風葬の鐘喰い
死者の声は、土へ還れなかったとき、金属を食う。
それが鐘壁都市ラグナで最初に教わることだった。
だから人が死ぬと、舌の下へ白い砂を詰め、名を三度呼び、夜明けまでに骨を焼く。残った声が釘や刃に宿れば、やがて鉄は内側から泣き出し、持ち主の夢を食い破るからだ。
けれど、土そのものが死んでしまった世界では、声の行き先など、とうに残っていなかった。
カヤが風骸樹の根元で見つけた犬は、頭が六つあった。
正確には、犬の死骸ひとつに、六人分の顔が咲いていた。
灰色の毛皮を突き破って、老人、兵士、赤子、片目の女、歯のない男、そしてカヤと同じ年頃の少女の顔が、蕾のように並んでいる。六つの口はばらばらに動き、同じ言葉を繰り返していた。
「門を開けて」
「門を開けて」
「門を開けて」
頭上では、風骸樹の白い枝が空を覆っていた。樹皮は乾いた骨に似て、枝先から透きとおった袋が無数に垂れている。袋は風を吸うたび膨らみ、黒鉛霧を呑み込み、代わりに薄青い息を吐いた。
人間はその森を、墓荒らしの森と呼んだ。
森の生き物は、人間の捨てた毒と死者を餌にして育つ。
「六人前か」
カヤは背中の葬具を抜いた。
刃渡りは彼女の身長ほど。剣というには幅がありすぎ、斧というには薄すぎる。黒い刀身の根元に青銅の鐘が埋め込まれ、その鐘には、人間の歯を思わせる白い突起がぐるりと生えていた。
『朝飯には重いな』
鐘の奥から男の声がした。
「夜明けは三時間前よ、ヴァル」
『俺に太陽は見えん』
「目もないものね」
『おまえの背中の汗ならよく見える』
「斬るわよ」
『俺で?』
六つ頭の犬が跳んだ。
カヤは一歩踏み込み、葬具ヴァルを横薙ぎに振った。刃は肉ではなく、犬の周りにまとわりつく薄い膜を裂いた。耳には聞こえない悲鳴が、骨の裏側を震わせる。
犬の顔がいっせいに口を開いた。
老人は火を恐れ、兵士は命令を呪い、赤子は母を探し、女は水を欲し、男は謝罪を拒み、少女は門を叩き続けていた。
残響。
死に際の感情が毒霧と混じり、生き物へ寄生したものだ。
「名を言え!」
カヤは叫んだ。
六つの口が歪み、六つの名を吐き出す。
ヴァルの鐘が鳴った。
音は低く、飢えた獣の喉に似ていた。名を得た残響が刃へ吸い込まれ、白い歯のひとつひとつが淡く光る。
犬は崩れた。
ただの痩せた獣の死骸へ戻り、灰の上に横たわった。
『まずい』
ヴァルが言った。
「死者に味を求めないで」
『後悔ばかりだ。塩気が足りん』
カヤは刃についた黒い露を布で拭った。
六つの名のうち、少女の名だけが耳に残っていた。
リネ。
十年前、鐘壁都市の南門が閉ざされた夜、門外に取り残された避難民の名簿にあった名だ。
当時、森の拡大を恐れた評議会は、三千人を壁の外へ置き去りにした。カヤの母も、その一人だった。
『また、その顔だ』
「どの顔」
『自分だけが生き残ったことを、誰かに謝りたがってる顔』
カヤはヴァルを背へ戻した。
「武器のくせに、よく喋る」
『人間だったころ、黙りすぎた反動だ』
白い枝の向こうで、ラグナの大鐘が三度鳴った。
召集の音だった。
鐘壁都市ラグナは、十二の塔と十二の門を持つ円形都市だった。
壁には大小四千の鐘が埋め込まれ、黒鉛霧が近づくと、自動的に鳴って空気を震わせる。その振動が毒を外へ押し返し、壁の内側だけに人間の肺で吸える空を作っていた。
かつては十万人が暮らしたという。
今は、三万人。
風骸樹の森は毎年、壁へ二百歩ずつ近づいている。
中央塔の最上階で、カヤは評議長ノイスと向かい合った。
ノイスは老いていたが、皮膚だけは蝋のように滑らかだった。肺を銀の袋に置き換え、血を濾過する虫を胸骨の中で飼っていると噂されている。
彼の後ろには巨大な都市模型があり、白い根が南壁へ食い込む様子が、細い骨細工で再現されていた。
「猶予は七日だ」
ノイスは言った。
「第九根脈が壁の基礎へ達する。放置すれば、南半分が崩れる」
「焼けばいい」
カヤは答えた。
「焼いた。三度な。火は根の奥へ届かず、煙で百二十人が死んだ」
「なら毒を」
「森は毒を食う」
ノイスは模型の中心を指した。
森の奥深く、白い針のような山が立っている。その頂に、翼を広げた虫の模型が置かれていた。
「白翅の母だ」
風骸樹の種を運ぶ巨大生物。
百年に一度、森が新たな土地へ移るとき現れるという。
「母虫が根へ命令している。殺せば森の進行は止まる」
「誰が確かめたの」
「学匠院だ」
「森へ入れない学者たちが?」
ノイスの目がわずかに細くなった。
「だから、おまえを行かせる」
卓上へ、小さなガラス瓶が置かれた。
中には金色の液体が一滴だけ揺れている。
「陽肺液。黒鉛病の末期にも効く」
カヤの指が止まった。
西区の療養院で、弟のヒリュドは一年近く眠っている。肺の半分が石のように固まり、医師は次の冬を越せないと言った。
「核を持ち帰れば、これを渡す」
『ずいぶん親切だな』
背中のヴァルが呟いた。
ノイスの護衛たちが一斉に剣へ手を伸ばす。
カヤは肩をすくめた。
「この葬具は独り言が多いの」
「武器に喋らせるな。声は使うものだ。従うものではない」
ノイスの声には、嫌悪があった。
ヴァルはそれ以上喋らなかった。
「案内役をつける」
扉が開き、細身の少年が連れてこられた。
年は十五、六。髪は白く、首から頬へ青い鱗が散っている。胸元の皮膚は薄く透け、その下で小さな翅を持つ虫が何匹も鼓動していた。
「森棲みか」
カヤは眉を寄せた。
少年は笑った。
「壁棲みは、初対面でいつもそれを言う」
「名は」
「ノディド」
「罪状は?」
「呼吸」
護衛が少年の後頭部を殴った。
ノディドは床へ膝をついたが、笑みを消さなかった。
ノイスは淡々と言った。
「森の民は毒霧の中でも生きる。白翅の母の巣までの道を知っている。任務を終えれば、彼も解放する」
『約束が二つ。どちらも安い音がする』
ヴァルの囁きは、今度はカヤにしか聞こえなかった。
その夜、カヤは療養院へ行った。
ヒリュドは硝子の覆いの中で眠っていた。
十三歳になったはずだが、身体は十歳のころからほとんど育っていない。唇は青く、呼吸のたび、胸の奥で砂を擦るような音がした。
カヤは硝子へ額を当てた。
「母さんを置いてきたのは、私よ」
眠る弟へ、何度も言った言葉を繰り返す。
「おまえじゃない。だから、もう少し待って」
『あいつは、おまえを責めてない』
「聞いたの?」
『寝言をな』
「武器が病室に入るのは禁止よ」
『俺はおまえの背骨扱いだろう。門番がそう言ってた』
カヤは少しだけ笑った。
ヴァルは三年前まで、人間だった。
本名はヴァレン。
南区の鐘鋳師で、カヤより五つ年上。母を失った後、路地で飢えていた姉弟へ、焦げたパンを半分ずつ分けた男だった。
黒鉛病に侵され、死を待つだけになったとき、彼は自分の声と骨を葬具へ変える契約を結んだ。
百の残響を食えば、人へ戻れる。
鋳師たちはそう約束した。
今、ヴァルの歯は九十九本、光っている。
あとひとつ。
白翅の母ほど強い残響なら、十分すぎるはずだった。
「帰ったら」
カヤは硝子の向こうの弟へ言った。
「三人で、壁の外へ行こう。毒のない土地を探す」
『俺を人数に入れるなら、酒も一人分だ』
「人に戻ってから言って」
『戻ったら最初に何を食うかな』
「死者以外なら何でもいいでしょ」
『梨だ』
ヴァルは即答した。
『黄色くて、柔らかいやつ』
ラグナに梨はない。
最後の果樹園は、カヤが生まれる前に枯れた。
「見つかるわよ」
カヤは言った。
「世界のどこかには」
その嘘を、ヴァルは指摘しなかった。
翌朝、カヤとノディドは南門を出た。
門が閉じる瞬間、カヤは十年前の音を思い出した。
鉄鎖が巻き上がる音。
母の手が離れた感触。
門の向こうから響く、三千人の拳。
開けて。
門を開けて。
「震えてる」
ノディドが言った。
「寒いだけ」
「今日は二十八度ある」
「森の民は温度まで嫌味なの?」
「壁の民は嘘が下手だね」
カヤは少年の縄を切った。
「逃げたら斬る」
「縛られたままだと案内できない」
「だから切ったの」
「逃げないよ。森は僕を逃げたとは思わない」
「どういう意味」
ノディドは答えず、白い木々の間へ入った。
森の内側は、外から見るより明るかった。
風骸樹の袋が毒を吸うたび、青白い光を放つ。地面には硝子質の苔が広がり、踏むと遠くの苔まで波のように明滅した。羽根の代わりに薄い葉を持つ虫が群れ、枝から枝へ風を運んでいる。
死んだ森ではなかった。
異なる仕方で、生きすぎている森だった。
「木に触らないで」
ノディドが言った。
「毒がある?」
「記憶がある」
彼は根元に手を置いた。
胸の虫が一斉に翅を開く。
風骸樹の袋が鳴り、かすかな声が降ってきた。
水を。
母さん。
まだ死にたくない。
帰りたい。
カヤは反射的にヴァルへ手を伸ばした。
『抜くな』
ヴァルが言った。
『敵じゃない』
「残響よ」
『違う。これは食われてない。ただ、預けられてる』
ノディドは木から手を離した。
「風骸樹は、土へ帰れない声を根に集める。そして毒と一緒に、長い時間をかけてほどく」
「そんな話、聞いたことがない」
「壁は森の話を聞かない。森も壁の鐘がうるさくて、壁の話を聞けない」
カヤは白い枝を見上げた。
そこには、母の声もあるのだろうか。
考える前に、地面が揺れた。
苔の光が一斉に消える。
前方の木々が倒れ、黒い甲殻の獣が現れた。
馬ほどの体。脚は八本。頭には人間の仮面に似た白い殻をつけ、口から錆びた鎖を垂らしている。
「伏せろ!」
カヤはヴァルを抜いた。
獣が鎖を吐く。
刃で弾くと、火花ではなく声が散った。
助けて。
寒い。
殺せ。
『こいつは残響だ!』
「見れば分かる!」
カヤは鎖を踏み、獣の懐へ走った。仮面の額に刃を突き立てる。鐘が鳴り、白い殻へ亀裂が走った。
中から、人間の腕が何十本も伸びた。
カヤの手首、首、腰を掴む。
すべて左手だった。
腕には同じ焼印がある。
ラグナ鉱務院。
「待って!」
ノディドが叫んだ。
「それは森の生き物じゃない!」
獣の腹が裂け、黒い石炭の塊がこぼれた。塊には鉄管が刺さり、ラグナの工房印が刻まれている。
廃棄された鉱炉心。
都市が森へ捨てた毒を食べ、死者の声を吸って怪物になったものだった。
獣がカヤを押し潰そうと身を起こす。
『右へ三歩』
ヴァルが言った。
カヤは従った。
『振り返るな。刃を逆手。俺を落とせ』
「落とす?」
『信じろ』
手を開く。
ヴァルは地へ落ち、鐘の重みで刃先が跳ねた。跳ね上がった刃が獣の腹を下から割り、炉心を真っ二つにした。
声の腕がほどけて、空へ昇った。
獣は静かに伏した。
ヴァルの百本目の歯が、薄く光り始める。
カヤの胸が高鳴った。
「今ので、百……?」
光はすぐ消えた。
『足りん』
「強い残響だった」
『数じゃないらしい』
ヴァルの声には、本人も隠しきれない失望があった。
ノディドが割れた炉心を調べている。
「これ、最近捨てられたものだ」
黒い塊の奥はまだ熱かった。
「鉱務院は十年前に閉鎖された」
「印を変えただけだよ」
ノディドは指についた黒い粉を嗅いだ。
「この毒が地下水へ入り、風骸樹が集まってきた。森が都市を襲ってるんじゃない。都市が流した傷口を、森が塞ごうとしてる」
「壁が壊れれば三万人が死ぬ」
「だから森を殺す?」
「三万人を生かす」
「同じ言葉に聞こえる?」
カヤは答えられなかった。
十年前、門を閉じた兵士たちも、同じことを言った。
三千人を捨て、七万人を生かす。
正しい数を選んだのだ、と。
二日目の夜、二人は巨大な肋骨の下で休んだ。
それは獣の骨ではなく、旧世界の飛行船の骨組みだった。森は金属を覆い、白い樹皮へ変えつつある。
ノディドは火を使わず、硝子苔を丸めて灯りにした。
「どうして捕まったの」
カヤが尋ねた。
「壁の鐘を止めようとした」
「死刑にならなかったのが不思議ね」
「三つ止めたところで殴られた」
「鐘がなければ毒霧が入る」
「鐘があるから、風が止まる」
ノディドは地面へ円を描いた。
「森は毒を吸い、清い風を吐く。でもラグナの鐘壁は、外から来る風を全部押し返す。清い風もね。行き場を失った風が根の下へ潜り、根を都市へ押し上げている」
「鐘を止めれば解決する?」
「一度に止めれば、溜まった毒も入る。だから門を開けて、風の道を作る。森と都市の呼吸を合わせる」
カヤは笑った。
「評議会が門を開けると思う?」
「思わない」
「市民が賛成すると?」
「思わない」
「じゃあ無理よ」
ノディドは青い鱗のある頬を掻いた。
「君たち壁の民は、できない理由を数えるのが上手だ」
「森の民は?」
「死ぬ理由を数えない」
「それは賢いとは言わない」
「生き残った者が決めればいい」
沈黙の後、ヴァルが言った。
『ノディド。葬具のことを知ってるか』
少年は黒い刃を見た。
「少し」
『百の残響を食えば、人へ戻れるという話は』
「壁の鋳師がそう言った?」
『ああ』
ノディドはすぐに答えなかった。
胸の虫が、不安げに翅を震わせる。
「風骸樹は、声をほどく。葬具は、声を縛る。百を縛れば……人に戻るんじゃなく、百人分の未練を持つ別の何かになる」
カヤは立ち上がった。
「嘘」
「森では、昔そういう武器を見た。大きな口だけの怪物になって、最後は自分の名前まで食べた」
「ヴァルは違う」
「そうだといい」
カヤはヴァルを掴んだ。
「何か感じる?」
『腹は減る』
「それ以外」
『おまえの手が冷たい』
「真面目に」
『怖いよ』
初めて、ヴァルはそう言った。
『人へ戻れないことより、おまえが俺を戻すために、何を食わせるかが怖い』
カヤの指から力が抜けた。
白翅の母を殺せば、弟を救える。
ヴァルも戻るかもしれない。
森は止まり、都市も残る。
正しい数だけを見れば、迷う理由などなかった。
正しい数は、いつも門を閉じる側にある。
三日目、森の中心で、空は地上に落ちていた。
巨大な窪地を埋め尽くす青い霧。その下に、旧世界の都市が沈んでいる。塔の先端だけが水没船の帆柱のように突き出し、すべて風骸樹の根で包まれていた。
窪地の中央に、白翅の母はいた。
山ほどの虫ではなかった。
山そのものだった。
幾重にも折りたたまれた白い翼が谷を覆い、翼の表面には無数の目玉模様が浮かぶ。長い頭部は鹿の頭骨に似て、その口元から透明な糸が地下へ伸びていた。
糸の一本一本を、風骸樹の根が握っている。
母虫は眠っていた。
呼吸するたび、森全体が波打った。
『音が……』
ヴァルが呟く。
「何?」
『何万人分もいる』
カヤにも聞こえ始めた。
声。
都市模型のように積み重なる、膨大な死者の声。
けれど、叫びではなかった。
歌に近い。
名を失った声たちが互いを支え、長くひとつの音を保っている。白翅の母はそれを食べているのではない。抱いて、森へ渡している。
ノディドが膝をついた。
「母は根を進めてるんじゃない」
透明な糸の先を指す。
地下深く、赤い光が脈打っていた。
「押さえてる」
大地が裂けた。
熱風が噴き上がり、青い霧が吹き飛ぶ。
窪地の底に、巨大な炉が見えた。
旧世界の戦争炉。
地中の鉱脈を燃やし、黒鉛霧を生み続ける機械。何百年も前に止まったはずのそれが、再び動いている。
炉には新しい管が接続され、北へ伸びていた。
ラグナの方向へ。
「都市が掘り当てたんだ」
ノディドの声が震える。
「燃料を取るために」
そのとき、空の高みで鐘が鳴った。
一度。
音はラグナから届いた。
二度。
白翅の母の翼が痙攣する。
三度。
森中の袋が破裂した。
『伏せろ!』
ヴァルが叫ぶ。
世界から音が消えた。
風も、地響きも、カヤ自身の心臓も聞こえない。
ラグナの十二塔が、無音鐘を鳴らしたのだ。
音を打ち消す音。
残響を消し、森の生き物の感覚を奪う、戦時代の兵器。
白翅の母の翼が裂けた。
抱かれていた死者の声が、支えを失う。
何万もの声が谷へ落ち、戦争炉の赤い光へ吸い込まれていった。
炉が、目を開けた。
最初に生えたのは、鐘だった。
地中から、塔ほど巨大な青銅鐘が押し上がる。その表面に人間の口が無数に浮かび、音のない悲鳴を上げた。
次に腕が生えた。
鉄骨と根と骨で編まれた腕が、窪地の縁を掴む。
最後に、頭が現れた。
顔はなかった。
口だけがあった。
都市ひとつを呑み込めるほどの、暗い口。
『鐘喰いだ』
ヴァルの声だけが、カヤの骨の中で聞こえた。
無音鐘に奪われない、葬具の声。
『逃げろ、カヤ』
「逃げたら、あれはどこへ行く」
『ラグナだ』
「なら逃げない」
カヤはヴァルを構えた。
鐘喰いの腕が振り下ろされる。
地面が割れ、カヤとノディドは別々の方向へ吹き飛んだ。
ノディドの胸から青い虫が散る。
彼は倒れたまま動かない。
カヤは立ち上がり、鐘喰いの腕へ走った。
刃を叩きつける。
硬い。
もう一度。
歯が一本、砕けた。
『やめろ! 俺が先に折れる!』
「折れる前に斬る!」
『こいつは敵じゃない!』
「人を殺す!」
『声だ! 置き去りにされた声の塊だ!』
鐘喰いの口から、音が戻った。
門を開けて。
門を開けて。
三千人の声。
その中に、カヤは母の声を聞いた。
カヤ。
走って。
振り返らないで。
十年前、門が閉じる寸前、母が言った最後の言葉。
カヤは動けなくなった。
巨大な腕が迫る。
『カヤ!』
ヴァルが自ら鐘を鳴らした。
衝撃がカヤの身体を横へ飛ばし、腕はすぐ脇を叩いた。
黒い刃に亀裂が走った。
「ヴァル」
『聞け』
「ひびが」
『いいから聞け!』
彼の声は怒っていた。
『百を食えば戻れる。そんな話、最初から信じてなかった』
「嘘」
『俺は鐘鋳師だぞ。声を鉄へ入れたら、元の喉へ戻せないことくらい知ってた』
「じゃあ、どうして」
『おまえに持たせるためだ』
カヤは息を忘れた。
『おまえは、母親を置いてきた自分を罰するために、いつか死ぬつもりだった。だから俺は、背中で喋り続けるものになった。飯の文句を言って、汗を笑って、眠るなと怒鳴るために』
「勝手なことを」
『お互いさまだ』
「人に戻るって」
『梨を探すって? あれは本気だ』
鐘喰いが身を起こした。
向きを変える。
北。
ラグナへ。
ノディドが咳き込みながら立ち上がった。胸の虫は半分ほどしか戻っていない。
「母の糸を、もう一度つなげれば」
彼は白翅の母を見た。
翼は裂け、頭部は動かない。
「無理だ。母は死にかけてる」
「ほかに方法は」
「声を森へ渡す大きな響きがあれば。でも無音鐘が風を止めてる」
カヤはラグナの十二塔を思い浮かべた。
十二の門。
十二の鐘。
「門を開ける」
「ここからじゃ」
「無音鐘は中央塔で鳴らす。止めるには評議長の鍵がいる」
ノディドは首を振った。
「鐘喰いのほうが先に着く」
『俺を使え』
ヴァルが言った。
カヤには意味が分かった。
「嫌」
『まだ何も言ってない』
「分かる」
葬具は声を縛る器。
逆に砕けば、中の声を一度に解き放てる。
九十九の残響と、ヴァル自身の声。
それだけの響きがあれば、死者を森へ渡す道を作れるかもしれない。
ただし、ヴァルは消える。
『人へ戻れないなら、せめて人の役に立つ終わり方を』
「黙れ」
『それが俺の』
「黙れ!」
カヤは刃を抱きしめた。
黒い金属は冷たく、どこにも人の体温はない。
「私を生かすために、勝手に武器になって。今度はみんなを生かすために、勝手に消えるの?」
『そういう性格なんだ』
「大嫌い」
『知ってる』
「梨を食べるんでしょ」
『おまえが食え。味を教えてくれ』
「どうやって」
『死者の声は、風に残る』
鐘喰いが北へ歩き始めた。
一歩ごとに森が潰れ、戦争炉から黒い霧が噴き上がる。
カヤは目を閉じた。
正しい数は、いつも何かを捨てろと言う。
三千人か、七万人か。
森か、都市か。
弟か、ヴァルか。
だが数は、捨てられる側の名を呼ばない。
カヤは目を開いた。
「両方やる」
『何?』
「あなたを砕く。でも、消さない」
『どうやって』
「声は使うものじゃない。従うものでもない」
ノイスの言葉を裏返す。
「聞くものよ」
カヤはノディドへ向いた。
「森中の風骸樹を鳴らせる?」
「母の糸が一本でも残っていれば」
「残ってる」
白翅の母の口元から伸びた透明な糸。そのうち一本だけが、切れずに戦争炉の縁へ垂れていた。
カヤは走った。
炉の熱で髪が焼け、皮膚が裂ける。鐘喰いの背へ飛び乗り、鉄骨の隙間を登った。
無数の口が腕を伸ばし、彼女を掴もうとする。
知っている顔があった。
門外で泣いていた男。
母の友人。
名簿で見た少女、リネ。
「待たせた」
カヤは言った。
「今、開ける」
鐘喰いの頭頂へ辿り着く。
そこには青銅鐘の裂け目があり、すべての声が渦を巻いていた。
カヤはヴァルを逆手に持ち、裂け目へ突き立てた。
『カヤ』
「なに」
『焦げてないパンも食いたかった』
「欲張り」
『酒は二人分』
「一人分」
『けち』
「さよならは言わない」
『ああ』
カヤは柄から手を離した。
そして拳で、ヴァルの鐘を殴った。
一度。
ひびが広がる。
二度。
九十九本の歯が光る。
三度。
ヴァルが笑った。
『門を開けろ』
葬具は砕けた。
世界が、鳴った。
九十九の残響が、光る鳥となって飛び立った。
老人、兵士、赤子、片目の女、歯のない男、少女リネ。
名を持つ声が、森の枝へ降りる。
最後にヴァルの声が、鐘喰いの奥へ潜った。
食うためではなく、呼ぶために。
ひとりずつ。
死者の名を。
鐘喰いの口が閉じた。
無数の腕が、掴むことをやめる。
カヤの母の声が、風の中で言った。
もう走らなくていい。
白翅の母に残った一本の糸が震えた。
ノディドの胸の虫が、同じ音で翅を鳴らす。
響きは風骸樹から風骸樹へ渡り、白い袋を膨らませた。森全体が巨大な肺となって息を吸う。
戦争炉の黒鉛霧。
鐘喰いに縛られた死者の毒。
ラグナの壁に溜まった古い空気。
すべてを吸い込む。
そして森は、北へ向かって息を吐いた。
青い風が走った。
ラグナでは、ノイスが中央塔から鐘喰いを見ていた。
それが森を踏み潰し、都市の敵をすべて消すと信じていた。
だが、青い風が壁へ届くと、四千の鐘がいっせいに逆向きへ鳴った。
無音鐘の調律が崩れる。
塔の硝子が砕け、評議員たちは床へ倒れた。
十二の門にかかった錠が、内側から外れた。
市民は恐怖して逃げた。
門番たちは命令を待った。
そのとき、西区療養院で、眠っていた少年が目を開いた。
ヒリュドは硝子の覆いを叩き割り、裸足で南門へ走った。
病人たちも後へ続いた。
青い風を吸うと、石のようだった肺が、少しずつ柔らかくなった。
「門を開けろ!」
ヒリュドが叫んだ。
十年前とは逆に、壁の内側から拳が鳴った。
「開けろ!」
「風を入れろ!」
「門を開けろ!」
門番の一人が、槍を捨てた。
鎖を切る。
別の門番も続く。
南門が開いた。
次に西門。
東門。
北門。
十二の門が、夜明けの花弁のように開いていった。
森の青い風が都市を通り抜ける。
黒鉛霧は鐘に弾かれず、風骸樹の種を抱いて流れ、鉱炉の煙突へ入り、毒を薄い硝子の粒へ変えた。
壁の基礎へ食い込んでいた根は、風の道を得ると進行を止めた。
そして、ゆっくりと都市を避けるように曲がった。
ノイスは中央塔で、最後まで門を閉じろと命じ続けた。
だが鐘が止まった都市で、誰も彼の声を遠くへ運ばなかった。
三か月後。
ラグナの壁には、十二の大きな穴が開いたままだった。
鐘は半分が外され、溶かされ、農具や水管へ作り替えられた。残り半分は、風向きを知らせるために残された。
森の民と壁の民は、まだ互いを信用していない。
市場では毎週喧嘩が起きた。
青い鱗を気味悪がる者もいれば、鐘を鳴らすなと怒鳴る者もいる。
それでも、門は閉じられなかった。
ヒリュドは歩けるまでに回復した。
陽肺液は必要なかった。
評議長の倉から見つかった瓶の中身は、ただの着色した油だった。
カヤはその瓶を、ノイスの裁判で証拠として提出したあと、中央広場の石へ投げつけた。
砕ける音は、妙に小さかった。
白翅の母は森の中心で死んだ。
けれど、その翼の下から無数の小さな幼虫が生まれた。ノディドによれば、次の母が育つまで百年かかるらしい。
「それまで森はどうするの」
カヤが尋ねると、ノディドは答えた。
「自分で考える。森は母の命令だけで生きてたわけじゃない」
「人間みたいね」
「人間より少し賢い」
殴ろうとしたら逃げられた。
秋の初め、カヤはラグナを出た。
背中に大きな刃はない。
腰には、ヴァルの鐘から残った小さな青銅片を下げている。風が吹くと、かすかな音がした。
それがヴァルの声なのか、ただの金属音なのか、カヤには分からない。
分からないまま聞くことにした。
ヒリュドとノディドも一緒だった。
三人は、毒のない土地を探して西へ向かう。
昔の地図には、黄色い果実のなる谷が記されていた。
地図が正しい保証はない。
谷が残っている保証もない。
それでも、世界のどこかにはあると、今度は嘘ではなく思えた。
夕暮れ、風骸樹の枝を抜けた風が、カヤの腰の鐘片を鳴らした。
ちりん。
とても小さな音だった。
その直後、誰かが耳元で言った気がした。
『梨は二人分だ』
カヤは振り返らなかった。
「一人分よ」
そう答えて、笑った。
開かれた門の向こうで、白い森がゆっくりと呼吸していた。
了