『骨帆船と黒潮月の秘宝』

 ノアキル港では、月のない夜にだけ、町全体が歯ぎしりをした。

 ぎり、ぎり、ぎり。

 海沿いの家々が鳴るのではない。風車でも、波止場の鎖でもない。

 町そのものが鳴るのだ。

 ノアキルは、三百年前に浅瀬へ乗り上げた空鯨バラムの骸骨を骨組みにして築かれていた。白い肋骨のあいだに石壁を積み、背骨の上へ街道を渡し、巨大な顎を港として使っている。だから町の門は鯨の歯で、広場は胸骨で、役場の時計塔は突き立った鼻骨だった。

 風向きが悪い日には、家の床板から塩と古い獣の匂いがした。

 そして黒潮月――三十三年に一度、二つの月が重なって真っ黒になる夜が近づくと、バラムの歯は眠りながら何かを噛むように鳴る。

「引っ越しの荷物をまとめろ、ソケク」

 叔父のダグは、屋根裏部屋の梯子から顔を出して言った。

 夕日の赤が、禿げかけた頭にまで届いていた。

「明日の正午、王立錨税局が来る。税金を払えなきゃ、この家も工房も差し押さえだ。町の半分が同じ目に遭う」

「でも、議会は抗議してるんだろ」

「抗議はパンにならん。荷造りしろ」

 梯子が閉じると、ソケクは窓辺の机に突っ伏した。

 十五歳のノア・リードは地図描き見習いだった。

 海へ出たことは一度もない。

 船に乗ると三歩で吐くからだ。

 それでも彼の部屋には海図があふれていた。東方の琥珀諸島、南の竜巻街道、海面が垂直に落ちる世界の縁。どの地図にも、彼が自分で書き足した小さな印があった。

 いつか行く。

 いつか見る。

 いつか帰ってきて、母さんに話す。

 最後の一つだけは、もう叶わない。

 母のマーラは七年前、古い航路を探しに出て、そのまま戻らなかった。残ったのは壊れた六分儀と、役場が発行した「消息不明者」の紙切れだけだ。

 窓の下で小石が跳ねた。

「ソケク! 死ぬほど急いでる顔を出せ!」

 鍛冶屋の娘マリスが、道から叫んでいた。短く切った黒髪に煤をつけ、片手に金槌を持っている。隣には、パン屋の息子バルが二斤分のパンを抱えていた。その後ろで、聖歌隊を首になったミケルが息を切らしている。

「なんで金槌?」

「急いでるから」

「急ぐときは金槌なの?」

「質問が多い!」

 三人が屋根裏へ押しかけると、マリスは机の上へ一枚の木札を叩きつけた。

 王立錨税局の差し押さえ札だった。

「うちの炉にも貼られた。バルの店にも。ミケルの家にも」

「僕の家は前から貧乏だから、貼る場所だけはたくさんあった」とミケルが言った。

「笑うところじゃないぞ」とバルが言い、パンをかじった。

「お前は何で食べてるんだ」

「家財を減らしてる」

 マリスはソケクの胸を指で突いた。

「で、あんたの母さんは宝探し屋だった」

「地図描きだ」

「同じようなものよ。秘密の地図とか、王様の隠し金とか、ないの?」

「あるわけ――」

 そのとき、机の隅で六分儀が鳴った。

 ちりん。

 誰も触れていない。

 折れた真鍮の腕が、黒潮月の光を受けてわずかに震えていた。

 ソケクは六分儀を持ち上げた。七年間、何度も磨き、何度も分解しようとして、叔父に止められた品だ。だが今夜は、ひび割れた鏡の奥に細い青い線が見えた。

「マリス。金槌」

「ようやく正しい質問をしたわね」

 一撃で鏡が割れた。

 中から、油布で包まれた紙片と、黒い骨でできた鍵が落ちた。

 紙片を広げると、ノアキル港の地図が描かれていた。ただし地上ではない。鯨の肋骨の下、誰も知らない空洞と水路が、母の細い字で記されている。

 地図の中央、心臓があったはずの場所に、赤い丸があった。

 その横に、短い言葉。

 ――〈黎明の真珠〉を見つけても、願いを口にしてはいけない。

 ――宝より先に、帰り道を決めなさい。

 ――ソケクへ。あなたなら、地図の嘘を見抜ける。

 バルがパンを飲み込んだ。

「宝って書いてある?」

「書いてない」

「じゃあ、宝じゃないのか」

「赤丸はだいたい宝よ」とマリスが言った。

「偏見だよ」とミケルが言った。

「地図に対する正しい偏見」

 ソケクは窓の外を見た。

 広場では、明日の差し押さえに備え、家財を荷車へ積む人々が列を作っている。鍛冶屋の炉は消え、パン屋の煙突も冷えていた。鯨骨の町が、少しずつ息を止めていくようだった。

 地図の最初の印は、ソケクの家の地下を指していた。

「行こう」

 自分の声が震えなかったことに、ソケク自身が驚いた。

一 鯨の喉

 地下室の一番奥には、誰も使わない塩漬け樽が並んでいた。

 地図どおり三つ目の樽をどかすと、壁に丸い窪みがあった。黒い骨の鍵を差し込む。すると壁の向こうで、巨大な錠前が目を覚ますように、がちりと音を立てた。

 石壁が左右へ割れた。

 冷たい風が吹き出した。

 塩、泥、油、そして遠い雷の匂い。

「先頭は地図を持ってる人ね」とマリス。

「金槌を持ってる人じゃなくて?」

「私は後ろから逃げ道を確保する」

「つまり一番逃げやすい場所だ」

「ミケル。聖歌隊に戻れない理由、教えてあげようか」

「音程じゃなく性格だったのは知ってる」

 ソケクは角灯を掲げ、階段を降りた。

 階段は、空鯨バラムの喉を縫うように続いていた。

 壁は石ではなく、黄ばんだ骨だった。ところどころに青い鉱石が血管のように走り、脈打つたび、かすかな光が流れる。

「死んで三百年だよね?」バルが言った。

「そう聞いてる」

「じゃあ、どうして光ってる?」

「聞かなかったことにしよう」

「腹が減ると難しいことを無視できて便利だな」

「怖いときも便利だぞ」

 階段の底には、十二枚の扉が並んでいた。

 どれも鯨の歯を削って作られ、表面に口の絵が彫られている。笑う口、泣く口、噛みつく口。地図はそこで一度、途切れていた。

 代わりに、母の走り書きがある。

 ――嘘をつかない口は一つだけ。

「扉に質問するの?」ミケルが言った。

「まさか」とマリス。

「まさか、っていう顔で質問してるよ」

 ソケクが笑う口の扉に近づくと、彫刻の唇が動いた。

『おまえたちは宝を求めているか』

 バルが即答した。

「もちろん」

 笑う口が大きく開き、奥から無数の針が飛んできた。

「伏せろ!」

 四人が床へ転がる。針は背後の骨壁へ突き刺さり、じゅう、と煙を上げた。

「次から僕に答えさせないでくれ」とバルが言った。

「誰も頼んでない!」

 泣く口が尋ねた。

『おまえたちは恐れているか』

「いいえ」とマリスが言った。

 床が抜けた。

 全員が悲鳴を上げ、半歩下に隠れていた網へ落ちた。網の下では、白い甲虫が大鍋いっぱいにうごめいている。

「嘘をつくと罠が動くんだ!」ソケクは叫んだ。

「分かったから早く言って!」

 金槌で網を破り、四人は廊下へ戻った。

 次は噛みつく口だった。

『おまえたちは、仲間を置いて逃げるか』

 四人は顔を見合わせた。

 マリスは鼻を鳴らした。

「置いていくかも。状況による」

「正直すぎるよ!」ミケルが言う。

「でも、戻る」と彼女は続けた。「絶対に戻る」

 扉は静かに開いた。

 その向こうは、下へ流れ落ちる川だった。

 水ではない。

 星空が流れていた。

 黒い液体の中に、見たことのない星座が瞬き、逆さの夜空が滝となって地下へ落ちている。川辺には小舟が一艘、鎖でつながれていた。

「乗るの?」バルが言った。

「ほかに道がない」

「ソケク、船は」

「言うな」

 四人が乗り込むと、鎖がひとりでに外れた。

 小舟は星の川を滑り出した。

 三歩どころか、一揺れでソケクの顔は青くなった。

「地図描きが船酔いって、やっぱり詐欺だと思う」とマリス。

「地図は……陸で描くものだ……」

「海図は?」

「帰ってから議論しよう」

「帰る前提なの、いいね」とミケルが言った。

 川はやがて、巨大な地下湖へ注いだ。

 湖の天井には、町を支える肋骨が何百本も弧を描いている。その骨の一本一本に、古い鐘が吊られていた。風もないのに、鐘はかすかに揺れていた。

 そして湖の中央に、船が浮かんでいた。

 三本マスト。

 灰色の帆。

 船首像は翼を畳んだ鴉。

 ただし、帆柱は骨で、帆は縫い合わせた影でできている。

 船腹からは樹木の根のような黒い縄が湖へ伸び、船を底へ縛りつけていた。

 船尾に銀文字で船名が刻まれていた。

 〈灰鴉号〉

「幽霊船だ」とミケルが囁いた。

「まだ幽霊が出たとは限らない」とソケク。

「出てから言うのは遅いよ」

 船上で、何かが動いた。

 ぎい、と板が鳴る。

 人影が一つ、舷側へ現れた。

 長い外套。羽根飾りの帽子。片手に湾曲した剣。

 顔の左半分は人間だった。

 右半分は、珊瑚に覆われた骸骨だった。

「ようこそ!」

 男は両腕を広げた。

「七年ぶりの客人だ。しかも、マーラ・リードの息子とは運がいい!」

二 灰鴉号

 十本の鉤縄が飛び、小舟は灰鴉号へ引き寄せられた。

 甲板にいた船員たちは、人間と船の中間のような姿をしていた。

 腕が帆綱になった者。背中から舵輪が生えた者。口を開くたび、歯の代わりに小さな錨が並ぶ者。誰もが体のどこかを船に奪われている。

 帽子の男だけは堂々としていた。

 珊瑚の骸骨顔さえ、勲章のように見せている。

「灰鴉号船長、エルカン・ヴォリン。王国七海の敵、嵐の愛人、借金取りの天敵だ」

「最後のだけ本当っぽい」とバル。

「気に入ったぞ、丸い少年」

「丸くない。成長途中だ」

 ヴォリン船長は笑い、ソケクの首元へ剣先を差し入れた。

 服の下から、壊れた六分儀の鎖を引き出す。

「その鍵を持っているなら、地図もあるな」

「母さんを知ってるのか」

「知っていた。彼女はこの船の航海士だった」

 ソケクの喉が詰まった。

「嘘だ。母さんは海図局の仕事で――」

「役所の船が、夜中に偽旗を掲げるか?」

「じゃあ、母さんは海賊だったの?」

「海賊は肩書きではない。請求書を払わず海へ出た者に、陸の人間がつける悪口だ」

「格好よく言っても借金だよ」とミケル。

「君は長生きしない声をしているな」

 船長は外套の内側から、真鍮の羅針盤を取り出した。

 蓋に、マーラ・リードの名が刻まれている。

 ソケクは思わず手を伸ばした。

 船長は羅針盤を閉じた。

「七年前、我々は〈黎明の真珠〉を探してここへ来た。真珠は、どんな呪いも解き、どんな海にも道を開くと伝えられている。だが最後の門で、マーラは我々を裏切った。真珠を持って逃げ、この船を湖底へ縛った」

「母さんはそんなことしない」

「親の昔話は、子どもが知らない章ほど面白いものだ」

 船長が指を鳴らす。

 船員たちが四人を囲んだ。

 マリスは金槌を構えたが、腕が縄になった船員にひょいと取り上げられた。

「返して」

「お嬢ちゃん、これは危ない」

「あなたの顔より安全よ」

「そりゃ違いねえ」

 船員が笑った瞬間、その頬から牡蠣が一つ落ちた。

 ヴォリン船長は地図を奪うと、甲板へ広げた。

 だが線はすべて消え、白紙になっていた。

「血筋にしか読めない仕掛けか。マーラらしい」

 ソケクが紙へ触れると、青い道筋が浮かんだ。

 船長の片方の目が細くなる。

「取引だ、少年。君が道を示す。我々が罠と怪物を片づける。真珠で呪いを解いたあと、宝庫の金貨は好きなだけ持っていけ。町も家も買い戻せる」

「断ったら?」

「君たちを一人ずつ湖へ沈め、最後の一人が親切になるまで待つ」

「取引というより脅迫ね」とマリス。

「海では同じ意味だ」

 ソケクは仲間を見た。

 ミケルは小さく首を振った。

 バルは船員の腰にある干し肉を見ていた。

 マリスは床へ落ちた金槌までの距離を測っている。

「分かった」とソケクは言った。「案内する」

 マリスが目を剥いた。

「ただし、羅針盤を先に返して」

「半分だけだ」

 船長は蓋を外し、ソケクへ投げた。針と本体は自分の懐へ戻す。

「用心深い子どもは嫌われるぞ」

「用心深くない海賊より長生きする」

 船長は愉快そうに笑った。

「なるほど。マーラの息子だ」

 船員たちが根のような係留索を切り始めた。

 だが最後の一本だけは、斧を打ち込んでも傷一つつかない。

 ソケクが地図を見ると、係留索のそばに小さな音符が描かれていた。

「ミケル。これ、読める?」

「古い聖歌の記号だ。音じゃなく、息の長さを示してる」

 湖上の肋骨鐘を見上げる。

 十二個の鐘に、それぞれ異なる刻印があった。

 ミケルは甲板の号鐘を借り、地図どおりの間隔で鳴らした。

 かん。

 かん、かん。

 長く一度。

 短く三度。

 肋骨の鐘が共鳴し、地下湖全体が青く光った。

 最後の係留索が蛇のようにほどける。

 灰鴉号は、七年ぶりに前へ進んだ。

 歓声が上がる。

 その騒ぎの中、年老いた女海賊がソケクの横へ立った。

 髪は白い帆布、右手は羅針盤の針になっている。

「イーヴァだ。副長をしてる」

「母さんを知ってた?」

「ああ。あんたより嘘が下手で、あんたより船に強かった」

「船長は、母さんが裏切ったって」

「船長は自分に都合の悪い真実を、裏切りと呼ぶ癖がある」

 イーヴァは前方の闇を見た。

「覚えておきな。呪いを解く品は、たいてい別の何かを縛っている」

 それだけ言うと、彼女は離れた。

 やがて湖の先に、石造りの水門が現れた。

 門の上には、長い食卓を囲む十二人の像が彫られている。だが中央の席だけが空で、椅子の背に巨大な口が刻まれていた。

 門はすでに開いていた。

 その向こうから、音楽が聞こえる。

 笛でも太鼓でもない。

 濡れた指で、巨大な歯を撫でるような音だった。

三 口なき宴

 灰鴉号は、石の岸壁へ船をつけた。

 その先は地下都市だった。

 空鯨の胸郭の内側に、黒い塔と橋が逆さに吊られている。窓という窓には緑の火が灯り、道には仮面をつけた人々が列を作っていた。

 全員、銀の皿を持っている。

 皿の上には、何も載っていない。

「町の人だ」とマリスが囁いた。

 列の中に、鍛冶屋の親方がいた。パン屋の女将がいた。役場の書記、学校の先生、港の綱取り。皆、眠ったような足取りで進んでいる。

 顔には、口のない白い仮面。

「黒潮月の祭りは地上でやるはずだ」とミケルが言った。

「表向きはね」とイーヴァが答えた。「本当の祭りは下だ」

「みんな操られてるの?」

「三十三年に一度、バラムの骨から歌が流れる。長く町に住んだ者ほど逆らえない。子どもは骨の歌が染みてないから、まだ自由なんだろう」

 ソケクは地図を見た。

 道筋は、行列の先――胸骨の真下にある円形神殿へ続いている。

 船長は部下を二手に分けた。

「表から騒ぎを起こせ。子どもたちは裏道を案内しろ。真珠を取ったら船へ戻る」

「町の人たちは?」ソケクが聞いた。

「真珠を手に入れれば目を覚ます」

「本当に?」

「私の顔を見ろ。嘘をつくには誠実すぎる」

 骸骨側の顔がにたりと笑った。

 裏道は、地下都市の台所へ通じていた。

 何百という鍋が火にかけられている。

 中身は黒いスープで、表面に星が映っていた。長い腕を持つ料理人たちが、目隠しをしたまま空の皿へスープを注いでいる。

 バルの腹が鳴った。

「食べるなよ」と三人が同時に言った。

「匂いをかいだだけだ」

「鼻を皿から離して」

 天井から、袋に入った何かが吊られている。

 袋の一つがもぞもぞ動き、くしゃみをした。

 マリスが縄を切ると、中から小さな生き物が落ちてきた。

 猫ほどの大きさ。

 コウモリの翼。

 魚の尾。

 頭には角が一本。

「洞竜の子どもだ」とミケル。

「食材じゃないよな?」バル。

「その確認を最初にするな」

 洞竜はバルのパンへ噛みついた。

 一斤を三口で飲み込み、彼の肩へ登る。

「名前はシュレクだ」

「勝手につけた」

「パンを一斤しまったから」

 厨房の奥で鐘が鳴った。

 行列が止まり、仮面の人々が一斉に膝をつく。

 神殿中央には、白い布をかけた長大な食卓があった。

 皿は千枚。

 椅子は千脚。

 だが、上座にだけ椅子がない。

 代わりに、床が丸く裂けていた。

 裂け目の底で、海が呼吸している。

 ざあ。

 ざあ。

 海面が上下するたび、見えない巨体の輪郭が浮かぶ。

 目なのか泡なのか分からない円が、いくつも開いては閉じた。

 食卓の端に、赤い法衣の男が立った。

 口のある金色の仮面をつけている。

「錨税局長ヴェルクだ」とマリスが呻いた。

 町を差し押さえようとしている張本人だった。

 ヴェルクは両手を上げた。

「客人は三十三年ぶりに目覚める! 地上の町は器、空鯨の骨は食卓、我らの記憶は香辛料! 今宵、深き宴主ノモルへ、千の夢を供する!」

 仮面の人々が銀皿を胸に当てた。

 皿の上に、淡い光が浮かぶ。

 幼い日の記憶、結婚式、初めて焼いたパン、亡き家族の顔。人々の思い出が、小さな幻となって皿へ吸い出されていく。

「税金じゃない」とソケクは言った。「町を空にするつもりだったんだ。みんなを追い出せば、祭りの邪魔をする人もいなくなる」

「違う」とミケル。「追い出す前に、最後の宴をやる。記憶を全部食べさせて、抜け殻になった町を差し押さえるんだ」

「最低ね」

「役人としても、司祭としてもな」

 ヴォリン船長は笑みを消していた。

 視線は神殿の奥、二本の角柱のあいだに置かれた透明な箱へ向いている。

 箱の中で、真珠が光っていた。

 拳ほどの大きさ。

 朝焼けのすべてを閉じ込めたような金色。

 〈黎明の真珠〉

 ソケクの地図が熱を持った。

 同時に、母の羅針盤の蓋が震えた。

 蓋の内側に、今までなかった文字が浮かぶ。

 ――真珠は鍵ではない。栓である。

 ソケクは息を呑んだ。

「船長、待って。あれを取ったら――」

 ヴォリン船長はもう走っていた。

 海賊たちが一斉に神殿へ乱入する。

 銃声。悲鳴。銀皿が宙を舞う。

 仮面の信徒たちは眠ったまま動かない。

 だが厨房の料理人たちが目隠しを外した。目のあるべき場所に、小さな口がいくつも並んでいた。

「侵入者だ!」

「真珠を守れ!」

「子どもたちを船へ!」イーヴァが叫ぶ。

 ソケクは首を振った。

「真珠を取らせちゃだめだ!」

 彼はヴォリン船長を追った。

四 マーラの嘘

 透明な箱には鍵穴がなかった。

 ヴォリン船長が剣で叩いても、銃で撃っても傷つかない。

 そこへソケクが近づくと、箱の表面に手形が浮かんだ。

「血筋の錠だ」と船長が言った。「開けろ」

「開けたら、下の何かが出る」

「真珠が呪いを解く」

「真珠が怪物を封じてるんだ!」

 船長の剣がソケクの喉へ向いた。

「開けろ」

 そのとき、羅針盤の蓋から光があふれた。

 空中に、女の姿が映る。

 色褪せた青い外套。

 風に乱れた赤茶の髪。

 疲れているのに、目だけは笑っている。

 ソケクの記憶より少し若い母だった。

『これを見ているのがソケクなら、まず謝る。帰れなかった』

 ソケクの胸が痛んだ。

 声を出すと幻が消えそうで、息さえできなかった。

『ヴォリンが見ているなら、やっぱり来たのね。あなたは諦めが悪いから』

「黙れ」と船長が呟く。

『黎明の真珠は、願いを叶える宝ではない。宴主ノモルを眠らせる、朝の欠片。灰鴉号の呪いは真珠では解けない』

 海賊たちがざわめいた。

『あなたたちの呪いは、自分で望んだ航海の結果よ。ヴォリン、あなたは海底の門でこう願った。〈誰にも終わらせられない航海を〉と。だから船は終われず、船員は少しずつ船になった』

「嘘だ!」船長は叫んだ。

『終わらせる方法は一つ。船長が自分の意志で船を沈めること。宝も名声も航路も捨てて、航海の終わりを選ぶこと』

 イーヴァが目を閉じた。

 ほかの船員たちは、船長を見た。

 ヴォリンの人間側の顔に、恐怖が走った。

「船を沈めれば、我々は何も残らん」

『だから、あなたにはできない』

 母の幻は、ソケクへ顔を向けた。

『ソケク。地図には、正しい道だけを描いてはいけない。人は正しい道ほど疑わず進む。だから私は、最後に一つだけ嘘を描いた』

 ソケクは地図を広げた。

 赤い丸。真珠の位置。

 そこから灰鴉号へ戻る青い線。

 だが紙を裏返すと、薄く別の道が透けて見えた。

 神殿の下、宴主の口を回り込み、空鯨の頭蓋へ至る細い道。

『真珠を持って、朝の鐘へ。黒潮月が完全に重なる前に、鐘を鳴らして。そうすればノモルはもう三十三年眠る。私は七年前、それをしようとして――間に合わなかった』

「母さんは、どこにいるの」

 幻のマーラは少しだけ困った顔をした。

『地図の中にはいない。羅針盤の中にもいない。これはただの記録。だから、探しに来ないで』

 ソケクの目から涙が落ちた。

『帰る場所を守って。できれば、友だちと一緒に』

 光が薄れる。

『それから、船酔いは治らないから、陸の地図描きになりなさい』

 幻は笑い、消えた。

 静寂のあと、ヴォリン船長が透明な箱へソケクの手を押しつけた。

 箱が開いた。

「やめろ!」

 船長は黎明の真珠を掴んだ。

 神殿全体が跳ね上がった。

 裂け目の海が盛り上がり、食卓が真ん中から折れる。

 千枚の皿が宙へ浮き、吸い取った記憶が光の雨となって渦を巻いた。

 地の底で、巨大な口が開いた。

 歯ではない。

 町を支える空鯨の肋骨そのものが、内側へ曲がり始める。

 ノアキル港全体が、ノモルの口蓋だったのだ。

「船へ戻れ!」ヴォリンが叫んだ。「真珠があればどんな海へも逃げられる!」

「船長!」イーヴァが立ちはだかった。「終わらせる時だ」

「退け」

「七十年、あんたについてきた。十分だ」

 ヴォリンは彼女を斬った。

 剣は帆布の肩を裂き、羅針盤の針になった右腕を切り落とした。

 イーヴァが倒れる。

 マリスが床を滑り、落ちていた金槌を拾った。

「それ、私の!」

 全力で投げる。

 金槌は船長の骸骨側の顎へ命中した。

 珊瑚の歯が三本飛び、黎明の真珠が手から転がった。

 バルの肩にいたシュレクが飛びつき、真珠をくわえる。

「シュレク、こっち!」

 洞竜は翼をばたつかせ、バルの胸へ飛び込んだ。

「逃げるぞ!」ソケクは叫んだ。

 四人は、地図の裏側に記された道へ駆けた。

五 朝の鐘

 隠し道は、宴主ノモルの喉の縁を走っていた。

 下を見れば、海ではない闇が渦巻いている。

 闇の中には、食べられた無数の記憶が浮かんでいた。知らない町、知らない時代、知らない空の下で笑う人々。三十三年ごとに捧げられた夢だ。

 背後から銃声が響く。

 ヴォリン船長と、彼に従う数人の海賊が追ってくる。

 さらに後ろでは、金色の仮面を失ったヴェルクが、口の群れを持つ料理人たちを率いていた。

「真珠を返せ!」ヴェルクが叫ぶ。「宴主が空腹のまま目覚めれば、町どころか海が食われる!」

「そもそも起こしたのはあんたでしょ!」マリスが叫び返す。

 道の先に、三つの扉が現れた。

 笑う口。

 泣く口。

 噛みつく口。

「またか!」バルが言った。

「今度は質問が違う!」

 笑う口が尋ねる。

『宝を得た者よ。最初の願いは何だ』

 ヴォリン船長が追いつきながら叫んだ。

「永遠の自由だ!」

 笑う口が開き、船長たちを通した。

「正直なら開くんじゃないの?」ミケルが言う。

「この道は母さんの嘘だ。正直な答えが正解とは限らない!」

 泣く口が尋ねる。

『失った者よ。過去へ戻りたいか』

 ソケクは母の幻を思い出した。

 七年分の言葉が喉までせり上がる。

 戻りたい。

 出航の日へ。

 引き止められる朝へ。

 屋根裏で地図を広げ、まだ帰ってくると信じていた夜へ。

 けれど、母は言った。

 探しに来ないで。

 帰る場所を守って。

「戻りたい」とソケクは答えた。「でも、戻らない」

 泣く口が開いた。

「それで正解なの?」バルが目を丸くする。

「両方、本当だからだ」とミケル。

 四人が飛び込むと、扉は閉まり、ヴォリン船長の銃弾を弾いた。

 その先は、空鯨バラムの頭蓋骨だった。

 巨大な空洞の中央に、一本の鐘楼が立っている。

 鐘は半透明で、朝焼け色の金属からできていた。だが鐘の内側には舌がない。

 台座に文字が刻まれている。

 ――朝は、夜を拒む光ではない。

 ――夜を見終えた者が鳴らす音である。

「鐘の舌がない」とマリス。

「真珠だ」とソケクは言った。

 シュレクの口から黎明の真珠を受け取り、鐘の内側へはめる。

 ぴたりと収まった。

 だが鐘は動かなかった。

 床から十二本の鎖が伸び、それぞれ別の方向へ続いている。鎖の先には、地下湖の肋骨鐘と同じ刻印。

「一人じゃ鳴らせない仕組みだ」とミケル。

「十二人必要?」

「十二の音が必要なんだ」

 地図には、あの聖歌の記号があった。

 長く一度、短く三度。

 だが四人しかいない。

 扉の向こうで爆発が起きた。

 笑う口の道を通ったヴォリン船長が、別の通路から現れる。

 外套は裂け、珊瑚の顔がさらに広がっていた。

「真珠を渡せ、少年」

「船を沈めれば呪いは解ける」

「灰鴉号は私の名だ。私の王国だ。私の人生だ!」

「だからみんなを船にしていいのか!」

 船長は答えず、剣を抜いた。

 ソケクは武器を持っていない。

 マリスの金槌はさっき投げた。

 ミケルは細身で、バルはパンしか持っていない。

 バルが最後の一斤を掲げた。

「これでも食らえ!」

 投げた。

 船長は反射的に剣で斬った。

 パンの中に隠していた厨房の胡椒袋が破裂した。

 黒い粉が船長の顔を覆う。

 人間側の目と、骸骨側の空洞から、盛大なくしゃみが出た。

「今だ!」

 マリスが鎖を一本引く。

 ミケルとバルも続く。

 ソケクは四本目へ飛びついた。

 鐘がわずかに揺れた。

 音は出ない。

「足りない!」

 頭蓋の下で、灰鴉号の号鐘が鳴った。

 かん。

 イーヴァの声が、骨を通して響く。

『肋骨鐘を撃て! 地図の印どおりだ!』

 地下湖に戻った海賊たちが、大砲を鐘へ向けていた。

 第一砲が火を噴く。

 砲弾が一番目の鐘を叩く。

 青い音が骨を走り、頭蓋へ届いた。

 続いて二番、三番。

 長く一度。

 短く三度。

 十二の肋骨鐘が、海賊の砲撃で次々に鳴る。

「裏切り者ども!」ヴォリン船長が吠えた。

 船長がソケクへ斬りかかる。

 シュレクが顔へ飛びつき、帽子を奪った。

 視界を失った船長はよろめき、鐘楼の縁へ追い詰められる。

 足元の亀裂から、黒い触手が伸びた。

 触手には吸盤の代わりに、小さな食卓が無数に並んでいる。

 椅子に座る影たちが、一斉に船長へ手を伸ばした。

「私は終わらん!」ヴォリンは叫んだ。「この航海は、誰にも終わらせられない!」

 その願いに応えるように、彼の両脚が木へ変わった。

 胴が船首材へ伸び、両腕が飾り翼となる。

 船長の体は灰鴉号へ引かれていった。

 最後に残った顔が、木彫りの船首像へ変わる。

 灰鴉号の鴉像は消え、代わりにヴォリン船長の像が船首へ縫いつけられた。

 航海は終わらない。

 船長だけが、永遠に先頭へ立つ。

「今よ!」イーヴァの声。

 最後の肋骨鐘が鳴った。

 十二の音が重なり、頭蓋の朝鐘へ集まる。

 ソケクたちは鎖を引いた。

 黎明の真珠が鐘の内側を打つ。

 ごおおおおん。

 音ではなく、朝が広がった。

 金色の光が頭蓋を満たし、地下都市へ流れ、湖を渡り、空鯨の骨という骨を走る。黒潮月の闇が内側から裂けた。

 宴主ノモルが、初めて声を上げた。

 それは怒りでも悲鳴でもなかった。

 眠りを邪魔された子どものような、長く不満げな溜息だった。

 裂け目の海が閉じる。

 触手が消える。

 千枚の銀皿から記憶が飛び立ち、仮面の人々の胸へ戻っていく。

 地上で、ノアキル港の住民たちが一斉に目を覚ました。

 そして地下湖では、イーヴァが灰鴉号の舵を折った。

「航海を終えるぞ!」

 船員たちが斧を振るい、マストを切る。

 帆を裂き、船底へ穴を開け、積み上げた財宝を湖へ投げ捨てる。

 灰鴉号はゆっくり沈み始めた。

 船員たちの体から、縄がほどける。

 錨の歯が抜け、珊瑚の皮膚が剥がれ、失われていた人間の姿が戻っていく。

 イーヴァは切られた腕を抱え、笑った。

「やっと港だ」

 船が水面へ消える直前、船首像になったヴォリン船長だけが目を開いた。

 何かを叫ぼうとしたが、口から出たのは、木が軋む音だけだった。

 灰鴉号は沈んだ。

 黒い湖に、朝色の波紋が広がった。

六 最後の宝箱

 神殿が崩れ始めた。

「走れ!」とイーヴァが叫んだ。

 元海賊たち、目を覚ました町の人々、四人の子ども、洞竜一匹が、鯨の喉を地上へ向かって駆けた。

 途中、ヴェルクが金色の仮面を抱えて追いついてきた。

「待て! 私は王立役人だ! 私を先に通せ!」

 マリスは走りながら、床の出っ張りを金槌で叩いた。

「返してもらったのか」とソケク。

「顔に当たったあと拾った」

 仕掛けが動き、横壁から長い食卓が飛び出した。

 ヴェルクは卓上へ乗せられ、そのまま坂道を滑って逆方向へ消えていった。

「どこへ行くの?」バル。

「厨房」

「かわいそうに」

「料理人たちが?」

「食材が」

 背後でヴェルクの悲鳴が遠ざかった。

 四人は星の川へ戻った。

 小舟はない。

「泳ぐの?」ミケルが言った。

「星の中を?」

「ソケクは船より泳ぎのほうが」

「どっちも吐く!」

 シュレクが翼を広げ、甲高く鳴いた。

 すると暗闇から、何十匹もの洞竜が飛んできた。

 親らしい大きな一匹がシュレクの匂いを嗅ぎ、四人を順番に見た。

 バルが最後のパン屑を差し出す。

「助けてくれたら、地上にパン屋がある」

 洞竜は一声鳴き、背を低くした。

「交渉成立だ」とバル。

「お前、将来は外交官になれるよ」とミケル。

「パン屋になる」

 四人とイーヴァは洞竜の背に乗り、星の川をさかのぼった。

 ほかの人々も後へ続く。

 地下室へ飛び出したとき、夜明けの鐘が鳴った。

 だが屋外には、すでに王立錨税局の黒い馬車が列を作っていた。

 黒潮月の夜が明けるのを待って、差し押さえに来たのだ。

 先頭の役人が書状を広げる。

「税局長ヴェルクの命により、未納分の徴収を――」

 地上へ戻った町の書記が、その書状を奪った。

「ヴェルク局長は地下で邪教の祭儀を行い、公文書を偽造し、住民の記憶を怪物へ供与しようとしました」

 役人たちは黙った。

「税法のどの条文です?」マリスが聞いた。

「少なくとも正規業務ではない」と先頭の役人が言った。

 偽造帳簿は神殿から見つかった。

 ノアキル港の税金は、実際には三年前に完納されていた。ヴェルクは町を無人にするため、架空の延滞金を積み上げていたのだ。

 差し押さえ札は剥がされた。

 鍛冶屋の炉に火が戻り、パン屋の煙突から煙が上がった。

 住民たちは泣き、笑い、戻ってきた記憶を互いに確かめた。

 その騒ぎの中、ソケクは地下室へ戻った。

 床に、母の羅針盤の本体が落ちていた。

 ヴォリン船長が真珠を奪ったとき、懐からこぼれたらしい。

 蓋をはめる。

 針はしばらく迷うように回り、それから北ではなく、ソケクの屋根裏部屋を指した。

「壊れてる?」マリスが覗き込む。

「たぶん、正しい」

 屋根裏へ上がると、羅針盤は古い海図棚を指した。

 棚をどかす。

 壁板の裏に、小さな箱が隠されていた。

 箱には母の字で、こうある。

 ――帰れたときのために。

 中には金貨がなかった。

 宝石もなかった。

 白紙の地図帳が一冊。

 まだ誰も描いたことのない海岸線を待つ、厚い紙。

 その下に、古びた銀貨が四枚あった。

 灰鴉号の船員たちが使っていた海賊貨幣だ。

「一枚ずつってこと?」バルが言った。

「たぶん」

「これでパンは買える?」

「王都なら家が一軒買える古銭よ」とマリス。

「パン屋にしよう」

 最後に、一枚の紙が入っていた。

 ――宝を見つけたら、全部持ち帰ろうとしないこと。

 ――持ち帰れるだけの仲間がいたなら、それで十分。

 ソケクは紙を長いあいだ見つめた。

 泣くつもりはなかった。

 だが隣でミケルが先に鼻をすすり、バルが目を赤くし、マリスが「埃よ」と言い張ったので、我慢するのが馬鹿らしくなった。

 四人は床へ座り込んだ。

 窓の外で、朝日が空鯨バラムの肋骨を金色に染めていた。

 一か月後。

 元海賊のイーヴァは港の水先案内人になった。

 右腕はマリスが作った真鍮の義手で、指先に方位磁針がついている。

 ミケルは聖歌隊へ戻った。ただし今度は、地下湖の十二鐘を模した新しい曲を作り、指揮者を困らせている。

 バルの家では「洞竜パン」が売り出された。

 角の形をした固いパンで、シュレクとその家族が毎朝屋根へ買いに来る。

 マリスの鍛冶場には、金槌投げ禁止の札が三枚貼られた。

 全部、本人が無視した。

 ソケクは地図描きになった。

 船には乗らない。

 少なくとも、大きな船には。

 彼は町の地下を歩き、母が残した道を一つずつ描き直した。正しい道と、危険な道と、必要な嘘を、違う色のインクで記した。

 白紙の地図帳の最初のページには、こう題した。

 〈ノアキル港地下図――帰り道を先に描くこと〉

 そして地図の隅に、四人と一匹の印を入れた。

 それからも月のない夜になると、ノアキル港は歯ぎしりをした。

 ぎり、ぎり、ぎり。

 けれど住民たちは、もう怖がらなかった。

 朝を知った古い鯨が、骨の底で笑っているのだと、皆が知っていたからだ。