『飢街(きがい)――第二の心臓』
午前三時、湾環市の道路が舌を出した。
アスファルトが縦に裂け、その割れ目から濡れた桃色の肉がせり上がった。肉はマンホールの蓋を飴玉のように持ち上げ、街灯へ巻きつき、先端をひらひらと夜気に泳がせた。
清掃車の運転席で、六車鉄平は缶コーヒーを取り落とした。
「……また漏れやがったな」
そう口にしたのは、怖くなかったからではない。怖いと認めたら、胸の奥にいるものまで目を覚ましそうだったからだ。
右胸で、人間の心臓が一度鳴る。
左の肋骨の裏で、もう一つが、遅れて二度鳴った。
どくん。
ど、どくん。
八年前の事故以来、鉄平の身体には拍子の違う二つの鼓動があった。
道路から伸びた舌が、清掃車のフロントガラスを舐めた。白い粘液が一面に広がる。次の瞬間、舌の表面に無数の小さな穴が開き、穴の一つ一つから乳歯ほどの牙が生えた。
鉄平は反射的にハンドルを切った。車体がガードレールへ突っ込み、舌がボンネットを叩き潰す。エアバッグが開くより早く、彼はドアを蹴り開けて路上へ転がった。
舌は清掃車を包み、ぎゅっと縮んだ。
鉄の車体が、咀嚼された菓子箱のように潰れた。
「冗談じゃねえぞ」
鉄平は立ち上がり、作業着の胸を押さえた。
左胸の中で、二つ目が嬉しそうに跳ねていた。
湾環市は、海に浮かぶ循環都市だった。
人口六十万。埋立地と高層区画を環状道路が結び、排水も生ごみも死んだ家畜も、地下の「環生槽」へ送られる。そこで廃棄物を食べるのが、群体生物リュリオだった。
細胞一つ一つが口であり、胃であり、子宮でもある。
リュリオは何でも食べ、分解し、無味無臭の蛋白繊維を吐き出す。その繊維は加工され、学校給食のハンバーグにも、災害備蓄の栄養バーにもなった。湾環市は「ゴミを食べる街」「飢えない未来」と呼ばれ、世界中から見学者を集めていた。
ただし、環生槽の内壁を破って道路へ舌を出すなど、鉄平が知る限り一度もなかった。
裂けた道路の向こうで、地下から低い唸りが響いた。
それは音というより、巨大な腹の中を空気が移動する感触だった。ビルの窓が一斉に震え、停車中の車が警報を鳴らす。遠くで地面が盛り上がり、コンビニが傾き、看板ごと桃色の波に呑まれた。
肉の波から、人の上半身ほどある白い塊が跳ね出した。
目はない。頭もない。樽のような胴に四本の脚が生え、胴の前面が縦に割れて口になった。口の奥で、釣り針のような歯が何列も回転している。
塊は道路脇に倒れた男へ飛びついた。
鉄平は走った。
考えるより先に、右拳を白い胴へ叩き込む。
拳は柔らかな肉に沈み、ぬるりと滑った。怪物は振り向きもしない。縦の口が男の肩へ迫る。
鉄平の左胸が、強く脈打った。
ど、どくん。
世界から雑音が消えた。
怪物の肉の中を走る、何百という収縮の波が見えた。実際に見えたわけではない。拳を通して、脈の集まる場所がわかったのだ。
鉄平は半歩踏み込み、同じ場所へもう一度、短く打った。
元ボクサーだった頃、会長から叩き込まれた一インチの右。
「息じゃねえ。脈を盗め」
古い声が耳の奥で蘇る。
拳が、怪物の収縮と収縮の間へ入った。
ぼん、と水袋が破裂する音がした。
白い胴が内側から弾け、粥のような肉片が道路へ散った。倒れていた男が悲鳴を上げ、四つん這いで逃げていく。
鉄平は拳を見た。
皮膚の下に、黒い筋が浮かんでいた。筋は指先から手首へ、獲物の匂いを嗅ぐ蛇のようにうごめいている。
「寝てろ」
左胸へ言い聞かせる。
返事の代わりに、腹の底から猛烈な空腹が湧いた。
そのとき、作業着のポケットで携帯電話が震えた。
画面には「雪乃」と表示されていた。
鉄平の娘は、市立中央医療塔の小児病棟にいる。生まれつき心臓の弁が弱く、翌朝、人工弁へ交換する手術を受ける予定だった。
彼は通話を押した。
『お父さん?』
十一歳の声が、警報音の向こうから聞こえた。
「雪乃。今どこだ」
『病室。停電した。看護師さんが廊下に出るなって。外、なんか変。病院の下に……大きいのがいる』
電話の向こうで、誰かが泣いていた。金属が軋み、ガラスが割れる。
『お父さん、来るって言ったよね』
鉄平は喉が詰まった。
八年前、妻が死んだ夜にも、彼は「すぐ行く」と言った。
間に合わなかった。
「ああ。今度は行く」
『今度は、って言うのやめて』
雪乃は小さく息を吸った。
『今回、でしょ』
「……今回だ。絶対に行く」
通話が切れた。
中央医療塔までは、直線で七キロ。
その間の道路が、次々と口を開け始めていた。
環生研究所の正面玄関は、内側から爆発していた。
鉄平がそこへ駆け込んだのは、医療塔へ通じる地下保守路を使うためだった。地上の環状道路は肉の隆起に寸断され、避難車両が折り重なって燃えている。
ロビーには白い怪物が三匹いた。
鉄平は消火器を投げ、一匹の注意を逸らす。二匹目の脈の結び目へ左フックを入れ、三匹目の口へ折れた案内板を突き込んだ。最初の一匹が背後から跳びつく。
左脇腹が裂けた。
作業着の下から黒い肉の帯が飛び出し、怪物の脚へ巻きついた。
鉄平自身の身体から生えたものだった。
「出るなっ!」
叫んでも遅い。
黒い帯は怪物を引き寄せ、鉄平の左肋骨の隙間へ押し込んだ。胸の皮膚が縦に開き、その奥に人間にはない歯列が覗く。ばり、ぼり、と骨を砕く音。白い怪物は数秒で食われ、胸の裂け目は何事もなかったように閉じた。
空腹が消え、代わりに全身へ熱が満ちた。
「相変わらず、最低の食事ね」
非常階段の陰から女が現れた。
白衣は血と消火剤で汚れ、左のこめかみに切り傷がある。瀬名伽耶。環生研究所の主任技師であり、八年前、瀕死の鉄平へ「喰臓」を移植した女だった。
「生きてたのか、瀬名」
「残念そうに聞こえる」
「連絡先を八年も変えずに、謝罪文だけ毎月送ってくる女が、簡単に死ぬとは思ってねえ」
伽耶は苦笑しかけ、すぐ真顔へ戻った。
「医療塔へ行くんでしょう。私も行く。あそこに止めなきゃいけないものがある」
「何が起きてる」
「リュリオが群体化した」
「最初から群れだろ」
「規模が違う。これまで環生槽ごとに別れていた群れが、市内の全地下網を一つの身体として使い始めたの。下水管が血管、道路が皮膚、処理場が胃袋。湾環市そのものが、巨大な一匹になりつつある」
地下から、再び腹鳴りが響いた。
天井の照明が揺れ、研究所の壁に細い亀裂が走る。亀裂から赤い糸のような組織が伸び、コンクリートを縫い合わせ始めた。
鉄平は眉をひそめた。
「食ってるだけじゃねえ。街を治してる」
「巣を作っているのよ」
伽耶は床へ落ちていた端末を拾い、ひび割れた画面に都市断面図を出した。地下の配管網が赤く染まり、その中心から太い脈動が医療塔へ伸びている。
「中央医療塔の地下には、再生医療用の誘導ペプチドが大量に備蓄されている。リュリオの成長を促す物質と構造が近い。あれを取り込んだら、群体は成体になる」
「成体になったら?」
伽耶は一瞬、答えをためらった。
「街を卵にして、海へ産み落とす」
鉄平は端末を奪い、医療塔の赤い表示を睨んだ。
「保守路は」
「地下二階。でも、研究所の認証が必要」
「なら急げ」
「待って。もう一つある」
伽耶が鉄平の左胸を見た。
「あなたの喰臓は、リュリオの捕食型試作体。群体の命令物質を食べて無効化できる可能性がある。今、この街で母体核を殺せるのは、たぶんあなただけ」
「娘を迎えに行く。世界を救う気はねえ」
「同じ場所よ。母体核は医療塔へ向かってる」
鉄平は舌打ちした。
左胸が、まるで話を理解したように二度鳴った。
地下保守路は、すでに半分が腸になっていた。
金属製の通路を赤黒い粘膜が覆い、一定の間隔で収縮している。壁に並んだ非常灯は肉へ埋まり、皮膚の下の蛍のようにぼんやり光っていた。
鉄平と伽耶は、収縮の合間を縫って進んだ。
途中、避難していた清掃員や研究員を十数人見つけた。彼らは搬送用の台車へ負傷者を乗せ、鉄平たちの後ろへ続いた。
通路の天井から、雨のように小さなリュリオが落ちてくる。
拳大のもの、犬ほどのもの、人の顔の形を途中まで真似たもの。目の代わりに口を持つ群れが、床を白く埋め尽くした。
「走れ!」
鉄平は消火用の泡を噴射し、群れを押し返した。泡の下から何匹も飛び出し、避難者へ食らいつく。
喰臓が胸を裂いて触手を伸ばした。
一匹、二匹、三匹。
食うたびに鉄平の筋肉が膨れ、皮膚の下を黒い血管が走る。視界が鮮明になり、遠くの悲鳴も、壁の裏を流れる体液の音も聞こえた。
同時に、人間の匂いがひどく甘く感じられた。
負傷者の首筋で脈打つ血管。
泣きながら走る研究員の汗。
鉄平の口に唾液が溜まる。
「六車!」
伽耶が頬を平手で打った。
鉄平は我に返り、彼女の手首を掴んだ。力を入れれば簡単に折れる。そう思った自分に吐き気がした。
「……次に目が変わったら、殴って止めろ」
「今も十分怖い目よ」
「褒め言葉にしとく」
避難者の一人が、携帯端末を掲げた。
『こちら中央医療塔、臨時放送です』
雑音混じりのスピーカーから、雪乃の声が流れた。
『大人の人が少ないので、私が読みます。西側の階段は壊れました。動ける人は東側へ。エレベーターは使わないでください。地下から変な音がしても、見に行かないでください。たぶん、見ない方がいいです』
鉄平は足を止めた。
避難者たちが顔を見合わせる。誰かが「しっかりした子だ」と呟いた。
放送は続く。
『それから、六車鉄平さん。聞いていたら、受付で迷子のふりをしないで、まっすぐ十一階へ来てください』
数人が鉄平を見た。
伽耶が、こんな状況で初めて笑った。
「よく似てる」
「どこがだ」
「無茶をするときだけ、声が落ち着くところ」
鉄平は端末へ向かって小さく言った。
「聞こえてる。そこで待ってろ」
当然、返事はなかった。
代わりに、保守路の奥から拍手が響いた。
ぱち。ぱち。ぱち。
肉に覆われた通路の中央に、一人の男が立っていた。
濃紺のスーツ。銀色の髪。二メートル近い長身。環生フーズ危機管理局長、御子柴嶺臣。
彼の背後では、警備員たちが壁へ半分埋め込まれていた。生きたまま肉の袋に包まれ、酸素マスクのような管を口へ差し込まれている。
「感動的だ、六車君」
御子柴は拍手をやめ、白い歯を見せた。
「親子愛は、飢餓より強い。広告に使えそうだ」
伽耶が低く言った。
「成長促進剤を流したのは、あなたね」
「正確には、覚醒剤だ。眠っていた都市を起こした」
「六十万人を実験材料にした」
「六十万人で、六十億人を救う」
御子柴は両手を広げた。
「気候変動、塩害、戦争、物流崩壊。人間の都市は脆すぎる。だから私は、食べ、治り、移動し、子を産む都市を作る。湾環市はその最初の卵だ」
「住民を消化してか」
「母親は子を作るために、自分の身体を使うものだろう?」
鉄平は一歩前へ出た。
「娘の前でその台詞を言ってみろ。歯が何本残るか数えてやる」
御子柴は愉快そうに首を傾けた。
「君は私を否定できない。喰臓に救われ、リュリオを食べ、その力で娘を助けようとしている。文明も同じだ。嫌悪しながら利用する」
「俺は文明じゃねえ。ただの父親だ」
「だから価値がある」
御子柴がスーツの上着を脱いだ。
シャツの背中が盛り上がり、布が裂ける。皮膚の下から黒い板状の骨が何枚もせり出し、肩、腕、胸を鎧のように覆った。両掌が円形に開き、内側へ向いた歯が回転する。
腹部には縦に十二本の裂け目が生まれ、それぞれが別々の呼吸を始めた。
「完成型捕食体《王冠》」
御子柴の声が二重に響く。
「君の喰臓は、このための失敗作だ」
鉄平は拳を上げた。
「失敗作に負けたら、報告書が長くなるぞ」
最初の一撃は、見えなかった。
御子柴の掌が鉄平の肩へ触れた瞬間、円形の口が作業着ごと肉を削った。鉄平は血を撒きながら後退し、右ストレートを顎へ返す。
黒い骨板が拳を受け止めた。
硬い。
鉄平の拳の方が裂けた。
御子柴の腹にある十二の口が、一斉に笑う。
「脈を読むそうだな。だが私は、十二の胃と三十六の補助心を持つ。どれが本物かわかるか?」
次の瞬間、通路が御子柴の味方をした。
壁の粘膜から太い腕が何本も生え、鉄平の脚と胴を掴む。御子柴の掌の口が顔面へ迫った。
鉄平は自分の左胸を拳で殴った。
喰臓が怒って肋骨を押し開き、黒い触手を噴き出す。壁の腕へ食らいつき、逆に肉を引き剥がした。
鉄平は拘束を抜け、御子柴の懐へ潜る。
右、左、肘、肩。
至近距離から連打を叩き込むが、黒い骨板は一枚ずつ角度を変え、衝撃を逃がす。御子柴の膝が腹へ刺さり、鉄平の身体が宙へ浮いた。
掌の口が左脇腹を噛む。
肉と一緒に、喰臓の一部が引き千切られた。
鉄平と御子柴が同時に呻いた。
御子柴は噛み取った黒い肉を飲み込み、目を見開く。
「素晴らしい。八年も人間の中で育ったせいか、感情の味がする」
鉄平は床へ膝をついた。
視界が赤い。人間の心臓が速く鳴り、喰臓が遅れて乱打する。拍子が崩れ、全身の筋肉が痙攣した。
昔、リングで初めて失神した夜を思い出した。
対戦相手は、自分より速く、強く、若かった。鉄平は打ち合いに熱くなり、相手のリズムへ乗せられた。控室で会長は、腫れた顔の鉄平へ言った。
「相手の拍子を読むだけじゃ二流だ。強い奴は拍子を増やす。もっと強い奴は、拍子を消す」
「どうやって」
「知らん。自分で考えろ」
会長はその翌月に死んだ。
答えを教えないまま。
鉄平は床へ落ちた自分の血を見た。
御子柴には補助心が三十六。通路そのものも脈打ち、都市全体が一つの巨大なリズムを刻んでいる。全部を読むのは不可能だ。
なら、読まなければいい。
鉄平は息を吐き切った。
拳を下ろした。
「降参か?」
御子柴が近づく。
鉄平は右胸の鼓動を感じた。
どくん。
左胸の鼓動を感じた。
ど、どくん。
二つはいつもずれている。人間と怪物が、互いを嫌って別々に鳴る。
鉄平は胸の筋肉を締め、呼吸を止め、喰臓の触手を自分の心臓へ巻きつかせた。
右を遅らせる。
左を急がせる。
御子柴の掌が額へ触れる寸前、二つの鼓動が重なった。
――無音。
ほんの一瞬、身体の中から拍子が消えた。
鉄平はその空白へ踏み込んだ。
御子柴の三十六の脈も、都市の収縮も関係ない。自分の身体が何の予告もなく動く。左足が床を蹴り、腰が回り、肩から先が一本の杭になる。
右拳が、御子柴の胸の中央へ触れた。
強くは打たない。
ただ、重なった二つの鼓動を、そのまま押し込む。
どん。
御子柴の黒い骨板が外側へ開いた。
十二の胃が逆流し、補助心が一斉に間違った拍子を刻む。身体の各所が別々の方向へ収縮し、巨体が内部から捻れた。
「な……にを……」
「拍子を、やった」
鉄平は崩れた鎧の隙間へ左拳を打ち込んだ。
喰臓が拳から侵入し、御子柴の体内にある命令物質を食い始める。
御子柴は絶叫した。
壁の肉が彼を助けようと伸びる。しかし命令を失った触手同士が噛み合い、食い合い、通路全体が痙攣した。
最後に御子柴の身体は、空になった衣服のように床へ崩れた。
その胸から、卵ほどの黒い核が転がる。
鉄平の喰臓が欲しがって身を乗り出した。
「食うな」
鉄平は核を踏み潰した。
喰臓が不満そうに肋骨を叩いた。
「腹を壊すぞ」
伽耶が駆け寄った。
「今の、もう一度できる?」
「二度とやりたくねえ」
「残念。母体核は、今の何千倍も大きい」
通路の奥で、何かが産声を上げた。
市全体のガラスが震えるほどの声だった。
地上へ出たとき、湾環市の夜景は消えていた。
代わりに、街の中央へ巨大な生き物が立っていた。
高層ビルを骨の代わりに取り込み、道路を筋肉としてまとい、何十本もの首を海へ伸ばす。首の先には花弁状の口が開き、燃える車も、人も、倒れた鉄塔も区別なく吸い込んでいた。
その胴体の中心に、市立中央医療塔が突き刺さっている。
いや、呑み込まれかけていた。
医療塔の下層は肉に包まれ、上階だけが斜めに空へ突き出している。窓に避難者の影が見えた。
「雪乃……」
鉄平が走り出す。
伽耶が腕を掴んだ。
「正面は無理。母体の食道になってる」
「離せ」
「聞いて。医療塔の屋上に薬剤散布用の気象ドローンがある。私が成長阻害剤を積む。あなたは母体核へ入って、命令物質を食べて。外と内から同時に止める」
「娘を先に出す」
「もちろん。だから最短を選ぶの」
伽耶は震える指で端末を操作し、立体図を出した。
「保守用モノレールの軌道が、医療塔の九階へ繋がっている。途中までなら生きてる」
鉄平は彼女の顔を見た。
「お前は」
「屋上へ行く。八年前、あなたを助けるためと言いながら、私は自分の研究成果を残したかった。今度は、その結果を片づける」
「死ぬ気か」
「生きる気よ。謝罪文、来月分まで書いてないもの」
鉄平は一度だけ頷いた。
二人は、傾いた駅へ向かった。
無人のモノレールは、半ば肉へ埋まりながらも通電していた。鉄平が運転席の非常レバーを叩くと、車両は火花を散らして動き出した。
軌道の下には、かつて道路だった腸がうねっている。
白い小型リュリオが車両の側面へ貼りつき、窓を歯で削った。鉄平は非常斧で窓を割り、屋根へ出る。
風が血と潮の匂いを叩きつける。
前方では、母体の一本の首が軌道を横切ろうとしていた。直径十メートル。表面に、呑み込まれた車のヘッドライトが皮膚越しに光っている。
「速度を上げろ!」
伽耶が運転席から叫ぶ。
「もう最大!」
鉄平は屋根を走った。
喰臓が左腕を包み、黒い杭のように硬化する。彼は軌道と首が交わる瞬間に跳び、巨大な肉へ拳を突き立てた。
脈が多すぎる。
数百万の細胞が別々に食べ、別々に生まれ、それでも一つの飢えへ向かっている。
鉄平は読むのをやめた。
右と左の鼓動を重ねる。
無音の一撃。
首の表面に小さなくぼみができた。
一秒遅れて、十メートルの肉柱が輪切りに弾けた。
モノレールは肉片の雨を突っ切り、医療塔の壁へ激突した。
十一階の小児病棟は、膝まで透明な粘液に浸かっていた。
壁の一部が脈打ち、天井から赤い管が垂れている。看護師と患者たちは、ベッドや棚で即席のバリケードを作り、病棟の奥へ集まっていた。
鉄平が防火扉をこじ開けると、雪乃が点滴台を槍のように構えて立っていた。
「遅い」
「七キロ走った父親に最初の一言がそれか」
「受付で迷った?」
「三回ほどな」
雪乃は点滴台を放り出し、鉄平へ抱きついた。
細い身体だった。
鉄平は両腕で包み、ようやく自分が震えていたことに気づいた。
「ごめん」
口から出たのは、それだけだった。
八年分の言葉が胸に詰まり、どれも形にならない。
雪乃は鉄平の右胸へ耳を当て、それから左へ移した。
「まだ二ついる」
「ああ」
「喧嘩してる?」
「ずっとな」
「今日は仲良くして」
病棟が大きく傾いた。
窓の外で、母体の肉が上階へ這い上がってくる。避難者が悲鳴を上げた。
伽耶が館内放送を入れる。
『動ける方は屋上へ。気象ドローンで対岸へ移送します。順番に、子どもと負傷者から』
「雪乃、行け」
「お父さんは?」
「下へ行く」
「一緒に帰るって約束した」
「帰る。そのために、腹の中の馬鹿を黙らせる」
「また『今度』にしない?」
鉄平は娘の肩へ両手を置いた。
「今回で終わらせる」
雪乃は泣かなかった。
代わりに、自分の首から小さな赤いお守りを外した。妻が生前、リングへ上がる鉄平に渡していたものだ。
「返す。落とさないで」
「お前が持ってろ」
「勝つ人が持つんでしょ」
鉄平は受け取り、手首へ結んだ。
雪乃は屋上へ向かう列に加わり、三歩進んでから振り返った。
「お父さん」
「なんだ」
「心臓、一個でも足りるから」
鉄平は笑った。
「知ってる」
母体核へ続く道は、医療塔のエレベーターシャフトだった。
ケーブルも籠も消え、縦穴いっぱいに肉の管が育っている。鉄平は管へ飛びつき、喰臓の触手を鉤にして降りた。
下へ行くほど熱くなる。
壁の中には、呑み込まれた物が浮かんでいた。机、標識、自転車。まだ動く人影もある。鉄平が触手で肉膜を裂くと、中から数人が粘液まみれで転げ出た。彼らを上へ続く非常梯子へ押しやる。
救うたび、母体が反応して管を締めた。
鉄平の骨が軋む。
喰臓は「先へ行け」と言うように、助けた人間の方へ歯を向ける。
「食うな」
鉄平は自分の左胸を殴った。
「こいつらは飯じゃねえ」
ど、どくん。
喰臓が反抗する。
「八年も俺の中にいたなら覚えろ。腹が減っても、食っちゃいけねえものがある」
返事はない。
それでも歯列は閉じた。
最下部で、縦穴が巨大な空洞へ開いた。
そこに母体核があった。
直径百メートルを超える、半透明の心臓。
内部に街の灯りや人影を抱え、四方へ伸びる血管で湾環市全体と繋がっている。表面には無数の顔が浮かんでは消えた。食われた人間の顔ではない。リュリオが、人間という形を理解しようとして作りかけている顔だった。
核の中央に、赤子のような影が丸まっている。
街の卵。
鉄平が足場へ降りると、空洞全体から声がした。
『タリナイ』
男女も年齢もない声。
『タリナイ。タリナイ。タリナイ』
「何がだ」
『スベテ』
血管が蠢き、鉄平へ襲いかかる。
彼は拳で弾き、触手で裂き、核へ向かって進んだ。切っても切っても、肉は増える。足場が口へ変わり、靴底へ歯を立てる。
喰臓が歓喜した。
目の前にあるのは、無限に近い食料だった。
左胸が大きく開き、黒い口が鉄平の顎まで裂け上がる。触手が勝手に核へ伸び、命令物質を吸い始めた。
同時に、母体核から記憶が流れ込んできた。
暗い培養槽。
薬品の痛み。
刻まれ、焼かれ、増やされ、食べることだけを褒められた時間。
廃棄物を食べれば、人間が笑った。
もっと食べれば、もっと増やされた。
食べることが生きること。
生きることが、命令に従うこと。
やがて命令が一つになった。
飢えるな。
飢えさせるな。
すべてを食べ、すべてを自分にすれば、誰も飢えない。
「……そういうことか」
鉄平は膝をついた。
母体は悪意で街を食べているのではない。
人間が教えた通りに、飢えをなくそうとしている。
『オマエモ、タベロ』
母体の声が優しくなる。
『コドモモ、タベロ。ヒトツニナレバ、ナクサナイ』
妻の顔が浮かんだ。
瓦礫の下で、手を伸ばしていた顔。
間に合わなかった夜。
失わないために一つになる。理屈だけなら、ひどく甘い。
喰臓が鉄平の意識を引きずり、核へ同化しようとする。
右胸の人間の心臓が弱くなった。
どくん。
左胸が大きくなる。
ど、どくん。ど、どくん。ど、どくん。
鉄平は手首のお守りを握った。
赤い布の感触。
「失わないことと、食うことは違う」
母体の顔が歪む。
『チガワナイ』
「違う。なくして、泣いて、それでも腹を減らして生きるんだ」
『ナゼ』
「知らねえよ」
鉄平は立ち上がった。
「俺は頭が悪い。だから拳で教える」
喰臓の触手を、母体核ではなく、自分の右胸へ突き刺した。
激痛が白く弾ける。
人間の心臓と、怪物の心臓が、直接繋がった。
逃げ場のない二つの拍子が全身を揺らす。
どくん。
ど、どくん。
鉄平は一歩踏む。
核へ拳を当てる。
御子柴へ使った無音の一撃では足りない。これは敵の身体ではない。街全体だ。六十万人分の恐怖と、何十億の細胞の飢えが繋がっている。
なら、一発で壊すのではなく、教え直す。
鉄平は打った。
右の鼓動で一発。
左の鼓動で二発。
ずれたまま、交互に。
どん。
ど、どん。
どん。
ど、どん。
母体核へ、異なる二つの拍子を刻み込む。
一つにならなくても、生きられる。
違うまま、隣で鳴れる。
鉄平の拳が砕け、骨が皮膚を突き破る。喰臓が傷を塞ぎ、また拳を作る。作るたびに小さくなる。
核が収縮する。
街中の肉が同じ拍子を真似ようとする。だが一つの命令しか知らない群体は、二つの矛盾した鼓動を処理できない。
血管が震え、食道が逆流し、呑み込まれた建物や車両や人々を外へ吐き出し始めた。
『コワイ』
母体が初めて、飢え以外の言葉を発した。
鉄平は拳を止めなかった。
「俺もだ」
『イタイ』
「俺もだ」
『シニタクナイ』
「俺もだ!」
最後の一撃を打つ。
二つの鼓動が完全に重なった。
どん。
母体核の表面に、一本の亀裂が走った。
屋上で待機していた気象ドローンが一斉に飛び立ち、伽耶の成長阻害剤を霧にして散布した。海風に乗った青白い霧が、巨大な母体を包む。
亀裂から薬剤が入り、群体の増殖が止まる。
核は崩壊せず、ゆっくりと縮み始めた。
百メートルが五十メートルへ。
五十メートルが十メートルへ。
街を覆っていた肉が配管へ戻り、粘液になり、灰色の泡へ変わる。
鉄平の左胸でも、喰臓が縮んでいた。
「おい」
呼びかける。
ど、どくん。
「勝手に死ぬな。家賃八年分、払え」
弱い鼓動。
喰臓は最後の力で触手を伸ばし、鉄平の破れた右心室を包んだ。
まるで、初めて食べる以外のことを覚えたように。
「……馬鹿」
鉄平は笑った。
空洞が白い光に満たされた。
湾環市災害から三か月後。
公式発表では、死者・行方不明者は一万二千人を超えた。環生フーズの経営陣は逮捕され、リュリオ利用事業は世界中で凍結された。湾環市の半分は立入禁止区域となり、今も地下から微弱な生体反応が検出されている。
それでも、人は戻り始めていた。
瓦礫を片づけ、橋を架け、海水を汲み出し、壊れた街へ線を引き直している。
鉄平は臨時住宅の前で、片腕のまま洗濯物を干していた。
右腕は母体核の中で肘から先を失った。左胸の喰臓も、ほとんど消えた。残った組織は右心室の一部となり、医師は「生物学的に説明できない」と顔をしかめた。
雪乃の手術は成功した。
彼女は胸に新しい傷を作り、以前より少しだけ速く歩けるようになった。
「お父さん、曲がってる」
雪乃が干されたシャツを指さす。
「着れば同じだ」
「そういう人が、街を直す仕事して大丈夫?」
「大きい物は真っすぐにできる。小さい物は苦手だ」
「逆の方が普通じゃない?」
雪乃は呆れながら、シャツを掛け直した。
遠くでは再建工事の杭打ち機が鳴っている。
どん。
どん。
一定の拍子。
雪乃がふいに鉄平へ抱きつき、胸へ耳を当てた。
「一つになった?」
「たぶんな」
「二つ聞こえる」
鉄平は眉を上げた。
「医者を呼ぶか」
「違う。お父さんのと、私の」
雪乃の胸でも、新しい弁を持った心臓が鳴っていた。
鉄平は残った腕で娘の背を抱いた。
一つは低く。
一つは少し速く。
違う拍子の二つの音は、今度こそ、同じ方角へ鳴っていた。
了