黄昏十三里
鐘は十二までだ。
十三度目を聞いたなら、振り向いてはいけない。
振り向いた者は、自分が来た道に立っている。
「あと十三里だ」
高瀬透は、ひびの入った腕時計を見て言った。
液晶には、八か月前から変わらない数字が浮かんでいる。
十八時十三分。
発掘現場で青銅の円盤に触れた瞬間、この時代へ落ちてきた時刻だった。
「その板切れ、道の長さまで教えるのか」
戒旺が、鉄の錫杖を肩に担いだ。旅僧を名乗ってはいるが、戒律を守っているところを透は一度も見たことがない。黒衣は砂埃で灰色になり、首に巻いた数珠には酒壺の栓まで通してある。
「教えない。地図と歩幅から計算した」
「なら最初からそう言え。未来の宝具みたいに見せびらかすな」
「見せびらかしてない」
「二人とも、口を動かすなら足も動かせ」
先を行く翠蘭が振り返った。砂色の外套の下に、細身の湾刀を二本差している。かつて落日関の騎兵隊を率いていた女だ。今は、味方の将を斬った罪で追われている。
斬られた将が敵に門を売った男だったことを、朝廷は知らない。
少なくとも、明日の朝までは。
翠蘭の胸元には、その男から奪った黒玉の印璽がある。内通の証拠だった。
明日の夜明け、落日関では内側から水門が開かれる。
砂漠の地下水が城壁の基礎を崩し、待ち伏せていた北軍が雪崩れ込む。
史書はそれを「三万骨の朝」と記す。
死者、三万一千四百余。
生存者、百十九。
透はその数字を、大学院の閲覧室で何度も読んだ。
紙の上ではわずか一行だった。だが、この時代に来てから、数字には顔があると知った。
落日関の門番は、娘のために木馬を削っていた。
炊事場の老婆は、戒旺に塩を盗まれて本気で追い回した。
若い兵士は、翠蘭が死んだという噂を信じず、毎晩ひそかに彼女の馬具を磨いていた。
彼らが明日、数字になる。
「間に合う」
透は自分に言い聞かせた。
「日が落ちる前に宿を見つけられればな」と戒旺が言った。
「宿などない。この街道は落日関まで無人だ」
「お前の史書には、だろ」
戒旺が顎で前方を指した。
砂丘の向こうに、黒い瓦屋根が並んでいた。
透は足を止めた。
地図にはない村だった。
低い土塀。細い見張り台。風に鳴る白い小鐘。
家々の窓には明かりがあるのに、煙突から煙が出ていない。
門の額には、古びた文字でこう書かれていた。
無影里。
「影のない里」
透が読んだ時、最後尾を歩いていた阿瑠が顔を上げた。
十二、三歳ほどの盲目の少年だった。両目を白布で覆い、杖の先に三つの銅鈴を結んでいる。乾いた川底で倒れていたところを拾って以来、彼は一行についてきた。
「鐘がある」
「見れば分かる」
「見えてる鐘じゃないよ、戒旺」
阿瑠は耳を澄ませた。
「土の下で鳴ってる」
その言葉に応えるように、村の奥から鐘が鳴った。
ごうん、と腹の底を撫でる音だった。
一度。
門の内側で、すべての窓が同時に開いた。
村人たちは、四人を待っていた。
驚きもせず、笑いもせず、道の両側に立って頭を下げた。老人も子供も、まるで葬列を迎えるように白い服を着ている。
彼らの足元に、影はなかった。
夕日はまだ西に残っている。透たちの影だけが、長く東へ伸びていた。
「気に食わねえな」
戒旺が小声で言った。
「お前は、気に入ったもののほうが少ないだろう」
「酒と昼寝と、金を払う奴は好きだ」
「最後のは初耳だ」
二度目の鐘が鳴った。
村の中央には、三階建ての宿があった。軒に吊るされた看板には「帰来」とある。
引き戸を開ける前に、中から声がした。
「百一度目のご到着でございます」
白髪の女主人が、四つの椀を並べていた。
いや、五つだった。
四人分の湯気立つ粥の隣に、誰も座っていない席が一つある。
「誰と間違えている」
翠蘭の手が刀の柄にかかった。
「間違えてなどおりません、翠蘭さま」
女主人は彼女を見ずに言った。
「戒旺さまは、また酒蔵を探すでしょう。透さまは、北の道を試す。阿瑠さまは、十二度目の鐘で泣く。そして皆さま、十三度目にお戻りになる」
透の喉が乾いた。
「俺たちを知っているのか」
「存じておりますとも」
女主人は微笑んだ。
「百回、お泊めいたしましたから」
三度目の鐘が鳴った。
戒旺は無言で踵を返した。
「宿代を踏み倒すなら今だ」
四人は村を飛び出した。
北の道を走った。
砂丘を越え、枯れた柳を三本抜け、二股を右へ曲がった。透は足跡を数えた。千二百歩を超えた頃、遠くに土塀が見えた。
無影里の南門だった。
門前に、彼ら自身の足跡が続いている。
「輪になっているはずがない」
翠蘭が地面に膝をついた。
「ずっと北へ進んだ」
「砂漠で方角を失っただけじゃねえのか」
「夕日が左にあった」
「空のほうが回ったのかもしれん」
戒旺の冗談に、誰も笑わなかった。
四度目、五度目、六度目。
鐘が鳴るたび、夕日は少しも沈まないのに、空だけが暗くなった。
東の道は西門へ戻った。
塀を乗り越えると、宿の台所へ落ちた。
井戸に石を落とすと、背後の空から同じ石が降ってきた。
九度目の鐘が鳴る頃には、村人たちの顔から目鼻が消えていた。
白い卵のような顔が、四人の動きを追っていた。
十度目。
家々の壁から、墨で描いた獣が這い出した。
狼にも猿にも見える黒い影だった。牙は文字でできていた。噛みつかれた翠蘭の外套から、布ではなく、彼女の名前の一画が千切れた。
「こいつら、斬ると増えるぞ!」
翠蘭の双刀が黒い獣を裂くたび、二つの染みになって立ち上がった。
「なら潰す!」
戒旺の錫杖が地面を砕いた。鉄輪が鳴り、墨獣が紙のようにひしゃげる。
阿瑠が杖の鈴を振った。
「右、三歩。次は低い!」
透は腰の松明を抜き、墨獣へ投げつけた。火は獣を焼かず、そこに書かれていた文字だけを赤く浮かび上がらせた。
死。
敗。
無名。
不達。
すべて、史書の語だった。
十一度目。
村人たちが一斉に口を開いた。
「警告は届かなかった」
「落日関は陥ちた」
「死者三万一千四百余」
「生存者百十九」
透が知っている一節を、何百もの声が唱えた。
「黙れ!」
透は叫んだ。
十二度目の鐘が鳴った。
阿瑠が泣いた。
涙は白布の下から流れたのではない。杖の三つの鈴から、透明な雫が落ちた。
「来るよ」
「何がだ」
「僕たち」
地面から四つの影が立ち上がった。
透の影。
戒旺の影。
翠蘭の影。
阿瑠の影。
それぞれが持ち主と同じ姿になり、同じ武器を構えた。ただし顔には、女主人と同じ静かな微笑みがあった。
影の透が言った。
「間に合わない」
その声を聞いた瞬間、透の胸に、落日関の死体の山が流れ込んだ。
見たことのない記憶だった。
門番の木馬が血に浮かび、炊事場の老婆が鍋を抱えたまま倒れ、若い兵士の指が翠蘭の馬具を握っている。
これは未来だった。
いや、史書に固定された過去だった。
透は膝をついた。
影が彼の額へ手を伸ばした。
十三度目の鐘が鳴った。
世界が裏返った。
「あと十三里だ」
透は、自分の声で目を覚ました。
砂丘の向こうに無影里がある。
夕日は西に止まり、腕時計は十八時十三分を示している。
戒旺が鉄の錫杖を担いでいた。
翠蘭が先を歩いていた。
阿瑠の鈴が鳴っていた。
誰も、先ほどの出来事を覚えていない顔をしている。
だが透の掌には、焼け焦げた文字が残っていた。
不達。
「止まれ!」
三人が振り向いた。
透は翠蘭の胸元から印璽を借り、縁を調べた。
黒玉の側面に、細い傷が百一本ついていた。
一つ一つ、同じ深さだった。
「女主人は本当のことを言っていた」
透は印璽の縁へ、短剣で新しい傷を刻んだ。
百二本目。
「俺たちは、もう百一回ここへ来た」
戒旺はしばらく黙り、それから盛大にため息をついた。
「百回も泊まって、一度も酒にありつけてねえのか」
翠蘭が彼の脛を蹴った。
記憶を保てたのは、四人が同時に印璽へ触れたからだった。
二度目の百二回目――戒旺がそう呼んだ――から、彼らは鐘の合間を数え、村を調べた。
門を壊した。
井戸を干した。
宿を燃やした。
女主人を縛った。
何をしても、十三度目には砂丘の手前へ戻った。
宿は元に戻り、女主人は同じ粥をよそっていた。縛った縄だけが透の手首に巻きついていたこともあった。
百五回目、翠蘭が鐘楼へ登った。
屋根の上から見た無影里は、村ではなかった。
巨大な円盤だった。
十二本の道が放射状に伸び、家々は刻み目のように並んでいる。中央の鐘楼が軸で、夕日から落ちる四人の影が、盤上の針になっていた。
百七回目、戒旺が地下の酒蔵を見つけた。
酒はなかった。
代わりに、壁一面へ人の名前が彫られていた。
落日関で死ぬ兵士たちの名だった。
透が史書で見たことのない名が、三万以上並んでいた。
百十回目、阿瑠が村外れの廟を見つけた。
中には、四つの位牌があった。
戒旺。
翠蘭。
阿瑠。
高瀬透。
透の名だけが、この時代にはない字体で刻まれていた。
命日は明日。
場所は落日関。
「やはり、私たちは死ぬのか」
翠蘭は位牌を見つめた。
「史書には、翠蘭という将の名はない」
透は言いにくいことを言った。
「戒旺も、阿瑠も。落日関へ警告を届けた一行の記録はない。つまり……」
「全滅したか、記録する価値もなかったか」
戒旺が位牌を逆さにした。
「どっちでも同じだ。墓に入った後の評判で、腹は膨れん」
「でも、俺が歴史を変えれば、俺の時代が消えるかもしれない」
透は初めて、その恐怖を口にした。
「落日関の陥落は、大曜王朝が崩れるきっかけになった。戦乱は続いた。でも、その後に新しい国ができた。俺の生まれた時代へ、長い道がつながった。ここを救えば、その道そのものがなくなるかもしれない」
「では見殺しにするのか」
翠蘭の声は静かだった。
「未来にとって都合がいいから、明日死ぬ者に黙っていろと?」
「そうじゃない」
「同じだ」
彼女は位牌を抜き、床へ投げた。
「私は歴史を救いに行くのではない。門の上で震えている新兵を救いに行く」
戒旺が鼻で笑った。
「歴史ってのは墓石に似てる。読める字より、削れた名のほうが多い。お前は石の字を守りたいのか、まだ息をしてる奴を守りたいのか」
阿瑠は自分の位牌に耳を当てていた。
「この中、空っぽだよ」
「何がだ」
「死んだ音がしない」
少年は微笑んだ。
「まだ、決まってない」
その時、廟の床下から鐘が鳴った。
十三番目の鐘だった。
まだ、地上の鐘は一度も鳴っていなかった。
床を剥がすと、下へ続く石段が現れた。
四人は百十三本目の傷を印璽へ刻み、地下へ降りた。
石段の先には、円い部屋があった。
天井から十二の小鐘が吊られ、中央に青銅の円盤が浮いている。
透が発掘現場で触れたものと、同じ円盤だった。
星座と方位、十二支、知らない文字。
中心には、針のない小さな穴がある。
その前に、宿の女主人が立っていた。
「ようやく、ここまでお越しになりましたか」
「お前は何者だ」
翠蘭が刀を抜いた。
「曲玉と申します。かつて大曜の校史官を務めておりました」
「かつて?」
「景和二十七年、落日関で死にました」
曲玉は、自分の胸を指した。
そこには黒い矢尻が刺さっていた。今まで白い衣に隠れていた傷だった。
「私は陥落の記録を残すため、この定史盤を動かしました。三万の死を、誰にも改ざんさせぬために」
透は円盤を見上げた。
「歴史を保存する装置……」
「いいえ。歴史を、一つにする装置です」
曲玉の背後で、十二の鐘がかすかに揺れた。
「出来事には無数の枝がございます。警告が届く枝。届かない枝。将が信じる枝。疑う枝。門が開く枝。閉じる枝。人は後から、そのうち一本だけを『必然』と呼ぶ」
「この村は、枝分かれを閉じ込めているのか」
「あなたが来たためです、透さま」
曲玉は悲しそうに言った。
「あなたは、落日関が陥ちた未来から来た。そして落日関を救おうとしている。救えば、あなたをこの時代へ導いた未来が消える。救わなければ、あなたがここへ来た意味が消える。二つの因果が互いの首を絞め、時は先へ進めなくなりました」
「だから、十三度目に戻す」
「十二の結果を試し、十三で初めへ返す。それが定史盤の働きです」
曲玉は、部屋の隅にある小卓を示した。
五つ目の椀が置かれている。
中には、白い灰が満ちていた。
「印璽をその椀へ。警告を手放しなさい。そうすれば史書どおり、落日関は陥ちます。あなたは元の時代へ帰り、三人はここへ来なかったことになる」
「それが、五人目の客か」
阿瑠が言った。
「僕たちが捨てる、明日」
曲玉は答えなかった。
「もう一つの道は?」と透は聞いた。
「盤を壊すこと」
「簡単じゃねえか」
戒旺が錫杖を構えた。
「ただし、歴史は定まらなくなります。あなたの未来が残る保証はありません。救った王朝が、より多くを殺すかもしれない。三万を生かし、三百万を苦しめるかもしれない」
透の胸に、閲覧室の白い光がよみがえった。
コーヒーの染みがついた論文。
窓の外を走る電車。
母から届いた、帰省の日を尋ねる短いメッセージ。
すべてが消えるかもしれない。
「未来は、善いものだったのか」
曲玉が尋ねた。
透は答えられなかった。
戦争も、飢えも、虐殺もあった。
だが、笑う人も、愛する人もいた。
善いか悪いかを、一語で言えるほど単純な時代ではない。
「分からない」
透は正直に言った。
「だから、決めるのが怖い」
「怖いままで決めろ」
翠蘭が言った。
「怖くない者に、明日を選ばせるな」
戒旺が錫杖を回した。
「明日が悪くなるかもしれんから今日死ね、なんて説法は、破戒僧でも口にしねえ」
阿瑠は中央の円盤へ耳を向けた。
「鐘が怖がってる」
「鐘が?」
「うん。壊されるのをじゃない。分からない明日を」
透は黒玉の印璽を握った。
「なら、同じだ」
定史盤の中心へ歩み寄る。
「俺たちも怖い。盤だけ、安全な過去に隠れるな」
十二の鐘が一斉に鳴った。
壁から墨が噴き出した。
何千、何万という文字が絡み合い、巨大な竜の形を作った。角は年号、鱗は死者の名、牙は数字でできている。
墨竜が口を開く。
「警告は届かなかった」
部屋が震えた。
「落日関は陥ちた」
戒旺が先に飛び込んだ。
「うるせえ。百回聞いた!」
錫杖が墨竜の顎を打ち上げる。鉄輪から火花が散り、年号の角が砕けた。
翠蘭の双刀が鱗の隙間へ走る。
斬られた名前が悲鳴を上げ、黒い紙片になって舞った。
墨竜の尾が彼女を薙いだ。
翠蘭は壁へ叩きつけられた。立ち上がろうとして、動きを止める。
「私は……誰だ」
尾に触れた肩から、彼女の名が消えかけていた。
透は叫んだ。
「翠蘭! 落日関の騎兵隊長だ! 双刀で、口が悪くて、馬にはやさしい!」
「最後は余計だ」
翠蘭の目に光が戻った。
彼女は自分の腕へ刀で名を刻み、再び駆けた。
阿瑠が鈴を振る。
「戒旺、伏せて! 透、左の鐘を二つ!」
透は吊り縄へ飛びついた。
二つの鐘がぶつかり、濁った音を立てる。
墨竜の胴が歪んだ。
「こいつは音で形を保ってる!」
「十二の鐘じゃない」
阿瑠が床へ杖を突き立てた。
「十三番目が、この円盤そのものなんだ!」
透は定史盤を見た。
中心の穴は、印璽と同じ形をしている。
これは鍵ではない。
撞木だ。
墨竜が透へ襲いかかった。
戒旺が尾を数珠で巻き、両足を踏ん張る。
「さっさと鳴らせ!」
「鳴らしたら、全部変わる!」
「旅なんざ、角を一つ曲がるたび全部変わる!」
翠蘭が墨竜の首へ刀を交差させた。
「透!」
阿瑠の鈴が、澄んだ一音を鳴らした。
「まだ決まってない!」
透は印璽を中心の穴へ叩き込んだ。
定史盤が鳴った。
それは鐘の音ではなかった。
生まれなかった子供の産声。
届かなかった手紙を読む声。
戦場から帰った兵士の笑い。
王にならなかった男の寝息。
名を残さなかった無数の人々の、あり得た明日。
十三番目の音だった。
墨竜の全身から文字が剥がれた。
「警告は――」
声が途切れる。
透は印璽をさらに押し込んだ。
「今、届ける!」
円盤に亀裂が走った。
夕日が沈んだ。
無影里に、初めて夜が来た。
気づくと、四人は落日関の東門前に立っていた。
空には星があり、風は先へ流れていた。
背後に村はない。
城壁の上から誰何の声が飛ぶ。
「開けろ!」
翠蘭が黒玉の印璽を掲げた。
「水門を閉じろ! 内通者がいる!」
門はすぐには開かなかった。
死んだはずの元隊長が夜中に現れたのだ。疑うのが当然だった。
その時、城内で火の手が上がった。
歴史どおり、内通者たちが動き出した。
「北の貯水塔だ!」
透は史書の図版を思い出した。
「地下の亀裂渠から水門へ行ける。武器庫の床下だ!」
戒旺が門扉を見上げた。
「開けないなら、壊すか」
「味方の門だぞ」
「明日には敵の門になる」
錫杖が閂の位置へ突き刺さった。
翠蘭の刀が木材の継ぎ目を断つ。
阿瑠の鈴が、城内を走る兵の足音を拾う。
門が開いた。
それからの一刻を、透は生涯忘れなかった。
亀裂渠を走り、内通者と斬り結び、水門の歯車へ鎖を巻いた。北軍の先鋒が地下道から現れた時、戒旺が一人で橋を落とした。翠蘭は古い部下たちの前で印璽を掲げ、裏切り者の名を叫んだ。阿瑠は暗闇の中で矢の音を聞き分け、何十人もの兵を伏せさせた。
透は未来の知識を使った。
崩れる壁を知っていた。
伏兵の位置を知っていた。
誰がどこで死んだかを知っていた。
史書の一行一行が、今度は人を生かすための地図になった。
夜明け前、水門は閉じた。
北軍は退いた。
朝日が城壁を照らした時、門番は木馬を抱えて泣いていた。
炊事場の老婆は、戒旺の頭を鍋で殴った。
若い兵士は翠蘭の前で膝をつき、それから子供のように笑った。
三万一千四百余の死者は、そこにはいなかった。
生きている人間が、三万以上いた。
透の腕時計が動き出した。
十八時十四分。
たった一分、進んだ。
「帰るのか」
翠蘭が尋ねた。
透の足元から、白い光が立ち上っていた。
「たぶん」
「向こうの史書に、私をどう書く」
「落日関を救った将軍」
「美人だったと付け加えろ」
戒旺が酒壺を差し出した。
「俺は聖人にするな。税を取られそうだ」
「じゃあ破戒僧」
「ありのまますぎる」
阿瑠が透の袖をつかんだ。
「音を忘れないで」
「何の音?」
「まだ決まってない明日の音」
白い光が視界を覆った。
透は三人の名を叫んだ。
今度こそ、記録から消えないように。
目を開けると、透は白い床に倒れていた。
空調の音がする。
天井には照明が並び、壁は透明な硝子でできている。
戻った。
そう思った。
だが、発掘現場ではなかった。
広大な博物館だった。
透の前に、壊したはずの定史盤が展示されている。傷一つなく、青銅の表面を青い光が走っていた。
展示台の銘板を読んで、透は息を止めた。
『落日関の奇跡
景和二十七年、虚史鬼による王朝転覆を、三聖が阻止した事件。
これにより大曜皇統は永続し、現在の世界統一へ至る。
統一暦二四一七年、皇史院蔵』
三聖の肖像が壁いっぱいに描かれていた。
鉄の錫杖を持つ戒旺。
双刀を掲げる翠蘭。
白布で目を覆った阿瑠。
その足元で、黒い影の怪物が踏みつけられている。
怪物の顔は、透だった。
「展示物から離れなさい」
背後で声がした。
黒い制服を着た係官が二人立っている。胸には同じ番号札があり、名前はない。
周囲の見学者たちも、全員が番号札を付けていた。
誰も私語をせず、同じ歩幅で展示を巡っている。
窓の外には、見知らぬ都市が広がっていた。
尖塔の群れ。空を横切る銀色の車。すべての屋上に、大曜の金色の旗が翻っている。
街頭の巨大な画面で、白い仮面の皇帝が演説していた。
『私名は争いを生む。異史は反逆を生む。唯一の歴史に、唯一の民を』
見学者たちが一斉に頭を下げた。
透は動けなかった。
落日関は救われた。
王朝は倒れなかった。
倒れなかったまま、二千年以上、世界を覆った。
「違う」
透は呟いた。
「こんな未来を選んだんじゃない」
「未来を選ぶ者は、いつもそう申します」
係官の一人が答えた。
その声は、宿の女主人、曲玉の声だった。
透が顔を上げると、係官の顔から目鼻が消えていた。
白い卵のような顔が、静かに笑う。
博物館の時計が鳴った。
一度。
二度。
三度。
見学者たちの影が、床から立ち上がった。
四度。
五度。
六度。
都市の尖塔が、巨大な円盤の刻み目へ変わっていく。
道路が十二方向へ伸び、銀色の車が針のように回る。
七度。
八度。
九度。
透は展示台の裏に、小さな人影を見つけた。
白布で目を覆った少年が、三つの鈴を結んだ杖を持っている。
「阿瑠」
少年は首をかしげた。
「その名前、まだ覚えてたんだ」
十度。
「ここは未来じゃないのか」
「未来だよ。選ばれなかった未来」
十一度。
「無影里は壊した」
「村はね」
阿瑠は、窓の外の都市を指した。
「でも、盤はもっと大きな里を作った」
十二度。
「外はどこだ」
少年は少し考えた。
「鐘の外へ出た人は、まだいないよ」
「何回目なんだ」
「今ので、百十三回目」
阿瑠の鈴から、透明な涙が落ちた。
「三万を見殺しにする未来。三万を救って世界を閉じる未来。どちらを選んでも、透は違うって言う」
「どちらも間違っている」
「うん」
少年は嬉しそうに笑った。
「だから、また十三里歩くんだ」
十三度目の鐘が鳴った。
「あと十三里だ」
透は、ひびの入った腕時計を見て言った。
液晶には十八時十三分。
砂丘の向こうには、まだ何もない。
戒旺が鉄の錫杖を肩に担いでいる。
翠蘭が先を歩いている。
阿瑠の鈴が、夕風の中でかすかに鳴った。
「どうした、透」
翠蘭が振り返った。
透は三人の顔を見た。
門番の木馬を思った。
番号で呼ばれる未来の人々を思った。
史書に残らない、無数の道を思った。
正しい答えは、まだなかった。
だが、同じ問いを同じように解く必要もない。
「今度は、村へ入る前に話がある」
「今度?」
戒旺が眉を上げた。
透は黒玉の印璽を手に取り、その縁へ刻まれた百十三本の傷を見せた。
遠く、土の下で鐘が鳴った。
一度目だった。
夕日は沈まなかった。
それでも四人は、今までとは違う場所に影を落としていた。