『黒曜の霧城』

 黒曜石の鏡は、人間より先にまばたきをした。

一 鏡泥棒

 メキシコ市旧市街、ベラ侯爵邸の大広間には、金で買えないものばかりが並んでいた。

 王朝の印章。戦争で消えた聖杯。砂漠から掘り出された、まだ誰も読めない石板。そして今夜の目玉は、銀の台座に立てられた一枚の黒い鏡だった。

〈雨喰みの鏡〉。テオティワカン北方の洞穴より出土。推定、千年以上前」

 競売人の声に、客たちが息を呑む。

 鏡は掌を二つ並べたほどの大きさで、磨き上げられた黒曜石の表面に、燭台の炎が赤く浮いていた。縁には羽毛ある蛇、雲、逆さに歩く人々が彫られている。

 給仕服を着た天城アキは、銀盆を胸に抱えたまま、鏡を見た。

 鏡の中のアキが、一拍遅れてこちらを見返した。

 錯覚ではない。

 アキが眉を上げると、像は動かなかった。次の瞬間、鏡の中の女だけが笑った。

「気に入りましたかな、セニョリータ」

 背後から声がした。

 邸の主、バルタサル・ベラが立っていた。白い口髭、象牙の杖、礼服の下に隠しきれない軍人の肩。鉱山、鉄道、武器、政変。彼が手を伸ばした国では、たいてい地面から血か金が出た。

「給仕が品定めをするとは、ずいぶん上等な店だ」

「磨けば値の出るものもございます」

「鏡かね。それとも、きみかね」

 アキは微笑み、盆のシャンパンを彼の胸へ浴びせた。

 同時に大広間の灯りが消えた。

 悲鳴。椅子の倒れる音。警備兵の怒声。

 暗闇の中でアキは銀盆を投げ、鏡の台座へ滑り込んだ。留め金を二つ外し、本物と同じ大きさの煤けたガラス板を差し替える。七秒。父に仕込まれた手品なら五秒だった。

 八秒目、非常灯が点いた。

 アキは窓枠を蹴り、二階の回廊へ飛びついた。銃声が壁の漆喰を弾く。カーテンを引きちぎって手すりへ巻き、階下へ滑り降りた。

「天城アキ!」

 ベラが怒鳴った。

 名を知られているのは計算外だったが、驚いている暇はない。アキは鏡を給仕服の下へ押し込み、厨房を抜け、中庭の噴水を飛び越えた。裏門の向こうでは、荷台を幌で覆った古いトラックがエンジンを唸らせている。

「遅いよ!」

 運転席のマルタ・サンチェスが叫んだ。小柄な女で、片腕だけで牛を倒せると自称する整備士だった。

「ワインがまずくてね」

 アキは荷台へ飛び乗った。

 トラックが石畳を削って走り出す。追っ手の自動車が角を曲がったところで、マルタは荷台から樽を一つ落とした。樽は割れ、中から油ではなく何百匹もの鶏が飛び出した。通りは羽毛と罵声で埋まった。

「どうして鶏?」

「安かったから」

 旧市街の鐘楼が夜半を告げた。

 アキは幌の中で黒曜石の鏡を取り出した。月明かりを受けた縁に、ごく小さな傷があった。

 S・A。

 天城修一。

 十七年前、テオティワカンで消息を絶った父の頭文字だった。

二 死者の道の北

「これは地図じゃない」

 ルシオ・オルテガは、夜明けまで鏡の裏面を拡大鏡で調べ、そう結論した。

 痩せた若い考古学者で、大学から追い出された理由は「教授より正しいことを証明してしまったから」だと本人は語っている。

 安宿の机に鏡を伏せると、裏面には細い線が幾何学模様を描いていた。大きな直線、その両側に段状の四角形。三つの巨きな印。そして北端から外へ延びる、蛇のような裂け目。

「死者の大通り、太陽と月のピラミッド、羽毛ある蛇の神殿。配置は似ている。でも縮尺が逆だ」

「逆?」

「地上の建物を示しているんじゃない。地上の配置を使って、地下の何かを閉じている」

 ルシオは鏡の中央を指した。

 そこには口を開けた顔が彫られていた。目は星、歯は雨滴、舌は下向きの階段。

「古い伝承に〈神々の井戸〉という言葉がある。神々が生まれた場所ではなく、神々を埋めた穴だという異説もね」

「異説で大学を追われた?」

「教授の帽子を窓から投げた件も少し関係している」

 アキは父の真鍮製コンパスを机に置いた。

 針は北を指さず、鏡の中心へ向いた。何度離しても同じだった。

 その日の午後、三人はテオティワカンへ向かった。

 盆地には乾いた風が吹き、巨大なピラミッド群が青空の下に影を落としていた。死者の大通りを歩く人々は蟻ほどに小さい。都市を造った者たちの名も言葉も、完全には残っていない。残っているのは石と壁画と、沈黙だけだった。

 観光客が帰り、夕暮れが紫色に沈む頃、アキたちは月のピラミッドのさらに北、灌木に隠れた溶岩の裂け目へ入った。

 鏡を太陽の最後の光へかざす。

 黒い面に、現実にはない白い道が映った。

「右へ三歩」とルシオ。

「崖だよ」とマルタ。

「鏡の中では崖じゃない」

 アキは小石を投げた。

 崖に見えた壁の一部を、小石がすり抜けた。薄い岩肌と同じ色に塗られた漆喰の幕だった。剥がすと、冷たい風が吹き出した。

 入口の左右には、黒曜石の小さな目が無数に埋め込まれていた。

 どの目にも、三人ではなく四人の影が映っている。

「誰かいる」とマルタが銃を抜いた。

「いるとも」

 背後で拍手が響いた。

 バルタサル・ベラが、六人の武装した男を従えて立っていた。礼服ではなく砂色の探検服を着ている。象牙の杖の中には細身の剣が仕込まれていた。

「鏡を盗んだ勇気には感謝しているよ、天城君。おかげで入口まで案内してもらえた」

「尾行にしては足音が大きい」

「ここから先は、静かに歩く必要もあるまい」

 ベラの部下がマルタとルシオの銃を奪った。

 アキは鏡を抱いたまま、洞口の闇を見た。父のコンパスは震えている。針の先で、青白い光が脈を打った。

 洞窟の奥から、湿った息が吐き出された。

 腐臭ではない。

 雨の匂いだった。

三 下へ降る雨

 通路は、自然の溶岩洞を削って造られていた。

 壁は赤く塗られ、黒い斑点が星のように散っている。行列の壁画が続いていた。鳥の頭飾りをつけた人々が壺を抱え、地下へ向かって歩いている。

「宝を運び込む行列だな」とベラ。

「違う」とルシオが言った。「壺は空だ。見ろ、口が下を向いている。彼らは何かを捧げに来たんじゃない。地上から空気を運んでいる」

「空気?」

「あるいは、火だ」

 先頭の傭兵が笑った。

「昔の連中は、神様が息切れするとでも思ったのか」

 通路の床が沈んだ。

 笑った男の足首に石の輪が閉じ、身体が逆さに吊り上げられる。壁の穴から黒曜石の刃が飛び出した。

 アキは咄嗟に鏡を投げた。

 刃は鏡の縁に当たり、軌道を変え、男の頬を浅く切って天井へ刺さった。

「命拾いしたね」

「鏡を投げる馬鹿があるか!」とベラが叫ぶ。

「人間より割れにくそうだったから」

 アキは床の赤い石だけを選んで進んだ。幼い頃、父は遺跡の罠について教える代わりに、台所へ仕掛けた鼠捕りを解除させた。失敗すると朝食がなくなった。教育として正しかったかは疑わしいが、役には立っている。

 やがて一行は、円形の石扉へ突き当たった。

 扉には四つの窪みがある。三つは黒曜石の円盤で塞がれ、一つだけが空いていた。

 アキは父のコンパスを見た。

 大きさがぴたりと合う。

「お父上は、ここまで来たのだろう」とベラが囁いた。「その先に答えがある」

「答えを欲しがる人間は、だいたい代金を払わされる」

「払うのは部下だ」

 ベラが顎をしゃくる。

 銃口がルシオの背へ押し当てられた。

 アキはコンパスを窪みへはめた。

 針が狂ったように回り、四つの円盤が同時に沈む。石扉の向こうで、巨大な歯車が一つずつ目覚める音がした。

 扉が半分ほど開いたところで止まった。

 隙間から霧が流れ出した。

 白ではない。

 月光を溶かしたような、淡い青の霧だった。床を這うのではなく、細い指のように伸び、近くにいた傭兵の靴へ絡みついた。

 男は霧を蹴った。

「ただの水蒸気だ」

 霧の雫が、革靴の表面を上へ登った。

 男の脛、膝、腰。重力に逆らい、服の繊維へ染み込んでいく。

「離れろ!」とルシオが叫んだ。

 遅かった。

 男は両手で顔を覆い、子供のような声で笑い始めた。

「母さん。そこにいたのか」

 青い涙が指の間から流れた。

 次の瞬間、扉の奥から何かが伸び、男を霧の中へ引き込んだ。

 銃声が狭い洞窟を揺らす。

 閃光の向こうに、一瞬だけ姿が見えた。

 人に似た胴。長すぎる四肢。背中から幾層にも生えた、羽毛のように薄い膜。頭部には顔がなく、黒曜石の鏡面があるだけだった。

 撃たれた肩から、鮮烈な青い液体が散った。

 それは血のように見えた。

 だが床へ落ちた青い滴は、虫の群れのように自力で集まり、傷口へ戻っていった。

 石扉が完全に開いた。

 四つの円盤が跳ね戻り、父のコンパスが床へ落ちた。アキが拾い上げた瞬間、霧が一行を呑み込んだ。

四 霧の中の四人目

 アキは闇の中で二度転がり、誰かの脚にぶつかった。

「名前を言って」

「ルシオだ」

「好きな食べ物」

「今それを訊く?」

「霧が声を真似るかもしれない」

「仔山羊の煮込み。唐辛子は多め」

「本人だね」

 手探りでマルタも見つけた。

 ベラと部下たちの気配は遠く、銃声だけが霧の向こうを走っていた。

 アキは携帯灯を点けた。

 光は一メートル先で青く滲み、壁まで届かない。足元には黒い石板が敷かれ、中央に銀色の線が延びている。

「上の大通りと同じ方向だ」とルシオ。

「地下にも都市があるってこと?」

「都市というより、影だ。地上のテオティワカンが、この場所の蓋として造られたなら」

 遠くで男の悲鳴が上がり、途中で女の歌声に変わった。

 マルタが銃を構え直す。

「私の姉の歌だ」

「姉さんは?」

「十年前に死んだ」

 霧がざわめいた。

 左手から、幼い女の笑い声が近づいてくる。

 アキはマルタの襟を掴み、銀の線に沿って走った。背後で何かの爪が石を擦る。灯りを振り返すと、霧の中から小さな手が何本も現れ、すぐに長い青白い指へ変わった。

 三人は低い部屋へ飛び込み、石扉を閉めた。

 内側には留め金がなかった。マルタが工具箱から鉄棒を抜き、扉の取っ手へ噛ませる。

 外で、姉の声がした。

「マルタ、開けて。寒いの」

 マルタは目を閉じ、歯を食いしばった。

「姉は寒いなんて言わない。いつも暑がってた」

 扉の向こうで、声が低く歪んだ。

 鉄棒がゆっくり曲がり始める。

 部屋の壁には、鮮やかな壁画が残っていた。

 黒い空から青い星が落ちる。星は地面へ潜り、巨大な蛇になる。蛇の身体から羽毛が生え、その羽毛に触れた人々の目が青く変わる。

 次の場面では、仮面をつけた人々が蛇を地下へ追い込み、その上に階段状の山を築いている。

「羽毛ある蛇は神じゃない」とルシオが呟いた。「少なくとも、この壁画では。羽毛は空を飛ぶ胞子、蛇は地下に伸びる本体。神の姿は、警告を忘れないための形だったのかもしれない」

 アキは壁画の下段を照らした。

 青い蛇の周りに、鏡の顔を持つ細長い者たちが立っている。先ほどの怪物と同じ姿だ。彼らは人間を襲っていない。蛇へ槍を向け、人々を背に庇っていた。

「守ってる」とアキ。

「何を?」

「私たちを。少なくとも、昔は」

 扉が大きく軋んだ。

 曲がった鉄棒が抜けかける。

 部屋の中央に円形の穴があった。底から微かな風が上がってくる。

 アキはロープを穴へ投げ込んだ。

「下へ行くよ」

「怪物から逃げるのに、怪物の巣へ?」

「地上へ戻る道は霧で塞がれた。なら、霧の出どころへ行って栓をする」

 マルタが笑った。

「そういう考え方、嫌いじゃない」

 ルシオが先に降り、マルタが続く。

 アキが縁へ足をかけたとき、扉が破れた。

 青い霧の向こうに、父が立っていた。

 十七年前と同じ麻の上着。日に焼けた顔。困ったように垂れた眉。

「アキ。遅かったな」

 胸が止まりそうになった。

 父は右手を差し出した。

「こっちだ。宝を見つけた」

 アキの足が、無意識に一歩進んだ。

 そのとき、胸ポケットのコンパスが震えた。

 幻の父の右手には、指が六本あった。

 アキは携帯灯を投げつけた。

 父の顔が割れ、中から鏡面の頭部が現れる。長い腕が彼女を掴む寸前、アキは穴へ身を躍らせた。

 落下しながら、父の声が追ってきた。

「アキ。下には来るな」

 それが幻の言葉なのか、本物の記憶なのか、彼女にはわからなかった。

五 神々の井戸

 縦穴の底には、都市があった。

 三人が降り立ったのは、地下の断崖から突き出した石の台だった。

 はるか下まで、階段状の神殿、方形の中庭、斜面と垂直面を組み合わせた黒い建物が並んでいる。天井は見えず、無数の鉱物が星のように光っていた。

 都市の中央には、逆さのピラミッドが吊られていた。

 巨大な尖端が、底なしの穴へ向かっている。

「霧城だ」とマルタが言った。

 青い霧は建物の間を川のように流れ、ときおり上空へ吸い上げられる。

 遠くで鏡面の守人たちが歩いていた。二人一組で、長い槍を持ち、霧の濃い場所へ青い粉を撒いている。その動きには知性があり、目的があった。

「生き物なのか、造られたものなのか」とルシオ。

「どっちでも、撃たない方がよさそうだね」

 背後から撃たれた。

 弾丸がアキの肩を掠める。

 ベラと三人の部下が、別の縄を伝って降りてきた。残っていたのは半数だけだった。全員の服に青い染みがつき、目は恐怖と欲望で光っている。

「鏡を渡せ」とベラ。

「偽物なら邸に置いてきたよ」

「その胸にある」

 アキは懐の黒曜石を押さえた。

「これは扉の鍵だ。宝そのものじゃない」

「鍵の向こうには必ず価値がある。価値のないものに、これほど大きな錠は要らない」

 その理屈だけは、トレジャーハンターだった頃のアキにも理解できた。

 理解できるからこそ、嫌な予感がした。

 ベラはルシオを銃床で殴り、案内を命じた。

 一行は銀の線を辿り、地下都市を進んだ。

 街路の脇には、石棺のような透明な箱が並んでいた。

 中に眠るのは守人たちだった。胸に青い管を何本も通され、都市全体と繋がっている。彼らは囚人ではない。生きた濾過装置だった。

 広場に差しかかると、ベラの部下の一人が立ち止まった。

「水の音がする」

 噴水があった。

 乾いた石鉢の上に、澄んだ水が空中から湧き、下へ落ちずに天井へ昇っている。

 男は喉を鳴らした。

 止める間もなく、水へ口をつけた。

 彼の身体が一瞬で硬直した。

 皮膚の下を青い線が走り、目が鏡のように黒くなる。

「伏せろ!」とアキ。

 男の背中が裂けた。

 羽毛に似た薄膜が何枚も噴き出し、霧を孕んで膨らむ。男だったものは銃を振り回し、仲間へ発砲した。

 守人たちが広場へ駆け込んだ。

 黒い槍が変貌した男の胸を貫く。

 青い血が爆ぜ、霧が悲鳴のように震えた。守人は槍を捻り、男の身体から青い塊を引きずり出す。それは心臓に似ていたが、何本もの細い脚で逃げようとした。

 もう一人の傭兵が守人を撃った。

 鏡面の頭が砕ける。

 守人の青い血が彼へ降りかかった。

 男は笑った。

 笑いながら溶けた。

 アキはルシオとマルタを引き、脇道へ飛び込んだ。

 ベラも後を追う。最後の部下の絶叫が、青い霧に呑まれた。

「まだ宝を探すつもり?」とアキ。

「もちろんだ」

 ベラの白い口髭には、青い血が一滴ついていた。

 彼はそれに気づいていなかった。

六 父の部屋

 脇道の先は、小さな居室だった。

 土器、乾いた布、錆びたランプ。古代のものではない。壁には鉛筆で日付と矢印が書かれ、床には革の鞄が置かれていた。

 鞄の留め金に、S・Aの刻印がある。

 アキは膝をついた。

 中には野帳、壊れた眼鏡、鉱物標本、家族写真が入っていた。写真の中で、五歳のアキは父の肩に乗り、片手に玩具のスコップを持っている。

 野帳の最後の頁だけ、文字が大きく乱れていた。

 ――これは墓ではない。培養槽でもない。都市そのものが傷口を縫う糸だ。

 ――青い霧は記憶を読む。親しい声で呼ばれても答えるな。

 ――鏡面の者たちは敵ではない。最初に感染した者が、自分たちの意志を残すため身体を造り替えた守人だ。

 ――中央の〈朝の心臓〉を動かしてはならない。

 ――封印には、地上の太陽、地下の鏡、星の鉄が必要。

 ――アキへ。宝物は見つけることより、見つけた後に何をしないかで値打ちが決まる。

 最後の一行は、途中で途切れていた。

 部屋の隅に、人骨が座っていた。

 麻の上着。錆びた腕時計。右手には短い鉄棒が握られている。骨の指は五本だった。

 アキはしばらく動かなかった。

 泣くつもりはなかった。

 十七年も待てば、悲しみは石になると思っていた。だが石の中にも水は残っている。頬を伝った一滴が、父の野帳へ落ちた。

「見つけたよ」とアキは言った。「遅くなった」

 背後で拍手がした。

「感動的だ」

 ベラが銃を向けていた。

 白い口髭の下、首筋に青い血管が浮いている。

「野帳を寄越せ」

「読めるの?」

「数字なら読める。〈朝の心臓〉とやらは、どれほどの力を生む? この都市を千年動かしているものなら、油田より価値がある」

「動かしてるんじゃない。押さえ込んでる」

「同じことだ。檻を造れる力は、都市も動かせる」

 ルシオが口を開いた。

「あなたの首に青い線がある」

「黙れ」

 ベラは彼を撃った。

 弾丸は脇腹を掠め、ルシオが倒れる。

 マルタが飛びかかった。

 ベラは杖から細剣を抜き、彼女の腿を切った。アキが銃を蹴り上げる。発砲。天井の石が砕け、霧が細い隙間から流れ込んだ。

 父の人骨が青い霧に包まれる。

「アキ」

 骨の口は動かない。

 それでも父の声がした。

「こいつを殺せ」

 アキの手には、いつの間にか銃があった。

 照準の先にベラ。引き金へ指をかける。

「撃て」と父の声。

「撃つんだ。お前は昔から、最後に迷う」

 アキは銃口を下げ、床へ撃った。

 石板が割れ、その下から青い管が現れる。銃声に反応し、管が鞭のように跳ねてベラの腕へ絡みついた。

「父は私を急かさない」

 アキは父の骨から鉄棒を取り上げた。

 先端には小さな星形の歯がある。コンパスの針と同じ、黒い金属だった。

 ベラは管を斬り、奥の扉へ逃げた。

 扉には朝日を表す放射状の紋が刻まれている。

「中央だ!」ルシオが傷口を押さえながら叫ぶ。「彼を止めろ!」

 アキは野帳と鉄棒を懐へ入れ、マルタへ肩を貸した。

 父の骨を連れてはいけない。

 だが置き去りにするのは、もう二度目ではなかった。

「帰ったら迎えに来る」

 霧の中の父は答えなかった。

七 朝の心臓

 扉の向こうは、逆さのピラミッドの内部だった。

 何百段もの階段が、中心の空洞を螺旋状に下っている。

 最下部には、青い光を放つ球体が浮かんでいた。直径は人の背丈ほど。透明な殻の中で、液体とも臓器ともつかないものが脈打っている。そこから無数の管が伸び、地下都市の壁へ消えていた。

 周囲には黄金の仮面、緑の石の首飾り、貝殻、黒曜石の刃が山積みになっている。

 王の財宝に見えた。

 だが全ての品には穴が開けられ、青い管が通されていた。

「供物じゃない」とルシオ。「熱、光、音。異なる物質を使って、心臓の活動を散らしている。財宝は部品だ」

「外したら?」

「檻が壊れる」

 階段の下で、ベラが黄金の仮面を引き抜いた。

 都市全体が震えた。

 青い霧が滝のように上から降り、逆さのピラミッドへ流れ込む。

「やめろ!」とアキが叫ぶ。

 ベラは笑っていた。

 口から青い煙が漏れている。

「聞こえるぞ。都市の声が。こいつは眠ってなどいない。待っていたのだ。自分を運び出せる王を」

 彼は心臓の殻へ細剣を突き立てた。

 透明な殻に亀裂が走る。

 鮮やかな青い液体が噴き出し、ベラの全身へ浴びせかかった。

 叫びは途中から歓喜に変わった。

 彼の身体が膨れ、骨が礼服を突き破る。背中から青い膜が何十枚も開き、顔は黒曜石のように平らになった。だが守人とは違う。左右不揃いで、腕も脚も増え続け、霧を吸うたびに人間の顔が皮膚へ浮かんだ。死んだ傭兵たちの顔だった。

 〈王〉になったベラが、何本もの声で言った。

「地上を見せろ」

 逆さのピラミッドの外から、守人たちが殺到した。

 黒い槍が王の身体を貫く。しかし王の青い血は槍を伝い、守人の腕へ侵入する。鏡面の頭にひびが走った。

「彼らだけじゃ止められない」とルシオ。

「封印の方法は?」

「地上の太陽、地下の鏡、星の鉄」

 アキは父の野帳をめくった。

 乱れた図がある。逆さのピラミッド上部から、一本の縦穴が地上へ伸びている。地下の鏡で朝日を分け、都市中の黒曜石へ走らせる仕組みだ。

 だが図の中央には、欠けた歯車が描かれていた。

 父が握っていた星形の鉄棒。

「父は装置の鍵を抜いて、止めたんだ」

「なぜ?」

「誰かが鏡を盗んだから。鏡なしで起動すれば、心臓を焼く前に都市が崩れる」

 アキは黒曜石の鏡を取り出した。

 表面には、青い霧の向こうで膨張する王が映っている。現実より少し先の姿だ。鏡の中で王の腕が伸び、マルタの胸を貫いた。

「伏せて!」

 アキがマルタを倒す。

 直後、現実の腕が同じ軌道を薙いだ。石段が砕ける。

「鏡は未来を映すのか」とルシオ。

「未来じゃない。こいつの考えてることを、一拍先に盗んでる」

 アキはマルタをルシオへ預けた。

「上の光井戸へ行く。鏡と鉄棒をはめる」

「何段あると思ってる?」

「数えなければ少ない」

 三人は階段を駆け上がった。

 王が追う。

 守人たちが脚へ槍を打ち込み、必死に引き留める。青い血が階段を逆流し、触れた黄金の仮面が次々と人の声で泣き始めた。

 マルタの傷が開き、歩みが遅れる。

 ルシオも脇腹を押さえている。

「置いていけ」とマルタが言った。

「嫌だね」

「三人とも死ぬ」

「私は宝を置いていくことはあっても、仲間を置いていったことはない」

「さっきお父さんを」

「あれは迎えに来る約束をした」

 アキは黄金の首飾りを蹴り落とし、代わりにマルタを背負った。

 首飾りは青い霧へ沈み、子供の笑い声を上げた。

八 太陽を盗む

 光井戸は、ピラミッド頂部の小部屋にあった。

 天井へ垂直な穴が伸び、その遥か先に星空が見える。東の縁がわずかに白んでいた。夜明けまで、長くて数分。

 床には直径三メートルの石の円盤があり、中央に鏡を置く窪み、脇に星形の鍵穴がある。

 アキは黒曜石の鏡をはめ、鉄棒を差し込んだ。

 動かない。

「何か足りない」とルシオ。

「父の図では、三つだ。太陽、鏡、星の鉄」

「鏡の向きかも」

 円盤の周囲には、羽毛ある蛇の頭が四方を向いて彫られていた。だが一つだけ口が閉じている。

 王の咆哮が近づく。

 階段の下から青い霧が盛り上がった。人の顔が幾つも浮かび、アキの父、マルタの姉、ルシオの母へ変わる。

「ルシオ」と母の声が呼んだ。

「お前は何も証明できなかった」

「教授の帽子を投げたことは証明できた」

 ルシオは耳を塞ぎ、壁画を調べた。

「閉じた口……息を入れるんだ。壺の壁画と同じだ。地上の人々は空気を運んでいたんじゃない。人間の息で装置を始動させた」

「神様が息切れするって話、当たってたのかもね」

 マルタが閉じた蛇の口へ息を吹き込んだ。

 石の喉で笛のような音が鳴る。

 円盤がわずかに回った。

「一人じゃ足りない!」

 三人が並び、交代で息を吹き込む。

 円盤の下で歯車が噛み合い、地下都市全体に低い振動が広がった。黒曜石の鏡がゆっくり上を向く。

 王が小部屋へ這い上がった。

 すでに人間の面影はない。天井へ届く巨体に、何十枚もの青い膜。皮膚には死者の顔が浮かび、口々に助けを求めている。

 守人の一人が背へしがみついていた。鏡面の顔は半分割れ、胸の青い管も千切れている。それでも槍を深く突き立て、王を止めていた。

 アキは黒曜石の鏡を覗く。

 鏡の中で、王の左腕がルシオを狙う。

 アキは先に鉄棒を抜き、投げた。星の鉄が腕の関節へ刺さり、軌道を逸らす。

 しかし鉄棒を失い、円盤が止まった。

「アキ!」とルシオ。

「わかってる!」

 王の右腕が来る。

 鏡では、アキの身体が壁へ叩きつけられていた。避ける場所はない。

 そのとき守人が身を投げ、腕を受けた。

 胸を貫かれ、鏡面の頭がアキの前へ転がる。

 割れた鏡面に、父の顔が映った。

「最後に迷え」と父は言った。

 霧が作った声ではない。

 アキ自身が、ずっと忘れていた記憶だった。

 幼い彼女が崖から川へ飛び込もうとした日、父はこう言ったのだ。

 勇気とは、迷わないことじゃない。

 最後の瞬間まで迷い、それでも選ぶことだ、と。

 アキは王の関節へ走った。

 青い血が靴を焼き、霧が耳元で千の声を上げる。彼女は刺さった鉄棒を掴み、全体重をかけて引き抜いた。

 王の何本もの腕が彼女を包む。

 鏡の中で、次の一拍が見えた。

 王はアキを殺さない。

 胸へ取り込み、地上へ運ばせるつもりだ。

「残念。私は運び屋じゃない」

 アキは星の鉄を、王の胸に浮かぶベラの顔へ突き刺した。

 一瞬だけ、白い口髭の男が現れた。

「私の、宝だ」

「宝は持ち主を選ぶよ」

 王が絶叫し、腕を緩める。

 アキは転がって円盤へ戻り、鉄棒を鍵穴へ叩き込んだ。

 東の空から、最初の太陽が差した。

 一本の光が井戸を落ち、黒曜石の鏡へ当たる。

 鏡は光を反射しなかった。

 呑み込んだ。

 真黒な表面の内側に、金色の亀裂が走る。次の瞬間、無数の細い光が床の溝へ迸り、壁、階段、逆さのピラミッド、地下都市の全ての黒曜石へ伝わった。

 霧が燃えた。

 炎ではない。

 青い霧が一粒ずつ透明な結晶へ変わり、雨のように落ち始めた。王の膜が砕け、皮膚に浮かぶ死者の顔が安らいで消える。

 守人たちは一斉に跪いた。

 胸の青い光が、静かに消えていく。

「都市が崩れる!」とルシオ。

 心臓の殻が割れた。

 中から出てきたものは怪物でも神でもなかった。

 握り拳ほどの青い種だった。羽毛のような細い根を伸ばし、朝日に向かって震えている。

 王の残骸が最後の力で種を掴む。

 アキは鏡を円盤から外した。

 金色の亀裂が全面へ広がっている。父の頭文字を親指でなぞり、種へ向けて投げた。

 鏡と種が触れた。

 音もなく、青い光が一点へ縮む。

 黒曜石の鏡は種を抱いたまま、底なしの穴へ落ちていった。

 地下都市が、自らを閉じ始めた。

九 帰るための宝

 崩壊は上からではなく、遠くから近づいてきた。

 街路が折れ、神殿が沈み、青い結晶の雨が津波のように迫る。

 光井戸の壁に、古い昇降路が開いた。守人が最後に残した道だった。

 三人は狭い斜坑を這い上がった。

 マルタの脚は動かず、ルシオは血を失って顔が白い。アキは二人をロープで結び、肩と膝で進んだ。

 胸元で鎖が切れ、父のコンパスが斜坑を滑り落ちた。アキは手を伸ばしかけ、背中のマルタの重みを感じて拳を閉じた。

 後ろから父の声がした。

「アキ。忘れ物だ」

 振り返らなかった。

 今度こそ、それが正しい別れ方だとわかっていた。

 斜坑の先に石の蓋がある。

 アキは背中で押した。動かない。

 崩壊の風が追いつき、青い結晶が足首へ当たる。触れた場所から、幼い頃の記憶が鮮明に蘇った。父の肩の高さ。母の歌。初めて盗んだ博物館の鍵。返しに行った翌朝の雨。

「押せ!」とマルタ。

「押してる!」

「もっと罪悪感を込めて!」

 三人で石蓋を押す。

 朝日が細い刃のように差し込んだ。

 蓋が外れた。

 アキたちは灌木の斜面へ転がり出る。背後で地面が一度だけ大きく息を吸い、裂け目が閉じた。

 盆地には朝が来ていた。

 遠くに月のピラミッド、太陽のピラミッド、死者の大通りが見える。何事もなかったように石の巨体を横たえている。

 アキは仰向けになり、空を見た。

 雲一つない青だった。

「宝は?」とマルタが息を切らして訊いた。

「置いてきた」

「金も?」

「全部」

「最低のトレジャーハンターだね」

「三人持ち帰った」

「自分も数えるの?」

「一番高くつくからね」

 ルシオが笑い、傷に響いて呻いた。

 三日後、地元当局は北側の小規模な陥没を「古い溶岩洞の崩落」と発表した。

 ベラ侯爵は行方不明。彼の屋敷から押収された遺物の多くは国立博物館へ移された。競売人は何も知らなかったと証言し、鶏だけが旧市街で増え続けた。

 ルシオは父の野帳を学術報告にしようとしたが、アキは最後の頁だけを破って渡さなかった。

 証明できないこともある。

 証明してはいけないこともある。

 マルタは療養中、ベラの残したトラックを勝手に売り、その金で新しい飛行機の頭金を払った。

「次は海底神殿だ」と彼女は宣言した。

「泳げないくせに」

「だから飛行機を買う」

 出発の朝、アキは宿の洗面台で顔を洗った。

 父のコンパスは失った。黒曜石の鏡も、霧城も、持ち帰れなかった。

 残ったのは野帳の一頁と、星の鉄棒の欠片だけだ。

 彼女は壁の小さな鏡を見た。

 疲れた女が映っている。肩に包帯、頬に擦り傷、目の下に隈。だが十七年前より少しだけ軽い顔だった。

 アキは鏡へ背を向けた。

 窓の外で、朝日が街の屋根を照らしている。

 階下からマルタのクラクションが鳴り、ルシオが「近所迷惑だ」と叫ぶ。

 アキは帽子を被り、部屋を出た。

 誰もいなくなった鏡の中で、青い霧が一筋だけ立ちのぼった。

 そして鏡の中のアキは、現実の彼女より一拍遅れてではなく、一拍早く、朝日の方を振り向いた。