風葬の迷宮と九つの名
――オルド群島綺譚・読み切り――
一 西を忘れた鳥
カラト島では、死んだ鳥はみな西を向く。
漁師はそう言い、墓守もそう言い、学校の先生は迷信だと言いながら、窓辺で息絶えた小鳥のくちばしをこっそり西へ直した。
けれど、その夏の終わり、港の石段に落ちていた白鴎は北を向いていた。
「こいつ、方角をまちがえたんじゃないか」
ボロが棒の先で鳥をつつこうとして、サヤに手首を叩かれた。
「死んだものを道具でつつくな。夜、枕元に立たれるよ」
「鳥が?」
「鳥のうしろにいるものが」
ボロは棒を捨てた。冗談好きのくせに、怪談には弱い。
ニムはしゃがみ込み、白鴎を見た。目は薄い膜に覆われ、片方の翼は濡れた石に貼りついている。潮の匂いに混じって、乾いた薬草のような匂いがした。
西から風は吹いていなかった。
十七日もだ、とニムは数えていた。いつもなら夕方になると、沖の黒い島々を越えて西風が入り、漁網を鳴らし、家々の風鈴を一斉に歌わせる。それがぱたりとやんだ。海面は青い金属のように固く、帆船は港の外で動けず、死者を送る火葬舟も岸に繋がれたままだった。
「まただ」
エルカが言った。彼女は港の壁に貼られた新しい紙を見ていた。
赤い封蝋のついた立退命令書だった。
《北崖地区は、九月一日の鐘をもって閉鎖する。地盤沈下および海蝕の危険があるため、住民は南丘仮設区へ移転せよ。残存建築物は撤去する》
その下には役所の印と、工事を請け負う灰帆組の紋章――鉤のついた錨――が押されていた。
「あと三日」とサヤが言った。
「三日あれば、世界の一つや二つは救える」とボロが胸を張った。「たぶん」
エルカは笑わなかった。
北崖地区には、彼らの家があった。綱干し場があり、魚油臭い路地があり、夕方になると誰かの鍋から必ずスープをもらえる共同庭があった。子どもたちが秘密基地にしている廃浴場もあった。
崖が危ないのは本当だった。去年の冬には倉庫が一つ海へ落ちた。けれど住民を追い出したあと、灰帆組が崖の下を掘るらしいという噂があった。古い王朝の宝が埋まっている。いや、海賊の墓だ。いやいや、死者の国へ通じる階段だ。
大人たちは噂を笑ったが、灰帆組の頭領セルクは笑わなかった。彼はここ一月、役人と学匠を連れて北崖を測っていた。
ニムは白鴎をそっと抱き上げた。
そのとき、冷たいくちばしが動いた。
『下へ』
声は耳ではなく、歯の裏で響いた。
ニムは鳥を落とした。
「どうした?」エルカが振り向く。
白鴎は石段を二段転がり、今度はくちばしを真西へ向けて止まった。
「何でもない」
ニムは答えた。嘘だった。
死んだものの声を聞いたのは、これが初めてではなかった。
二 綱切り団、最後の集会
廃浴場は、百年前の地震で湯脈が途切れてから、魚網と壊れた樽の置き場になっていた。天井の丸窓は半分割れ、雨の日には湯船へ雫が落ちた。
四人は自分たちを「綱切り団」と呼んでいた。
由来は立派でも何でもない。七年前、港に繋がれた菓子売り船を見ようとして、ボロが係留綱を切り、船を沖へ流した。乗っていた四人は半日漂流し、帰ってから四家族分の大目玉を食らった。それ以来、何かまずいことが起きるたび、誰かが「また綱を切ったな」と言った。
浴場の壁には、四人で描いた島の地図がある。洞窟、見張り台、蜜柑畑、犬に追われた家、秘密の抜け道。正確さではエルカの地図にかなわないが、思い出の数ではどんな海図にも負けなかった。
「明日、母さんが南丘へ荷を運ぶって」とサヤが言った。「あそこじゃ舟が見えない」
「僕は叔父さんと本島へ行くかもしれない」とニムは言った。「学問院の寄宿舎に空きがあるって」
「自慢か?」ボロが言う。
「監獄に空きがあるのと同じだよ」
エルカは湯船の縁に座り、立退命令書を丸めていた。紙が細い棒になるほど強く。
「私の父さん、移転に賛成した」
皆が黙った。
エルカの父ハリオは北崖地区の世話役だった。誰よりも役所と争ってきた人だ。
「今朝、崖の割れ目を見たんだって。次の大潮で、三軒は落ちるかもしれないって」
「じゃあ、命令は正しいのか」とボロが言った。
「正しいことと、許せることは別」
エルカは紙の棒を折った。
「家を守れないなら、せめて秘密は渡さない。灰帆組が何を掘るつもりなのか、先に見つける」
「どうやって?」
「地図がある」
彼女は鞄から、油布に包まれた薄い板を出した。
板ではなかった。緑青の浮いた銅の筒を、縦に切り開いたものだった。表面に細い線で島の断面図が彫られている。北崖の下に、幾層もの通路と円形の部屋。いちばん深いところに、九つの扉を持つ塔。
ニムの喉が固くなった。
「どこで見つけた?」
「うちの屋根裏。父さんが柱を外したら、壁の中から落ちてきた。これも一緒に」
エルカは小さな革袋を渡した。中には青黒い石の鍵と、一通の手紙が入っていた。
封に書かれた文字を見て、ニムは息を止めた。
ニムへ。
母の字だった。
母アーラは六年前、西風の祭りの夜に消えた。海へ落ちたとも、島を出たとも言われた。遺体は見つからなかった。
ニムは手紙を開いた。
《ニム。あなたがこれを読むころ、私は帰れなくなっているかもしれない。
北崖の下には、古いイルンの町が眠っている。そこには金銀より危険な宝がある。人を呼び戻す宝。人を、人でなくする宝。
もし西風が止まり、死者が道を失ったなら、九扉の塔へ行きなさい。ただし一人では行かないこと。あなたを、あなたとして知る者と行きなさい。
青い鍵は三度しか使えない。
地下で誰かが私の名を名乗っても、信じないで。
そして、あなた自身が別の名を名乗り始めたら――友だちに頼みなさい。あなたを殴ってでも止めてもらうのです》
最後の一文の下に、急いで書き足した文字があった。
《宝を持ち帰ろうとしてはいけない。宝に、あなたを持ち帰らせないで》
「ずいぶん親切な手紙だな」とボロが言った。声が裏返っていた。「危険なもの、死者、殴れ。必要なことは全部書いてある」
「行くの?」サヤが訊いた。
ニムは銅板の地図を見た。通路の入口は、廃浴場の湯船の下に印されていた。
その瞬間、建物のどこかで、こつん、と音がした。
湯船の底からだった。
こつん。こつん。こつん。
内側から、誰かが叩いている。
四人は顔を見合わせた。
「三日あれば」とエルカが言った。「世界を一つくらい救えるんでしょう?」
ボロは青ざめたまま、胸を張り直した。
「もちろん。二つは言いすぎた」
三 湯船の下の海
湯船の排水口には、青い鍵がぴたりとはまった。
エルカが一度目を回すと、床の下で大きな石臼が動く音がした。湯船の底が二つに割れ、冷たい空気が吹き上がった。
下には螺旋階段があった。
夕方の干潮から、潮が戻るまで四時間。サヤは縄を腰に巻き、ランプを二つ持った。エルカは銅板の地図。ボロは工具袋と食料袋。ニムは青い鍵を首から下げた。
「何で食料袋のほうが大きいんだ」とサヤが言った。
「危険な地下では体力が大事だ」
「干し葡萄しか入ってない」
「干し葡萄には、危険を忘れさせる力がある」
階段は深かった。地上の音が消え、やがて壁に水滴の光だけが残った。
最下段には、煉瓦造りの水路が伸びていた。天井すれすれまで黒い水が満ち、石の縁に細い足場がある。壁には、魚の頭と人の足を持つものたちが描かれていた。どれも西へ向かって歩いている。
「古いイルン人は、死んだら魚になると思ってたのかな」とボロ。
「逆かも」とエルカ。「生きている間だけ、人の頭を借りてると思ってた」
「そういう話を地下でしないでくれ」
水路の途中には、三つの鐘が吊られていた。
銅板には《眠る門番を起こすな。鳴らすなら、いちばん低い鐘を二度》と刻まれている。
「いちばん低いって、音? 高さ?」ボロが囁いた。
三つの鐘は、吊られた位置も大きさも違う。いちばん下にある鐘は小さく、いちばん大きな鐘は高い位置にあった。
「罠だね」とサヤ。
「こういうときは、両方とも低い鐘を鳴らす」とボロは言った。「作ったやつの性格が悪くても、こちらがもっと性格悪ければ勝てる」
彼は大きな鐘を縄で引き下ろし、床すれすれにして二度鳴らした。
ぼうん。ぼうん。
低い音が水路を走った。
水面のあちこちに、黄色い目が開いた。
「起こしたじゃないか!」サヤが叫んだ。
「たぶん門番じゃない! 門番の餌だ!」
水から細長い首が次々に伸びた。鱗のない白い生き物で、口は縦に裂けている。
四人は走った。
足場は狭く、濡れていた。サヤが先頭で縄を引き、エルカが続き、ボロが干し葡萄をばらまきながら逃げる。
「食べるかもしれない!」
「もっとましな餌を出せ!」
「僕よりましだ!」
最後尾のニムの足首に、冷たいものが巻きついた。
白い首だった。
引かれ、膝をつく。水の中から縦長の口が開いた。
ニムは叫ぼうとした。
だが口から出たのは、自分の知らない言葉だった。
「イル・サローム。眠れ」
声は低く、年老いていた。
白い生き物たちは一斉に動きを止めた。黄色い目が閉じ、首が水へ沈んだ。
三人が戻ってきた。
「今の、何?」エルカが訊いた。
「わからない」
ニムは本当にわからなかった。
ただ、その言葉の意味だけは知っていた。
イルンの古語で、《骨を持たぬ門の子らよ》という意味だった。
そして、その言葉を知っている人物の名も。
ヴァロス・ナイ。
千年前、死者を閉じ込めた名匠。
ニムの母が、日記の中で「私たちの最も古い父」と呼んでいた男だった。
四 笑う錠前
水路の先に、石造りの広間があった。
床一面に、人の顔をした錠前が埋め込まれている。笑った顔、泣いた顔、怒った顔、眠った顔。広間の向こうには、鍵穴のない扉。
ボロは目を輝かせた。
「ついに僕の時代が来た」
「一歩も動かないで」とエルカ。
銅板の端に、細い文字があった。
《笑うものを踏め。笑わぬものを笑わせよ》
サヤが床を見渡す。
「笑っている錠前だけ踏んで進む?」
「途中で途切れてる」とエルカ。「向こうまで届かない」
ボロは工具袋から針金を出した。近くの泣き顔の錠前へ差し込み、内部を探る。
「古いけど、仕組みは単純だ。中の板ばねを――」
かちり。
泣き顔が、にやりと笑った。
同時に、壁から槍が飛び出した。
ボロの帽子が串刺しになった。
三人は息を呑み、ボロは頭を撫でた。
「知恵の代償としては安い」
「次からは帽子を十個かぶって」とサヤが言った。
笑顔の錠前を踏み、届かないところはボロが鍵を開ける。槍、落石、熱い蒸気。四人は這い、跳び、帽子を二つ失い、干し葡萄を半分焦がしながら進んだ。
広間の中央で、ニムは足を止めた。
床下から、囁き声がする。
『ニム』
母の声だった。
『右よ。右の怒った顔を踏んで』
ニムは右を見た。怒った錠前がある。
『急いで。あの子たちはあなたを置いていく』
「母さん?」
エルカが振り返った。
「何?」
声が途切れた。
ニムは左の笑顔を踏んだ。
その瞬間、床の怒った錠前がぱくりと開き、下に深い穴が現れた。もし声に従っていたら、落ちていた。
「聞こえたの?」エルカが小声で訊いた。
「母さんの声が」
「手紙に書いてあった。地下で名を名乗っても信じるなって」
「声まで偽物だとは書いてない」
「書く必要がある?」
エルカはニムの手を掴んだ。
「ここでは、一人で判断しない。そう約束して」
ニムは頷いた。
向こう岸へ渡ると、鍵のない扉が自動で開いた。
扉の先には、地下とは思えないほど広い空間があった。
黒い空。
石の家々。
乾いた運河。
天井から垂れ下がる水晶が、星のように青く光っている。
千年前に海へ沈んだはずの都イルンが、崖の下で丸ごと眠っていた。
そして街路の両側に、何千人もの人影が立っていた。
透き通った人影。
皆、顔を西へ向けている。
けれど西へ行く道がわからず、同じ場所に立ち尽くしていた。
五 死者の市
街へ足を踏み入れると、気温が下がった。
死者たちは四人を見なかった。老人も子どもも、兵士もパン屋も、半透明のまま西を向き、風を待っている。
家々の窓には生活の痕跡が残っていた。石の皿、織りかけの布、炭になった木の玩具。時が止まったのではない。時だけが先へ行き、人が置き去りにされたようだった。
「千年前の人たち?」ボロが囁く。
「それだけじゃない」とサヤが言った。
道端に、見覚えのある男が立っていた。三年前、嵐で死んだ船大工だ。少し先には、去年熱病で亡くなった薬草売りの老婆。二人とも西を向き、ぼんやりしている。
「島中の死者が集まってる」
エルカは銅板を広げた。地図の線が青く光り、遠くの塔を示した。
九扉の塔は、市の中央に立っていた。鐘楼ほどの高さだが、窓がない。壁に九つの扉が、縦横ばらばらに取りつけられている。地面から数十歩も上にある扉まであった。
その手前に、市場の跡があった。
石の屋台に、品物が並んでいる。
錆びない刃。中で雨が降っている瓶。まだ温かいパン。持ち主の顔を映す鏡。金貨の山。
「宝だ」とボロが言った。
金貨は拳ほど積まれ、どれも古王国の王冠印がある。一枚で漁船が買える。十枚あれば家が建つ。山全部なら、北崖の住民を何度でも救える。
ボロが手を伸ばす。
サヤが襟を掴んだ。
「手紙」
「一枚くらい」
「一枚から始まるんだよ、呪いは」
「呪いにも予算があるだろ」
そのとき、屋台の向こうから拍手が聞こえた。
「賢い娘だ」
黒い外套の男が現れた。
灰帆組の頭領セルクだった。大柄で、顎に鉄の輪を三つ下げている。後ろには部下が六人。さらに、白い学匠服を着た痩せた老人がいた。
ニムの叔父、オルダンだった。
「叔父さん」
「ニム。やはり来たか」
オルダンは驚きもせず答えた。彼はニムの父が死んでから、家に出入りし、古い言葉や系譜を教えてくれた。学問院へ行けと言ったのも彼だ。
「母さんの手紙を、壁に隠したのはあなた?」
「見つける時期を待っていた。西風が止まり、おまえの中の記憶が目覚める時期を」
セルクが笑った。
「感動の再会はあとだ。鍵を寄越せ」
部下たちが四人を囲んだ。
サヤは縄に手をかけたが、短剣を向けられて動けない。エルカは銅板を背中へ隠した。ボロは干し葡萄の袋を抱えたまま、降参の両手を上げた。
オルダンはニムの首から青い鍵を外した。
「おまえの母は、塔を閉じようとした。だが、塔は血筋の者にしか開けられない。彼女は入口までしか行けなかった」
「母さんはどこにいる?」
「塔の中だろう。生きているとは限らない」
ニムの胸の奥に、暗い水が満ちた。
「どうして僕を行かせた」
「おまえを行かせたのではない。呼んだのだ」
オルダンはニムの額に指を当てた。
「ヴァロス・ナイを」
触れられた瞬間、街が裏返った。
青い水晶の星。死者の列。友だちの顔。
そのすべてが遠ざかり、代わりに別の記憶が押し寄せた。
石の台に寝かされた男たち。
銀の針で開かれる頭蓋。
塩水に浮かぶ脳。
赤子の耳へ囁かれる古い名。
自分の死体を見下ろしながら、次の体へ移る感覚。
ニムは膝をついた。
『遅かったな』
頭の中で、老人が笑った。
『千年も待たせた』
六 ヴァロスの部屋
目を開けると、ニムは石の椅子に縛られていた。
円い部屋。壁一面の棚に、黒い瓶が並んでいる。瓶の中には、白い煙のようなものが渦巻いていた。
エルカ、サヤ、ボロも反対側で縛られている。灰帆組の部下が見張っていた。セルクとオルダンは、中央の石台で青い鍵を調べている。
「ニム」エルカが呼んだ。「聞こえる?」
「その名は、耳障りだ」
口が勝手に答えた。
自分の声なのに、自分の言葉ではなかった。
ニムは舌を噛んだ。血の味がした。
『抵抗するな』
ヴァロスの声が内側から囁く。
『おまえは私の末裔だ。私の血、私の記憶、私の帰還のために重ねられた器だ。千年の眠りが、今終わる』
「違う」
『何が違う? おまえが古語を知るのはなぜだ。おまえが死者を聞くのはなぜだ。おまえが母の夢を夢見るのはなぜだ』
ニムには答えられなかった。
オルダンが石台のくぼみへ鍵を置いた。青い光が走り、壁の一部が開いた。
奥は研究室だった。
ガラスの槽が並び、中には人の形をした影が浮かんでいる。子ども。老人。女。男。顔はどれもニムに似ていた。
エルカが息を呑む。
オルダンは恍惚とした声を出した。
「継ぎ身の間。伝承どおりだ」
壁には、ヴァロスの手記が刻まれていた。ニムの目は、読もうとしなくても意味を拾った。
《肉は舟、名は船頭、記憶は海である。舟を替え、船頭を移せば、人は死を越える》
《子らを各地へ送り、血の中へ鍵を隠す。何代を経ようと、私の名は私へ戻る》
サヤがニムを見た。
「見ないで」とニムは言おうとした。
口から出たのは笑い声だった。
「粗末な子孫たちだ。だが一人は使える」
ヴァロスがニムの目で、エルカを見た。
「地図の娘。縄を解け。おまえだけは生かしてやろう」
エルカは青ざめたが、目を逸らさなかった。
「ニムは、人にそんな言い方をしない」
「ニムなど、母親がつけた仮の音だ」
「それでも私たちは、その音であいつを見つけられる」
エルカは椅子ごと前へ倒れた。床に肩を打ちつけながら、縛られた手を靴の中へ滑らせる。細い刃を抜き、縄を切り始めた。
見張りが近づく。
ボロが突然叫んだ。
「火事だ!」
「地下でか?」
「じゃあ洪水!」
見張りが一瞬だけ振り向いた。
サヤが両足で男の膝を挟み、ひねった。悲鳴。男が倒れる。エルカは縄を切り、刃を投げた。ボロが受け取り、自分とサヤを解く。
セルクが短剣を抜いた。
「ガキども!」
ボロは干し葡萄の袋を投げつけた。
袋の中には、さっきの広間で拾っていた笑う錠前が入っていた。
「一枚から始まるんだろ、呪いは!」
錠前が床に落ち、口を開けた。
研究室中の瓶が一斉に笑った。
次の瞬間、棚が回転し、黒い瓶が雨のように落ちた。割れた瓶から白い煙が噴き出し、部屋いっぱいに人の声が渦巻く。
『返せ』
『私の名を返せ』
『ここはどこだ』
『風はまだか』
死者の声だった。
灰帆組の男たちは耳を塞ぎ、逃げ出した。セルクも罵声を吐きながら後退する。
オルダンだけは動かなかった。
「すばらしい」と彼は呟いた。「これだけの名を保存したのか」
ニムの縄が切られた。
サヤが腕を掴む。
「走るよ!」
だがニムの足は、石台へ向かった。
そこに青い鍵がある。
ヴァロスは鍵を取り、口元で微笑んだ。
「二度目だ」
鍵を石台の裏側へ差し込む。
床が割れ、九扉の塔へ続く橋が現れた。
七 名前を食べる風
橋は死者の市の上を横切っていた。
下には半透明の人々が集まり、塔へ向かって手を伸ばしている。橋の先で、塔のいちばん低い扉が開いていた。
ヴァロスはニムの体を歩かせる。
ニムは内側で叫び、指一本動かそうとした。けれど体は他人の服のように遠い。
後ろから、エルカたちが追ってくる。さらにセルクとオルダン。灰帆組の男たちは死者の声に怯え、戻ってこなかった。
「ニム!」サヤが叫ぶ。
ヴァロスは振り向き、古語を唱えた。
橋の両側から透明な腕が伸び、三人を掴んだ。
死者たちは苦しそうに口を開く。
『風を』
『西へ』
『帰りたい』
「彼らは私の壁を越えられない」とヴァロスが言う。「死は、名を奪う泥棒だ。私は名を保存した。忘却から守った。感謝されるべきだ」
ニムは内側で答えた。
(守ったんじゃない。閉じ込めた)
『同じことだ』
(違う。守るっていうのは、相手が出ていけることだ)
ヴァロスは笑った。
『子どもの言葉だ』
そのとき、死者の群れの中に一人の女が現れた。
濃い髪を短く切り、額に銀の傷がある。
母だった。
六年前のままの姿で、橋の下に立っている。
「ニム」
今度の声は、歯の裏ではなく、耳に届いた。
ヴァロスの足が止まった。
「アーラ。愚かな娘」
「あなたに娘と呼ばれる筋合いはない」
母は橋へ上がってきた。他の死者と違い、輪郭がはっきりしている。塔に近いほど、死者は生者に似て見えた。
ニムは叫んだ。
(母さん!)
けれど口は動かない。
母はニムの頬へ触れた。冷たくも温かくもない手だった。
「私が塔へ来たとき、ヴァロスはまだ眠っていた。私は壁を壊そうとした。でも鍵は、あなたの中にあった」
オルダンが追いついた。
「アーラ。おまえは死んだのか」
「六年前に」
ニムの胸が潰れた。
どこかで知っていた。墓がなくても、帰る足音がしなくても、待ち続けていた。
「なぜ知らせなかった」とオルダン。
「知らせる風がなかったから」
母は塔を見上げた。
「ヴァロスは、死者の深名を集め、この塔へ縫いつけた。名を奪われた死者は西へ行けず、生者の夢へ戻る。最近、塔の力が弱り、名が漏れ始めた。だからニムの中の記憶が目覚め、西風が止まった」
「壁を壊せば、知識も失われる」とオルダンが言った。「千年の術、王朝以前の言葉、病を治す秘密――」
「知識は、生きた者が学び直せばいい。死者を棚に並べる理由にはならない」
セルクが橋を渡りながら怒鳴った。
「風も名前もどうでもいい! 塔の宝庫を開けろ。契約はそうなっている」
「誰との契約?」エルカが訊いた。
「役所だ!」
「役所は、死者の王と契約したの?」
セルクは答えず、ニムへ短剣を向けた。
「鍵をよこせ」
ヴァロスは微笑んだ。
「欲深い男は嫌いではない。扱いやすい」
彼が古語を一語唱えると、セルクの影が立ち上がった。
影は本人の喉へ巻きつき、持ち上げた。セルクは足をばたつかせる。
「おまえの深名は、六歳のとき母親が井戸端で呼んだ。おまえは忘れたが、影は覚えている」
ニムはぞっとした。
ヴァロスは誰の中にも入り込める。名前さえあれば。
母がニムを見た。
「塔の最上部に、《風抜きの扉》がある。そこへ鍵を使えば、すべての名を解放できる」
「させぬ」とヴァロス。
「あなたではなく、ニムに話している」
「この体は私だ」
「いいえ」
母は静かに首を振った。
「記憶は人ではない。血も人ではない。名さえ、人の全部ではない」
その言葉に、ヴァロスが初めて怒った。
ニムの口が歪む。
「ならば何が人を人にする?」
母は、エルカとサヤとボロを見た。
「共に過ごした時間。自分で選んだ約束。そして、他人が覚えている、あなた自身も知らないあなた」
エルカが死者の腕を振りほどこうと、歯を食いしばった。
「聞いた、ニム?」
ニムは答えられない。
「私たちしか知らない、あんたの話をするから!」
エルカは叫んだ。
「七歳のとき、海へ流されて一番泣いたのはボロじゃなくてあんただった!」
「言うな!」と、ニムの口から声が出た。
自分の声だった。
ほんの一瞬。
サヤも叫ぶ。
「九歳の冬、私の舟を勝手に直して、左右の櫂を両方とも同じ側につけた!」
「善意だった!」
また自分の声。
ボロが続く。
「去年、エルカの誕生日に詩を書いたけど渡せなくて、僕に燃やせって頼んだ!」
「それは絶対に言うな!」
体の指が動いた。
ニムは青い鍵を握りしめた。
ヴァロスが内側で吠えた。
『黙れ! そのような些事が千年の記憶に勝るものか!』
(勝つんだよ)
ニムは思った。
(だって、あなたはそのどれも知らない)
母が微笑んだ。
「走って」
死者の腕がほどけた。
四人は塔へ駆けた。
八 九つの扉
塔の中には階段がなかった。
暗闇に、九つの扉が浮かんでいる。
一の扉には、赤子の泣き声。
二の扉には、波の音。
三の扉には、笑い声。
四の扉には、剣を打つ音。
五の扉には、祈り。
六の扉には、土を掘る音。
七の扉には、何も聞こえない。
八の扉には、ニムの母の声。
九の扉には、風の音。
だが九の扉は、塔の天井近くにあった。
「どうやって上がる?」サヤが見上げる。
エルカは銅板を広げた。塔の図の脇に、《扉は場所ではなく、順序である》とある。
「正しい順で開ければ、道になる」
「一から九?」ボロ。
「それなら書く必要がない」
ニムの頭の中で、ヴァロスが息を潜めている。彼は答えを知っている。だからこそ、ニムはその答えを使えない。
八の扉から母の声がした。
『ニム、こちらへ。私は生きている』
偽物だ。
それでも胸が引かれる。
ボロは扉に耳を当てた。
「これ、扉の向こうの音じゃない。僕たちの中の音を返してる」
「どういうこと?」サヤ。
「一は生まれた時。六は墓。九は死者の風。人生の順番じゃないか?」
「でも七は無音、八は母さん」
エルカがニムを見る。
「ニムにとっての順番なんだ」
ニムは扉を見上げた。
赤子。波。笑い。剣。祈り。墓。無音。母。風。
自分の記憶にあるもの。
自分の記憶にはないもの。
ヴァロスの記憶。
赤子の泣き声は、ニム自身の誕生ではない。ヴァロスが器へ名を植えつけた記憶だ。
剣は古王朝の戦。
祈りはヴァロスを神と崇めた者たち。
墓は何度も捨てた肉体。
無音は、死を拒んだ男の恐怖。
母の声は、ニムの記憶。
波と笑いも、ニムのもの。
「二から」とニムは言った。「僕の最初の記憶は、海の音」
二の扉を開ける。
向こうには部屋ではなく、石の足場が現れた。扉そのものが横倒しになり、宙に橋を作る。
「次は三。綱切り団ができた日の笑い声」
三の扉。さらに上へ。
「八。母さんが、僕の名を呼ぶ声」
八の扉を開けると、偽物の声は消えた。代わりに、幼い日の台所が見えた。母が魚を焦がし、二人で笑っている。
ニムは足を止めかけた。
エルカが背中を押した。
「帰りに思い出して」
次は一。
ヴァロスが植えた最初の記憶。
扉を開くと、石台の上の赤子が見えた。ヴァロスが耳元で深名を囁いている。
その赤子はニムではない。百人、千人と続いた祖先の一人。
「これは僕じゃない」
言葉にすると、記憶の力が弱まった。
四、五、六。
戦、崇拝、墓。
扉を開くたび、ヴァロスの人生が現れ、そして崩れた。偉業も残酷さも、永遠を望んだ孤独も。ニムはそれらを否定しなかった。ただ、自分のものではないと見分けた。
残るは七と九。
七の扉の前で、ヴァロスが再び体を掴んだ。
ニムの手が勝手に扉から離れる。
『開けるな』
老人の声が震えていた。
『その先には何もない』
(だから怖いのか)
『死後には何もない。名も記憶も消える。愛した者も、築いたものも、すべて無になる』
(わからないよ)
『わからぬから恐ろしいのだ!』
(うん。僕も怖い)
ニムは正直に思った。
(母さんをまた失うのが怖い。僕が僕でなくなるのも怖い。でも、怖いからって、みんなを閉じ込めていいわけじゃない)
七の扉へ手を伸ばす。
ヴァロスが全力で抗う。腕が震え、爪が手のひらへ食い込む。
エルカが手を重ねた。
サヤも。
ボロも。
四人で扉を押した。
七の扉が開く。
無音が流れ出した。
音がないのではない。音になる前の広さ。生まれる前と、死んだあとにあるかもしれない、名の届かない場所。
ヴァロスが悲鳴を上げた。
その声は細くなり、遠ざかり、やがて一人の怯えた男の声になった。
『消えたくない』
ニムは目を閉じた。
(消えるかどうかは、僕にはわからない。でも、あなたのしたことは終わらせる)
最後の九の扉が、手の届く高さへ降りてきた。
中央に青い鍵穴がある。
ニムは鍵を差し込んだ。
三度目。
回した。
九 風葬
最初に吹いた風は、地下の埃を動かすほど弱かった。
次に、塔の壁が鳴った。
低い唸りが市全体へ広がり、家々の窓が震え、乾いた運河の底から青い光が噴き上がった。
塔の外で、何千もの死者が顔を上げた。
西風が戻った。
それは海の匂いではなかった。遠い雨、知らない森、焼いたパン、古い衣服、乳児の髪、墓土。生きた者が別れのたびに覚えてきた、すべての匂いを含んでいた。
死者たちの輪郭がほどけ、光の糸になった。
船大工が笑った。
薬草売りの老婆が帽子を直した。
千年前の兵士が剣を置いた。
名を奪われていた子どもたちが、初めて自分の声で親を呼んだ。
彼らは西へ流れていく。
ニムの前に、母が立っていた。
「もう行くの」
「風が来たから」
「話したいことがたくさんある」
「私も」
母はニムの髪を撫でた。
「でも、話せなかった時間まで取り戻そうとすると、今ある時間を食べてしまう」
ニムは泣いた。
「僕の中に、ヴァロスの記憶が残ってる」
「残るでしょう。血の記憶も、怖い夢も。でも、それがあなたを決めるわけではない」
「どうすれば、僕でいられる?」
母は三人の友だちを見た。
「時々、自分で決める。時々、誰かに思い出させてもらう」
彼女はエルカへ向き直った。
「手紙を見つけてくれてありがとう」
「私が見つけたんじゃありません。たぶん、あなたが落としたんです」
「そうかもしれない」
母の輪郭が風にほどけ始めた。
「母さん」
「何?」
「僕の深名は?」
ヴァロスは深名で人を縛った。ニムは、自分の本当の名を知らなかった。
母は首を振った。
「私はつけなかった」
「名匠の家系なのに?」
「だからこそ。誰にも縛られないように」
「じゃあ、僕は本当は誰?」
母は笑った。
「それを決めるのは、長い仕事よ」
そして西風の中へ消えた。
ニムは空になった場所へ手を伸ばしたが、エルカがその手を握った。
塔が大きく揺れた。
「感動中に悪いけど」とボロが言った。「たぶん、ここ崩れる」
足元に亀裂が走った。
外でセルクの叫び声がする。
「宝庫が開いた! 金だ!」
四人は塔を飛び出した。
市場の屋台が崩れ、金貨が石畳へ流れ出している。セルクは上着を広げ、夢中で金を詰めていた。オルダンはヴァロスの手記を写そうと、壁にしがみついている。
「逃げろ!」ニムが叫んだ。「都が沈む!」
「あと少しだ!」オルダン。
地面が割れ、乾いた運河へ海水が噴き上がった。
サヤがオルダンの襟を掴み、引き倒す。直後、壁が崩れた。
「知識を失う!」オルダンが呻く。
「頭に入った分だけ持って帰れ!」サヤが怒鳴った。
セルクは金貨を抱え、橋へ走った。上着が重く、足が遅い。
市場の屋根が落ちる。
ニムとボロはセルクの腕を掴んだ。
「放せ! 金が!」
「放すのはそっち!」
セルクは迷った。
海水が膝まで来た。
彼は罵りながら上着を脱いだ。古い金貨は渦に飲まれた。
全員で橋を走る。
背後から、塔が倒れる音がした。九つの扉が空中へ放り出され、ひとつずつ光になって消える。
死者の市は水に沈み始めた。
だが、死者はもういなかった。
十 帰り道はいつも短い
来た道は、別の迷宮になっていた。
水路は満ち、笑う錠前の広間は半分崩れ、白い門の子らが泡の中を逃げ回っている。
「干潮が終わるまで、あとどれくらい?」ボロが息を切らす。
「終わった!」サヤ。
「そういう絶望的な情報は、少しずつ言ってくれ!」
水は腰まで上がった。
オルダンは足を痛め、セルクが肩を貸している。
「重いぞ、学匠」
「金貨を捨てたばかりだ。代わりに知識を運べ」
「知識はもっと軽くしろ」
笑う錠前の広間では、残った足場が沈みかけていた。
ボロが先へ飛び、錠前を次々に開ける。槍が水面を走り、蒸気が吹き、落石が天井を塞ぐ。
「右!」エルカが叫ぶ。
全員が右へ跳ぶ。左の床が崩れた。
最後の一列だけ、笑顔が途切れている。
向こう岸まで二歩。だが踏める錠前がない。
「僕が開ける」とボロ。
「時間がない」とサヤ。
ニムは床を見た。
ヴァロスの記憶が、仕掛けの構造を教えてくる。石の下の歯車。水圧で動く板。正しい古語。
使えばいい。
だが使うたび、ヴァロスが近づく気がする。
ニムは迷った。
「知ってるの?」エルカが訊く。
「たぶん」
「それ、ヴァロスの知識?」
「うん」
「じゃあ借りて、返せばいい」
「返せるかな」
「返せない本だってある。だからって一生読まないの?」
ニムは笑った。
古語を唱えた。
「イル・ヘン。笑えぬなら、口を閉じよ」
怒り顔と泣き顔の錠前が一斉に目を閉じ、平らな石になった。
全員が渡りきった直後、広間が沈んだ。
水路では、流れが逆巻いていた。螺旋階段の入口は遠く、泳ぐしかない。
サヤが縄を全員の腰へ結んだ。
「離れたら、引く。息が苦しくても暴れない。ボロ、荷物を捨てて」
「工具は命より大事だ」
「じゃあ命を捨てて」
ボロは泣く泣く工具袋を置いた。けれど干し葡萄の残りだけは胸へ入れた。
七人は水へ飛び込んだ。
闇。泡。冷たい流れ。
ニムは石壁に肩を打ち、方向を失った。誰かの足が顔に当たる。縄が強く引かれる。
息が切れる。
そのとき、白い門の子が一匹、目の前に現れた。
黄色い目。
縦に裂けた口。
ニムは身構えた。
生き物はニムの腕をくわえ、上へ引いた。
水面を割る。
螺旋階段の下だった。
サヤがニムを引き上げる。エルカ、ボロ、オルダン、セルクも次々に上がった。
最後に白い生き物が顔を出した。
ニムは古語で言った。
「ありがとう」
生き物は口を大きく開けた。笑ったのかもしれない。
そして水へ消えた。
螺旋階段を駆け上がる。
頭上に、浴場の丸窓が見えた。夜空。星。風。
最後の一人が湯船から転がり出ると同時に、底の扉が閉じた。
七人は濡れた床に倒れ、しばらく誰も動かなかった。
西風が割れた窓から吹き込み、浴場の古い風鈴を鳴らした。
ちりん。
ボロが胸から干し葡萄を出した。
海水を吸い、紫色の泥になっていた。
「世界を救ったあとのご馳走が」
サヤが笑い始めた。
エルカも。
ニムも笑った。
笑い声は浴場の丸天井に跳ね返り、何度も戻ってきた。
十一 灰帆組の契約
翌朝、西風は島中の旗をちぎれそうなほどはためかせた。
火葬舟は港を出て、長く待たされていた死者たちを西へ送った。白鴎はみな、海の向こうを向いた。
北崖では、地面の沈下が止まらなかった。地下の空洞へ海水が入り、家々の壁に亀裂が走った。
住民は本当に移らねばならなかった。
「結局、家は守れなかったね」とニムが言うと、エルカは崖の上から町を見下ろした。
「家は木と石だけじゃない。でも木と石も大事だから、悔しい」
灰帆組のセルクは、役所の前で一晩中怒鳴った。
彼が持ち帰ったものは金貨ではなく、上着の内側へ貼りついた一枚の石板だった。海水で泥を落とすと、古王朝の契約文が現れた。
《北崖および地下イルン市の地上権は、そこに居住し、風葬を守る共同体に属する。王、学匠、採掘者はこれを奪ってはならない》
末尾には、今も使われる王国法の元になった九つの印章があった。
オルダンが真贋を証明し、役所は立退命令の一部を撤回した。
危険な家は解体する。
だが土地を灰帆組へ渡さない。
移転先は南丘の仮設区ではなく、住民が選ぶ高台とする。
解体材は新しい家へ運ぶ。
費用は、地下採掘を前提に組まれていた工事予算から出す。
セルクは契約を失い、代わりに北崖移転工事の監督を命じられた。
「なぜ俺が」と彼は呻いた。
「地下から生きて戻った唯一の建設屋だから」と役人が答えた。
オルダンは学問院へ戻らなかった。
彼は廃浴場の隣に小さな学校を作り、覚えている限りのイルン語を書き残し始めた。ただし、死者の深名については一行も書かなかった。
「知識を軽くしたの?」サヤが訊くと、彼は苦い顔をした。
「持ち運べる重さにした」
ボロは水路に置いてきた工具を惜しみ、三日泣いた。その後、セルクから新しい工具一式をせしめた。
「命を助けた代金」と言ったが、実際には毎朝セルクの現場を手伝った。
サヤの家族は高台へ移った。新しい家から海は少ししか見えなかったので、彼女は屋根に見張り台を作った。
エルカの父は、北崖の古い家々を一軒ずつ測り、柱や窓の位置まで記した。エルカも手伝い、地図の余白に住民の話を書き込んだ。
ニムは本島の学問院へ行かなかった。
行かないと決めたのではない。今は行かないと決めた。
ヴァロスの記憶は残っていた。
夢の中で、知らない王の戴冠式を見る。
薬草の名を、古い発音で思い出す。
人の影を見ると、深名の輪郭が浮かぶこともある。
そんな時、ニムは名前を口にしなかった。
代わりに、友だちを呼んだ。
十二 新しい地図
冬の初め、北崖の最後の家が解体された。
廃浴場だけは残った。地下の入口は二度と開かなかったが、湯船の底へ耳を当てると、遠い波音がすることがある。
四人は浴場の壁から古い地図を外し、高台の新しい集会所へ運んだ。
紙は破れ、潮で波打ち、余白がほとんどない。
「新しいのを描こう」とエルカが言った。
「今度は正確に?」ニム。
「だいたい正確に」
新しい地図の中央に、四人は高台の家々を描いた。共同庭。見張り台。学校。セルクの資材置き場。犬に追われた坂。
北崖の跡は、空白にした。
「何か描かないの?」ボロが訊く。
「まだ決めない」とエルカ。
ニムは空白の西端に、小さな鳥を一羽描いた。
鳥は西を向いている。
「それ、何ていう鳥?」サヤ。
「名前はまだない」
「じゃあ、今つければ?」
ニムは少し考えた。
深名ではない。
縛るための名でもない。
呼べば、こちらを向いてくれるかもしれない、ただの呼び名。
「カエリドリ」
「帰ってくる鳥?」ボロが言った。
「帰っていく鳥」
窓の外で、西風が吹いた。
風は地図を持ち上げ、まだ描かれていない余白をふくらませた。
その余白は、失われた場所の形にも、これから行く場所の形にも見えた。
四人はしばらく黙っていた。
やがてボロが、新しい地図のいちばん下に大きく書いた。
《綱切り団の領土。立入自由。ただし、帰る場所を一つ持つこと》
エルカが字の間違いを直し、サヤが余計な飾りを消し、ニムが西向きの矢印を足した。
それから四人は、次の冒険について話し始めた。
西風は夜まで吹き続けた。
今度は誰も、それを止めようとはしなかった。
了