『黒薔薇は夜明けを知らない』
聖環学院では、靴の値段が名前より先に覚えられる。
リノア・ヴェイルは入学初日の朝、それを知った。
正門をくぐった瞬間、金の飾り紐をつけた生徒たちの視線が、いっせいに彼女の足元へ落ちたからだ。
リノアの編み上げ靴は、黒ではなく、黒かったことがある色をしていた。右の爪先には二重の縫い目があり、左の踵にはパン屋の包装紙を折って入れてある。雨の日に水が染みないようにする、煤け橋地区の知恵だった。
対して、丘の上にそびえる聖環学院の生徒たちは、靴だけで小さな家が買えそうだった。
制服の襟には家柄を示す刺繍があり、大貴族は金、小貴族は銀、奨学生には何もない。食堂も階段も図書室の机さえ、刺繍の色で使える場所が決まっていた。
「つまり私は、透明人間というわけね」
リノアが独り言を言うと、隣を歩いていた銀襟の少女が青ざめた。
「聞かれたら大変よ。ここでは冗談にも序列があるの」
「上等な冗談は金襟専用?」
「そういうところ」
少女は名をエマといった。親切ではあったが、親切にしているところを見られるのをひどく恐れていた。
午前の歓迎昼食会で、事件は起きた。
中央の長卓には、白冠会と呼ばれる学院の支配者たちが座っていた。古い名家の後継者だけで構成された自治組織で、教師より強く、校則より気まぐれだと噂されている。
その頂点にいるのが、カイ・セヴロンだった。
夜を溶かしたような黒髪。冬の湖のような灰色の目。制服の胸には、王家から許された白金の環章。
彼が廊下を歩けば会話が止まり、彼が笑えば誰かが退学になる、と上級生は囁いていた。
給仕の少年が、ナヴァネの前で銀の皿を落とした。
皿は派手な音を立てて割れ、白いスープがナヴァネの革靴にかかった。
食堂から音が消えた。
「申し訳、ございません」
少年は床に額がつくほど頭を下げた。
ナヴァネは濡れた靴を見下ろし、それから淡々と言った。
「皿と靴の代金は、彼の給金から引け」
「はい、ナヴァネ様」
少年の顔から血の気が引いた。
リノアは立ち上がっていた。
「その靴、いくら?」
「……何だと?」
「耳も高級品すぎて、庶民の声は聞こえないのかしら」
周囲で誰かが息を呑んだ。エマが卓の下でリノアの裾を引いた。
ナヴァネの目が細くなる。
「君は?」
「リノア・ヴェイル。奨学生。襟は無地。靴は修理三回。これで自己紹介は足りる?」
「十分だ。ではヴェイル嬢、君が払うのか」
「ええ。相応の額なら」
リノアは自分のスープ皿を持ち上げ、ナヴァネのもう片方の靴へ、ゆっくり中身を注いだ。
「これで左右そろったから、片方分でいいでしょう」
誰かが小さく悲鳴を上げた。
ナヴァネはしばらく、白く濡れた二足の靴を見つめていた。
怒るかと思った。
だが彼は、ほんの一瞬だけ、笑いそうな顔をした。
次の瞬間には、冷たい無表情へ戻っていた。
彼は胸ポケットから一枚の黒い紙を取り出した。
紙には、濡れた血のように艶めく薔薇が描かれている。
それをリノアの襟へ留めると、ナヴァネは耳元で囁いた。
「午前零時、旧鐘楼へ来い」
「決闘のお誘い?」
「来なければ、君は朝までに喰われる」
彼が離れると、食堂中の生徒がリノアから一歩遠ざかった。
黒薔薇の札。
それは聖環学院における、社会的な死刑宣告だった。
その日の午後だけで、リノアの机は三度消えた。
教科書は噴水に沈み、上履きには蜂蜜が詰められ、寮の扉には「身の程」と赤い塗料で書かれた。
エマは助けようとしたが、廊下の向こうに金襟の生徒を見つけるたび、手を引っ込めた。
「ごめんなさい」
「謝るくらいなら、見張っていて」
リノアは塗料を拭き取り、黒薔薇の札を髪飾りにした。
どうせ目立つなら、堂々と咲かせた方がいい。
夜十一時半。
消灯の鐘が鳴ると、学院は墓場のように静まり返った。
リノアはベッドの下から暖炉用の火掻き棒を取り出した。
「行くの?」とエマが震える声で尋ねた。
「行かなかったら喰われるらしいから」
「脅しよ。白冠会は、逆らった生徒を夜の森へ連れていくって」
「なら、喰われる相手を選べるわね」
旧鐘楼は、校舎北端の封鎖区域にあった。
錆びた鎖をまたぎ、埃だらけの扉を押す。
その向こうに、学院はなかった。
廊下の壁は崩れ、窓の外には赤い月が浮かんでいた。床には古い旗と折れた剣が散らばり、遠くで獣の咆哮が響く。昼間まで肖像画だった貴族たちは、額縁の中で首だけになり、歯を鳴らして笑っていた。
リノアは火掻き棒を握り直した。
「趣味の悪い歓迎会ね」
天井から、何かが落ちてきた。
制服を何十着も縫い合わせたような巨体だった。袖から白い腕が束になって生え、顔のあるべき場所には金銀の名札がびっしり並んでいる。名札の隙間から、赤い舌が垂れた。
怪物はリノアの髪に咲く黒薔薇を見つけ、歓喜の声を上げた。
「無地。無地。無地」
名札がいっせいに開いた。
それはすべて口だった。
怪物が跳ぶ。
リノアは横へ転がり、火掻き棒で腕を払った。一本は折れたが、残りが足首へ絡みつく。
引きずられながら、彼女は壁の燭台を蹴り落とした。
油が怪物にかかる。
火掻き棒の先で炎を移そうとした、そのとき。
黒い大剣が、怪物を縦に両断した。
血の代わりに、無数の成績表が舞った。
怪物の背後に、黒鉄の騎士が立っていた。
鎧は金属というより、生き物の殻に見えた。肩から曲がった角が伸び、胸当ての隙間で赤い脈が明滅している。右腕と一体になった大剣は、墓標ほどもあった。
兜が開く。
中から現れたのは、カイ・セヴロンの顔だった。
「遅い」
「零時ちょうどよ」
「十一時五十九分に死んだらどうする」
「あなたが一分早く助ければいいでしょう」
ナヴァネは何か言い返しかけ、やめた。
怪物の残骸を靴で探り、金の名札を一つ拾う。それは昼間、食堂でリノアを嘲笑していた上級生のものだった。
「今のは何?」
「学院の本性だ」
「ずいぶん制服の着こなしが自由ね」
ナヴァネは黒薔薇の札を見た。
「それを外すな。夜のものは、白冠会の所有物には手を出しにくい」
「所有物?」
「言葉の綾だ」
「人を札で囲っておいて?」
「昼間の連中は、私が君を潰そうとしていると思う。夜の連中は、私が君を喰うつもりだと思う。どちらにも近づかせないためには、それが一番早かった」
「説明する方が早いわ」
「説明を信じる人間ばかりなら、学院に序列など存在しない」
その言葉だけは、妙に疲れていた。
赤い月の下で、鐘楼の大鐘がひとりでに揺れた。
音は鳴らない。
それでもリノアの胸の奥で、十二回、何かが叩かれた。
ナヴァネの鎧が、苦しげに軋んだ。
「学院は毎年ひとり、生徒を選ぶ」と彼は言った。「黒薔薇が咲いた者を」
「私を?」
「おそらく」
「選ばれたらどうなるの」
「卒業式で鐘になる」
「比喩?」
「だったらよかった」
遠くから、いくつもの足音が近づいてきた。
ナヴァネは大剣を構える。
「今夜から、君は私のそばを離れるな」
「命令は嫌い」
「では提案だ」
「言い方を変えただけね」
「生き残ったら、謝罪の仕方を学ぶ」
暗闇の中に、白い仮面が次々と浮かんだ。
リノアは火掻き棒を構え、ナヴァネの隣に立った。
「まずは、靴代からね」
それから二週間、リノアは昼と夜で別々の学院に通った。
昼は、金襟の生徒たちが支配する優雅な監獄。
夜は、嫉妬と軽蔑が骨肉を得て歩き回る戦場。
黒薔薇の札をつけた彼女に話しかける者はほとんどいなかった。
代わりにナヴァネが、毎朝当然のように隣の席へ座った。
「そこは無地襟の机よ」
「今日から白冠会の特別席だ」
「横暴」
「便利だろう」
「便利な横暴が一番たちが悪いの」
彼は高価な教科書を貸し、リノアは余白へ容赦なく悪口を書いた。
彼は食堂の上段席へ彼女を連れていき、リノアは金の皿に庶民食堂の固い黒パンを置いた。
ナヴァネは初めて食べるような顔で、それを噛んだ。
「これは料理か?」
「あなたの歯が装飾品でなければね」
「……悪くない」
「二個目を取る人の台詞じゃないわ」
夜になると、二人は怪物を倒しながら学院の秘密を探った。
ナヴァネの黒鎧は、戦うたびに彼の身体へ食い込んだ。
リノアが保健室で背中の傷を縫うと、傷跡は文字のように並んでいた。
「これ、読めそう」
「読むな」
「『王』『犬』『裏切り者』……ずいぶん評判が広いのね」
「鎧は、私に向けられた感情を食って育つ」
「だから昼間、嫌われるように振る舞うの?」
「半分は」
「残り半分は?」
「性格だ」
リノアは笑ってしまった。
ナヴァネも、少し遅れて笑った。
彼が笑うところを見たのは、それが初めてだった。
ある夜、二人は学院から外へ出ようとした。
正門を越え、坂を下り、煤け橋地区へ向かう路面馬車に乗った。
リノアは故郷のパン屋を思い浮かべた。
朝四時の竈の熱。小麦粉まみれの手。窓辺に吊るした青い布。
だが馬車は一時間走ったあと、聖環学院の正門前へ戻ってきた。
御者は何事もなかったように帽子を上げた。
「終点でございます」
もう一度乗った。
また正門へ戻った。
三度目、リノアは途中で飛び降りた。
森を真っ直ぐ走ったはずなのに、木立を抜けると学院の中庭にいた。
「どういうこと」
ナヴァネは答えなかった。
「知っていたの?」
「疑っていた」
「休暇には、みんな故郷へ帰っている」
「帰った記憶はある。だが、道中を覚えている者はいない」
リノアは自分の故郷を思い出そうとした。
パン屋の竈は見える。
青い布も見える。
けれど店の隣に何があったか、母親の声がどんな高さだったか、どうしても思い出せなかった。
胸の中に、初めから穴があったことに気づいたようだった。
「私たちは、どこにいるの」
「それを調べる」
ナヴァネが手を差し出した。
いつもなら振り払っただろう。
その夜だけは、リノアは握った。
黒鎧に覆われていない指は、驚くほど冷たかった。
学院の最深部には、封印された卒業記録庫があった。
扉は鍵ではなく、床に刻まれた舞踏の足跡で閉ざされていた。
正しい順番で踊った者だけが通れるらしい。
「踊れる?」とナヴァネが尋ねた。
「パン生地なら毎朝踏んでいた」
「似たようなものだ」
「舞踏会で言ったら戦争になるわよ」
ナヴァネはリノアの右手を取り、左手を腰へ添えた。
昼間の彼なら腹が立ったはずなのに、夜の静かな廊下では、触れた場所だけが妙に熱く感じられた。
「私の足を踏むな」
「高い靴でしょう。弁償できないもの」
「最初からする気がない顔だな」
一、二、三。
一、二、三。
床の足跡が青白く光る。
リノアが一度つまずき、ナヴァネの胸へぶつかった。
黒鎧の奥で、彼の心臓が鳴った。
学院の大鐘より、ずっと人間らしい音だった。
「今、笑った?」とリノアが言う。
「笑っていない」
「嘘。胸が笑った」
「人の心臓にまで文句をつけるな」
最後の一歩を踏むと、扉が開いた。
記録庫には、百年以上分の卒業写真が並んでいた。
最初の一冊を開き、リノアは息を止めた。
百二十年前の写真の中央に、自分がいた。
金糸の制服。宝石の首飾り。冷たい微笑み。
その足元には、給仕服を着たナヴァネが跪いていた。
「そんな」
次の冊子では、ナヴァネが王冠をかぶり、リノアは無地襟の制服を着ていた。
さらに次では、二人とも教師だった。
ある年には兄妹、ある年には敵同士、ある年には写真の端で手をつないでいた。
ただし、どの年も卒業式のページだけ、一人分の顔が黒く塗り潰されていた。
リノアの年もあった。
ナヴァネの年もあった。
「これは記録じゃない」とナヴァネが言った。「繰り返しだ」
棚の奥に、一冊だけ表紙のない薄い冊子があった。
開くと、紙の間から乾いた黒薔薇が落ちた。
その花弁の裏に、小さな文字が刻まれていた。
――靴を見るな。顔を見ろ。
リノアの手が震えた。
「私の字だわ」
「覚えているのか」
「いいえ。でも分かる」
ナヴァネは長いあいだ黙っていた。
やがて、黒鎧の胸へ手を当てた。
「私は時々、夢を見る。君が金の冠をかぶっている夢。君が私を処刑する夢。私が君を鐘楼から突き落とす夢。それから――」
「それから?」
「名もない町で、二人でパンを焼く夢」
「どれが本当?」
「全部かもしれない」
「最悪ね」
「ああ」
ナヴァネは笑わなかった。
「それでも毎回、私は君を探した気がする」
「告白としては、かなり最悪ね」
「告白ではない」
「では、今のうちに訂正して」
「……君に会うと、役を忘れられる」
記録庫の蝋燭が、一斉に消えた。
暗闇の中で、リノアは彼の襟をつかんだ。
唇が触れたのは一瞬だった。
どちらからだったのか、後になっても分からなかった。
その直後、学院中の鐘が鳴り響いた。
卒業舞踏会の招集だった。
舞踏会の夜、学院は金色に飾られていた。
天井から千本の蝋燭が下がり、床には鏡のような大理石が敷かれている。生徒たちは家柄ごとに輪を作り、決められた相手と、決められた曲を、決められた笑顔で踊っていた。
リノアの寮室には、ナヴァネから贈られた金の靴が届いていた。
宝石まで縫いつけられ、片方だけで煤け橋地区のパン屋が買えそうだった。
彼女はそれを箱へ戻し、いつもの編み上げ靴を履いた。
会場へ入ると、笑い声が起きた。
リノアは気にしなかった。
ナヴァネは白金の礼装で待っていた。
足元を見て、眉を上げる。
「贈り物を拒絶するにも作法がある」
「私の足は、私が歩いてきた道を覚えているの」
「金の靴では歩けないと?」
「あなたが踏んだとき、遠慮なく踏み返せないでしょう」
ナヴァネは手を差し出した。
「一曲だけ」
「一曲で済む?」
「世界が終わるまで」
二人が踊り始めると、周囲の輪が静かに割れた。
一、二、三。
一、二、三。
記録庫の扉を開いたときと同じ足取り。
だが今度は、どちらも間違えなかった。
零時の一分前。
壇上へ校長が現れた。
老人の顔には、縦に細い亀裂が走っていた。
口を開くたび、亀裂の奥で歯車が回る。
「本年度の暁冠に選ばれた者を告げる」
会場の全員が、同じ角度でリノアを見た。
「リノア・ヴェイル」
拍手が起きた。
一人一人の手が、機械のように正確に重なる。
エマも拍手していた。
涙を流しながら。
「ごめんなさい」と、彼女の唇だけが動いた。
天井が消えた。
赤い月が、舞踏会場を照らした。
生徒たちの顔が白い陶器の仮面へ変わる。金襟も銀襟も無地襟も、仮面の下では同じ空洞だった。
床が割れ、その下から巨大な歯車がせり上がる。
中央には、学院の鐘楼より大きな黒い鐘が吊られていた。
校長の顔が左右へ開いた。
中には顔がなく、振り子だけが揺れていた。
『上に一人。下に一人』
声は校長からではなく、大鐘そのものから響いた。
『その距離こそ、最も美しい音を生む』
黒い鐘の表面に、歴代の卒業写真が浮かんだ。
『羨望は上へ昇り、侮蔑は下へ落ちる。学院はそれを集め、時を回す。役は毎回入れ替えた。飽きぬように。学べぬように』
「私たちは何者?」とリノアは叫んだ。
『生徒だ』
「答えになっていない」
『生徒とは、与えられた席が自分の価値だと信じる者の名だ』
ナヴァネがリノアの前へ出た。
「彼女は渡さない」
『では選べ、カイ・セヴロン。彼女を鐘へ捧げれば、お前を本物の王として外へ出そう。二度と跪かぬ人生を与える』
黒鐘の表面に幻が映った。
王座に座るナヴァネ。足元へ頭を下げる群衆。
『リノア・ヴェイル。彼を捧げれば、お前に金の襟を与えよう。貧しさも、嘲笑も、二度と知らずに済む』
今度は、宝石に囲まれたリノアが映った。
その足元には、顔のない人々がいた。
リノアは髪から黒薔薇の札を外した。
「どちらも趣味が悪いわ」
ナヴァネも胸の環章を外した。
「同感だ」
二人は同時に、札と環章を床へ投げた。
黒鐘が鳴った。
一度だけ。
音の衝撃で、舞踏会場の柱が砕けた。
ナヴァネの黒鎧が、彼の身体を呑み込むように膨れ上がる。
「離れろ!」
彼の声が、兜の中で獣の咆哮へ変わった。
鎧は鐘から伸びた無数の鎖につながっていた。
これまで倒してきた怪物たちの顔が、肩や胸から浮かび上がる。
鎧は彼を守っていたのではない。
繰り返すたびに積もった憎しみを、鐘へ運ぶ器だったのだ。
黒騎士となったナヴァネが、大剣を振り上げた。
刃がリノアへ落ちる。
彼女は避けなかった。
大剣は、髪一本を切る距離で止まった。
兜の隙間から、ナヴァネの灰色の目が見えた。
「逃げろ」と彼が言った。
「命令は嫌い」
「今だけは聞け」
「あなたが謝罪の仕方を覚えるまで、死なせない」
リノアは黒薔薇の札を二つに裂いた。
紙の中から、本物の棘が伸びた。
細い黒い蔓は、ナヴァネの鎧へ絡みつき、鐘につながる鎖を締め上げる。
鎧が暴れた。
リノアの肩を爪が裂く。
それでも彼女は離さなかった。
「思い出して。金襟も、無地襟も、王も、犬も、全部役よ」
「私は……」
「あなたの名前は、ナヴァネ」
「私は、怪物だ」
「夜のあなたの方が、昼より礼儀正しかったわ」
兜の奥で、かすかな笑い声がした。
ナヴァネは自分の胸へ大剣を突き立てた。
刃が鎧の核を砕く。
黒い殻が崩れ、人間の腕が現れた。
リノアはその手をつかんだ。
二人は歯車の上を走った。
黒鐘へ続く階段は、踊るように位置を変える。
一、二、三。
一、二、三。
記録庫を開いた足取り。
舞踏会で重ねた足取り。
何百回も、別の身分、別の名、別の憎しみの中で忘れてきたはずの足取り。
最上段へたどり着く。
黒鐘の内側には、無数の顔があった。
泣く者。笑う者。蔑む者。跪く者。
すべて、かつてのリノアとナヴァネだった。
『鐘を壊せば、世界は終わる』
「世界じゃない」とリノアは言った。「檻よ」
『外に何があるかも知らぬ』
ナヴァネが大剣を構えた。
「少なくとも、ここではない」
鐘の歯車が回り始めた。
二人を挟み潰そうと迫る。
リノアは自分の編み上げ靴を脱ぎ、右足の踵を歯車へ差し込んだ。
三度修理した革が裂けた。
包装紙が舞い、小さな鉄の補強板が歯と歯の間へ噛み込む。
巨大な機構が止まった。
学院で最も安い靴が、学院で最も高価な時計を止めた。
「今よ!」
ナヴァネが剣を振り下ろす。
リノアも両手を添えた。
黒鐘に亀裂が走った。
『上がなくなれば、下もなくなる。お前たちは何者でもなくなるぞ』
リノアは裸足で踏ん張った。
「それなら、初めて自分で決められる」
鐘が砕けた。
音ではなく、朝日があふれた。
リノアは、机に突っ伏していた。
窓から明るい光が差している。
赤い月も、崩れた城壁もない。
白い壁、蛍光灯、電子黒板。見たことのないはずなのに、すべて知っている教室だった。
「里乃亜さん、体調が悪いの?」
教師が心配そうに覗き込んでいる。
彼女は自分の制服を見た。
襟には金の糸で、企業財団の紋章が刺繍されていた。
机の横には新品の鞄。足元には、傷一つない高価な靴。
教室の前方では、入学式の案内が続いていた。
「当校では、特別寄付家庭の生徒は西棟ラウンジを利用できます。一般生徒は中央棟、奨学生は東階段を使用してください」
胸の奥で、冷たいものが鳴った。
扉のそばに、一人の少年が立っていた。
黒髪。灰色の目。安いスニーカーの爪先には、縫った跡がある。
「本日から編入する、甲斐・折原君です。給付奨学生なので、皆さん――」
教室の生徒たちの視線が、いっせいに彼の足元へ落ちた。
里乃亜は立ち上がった。
「西棟へ案内してあげます」
「里乃亜さん?」と教師が言う。「彼は利用資格が」
「では、私も資格を返します」
教室が静まり返った。
甲斐は、困ったように彼女を見た。
その顔には記憶がないように見えた。
「お嬢さま、席を間違えてないか」
「靴の値段より、名前を先に覚えることにしたの」
「じゃあ、俺の名前は?」
「ナヴァネ」
少年の灰色の目が見開かれた。
ほんの一瞬、赤い月と黒い鎧が、その瞳の奥を横切った。
「……知り合いだったか?」
「世界が終わるまで、一曲踊った仲よ」
「重いな」
「性格よ」
彼は笑った。
その笑い方を、里乃亜は知っていた。
二人は東階段を下りていった。
背後で教師が呼び止め、生徒たちがざわめいたが、振り返らなかった。
正午の光が、校舎いっぱいに満ちていた。
ただ一つ。
掲示板に貼られた「生徒区分一覧」の紙の隅で、小さな黒い薔薇が咲いていた。
里乃亜はそれを見つけ、紙ごと引き剥がして踏んだ。
花は潰れた。
その瞬間、校舎中の時計が、いっせいに一分だけ遅れた。
誰も気づかなかった。
二人を除いては。