青空は砂糖壺にしまって
目覚まし時計より少し早く、階下で砂糖壺が鳴った。
からん、からん。
ガラスの中で角砂糖が転がる、乾いた音だ。続いて、古いコーヒーミルが低くうなり、バターを落としたフライパンが小さく息をつく。
三角屋根荘の朝は、だいたい音と匂いから始まる。
私は布団の中で片目だけを開けた。枕元の時計は七時十二分。カーテンの隙間から差す光は、まだ牛乳を混ぜたように薄い。
「さえー。起きてるー?」
廊下から、こよみの声がした。
「心は起きてる」
「体も起こして。トーストが心だけじゃ食べられないから」
「夢の中なら食べられるよ」
「じゃあ夢の中でお皿も洗ってね」
それは困る。私は観念して起き上がった。
三角屋根荘は、潮見野という海辺の町の、坂の途中にある。二階と屋根裏が学生向けの下宿で、一階は「喫茶アスター」という小さな店だ。玄関を出て十七歩で学校へ向かう坂道、二十三歩で海の見える石段、そして零歩で朝ごはんにありつける。
私が潮見野造形高校へ入学すると決めた理由のうち、最後の一つはかなり大きかった。
食堂へ降りると、こよみが四角い食パンに苺ジャムで窓を描いていた。赤い四角が四つ。窓枠の真ん中に、バターの小さな丸が載っている。
「今日の題は『朝七時の南向き物件』」
「家賃は?」
「食後のお皿洗い」
「敷金礼金は?」
「寝ぐせを直すこと」
こよみは喫茶アスターの店主、葉子さんの姪で、私と同じ二年生だ。短い髪はいつも片側だけ跳ねているのに、人の寝ぐせには厳しい。
「おはようございます!」
階段を駆け降りてきたティナスが、最後の三段を一度に飛んだ。黒い巻き毛が朝の光をはじく。
「本日の私は、時間にぴったりです」
「七時半集合って言ったの、ティナス本人だけどね」
「自分との約束を守りました」
胸を張るティナスに、こよみが拍手する。
ポルトガルから来た留学生のティナス・ソアレスは、染織科で布と糸を勉強している。日本語はとても上手だが、ときどき言葉を文字どおりに受け取りすぎる。
「さえ、その髪は爆発ですか?」
「寝ぐせ」
「よかった。消火器を取るところでした」
ティナスは私の向かいに座り、ジャムの窓をしげしげと眺めた。
「この家には、ドアがありません」
「食べれば入居できる仕様です」
「日本の住宅事情は、やはり難しいです」
そんな話をしていると、屋根裏部屋から鹿城つむぎ先輩が降りてきた。陶芸科の三年生で、朝はいつも静かだ。眠そうに見えるのではなく、周囲の時間だけが先輩の近くで少しゆっくり流れている。
先輩は席につき、私の髪を見て言った。
「今日は右から強い風」
「先輩まで天気予報しないでください」
「午後には落ち着くでしょう」
「髪の話ですよね?」
つむぎ先輩は、かすかに笑ってコーヒーを飲んだ。
窓の外では、海の上に細い雲が並んでいた。店の砂糖壺に朝日が差し、角砂糖の隙間に小さな青空が挟まっている。
私はその光景を、指で四角く切り取るように眺めた。
きれいだな、と思った。
そして、きれいだと思っただけで終わった。
一時間目の構成演習で、黒田先生は黒板に大きく「窓」と書いた。
「来週の日曜、喫茶アスターの壁を借りて小さな展覧会をします」
教室がざわついた。私は思わず隣のこよみを見る。こよみも私を見ていたが、その顔には驚きより先に「聞いてない」が書いてあった。
「葉子さん、また決めてから言ったな……」
「身内への報告がいちばん遅い店だね」
先生は続けた。
「題は『わたしの居場所』。絵でも写真でも立体でも構いません。窓という言葉をどう解釈するかも自由です。ただし、見た人が一分だけ立ち止まる作品にしてください」
周りでは、すでに鉛筆の走る音がしている。
私は白いスケッチブックを開いた。
窓。居場所。
簡単そうな言葉ほど、描こうとすると遠くへ逃げる。
私はこれまで、五つの町に住んだ。父の仕事の都合で、北の山あいから南の島まで、二、三年ごとに家が変わった。どの家の窓も描ける。雪で曇った窓。台風の夜に雨粒が横へ走った窓。団地の向かいの棟がぴったり収まる窓。
けれど、それらを並べても「わたしの居場所」にはならない気がした。
試しに、三角屋根荘の窓枠を描く。
線はまっすぐ引けた。古い木の傷も、金具の錆も、ガラスに映る海の色も、たぶん上手に描ける。
でも、そこに誰を置けばいいのか分からない。
「また、きれいすぎる顔してる」
こよみが私の紙をのぞき込んだ。
「顔?」
「さえが困ってるときの顔。美術館で『作品には触れないでください』って言ってそう」
「そんな上品な困り方してる?」
「うん。実際は消しゴムを握りつぶしそうなのに」
見ると、消しゴムが指の間で少し曲がっていた。
「居場所って、何だと思う?」
「靴下を片方なくしても、たぶんこの辺にあると思える場所」
「参考になりそうで、ならない」
「じゃあ、冷蔵庫のプリンに名前を書いても、翌朝には食べられてる場所」
「それは事件現場」
「犯人はだいたい屋根裏にいる」
「濡れ衣」
背後から、つむぎ先輩の声がした。選択授業が同じなので、先輩もこの教室にいる。
「昨日のプリン、先輩じゃないんですか」
「私は名前が書いてあるものは食べない」
「じゃあティナス?」
「私は名前も一緒に食べません」
別の机で刺繍糸を整理していたティナスが、真剣な顔で答えた。
こよみは腕を組んだ。
「迷宮入りか……」
「居場所の話は?」
「まずプリンの治安を守ってから」
「展覧会まで一週間しかないんだけど」
私は笑いながら、スケッチブックの端に小さな四角を描いた。
その四角の中は、まだ白かった。
放課後、喫茶アスターの奥の丸テーブルは、即席の制作会議室になった。
ティナスは深い青の布に、黄色と白の糸で二種類の花を刺している。片方はポルトガルの家の庭に咲いていた花、もう片方は潮見野の坂道で見つけた花だという。
「同じ布に咲けば、どちらも近所です」
ティナスは針を動かしながら言った。
「それ、題にぴったりだね」
「はい。作品名は『庭が追いかけてきた』です」
「庭、足が速い」
「海を越えましたから、とても速いです」
つむぎ先輩は、手のひらほどの白い土板を何枚も作っていた。板には四角い穴が一つずつ開いている。小さな壁のようでも、箱の一部のようでもあった。
「窓ですか?」
「まだ決めてない」
「作ってから決めるんですか」
「土のほうが先に知ってることもあるから」
先輩はそう言って、指先で穴の角を丸くした。
こよみは、喫茶店のメニュー表を広げていた。
「私は食べ物で参加する。展覧会限定、『窓辺のミルクプリン』」
「プリン問題への挑戦状だ」
「透明なゼリーを上に重ねて、空を映すの」
「名前は書きますか?」
「書かない。食べたい人が食べる。それが平和」
みんなの手元には、もう何かがある。
私の前にだけ、白い画用紙があった。
葉子さんがコーヒーを運んできて、紙を見た。
「あら、雪景色?」
「まだ何も描いてません」
「何もないことも、ちゃんと景色よ」
葉子さんはいつも、思いつきなのか深い意味があるのか分からないことを言う。たいてい本人にも分かっていない。
「でも展示に白紙は出せません」
「値札をつけたら急に現代美術っぽくなるわよ」
「店主が作品を値札で解決しないでください」
こよみがすかさず止める。
私は鉛筆を持ち、三角屋根荘の外観を描き始めた。
坂道。白い壁。青い庇。二階の四つの窓。煙突の横に、海鳥が一羽。
形はすぐにできた。
けれど、やっぱり誰もいなかった。
上手に描けている。たぶん先生にも褒められる。けれどその絵は、旅行案内のパンフレットに載っている写真のように、私がいなくても成立していた。
胸の奥が、薄い紙でふさがれたように息苦しくなる。
「さえ」
つむぎ先輩が、私の鉛筆の先を見ていた。
「窓の向こう、描かないの」
「何を描けばいいか分からなくて」
「見えるもの」
「海とか、空とか?」
「それも。見えないものでもいい」
先輩はそれ以上説明せず、また土へ向き直った。
見えないもの。
私は窓の中を塗ろうとして、結局、消しゴムで全部消した。
その週、私は窓ばかり見た。
学校の北階段にある、細長い窓。パン屋の厨房にある、湯気で曇った窓。駅の待合室の窓。夕方の喫茶アスターで、外の青と店内の明かりを半分ずつ映す窓。
どれもきれいだった。
どれも私のものではない気がした。
木曜の夜、共同浴室から戻ると、廊下の床にティナスが座っていた。膝の上に、刺繍途中の布を広げている。
「部屋だと暗いの?」
「いいえ。部屋にいると、少しだけ考えすぎます」
私は隣に腰を下ろした。
廊下の突き当たりの窓は開いていて、海の匂いが入ってくる。遠くで船の警笛が鳴った。
「何を考えるの」
「家のことです」
ティナスは黄色い花の糸を指でなぞった。
「こちらに来てから、ポルトガルの家が前より大切になりました。でも、潮見野も大切です。二つを同じくらい好きになると、どちらかに失礼でしょうか」
「そんなことないよ」
すぐに答えた。でも、その答えは自分にも向けたものだった。
「私は家を五回変わったけど、前の家を好きだったら新しい家に失礼、なんて思ったことない」
「では、さえには家が五つあります」
「住所なら、五つあった」
「住所ではなく」
ティナスは言葉を探し、針を持ったまま宙に小さな輪を描いた。
「心が、靴を脱ぐ場所です」
こよみの靴下の話より、少し分かりやすかった。
「私、どこでもちゃんと靴を脱げてなかったのかも」
言ってから、自分で驚いた。
引っ越すたび、私は早く慣れようとした。新しい道を覚え、方言をまねて、教室で浮かない顔を作った。そして慣れたころには、次に別れる日のことを考え始めた。
好きになりすぎなければ、さよならは少しだけ軽くなる。
たぶん私は、ずっと玄関に立ったままだった。
「それなら、今、脱ぎましょう」
「廊下で?」
「はい。ここは下宿です」
ティナスは私の足元を指した。風呂上がりの私は、片方が黄色、片方が水色の靴下を履いていた。
「これ、左右ちがう」
「居場所の証拠です」
「こよみ理論がここで回収された……」
笑うと、胸の薄い紙に小さな穴が開いた気がした。
そのとき、屋根裏からつむぎ先輩が降りてきた。手には空のプリン容器がある。
「あ」
「あ」
「あ」
三人の声がそろう。
先輩は静かに容器を見下ろした。
「名前、書いてなかった」
「昨日のは書いてました!」
「昨日は食べてない」
「じゃあ、犯人は別に?」
「今夜のは私」
事件は半分だけ解決した。
展覧会前日の土曜、喫茶アスターは朝から忙しかった。
壁の額を外し、机を動かし、作品用の白い布を張る。葉子さんは脚立の上で口笛を吹き、こよみは下から「店主が落ちたら展示どころじゃない」と心配している。
ティナスの刺繍は完成していた。青い布の両端から二種類の花が伸び、真ん中で枝を絡ませている。近くで見ると、枝の交わる部分に小さな家の輪郭が縫い込まれていた。
つむぎ先輩の土板は、十二枚の小さな窓になった。焼き上がった白い板を間隔を空けて立てると、見る角度によって向こう側の景色が重なったり、ばらばらになったりする。
「作品名、決まりました?」
「『通り道』」
「家じゃないんですね」
「窓は、外を見るためだけじゃないから」
私の絵も、いちおう完成していた。
三角屋根荘の正面。夕方の空。二階の窓に灯り。丁寧に、正確に、きれいに描いた。
でも、眺めるほど心が遠くなる。
「いい絵じゃない」
葉子さんは褒めてくれた。
「ありがとうございます」
「でも、さえちゃんの部屋だけ暗いのね」
言われて初めて気づいた。
四つある二階の窓のうち、右端――私の部屋だけ、灯りを描き忘れていた。
「あとで足します」
そう言って筆を持ったが、黄色を置くことができなかった。
灯りをつけたら、ここが自分の居場所だと決めることになる気がした。
決めたら、いつか離れるときに困る。
私は筆を洗い、絵を壁に伏せて置いた。
日曜の朝は、晴れていた。
喫茶アスターの窓には青空が広がり、角砂糖まで少し青く見えた。開店と同時に近所の人や学校の生徒が来て、狭い店はすぐに話し声で満ちた。
ティナスは自分の作品の前で、花の名前を何度も説明している。つむぎ先輩の『通り道』は、子どもたちがしゃがんで穴をのぞき込み、向こう側にいる親と目を合わせて笑っていた。
こよみの「窓辺のミルクプリン」は、予定数の半分が一時間でなくなった。透明なゼリーの表面に窓の光が映り、揺れるたびに青空が小さく砕ける。
「食べるの、もったいない」
「食べないほうが、もっともったいないよ」
こよみは得意そうにスプーンを添えた。
私の絵の前にも、人は立ち止まった。
「きれいな建物ね」
「本当にここから見た景色みたい」
「細かいところまで上手ね」
褒められるたび、笑って頭を下げた。
そのたびに、絵の中の暗い窓が大きくなる気がした。
午後二時を過ぎたころ、海の色が急に鈍くなった。
朝にはなかった雲が坂の向こうから押し寄せ、店の窓を灰色にした。風が庇を持ち上げ、看板がかたかた鳴る。
「雨、来るね」
つむぎ先輩が言った直後、窓に大粒の雨がぶつかった。
ざあっ、と町全体が水の幕に包まれる。
葉子さんが外の植木鉢を入れに走り、こよみと私も続いた。風は思ったより強く、入口のドアが何度も押し戻される。なんとか鉢を抱えて戻った瞬間、店の照明が消えた。
コーヒーミルの音も、冷蔵庫の低い唸りも止まる。
店内に、雨音だけが残った。
「停電?」
誰かが言った。
窓の外はまだ昼なのに、厚い雲のせいで夕方のように暗い。客たちはざわつき、スマートフォンの画面があちこちで灯った。
「ブレーカー見てくる」
「私も行く」
こよみと葉子さんが奥へ向かう。
そのとき、強い風が入口から吹き込み、壁に立てかけてあった私の絵が倒れた。
「あっ」
駆け寄るより早く、天井から落ちた雨粒が絵の端に当たった。
古い建物なので、嵐になると決まって一か所だけ雨漏りする。けれど今日は、その真下に作品を置いてしまっていた。
水は夕空の絵の具を溶かし、三角屋根荘の輪郭をゆっくりにじませた。二階の窓が歪み、描かなかった暗い窓まで灰色の流れに飲まれていく。
私は絵を持ち上げた。
紙は濡れて重く、指先で頼りなくたわんだ。
「さえ……」
ティナスが隣に来る。
「大丈夫」
口ではそう言った。けれど、何が大丈夫なのか分からなかった。
一週間悩んで、ようやく形だけは整えた。それなのに、今はもう「きれい」でもない。
むしろ少し、ほっとしている自分がいた。
これで、偽物みたいな絵を展示しなくて済む。
そう思ったことが、いちばん悲しかった。
「ごめんね、さえ。雨漏りの場所、ずれてたみたい」
戻ってきた葉子さんが顔を曇らせた。
「店のせいじゃないです。私がそこに置いたから」
「代わりの紙、学校から取ってくる?」
「もう間に合わないよ」
窓の外では、坂道が川のようになっていた。停電は店だけではなく、通り全体らしい。信号も消え、客たちは雨が弱まるまで動けそうにない。
私は濡れた絵を見た。
空も家も、混ざっている。
どこまでが外で、どこからが中か、分からない。
「さえ」
つむぎ先輩が、作品台から白い土の窓を一枚持ってきた。
「これ、貸す」
「でも先輩の作品が」
「十二枚あるから、一枚くらい散歩してもいい」
先輩は土の窓を、雨に濡れた本物の窓ガラスへ重ねた。
四角い穴の向こうに、灰色の空と、店内の明かり代わりになったスマートフォンの光と、こちらを見ている私たちの顔が入った。
ティナスが息をのむ。
「全部、同じ窓にいます」
私は土の枠を受け取った。
冷たく、少しざらざらしている。
窓は、外を見るためだけじゃない。
つむぎ先輩の言葉が戻ってきた。
「白い紙、ありますか」
私が言うと、葉子さんはすぐにレジ下からメニュー用の厚紙を出した。
「大きいのはこれだけ」
「十分です。あと、剥がせるテープ」
「あります」
「懐中電灯も」
「防災箱に二つ」
「私の刺繍糸も使いますか?」
「借りる。青と黄色」
「何を作るの?」
こよみが聞いた。
「まだ分からない」
私は答えた。
「でも、紙のほうが先に知ってるかもしれない」
つむぎ先輩が満足そうにうなずいた。
私たちは、店の大きな窓に白い紙を貼った。
真ん中には、つむぎ先輩の土の枠を吊るす。ティナスの青と黄色の糸を四隅から伸ばし、窓枠と紙をつないだ。こよみは防災用の懐中電灯を紙の手前に置き、光が斜めから当たるよう、砂糖壺や空き缶で高さを調整した。
「砂糖壺が照明係になる日が来るとは」
「重しとしても優秀」
「甘さだけが取り柄じゃなかったんだね」
「砂糖壺の再就職です」
停電した店の中で、白い紙だけがぼんやり光った。
その前を人が通ると、影が映る。
子どもの丸い頭。カップを運ぶこよみの手。椅子に座って話す老夫婦。作品をのぞき込むティナスの巻き毛。土の枠を直すつむぎ先輩の横顔。
窓の外の雨粒も、透けて紙に揺れていた。
私は鉛筆を持った。
影が動くたび、その輪郭を少しずつなぞる。全部を正確には描けない。線は途中で切れ、人と人が重なる。誰かが笑えば肩の形が変わり、席を立てば空白が残る。
でも、その空白には次の誰かが入った。
「私も描いていい?」
さっきから見ていた小学生くらいの女の子が聞いた。
「もちろん」
私は鉛筆を渡した。女の子は紙の端に、小さなカップを描いた。
「何が入ってるの?」
「ココア。お母さんが作るやつ」
「じゃあ、ここはココアの窓だね」
女の子はうれしそうにうなずいた。
それを見ていた年配の男性が、紙の隅に短い線を一本足した。
「これは?」
「釣り竿。雨が止んだら海へ行く」
別の人は本を描き、別の人は傘を描いた。こよみはプリンのスプーンを描き、ティナスは二種類の花を一輪ずつ描いた。つむぎ先輩は何も描かず、土の窓の影を指でそっとなぞった。
いつの間にか、白い紙は人の気配でいっぱいになっていた。
上手な線ばかりではない。形の分からないものもある。誰かの線に別の誰かの線が重なり、途中で消え、また始まる。
それでも、見ていると胸が温かくなった。
私は紙の中央、土の窓の影の中に、小さな四角を四つ描いた。
三角屋根荘の二階の窓。
一つ目に、跳ねた髪。
二つ目に、巻き毛。
三つ目に、湯気の立つカップ。
四つ目には、しばらく何も描かなかった。
鉛筆の先が止まる。
いつかここを出る日が来る。卒業かもしれないし、もっと別の理由かもしれない。今までと同じように、好きになった場所を離れるかもしれない。
でも、好きにならなかったことにしても、さよならがなくなるわけじゃない。
むしろ、そこにいた時間まで消してしまう。
私は四つ目の窓に、小さな明かりを描いた。
黄色い色鉛筆で、何度も重ねた。
「そこ、さえの部屋?」
こよみが隣で聞いた。
「うん」
「やっと電気ついた」
「停電中だけどね」
「絵の中は別系統です」
ティナスが言う。
私は笑った。
紙の下に、作品名を書いた。
『靴を脱いだところ』。
その瞬間、店の照明が一斉についた。
冷蔵庫が唸り、コーヒーミルのランプが光り、壁時計が一拍遅れて動き出す。客たちから拍手が起こった。
「おお、復旧!」
「プリンも無事!」
「そこが最優先なの?」
店内に明るさが戻った。
けれど白い紙に映っていた影は、光が変わって薄くなった。
私は少しだけ寂しく思った。
するとつむぎ先輩が、紙の裏から窓の外を指した。
「雨、止んだ」
雲の切れ間から、青空がのぞいていた。
濡れたガラスの向こうの青と、店内の人たちの姿が、白い紙の隙間に一緒に映っている。
影が消えても、みんなはまだここにいた。
展覧会が終わるころには、坂道に夕日が差していた。
お客さんを見送り、椅子を戻し、床を拭く。濡れた私の最初の絵は、乾かすため厨房の隅に立てかけてある。夕空も家もすっかりにじみ、もう元には戻らない。
でも、不思議と捨てる気にはならなかった。
「そっちも展示したらよかったのに」
こよみが言った。
「題は『大雨の不動産』?」
「家賃は雨漏り一回分」
「敷金が戻らなそう」
ティナスが、窓に貼った共同作品を慎重にはがしている。
「これは、誰の作品ですか?」
「みんなの」
「では、みんなの部屋に一週間ずつ飾ります」
「一周するのに時間かかるね」
「居場所は移動してもいいです」
ティナスは当然のように言った。
つむぎ先輩は、貸してくれた土の窓を作品の列へ戻した。十一枚と一枚の色は同じなのに、外から帰ってきた一枚だけ、少し違って見えた。
「散歩、どうでした?」
「にぎやかだった」
「先輩の作品なのに」
「窓は、通ったものを覚えるから」
先輩は指で土の端をなでた。
閉店後、私たちは残ったプリンを四つ、丸テーブルに並べた。
「ちゃんと人数分ある」
「奇跡だ」
「最初から取り置きしてたの」
「平和は準備から生まれるんですね」
透明なゼリーの層には、夕方の空が映っていた。朝より濃い青で、窓の明かりを少し混ぜた色。
スプーンを入れると、その空がゆっくり崩れる。
食べるのは、少しもったいない。
でも、食べないほうがもっともったいない。
「いただきます」
四人の声が重なった。
甘くて、冷たくて、雨上がりの匂いがした。
夜、私はいったん外へ出た。
理由は特になかった。坂の下の郵便受けを見て、海を一度眺め、それから三角屋根荘へ戻った。
入口の灯りは黄色く、窓には四人分の影があった。
ドアを開ける。
コーヒーの残り香と、洗ったカップの湯気と、二階から聞こえる誰かの足音が、いっぺんに私を迎えた。
私は玄関で靴を脱いだ。
きちんとそろえようとして、片方だけ少し曲がった。直そうか迷って、そのままにする。
「ただいま」
小さく言うつもりだったのに、店の奥まで届いた。
「おかえりー」
こよみの声。
「おかえりなさい!」
ティナスの声。
「おかえり」
つむぎ先輩の声。
少し遅れて、厨房から葉子さんの声もした。
「お砂糖、切らしてるから買ってきてくれた?」
「それは聞いてません!」
「じゃあ、もう一回いってらっしゃい」
「ただいまの直後に追い出さないでください!」
笑い声が店に広がる。
私は靴を履き直さず、そのまま中へ上がった。
砂糖壺は空に近くなっていた。底に残った三つの角砂糖の隙間へ、窓の青が小さく落ちている。
明日の朝には、葉子さんが新しい砂糖を足すだろう。
いつか、この壺が割れることもあるかもしれない。
私たちがこの家を出て、別々の窓に明かりをつける日も来る。
それでも、今日ここにあった青空は、なくならない。
私は砂糖壺の蓋をそっと閉めた。
大事なものを閉じ込めるためではなく、また明日の朝、みんなで開けるために。