黄金鹿は星を喰う

――スキタイ秘宝譚――

【序 黄金の死者】

 午前三時十七分、アルマトイ国立博物館の地下収蔵庫で、死者は馬具の展示台にまたがっていた。

 男の名はラシード・オルロフ。旧ソ連圏で略奪文化財を動かす仲買人で、警察が十年追っても尻尾をつかめなかった人物だ。その彼が今、二千五百年前の鞍に腰を据え、両腕を胸の前で折り畳み、まるで寒さに耐える胎児のような姿勢で息絶えている。

 口には、親指ほどの黄金の鹿が噛ませてあった。

「防犯カメラには誰も映っていない」

 文化財犯罪対策局の捜査官、アイダル・サパロフが言った。背の高いカザフ人で、灰色のコートの肩にまだ夜明け前の雪を残している。

「収蔵庫は内側から施錠。カードの履歴もオルロフ一人分。死因は、おそらく薬物による心停止。ただし注射痕がない。舌の裏に小さな裂傷があるが、毒物検査はこれからだ」

 九鬼真名は、返事をせず黄金鹿を見つめた。

 鹿は脚を深く折り、角を背へ沿わせていた。スキタイ美術に特有の、静止しているのに今にも跳ねそうな造形。だが、真名が息を止めた理由は様式ではない。

 鹿の腹に、針で刻んだような二文字があった。

 G・K。

 九鬼玄堂。

 十八年前、アルタイ山脈で消息を絶った父の頭文字だった。

「触るなと言われるだろうけど」

 真名は薄い手袋をはめ、黄金鹿を死者の歯の間から抜き取った。金属は奇妙に温かかった。

 裏面に、さらに細い刻線が走っている。鹿、猪、翼を持つ獣。互いに噛みつき、絡まり、円を描く動物文様。その中心に、現代の工具で彫られた日本語があった。

 ――獲物は、追う者の内側にいる。

 真名の喉の奥で、古い記憶が軋んだ。

 父が最後に家を出た夜、同じ言葉を口にしていた。

「この鹿を知っているか」

 アイダルの問いに、真名はゆっくりとうなずいた。

「父が“天馬の墓”から持ち帰ったものです。公式記録では発見されていない。父自身が、存在を否定していた」

「では、なぜオルロフが持っていた?」

「それを知っている人間は、たぶん一人だけ」

 真名は黄金鹿を掌に載せた。

「レフ・ゾリン博士。考古学者で、殺人犯。いまは第九隔離医療刑務所にいる」

 アイダルの顔から、眠気が消えた。

 レフ・ゾリン。

 中央アジア各地で八人を殺し、遺体をスキタイの動物闘争文様に見立てて配置した男。犠牲者はすべて盗掘業者か密売人だった。ゾリンは裁判で動機を語らず、ただ一度だけこう述べた。

 ――彼らの最後の顔には、歴史より正直なものが出ていた。

 真名は鹿を握った。

「彼は父の最後の共同研究者です」

【一 硝子の獣】

 第九隔離医療刑務所は、天山山脈の裾野にある旧軍病院を改築した施設だった。

 レフ・ゾリンは、地下三階の面会室で本を読んでいた。

 硝子の向こうにいる男は、真名の記憶より老いていた。銀色の髪は短く、頬は痩せ、囚人服の襟元から白い傷跡がのぞく。だが姿勢は大学の講壇に立っていた頃と変わらない。静かで、無駄がなく、自分の周囲だけ重力が違うようだった。

 彼は本を閉じ、真名を見た。

「君は大人になったのではないな」

 挨拶の代わりに言った。

「置いていかれた子供が、背丈だけ伸ばした顔だ」

「あなたは年を取った。中身は腐ったままだけど」

「安心した。玄堂の娘なら、それくらいは言う」

 真名は机上のトレーに黄金鹿を置いた。看守が長い柄の器具で硝子の下の受け渡し口へ押し込む。

 ゾリンは鹿に触れなかった。

「オルロフは死んだ」

「句読点が一つ、打たれた」

「あなたが殺した?」

「この部屋から? それなら私は悪人ではなく魔術師だ」

「外に手足がある人間ほど、そう言う」

 ゾリンは微笑んだ。喜びではない。真名の反応を測るための、ごく小さな筋肉の動きだった。

「死体はどんな姿勢だった?」

「鹿のように脚を折っていた」

「口には?」

「これが」

「なら彼は警告ではない。鍵穴だ」

 ゾリンはようやく黄金鹿を取り上げ、天井灯に透かした。金の薄板に見えた表面から、蜘蛛の巣ほど細い影が浮かぶ。

「スキタイの動物文様を、多くの学者は装飾だと考える。権威、戦い、自然崇拝。どれも間違いではない。だが玄堂は、別の仮説を立てた。これは文章だ、と」

「絵文字?」

「もっと古く、もっと冷たい。動物の向き、噛みつく位置、折れた脚、角の分岐。すべてが位置と順序を示す。地図ではない。機械を扱うための手順書だ」

「何の機械?」

 ゾリンは黄金鹿を机に置いた。

「人間が神と呼ぶ前に、獣と呼んだものだ」

 真名は表情を変えなかった。

「父はどこで死んだの」

「質問が飛んだな」

「答えて」

「君が本当に知りたいのは、死んだ場所ではない」

 ゾリンは指先で鹿の角をなぞった。

「玄堂が、なぜ君より墓を選んだかだ」

 真名の右手の親指が、人差し指の付け根を一度こすった。

 ゾリンの目がそこへ落ちる。

「嘘をつく前の癖も変わらない」

「次に父の話で遊んだら、その鹿をあなたの喉に詰める」

「怒りは便利だ。悲しみより持ち運びやすい」

 面会室の空調音が、やけに大きくなった。

 アイダルが壁際から一歩進み出る。

「博士。オルロフの死と、この遺物の意味を知っているなら話せ。取引は検察が用意する」

「取引?」

「刑の軽減はない。ただし研究資料への限定アクセス、屋外運動時間の拡大、その他の条件は交渉できる」

「私は空が見たいわけではない」

 ゾリンは真名だけを見ていた。

「空の下に埋まっているものが見たい」

 彼は黄金鹿を裏返した。

「この鹿には三つの仲間がある。猪、鷲獅子、鹿。玄堂は鹿を持ち帰り、猪を墓に残し、鷲獅子を共同出資者へ預けた。共同出資者の会社は今、エリュシオン生体工学財団と名を変えている」

「ヘレナ・コルダ」

 アイダルが低く言った。

 ヘレナ・コルダ。臓器再生と神経接続技術で巨万の富を築きながら、裏では紛争地帯の遺物を買い漁る女。

「オルロフは彼女の仲介人だった」

 ゾリンは続けた。

「鹿が表へ出た以上、コルダも動く。玄堂の墓へ至る道は、今夜から狩場になる」

「場所を知っているの?」

「入口までは」

「中は?」

「私が必要だ」

 真名は即座に答えた。

「必要ない」

「では君は、父と同じ場所で同じ間違いをする」

 ゾリンは鹿の折れた脚を爪で弾いた。

「見ろ。鹿は逃げる姿ではない。跳ぶ姿でもない。自分の脚を腹の下へ畳み、輪を閉じている。玄堂はこれを“眠る鍵”と呼んだ」

「何を開く鍵?」

「逆だ」

 ゾリンの声から、初めて微笑が消えた。

「閉じるための鍵だ」

【二 草原の歯】

 その日の夕方、真名たちは軍用輸送ヘリでアルマトイを発った。

 ゾリンの同行を認めたのは、文化財犯罪対策局でも刑務所でもない。エリュシオン財団がすでに国境地帯へ武装要員を送り込んだという情報だった。時間が法手続きを追い越し、責任者たちは全員、後で否定できる命令だけを出した。

 ゾリンの両手には短い鎖、足首には発信器。護送官が二名。アイダルは自動小銃を膝に置き、真名は窓の外を流れる褐色の大地を見ていた。

 雪をいただく峰の下に、草原が果てしなく広がっている。

 スキタイの騎馬集団は、かつてこの地を風のように移動した。王の墓には黄金と馬を埋め、死者に武器と酒を持たせた。彼らは都市を築かなかったが、星と水場と敵の匂いを読む術を知っていた。

 父は言っていた。

 文明は石の高さでは測れない。何を記憶し、何を忘れるかで測るのだ、と。

「右へ二度、左へ一度」

 ゾリンが突然言った。

 操縦士が振り返る。

「何だ?」

「回避運動だ。今すぐ」

 次の瞬間、機体の右側で空が爆ぜた。

 肩撃ち式ミサイルが、尾翼すれすれを白煙を引いて通過した。

 操縦士が機体を倒す。真名の身体が安全帯へ叩きつけられ、窓外の地平線が縦に回った。二発目が後方ローターの基部を削り、警報が鳴り響く。

「どうして分かった!」アイダルが怒鳴る。

「谷の入口に鳥がいなかった」

 ゾリンは鎖につながれたまま、平然と窓の外を見ていた。

「それに、狙撃手は最初の一発を風上から撃つ。自分の煙で視界を失いたくないからな」

 ヘリは高度を失い、石の多い斜面へ滑り込んだ。

 着地というより墜落だった。

 脚部が砕け、機体が半回転する。真名は頭を打ち、視界の端が白くなった。燃料の臭い。誰かの呻き。ローターが土を噛み、やがて止まる。

「出ろ!」

 アイダルが扉を蹴り開けた。

 斜面の上から銃弾が降った。護送官の一人が肩を撃たれ、機体の陰へ倒れる。もう一人が応射する。

 ゾリンは座席に鎖で固定されたままだった。

「鍵を!」

 彼が叫んだ。

「ふざけるな!」護送官が怒鳴り返す。

「三十秒後に燃料へ火が回る。私を焼くのは自由だが、君も同じ棺桶だ」

 真名は床に落ちた鍵を拾った。

 アイダルが止めるより早く、ゾリンの手錠を座席から外す。ただし両手の鎖は残した。

「逃げたら撃つ」

「君は逃げる者を背中から撃たない」

「試してみる?」

「今は遠慮しよう」

 彼らが機体を離れた直後、尾部が炎を上げた。

 斜面下の乾いた谷へ走る。背後で燃料タンクが破裂し、熱風が真名の背を押した。銃声が二つ、三つ。護送官の一人が倒れたが、戻る余裕はなかった。

 谷底には、遊牧民の冬営地があった。無人の柵に六頭の馬が残されている。アイダルが手早く手綱を外した。

「乗れるか?」

「父に最初に教わったのが馬」

「次は?」

「落ち方」

 真名は栗毛へ飛び乗った。

 ゾリンは手錠のまま黒馬の背へ上がった。長い空白を感じさせない姿勢だった。

 五人になった一行は、夕暮れの草原を東へ駆けた。

 やがて銃声は遠ざかった。

 日が落ち、空に無数の星が開いた頃、彼らは岩陰で馬を休ませた。負傷した護送官は熱を出し、アイダルが応急処置をしている。

 真名は火から離れ、黄金鹿を月光にかざした。

 薄い金板の内部に、肉眼では見えない格子が浮かぶ。角の枝を星の並びに重ねると、一本の線が北東を指した。

「座標ではない」

 ゾリンが背後から言った。

「季節と見る角度を指定している。鹿の角は星図、脚は地形、噛みつく獣は入口の向きだ」

「あなたは、父とどこまで行った?」

「第一の門まで」

「そこで何があった」

「玄堂は私を追い返した」

「なぜ?」

「私が喜びすぎたからだ」

 真名は振り向いた。

 ゾリンの横顔を、焚き火の光が半分だけ照らしている。

「墓の奥から、声が聞こえた。耳で聞く声ではない。自分が最も欲しい言葉が、自分自身の声で囁く。玄堂は恐れた。私は美しいと思った」

「その後、あなたは人を殺し始めた」

「因果を急ぐな。人は理由が一つなら理解できると思いたがる」

「八人殺した事実は一つ」

「そうだ」

 ゾリンはあっさり認めた。

「だから私はここにいる」

「後悔は?」

「後悔は、失敗した選択に対する感情だ。私は選択を誤ったとは思っていない」

 真名の手が、無意識に腰の拳銃へ触れた。

「だが」

 ゾリンは彼女の動きを見て続けた。

「一人だけ、最後の言葉を聞き損ねた。それは惜しい」

「誰?」

「君の父親だ」

 風が火の粉をさらった。

 真名は拳銃を抜き、銃口をゾリンの眉間へ向けた。

 アイダルが立ち上がる。

 ゾリンは動かなかった。

「あなたが父を殺した?」

「いいや」

「では、見殺しにした?」

「それも違う。玄堂は自分で門を閉じた」

「何を閉じ込めるために」

 ゾリンの目が、真名の背後の星空へ向いた。

「人間を見つけたがっているものを」

【三 獣文の門】

 翌日、彼らはベルクト谷へ入った。

 両側から黒い岩壁が迫り、風が獣の唸りのような音を立てる。谷の奥には季節外れの雪が残り、その中央に、自然の丘と見分けのつかない巨大な墳丘があった。

 スキタイ王族のクルガン。

 だが頂上には盗掘口も祭祀柱もない。周囲を三度回った真名は、南斜面の低い位置で馬を止めた。

「入口はここ」

「根拠は?」アイダルが訊く。

「普通の王墓なら、太陽や山へ軸を合わせる。でもこの墳丘は、全部の基準から少しずつ外れている。見せるための墓じゃない。見つからないための箱」

 真名は黄金鹿を岩肌へ当てた。

 角の輪郭と、岩の亀裂が一致した。

 護送官が工具で土を払い、平たい石板を露出させる。そこには鹿、猪、鷲獅子が渦を巻く浮彫りがあった。三頭とも互いの急所へ歯を立てている。

「動物闘争文様」アイダルが言う。

「違う」

 ゾリンが膝をついた。

「闘っていない。互いを止めている」

 彼は手錠の鎖を鳴らしながら、猪の前脚を指した。

「鹿は猪の肩を噛み、猪は鷲獅子の翼を押さえ、鷲獅子は鹿の角を折っている。三者が同時に動けば、輪はほどける。一者だけなら、他の二者が締まる」

「三つの黄金板が必要ということか」

「開けるならな」

 背後で、安全装置の外れる音がした。

「では、開けてもらいましょう」

 女の声だった。

 岩壁の上に、黒い防寒服の人影が並んでいる。銃口が一斉に谷底を向いた。

 中央に立つ金髪の女が、ゆっくりとゴーグルを外した。

 ヘレナ・コルダ。

 写真より若く見えた。だが目の下には眠れない人間特有の薄い影がある。

「九鬼真名。あなたのお父様には、大きな借りがある」

「返しに来た顔には見えない」

「利子を受け取りに来たのよ」

 コルダは指を鳴らした。部下が二人、斜面を降りてくる。一人の手には黄金の猪、もう一人の手には翼を丸めた鷲獅子があった。

 三枚が揃った。

 アイダルは銃を下ろさない。

「民間財団が国境内で武装作戦とは、趣味が悪いな」

「国家は遺跡を守れない。市場は守る。私は市場より少し先にいるだけ」

 コルダの視線がゾリンへ移った。

「博士。あなたの伝言は届いたわ」

 真名はゾリンを見た。

「伝言?」

 ゾリンは何も答えない。

 コルダが笑った。

「オルロフの口に鹿を入れたのは、私の人間。でも姿勢を指定したのは彼よ。刑務所の図書請求票、貸出番号、返却日の数字。几帳面な看守ほど暗号を運びやすい」

 アイダルがゾリンの胸へ銃口を突きつけた。

「最初からか」

「最初からではない」ゾリンは言った。「玄堂が死んだ日からだ」

「あなたは私たちを餌にした」真名の声は、自分でも驚くほど静かだった。

「鍵は三つ必要だ。コルダは鷲獅子を持つ。君は鹿を持つ。猪は墓の門にあると考えていたが、彼女が先に回収していた。全員を同じ場所へ呼ぶのが最も早い」

「人間を道具にする癖は、治療されなかったのね」

「治療とは、社会にとって扱いやすい嘘を覚えることだ」

 コルダが部下に顎をしゃくった。

 負傷した護送官が銃床で殴られ、膝をつく。真名とアイダルも武器を奪われた。

「開けなさい、博士」

 三枚の黄金板が浮彫りの窪みへはめ込まれた。

 鹿、猪、鷲獅子。

 ゾリンが一枚ずつ回す。三頭の口が別々の方向を向き、最後に鹿の脚が外側へ伸びた。

 真名は眉を寄せた。

「鹿は脚を畳むはず」

「閉じる時はな」

 ゾリンが黄金鹿を押し込む。

 墳丘の奥から、何か巨大なものが息を吸った。

 石板の継ぎ目が割れ、黒い空気が吐き出される。二千年以上閉ざされていたはずなのに、黴や土の臭いはしなかった。

 代わりに、雨の前の金属臭がした。

 扉が左右へ沈み、下り階段が現れた。

「ようこそ」

 ゾリンは闇へ向かって囁いた。

「王のいない墓へ」

【四 王のいない墓】

 階段は地下深くへ続いていた。

 壁には松明を置く窪みがあるが、煤の跡がない。コルダの部下が携帯灯を点けると、光は磨かれた黒石に吸い込まれた。

 最初の広間には、十三頭の馬が立っていた。

 死んでいる。

 だが倒れてはいない。氷に包まれ、黄金の面をかぶせられ、生きて主人を待つ姿のまま凍っている。鞍には赤い羊毛、たてがみには小さな金の筒。二千五百年の時を越え、馬の眼球さえ青白く残っていた。

 護送官が胸の前で祈りの印を切る。

 アイダルは小さくカザフ語で何かを唱えた。

「十四頭目がいた」

 真名が言った。

 床に、空いた蹄跡が四つある。そこだけ氷が掘り返され、奥の通路へ続いている。

「父たちが動かした?」

「いいや」

 ゾリンは床へ屈み、氷の傷を見た。

「内側から歩いた」

 コルダの部下が笑った。

「二千年前の馬が?」

「歩いたのは馬とは限らない」

 その直後、最後尾で短い悲鳴が上がった。

 一人が床へ倒れている。足首に、黒い糸のようなものが絡みついていた。

 糸は床の穴へ引き込まれ、男の脚を強く引く。仲間が腕をつかんだが、石床の継ぎ目が上下から開き、白い歯のような石杭が現れた。

「離せ!」ゾリンが叫ぶ。

 仲間が手を放した瞬間、男の身体が隙間へ消えた。

 石の顎が閉じる。

 音は一度だけだった。

 静寂の中で、ゾリンが壁の浮彫りを照らした。鹿の後脚へ、狼が噛みついている。

「捕食者は傷を狙う。床の欠けた石を踏めば、罠はそこへ噛みつく。先ほどから同じ規則が書かれていた」

 コルダが彼の頬を平手で打った。

「先に言いなさい」

 ゾリンはゆっくり顔を戻した。

「あなたは部下の命より、自分が無知に見えたことへ怒っている」

 コルダの目が細くなる。

「もう一度、私を分析してみなさい」

「弟はまだ眠っているのか?」

 空気が凍った。

 コルダの拳が止まる。

「落馬事故。脳幹は生き、身体も生きている。だがあなたを姉と呼んだ記憶だけが戻らない。だから神経再生に投資し、記憶の保存に投資し、最後に墓へ投資した」

「黙れ」

「あなたが欲しいのは不老ではない。たった一度、“ヘレナ”と呼ばれたい」

 コルダは拳銃を抜き、ゾリンの額へ押しつけた。

 真名は彼女の手が震えているのを見た。

「撃てば門を開ける者がいなくなる」

 ゾリンは瞬きもしない。

「君はいつも、それで助かると思っている」

 コルダは数秒後、銃を下ろした。

「進みなさい」

 一行は、浮彫りの“傷”を避けて進んだ。

 第二の広間には、人間の骸骨が円形に座っていた。王冠をかぶる者はいない。男も女も、戦士も子供もいる。全員が中央の黒い柱へ顔を向け、頭蓋骨の内側に薄い金箔が貼られている。

「王墓ではない」真名は呟いた。「集団祭祀場でもない。これは……」

「観客席だ」

 ゾリンが答えた。

 黒い柱の根元に、古びた登山用ザックがあった。

 日本製。十八年前の型。

 真名は駆け寄り、膝をついた。

 中には腐食した懐中電灯、フィルムケース、革表紙の野帳。そして、銀の指輪。

 父がいつも右手にはめていたものだった。

 真名は指輪を握りしめた。金属は冷たく、掌の熱を奪っていく。

 野帳の最終ページは、水に濡れたように波打っていた。

 日本語の走り書きが残っている。

 ――牙ではない。

 ――墓でもない。

 ――これは呼び声を待つ罠だ。

 ――金は装飾ではなく、檻。

 ――真名へ。帰れなかったら、私を探すな。

 そこから先は、黒い染みで読めない。

「探すな、か」

 ゾリンが背後で言った。

 真名は立ち上がり、彼の顔を殴った。

 拳に骨の感触が走る。

 ゾリンはよろめいたが、笑わなかった。

「父が死ぬと知っていたなら、なぜ止めなかった」

「止めた」

「嘘」

「玄堂は私を門の外へ撃ち出し、内側から封じた。私は三日間、岩を掘った。指の爪が剥がれるまで」

「あなたが?」

「信じたくないか」

 ゾリンの口元から血が一筋落ちた。

「怪物が誰かを救おうとした事実は、君の世界を不潔にする。だが人間は分類ほど親切ではない」

 真名は返す言葉を失った。

 そのとき、黒い柱の奥で低い振動が始まった。

 コルダの部下が、壁の穴へ鷲獅子の黄金板を差し込んでいた。

 柱が二つに割れる。

 その向こうに、星のない夜より黒い回廊が開いた。

 真名の頭の内側で、懐かしい声がした。

 ――真名。

 父の声だった。

【五 星喰み】

 回廊の先にある空間は、人間が掘ったものではなかった。

 壁も床も継ぎ目のない黒い物質でできている。光を当てると、表面の奥を青白い点が走った。神経の発火にも、遠い銀河にも見える。

 中央には、巨大な牙が浮かんでいた。

 長さは人の腕ほど。湾曲した半透明の黒い結晶。その内部で、無数の光点がゆっくり渦を巻いている。牙は黄金の枝に絡め取られ、鹿の角を思わせる格子の中心に吊られていた。

 スキタイの黄金動物文様は、すべてこの格子へつながっていた。

「彼らはこれを作ったのではない」

 真名は父の野帳を開いた。

「見つけて、封じた」

「約二万年前、この地域へ落下した」ゾリンが言う。「玄堂は周辺の地層から、地球上に存在しない同位体比を検出した。牙に見えるのは偶然だ。生物の器官か、機械の一部か、その区別に意味がある文明のものではない」

 コルダの瞳に、黒い結晶の光が映る。

「記憶を保存できるの?」

「保存ではない」

 ゾリンは囁いた。

「狩る」

 結晶が脈打った。

 真名の耳元で父の声がする。

 ――こっちへ来い。もう帰れる。

 彼女は奥歯を噛んだ。

「何を狩る?」アイダルが訊く。

「知性だ」

 ゾリンは黒い牙から目を離さない。

「恐怖、欲望、攻撃、服従。生物が生き延びるために作る選択を読み、最も効率のよい捕食者の型を抽出する。スキタイの祭司たちは、戦士や王をここへ座らせた。牙は彼らの心を開き、互いに争わせ、最後に残った精神の輪郭を取り込んだ」

「古代の兵器?」

「もっと単純だ。罠だよ。知性が自分から近づき、自分から接続し、自分から餌になるように作られた」

 コルダが黄金の猪を、格子の空いた窪みへはめ込んだ。

「やめろ!」

 真名が飛び出そうとしたが、部下に腕をつかまれる。

 続いて鷲獅子、最後に鹿。

 三枚の黄金板が、脚を外へ伸ばした姿で並んだ。

 輪が開く。

 黒い牙の内部で、星々が一斉に瞬いた。

 音はなかった。

 それでも全員が、何か巨大なものに名前を呼ばれた。

 コルダの部下の一人が、突然隣の男へ銃を向けた。

「お前が盗んだ」

「何を――」

 銃声。

 別の男が悲鳴を上げ、壁へ向けて乱射する。黒い表面には傷一つつかない。弾丸が跳ね返り、灯りが砕けた。

 闇の中で、人々はそれぞれ別の敵を見ていた。

 アイダルが頭を抱え、膝をつく。

「弟を……離せ……」

 コルダは牙へ歩いていた。

 彼女の前には、誰にも見えない誰かが立っている。

「ミハイル?」

 声が少女のように震える。

 黒い牙から細い光の糸が伸び、コルダの額へ触れた。

 彼女は微笑んだ。

「私が分かるのね」

 次の瞬間、身体が弓なりに反った。

 彼女の目から感情が消えた。笑みだけが顔に残り、糸の先へ吸い上げられるように、皮膚から色が失われていく。

 真名は部下の手を振りほどいた。

 頭の中で、父の声が近づく。

 ――真名。怖かったな。

 黒い空間が、いつの間にか故郷の台所へ変わっていた。

 十二歳の真名が椅子に座っている。窓の外は雨。父が遠征用の鞄を持ち、玄関に立っている。

 あの夜だ。

 何度夢に見ても、父は振り返らなかった。

 だが今、父は戻ってきた。

 若い頃の顔で、濡れた上着を脱ぎ、真名の前へ膝をつく。

「すまなかった」

 彼は言った。

「お前より、墓を選んだ」

 真名の胸の奥で、十八年間固まっていたものが崩れそうになった。

 その言葉を待っていた。

 夢の中でも、怒りの中でも、誰にも言わず待ち続けていた。

 父が手を差し出す。

「一緒に帰ろう」

 真名も手を伸ばした。

 指先が触れる直前、彼女は止まった。

 父の右手に、銀の指輪がある。

 だが現実の指輪は、真名の掌の中にある。

 それだけではない。

 父は一度も「墓を選んだ」とは言わなかった。真名が心の中で使ってきた言葉だ。父の声を借りているのは、父ではない。

 彼女自身の傷だった。

「あなたは、私の記憶しか知らない」

 真名は幻へ言った。

 父の顔が微笑んだまま静止する。

「私が知らない父を、あなたは作れない」

 台所がひび割れた。

 黒い空間が戻る。

 真名の前で、ゾリンが牙へ両手を伸ばしていた。いつの間にか手錠の鎖を切り、黄金格子の内側へ入っている。

「やめろ!」

「なぜ?」

 彼の顔には、初めて隠しようのない歓喜があった。

「ここには嘘がない。人間が最後に隠すものまで剥がし、純粋な選択だけを残す。恐怖がどこから生まれ、愛がどの瞬間に憎悪へ変わるか。私は一生、それを見たかった」

「だから人を殺した?」

「死の直前、人は役割を捨てる。父親も、商人も、善人も悪人もなくなる。残るのは、ただの動物だ」

「違う」

 真名は黄金鹿の窪みへ向かって歩いた。

「あなたは真実を見たかったんじゃない」

 ゾリンの目が彼女へ動く。

「自分を見てほしかっただけ」

 黒い牙の光が揺れた。

「八人を殺して、最後の顔を集めた。なぜなら、その瞬間だけは誰もあなたから目をそらさない。恐怖であれ何であれ、相手の世界の中心になれるから」

「安い診断だ」

「では、なぜ遺体を作品にしたの。真実だけが欲しいなら、誰にも見せずに埋めればよかった」

 ゾリンの口元がわずかに歪んだ。

「あなたは観客が必要だった。父にも、私にも、この牙にも」

 真名は黄金鹿へ手をかけた。

「あなたが一番恐れているのは死じゃない。誰の記憶にも残らず、見られないまま消えること」

「手を離せ」

 ゾリンの声が低くなった。

「鹿を反転させれば接続が閉じる。玄堂の残留記憶も消える」

「残留記憶?」

「彼は最後に牙へ触れた。痕跡はある。君が見た幻の中に、本物が混じっているかもしれない」

 真名の手が止まる。

 ゾリンは穏やかな声へ戻った。

「知りたくないか。最後に何を考えたのか。君を愛していたのか。置き去りにしたことを悔やんだのか」

 黒い牙の中に、父の顔が浮かんだ。

 今度は声を出さない。

 ただ、真名を見ている。

 十八年分の問いが、喉元まで上がった。

 真名は銀の指輪を握りしめた。

「痕跡は、人じゃない」

 黄金鹿を引き抜く。

 ゾリンの顔から余裕が消えた。

「やめろ」

「父が残したのは、答えじゃない」

 真名は鹿の脚を内側へ折り、上下を反転させた。

「選ぶ権利よ」

 窪みへ押し込む。

 輪が閉じた。

【六 最後の狩り】

 黄金格子が、檻へ変わった。

 鹿、猪、鷲獅子が互いの動きを封じ、黒い牙の光が中心へ圧縮される。空間全体が歪み、耳では聞こえない絶叫が骨を震わせた。

 ゾリンの額へ、無数の光糸が突き刺さった。

 彼は逃げようとした。だが両手は牙の表面へ吸いつき、離れない。

「閉じろ!」アイダルが叫んだ。「全部閉じろ!」

 真名は猪と鷲獅子へ手を伸ばす。

 床に倒れていたコルダが、彼女の足首をつかんだ。

 空っぽだった目に、狂気だけが戻っている。

「弟を返して」

「それは弟じゃない!」

「返して!」

 コルダが拳銃を抜く。

 発砲。

 弾丸は真名の肩をかすめ、黄金格子へ当たった。青白い火花が走る。

 アイダルがコルダへ飛びかかる。二人は床を転がり、拳銃が滑って闇へ消えた。

 真名は猪を回した。

 牙の中で光点が猛スピードで渦巻く。

 ゾリンが叫んだ。

 彼の声ではなかった。

 老人、若者、女、男。八人の声が重なっている。

 ――見るな。

 ――助けてくれ。

 ――私は何も知らない。

 ――お願いだ。

 ゾリンが奪った最後の言葉が、すべて彼の口から流れ出す。

「違う」彼は喘いだ。「これは記録だ。私は観察している」

 黒い牙は答えない。

 観察者と獲物の境界を消し、彼が切り取ってきた恐怖を、内側から再生している。

 真名は鷲獅子へ手をかけた。

「真名!」

 ゾリンが彼女を呼んだ。

 初めて、博士でも子供でもなく、ただ一人の人間へ助けを求める声だった。

「ここに残せば、私は永遠に彼らを感じ続ける」

「それがあなたの欲しかった真実でしょう」

「待て」

 真名は鷲獅子を回した。

 三つの黄金板が完全な輪を作る。

 ゾリンの身体が黒い光に包まれた。

「一人にするな!」

 その叫びだけは、彼自身の声だった。

 牙が砕けた。

 音ではなく、夜空が割れるような感覚が走った。黒い結晶の内部から光が噴き上がり、天井を貫く。しかし黄金格子がそれを絡め取り、何重もの動物文様へ分散させる。

 鹿が猪を押さえ、猪が鷲獅子を噛み、鷲獅子が鹿の角を封じる。

 捕食者は互いを喰い、最後に輪だけが残った。

 ゾリンの姿は消えていた。

 床に、切れた手錠が落ちている。

 次の瞬間、墳墓全体が大きく揺れた。

 壁の亀裂から水が噴き出す。地下の永久凍土が熱で融け、空洞へ流れ込んでいる。

「出口へ!」

 アイダルが真名の腕をつかむ。

 コルダは床を這い、砕けた牙の欠片を拾おうとしていた。

「ヘレナ!」真名が叫ぶ。

 彼女は振り返らない。

 黒い欠片の中に、弟の姿を見ている。

 天井の一部が崩れ、黄金格子ごと彼女を闇へ飲み込んだ。

 真名とアイダルは回廊を走った。

 背後から水が追ってくる。第二の広間を抜けると、座した骸骨が次々に倒れ、金箔の頭蓋が濁流へ転がった。

 第一の広間では、氷漬けの馬たちが崩れ始めていた。

 空いていた十四頭目の位置に、古い戦車が隠されている。二輪の木製車体は青銅で補強され、床には入口へ向かう二本の石溝が伸びていた。

「葬送路だ!」真名が叫ぶ。「死者を外から運び込むための傾斜路!」

 二人は戦車へ飛び乗った。

 アイダルが車輪止めの青銅棒を蹴る。動かない。

 水が足元へ達した。

 真名は父の銀の指輪を棒の穴へ差し込み、梃子にした。金属が曲がり、棒が外れる。

 戦車が動いた。

 最初はゆっくり、次いで石溝へ噛み合い、猛烈な速度で坂を下る。

 氷の馬たちの間を抜け、閉じかけた石の顎をすり抜ける。牙のような杭が真名の髪を数本切った。

 前方で通路が崩れている。

「止まれないぞ!」

「止まらなくていい!」

 真名は戦車の前縁をつかんだ。

 崩落の向こうに、夜の青が見える。

 戦車は石溝を外れ、空中へ飛び出した。

 一瞬、草原と星空が上下に開いた。

 二人は雪の斜面へ投げ出される。

 背後で墳丘が沈み、巨大な呼吸のように土煙を吐いた。黒い水が入口から噴き、すぐに岩と雪で塞がれる。

 真名は仰向けになったまま、空を見た。

 星々は何事もなかったように瞬いている。

 アイダルが隣で咳き込み、笑った。

「次に遺跡へ行く時は、地上にあるものにしろ」

「善処する」

「嘘だな」

「分かる?」

「親指をこすった」

 真名は自分の手を見て、初めて声を上げて笑った。

【終 走らない鹿】

 三か月後、ベルクト谷は国際調査団によって封鎖された。

 墳丘の地下は完全に崩落し、黒い物質も黄金格子も回収されなかった。エリュシオン財団は武装部門の存在を否定し、ヘレナ・コルダは小型機事故で死亡したと発表された。

 レフ・ゾリンは死亡扱いとなった。

 遺体はない。

 だが真名は、彼がどこかで生きているとは思わなかった。

 生きることと、残ることは同じではない。

 アルマトイ国立博物館の修復室で、真名は父の野帳を一ページずつ乾かした。黒い染みの下から、最後の数行が浮かび上がったのは、作業を始めて四十日目だった。

 ――真名へ。

 ――人は獣だ。恐れ、奪い、群れ、時に仲間を喰う。

 ――だからこそ、何を追わないかを選べる。

 ――私が帰らなかったのは、お前を捨てたからではない。

 ――お前が帰れる場所を残したかった。

 真名は長いあいだ、その文字を見ていた。

 涙は出なかった。

 ただ胸の奥にあった硬い塊が、ようやく自分の重さで沈んでいくのを感じた。

 夕方、彼女は博物館の中庭へ出た。

 展示ケースの中には、修復を終えた黄金鹿が置かれている。脚を腹の下へ深く畳み、角を背へ沿わせ、輪を閉じた姿。

 逃げる鹿ではない。

 追う鹿でもない。

 走らないことを選んだ鹿だ。

 中庭の向こうで、アイダルが車のクラクションを鳴らした。新しい盗掘事件の資料を助手席に積んでいる。

 真名は展示ケースに背を向けた。

 空には一筋の流星が走っていた。

 こちらへ落ちてくる光ではない。

 遠ざかっていく光に見えた。

――了――