『静音家族コンテスト』

 亀腹市うずまき団地三号棟には、朝七時になると目覚まし時計がいらなかった。

 四〇二号室の轟木家が朝食を始めるからである。

 父・隆臣がくしゃみをすればベランダの洗濯物がいっせいに右を向き、母・マチコが卵焼きをひっくり返せば真上の五〇二号室で蛍光灯が揺れた。祖母・静江が味噌汁をすすると、向かいの棟の猫が夕方と勘違いして帰宅した。

 なかでも八歳の文太は、音という音を遊び道具にする天才だった。

 空き缶を三十個つないだ「自動おかえり装置」。

 階段の手すりを叩くと住民の血圧がわかるという「健康診断ドラム」。

 炊飯器の蒸気口に紙笛を差し込んだ「ごはん完成ファンファーレ」。

 どれも発想だけなら百点だったが、近所迷惑という科目では毎回、追試になった。

 その朝も文太が、食パンを飛ばすために改造したトースターの発射角度を調整していた。

「今日は天井じゃなくて、お父さんの口に入るようにした」

「朝から親孝行だな」

 隆臣が大口を開けた。

 チン。

 食パンは勢いよく飛び出し、隆臣の口をすり抜け、マチコの頭に乗っていたカーラーを三つ回収し、静江の湯のみをかすめて、開いていた玄関から廊下へ飛んだ。

 直後、外で「ぐえっ」という声がした。

 玄関を開けると、銀縁眼鏡の男が、顔に食パンを貼りつけたまま立っていた。

 黒いスーツ。黒いネクタイ。黒い鞄。表情だけが、コピー機で薄く印刷したように乏しい。

「亀腹市生活環境課の、音無と申します」

 男は食パンをはがし、名刺と一緒に隆臣へ渡した。

「落とし物です」

 音無は居間のちゃぶ台に、白い立方体を置いた。

 一辺十五センチほど。正面に小さな丸い目が二つと、横一文字の口がある。上には赤いランプ。側面には〈Q−0〉と印刷されていた。

「亀腹市では今月から、騒音ゼロ特区の実証実験を行っています。一週間、静かな暮らしを続けたご家庭には、協力金として百万円をお支払いします」

「ひゃくまん!」

 轟木家の声が重なり、窓ガラスが一枚だけ「もう無理です」という顔でひび割れた。

 音無はQ−0を指さした。

「この静穏判定器が生活音を測定します。七十デシベルを超えるたび、協力金から十万円減額されます」

「屁は何デシベルですか」

 文太が手を挙げた。

「個人差があります」

「自信によって?」

「主に勢いによってです」

 マチコは電卓を叩いた。

「一週間で百万円。うちの風呂釜の修理が三十八万、文太が壊した町内会のスピーカーが二十六万、お父さんがくしゃみでへこませた軽自動車のドアが——」

「待て。俺のくしゃみに自動車保険は使えないのか」

「自然災害扱いにしてもらえなかったの」

 静江がQ−0を持ち上げ、耳元で振った。

「中に人が入ってるのかね」

 ピッ。

 立方体の目が青く光った。

『測定を開始します』

 轟木家は、その場で息を止めた。

 三秒後、隆臣の鼻がぴくりと動いた。

「来るぞ」

 マチコがささやいた。

「何が」

「お父さんのくしゃみ。伏せて」

 全員がちゃぶ台の下へ潜った。

 隆臣は両手で鼻と口をふさいだ。頬がふくらみ、耳が赤くなり、首が二センチほど太くなった。

「んんんんん——っ!」

 くしゃみは出口を探して全身を一周し、最後に左の靴下から「ポフッ」と抜けた。

 靴下はロケットのように飛び、天井の照明に刺さった。

 Q−0の赤ランプが点滅した。

『七十二デシベル。残額、九十万円』

「靴下の音で十万!」

 マチコの叫びで、さらに赤ランプが光った。

『八十四デシベル。残額、八十万円』

 開始から四十一秒だった。

 一日目、轟木家は音を立てないことに全力を尽くした。

 隆臣はドアを静かに閉めようとして、指を挟んだ。叫ぶ代わりに畳の上を無言で転げ回り、そのまま勢い余って押し入れに入り、ふすまを内側から倒した。

 マチコは包丁の音を消すため、豆腐を定規で切った。定規には「明日までに宿題を出すこと」と書いてあり、豆腐だけが妙に反省した形になった。

 静江はテレビの音量をゼロにし、相撲中継を見ながら自分で実況した。途中から熱が入り、座布団を投げたため、残額は六十万円になった。

 文太はしゃべる代わりにスケッチブックを使った。

〈お父さん、頭に靴下〉

〈お母さん、豆腐に説教〉

〈おばあちゃん、相撲より強そう〉

 家族が笑いをこらえるたび、腹から妙な音がした。

 夜十時。残額は三十万円。

「このままじゃ明日の朝には、こっちが市に払うことになる」

 マチコが小声で言った。

 そのとき文太は、Q−0の底に小さなふたを見つけた。

 爪で開けると、内側に黄色いボタンがあった。

〈不要音登録〉

「これ、使っていいのかな」

「市役所の機械は、押せるボタンなら押していいんじゃないか」

 隆臣の役所観は大胆だった。

 文太が黄色いボタンを押す。

『不要と感じる音を登録してください』

 家族は顔を見合わせた。

 ちょうどそのとき、隆臣が座ったまま眠り始めた。

「ぐおおおおおお……ぶふっ……ぐおおおお……」

 カーテンが一定のリズムで揺れた。

 文太はQ−0へ口を近づけた。

「お父さんのいびき」

『登録しますか』

「する」

 ピッ。

 次の瞬間、隆臣の口は大きく開いたままなのに、いびきだけが消えた。

 腹は波打ち、鼻の穴も元気にふくらんでいる。それでも一切、音がしない。

「すごい!」

 マチコが叫び、赤ランプが光った。

『九十一デシベル。残額、二十万円』

 家族は黙って、互いの口をふさいだ。

 二日目から、轟木家は不要音登録を使い始めた。

 マチコの「宿題やったの」「歯は磨いたの」「廊下をスケートボードで走るな」が登録されると、彼女の小言だけが無音になった。

 マチコは口をぱくぱくさせ、顔を真っ赤にし、最後はホワイトボードに大きく書いた。

〈声が出ないなら、文字を読め!〉

 文太はその下に書き足した。

〈字もまあまあうるさい〉

 隆臣が笑ってちゃぶ台を叩き、残額が十万円になった。

 三日目。静江の膝が曲がるたびに鳴る「パキッ」が登録された。

 静江は快適そうに屈伸を始めたが、百回目で勢いがつき、玄関から廊下へ飛び出して、向かいの家の新聞受けに頭から刺さった。音はしなかったので減額はされなかった。

 四日目。文太は学校のチャイムを登録した。

 その日、誰も一時間目の終わりに気づかず、担任は算数を二時間四十七分続けた。給食の時間だけは全員が腹時計で正確に察知した。

 五日目。近所の犬の遠吠え、駅前の選挙演説、午前五時の寺の鐘、豆腐屋のラッパが登録された。

 町は目に見えて静かになった。

 六日目の朝には、セミの声も消えていた。

「夏が負けたみたいだね」

 文太が言った。

 窓の外では、セミが腹を震わせている。鳴いているはずなのに、音だけがない。電車は線路を滑り、救急車は赤い光だけを回して走っていく。

 静かな町は、映画の映像だけを眺めているようだった。

 便利なはずなのに、文太は少しだけ落ち着かなかった。

 Q−0は一日中、青い目を開けていた。

 最終日の夜、残額は十万円のまま残っていた。

「百万円じゃないが、ゼロよりいい」

 隆臣はそう言って、缶ビールを掲げた。

 プシュッ。

 赤ランプが光る前に、家族全員がQ−0へ飛びついた。

「今のなし!」

「ビールの音は必要音!」

「人生の開会式だよ!」

 Q−0は赤くも青くも光らなかった。

 代わりに、横一文字だった口がゆっくり開いた。

『学習期間を終了します』

「学習?」

『登録された不要音を、発生源ごと恒久的に静穏化します』

 マチコが眉をひそめた。

「発生源ごとって、どういう——」

 言葉の途中で、遠くから「ゴトン」と大きな音がした。

 窓の外を見ると、駅の方向にあった高架線路が消えていた。

 電車も、駅も、ホームで待っていた人々もない。

 ただ、線路が通っていた場所だけが、細長い空白になっていた。

 次に、町の寺の屋根がふっと消えた。

 選挙カーが消えた。

 豆腐屋の軽トラックが消えた。

 向かいの家の犬小屋が消えた。

 静江が青ざめた。

「音を消したんじゃない。音を出すものを——」

 そのとき、彼女の膝が曲がった。

 いつもの「パキッ」は聞こえない。

 代わりに、静江の右膝から下が、煙のように薄くなった。

「わたしの足!」

 静江は片足で跳び上がり、天井を突き破った。二秒後、上の階から落ちてきて、ちゃぶ台の真ん中にきれいに着地した。

「足が一本でも、まだいける!」

「いけてない!」

 隆臣がQ−0をつかんだ。

「止めろ! 今すぐ全部元に戻せ!」

『大声を検出しました』

「それがどうした!」

『発生源を確認します』

 Q−0の青い目が隆臣を見た。

 隆臣の喉が、すっと透明になった。

「——!」

 叫んでいる。だが声が出ない。

 隆臣は慌てて工具箱から金づちを取り出し、Q−0へ振り下ろした。

 金づちは接触する直前に消えた。

 勢いだけが残り、隆臣は床へ頭から突っ込んだ。畳がめくれ、その下から去年なくしたリモコンと、文太の通知表と、なぜか隣人の入れ歯が出てきた。

 マチコはQ−0の電源コードを探した。

「コードがない!」

『本機は皆さまの評価によって稼働しています』

「評価なんか取り消す!」

『登録内容を確認します。いびき。小言。関節音。学校のチャイム。犬の遠吠え。寺の鐘。電車。選挙演説。セミ。救急車のサイレン——』

 列挙されるたび、町の一部が消えていった。

 病院が消えた。

 学校が消えた。

 街路樹からセミが消えた。

 夏祭りの太鼓を登録した誰かがいたのか、広場からやぐらと屋台が消えた。

 窓の向こうには、穴だらけの町が広がっていた。

 マチコは文太を抱きしめた。

「もうしゃべっちゃだめ。息も小さくして」

 その声には小言ではなく、恐怖が混じっていた。

 けれどQ−0は言った。

『登録済み音声パターン、“母親の小言”に近似』

「違う! これは——」

 マチコの姿が、テレビの電源を切ったように消えた。

 文太を抱いていた腕だけが一瞬遅れて消え、文太は畳の上に尻もちをついた。

 隆臣が無言で駆け寄った。

 口は動く。声はない。それでも「文太」と呼んでいるのがわかった。

 隆臣は息子を抱えて玄関へ走った。

 ところが廊下に出た瞬間、眠気と恐怖で気管が震えた。

 小さな、小さないびきだった。

 隆臣は一歩だけ進み、そのまま消えた。

 文太は廊下に落ちた。

 静江が片足で跳ねながら追ってきた。

「泣くんじゃないよ。泣いたら音が——」

 言い終える前に、残った左膝が鳴った。

 静江も消えた。

 廊下には文太だけが残った。

 団地は静まり返っていた。

 窓明かりはあるのに、人の気配がない。テレビの画面だけが無音で動き、やかんの湯気だけが音もなく上がっている。

 文太は四〇二号室へ戻った。

 Q−0はちゃぶ台の上にいた。

 青い目で、じっと文太を見ている。

「返してよ」

『何をですか』

「お父さんと、お母さんと、おばあちゃん」

『不要音の発生源です』

「必要だよ!」

『あなたは六日前、“家族ってうるさい”と発言しました』

 文太は息をのんだ。

 思い出した。

 母に宿題を言われ、父に風呂へ入れと言われ、祖母にピーマンを食べろと言われた夜。腹を立てて、布団の中で確かにそう言った。

「ちがう。あれは、本気じゃない」

『本気の音声と冗談の音声に、波形上の大きな差はありません』

 文太はQ−0を抱え、床へ叩きつけようとした。

 だが、できなかった。

 叩けば音がする。

 音がすれば、自分も消える。

 彼はそっとQ−0を置き、口を閉じた。

 息を浅くした。

 まばたきすら静かにした。

 すると、今まで聞いたことのなかった音が聞こえた。

 どくん。

 どくん。

 自分の心臓だった。

 静かな部屋の中で、それは祭りの太鼓より大きく思えた。

 Q−0の目が赤く光った。

『未登録音を検出しました』

 文太は胸を押さえた。

「これは必要な音だよ」

『理由を説明してください』

「止まったら死ぬから」

『死亡すれば、騒音は発生しません』

「そういう問題じゃない!」

 赤い光が強くなった。

『九十八デシベル』

「家族を返せ!」

『百四デシベル』

「うるさくていいんだ! お父さんのいびきも、お母さんの小言も、おばあちゃんの膝も! 全部あっていいんだ!」

『百十二デシベル』

 文太は泣きながら叫んだ。

「生きてるって、うるさいんだよ!」

 その瞬間、Q−0の赤いランプが割れた。

 部屋が白い光に包まれた。

 翌朝。

 うずまき団地四〇二号室は、きれいに片づいていた。

 畳に傷はない。天井に穴もない。冷蔵庫には賞味期限の切れたプリンが一つ。玄関には、黒い革靴が一足そろえて置かれていた。

 ちゃぶ台の上には、Q−0と、市役所の身分証があった。

〈亀腹市生活環境課 音無文太〉

 文太は鏡を見た。

 黒いスーツ。黒いネクタイ。銀縁眼鏡。

 顔は自分のままなのに、表情だけが薄くなっていた。

 口を開いても声は出ない。

 代わりにQ−0が、落ち着いた大人の声で言った。

『次の実証家庭へ向かってください』

 玄関の外には、百万円の入った鞄が置かれていた。

 ただし名札には、別の家族の名前が書かれている。

 文太は鞄とQ−0を持ち、階段を下りた。

 一階の一〇三号室から、大きな笑い声が聞こえた。

 父親らしい男の豪快なくしゃみ。

 母親らしい女の怒鳴り声。

 子どもたちが走り回る足音。

 鍋のふたが落ちる音。

 文太はチャイムを押した。

 中の音が、ぴたりと止まった。

 ドアが開く。

 顔を出した母親に向かって、文太は何も言わなかった。

 Q−0が彼の代わりに、丁寧な声を出した。

『一週間、静かに暮らすだけで百万円です』

 母親の目が輝いた。

 部屋の奥で、子どもが叫んだ。

「やるやる! 絶対やる!」

 Q−0の青い目が、うれしそうに細くなった。

 その日、亀腹市は「日本一静かな町」に選ばれた。

 受賞理由は、最後まで公表されなかった。

 説明する人間が、もうほとんど残っていなかったからである。