黄昏宮の砂糖薔薇
ニナが自分の誕生日を知らない代わりに知っていたのは、砂糖には記憶が染みこむ、ということだった。
うれしい日に煮た飴は、舌の上で小さな鐘のように鳴る。
泣いた日に焦がしたカラメルは、どれほど甘くしても、最後に雨の味がする。
十九年前の嵐の晩、ニナは王都モフィアリアの孤児院〈聖鐘の家〉の門前で見つかった。籠も産着もなく、濡れた毛布と、銀紙に包まれた黒い飴がひとつだけ。院長のモメア先生は、その飴を捨てずに小箱へしまい、ニナが十二になった日に渡してくれた。
「お母さまが残したものかもしれないからね」
けれどニナは、まだ一度も包みを開いていない。
母親の顔を知らない人間は、母親の最後の味を知るのが怖い。
その代わり、ニナは人に飴を作った。
弟分のポルが熱を出せば、薄荷と蜂蜜で青い星を作った。小さなミレイが里親の家へ向かう朝には、杏とミルクを練った橙色の丸い飴を持たせた。寂しくなったときに噛まずになめれば、食堂の長椅子や、洗濯物の間を走り回った午後を思い出せるように。
十八で孤児院を出てからは、石畳の市場に屋台を出した。看板には、子どもの字で〈ニナの思い出飴〉と書いた。
貴族の菓子職人のように、金箔も異国の香料も使えない。けれどニナの飴を食べると、忘れていた声や、失くした風景がふいに胸へ戻るという評判が立った。
もっともニナ自身は、それを魔法だとは思っていなかった。
「人はね、思い出すきっかけを待ってるだけ。飴は小さいから、心の隙間へ入りやすいのよ」
そう言って笑うと、たいていの客はもう一袋買った。
王宮から迎えが来たのは、六月の雨が市場の天幕を銀色にしていた午後だった。
黒い馬車から降りた女は、濡れた石畳へ長靴の踵を鳴らした。銀の飾緒をつけた紺の軍服。腰には細身の剣。背は高く、淡い金髪をうなじで結び、雨粒さえ命令に従わせそうな灰色の目をしていた。
「ニナ・ベルか」
「借金取りなら、ベルは鐘の音のほうです。鳴らしてもお金は出ません」
女の口元が、ほんの少しだけ動いた。
「近衛隊長、イレーネ・アルジェントだ。王太子殿下がおまえの飴を召し上がった」
「食あたりですか」
「十年ぶりに、亡くなった妹君の名を口にされた」
雨音が一瞬、遠くなった。
イレーネは一枚の勅書を差し出した。
「一週間後の建国舞踏会まで、黄昏宮に滞在し、菓子を作れとのご命令だ」
ニナは孤児院の雨漏りする屋根を思った。冬までに買わなければならない薪を思った。勅書に記された報酬は、聖鐘の家を三度建て直しても余る額だった。
「行きます」
答えてから、ニナは屋台の戸を閉めた。
「ただし、厨房では私の言うことを聞いてもらいます。砂糖は身分を見ませんから」
「王宮でそれを言う者は、長生きしない」
「隊長さんは長生きしたいんですか」
イレーネは雨の向こうにそびえる宮殿を見た。
「今朝までは、そう思っていた」
黄昏宮は、遠くから見ると薔薇色だった。
夕日を混ぜたような石で築かれ、百二十の窓と、三十六の塔を持つ。だが近くで見ると、壁には細い亀裂が走り、窓辺の彫像はみな、何かを言いかけたまま口を閉ざしていた。
門前にはパンを求める人々の列があり、そのすぐ内側では、舞踏会のための白薔薇が荷車いっぱいに運びこまれていた。
「外では小麦が去年の四倍よ」
ニナが言うと、イレーネは前を向いたまま答えた。
「宮中では、値段の上がるものを数えない」
「便利ですね」
「便利な仕組みは、たいてい誰かの背中に載っている」
宮殿の回廊へ入ったとき、ニナは最初の奇妙なものを見た。
壁の大時計が、十一時四十七分で止まっていた。
次の広間の置時計も、侍女の控え室の小時計も、厨房の煤けた時計まで、針は同じ時刻を指している。
「全部、壊れてるんですか」
「止めてある」
「どうして」
「建国の夜、最初の銃声が鳴った時刻だそうだ」
「建国を祝う宮殿が、銃声の時刻を忘れないなんて」
「王家は、忘れたいものほど飾りたがる」
厨房では、四十人の料理人と菓子職人がニナを待っていた。
総料理長は、彼女の市場服と泥のついた靴を見て鼻を鳴らした。
「この娘が、殿下のお口に妙な幻を見せたという飴売りか」
「幻ではありません」
ニナは作業台へ籠を置いた。
「思い出です。幻より扱いが難しいので、邪魔をしないでください」
その日のうちに、ニナは銅鍋を磨かせ、湿気た砂糖を捨てさせ、香料棚の半分を窓から遠ざけた。怒鳴る総料理長には、煮詰めたシロップの温度を指先だけで当ててみせた。
夕方、試作の飴ができた。
白い薔薇の形をした、小指の爪ほどの砂糖菓子だった。中には酸味の強い野苺の蜜を一滴閉じこめてある。
「ずいぶん小さい」
背後から声がした。
ニナが振り向くと、白いシャツ姿の青年が立っていた。黒に近い栗色の髪。青い目。肖像画で見た王太子ユリアンその人だったが、絵より痩せ、絵よりずっと疲れて見えた。
「大きな菓子は、口をふさぐためにあります。小さな菓子は、話を始めるためです」
「では、これは何を話す」
「食べた人次第です」
ユリアンは薔薇をつまみ、舌へ載せた。
砂糖の花弁がほどけた瞬間、彼の目が見開かれた。
「庭だ」
「どこの?」
「わからない。宮殿の北に、古い林檎の木がある。妹が赤い靴で走っている。私は……」
彼は言葉を失い、次いで、子どものように笑った。
「そんな庭は、黄昏宮にはありません」
総料理長が冷たく言った。
ユリアンは笑みを消さず、ニナを見た。
「だが私は知っている。木の幹の傷まで」
ニナは返事ができなかった。
彼女もまた、その林檎の木を知っていたからだ。
夢の中で何度も見た。赤い靴の少女。枝から落ちる白い花。遠くで鳴る銃声。
「殿下」
イレーネが厨房の入口に現れた。
「評議会のお時間です」
「時計はどれも十一時四十七分だが」
「それでも会議は遅れます」
ユリアンは肩をすくめた。去り際に、ニナの手元の薔薇をもう一つ見て言った。
「次は、今日の味を作ってくれないか」
「今日の味なんて、明日にならないとわかりません」
「では、明日も来る理由ができた」
扉が閉じると、総料理長が盛大に咳払いをした。
ニナは鍋をかき混ぜた。頬が熱いのは火のせいだと、自分に言い聞かせた。
翌朝、女王エレオノーラが厨房へ薄紫の粉を届けさせた。
水晶の小瓶に入ったそれは、光を受けるたび、粉雪のように舞った。
「舞踏会の菓子、千二百個すべてに混ぜよ」
女王付きの侍従は、そう伝えた。
「何の粉ですか」
「王家の秘薬だ。食べた者の心を穏やかにする」
ニナは爪の先ほどを蜜へ溶かし、味見した。
甘くも苦くもなかった。
ただ、一瞬、自分の名前がわからなくなった。
屋台の場所も、聖鐘の家の子どもたちの顔も、胸の内側から白い布をかけられたように遠のいた。慌てて舌を噛むと、痛みとともに記憶が戻った。
「これは穏やかにする粉じゃない」
ニナは小瓶を閉めた。
「忘れさせる粉です」
侍従の目は動かなかった。
「同じことだ」
その晩、ニナは宮殿を抜け出した。
裏門で待っていたのは、幼なじみのセヴァンだった。聖鐘の家で一緒に育ち、今は印刷工として働いている。指にはいつも黒いインクが染み、笑うと左の犬歯だけが尖って見えた。
「王宮の菓子職人になったって?」
「一週間だけよ」
「一週間あれば、王様は国を三つ駄目にできる」
「王様はいないわ。女王と王太子よ」
「肩書きで腹はふくれない」
セヴァンは外套の内側から一枚の紙を出した。
そこには、太い活字で〈パンと朝を、すべての者へ〉と刷られていた。
「建国舞踏会の夜、広場に人が集まる。兵士の半分は撃たない。俺たちは門を開ける」
「その先は?」
「王冠を終わらせる」
「人を殺して?」
「宮殿は毎日、人を殺してる。名前を呼ばず、食卓を汚さずに」
ニナは反論できなかった。
門前のパンの列。薄紫の粉。忘れることと穏やかであることを同じだと言った侍従。
「セヴァン、王宮には変なものがある。時計が全部同じ時刻で止まってる。殿下は、存在しない庭を覚えていた」
「貴族の頭は暇すぎて、勝手に庭を生やすんだろ」
「私も知ってたの。その庭を」
セヴァンの笑みが消えた。
彼はニナの首元を見た。銀の鎖に、古い飴の包みが下がっている。
「まだ持ってたのか、それ」
「うん」
「食べるなよ」
「どうして?」
「理由はない。だけど子どものころから、そいつを見ると……同じ夢を思い出しそうになる」
遠くで、宮殿の鐘が鳴った。
十一回。
そして少し間を置き、割れたような一音。
時刻を数えるなら、十一時四十七分には鳴るはずのない鐘だった。
三日目、ユリアンは町へ出たいと言った。
「殿下が消えれば、私の首も消えます」
イレーネはきっぱり断った。
「隊長の首は、剣より頑丈そうだ」
「試してみますか」
結局、ユリアンは台所用の灰色の外套を着て、ニナの菓子籠を持ち、イレーネは二十歩後ろからついてきた。
王太子は、町の匂いを知らなかった。
焼けた油、馬の汗、川の泥、安い石鹸、パン屋の煙。物乞いの子どもが袖を引くたび、どうすればよいのかわからず立ち止まった。
「お金を全部渡しても、明日また同じ子がいるわ」
ニナが言った。
「では、どうすればいい」
「明日のパンを、運のいい人だけのものにしないこと」
ユリアンは長いあいだ黙っていた。
聖鐘の家では、子どもたちがニナへ飛びついた。ユリアンは身分を隠したまま、壊れた椅子を直し、井戸から水を汲み、最後には粉だらけになって生地をこねた。
ポルが彼を見上げた。
「お兄さん、仕事へたね」
「今日初めて働いたからね」
「大人なのに?」
「大人ほど、初めてのことを隠すんだ」
帰り道、二人は鐘楼の屋根へ上った。
ニナは焦がしバターの飴を半分に割り、ユリアンへ渡した。
眼下には、灰色の屋根が海のように続いていた。その向こうで黄昏宮だけが、夕陽を独り占めして光っている。
「宮殿から見る町は、宝石箱に見える」
ユリアンが言った。
「町から見る宮殿は?」
「蓋よ。重くて、開かない」
彼は飴を噛まずになめた。
「この味を覚えている」
「初めて作ったのに?」
「君とここへ来たことも」
風が止んだ。
「夢の中で、私は何度もこの町を見た。何度も君に会い、何度も建国の夜を迎えた。イレーネが門を開ける。銃が鳴る。君は赤い服で私の名を呼ぶ。そして、空が割れる」
ニナの指先が冷たくなった。
「夢の続きは?」
「いつも、同じ朝に戻る」
ユリアンは彼女の首に下がった銀紙を見た。
「その飴も夢に出てくる。君は最後に、それを食べる」
「食べたら、どうなるの」
「それを思い出せない」
鐘楼の下で、イレーネが剣の柄を鳴らした。
「殿下。戻ります」
ユリアンは立ち上がり、ニナへ手を差し出した。
彼女がその手を取ると、掌に古い傷があるのがわかった。細く、白い傷。ニナはなぜか、その傷が剣ではなく、割れた砂糖細工でできたものだと知っていた。
「私たち、前にも会ったのね」
「そうなら」
ユリアンは微笑んだ。
「今度こそ、初めての別れ方を選びたい」
五日目の深夜、イレーネがニナの部屋を訪れた。
軍服ではなく、白いシャツに黒いズボンだけだった。右手には、潰れた鉛玉を載せていた。
「これを知っているか」
「銃弾?」
「今朝、胸当ての内側から出てきた。撃たれた覚えはない。だが夢では、私は宮殿の門でこれを受ける」
ニナは鉛玉に触れた。
指先へ、燃える痛みが走った。
石段に倒れるイレーネ。赤く染まる軍服。門の向こうで叫ぶセヴァン。ユリアンの白い手。何百もの足音。
見たことのない記憶だった。
「地下へ行く」
イレーネが言った。
「薄紫の粉は、宮殿の地下から運ばれている。見張りを二人、私の命令で外した」
「隊長が命令に背くんですか」
「私は王家に忠誠を誓った。国を食い潰す仕組みにではない」
二人は厨房奥の塩蔵庫から、螺旋階段を下りた。
地下には、宮殿より広い空間があった。
天井から無数のガラス管が垂れ、青白い光が脈打っている。中央では、巨大な時計仕掛けが音もなく回っていた。歯車は水晶、振り子は黒い金属。周囲には人の背丈ほどの透明な筒が並び、中で紫色の粒が雪のように舞っていた。
ニナが一つへ近づくと、粒の中に景色が浮かんだ。
舞踏会。
銃声。
門を開くイレーネ。
倒れるユリアン。
その胸へすがる、自分。
次の筒にも、同じ夜があった。
ただし少しずつ違う。
ある夜にはセヴァンが先に撃たれ、ある夜にはイレーネが女王を刺し、ある夜にはニナが薄紫の菓子を配って、群衆が何もかも忘れた。
筒の根元には数字が刻まれていた。
百八十九。
二百七。
二百四十。
「これは……記憶だ」
ニナは言った。
「一度きりの記憶ではない」
背後で、衣擦れの音がした。
女王エレオノーラが立っていた。
白い夜着の上に金の外套を羽織り、王冠はつけていない。老いて見えた。肖像画より二十歳も、三十歳も。
「二百四十一度目よ」
女王は静かに言った。
「この国が建国舞踏会を迎えるのは」
イレーネが剣を抜いた。
「陛下。これは何です」
「慈悲です」
「忘却を慈悲と呼ぶのですか」
「覚えたまま繰り返すほうが、残酷でしょう」
女王は時計仕掛けへ手を置いた。
「あなたたちは毎夜、同じ悲劇を演じる。王太子は群衆の前で倒れ、近衛隊長は門で死に、革命家は翌朝処刑される。そして時計が十二時を打つ前に、すべては十一時四十七分へ戻る」
「なぜ」
ニナの声は震えていた。
女王は上を指した。
「見たい者がいるから」
天井の暗闇で、何か巨大な影が動いた。
一瞬だけ、星より大きな目がこちらを覗いた。
ニナは息を呑んだ。
「ここは国ではないのですか」
「国だったものの記憶よ。遠い時代の者たちが、滅びたモフィアリアを砂糖樹脂と歯車で作り直した。黄昏宮の最期。王家の終焉。忠誠と恋と革命。彼らは安全なガラスの外から、私たちが美しく死ぬのを眺める」
女王は笑った。その笑みには、憎しみより疲労があった。
「私は管理者として作られた。筋書きが崩れれば記憶を削り、役を元へ戻す。あなたたちが苦しまぬように」
「苦しまない人形なら、なぜ私たちは夢を見る」
イレーネが問うた。
「長く繰り返しすぎたのよ。砂糖は湿気を吸い、歯車は癖を持つ。人形は、役にないことを覚え始めた」
女王の目がニナへ移った。
「とくにあなたは異常だった」
「私?」
「記録に、ニナ・ベルという菓子職人はいない」
胸の奥で、何かが落ちた。
「では私は、誰なんです」
「歴史に書かれなかった者たちよ」
女王は透明な筒を見渡した。
「厨房で火傷した娘。門前でパンを待った子。弾を鋳た職人。死者の名を記録されなかった母親。削られた記憶の欠片が、長い年月のうちにひとつの形を取った。それがあなた」
ニナは首元の銀紙を握った。
「この飴は」
「最初の夜から存在する、唯一の記憶よ。箱庭を作った者が、飾りとして置いた黒い砂糖玉。だが二百四十回の夜を吸い、今では私にも中身がわからない」
女王は手を差し出した。
「菓子を作りなさい。薄紫の粉を混ぜ、皆を眠らせるの。舞踏会は美しく終わる。それが私たちに許された永遠よ」
ニナは、記憶の筒の中で何度も死ぬ人々を見た。
忘れれば痛みはない。
忘れれば、明日を欲しがることもない。
だが聖鐘の家で、ミレイに持たせた橙色の飴を思い出した。
寂しさを消すためではない。
寂しくても、帰る場所があったと忘れないための飴だった。
「私は、忘れさせる菓子は作りません」
「では皆、また死ぬ」
「一度も生きずに繰り返すよりましです」
女王の顔から、最後の柔らかさが消えた。
「舞踏会の夜、わかるでしょう。自由とは、痛みに別の名前をつけただけだと」
建国舞踏会の夜、黄昏宮は一万本の蝋燭で燃えるように輝いた。
貴族たちは絹と宝石をまとい、窓の外で鳴る群衆の声を楽団の音でかき消した。広場には〈パンと朝を〉の旗が波打ち、その先頭にセヴァンがいた。
ニナは赤いドレスを着せられた。
夢で何度も見た色だった。
大広間には、白い砂糖薔薇が千二百個並んだ。女王の命じた薄紫の粉は、どれにも入っていない。
代わりにニナは、地下の記憶の粒を一晩かけて蜜へ溶かした。
甘い記憶だけではない。
空腹。嫉妬。恐怖。誰かを見捨てた瞬間。見捨てられても手を伸ばした瞬間。
すべてを焦がし、黒い芯として白い花の中へ閉じこめた。
「皆さまへ、王家からの記念菓子です」
合図とともに、侍従たちが盆を配った。
最初の一人が薔薇を噛んだ。
老侯爵はグラスを落とした。
「私は、この夜を知っている」
別の貴婦人が悲鳴を上げた。
「息子が門で死ぬ。いいえ、もう死んだ。百回も」
音楽が崩れた。
千二百人の中へ、二百四十回分の夜が一斉に戻った。
泣く者。床へ膝をつく者。使用人の顔を見て赦しを乞う者。自分が撃てと命じた相手を思い出し、窓から逃げようとする者。
そのとき、外で最初の銃声が鳴った。
大時計は十一時四十七分を指していた。
近衛兵たちが一斉にイレーネを見た。
女王の命令は、群衆へ発砲せよ。
イレーネは剣を抜いた。
そして切っ先を、宮殿の門へ向けた。
「開門」
兵の一人が震えた。
「隊長、それは反逆です」
「違う」
イレーネは静かに言った。
「二百四十一回目の忠誠だ。今度は国に捧げる」
重い門が開いた。
群衆が雪崩れこむ。
セヴァンとイレーネの目が合った。夢の中では、いつもその直後に銃弾が彼女の胸を貫いた。
若い兵が銃を構えた。
セヴァンが飛び出し、銃口を空へ押し上げた。
弾丸は天井の水晶灯を砕いた。
無数の光が、砂糖の雨のように降った。
「筋書きが変わったな」
セヴァンが笑った。
イレーネも、ほんの一瞬だけ笑った。
大広間の奥で、女王が地下装置の鍵を回した。
宮殿全体が低く唸った。
窓の外の旗が止まり、落ちかけた水晶片が空中で静止する。人々の声が伸びて、遠い海鳴りのようになった。
「ニナ!」
ユリアンが彼女の手を取った。
二人は厨房を抜け、地下へ走った。
時計仕掛けの振り子が大きく揺れ、針が十二時へ近づいている。透明な筒の記憶が吸い上げられ、紫の光になって歯車へ流れこんでいた。
「止めれば、この世界ごと消えるかもしれない」
女王が装置の前に立っていた。
「外の者は壊れた展示を捨てる。あなたたちの朝は、一秒も続かない」
ユリアンはニナを見た。
「君は怖いか」
「怖いわ」
「私もだ」
彼は笑った。
「初めて同じことを覚えていられる」
ニナは銀紙の包みを外した。
黒い飴は、十九年前から少しも溶けていなかった。表面には、小さな薔薇の筋が刻まれている。
「これを食べれば、全部わかる」
「たぶん」
「そして忘れられない」
「たぶん」
ユリアンは彼女の頬へ触れた。
「では半分ずつにしよう」
ニナは笑った。
「王太子って、飴の割り方も知らないのね」
彼女は黒い飴を歯で割った。
二人で半分ずつ口に入れた。
味は、苦かった。
焦げた砂糖。鉄。雨。焼けた布。母親の歌。処刑台の朝。厨房で笑った娘たち。名もなく埋められた兵士。パンを分けた子ども。二百四十回の口づけ。二百四十回の別れ。まだ一度も来ていない朝の匂い。
ニナは思い出した。
自分が一人ではないことを。
歴史の端から削り落とされた、何千人もの「いた」という記憶であることを。
ユリアンも泣いていた。
「君を、ずっと知っていた」
「ええ」
「ずっと会えなかった」
「ええ」
針が十二時へ触れる。
ニナはユリアンの手を取り、残った黒い飴の欠片を時計仕掛けの中心へ落とした。
振り子が止まった。
次の瞬間、世界中の時計が初めて、十一時四十八分を指した。
大地が揺れた。
宮殿の天井に一本の亀裂が走る。
星空が割れた。
空は空ではなかった。
巨大なガラスの天蓋だった。
その向こうに、月より大きな人間の顔と、白い天井灯と、見たことのない文字の並ぶ札があった。
女王は目を閉じた。
「幕が下りる」
「いいえ」
ニナは割れてゆく空を見上げた。
「やっと、客席の灯りがついたのよ」
ガラスが砕けた。
市立記憶博物館の夜間警備員、真鍋修一は、二十三時四十七分に第八展示室の警報を聞いた。
特別展示〈黄昏宮の最期――失われたモフィアリア王国の自動人形菓子細工〉。
十九世紀末に作られたとされる、直径三メートルの精巧な箱庭である。
毎夜の閉館後、仕掛けが自動で動き、王太子の死と革命軍の突入を十二分間で再現する。砂糖樹脂製の人形は数千体。中央の赤い服の菓子職人だけは、後世の修復で加えられたもので、史実上のモデルは不明――そう説明板に記されていた。
真鍋が駆けつけると、強化ガラスの天蓋に、内側から蜘蛛の巣状の亀裂が入っていた。
仕掛けは止まっていた。
本来なら門前で倒れるはずの近衛隊長は立っていた。革命家の青年も、王太子も。数千の人形が、舞台の中央ではなく、こちらを見上げていた。
赤い服の娘だけが、どこにもいなかった。
「そんな馬鹿な」
真鍋が無線へ手を伸ばしたとき、靴の下で何かが鳴った。
小さな銀紙だった。
中には、黒い砂糖の欠片が一つ残っていた。
拾い上げた指先へ、知らない雨の冷たさが伝わった。
鐘楼の屋根。
焦がしバターの飴。
青い目の青年。
門を開く女隊長。
インクで汚れた手。
そして、ガラスの空の下で笑う赤い服の娘。
真鍋は、彼女の名を思い出した。
「ニナ」
展示室のすべての時計が、十一時四十八分へ進んだ。
翌朝、博物館は臨時休館になった。
だが、そのころにはもう遅かった。
清掃員が黒い飴を舐め、警備責任者が彼の記憶を聞き、修復員が割れた天蓋に触れた。昼までに、知らない王国の最期を覚えている者は百人を超えた。
夕方には、町の菓子店で売られている飴という飴が、かすかに雨と鉄の味を帯びた。
そして二十三時四十七分。
町じゅうの時計が、一斉に止まった。
人々は窓を開け、誰も見たことのない黄昏宮の方角を見た。
どこにも宮殿はなかった。
それでも全員が、門の開く音を聞いた。
箱庭の人々は、外の世界へ出られなかったのかもしれない。
その代わり、外の世界を、箱庭の外のままにはしておかなかった。
暗い通りのどこかで、少女の声がした。
「さあ。今度は、朝の味を作りましょう」