霧骨岬の地図は夜にひらく

一 霧は下から降る

 ルマナの町では、霧は空からではなく、谷底から降った。

 夕刻になると白い潮が崖をはい上がり、古代獣の肋骨に架けられた家々を、下から順に呑みこんでいく。最初に消えるのは洗濯物の影、次に路地、最後に尖った屋根だけが白い海から島のようにのぞいた。

 ユエは、その光景を十四年間、毎日のように見てきた。

 だから、霧より白い紙が戸口に貼られているのを見たときも、はじめはたいしたものだと思わなかった。

 紙には赤い活字で、こうあった。

 ――灰鉱社による夜銀鉱脈拡張工事のため、継ぎ板横丁の住民は六日以内に退去すること。

「六日って、明日と明後日と、その次と……」

 隣で数えていたペコが、指を一本ずつ折った。途中で足りなくなり、反対の手も使った。

「分かってる。短いって言いたいんでしょ」

「いや、六日あれば小型揚霧機を完成できるなって」

「爆発しないやつを?」

「それは七日いる」

 ユエは紙を引きはがした。釘が一本、戸板に残った。

 継ぎ板横丁は、ルマナでもいちばん古く、いちばん傾き、いちばん安い地区だった。家々は崖から突き出した石の肋骨に板を渡して建てられている。風の強い日には町全体がきしみ、住民は「今日は東の音だ」「いや、北の根太が泣いてる」と、天気の話のように言い合った。

 貧しいが、ユエの家だった。

 正確には、母と二人で営む地図修繕店〈折り目屋〉が家だった。壁には破れた航路図、焼け焦げた鉱道図、雨で海になった土地台帳が吊られ、糊と乾いた紙の匂いが一年中していた。

「議会は?」

 店の奥から母が言った。荷造り用の箱を組みながら、目を上げない。

「抗議したって。灰鉱社は、横丁の権利書が失効してるって」

「最初の地図がないからね」

 最初の地図。

 ルマナがまだ三十軒の小村だったころ、崖と霧と人間の境を定めたという一枚の地図だ。王の測量印が押され、町そのものが証人になった、と古い話にはある。

 だが、その地図は二十三年前、画家ラザン・モーラとともに消えた。

「見つかったら、横丁を追い出せない?」

 ユエが訊くと、母はようやく顔を上げた。

「見つかればね。でも、昔話を荷箱には詰められないよ」

 母の声には、希望を持つなという優しさがあった。

 ユエはそれが嫌いだった。

 その日の午後、ユエは店の北壁から古地図を外していた。父が生きていたころから一度も動かしていない大きな地勢図だ。額を持ち上げると、裏で何かがからん、と落ちた。

 細長い真鍮の鍵だった。

 鍵の頭には、四隅を折った紙の印が刻まれている。〈折り目屋〉の古い屋号印だ。

 壁を調べると、一枚だけ、板の木目が途中で途切れていた。鍵を差しこめるほどの穴もある。

 回す。

 壁の一部が、ため息のような音を立てて開いた。

 中から出てきたのは、宝石でも金貨でもなかった。

 一枚の絵だった。

 細く高い岬。その頂に、異様に背の高い家が建っている。屋根は風に削られた角のようで、窓はすべて黄色く光っていた。岬の下には霧の海が広がり、霧から白い階段が家へ向かって伸びている。

 絵の右下に、四人の小さな人影があった。

 一人は巻いた地図を背負い、一人は絵具箱を抱え、一人は腰に何本もの縄を下げ、一人は鍋のような機械を頭上に掲げている。

 ユエは絵を鼻先まで近づけた。

「これ、私たちだ」

「僕の揚霧機を鍋と言うなよ」

 いつの間にか背後からのぞきこんでいたペコが、心外そうに言った。

「入ってくるときは声をかけて」

「三回かけた。ユエが絵に食べられてた」

「誰が?」

「僕らが」

 ユエは絵を裏返した。

 裏地には、薄い褐色の線が幾重にも走っていた。町の地図に似ている。だが、道の半分は壁の中を通り、階段は崖の外へ延び、最後には絵の岬へつながっていた。

 片隅に、かすれた筆跡がある。

 ――最初の地図は、霧骨岬の家にて眠る。

 ――四隅を合わせ、まだない道を歩け。

 ――ラザン・モーラ。

 ペコが息を吸った。

 ユエも吸った。

 二人は同時に言った。

「ロッカとミミンを呼ぼう」

 四人が〈折り目屋〉の屋根裏にそろったのは、日暮れ前だった。

 地図には四つの角があり、四人で持てば風にも飛ばされない。そんな理由で、彼らは自分たちを〈四隅組〉と呼んでいた。ほかにそう呼ぶ者はいなかったが、四人は気にしていない。

 ロッカは十五歳で、運送屋の縄渡りを手伝っている。背が高く、腕も長く、何かを自慢するたび、その半分くらいは本当だった。

「霧骨岬なら行ったことがある」

「岬の麓まで荷を運んだだけでしょ」とユエ。

「麓は岬の一部だ」

「家は見た?」

「霧が濃くてな」

「見てないんじゃない」

「見えないものを見るのが冒険だ」

 ミミンは看板絵師の娘で、四人の中でいちばん絵がうまく、いちばん口が悪かった。絵を一目見るなり、眉を寄せた。

「この人物、二十三年前に描かれたの?」

「たぶん」

「じゃあ、ラザンは未来を描いたことになる」

「偶然似ただけかも」とロッカ。

「腰に縄を七本も下げた人間が、この町に何人いるのよ」

「八人くらい」

「そんなにいたら町が網になるわ」

 ミミンは画面の表面に指を近づけ、触れずに止めた。

「絵具が変。黒に骨粉、黄に灯虫油。白は……何だろう。光ってる」

「霧じゃないの?」とペコ。

「霧は乾いたら光らない」

 ユエは裏の地図を広げた。

 出発点には、細い塔の印と、筆を二本交差させた記号がある。

「顔料塔だ」とミミンが言った。「ラザンのアトリエ。二十三年前から封鎖されてる」

「いい始まりだな」とロッカ。

「悪い始まりの見本よ」

「で、いつ行く?」とペコ。

「今夜」とユエは答えた。

 母の「希望を持つな」という声が、胸のどこかに残っていた。

 だからこそ、六日待つ理由はなかった。

二 描かれた扉

 顔料塔は、町の西端に立っていた。

 もとは霧灯台だったが、灯台としては低すぎ、家としては細すぎ、画家のアトリエとしては近所迷惑すぎた。ラザンが暮らしていたころは、夜中に窓が青や緑に光り、時々、獣のうなり声が聞こえたという。

 いまは入口に鎖が巻かれ、灰鉱社の封印札が貼られている。

「私たちは証拠を探しに来た市民調査員」とミミン。

「市民調査員は窓から入らない」とユエ。

「入口から入れない市民調査員は窓から入るの」

 ロッカが縄を投げ、三階の雨樋に引っかけた。

「先に行く。落ちても受け止めろ」

「誰が?」

「地面が」

 ロッカは軽々と登った。ペコが続き、ミミンが続き、最後にユエが絵を背負って登った。

 三階の窓は、内側から釘で打たれていた。

 ペコが胸元から折り畳み式の工具を出す。歯車、針金、虫眼鏡、スプーンが一つの柄から生えている。

「最後のは何に使うの?」とユエ。

「長い調査には食事がいる」

 釘を抜いて中に入ると、匂いがした。

 乾いた油、かびた布、鉄さび。それから、雨上がりの穴ぐらに似た、生ぬるい土の匂い。

 壁一面に絵が掛かっていた。

 どれも、生き物を描いている。

 細長い腕で地面を歩くもの。首の代わりに無数のひだを持つもの。顔のあるべき場所が白く塗りつぶされ、その上に鉛筆で何度も目を描き直されたもの。

 うまい絵だった。うますぎた。

 皮膚の下の骨がどちらへ曲がるか、湿った毛がどこで束になるか、爪の欠け方まで分かる。想像で描いた怪物というより、長いあいだじっと座らされた、機嫌の悪いモデルに見えた。

「ラザンは、こういう絵で有名だったの」とミミンが小声で言った。「みんな、悪夢を描く天才だと思ってた」

「天才は掃除しないのか」とロッカ。

「それは普通の画家も同じ」

 ペコが、床に落ちた額を拾った。

 絵の中に、この部屋が描かれている。壁、窓、倒れた椅子。四人の姿まであった。

 ただし絵の中の四人は、現実の四人より少しだけ位置が違う。

 絵のユエは、北の壁を指さしていた。

 現実のユエは、指していなかった。

「見て」と彼女は言った。

 北壁には、何もない。古い漆喰だけだ。

 だが絵の中では、そこに細い扉が描かれている。

 ミミンが壁を叩いた。乾いた音のあと、一か所だけ、空洞の響きがした。

 ペコが工具のスプーンを差しこんで漆喰をはがす。下から、扉の輪郭が現れた。

「スプーンの使い道、あったね」とユエ。

「食事以外にも使えるとは思わなかった」

 扉には取っ手がなく、中央に四角い窪みが四つある。

 ユエは背負ってきた絵を下ろした。額の四隅は、厚く折り畳めるようになっている。

「四隅を合わせる」

 四人で一つずつ角を折った。

 額の裏から小さな金属片がせり出し、扉の窪みにぴたりとはまった。

 かちり。

 壁の奥で、長いあいだ眠っていた鍵が目を覚ました。

 扉が開いた。

 冷たい風が吹き出した。地下へ降りる石段がある。

 そのとき、背後で何かが、ぺた、と鳴った。

 四人は振り返った。

 白い顔の絵。

 目の描き直された怪物が、さっきより画面の手前にいた。

 ミミンがゆっくり近づく。

「絵具が、濡れてる」

 画面の下端から、黒い雫が一滴、床へ落ちた。

 塔の下で、鎖の鳴る音がした。

 誰かが正面扉を開けようとしている。

「灰鉱社の夜警?」とペコ。

「封印を破ったのがばれた」とユエ。

「市民調査員だと言えば?」とロッカ。

「窓から入った市民調査員は、たぶん説明が長くなるわ」とミミン。

 四人は地下への扉をくぐった。

 ユエが閉める直前、アトリエの絵をもう一度見た。

 白い顔の怪物は、画面から消えていた。

三 壁の裏の町

 石段は、百三十七段あった。

 ペコが数えたので間違いない。ただし九十段目で一度つまずき、「いまのは段に含めるか」という議論があったから、百三十六段だった可能性もある。

 最下部には、煉瓦の通路が続いていた。

 壁に、古い町名が刻まれている。

 パン焼き坂。青瓶小路。鐘なし広場。

「どれも今の地図にない」とユエは言った。

「取り壊された地区?」とロッカ。

「違う。造られなかった地区だ」

 ルマナの設計図には、工事前に捨てられた案が山ほどある。崖が崩れた、金が足りなかった、議員の家が邪魔だった。紙の上だけに存在した町。

 ここは、その下書きの道を、誰かが本当に造っていた。

 通路の先に四つの扉が並ぶ。扉にはそれぞれ、北、南、東、西を示す星印があった。

 だが地下では、方角を知る空も磁針もない。

「全部開けよう」とロッカ。

「一つずつ罠にかかる気?」とミミン。

「四つなら、四回の冒険だ」

 ユエは裏地の地図を灯りにかざした。線は北の扉へ向かっている。

 しかし扉の下から流れる風を確かめると、北だけが生暖かい。残り三つは、地上の夜風のように冷たかった。

「地図は方角を示してない」とユエは言った。「帰る方向を示してる」

 彼女は西の扉を選んだ。

 その向こうから、かすかにパンの焼ける匂いがした。とうに消えたパン焼き坂が、どこかでまだ朝を迎えているらしい。

「当たり?」

「少なくとも、生きてる町の匂いがする」

 通路を進むと、床が黒い石板に変わった。石板には一枚ずつ、口の絵が描かれている。

 ペコが一歩踏む。

 石の口が大声で笑った。

 同時に、前方の床が三枚、谷底へ落ちた。

「音に反応する橋だ」とペコ。

「今ので分かった」とユエ。

「僕が犠牲になって証明した」

「まだ落ちてない」

 橋の石板は、声や足音が大きいほど崩れる仕掛けだった。

 四人は靴を脱ぎ、そっと歩き始めた。

 半分まで来たとき、ロッカが立ち止まった。

「どうしたの」とミミンが口の形だけで訊く。

 ロッカは答えず、鼻をつまんだ。

 彼の頬がふくらむ。

 くしゃみだ。

 夕食に食べた胡椒豆のパンが、いまになって鼻へ戻ってきたらしい。

 ペコが素早く工具を出し、スプーンをロッカの鼻の下へ当てた。スプーンには、いつ食べたものか分からない蜂蜜が薄く残っている。

 ロッカは蜂蜜の匂いを吸い、くしゃみを飲みこんだ。

 四人が橋を渡りきった直後、背後で盛大なくしゃみが響いた。

 橋の半分が笑いながら崩れ落ちた。

「スプーンは万能だ」とペコが言った。

「洗って」とミミン。

 その先には、広い円形の部屋があった。

 壁に、何十枚もの肖像画が並んでいる。

 人間の顔ではない。

 顔の輪郭だけが描かれ、中身は空白だった。ある絵には耳が三つ、ある絵には縦に裂けた口、ある絵には頬から小さな手が生えている。だが目も鼻も塗られていない。

 部屋の中央に、背の低い生き物が座っていた。

 犬ほどの大きさ。手足は細く、指が長い。頭には白い布をかぶせたような、のっぺりした皮膚がある。

 白い皮膚の下で、何かがゆっくり動いた。

 生き物は首をかしげた。

 そして、ユエの声で言った。

「これ、私たちだ」

 塔で言った言葉だった。

 次に、ペコの声。

「僕の揚霧機を鍋と言うなよ」

 ロッカの顔から笑いが消えた。

「逃げるぞ」

 生き物が四つんばいになった。

 走った。

 速い。

 長い指が床を叩き、乾いた雨のような音が迫る。四人は反対側の出口へ駆けた。

 ミミンの鞄から、紙束が落ちた。

 今日の昼、四人を落書きした一枚が床に滑る。

 生き物は紙へ飛びついた。

 白い顔を、絵のロッカに押しつける。

 ずるり、と音がした。

 紙から、ロッカの顔だけが消えた。

 同時にユエは、隣を走る背の高い少年が誰だか分からなくなった。

 知らない少年が、なぜ自分たちと一緒にいるのか。

「おい、止まるな!」少年が叫ぶ。

「あなた、誰?」

「何言ってるんだ、ユエ!」

 ペコも振り返り、目を見開いた。

「四人だったっけ?」

「三人よ」とミミンが言いかけて、唇を噛んだ。

 ミミンだけが、消えた絵を見ていた。

 彼女は床に膝をつき、炭筆を抜いた。

「耳が大きい。眉の左が切れてる。笑うと右だけえくぼ。鼻は思ったより普通」

「最後の一言いるか?」少年が叫んだ。

 ミミンは紙に顔を描いた。

 線が一本増えるごとに、記憶が戻った。

 ロッカが縄を結ぶとき、必ず二回引くこと。

 魚の骨を怖がること。

 高いところから降りたあと、誰にも見られないよう手を震わせること。

「ロッカ!」

 ユエが名を呼んだ瞬間、紙の顔が完成した。

 白い生き物が悲鳴を上げた。

 それは怒りというより、空腹の声だった。

 ロッカは縄を投げ、壁の梁にかけた。

「全員つかまれ!」

 四人が縄へ飛びつく。ロッカが体重をかけて振り子のように揺らし、出口の段差へ放り出した。

 最後に自分も飛ぶ。

 白い指が足首をかすめた。

 ミミンが描いた紙を生き物へ投げる。

 生き物は紙を抱えこみ、動きを止めた。

 四人は鉄扉を閉め、閂を落とした。

 向こう側で、かりかりと音がする。

 誰かが、紙に絵を描いているような音だった。

「今の、何だ」とロッカ。

「顔を食べた」とペコ。

「絵を食べたのよ」とミミン。「そのせいで、私たちの記憶まで欠けた」

「じゃあ、あいつらは絵の怪物?」

 ユエは首を振った。

「絵から出たんじゃない。絵に入ろうとしてた」

 扉の脇に、小さな銅板が打ちつけてあった。

 ラザンの筆跡で、こう刻まれている。

 ――モデル室。入室前に必ず肖像を用意すること。

四 画家の告白

 モデル室の先は、アトリエだった。

 地下とは思えないほど天井が高く、壁際に巨大な画布が何十枚も立てかけられている。中央には黒い木の椅子。椅子の脚には、爪で削ったような跡が無数にあった。

 机の上に、革表紙の日誌が置かれていた。

 ミミンが慎重に開く。

 最初の頁には、太い文字が一行。

 ――私は怪物を発明したのではない。彼らに、座ってもらっただけだ。

 頁をめくる。

 ラザンは若いころ、継ぎ板横丁の地下で、白い顔の生き物たちと出会った。彼らは〈余白の民〉と呼ばれ、地上の人間とは違う仕方で存在していた。

 見られず、名づけられず、語られないものは、輪郭を失う。

 輪郭を失った彼らは、人間の目には恐ろしい獣に見えた。人間の記憶や絵に触れ、そこから形を借りなければ、長く地上に留まれなかった。

 ラザンは彼らを描いた。

 耳の数、指の曲がり、目の色。彼ら自身が望む姿を訊き、一枚ずつ肖像にした。

 すると余白の民は、絵に定められた形を持ち、言葉を話せるようになった。

 肖像は牢獄ではなく、名札であり、旅券であり、約束だった。

「じゃあ、塔の絵は……」ロッカが言う。

「悪夢じゃない」とミミン。「あの人たちの肖像画」

 日誌の後半になるほど、文字が乱れていた。

 灰鉱社の前身である採掘組合が、地下の夜銀を掘り始めた。夜銀はラザンの絵具にも使われる鉱物で、輪郭を記憶する性質がある。

 掘れば掘るほど、余白の民の居場所が崩れた。

 ラザンは町の創設者たちが交わした古い盟約――最初の地図――を霧骨岬の家へ移した。そこは地上と余白の境に建つ、中立の場所だった。

 最後の頁だけ、別の色の墨で書かれている。

 ――地図は土地を所有するための鎖ではない。

 ――互いに、ここまでなら歩いてよいと確かめる約束だ。

 ――約束を破る者が来たなら、家は道を閉じるだろう。

 ――それでも迷いこむ者がいたなら、帰り道を描いてほしい。

 その下に、地図があった。

 霧骨岬へ続く一本の線。

 線はアトリエの北壁で終わっている。

「また壁?」とペコ。

「画家って、扉を普通に造ると死ぬ病気なの?」とロッカ。

 北壁には、巨大な未完成の絵が掛かっていた。

 霧に包まれた断崖。上半分は描かれているが、下半分は白いままだ。

 ユエが絵の前に立つと、画面から冷たい湿気を感じた。

「霧が足りないんだ」

 ペコが背負っていた鍋型の機械を下ろした。

「揚霧機の出番だ」

「完成してないんじゃ?」とミミン。

「霧を上げる機能は完成してる。止める機能が明日できる」

 ペコが小瓶の水を注ぎ、火打ち石を回した。

 機械は、げほ、と咳をした。

 次に、猛烈な勢いで白い蒸気を噴いた。

 アトリエが一瞬で霧に包まれる。

「止めて!」

「だから明日!」

 蒸気が未完成の絵に触れた。

 白かった部分に、階段が浮かび上がる。

 絵の中の階段は、画面の下端を越え、現実の床へ続いた。

 石でも木でもない。霧を固めたような白い段だ。

 ユエが足を乗せる。

 沈まない。

 階段の先には、アトリエの壁ではなく、夜の空が開いていた。

 遠くで、黄色い窓が光っている。

「これを渡るの?」ロッカの声が、わずかに高くなる。

「高いところは得意なんでしょ」とミミン。

「登るのが得意だ。落ちるのは専門外だ」

 背後で、鉄の扉が激しく鳴った。

 モデル室の閂が、外から外されようとしている。

 白い生き物ではない。

 人間の声がした。

「その先に地図がある! 子どもどもを逃がすな!」

 灰鉱社の測量監督官、ダルムの声だった。

 ユエたちは昼間、退去通知を配る彼を見ている。銀の留め具がついた灰色の外套、髪油の匂い、何でも自分の帳簿に入っていると信じている目。

「塔からついてきたんだ」とペコ。

「夜警じゃなかったのね」とユエ。

「早く!」ミミンが階段へ飛び乗る。

 四人は霧の階段を駆けた。

 最後のペコが揚霧機を抱えて飛び出すと同時に、アトリエの扉が破られた。

 ダルムと二人の鉱夫が入ってくる。

「戻れ!」ダルムが叫んだ。「その地図は会社資産だ!」

「まだ見つけてもない!」ロッカが叫び返す。

「なら、見つけた瞬間から会社資産だ!」

 霧の階段は、夜空へ細く伸びている。

 下には谷。白い霧が渦巻き、ときどき巨大な影が泳いだ。

 ロッカは前だけを見て走った。

 誰も、彼の手が震えていることを言わなかった。

五 霧骨岬の家

 岬の家は、近づくほど高くなった。

 遠くからは三階建てに見えたのに、階段を上るうち四階、五階と窓が増えた。屋根は雲を突き抜け、煙突からは星のような火の粉が上へ落ちていく。

 玄関の扉は、四人がたどり着く前に開いた。

 黒い長衣の老人が立っていた。

 髪は白く、片方の目に丸い色硝子をはめている。指先は青、黄、黒に染まり、爪の間まで絵具が入っていた。

「遅かったね」と老人は言った。

 ミミンが息を呑む。

「ラザン・モーラ?」

「その名で呼ばれたことがある」

 二十三年前に消えた画家は、日誌の肖像より十年ほどしか老けていなかった。

「私たちを描いたのは、あなた?」ユエは持ってきた絵を見せた。

「昨夜、窓から君たちが来るのを見た。こちらの窓は、時々、順番を間違える」

「じゃあ、昨日描いて二十三年前に隠した?」

「家にとっては、どちらも同じ夕方だ」

 ラザンは四人を中へ招いた。

 玄関を一歩入ると、外から見た家の幅より広い広間があった。階段が三方向へ伸び、天井から逆さまの扉が吊られている。壁の絵はどれも余白の民の肖像だった。

 ただ、塔の絵と違い、ここに描かれた彼らは怪物に見えなかった。

 三つの耳に銀の輪を下げた婦人。細い腕を六本組んで眠る子ども。首のひだに花を挿した老人。人間とは違うが、それぞれに表情があり、服があり、暮らしがあった。

「最初の地図を探しに来ました」とユエは言った。「灰鉱社が横丁を壊そうとしてる。あれがあれば、止められる」

 ラザンの顔から笑みが消えた。

「分かっている。家の北窓から見えた」

「なら、地図をください」

「持ち出せない」

 広間の中央に、一枚の大きな羊皮紙が額装されていた。

 ルマナの崖、古代獣の肋骨、霧の境。継ぎ板横丁を含む古い町域が、金色の線で囲まれている。下部には王の測量印と、町の創設者たちの署名。

 さらにその隣に、人間の字ではない白い手形が並んでいた。

「これが最初の地図だ」とラザン。「人間と余白の民が、互いの道を定めた盟約でもある。家の壁にあるかぎり、境は保たれる。切り離せば、地図は権利書である前に、破れた約束になる」

「写しは?」ペコが訊いた。

「線は写せる。証人は写せない。町も、余白の民も、もう一度同意しなければならない」

 ユエは地図を見つめた。

 金色の線は、町の下で何度も削られている。灰鉱社の坑道が、余白の民の領域へ食いこんだ跡だった。

「灰鉱社は、知ってたの?」

「少なくとも最初の組合は知っていた。だから地図を消したかった」

 玄関の外から、足音がした。

 ダルムたちが霧の階段を渡ってくる。

「扉を閉めて!」ミミンが叫ぶ。

 ラザンは首を振った。

「この家は、来客を拒めない。中立の家だからだ」

 扉が開いた。

 ダルムが息を切らして入ってきた。外套は霧で濡れ、髪油はすっかり落ちている。二人の鉱夫も青い顔をしていた。

 だが最初の地図を見つけると、ダルムの目に元の光が戻った。

「それだ」

「触るな」とラザン。

「会社の鉱区図を不法に持ち出した証拠として押収する」

「こっちのほうが会社より百年古い」とユエ。

「古い紙は、新しい印鑑に負ける」

 ダルムが額へ手を伸ばす。

 ラザンが前に立った。

 鉱夫の一人が彼を押しのけた。

 ダルムは腰の小刀を抜き、羊皮紙の縁を切った。

 最初の一筋が切れた瞬間、家中の扉が同時に開いた。

 風は吹かなかった。

 代わりに、すべての肖像から色が抜け始めた。

 三つ耳の婦人の顔が白くなる。六本腕の子どもの輪郭がにじむ。首に花を挿した老人の目が消える。

「何をした!」ラザンが叫ぶ。

 ダルムは羊皮紙を乱暴に引きはがした。

 壁の向こうで、何百本もの指が一斉に爪を立てた。

 絵の表面が膨らむ。

 白い腕が突き出た。

 次に頭、肩、折れ曲がった脚。

 輪郭を失った余白の民が、肖像からではなく、肖像の奥の道から家へなだれこんできた。

 ダルムは地図を丸め、胸に抱えた。

「夜銀だ! 絵具を取れ!」

 鉱夫たちは壁際の顔料壺へ走った。

 ラザンが止めるより早く、一人が黒い壺を持ち上げる。

 壺の底が抜けた。

 夜銀の顔料が床へ流れた。

 家が傾いた。

 階段が壁になり、壁が天井になり、窓の外の星が足元へ落ちた。

 ユエは床を滑った。

 誰かの手をつかむ。

 ミミンだった。

 その向こうで、ロッカがペコを抱えたまま手すりへぶつかる。

 ダルムの持つ地図がほどけ、金の線が闇の中で光った。

 白い顔が、何十も彼へ向いた。

 家がもう一度回転した。

 四人は、別々の扉へ投げこまれた。

六 帰り道を描け

 ユエが落ちた部屋には、地図しかなかった。

 壁、床、天井、家具の表面まで、無数の地図で覆われている。ルマナ。霧骨岬。見知らぬ大陸。星の裏側。眠っている人の夢の中。

 そして正面の机に、父の最後の地図があった。

 父は七年前、崩れた坑道を調べに行き、帰らなかった。救助隊が見つけたのは、折れた測量杖だけだ。

 机の地図には、父の筆跡で道が続いている。

 この線をたどれば、父がどこへ行ったか分かる。

 ユエは手を伸ばした。

 部屋の外で、ロッカの叫び声がした。

 地図の線が、机の上で蛇のように動く。

 父の道は、扉と反対へ続いていた。

 ユエは目を閉じた。

「地図は、いま歩く人のためにある」

 父の地図を裏返し、扉へ走った。

 ミミンが落ちた部屋には、真っ白な画布が一枚だけあった。

 画布の前に立つと、絵が勝手に現れた。

 完璧な絵だった。

 線は迷わず、色は濁らず、描かれた人物は息をしている。ミミンが一生かけても届かないほど美しい。

 画布の中のミミンが、彼女に微笑んだ。

「手を入れて」と絵が言った。「迷いも失敗も、こっちへ置いていけばいい」

 ミミンは炭筆を握った。

 完璧な自分の鼻の下に、思い切りひげを描いた。

 絵が悲鳴を上げる。

「悪いけど、失敗は私のものよ」

 画布が裂け、向こうに廊下が現れた。

 ペコが落ちたのは、機械だらけの台所だった。

 鍋が自分で煮え、包丁が歌い、歯車仕掛けの鶏が卵の代わりに釘を産んでいる。

 彼の揚霧機は床で粉々になっていた。

「七日目まで持たなかった」とペコは言った。

 天井の扉から、白い腕が伸びてくる。

 ペコは壊れた揚霧機を見た。部品を拾う。鍋、弁、ふいご、歯車、スプーン。

「完成品が壊れたなら、未完成に戻せばいい」

 彼は歌う包丁の柄を外し、鶏の歯車を抜き、鍋へ組みこんだ。

 揚霧機は、霧ではなく小麦粉を噴いた。

 白い腕が粉まみれになり、輪郭を現す。

 ペコは腕の脇をすり抜けた。

「見えれば、避けられる」

 ロッカが落ちた部屋には、床がなかった。

 一本の縄だけが、暗闇を横切っている。

 ロッカは両手で縄にぶら下がっていた。

 下から、谷の霧が押し寄せる。

 足首を、白い指がつかんだ。

「高いところは得意なんだろう?」

 どこからか、ダルムの声がした。

 ロッカは歯を食いしばった。

「得意じゃない」

 初めて、声にした。

「怖いから、結び方を覚えたんだ」

 腰の縄をほどき、足首の指に輪をかける。

 引く。

 白い生き物が霧から持ち上がった。

 その顔には、ミミンが描いたロッカの目と鼻が、でたらめな位置についている。

「それ、俺の顔だ。返せ」

 生き物は、きゅう、と鳴いた。

 怒っているのではない。

 困っていた。

 ロッカは片手で縄にぶら下がり、もう一方の手で生き物の額に触れた。

「あとでちゃんと描いてもらえ。俺のじゃなく、お前のを」

 生き物の指が足首から離れた。

 代わりに、ロッカの腰縄を握る。

 一人と一匹は、同じ縄を伝って出口へ進んだ。

 四人は、傾いた食堂で再会した。

 床は壁になり、長い食卓が縦に立っている。椅子が天井を流れ、皿が窓の外へ吸いこまれていく。

 ラザンは食卓の脚にしがみついていた。

「地図を戻さないと!」ユエが叫ぶ。

「戻すだけでは足りない!」ラザンが答えた。「古い線はもう破られすぎた。新しい約束がいる!」

 ダルムは食堂の上端――いまや十メートル上の壁――にある暖炉へしがみついていた。片手に最初の地図、もう片手に夜銀の袋を持っている。

 その周囲を、余白の民が囲んでいた。

 彼らは白い塊のように形を失い、互いの腕や顔が混ざりあっている。

「来るな!」ダルムが袋を振り回す。「これは会社のものだ!」

 余白の民が一斉に口を開いた。

 人間の声、鳥の声、扉のきしみ、赤子の泣き声。

 その中から、かろうじて言葉が聞こえた。

「かえせ」

 夜銀は、彼らの土地から掘り出した輪郭の鉱石だった。

 ユエは日誌の最後の言葉を思い出した。

 帰り道を描いてほしい。

「ミミン。絵は描ける?」

「紙があれば」

「紙ならある」

 ユエは上着の内側から、丸めて持ってきた退去通知を六枚取り出した。

 赤い字で、六日以内に出ていけと書かれた紙。

「最高」とミミンが言った。「消したい字がたくさんある」

 ペコが壊れた揚霧機の鍋を置く。床にこぼれた夜銀顔料をスプーンですくい、小麦粉と灯油を混ぜた。

「乾く前に描け。たぶん三分。二分かもしれない」

「差が大きい」

「冒険は誤差を含む」

 ユエは六枚の紙をつなぎ、町と岬の輪郭を描き始めた。

 だが家が揺れ、線が歪む。

「固定して!」ユエが叫ぶ。

 ロッカが腰の縄を投げた。縦になった食卓、階段の手すり、窓枠へ次々と結び、紙の四隅を引っ張る。

「四隅組だ!」ペコが言う。

「今それ言う?」とミミン。

「こういうときに言わないで、いつ言うんだ!」

 ミミンは余白の民を見た。

 白い塊の中に、断片が浮かぶ。

 三つの耳。六本の腕。首の花。長い指。借り物のロッカの眉。

 彼女は一人ずつ、望む姿を描いた。

 完璧ではない。線は揺れ、顔料はにじみ、ときどき家が回って耳が頬へずれた。

 それでも、描かれた者たちは輪郭を取り戻した。

 三つ耳の婦人が現れた。銀の輪を揺らし、ミミンへ頭を下げる。

 六本腕の子どもが現れた。二本でロッカの縄をつかみ、二本で紙を押さえ、残り二本で拍手した。

 首に花を挿した老人が現れた。

 老人は、白い手をユエの地図へ置いた。

 手形が光る。

 道が紙の上から立ち上がり、家の中へ伸びた。

 人間の廊下とは違う、細く曲がった白い道。肖像の奥へ、地下へ、余白の民の町へ続いている。

「帰れる」とラザンが言った。

 だが、道は途中で途切れた。

 ダルムの夜銀が足りない。

「袋を渡して!」ユエが叫ぶ。

「これがなければ、坑道は赤字だ!」ダルム。

「町を壊して、あの人たちの家も壊して、それで黒字にするの?」

「私は命令された! 採掘量を上げろ、地図を回収しろ、結果を出せと!」

「じゃあ今、結果を選べ!」

 暖炉の煉瓦が外れた。

 ダルムの足元が崩れる。

 彼は地図と袋を抱えたまま落ちた。

 ユエは考えるより先に走った。

 傾いた食卓を蹴り、ロッカの縄へ飛びつく。片手を伸ばす。

 ダルムの手首をつかんだ。

 重い。

「袋を捨てて!」ユエ。

「地図が――」

「紙より先に手を使って!」

 ダルムは迷った。

 その一瞬、縄がきしんだ。

 ロッカが叫ぶ。

「怖いのは俺も同じだ! 早くしろ!」

 ダルムは夜銀の袋を放した。

 三つ耳の婦人が空中で受け取る。

 袋を裂く。

 黒い顔料が、星屑のように地図へ降り注いだ。

 途切れていた道がつながる。

 余白の民は、一人ずつユエたちの前を通った。

 ミミンの描いた肖像に触れ、ユエの描いた道を歩き、絵の奥へ帰っていく。

 最後に、ロッカの顔を借りた小さな生き物が残った。

 ミミンは新しい紙片を出した。

「あなたは、どんな顔がいい?」

 生き物はしばらく考えた。

 長い指で、自分の顔に三つの丸を描いた。目が三つほしいらしい。

 次に、大きな口を一つ。

 ミミンが描く。

 出来上がった顔は、少し滑稽で、少し怖く、ひどくうれしそうだった。

 生き物はロッカの顔を返し、自分の肖像を抱えて道へ入った。

 扉が閉じる。

 家の揺れが止まった。

 床が床へ、壁が壁へ戻った。

 ユエとダルムは、食堂の絨毯へ転がった。

 最初の地図が、二人の間に落ちる。

 切り取られた縁から金の光が漏れていた。

 ダルムはしばらく天井を見ていた。

 やがて起き上がり、地図をラザンへ差し出した。

「……戻してくれ」

 ラザンは受け取ったが、首を振った。

「戻すのは、私だけの仕事ではない」

 ユエたちが描いた新しい地図を、古い地図の上へ重ねる。

 町の線。余白の町の線。互いの道が交わらず、それでも一本の橋でつながっている。

 ラザンは夜銀の筆で、二枚の縁をなぞった。

 古い地図の金色の署名が、新しい紙へ浮かび上がった。

 王の測量印。

 町の創設者たちの名。

 余白の民の白い手形。

 最後に、新しい手形が一つ増えた。

 三つ目の小さな生き物の、三本指の印。

「証人は写せないんじゃ?」とペコ。

「写したのではない」とラザン。「彼らが、もう一度同意した」

 ユエは新しい地図を持ち上げた。

 退去通知の赤い文字は消え、その上に、夜のように黒く、朝のように確かな道が描かれていた。

七 夜明けの発破

 霧骨岬の家を出るころ、東の空が青み始めていた。

 霧の階段を駆け下りる。

 今度はロッカも下を見た。怖がりながら、一歩も遅れなかった。

 顔料塔へ戻ると、正面扉は破られ、外に灰鉱社の荷車が止まっていた。

 遠くで鐘が鳴る。

 五回。

 夜明けの作業鐘だ。

 続いて、もっと低い警告鐘が三回鳴った。

 ペコの顔が青ざめる。

「発破の合図だ」

「工事は六日後じゃ?」とミミン。

「準備発破。坑道の入口を広げるつもりだ。継ぎ板横丁の真下で」

 ダルムが外套の内側を探った。命令書を出す。そこには小さく、夜明けに第一発破実施と書かれていた。

「止めさせる」と彼は言った。

「あなたの部下でしょ」とユエ。

「命令は本社名義だ。地図を回収できなければ予定どおり進めろ、と」

 四人と一人は町を走った。

 朝霧が路地を膝の高さまで満たしている。住民たちは発破警告に気づき、家から飛び出していた。

 横丁の西端に、巨大な穿孔機が据えられている。崖へ打ちこまれた火薬線が赤く燃え、導火槽を走っていた。

 灰鉱社の現場頭が時計を見ている。

「中止だ!」ダルムが叫んだ。

「回収任務は失敗と報告を受けています」現場頭は答えた。「本社命令を優先します」

 導火線の火は、すでに最初の分岐へ入った。

 全部で十二本。

「切れる?」ユエがペコに訊く。

「十一なら」

「一本余る」

「僕は指が十本しかない」

 ユエは新しい地図を広げた。

 夜銀の線が、朝の光を受けて動く。

 坑道。家々の支柱。古代獣の肋骨。

 そして、穿孔機の真下に、地図では四角い印があった。

「境石がある」

 最初の盟約を刻んだ石だ。

 これを地上へ出せば、地図だけでなく、町そのものが証人になる。

「でも発破したら、横丁も落ちる」とロッカ。

 ペコは導火槽を見た。

 十二本の線。一本は支柱の下。一本は境石の上。

 彼の目が輝く。

「爆発を止めるんじゃない。道を変える」

 四人は動いた。

 ロッカが穿孔機へ登る。高い鉄骨の上で、主導火線をつかむ。

 ミミンは看板用の赤い塗料を地面へ撒き、住民たちに安全な場所を示す。

 ユエは地図を見ながら、ペコへ分岐の位置を叫ぶ。

「右から三本目! 次は肋骨の下を避けて二本!」

 ペコは工具を開いた。

 スプーンを含むすべての刃を使い、火薬線を切り、つなぎ替える。

 火が迫る。

「あと十秒!」ロッカ。

「数えるな、短くなる!」ペコ。

 ダルムは現場頭の前に立ち、作業員を退避させた。

「本社には私が報告する」

「責任問題になります」

「もうなっている」

 最後の火薬線がつながる。

 ペコが転がって離れた。

 ロッカが鉄骨から飛び、縄で振られてユエたちのところへ着地した。

 地面が持ち上がった。

 轟音。

 白い石煙が、朝霧を吹き飛ばす。

 家々が大きく揺れた。

 だが落ちなかった。

 穿孔機の前だけが円形に崩れ、地中から黒い石柱がせり上がった。

 石柱には、金色の町境線が刻まれている。

 人間の署名。

 白い手形。

 そして、最初の地図と同じ王の測量印。

 集まった住民たちが静まり返った。

 やがて、誰かが言った。

「町が覚えてた」

 ユエの母だった。

 母は石柱へ近づき、新しい地図と見比べた。

 線も印も一致している。

 ルマナ議会の書記が、寝巻きの上に法衣を着て走ってきた。王印を確かめ、境石を確かめ、灰鉱社の命令書を確かめる。

「継ぎ板横丁は、創設盟約による共同居住地である。採掘権の対象外だ」

 書記は高らかに宣言した。

「本工事を停止する!」

 歓声が上がった。

 横丁の板壁が震え、肋骨の梁がきしんだ。

 それはいつもの東風の音だった。

 灰鉱社の坑道は閉鎖された。

 ダルムは本社の命令書と古い採掘記録を議会へ提出した。職は失ったが、継ぎ板横丁の住民たちは彼を追い出さなかった。

「退去通知はもう十分だ」と、パン屋の主人が言ったからだ。

 ラザン・モーラの名誉は回復された。

 ただし本人は、議会の招待にも、画商の依頼にも応じなかった。顔料塔の地下道は二度と同じ場所へつながらず、霧骨岬の家も、晴れた日にはただの尖った岩にしか見えなかった。

 六週間後、〈折り目屋〉は新しい看板を掲げた。

 ミミンが描いた四つ折りの地図。

 ロッカの七本の縄。

 ペコの鍋に見える揚霧機。

 そして中央に、巻いた地図を背負うユエ。

 看板の下には、小さくこう書かれている。

 ――地図修繕・失せ道捜索・怪しい家への訪問相談。

「最後の仕事、本当に受けるの?」母が訊いた。

「相談だけ」とユエ。

「相談のあと行くんでしょ」

「たぶん」

 夕刻。

 いつものように霧が谷底から降ってきた。

 ミミンが、四人の新しい肖像画を店へ持ってきた。

 顔も服も、ちゃんと本人たちに似ている。ロッカの鼻だけ少し立派すぎ、ペコの揚霧機は実物より完成して見えた。

「盛ったな」とペコ。

「芸術的な予告よ」

 ユエは絵を壁へ掛けた。

 そのとき、絵の奥で黄色い光がともった。

 背景に、描いた覚えのない細い岬がある。

 頂には背の高い家。

 一つの窓から、三つ目の小さな顔がのぞいていた。

 顔は大きく笑い、長い指で、こちらへ手招きしている。

 絵の裏から、かさりと紙の音がした。

 ユエが外すと、新しい道が一本、地図に増えていた。

 まだ誰も歩いていない道。

 霧は下から降り、地図は夜にひらいた。