風葬の迷宮

一 夜明けまで五刻

 王都リーヴァが包囲された夜、オタトは城壁の上で、星が一つずつ消えていくのを見た。

 星を隠していたのは雲ではない。

 石冠帝国の天蓋艦――黒い鉄板を何層も重ねた空飛ぶ要塞が、月明かりを呑み込みながら近づいていた。艦腹には無数の鎖が垂れ、その先で、灰色の兵士たちが風に揺れている。

 兵士たちは叫ばない。寒さに身をよじることもない。

 兜の奥に顔がなく、胸甲に名札もない。

「無名兵だ」

 隣で弓を構えていたネアが吐き捨てた。山国生まれの彼女は、夜目が利いた。「三千はいる。後ろの雲にも、まだ艦影がある」

 城壁の下では、自由軍の負傷兵が担架で運ばれていた。三日前に北門を失い、昨日は水路を焼かれた。食糧は朝まで。矢は二斉射分。城内には兵より避難民のほうが多い。

 そして帝国軍は、夜明けと同時に総攻撃を始める。

 オタトの腰には、刃こぼれした短剣が一本あった。王都を脱出するとき兄から渡されたもので、兄はその二刻後に死んだ。形見と呼ぶには実用的すぎ、武器と呼ぶには頼りなさすぎた。

 それでもオタトは、何度もその柄に触れた。

「伝令オタト」

 背後から声がした。

 自由軍司令のサラが、白い外套を風にはためかせて立っていた。三十代半ばの細身の女で、右目を銀の覆いで隠している。疲労で頬はこけていたが、声だけは王城の鐘のようによく通った。

「地下へ降りてもらう」

「避難路ですか」

「墓地だ」

 サラは城壁の向こうを見た。

「正確には、墓地の下にある迷宮だ。帝国がこの国へ攻め込んだ理由も、無名兵を作った方法も、その最深部にある」

 彼女は一枚の青銅板を差し出した。手のひらほどの大きさで、中央に古い文字が刻まれている。

 ――名を持つ者だけが、暁を起こせる。

「古代都市セイルの遺構。通称、風葬の迷宮。最深部には『暁炉』という装置が眠っている。伝承では、山脈を越えて風を呼び、海を割り、空を落とす力がある」

「伝承で戦争に勝てるなら、詩人を将軍にすればいい」

 ネアが言った。

 サラは笑わなかった。

「帝国は伝承を信じた。十年前、北部の遺跡から暁炉の一部を掘り出し、人間から名前と記憶を奪う機械を作った。あの兵士たちは死者ではない。名を奪われ、命令だけを残された生者だ」

 城壁の上を、冷たい沈黙が渡った。

「今夜、帝国のレヴァン将軍も迷宮へ入った。彼が暁炉を手に入れれば、王都の十万人が次の無名兵になる」

「こちらが先に起動すれば?」とオタト。

「天蓋艦を落とせるかもしれない」

「かもしれない」

「確かなことは一つだけだ。何もしなければ、夜明けにこの国は終わる」

 サラは六枚の青銅板を差し出した。

「迷宮は侵入者の記憶を読み、道を変える。古文書には、入口で名を刻めとある。同行者は選んである。剣、弓、術、癒やし、鍵、そして帝国の知識。六人で降りる」

 ネアは弓を背負い直した。

「帰りは?」

 サラは少しだけ間を置いた。

「夜明けまでに戻れ」

 それが答えだった。

二 六枚の名札

 王城裏の共同墓地には、雨が降っていた。

 城壁の上では乾いた風しか吹いていなかったのに、墓地の一角だけ細い雨筋が落ちている。古い仕掛けだ、と鍵師のリネが言った。地下から漏れ出す冷気が、地上の湿りを集めているらしい。

 彼女は背が低く、腰に三十本以上の針金と工具を吊していた。歩くたび、銀貨袋のようにかすかな音がした。

「迷宮ってのはね、入る前が一番親切なんだよ」

 墓石の陰を調べながら、リネは言った。

「帰らせたいなら門を閉じる。門が開いてるってことは、入れたい理由がある」

「励ましとして受け取っておこう」

 術師フェドが答えた。黒い法衣の胸に、七本の細い硝子管を並べている。管の中には赤、青、黄、白の砂が入っていた。

 術を一度使うたびに一本を割る。古代文字を読むための灯火も、岩を砕く爆炎も、眠りの霧も、すべて同じ七本から支払われる。

「最後の一本は帰路のためだ」とフェドは全員に念を押した。「英雄は入口で数を忘れ、死体になってから思い出す」

「死体は思い出さないよ」

 穏やかな声で訂正したのはハルムだった。白髭の老僧で、背には武器の代わりに分厚い名簿を負っている。

 名簿には、帝国との戦争で死んだ者の名が記されていた。兵士も農民も、罪人も旅人も、敵兵さえも。ハルムは戦場を歩いて名を聞き取り、死体のそばで一度読み上げてから、墨で書き留めてきた。

「死者が思い出せないから、私たちが覚えるのだ」

 最後の一人は、墓地の門から離れて立っていた。

 バルド。元石冠帝国軍百人隊長。長身で、肩幅は棺より広い。帝国式の大剣を背負っているが、黒い軍装から紋章だけが切り取られていた。

 彼が自由軍へ投降したのは半年前だった。理由をオタトは知らない。ただ、レヴァン将軍の副官を務めていたこと、無名兵の製造所から十二人の子どもを逃がしたこと、その十二人のうち九人が王都にいることだけを聞いていた。

「裏切るなら、ここが最後の機会だ」

 オタトが言うと、バルドは目を細めた。

「私にか、お前にか」

「両方にだ」

「よい答えだ」

 リネが最も古い墓石の首を回すと、地面の雨水が一斉に渦を巻いた。泥の下から、螺旋階段が現れた。

 階段の入口には、六つの細い窪みがある。

 オタトたちは青銅板に一人ずつ名を刻んだ。

 オタト。

 ネア。

 リネ。

 フェド。

 ハルム。

 バルド。

 窪みへ差し込むと、石の奥で巨大な何かが息を吸った。

 墓地に降っていた雨が止んだ。

 同時に、六枚の青銅板から文字が消えた。

「歓迎されたね」とリネが言った。

 階段の底で、暗闇が口を開けていた。

三 第一層 名のない兵舎

 地下第一層は、兵舎だった。

 左右に石造りの寝台が並び、朽ちた盾と槍が壁に掛かっている。どれも人間より一回り小さい。セイル人は小柄だったのかもしれないし、ここが子どもの兵舎だったのかもしれない。

 フェドが白砂の硝子管を折った。

 光が鳥の形になって飛び立ち、天井近くを漂った。残り六本。

「三刻は持つ」とフェド。「それまでに下層への階段を見つける」

 リネは羊皮紙に線を引きながら先頭を歩いた。角を二つ曲がり、十七歩進み、左の扉を開ける。空の武器庫。戻って右へ。そこで彼女は足を止めた。

「同じ場所だ」

「間違えたか」とバルド。

「私は道で飯を食ってる。あんたは人を斬って飯を食ってた。仕事の話は慎重にしよう」

 壁には、先ほどリネが爪でつけた傷があった。だが地図の上では、あり得ない位置だった。

 廊下が動いたのではない。

 記憶のほうが書き換えられている。

 ハルムが名簿を開いた。

「声に出して確かめよう。ここにいるのは六人。オタト、ネア、リネ、フェド、ハルム、バルド」

 名前が呼ばれるたび、廊下の壁がわずかに震えた。

「迷宮が聞いてる」とネア。

「なら、偽名を使えばいい」

 オタトが提案すると、ハルムは首を振った。

「偽名は嘘ではない。名乗った瞬間から、その者の一部になる。ここでは余計な顔を増やすだけだ」

 そのとき、背後の寝台が軋んだ。

 一つではない。二十、三十。

 石の寝台から、錆びた鎧が起き上がっていた。中身は空だ。兜の隙間には闇しかなく、胸には削り取られた名札の跡がある。

 バルドが大剣を抜いた。

「無名兵の原型だ」

 鎧の群れが一斉に走り出した。

 ネアの矢が最初の兜を貫いた。空のはずなのに黒い血が吹き、後続の足を滑らせる。オタトは低く潜って膝裏を断ち、倒れた一体を踏み台にして二体目の喉へ刃を差し込んだ。

 だが斬っても、鎧は止まらない。

「胸だ!」とバルドが叫ぶ。「名札の跡を壊せ!」

 大剣の横薙ぎが三体の胸甲をまとめて砕いた。黒い霧が噴き出し、鎧が崩れる。

 リネは戦わなかった。壁際を走り、床を蹴り、寝台の下に手を突っ込んだ。

「見つけた!」

 石床から一本の鎖を引き出す。

 しかし鎖の先には、小さな鐘がついていた。

「待て、それは――」

 フェドの制止より早く、鐘が鳴った。

 音は廊下ではなく、全員の頭蓋の内側で響いた。

 オタトは一瞬、自分がなぜ剣を握っているのか忘れた。

 目の前の鎧が何なのかも、隣で弓を射ている女が誰なのかも。

「名を言え!」

 ハルムの声が暗闇を裂いた。

「自分の名を言え!」

「オタト!」

 叫ぶと、胸の奥に杭が打ち込まれたような痛みが走った。だが視界が戻った。

「ネア!」

「リネ!」

「フェド!」

「バルド!」

 五つの声。

 ハルム自身の名だけが聞こえない。

 老僧は鎧に組みつかれ、喉を締め上げられていた。オタトが駆け寄るより先に、ネアの矢が鎧の胸を射抜く。バルドが老僧を引きずり出した。

「……ハルム」

 咳き込みながら、彼はようやく名乗った。

 鐘の音が消えた。

 残っていた鎧が、糸を切られたように崩れ落ちる。

 床の中央に、下へ続く階段が現れた。

 リネは鐘を睨んだ。

「罠が正解だったらしい」

「次からは鳴らす前に相談しろ」とフェド。

「次があると思ってるなら、あんたは楽観的だね」

 オタトは刃についた黒い血を拭い、人数を数えた。

 六人。

 まだ、六人いた。

四 第二層 骨の市場

 第二層には、町があった。

 天井まで続く石柱の間に、乾いた噴水、崩れた店、吊り看板、共同井戸が並んでいる。地下に築かれたのではない。地上にあった町が、何らかの力で丸ごと沈められたのだ。

 路地の先では、青白い風が川のように流れていた。

 風に触れた紙片が、古い鳥の群れとなって舞い上がる。店先の壺からは、誰もいないのに香辛料の匂いがした。遠くで子どもの笑い声が聞こえ、すぐに石の軋みに変わった。

「人の記憶が残ってる」とハルムが言った。「町ではなく、町を覚えている何かだ」

 広場の中央に、六つの石像が立っていた。

 剣士、射手、鍵師、術師、僧侶、騎士。

 顔まで、オタトたちに似ている。

 像の足元には古代文字が刻まれていた。

 ――役目を選べ。

 ――役目は名より古く、死より長い。

「気に入らないな」とネア。

 リネは石像の台座を調べた。

「広場を出る道は六つ。たぶん一人ずつ、自分の像の前を通れってことだ」

「拒んだら?」

「こういう場所は、拒否した人の記録を親切に残さない」

 六人は分かれ、それぞれの像の前へ進んだ。

 オタトが剣士像に近づくと、石の顔が兄のものに変わった。

 ――お前は伝令だ。

 唇が動かないまま、声がした。

 ――命令を運ぶ者。命令を作る者ではない。

 オタトの足が止まる。

 兄はいつもそう言った。速く走れ。余計なことを考えるな。剣は最後に抜け。命令は疑うな。

 王都脱出の日、兄は北門を守れという命令に従い、死んだ。

「俺はオタトだ」

 彼は像に言った。

「伝令は仕事だ。俺の全部じゃない」

 兄の顔に亀裂が走り、像は元の無貌へ戻った。

 隣ではネアが、故郷の族長らしい老人の幻影を睨んでいた。

「女は峰を継げない? だったら峰のほうを降りてこさせな」

 矢尻で像の額を叩く。

 リネは自分そっくりの鍵師像に財布を盗まれ、怒鳴りながら取り返した。フェドは師匠の幻に術の才能を否定され、「だから道具を使うんだ」と硝子管を振ってみせた。

 ハルムだけは、像の前で長く黙っていた。

 僧侶像は若い女の顔をしていた。彼の娘なのだと、オタトにはなぜか分かった。

 帝国軍がハルムの村を焼いたとき、娘の遺体は見つからなかった。名簿の最初の頁には、ただ一つ、死亡の印がついていない名前がある。

「父親であることは、役目ではない」

 ハルムは静かに言った。

「だが、捨てられる役目でもない。私は娘を探している。死者の名を集めるのは、その途中だ」

 像は何も答えず、砂になった。

 最後に、バルドの前の騎士像が動いた。

 顔はレヴァン将軍だった。

 銀髪を短く刈り、左頬に剣傷がある。帝国の紋章を胸に、剣を杖のように立てている。

 ――百人隊長バルド。命令違反、軍資産の損壊、被験体十二名の逃亡を幇助。

「九人は生きている」とバルド。

 ――三人は死んだ。

「知っている」

 ――ならば、なぜ胸を張る。

 バルドは答えなかった。

 騎士像の剣が動く。

 石とは思えない速さだった。バルドは大剣で受けたが、膝まで地面に沈んだ。二撃、三撃。広場に火花が散る。

「手を貸す!」

 オタトが走ろうとすると、足元の文字が赤く光った。

 ――役目は一人で負え。

「馬鹿な規則だ」

 オタトは構わず線を越えた。

 広場全体が震えた。残り五体の石像が一斉に武器を構える。

「だから相談しろって言ったろ!」フェドが叫ぶ。

「相談したら止めただろ!」

「当然だ!」

 戦いは短く、ひどく乱雑だった。

 ネアは射手像の矢を柱の陰へ誘い、跳ね返った矢をそのまま敵の眼へ通した。リネは鍵師像の足首に工具の鎖を絡め、噴水へ落とした。ハルムが祈りで骨の市場に残る記憶を鎮め、フェドは黄色い硝子管を割った。

 残り五本。

 雷が広場を走り、六体の像を硬直させる。

 オタトとバルドは同時に踏み込んだ。

 短剣がレヴァン像の脇腹へ刺さり、大剣が胸を砕く。

 石像は崩れながら、バルドにだけ聞こえる声で何かを囁いた。

 バルドの顔色が変わった。

「何を言われた?」

「下で待つ、と」

 本物のレヴァン将軍は、すでに彼らより先へ進んでいる。

 広場の六つの道が一つに重なり、地下へ降りる坂になった。

 坂の奥から、水音が聞こえた。

五 第三層 忘却の川

 川は黒かった。

 幅は二十歩ほど。水面は鏡のように静かで、フェドの光鳥さえ映さない。対岸には金色の扉があり、中央に六つの手形が並んでいる。

 橋も舟もない。

 川岸には、帝国兵の死体が三体転がっていた。一体は若い女、一体は片腕の男、もう一体は少年と言ってよい年齢だった。傷はない。全員、穏やかな顔で死んでいる。

 胸の名札だけが、白く焼けていた。

 バルドが膝をつき、女兵士の瞼を閉じた。

「先遣隊だ。レヴァンは部下を試しに使った」

「この川に触れると死ぬ?」とネア。

 ハルムは水際に名簿の端を近づけた。

 紙に書かれた文字が、墨の煙になって水へ吸い込まれた。

 彼は慌てて本を引いた。頁の端から三十人分の名が消えている。

「命ではない。名前を食う川だ」

「名前を失ったら、あの兵士みたいになる」

「おそらく。肉体は生きていても、自分へ戻る道がなくなる」

 リネは壁、床、天井を調べたが、仕掛けは見つからなかった。金色の扉には古代文字が浮かび上がる。

 ――ひとつの名を、みずから差し出せ。

 ――残る者に道を与える。

「一人、無名になれって?」

 ネアの声が低くなる。

「別の方法を探す」とオタト。

「時間がない」とバルド。

「だからって誰かを捨てるのか」

「捨てるのではない。選ぶ必要があると言っている」

「選ばれる側が言えよ」

 大剣の柄に、バルドの手がかかった。

 オタトも短剣へ手を伸ばす。

「二人とも、武器を置け」

 ハルムが言った。

 老僧は名簿を閉じ、背から降ろした。それをオタトへ押しつける。

「私が行く」

「駄目だ」

「聞きなさい。私は年を取った。戦えぬという意味ではない。長く生きたぶん、名が一つでできていないという意味だ」

 ハルムは微笑んだ。

「父。夫。僧。記録係。臆病者。頑固者。娘を諦められぬ愚か者。どれかを川が食べても、少しは残るかもしれない」

「残らなかったら?」

「そのときは、君たちが覚えていればよい」

 彼はオタトの返事を待たず、黒い水へ足を入れた。

 波紋が広がる。

「ハルム!」

 オタトが名を呼ぶと、老僧の輪郭から白い光が剥がれた。

 川の上に、石の足場が一つ現れる。

 もう一歩。

 ――ハルム。

 その名が、オタトの記憶の中で遠ざかった。

 老僧は何者だったか。いつから同行していたか。なぜ自分は重い名簿を抱えているのか。

 もう一歩。

 足場が増える。

 ネアが泣きながら何かを叫んでいる。だが、誰の名を呼んでいるのか分からない。

 もう一歩。

 白髭の男の顔がぼやけた。

「忘れるな!」

 男は川の中央で振り返った。

「名ではなく、したことを覚えろ!」

 最後の一歩。

 対岸まで石の道がつながった。

 そこには誰もいなかった。

 六人分の荷物があり、五人が立っていた。

 オタトは自分の腕の中にある名簿を見た。表紙の裏に、見覚えのない筆跡で一文が書かれている。

 ――死者が思い出せないから、私たちが覚える。

「誰が書いた?」とリネ。

 誰も答えられなかった。

 金色の扉に、六つの手形がある。

 五人が手を当てても、一つ足りない。

 そのとき名簿がひとりでに開き、白い頁が風にめくれた。紙から淡い手の形が伸び、最後の窪みに触れる。

 扉が開いた。

 オタトは理由も分からず、名簿を強く抱いた。

 五人は川を渡った。

 振り返ると、石の足場はもうなかった。

六 第四層 逆さの空

 扉の向こうには、空があった。

 地下深くにいるはずなのに、頭上には青空が広がり、白い雲が流れている。足元には都市が逆さに吊られていた。尖塔の先が下を向き、橋が空中で輪を描き、水路の水は重力に逆らって上へ流れている。

 中央には、巨大な風車のような塔が浮かんでいた。

 塔の羽根は止まっている。

 しかし都市全体を巡る透明な管の中を、青い光が脈打っていた。

「古代都市セイル……」

 フェドが息を呑んだ。

「沈んだんじゃない。空を裏返して隠したんだ」

 足場の先には、細い石の軌道が塔まで伸びていた。軌道上には翼のついた小舟が置かれている。五人が乗ると、舟は重みを確かめるように沈み、やがて青い風を噴いた。

「操縦桿がない」とバルド。

「走り出してから言わないで!」

 リネの悲鳴と同時に、舟が射出された。

 逆さの街が流れていく。

 尖塔と尖塔の間を抜け、上へ落ちる滝をくぐり、崩れた橋を飛び越える。青い風が頬を切り、オタトの髪を後ろへ引いた。

 一瞬だけ、戦争も、包囲も、失った誰かのことも忘れた。

 世界にはまだ、見たことのない景色がある。

 その事実が、胸を痛いほど膨らませた。

「右から来る!」

 ネアが叫んだ。

 別の軌道を、黒い舟が並走していた。帝国兵が六人。先頭に立つ銀髪の男は、石像で見た顔をしている。

 レヴァン将軍。

「遅かったな、バルド!」

 風の中でも、その声は鋼のように届いた。

 将軍が腕を振ると、帝国兵が鉤縄を投げた。三本がこちらの舟へ食い込み、二隻の距離が縮まる。

 矢が飛んだ。

 ネアは身を反らして避け、空中で一射を返した。敵の射手が肩を貫かれ、逆さの街へ落ちていく。落下した体は途中で重力の向きを変え、空へ吸い込まれて見えなくなった。

 オタトは鉤縄を一本切った。二本目に刃を入れたところで、帝国兵が綱を伝って飛び移ってくる。

 狭い舟の上で剣がぶつかった。

 リネは床へ伏せたまま、工具で舟の側板を開けた。

「何をしてる!」

「壊せば止まるかと思って!」

「止まったら落ちるぞ!」

「じゃあ速くする!」

 彼女が青い管を二本つなぐと、舟が爆発的に加速した。

 乗り移りかけていた兵士が振り落とされる。残った鉤縄がぴんと張り、敵船まで引きずられた。二隻は尖塔の間へ突っ込んでいく。

「伏せろ!」

 バルドの大剣が鉤縄をまとめて断った。

 こちらの舟は塔の左をすり抜ける。

 帝国の舟は曲がりきれず、石壁へ激突した。

 兵士が投げ出される中、レヴァンだけが跳んだ。

 彼は壁面から突き出た旗竿を蹴り、次の橋へ着地した。人間離れした動きだった。左腕には、青い光を放つ金属環が巻かれている。

「暁炉の欠片だ」とバルド。「あれで自分の身体から恐怖を消している」

「恐怖だけ?」とオタト。

 バルドは答えなかった。

 舟は中央塔へ吸い込まれた。

 着床した瞬間、フェドの光鳥が消えた。

 残りの硝子管は五本。

 塔の内部で、朝のような光が彼らを待っていた。

七 暁炉

 塔の中心には、巨大な輪が浮いていた。

 輪は幾重にも重なり、その内側を無数の文字が流れている。読めるものもあった。人名だ。古代人の名、今の国々の名、帝国式の名、山国の名。男、女、子ども。死者、生者。

 何百万もの名が、光の川となって輪を巡っていた。

 その下に、一人の少女が立っていた。

 白い服。裸足。髪は水のように透き通っている。

「六名での入場を確認」

 少女は言った。

「現在、五名を視認。一名は自発的に登録を放棄。規約により、同行権のみ継続しています」

「あなたは誰?」とネア。

「私は暁炉の案内人格。呼称はアサ。都市セイルの記憶保全と防衛を担当します」

「外の戦争を止めたい」

 オタトが進み出た。

「帝国の天蓋艦を落とせるか」

「可能です」

 アサはためらわず答えた。

「半径八十里の風圧を反転。空中構造物を地表へ固定。予測される死者、六千四百から一万二千」

 オタトの喉が乾いた。

 天蓋艦には帝国兵がいる。無名兵もいる。名を奪われただけの生者が、何千人も鎖に吊られている。

「王都を救うには?」

「周辺居住者の個体名を暁炉へ移管し、集団制御下に置きます。これにより戦闘、恐慌、反乱、略奪を停止。市民は生命活動を維持します」

「無名兵にするってことか」

「旧称です。セイルでは『静穏市民』と呼びました」

 フェドが乾いた笑いを漏らした。

「帝国は遺跡を盗んだんじゃない。真似しただけか」

 アサの背後に、都市の記憶が映し出された。

 かつてセイルは争いの絶えない都市だった。氏族の名、家の名、神の名を掲げて殺し合った。そこで支配者たちは、争いの原因を名前に求めた。

 名を炉へ預ければ、憎しみは消える。

 同時に、愛も、誇りも、約束も消えた。

 静かになった都市は、誰も修理を望まず、誰も子どもの未来を願わず、ゆっくりと滅びた。

 最後に残った技師たちは都市を裏返し、暁炉を封じた。

「名前が戦争を起こすんじゃない」とネア。「名前を旗にして、人が起こすんだ」

「同義です」とアサ。

「全然違う」

 背後で拍手が響いた。

 レヴァン将軍が塔へ入ってきた。

 軍装は裂けていたが、歩みは乱れていない。左腕の金属環から青い糸が伸び、暁炉へつながっている。

「古代人は結論までたどり着き、実行を恐れた」

 将軍は輪を見上げた。

「名は境界を作る。王国、部族、家族。私とお前。味方と敵。境界があるから奪い合う」

「だから全部、皇帝のものにするのか」とオタト。

「皇帝もいずれ名を捨てる。最後に残るのは秩序だけだ」

 バルドが大剣を抜いた。

「あなたは昔、兵に名を覚えろと言った」

「覚えている」

「百人を率いるなら、百人の名を呼べと。死なせる命令を出す者には、それが最低限の責任だと」

「だから疲れたのだ、バルド」

 レヴァンは初めて、ひどく老いた顔をした。

「千人、万人の名を覚えた。どの名にも母がいて、子がいて、帰る家があった。正しい命令など一つもなかった。ならば、名のほうをなくせばよい」

「責任をなくすためにか」

 バルドの声は静かだった。

「そうだ」

 レヴァンの金属環が輝いた。

 塔の床から、無数の透明な兵士が立ち上がる。古代セイルの守備兵。顔はなく、胸には空白の板がある。

「暁炉、管理権限を帝国代表レヴァンへ移せ」

「権限証明を確認」

 アサの瞳が青く光った。

「不足一件。起動には、入口で登録された六名分の同意が必要です」

 レヴァンはオタトたちを見た。

「だから先遣隊では開かなかったか。六人で入ったのは正しかったな」

 彼は剣を抜く。

「死者の指でも同意は取れる」

八 五人と一人

 透明な兵士たちが押し寄せた。

 ネアの矢は体をすり抜ける。オタトの短剣も手応えがない。兵士の槍だけが実体を持ち、床へ深い傷を刻んだ。

「胸の板!」

 バルドが叫ぶ。

 第一層の鎧と同じだった。

 オタトは槍をかいくぐり、透明な胸の空白を突く。刃が光へ食い込み、兵士は文字の粒になって消えた。

 だが数が多すぎる。

 フェドが赤砂の管を割った。

 残り四本。

 炎の壁が塔を横切り、守備兵の胸板をまとめて焼く。リネは床の溝へ工具を差し込み、輪を巡る光の流れを一部せき止めた。兵士たちの動きが鈍る。

 ネアが三本の矢を同時につがえた。

「オタト、伏せて!」

 矢は彼の頭上を越え、三体の胸を射抜いた。

 その向こうから、レヴァンが来る。

 オタトは短剣で受けた。

 一撃で刃が半ばまで欠けた。二撃目を避け、輪の支柱へ転がる。将軍は追わない。狙いはオタトではなく、青銅の名札だった。

 入口で文字を失った六枚は、いつの間にかそれぞれの胸元へ戻っていた。オタトの板には再び名が浮かんでいる。

 オタト。

「取られるな!」

 フェドが青砂の管を割る。

 残り三本。

 氷の鎖がレヴァンの足を床へ縫い止めた。だが左腕の金属環が光ると、将軍は自分の足首ごと感覚を切り捨てるように鎖を踏み砕いた。

 痛みも恐怖もない。

 その代わり、迷いもない。

 バルドが正面からぶつかった。

 二本の大剣が噛み合い、塔全体が鐘のように鳴る。

「行け!」

「どこへ!」オタトが叫ぶ。

「炉を止めろ。こいつは私が知っている」

「今のあれを知ってるようには見えない!」

「昔のあの人も、まだ中にいる」

 バルドは押し返しながら笑った。

「だから厄介なんだ」

 オタトたちは暁炉の輪へ走った。

 アサが両手を広げる。

「選択してください。一、帝国代表へ権限移管。二、周辺住民を静穏化。三、風圧反転による防衛。四、停止状態を維持」

「どれも駄目だ」とオタト。

「定義外です」

 リネは輪の基部を調べていた。

「選択肢を出す装置は、選択肢の外側を隠してる。たいてい鍵穴は裏にある」

 彼女は名札を一枚、細い隙間へ差し込んだ。

 輪の文字が乱れる。

「名が流れてる向きを逆にできる」

 フェドが気づいた。「炉へ集めるんじゃない。外へ返すんだ」

「結果は?」

「帝国の装置に囚われた名前も、ここから複製された術式なら共鳴して戻るかもしれない」

「かもしれない、か」

「詩人を将軍にするよりは、少しましだ」

 六つの挿入口が輪の基部に開いた。

 オタト、ネア、リネ、フェド、バルド。

 五枚の名札を入れる。

 一つ足りない。

 アサが告げる。

「登録放棄者の名札が必要です」

 オタトは名簿を開いた。

 頁の間から、文字のない青銅板が落ちた。

 誰のものか分からない。

 だが、手に取ると胸が痛んだ。

 白い髭。穏やかな声。川の上に現れた石の道。

 名ではなく、したことを覚えろ。

 オタトは空白の板を六つ目の挿入口へ差し込んだ。

 暁炉が悲鳴を上げた。

「無記名の同意を検出。個体識別不能。処理を中止――」

「続けろ!」

 リネが工具を押し込む。

「鍵が持ち主を分からないなら、誰にでも開くってことだ!」

 輪の回転が逆になる。

 流れていた何百万もの名前が、光の嵐となって塔から噴き出した。

 文字の風が逆さの都市を駆け抜け、地下の川を越え、墓地を突き抜け、包囲された王都へ昇っていく。

 遠くで天蓋艦の鎖が切れる音がした。

 無名兵たちが一人ずつ顔を取り戻す。

 母の名を叫ぶ者。

 自分の名を何度も確かめる者。

 命令を忘れ、泣き崩れる者。

 帝国軍の隊列が乱れた。

 暁炉の中では、透明な守備兵が次々と消えていく。

 レヴァンの左腕の環にも、光の亀裂が走った。

 将軍が初めて痛みに顔を歪める。

「バルド……」

 その声には、命令ではない響きがあった。

 バルドの剣が止まる。

「戻れます、将軍」

「何にだ」

「あなたの名に」

 レヴァンはしばらく彼を見た。

 やがて左腕の環を自ら剥ぎ取った。血が噴き出す。

 その瞬間、暁炉の輪が一つ外れた。

 巨大な金属環が傾き、塔の中心へ落ちる。

 レヴァンはバルドを突き飛ばした。

「部下を生かせ」

 輪が将軍を呑み込んだ。

 轟音。

 床が割れ、逆さの都市全体が揺れ始める。

 アサの姿が明滅した。

「記憶保全機能、停止。都市反転機構、崩壊。地表到達まで、推定四百二十秒」

「帰路用の術を!」とネア。

 フェドは残った三本の硝子管を見た。

「一つは風、一つは防壁、一つは……爆炎だ」

「帰りの一本は?」

「最初からそんな便利なものはない。士気のために嘘をついた」

 リネが彼の脛を蹴った。

「生きて帰ったら、もう一回蹴る」

「予定に入れておく」

 塔の向こうで、石の舟が砕け落ちた。

 出口までの軌道はない。

 代わりに、暁炉から放たれた名の風が、地上へ向かって吹き上がっていた。

 オタトは欠けた短剣を鞘へ戻した。

「風に乗る」

 バルドが割れた床の端を見下ろした。下には、逆さの尖塔と雲と、地上へ続く青い光の奔流がある。

「落ちれば死ぬ」

「ここにいても死ぬ」

 ネアが笑った。

「それなら、景色のいいほうだ」

九 風葬

 五人は塔から飛んだ。

 落下は一瞬だった。

 次の瞬間、名の風が体をつかみ、上へ投げた。上下が何度も入れ替わる。尖塔が迫り、ネアの矢が壁の飾りへ刺さる。全員を結んだ綱が張り、軌道が変わる。

「左!」

 リネが叫ぶ。

 崩れた橋の隙間を抜ける。背後で中央塔が折れ、巨大な輪が街へ降り注いだ。

 フェドが緑砂の管を割った。

 残り二本。

 風が翼になり、五人を押し上げる。

 忘却の川が見えた。

 黒い水は名の嵐に照らされ、無数の顔を映している。川岸に、白い服の誰かが立っていた気がした。

 オタトは手を伸ばした。

 誰に向けた手なのか、自分でも分からない。

 その人影は名簿へ手を添えるような仕草をし、静かに頭を下げた。

 風が強くなる。

 第二層の町を通り抜ける。石像の破片が空へ舞う。第一層の兵舎では、胸を砕かれた鎧の中から小さな光が飛び出し、一つずつ人の名になって風へ加わった。

 螺旋階段は崩れていた。

 頭上には墓地の石蓋だけがある。

「爆炎を使う!」

 フェドが赤砂の管を折った。

 残り一本。

 炎が石蓋を吹き飛ばす。

 夜空が開いた。

 五人は雨上がりの墓地へ放り出された。

 直後、地面が盛り上がり、古代都市セイルの尖塔が一本だけ地上へ突き出した。墓石が跳ね、土煙が王城の壁まで広がる。

 オタトは何度か転がって、兄の短剣を握ったまま止まった。

 空には夜明け前の薄明かりがあった。

 天蓋艦は落ちていない。

 代わりに、ゆっくりと降下していた。

 無名兵を吊っていた鎖が外され、甲板では帝国兵たちが混乱している。ある者は武器を捨て、ある者は互いの顔を見つめ、ある者はその場に座り込んだ。

 城壁の上から、自由軍の歓声が上がった。

 だがサラは攻撃命令を出さなかった。

 彼女は城門を開かせた。

 帝国兵を討つためではない。

 地上へ降りてくる者を受け入れるために。

 その朝、石冠帝国の包囲軍三万のうち、一万一千人が武器を置いた。

 残りは撤退した。

 戦争は終わらなかった。

 皇帝は健在で、帝国にはまだ七つの軍団と二十隻の天蓋艦があった。自由軍は一つの都市を守っただけだ。

 それでも、無名兵を作る機械はすべて沈黙した。

 奪われた名が戻ったことで、帝国各地の工場では反乱が起きた。兵士は命令書より家族の顔を選び、囚人は番号ではなく互いの名を呼んだ。

 夜明けは、勝利ではなかった。

 勝てるかもしれないという、最初の証拠だった。

十 名を持たない墓

 三日後、王城裏の共同墓地に新しい墓が建った。

 墓の下に遺体はない。

 石碑にも名はない。

 ただ、六枚の青銅板が埋め込まれている。

 オタト。

 ネア。

 リネ。

 フェド。

 バルド。

 最後の一枚は空白だった。

 サラは、その前で戦死者名簿をオタトへ返した。

「この本を書いた者を、誰も覚えていない」

「俺たちもです」

「だが筆跡は各地に残っている。三千四百二十一人分。帝国兵の名まである」

 オタトは表紙を撫でた。

 知らない人から受け取ったはずなのに、長い旅を共にした道具のように手になじんだ。

 リネは空白の名札の下へ、小さな文字を彫った。

 ――私たちに道をくれた人。

「これでいいのかな」とネア。

「名ではなく、したことを覚えろ」

 オタトは口にした。

 どこで聞いた言葉か分からない。

 けれど四人とも、なぜか頷いた。

 バルドは墓から少し離れた場所に立ち、東の空を見ていた。レヴァン将軍の遺体は見つからなかった。帝国の記録では反逆者、自由軍の記録では敵将のままだ。

「どちらで残す?」とオタトが尋ねた。

「両方だ」

 バルドは答えた。

「人は一つの名に収まらない。あの人に教わったことも、あの人が壊したものも、どちらも消してはいけない」

 フェドが最後の硝子管を陽に透かした。

 中には白砂が入っている。

「それ、何の術だったの?」とリネ。

「帰路用だ」

「嘘つき」

「本当だ。使わずに帰れたから、効いた」

 今度こそ、リネは彼の脛を蹴った。

 墓地に笑い声が広がった。

 そのとき、空白の名札の縁で、小さな風が鳴った。

 鈴のような音だった。

 オタトは振り返る。

 墓の向こうには、朝の王都がある。壊れた屋根を直す人々。帝国兵だった者へ水を渡す子ども。名前を尋ね合う声。失った名を墓石へ刻み直す金槌の音。

 戦争は続く。

 迷宮も、世界のどこかでまだ口を開けているだろう。

 古代の力を求める者も、名を奪えば人を支配できると考える者も、いなくはならない。

 だから彼らは、また剣を取り、地図を描き、術の砂を詰め、死者の名を書くだろう。

 勝つためだけではない。

 自分が誰であるかを、誰かに決めさせないために。

 東から吹いた風が、六枚の名札を一度に鳴らした。

 五つの名と、一つの空白。

 そのすべてが、確かに同じ朝を呼んでいた。

(了)