降っていた。

 シビラは石畳に横たわったまま、それを見た。

 白い粒は地面から舞い上がり、暗い空へ吸い込まれていく。

「全員、無事か」

 クルーガーが最初に立ち上がった。

 落下しても職務口調が崩れないのは、才能というより病気に近い。

「私の右袖が負傷しました」とルシアン。

「本人は」

「袖ほどではない」

「なら黙れ」

 ミスター・モスは人の形を保てず、灰色の蛾の群れになっていた。やがて渦を巻き、燕尾服と白磁の仮面を再構成する。

「シビラ」

「平気です、先生」

 周囲は絵の中の町だった。

 狭い広場。

 尖った屋根。

 青い夕暮れ。

 十二軒の家に、十二の窓。

 だが、遠くから眺めた絵とは違うものが一つあった。

 広場の北側に、家の形をした空白がある。

 壁も屋根もない。ただ、そこだけ世界が塗り残され、白い輪郭になっていた。

「十三番目」とシビラは言った。

「窓ではなく、家そのものが欠けている」とクルーガー。

 広場の時計塔では、長針が逆向きに進んでいた。

 窓の奥には人影がある。食卓を囲む家族、ヴァイオリンを弾く男、髪を梳かす女。

 しかし誰も動かない。

 いや、正確には、ごく短い動作を繰り返している。

 父親がスープ皿へ匙を入れる。

 母親が笑う。

 子どもが窓を見る。

 そこで途切れ、最初へ戻る。

「絵の具でできた住民か」とクルーガー。

「違う」とミスター・モス。「絵の具で保存された時間だ」

 白い家の輪郭から、少女が出てきた。

 十六、七歳に見える。黒い髪を一本の三つ編みにし、古風な赤い外套を着ている。

 裸足だった。

 少女はルシアンを見て、安堵したように息を吐いた。

「来てくれた」

「招待状を十三通もいただけばね」

 ルシアンは胸元から封筒を取り出した。

 すべて未開封に見える。宛名はない。切手もない。

 封蝋には、小さな窓の印。

「どこで手に入れた」とクルーガー。

「寝台の下、金庫の中、飛行機の座席、密閉されたワイン瓶の中。最後の一通は、私が着ていたシャツの内側に入っていた」

「そこで警察へ届けようとは思わなかったのか」

「思ったとも。三秒ほど」

「三秒」

「私は慎重な男だ」

 少女はクルーガーを警戒し、シビラとミスター・モスには首を傾げた。

「わたしはイリヤナ。ここに八十一年いる」

「八十一年?」

「外では、たぶんそれくらい。ここでは夕方しかないから、数えにくいの」

 シビラは少女の手に触れようとした。

 イリヤナは怯えなかった。

 指先が触れた瞬間、声が聞こえる。

 ――助けて。

 それは嘘ではなかった。

 けれど、その下にもう一つ、薄い声が重なっていた。

 ――代わって。

 シビラは手を引いた。

「出口はどこ」

「町役場。そこに、あなたたちの世界が飾ってある」

「飾ってある?」

「絵として」

 広場の向こうで、扉が一斉に開いた。

 十二軒の家から、住民たちが出てくる。

 笑顔のまま。

 食卓の匙を握ったまま。

 ヴァイオリンの弓を持ったまま。

 全員が同じ声で言った。

「お客様がお着きです」

 時計塔が、逆向きに一つ鳴った。

 町役場は、外から見れば三階建てだった。

 中へ入ると、天井は夜空より高かった。

 壁一面に絵が飾られている。

 砂漠の駅、海底の食堂、月面の農場、見知らぬ都市の地下鉄。

 どの絵にも、小さな人影があり、そのうち何人かは、こちらを見返していた。

「収蔵庫だな」とクルーガー。

「何の?」

「人生の」と声が答えた。

 階段の上に、女が立っていた。

 黒いドレス。白い手袋。髪には銀の値札が何枚も編み込まれている。

 両目は透明なガラスで、その奥を小さな数字が泳いでいた。

「ようこそ、境界美術館へ。私は査定人。ここではマダム・エコーと呼ばれております」

 彼女は優雅に一礼した。

「返してもらおう」とクルーガー。「絵も、少女も、我々も」

「お返しすることは可能です。ただし、どなたから?」

「所有権の話なら――」

「警視は、どの世界がどの世界を所有しているとお考えで?」

 クルーガーは答えなかった。

 マダム・エコーは階段を降り、イリヤナの肩へ手を置いた。

「この町は、選ばれなかった人生を保管しております。告白しなかった愛。乗らなかった列車。引かなかった引き金。開けなかった扉。人は捨てた可能性を忘れたふりをしますが、可能性の側は人を忘れません」

「詩は結構だ」とクルーガー。

「では契約を。外へ戻るには、皆様お一人につき、最も大切な『あり得た未来』を一つ頂戴します」

「断る」とシビラ。

「内容をご覧になる前に?」

 女が白い手袋を鳴らした。

 町役場の床が、四つの舞台へ分かれた。

 ルシアンの前には、大劇場が現れた。

 満員の客席。花束。拍手。

 舞台中央には、泥棒ではなく奇術師として名を馳せたルシアンが立っている。

 袖から、若い男が笑いながら出てきた。

 ルシアンと同じ目をした男だった。

「兄さん」と舞台の男が呼んだ。

 ルシアンの笑顔が、初めて消えた。

 クルーガーの前には、夏の庭が現れた。

 制服を脱いだ彼が、木陰で新聞を読んでいる。

 向かいの椅子には、金髪の女性が座り、彼の名前を呼ぶ。

「アンセルム。もう追わなくていいのよ」

 クルーガーの拳銃を握る手が下がった。

 シビラの前には、小さな台所が現れた。

 窓から朝日が差し、湯気の立つ紅茶がある。

 テーブルには母親が座っていた。

 亡くなる前の、まだ若い姿で。

「シビラ」と母は言う。「今日は学校へ行かないの?」

 物の声が聞こえない世界だった。

 呪いも契約も、夜中に窓を叩く妖精もいない。

 普通の一日が、静かに続いている。

 そしてミスター・モスの前には、鏡が現れた。

 鏡の中に、人間の男が立っている。

 薄い金髪。疲れた青い目。皺のある、生きた顔。

 隣には年老いたシビラがいて、二人で庭の椅子に座っている。

 ミスター・モスは、鏡へ一歩近づいた。

「先生」

 シビラが呼ぶ。

 白磁の仮面が、ゆっくり彼女を向いた。

「顔なら、私が覚えています」

「君は見たことがない」

「ええ。でも、見たことがないものを覚えるのが魔術でしょう」

 灰色の蛾が一匹、鏡の前で燃えた。

 幻はほどけ、煙になった。

 ルシアンは舞台の弟へ背を向けた。

「彼は拍手が嫌いだった」

「生き返るのですよ」とマダム・エコー。

「私の都合のいい台詞を言う弟は、弟ではない」

 クルーガーも拳銃を上げ直した。

「彼女は私に、追うのをやめろとは言わなかった」

「あなたがそう願った」

「だから偽物だ」

 シビラは母のいる台所を、長く見つめた。

 それから、テーブルの紅茶へ言った。

「あなたは冷めないのね」

 紅茶は答えなかった。

 シビラの知る世界なら、カップは必ず、最後についた小さな嘘をささやくはずだった。

「静かな世界は魅力的。でも、沈黙と平和は同じじゃない」

 台所が消えた。

 マダム・エコーのガラスの目で、数字が急速に回った。

「査定不能。皆様、価値判断が不安定でいらっしゃる」

「褒め言葉として受け取ろう」とルシアン。

「では、通常の方法へ移ります」

 町役場の扉が閉じた。

 壁の絵から、何百本もの手が伸びてくる。

 その手は、額縁の内側から彼らをつかもうとしていた。

 ミスター・モスが燕尾服を開いた。

 内側に身体はなかった。

 夜の森ほど暗い空洞から、無数の蛾が噴き出し、絵から伸びる手へまとわりつく。

 鱗粉に触れた指は、古い紙のように崩れた。

「走りなさい!」

 シビラたちは階段を駆け上がった。

 イリヤナも続く。

「右だ!」とルシアン。

「なぜ分かる」とクルーガー。

「脱出経路のない建物には入らない主義でね」

「入った後で言うな」

 三階の回廊に、一枚だけ巨大な絵があった。

 ホテル〈オルロイ〉の天文舞踏室。

 競売客たちは、消えた絵の前で凍っている。

 警備員は扉へ向かう途中。

 オーケストラの指揮者は腕を上げたまま。

 絵の中では、時間がほとんど進んでいない。

 シビラが額縁に触れる。

 ――ここが外だ。

 木はそう嘘をついた。

「これが出口」とイリヤナ。

「どう開く」

「わたしが出れば、誰かが残らなくてはいけない」

 沈黙が落ちた。

 マダム・エコーの足音が、階下から響く。

「最初から、それが目的だったのか」とクルーガー。

 イリヤナは目を伏せた。

「最初は違ったと思う。でも、八十一年も助けを待っていると、助ける人のことより、助かる自分のことしか考えられなくなる」

「正直だ」とルシアン。

「怒らないの?」

「怒っているとも。私は罠にかかったとき、相手の手口が優雅なら少しだけ機嫌がよくなる」

「理解できん」とクルーガー。

「あなたに理解されたら、引退を考えるよ」

 イリヤナは絵を見た。

「わたしが誰だったか、もう覚えていない。村の娘だったのか、画家だったのか、最初から絵の人物だったのか。ここは、助けに来る人がいるかぎり続くの。誰かがわたしの場所に立ち、次の人へ手紙を書く」

「救出劇ほど丈夫な額縁はございません」

 マダム・エコーが回廊へ現れた。

 背後には、笑顔の住民たち。

「犠牲、勇気、後悔、希望。物語は境界を補強します。さて、どなたが少女の代わりを?」

 ルシアンが一歩前へ出た。

「馬鹿な真似はよせ」とクルーガー。

「私が善人に見えるなら、照明の調整が必要だ。少女を押し込んで扉を閉めるつもりさ」

「嘘ね」とシビラ。

「君は物にしか聞こえないはずだ」

「顔を見れば分かります」

 ルシアンは肩をすくめた。

 シビラはもう一度、巨大な額縁に両手を置いた。

 雑音の奥に、かすかな声がある。

 ――わたしは、誰も閉じ込めたことがない。

 これは嘘ではなかった。

 ――みんな、自分で境界を信じた。

 シビラは目を開いた。

「先生。この絵は牢獄じゃない」

「同感だ」

「額縁があるから、内側と外側ができる。私たちがそう思い込んでいるだけ」

「哲学で壁は抜けられん」とクルーガー。

「そうですね」

 シビラはルシアンを見た。

「でも、泥棒なら?」

 ルシアン・デルヴォーは、巨大な絵の額縁を検分した。

 裏側をのぞき、角を叩き、金箔を爪でこする。

「十三本の銀釘で固定されている」

「外せるか」とクルーガー。

「普通なら十三秒。これは一本ごとに嘘で隠されている」

「シビラには嘘が聞こえる」とミスター・モス。

「聞こえるだけです。姿を現すには、同じ重さの真実が要る」

 マダム・エコーが笑った。

「素晴らしい。自己告白による境界破壊。実に高価な演目です」

「あなたは黙っていて」とシビラ。

 額縁の四隅に、銀色の光がかすかに浮いた。

「全員、一つずつ。ふだん絶対に口にしない真実を」

 クルーガーが眉を寄せた。

「なぜ四人で十三本なんだ」

「正直さが十分なら、まとめて効きます」

「魔術は会計が曖昧だ」

「警察の予算よりは」

 階下から住民たちが押し寄せる。

 ミスター・モスの蛾が回廊を埋め、時間を稼いだ。

 ルシアンが額縁へ手を置いた。

「私は勇敢だから盗むんじゃない」

 銀釘が三本、姿を現した。

「誰にも気づかれず消えるのが怖い。だから、新聞に名前が載るほど派手に盗む。拍手なら、幕が下りるまで私を見捨てない」

 三本の釘が床へ落ちた。

 クルーガーが奥歯を噛んだ。

「私は正義のためだけに追っているのではない」

 銀釘がさらに三本、浮かぶ。

「世界が制御できないことを、認めたくない。逮捕状と証拠品番号を貼れば、混沌が謝罪すると信じている」

 釘が落ちた。

 シビラは目を閉じた。

「私は魔術に巻き込まれただけじゃない」

 額縁の上辺が、淡く震える。

「逃げる機会は何度もあった。それでも残った。恐ろしくても、奇妙でも、この世界を私が選んだ。だから、いつまでも被害者の顔をしているのは卑怯です」

 三本の釘が抜けた。

 残りは四本。

 ミスター・モスの身体が崩れかけていた。

 蛾の群れを住民たちが払い落とし、白磁の仮面にひびが入る。

「先生!」

「私は君を保護してきたのではない」

 声が、回廊じゅうの暗がりから聞こえた。

「少なくとも、それだけではない。君がいつか私を必要としなくなる日を恐れ、教えるべきことをゆっくり教えた。君を近くに置くために」

 シビラは息をのんだ。

 最後の四本が現れた。

「あとで、ものすごく怒ります」

「承知している」

「十年分くらい」

「妥当だ」

 ルシアンが銀釘を抜いた。

 額縁が壁から外れる。

 その瞬間、町全体が傾いた。

 空が裂け、青い絵具が滝のように流れ落ちる。

 家々は奥行きを失い、紙の書割になった。

 住民たちの笑顔が崩れ、下に隠されていた無数の表情――怒り、悲しみ、安堵、退屈――が一度に現れる。

「止めなさい!」

 初めて、マダム・エコーの声から優雅さが消えた。

「額縁がなければ、作品は作品でなくなる!」

「それは困る」とルシアンは言った。「今夜の盗品は、作品ではなく境界なのでね」

 彼は外した額縁を持ち上げた。

 何も描かれていない四角い空間が、その内側に開く。

 向こうにはホテルの舞踏室が見えた。

 凍った客たち。

 上げられた指揮棒。

 砕けたシャンパングラス。

「飛び込め!」とクルーガー。

 イリヤナが最初に越えた。

 シビラが続く。

 ミスター・モスは無数の蛾となり、額縁をくぐった。

 クルーガーはルシアンをにらむ。

「お前が先だ」

「私を信用していない?」

「していないから見張る」

「情熱的だ」

 二人が同時に飛び込む直前、マダム・エコーがルシアンのマントをつかんだ。

「外などありません!」

 彼女のガラスの目に、無限の額縁が映っていた。

 絵の中の絵。その中の絵。さらにその中の絵。

 ルシアンはマントの留め金を外した。

「それなら、外が見つかるまで盗み続けるさ」

 青いマントだけを残し、彼は額縁を越えた。

 オーケストラの指揮棒が振り下ろされた。

 演奏が再開する。

 客たちの悲鳴も、警備員の足音も、割れたグラスの落下も、まるで一瞬も途切れていなかったように続いた。

 シビラは舞踏室の床へ転がった。

 隣にイリヤナ。

 その上へ灰色の蛾が降り、ミスター・モスの形を作る。

 クルーガーとルシアンは額縁を抱えたまま、折り重なって倒れた。

「逮捕する」とクルーガー。

「まず降りてくれ」

「逃げるな」

「あなたが私の腰に座っている限り難しい」

 壁には『十三番目の窓』が戻っていた。

 ただし、町は消えている。

 キャンバスは鏡のように、舞踏室を映していた。

 鏡の中に、イリヤナだけが映っていない。

 彼女は自分の手を見つめた。

 裸足の下に、薄い影ができている。

「寒い」と彼女は言った。

 シビラは自分の外套を脱ぎ、肩へ掛けた。

「それが外の最初の感想?」

「ううん」

 イリヤナは、丸天井の向こうを見上げた。

 雪は今度こそ、空から地上へ降っている。

「きれい」

 夜明けまで、あと四十分。

 競売主は、消失したはずの絵が戻ったこと、見知らぬ少女が増えたこと、警視が国際的美術泥棒の上に座っていることを同時に理解しようとして、静かに気絶した。

 混乱に乗じ、ルシアンは立ち上がった。

 クルーガーが手錠を取り出す。

「逃走を試みれば撃つ」

「試みない。成功するだけだ」

「一歩でも動け」

「では動かない」

 ルシアンはその場で白い上着を裏返した。

 内側は給仕服になっていた。

 胸のサファイアを外し、盆へ変形させる。

 眼鏡を掛け、姿勢を丸め、通りかかった本物の給仕へ自然に盆を渡す。

 警備員が二人の間を横切った、ほんの一秒。

 給仕は三人になり、二人になった。

 ルシアンは消えていた。

 クルーガーの顔が、これ以上ないほど灰色になる。

 床にカードが落ちている。

〈警視へ。

 今夜の逮捕は、次回へ繰り越し。

 額縁はお返しする。境界は返却不能。

            敬意――前回より少々多め。

            ルシアン〉

「撃っておけばよかった」

「勤務報告書には書かない方がいいですよ」とシビラ。

 ミスター・モスは、ひびの入った仮面で彼女を見た。

「シビラ。先ほどの件だが」

「十年分怒ると言いました」

「話し合いを」

「九年十一か月後に」

「長い」

「不死に近い方には一瞬でしょう」

「君は交渉が巧みになった」

「誰の弟子だと思ってるんです」

 仮面のひびから、一匹の蛾が出てきた。

 それはシビラの髪に止まり、すぐ飛び去った。

 彼女はイリヤナの手を取った。

「行きましょう。まず靴を買わないと」

「外の人は、みんな靴を履くの?」

「たいていは」

「魔法使いも?」

「先生は、靴の中まで蛾です」

「秘密にしておいてほしかった」とミスター・モスが言った。

 ホテルを出ると、プラハの街は薄明るかった。

 石畳を除雪車が走り、パン屋が鎧戸を開ける。

 遠くで路面電車が鐘を鳴らす。

 ヴルタヴァ川の上には、夜と朝の境界が細い金色の線になっていた。

 何もかも普通に見えた。

 最初に異変に気づいたのは、イリヤナだった。

「あの時計、変」

 旧市庁舎の天文時計では、人形たちが時刻を告げていた。

 一、二、三。

 使徒の像が窓を通り過ぎる。

 十二体のあとに、もう一体。

 顔のない、白磁の仮面をつけた像が現れ、こちらへ一礼した。

「十三体」とシビラ。

 ミスター・モスが空を見上げる。

 朝焼けの雲に、かすかな筆の跡があった。

 青と金の色が、刷毛で引かれたように重なっている。

 通行人の影は、太陽と反対側ではなく、太陽の方へ伸びていた。

 クルーガーも気づいた。

 彼は長いあいだ街を見回し、最後に言った。

「ここは、元の世界ではない」

「たぶん」とイリヤナ。

「たぶん?」

「わたし、八十一年も絵を見ていたから分かる。ここも絵よ。前のより広くて、よく描けているだけ」

 クルーガーは額へ手を当てた。

「では、我々は脱出していない」

「境界は越えました」とシビラ。

「一つだけな」とミスター・モス。

 背後から、口笛が聞こえた。

 向かいの屋根にルシアンが立っていた。

 いつの間にか青いマントを取り戻し、朝日に向かって帽子を掲げている。

「現実にたどり着くまで、額縁を盗み続けるというのはどうだろう」

 クルーガーが叫んだ。

「デルヴォー! そこで待て!」

「私は追い続けるぞ」とクルーガー。

「それは心強い。追う人がいれば、私はまだ消えていない」

 ルシアンは屋根の向こうへ跳んだ。

 クルーガーは追いかけようとして、一度だけ立ち止まった。

「ミスター・モス。現実とは何だ」

 灰色の蛾が、朝の光の中を舞った。

「疑わない場所ではありません」

 魔術師は言った。

「疑いながら、それでも自分の選択に責任を持つ場所です」

 クルーガーは不満そうだった。

 だが反論せず、泥棒を追って走り出した。

 シビラはイリヤナと手をつなぎ、ミスター・モスと並んで歩いた。

 空に筆跡があっても、焼きたてのパンは香った。

 影の向きが逆でも、握った手は温かかった。

 それで当面は十分だった。

 後日譚

 数か月後、東京の小さな美術館へ、作者不詳の絵が寄贈された。

 題名は『額縁の外で、泥棒は口笛を吹く』。

 絵には、雪のプラハを歩く三人と、一人の少女が描かれている。

 少し離れた屋根の上には派手な泥棒。

 その後ろを、灰色の男が追っている。

 学芸員が数えると、通りに面した窓は十二。

 警備員が数えると十三。

 夜中、誰も見ていないときだけ、十四番目が開くという。

 その窓の向こうには、机が一つある。

 灯りのついた画面。

 そして、今まさに物語を読み終えようとしている誰かの顔。

 今夜、その部屋は、あなたのいる場所によく似ている。