『黒鐘のネクロエンジン』

――聖骸都市の最後の夜――

 神は、人間を救うために天から降りたのではない。

 人間の祈りを食べるために、墜ちてきた。

◆ 黒い鐘 ◆

 聖骸暦九百九十九年、終末月十三日。

 辺境の村ソルカでは、死人が鐘を鳴らしていた。

 首を吊られた司祭の腕が、夜風に揺れるたび、礼拝堂の鐘から低い音がこぼれる。

 ごぉん。

 黒い雨が畑を叩いた。雨粒が落ちた場所から、麦ではなく白い指が生えた。指は土を掻き、爪を剥がしながら、空へ向かって祈りの形をつくった。

 礼拝堂の前には、村人たちが膝をついていた。

 生きている者も、死んでいる者も。

 その中心に、翼を持つものが立っていた。

 翼といっても、鳥のそれではない。人間の腕を何十本も束ね、皮膚を縫い合わせて扇の形にした肉の翼だった。翼の付け根には幼い顔が並び、皆、同じ笑みを浮かべている。

「告解せよ」

 怪物の口から、何人もの声が重なって響いた。

「おまえたちが隠した罪を。神は空腹であられる」

 村人のひとりが震えながら顔を上げた。

「わ、私は……隣人の畑から、麦を一袋……」

 肉の翼がひらいた。

 次の瞬間、男の胸から赤い何かが引きずり出された。それは心臓ではない。小さな黒い虫の群れだった。虫は泣き声をあげながら怪物の口へ吸い込まれていく。

「微罪。味が薄い」

 怪物は退屈そうに男の頭を踏み潰した。

 ごぉん。

 また鐘が鳴った。

 その音に重なるように、泥道の向こうから靴音が近づいてきた。

 ひとりの男が、雨の中を歩いてくる。

 長い灰色の外套。腰には、鞘ではなく鉄鎖で縛られた大剣。右目は黒い布で覆われ、口には火のついていない葉巻をくわえていた。

 怪物がすべての顔を男へ向けた。

「異端者。名を告げよ」

「名前を聞く前に、せめて酒くらい出せ」

 男は礼拝堂の軒下に入り、葉巻の先から雨粒を払った。

「辺境の歓待はなってないな」

「告解せよ」

「昨夜、宿屋の親父を殴った。酒を水で割ってやがったからだ」

「微罪」

「その前の夜は、聖堂騎士を三人、井戸に吊るした」

 怪物の翼がざわめいた。

「重罪」

「その前は、枢機卿の金庫から黄金聖印を盗んで、娼館の借金を全部払った」

「冒涜」

「それから――」

 男は外套の前をひらいた。

 胸の中央に、赤黒い縫合痕があった。縫い目の奥で、何か巨大なものが脈打っている。

 どくん。

 村中の鐘が、ひとりでに震えた。

「神を一柱、殺した」

 怪物の笑顔が消えた。

「識別。灰狩人アシュ・ヴェルダン」

「当たりだ、天使もどき」

 アシュは腰の大剣を縛る鉄鎖に指をかけた。

「賞品は地獄行き。片道だ」

 鎖が千切れた。

 大剣が鞘の代わりにまとっていた黒布を吹き飛ばす。刀身には無数の口が刻まれ、いっせいに歯を鳴らした。

『起こすな、馬鹿者。余は今、悪夢の佳境だったのだぞ』

「剣が夢を見るな、ペルナグ」

『剣ではない。高位捕食聖遺物である。敬意を払え』

「飯の時間だ」

『それを先に言え!』

 肉翼の怪物が咆哮した。翼の腕が伸び、槍のような指が雨を裂く。

 アシュは一歩も動かなかった。

 左手の親指で、自分の胸の縫合痕を押す。

「屍炉、第一弁を解放」

 どくん。

 男の背後に、巨大な黒い心臓の幻影が浮かんだ。

「葬式は簡単でいい。灰は便所にでも撒け」

 指の槍がアシュを貫く寸前、彼の右腕から黒い炎が噴き上がった。

「黒葬術式――《灰王の咆哮》

 炎は熱を持たなかった。

 それは物質ではなく、「生きていた」という事実だけを焼く火だった。

 怪物の翼を構成する腕が、一本ずつ老人のように萎れ、骨となり、灰となる。並んだ幼い顔が泣き叫び、口々に神の名を呼んだ。

 だが、その神は答えなかった。

 アシュが大剣を横薙ぎに振る。

 ペルナグの刀身に刻まれた口が一斉に開き、怪物の半身を噛み砕いた。

『不味い! 偽善と防腐剤の味しかしないぞ!』

「好き嫌いするな。大きくなれんぞ」

『余は全長二メートル四十だ!』

 上半身だけになった怪物が泥の上を這い、礼拝堂へ逃げようとした。

「待て……私は、天より遣わされた第六歌隊の――」

「天使を名乗るなら、せめて羽くらい自前で生やせ」

 アシュは大剣を逆手に持ち、怪物の背へ突き立てた。

「借り物の腕で空を飛ぶな」

 刀身の口が閉じた。

 ばきり、と巨大な骨を噛み折る音がした。

 怪物は内側から潰れ、黒い雨に溶けた。

 沈黙が戻った。

 生き残った村人はいなかった。

 少なくとも、地上には。

「そこから出ろ」

 アシュが礼拝堂の祭壇へ声を投げた。

 返事はない。

「三つ数える。出なければ祭壇ごと焼く。一、二――」

「早い! 二と三の間が早すぎます!」

 祭壇の下板が跳ね上がり、ひとりの少女が飛び出した。

 十七、八歳。白い法衣は泥まみれで、肩までの銀髪には煤がついている。胸元には白冠教会の見習い祓魔師を示す、小さな銀の輪。

 少女は短銃型の聖具を両手で構えた。

「動かないでください、異端者アシュ・ヴェルダン! あなたを神敵罪、聖遺物強奪罪、枢機卿暴行罪、禁呪行使罪、それから……ええと、たくさんの罪で拘束します!」

「最後が雑だな」

「黙りなさい!」

 少女の膝は震えていた。

 アシュは大剣を肩に担いだまま、倒れた司祭を見上げた。

「村がこうなったのはいつだ」

「三日前です。空から黒い鐘が落ちてきて……司祭様が聖都へ救援を求めました。でも、来たのはあれだけでした」

「教会が遣わしたんだよ」

「そんなはずはありません」

「胸の聖印に聞いてみろ」

 少女が眉をひそめる。

 アシュは怪物の溶けた跡を蹴った。泥の中から、白い金属片が転がり出る。冠を七つ重ねた紋章が刻まれていた。

 少女の顔から血の気が引いた。

「白冠教会、七座評議会の紋章……」

「第六歌隊。教会が飼ってる人造天使だ。辺境の罪を収穫して、聖都へ運ぶ」

「何のために?」

「今夜、神を起こすためだ」

 遠い西の空が赤く明滅した。

 雲の下、地平線の彼方にそびえる聖骸都市ヴァルメリア。その中央に立つ七層大聖堂の尖塔が、稲妻をまとっていた。

 アシュは葉巻を噛み潰した。

「終末月十三日。九百九十九年目の黒鐘祭。連中は、ようやく準備を終えたらしい」

 少女は銃口を下げない。

「あなたは、なぜそれを知っているんです」

「俺の胸で鳴ってるものを見ただろ」

 どくん。

 縫合痕の奥から、鐘に似た脈動が響いた。

「聖都の地下に埋まってる神。その心臓の半分が、ここにある」

 少女の指が引き金にかかった。

「……人間では、ないのですか」

「残念だがな。朝は眠いし、借金は増える。ほとんど人間だ」

『女運だけは悪魔的だがな』

「余計なことを言うな」

 少女はしばらく彼を睨んでいたが、やがて短銃を下ろした。

「エズカイ・アスター。白冠教会辺境巡察局、見習い祓魔師です」

「逮捕はどうした」

「保留です。聖都へ戻り、真偽を確かめます」

「戻る?」

「あなたを監視しながら」

「足手まといは要らん」

「村人を見捨てて去った人の言葉は信用できません」

 アシュの目が細くなった。

 黒い雨だけが、ふたりの間を落ちる。

「死人を生き返らせろと?」

「せめて、何が起きたのかを知らせるべきです。忘れられないように」

 少女は倒れた司祭の縄を切り、泥の上へ静かに寝かせた。

 アシュは何も言わなかった。

 やがて背を向ける。

「馬は一頭しかない」

「歩きます」

「聖都まで二日だ」

「走ります」

「今夜、世界が終わる」

「では、馬を二人乗りにしてください」

 アシュは大きくため息をついた。

『乗せてやれ。道中、余の退屈しのぎになる』

「おまえは黙ってろ」

『娘よ、こやつの背中には掴まるな。三年洗っていない』

「二年だ」

「そこは訂正しなくていいです!」

 死人の鐘が、最後に一度だけ鳴った。

 ごぉん。

 ふたりは聖都へ向かった。

◆ 白冠の聖女 ◆

 聖骸都市ヴァルメリアは、神の死体の上に築かれている。

 九百九十九年前、空を割って落ちてきた巨神ヴォル・ネフィラ。その全長は山脈ほどもあり、胸郭だけでひとつの国を覆った。

 人々は神の肋骨を柱に、歯を城壁に、皮膚を羊皮紙にした。

 奇跡は産業となり、祈りは税となった。

 そして神の死体は、死んでいなかった。

 夜半、アシュとエズカイが都市へ着いたとき、白い城壁の前には何万人もの巡礼者が列をつくっていた。

 誰もが黒い布で目を覆い、両手に小瓶を抱えている。

「何を入れているんです?」

 馬上でエズカイが囁いた。

「罪だ」

「罪?」

「教会が配った告解瓶。怒り、嫉妬、欲望、後悔。自分で罪だと思う記憶を吐き出して封じる。今夜、大聖堂へ奉納するんだ」

「そんな儀式、教典にはありません」

「教典は民衆に見せる献立表だ。厨房で何を煮てるかは書いてない」

 城門の上では、白い甲冑の聖堂騎士が巡礼者を検分していた。兜には顔がなく、鏡のような面に七つの冠が映っている。

 正面突破は難しい。

 アシュは馬を路地へ向けた。

「地下水路から入る」

「どうしてそんな道を知っているんです」

「昔、住んでた」

「聖都に?」

「大聖堂に」

 エズカイの表情が硬くなる。

「あなたは教会の人間だった?」

「十三番目の聖人候補。正式名称は『救世主代替器官・灰の使徒』」

 アシュは胸を軽く叩いた。

「神の心臓を人間に移植する実験だ。成功例は俺ひとり。成功の定義が『まだ爆発していない』なら、だが」

「そんな計画、あり得ません」

「さっきからそればかりだな」

「あり得ないことが多すぎるんです!」

「世界は大体そういうものでできている」

 地下水路の入口は、処刑場の裏にあった。

 石蓋を開けると、生温かい息が吹き上がる。地下から聞こえるのは水音ではない。巨大な腸が蠢くような、湿った収縮音だった。

 壁は石ではなく、黄ばんだ骨。

 床を流れる水は、薄い赤色をしている。

「ここ、本当に水路ですか」

「神の血管を水路として使ってる。合理的だろ」

「合理的という言葉に謝ってください」

 二人はランプを掲げて進んだ。

 やがて、通路の奥からすすり泣きが聞こえた。

 骨壁の窪みに、子供たちが並べられている。

 皆、白い法衣を着せられ、額に銀の釘を打たれていた。目は開いているが、焦点はない。

 エズカイが駆け寄る。

「生きています!」

「触るな!」

 アシュの制止より早く、エズカイの指が子供の肩に触れた。

 子供の口が裂けた。

 喉の奥から、白い蛇のようなものが飛び出す。それは人間の背骨だった。脊椎の一節一節に小さな翼が生え、空中を泳ぐ。

 続いて、並べられた子供たちの口からも背骨の蛇が噴き出した。

「聖唱虫だ。耳を塞げ!」

 背骨たちが歌い始める。

 清らかな少年合唱。

 だが歌詞は逆さだった。祝福を裏返し、存在そのものに「生まれなかったこと」を命じる呪歌。

 ランプの火が消えた。

 エズカイの指先が透ける。

「身体が……!」

 アシュはペルナグを床へ突き刺した。

「喰え!」

『音は腹にたまらん!』

「好き嫌いするなと言った!」

 刀身の口が開き、空気ごと歌声を吸い込む。背骨の蛇たちは身をよじり、鋭い声で叫んだ。

 アシュは胸の縫合痕を二本指で押す。

「屍炉、第二弁を解放。黒葬術式――《無音墓標》

 地面から黒い杭が林立した。

 音を出したものだけを貫く呪いの墓標。

 聖唱虫が次々と串刺しになり、白い粉となって崩れる。

 最後の一匹がエズカイの背後へ回り込んだ。

 アシュが振り向くより早く、銃声が響いた。

 エズカイの短銃から放たれた銀光が、聖唱虫の頭を正確に撃ち抜いていた。

「足手まといではありません」

 震える声で言い、彼女は銃口から煙を払った。

「今のは悪くない」

「褒めるなら、もう少し素直に」

「だが次は触る前に考えろ」

「撤回が早い!」

 子供たちは、もう息をしていなかった。

 エズカイはひとりずつ額の釘を抜いた。手が血で濡れてもやめない。

「この子たちも、教会が?」

「聖歌隊の孤児だ。声帯と脊髄を聖具に加工された」

「どうして……」

「神は祈りを食う。子供の祈りは純度が高い。それだけだ」

 エズカイは唇を噛み、銀の輪を首から外した。

 白冠教会の印。

 しばらく見つめた後、赤い水へ投げ捨てた。

「私、教会を信じていました」

「信仰なんてのは、暗闇で杖を持つようなものだ」

「杖?」

「道を探す助けにはなる。だが杖を神様だと思い始めたら、崖から落ちる」

「あなたは何を信じているんです」

「代金先払い」

「真面目に答えてください」

「それと、腹を空かせた剣には背を向けない」

『賢明だ』

 エズカイは呆れたように息を吐いた。

 だが次の瞬間、地下全体が震えた。

 どくん。

 骨壁の奥を、赤い光が走る。

 都市の地下で、神の心臓が一度だけ脈打った。

 アシュの胸も同時に鳴った。

 彼は膝をつき、血を吐いた。

「アシュ!」

 エズカイが肩を支える。

 彼女の掌が縫合痕に触れた瞬間、胸の奥の鼓動が静まった。

 アシュが顔を上げる。

「おまえ……何者だ」

「何を言って――」

 エズカイの首筋に、今までなかった黒い紋様が浮かんでいた。

 十三枚の翼を持つ、閉じた眼。

 アシュはその印を知っていた。

「第十三鍵……」

 大聖堂の最深部、神の心臓を起動するために造られた最後の聖女。

 その器が、目の前にいる。

 エズカイ自身は何も知らない顔をしていた。

 頭上で、鐘が鳴り始めた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 終末を告げる十三の鐘。

「走れ!」

 アシュはエズカイの腕を掴んだ。

 十二の鐘が鳴り終わるまでに、神の心臓を壊さなければならない。

 十三番目が鳴るとき、聖骸都市は目を覚ます。

◆ 七層大聖堂 ◆

 大聖堂の地下入口を守っていたのは、人間ではなかった。

 白い甲冑を着た聖堂騎士が三十体。

 鏡面の兜の下には顔がなく、代わりに喉から上が巨大な鍵穴になっている。両腕は祈りの形で癒着し、そこから刃が伸びていた。

「灰の使徒を確認」

「第十三鍵を確認」

「回収せよ。損傷は許容範囲内」

 エズカイが銃を構える。

「許容範囲って、どの範囲です?」

「手足二本ずつくらいだろ」

「絶対に嫌です!」

「同感だ」

 アシュはペルナグを抜いた。

 十二番目の鐘まで、あと九つ。

 聖堂騎士が一斉に突進する。

 刃の壁。

 アシュは真正面から踏み込んだ。

「屍炉、第三弁――」

『待て。さっき吐血したばかりだぞ』

「心配してるのか?」

『持ち主が死ぬと次の飯にありつくまで面倒なのだ!』

「安心しろ。死ぬときはおまえを炉にくべる」

『外道め!』

「褒め言葉だ」

 胸の縫合痕が裂け、黒い火花が噴き出す。

《冥府車輪》!」

 アシュを中心に、巨大な炎の輪が回転した。

 騎士たちの刃が輪に触れた瞬間、鉄ではなく「殺意」だけが焼き切れる。突進の勢いを失った騎士の群れへ、エズカイが銀弾を撃ち込んだ。

 一発。

 弾丸は空中で十三に分裂し、それぞれの鍵穴へ吸い込まれる。

「聖銀術式、《星釘》!」

 騎士たちの胸から銀の光が突き出した。

 アシュが口笛を吹く。

「見習いにしちゃ上等だ」

「首席です!」

「見習いは見習いだ」

「終わったら絶対に逮捕します!」

「世界が残ってたらな!」

 ペルナグが唸り、三体をまとめて叩き潰す。

 二人は階段を駆け上がった。

 大聖堂は七層からなる。

 第一層は「慈愛」。

 壁一面に救済された人々の肖像が飾られていた。だが絵の中の人物は皆、口を縫われている。

 第二層は「純潔」。

 透明な棺に、心臓を抜かれた花嫁たちが並ぶ。

 第三層は「服従」。

 床が膝の骨で敷き詰められている。

「教会の美徳は、いつから拷問の名前になったんです」

 エズカイが顔をしかめる。

「最初からだ。声の大きい奴が美徳と言い張れば、拷問も教育になる」

 第四層へ入ったとき、前方にひとりの男が立っていた。

 白金の長髪。血の一滴もついていない法衣。頭の後ろには、機械仕掛けの光輪が七重に回っている。

 白冠教会・七座評議会の頂点。

 聖務卿エルカナ・ローデス。

 彼は慈父のように微笑んだ。

「帰ってきたか、アシュ。私の最愛の失敗作よ」

「俺はあんたを父親と思ったことはない」

「そうだろうとも。父とは、子に憎まれて初めて完成するものだ」

 エルカナの視線がエズカイへ移る。

「そして、おかえり。第十三鍵。名もなき聖女よ」

「私はエズカイ・アスターです」

「それは器に与えた仮名だ」

「私の名です」

「記憶も、人格も、愛情も、すべて封印を安定させるための緩衝材にすぎない」

 エルカナは片手を上げた。

 空中に、光の記録映像が開く。

 ガラス筒の中に浮かぶ赤子。

 その首筋には、十三翼の閉じた眼。

 白衣の司祭たちが赤子を囲み、頭蓋へ光る針を差し込んでいる。

「第十三鍵は、神の眼球から培養した人造生命だ。十八年かけて人間の感情を学ばせた。絶望を理解できなければ、神の心臓へ届くほど純粋な祈りは生まれないからね」

 エズカイの顔が青ざめる。

「嘘です」

「教会で育った記憶は?」

「辺境修道院で……院長先生と、みんなと……」

「その修道院は七年前に廃絶している。君の記憶は、十三人分の孤児から編集したものだ」

 エズカイがよろめいた。

 アシュは彼女の前へ立つ。

「記憶の出所が何だろうと、選んだのは本人だ」

「選択?」

 エルカナが穏やかに笑う。

「そんなものが人間にあると思うのか。生まれ、肉体、欲望、恐怖。すべて与えられた条件の結果にすぎない。人は自由を信じているのではない。自分が操られている事実に耐えられないだけだ」

「長話の癖は治ってないな」

 アシュはペルナグの切っ先を向けた。

「昔から、話が長い奴ほど殴ると黙る」

「君は変わらない」

「いや」

 アシュの片目が冷たく光った。

「昔は、あんたを殺すのに理由が要った」

 床が爆ぜた。

 アシュが一気に間合いを詰める。

 ペルナグの一撃を、エルカナは指一本で受け止めた。

 七重の光輪が回転し、空間に黄金の文字列が走る。

「天律執行――《汝、殺すなかれ》

 見えない力がアシュの腕を逆へ折った。

 骨が皮膚を突き破る。

「殺意を抱いた者の肉体は、その殺意と同じ強さで自壊する。神の法に逆らえるかな?」

「神の法?」

 アシュは折れた腕のまま笑った。

「これはあんたの趣味だろ」

 胸の屍炉が脈打つ。

 黒い炎が腕を包み、骨を強引に繋いだ。

「禁律反転――《ならば二度殺せ》!」

 ペルナグの刃が二重にぶれた。

 一撃目は法に阻まれ、アシュの胸を裂く。

 二撃目は、一撃目で生まれた自分自身の死を「殺した」。

 神の法に矛盾が生まれる。

 黄金文字が砕けた。

 切っ先がエルカナの頬を裂く。

 初めて、聖務卿の笑みが消えた。

「なるほど。失敗作ゆえに、定義から外れるか」

「昔から規則を守るのが苦手でね」

 エルカナの背後で、七重の光輪が花のように展開した。

「ならば、教育をやり直そう」

 光輪から七本の腕が伸びる。

 それぞれが巨大な剣、槍、鎚、弓、鎌、書、秤を持っていた。

「七徳武装、全権顕現」

 第四層が白い光に呑まれた。

◆ 神の心臓 ◆

 戦いは、祈りより長く続いた。

 五番目の鐘。

 エルカナの槍がアシュの脇腹を貫いた。

 六番目。

 アシュの黒炎が光輪の一つを焼いた。

 七番目。

 エズカイの銀弾がエルカナの左眼を潰した。

 八番目。

 聖務卿の鎚が床ごと二人を第五層へ叩き落とした。

 そこは「希望」の間だった。

 何千もの人間が、天井から吊られていた。

 全員が眠り、夢を見ている。頭から伸びた管が中央の巨大な水晶槽へ繋がり、淡い光を吸い上げられていた。

「希望とは、最も効率のよい燃料だ」

 崩れた床からエルカナが降り立つ。

「絶望した者は祈らない。あと少しで救われると思わせれば、人は永遠に膝をつく」

「だから教会は世界を良くしなかった」

 エズカイが言った。

「救う力がなかったのではなく、救わないほうが都合がよかったから」

「理解が早い。さすがは我らの聖女だ」

「その名で呼ぶな!」

 エズカイが短銃を連射する。

 エルカナは書物を掲げた。

「天律執行――《光あれ》

 銀弾が光へ変わり、逆にエズカイの身体を焼いた。

 彼女は悲鳴を押し殺して倒れる。

「エズカイ!」

 アシュが駆け寄ろうとした瞬間、秤の鎖が両腕と首へ巻きついた。

「君の罪を量ろう、アシュ」

 空中の秤の片側に、黒い塊が積み上がる。

 殺した者たちの顔。

 燃やした町。

 盗んだ聖遺物。

 裏切った仲間。

 もう片側には何もない。

 秤は罪の側へ大きく傾いた。

「有罪だ」

「知ってる」

「悔いてはいないのか」

「悔いてるさ」

 アシュは血の混じった唾を吐いた。

「だから、次を選べる」

「罪は消えない」

「消す気もない。背負うってのは、無かったことにする意味じゃない」

 エルカナは目を細めた。

「では、その重さで潰れよ」

 秤が落ちる。

 アシュの骨が軋み、膝が床へめり込んだ。

 そのとき、エズカイの銃声が一発だけ響いた。

 狙いはエルカナではない。

 吊られた人々を繋ぐ、中央の水晶槽。

 弾丸が亀裂を入れる。

 中に蓄えられていた希望の光が噴き出し、部屋を満たした。

「何をした!」

 エルカナが初めて声を荒らげる。

 エズカイは焼け爛れた腕で銃を支えた。

「希望は燃料じゃない。分けるものです」

 解放された光が、吊られた人々へ戻っていく。

 一人、また一人と目を開く。

 誰かが鎖を引いた。

 誰かが隣人の手を掴んだ。

 何千もの小さな意志が、ひとつの法を押し返す。

 アシュを押し潰していた秤に、見えない重みが乗った。

 罪の反対側に。

 彼が救った者。

 見逃した者。

 笑わせた者。

 代金を取らずに助けた、名も知らぬ者たち。

 秤が水平へ戻る。

「馬鹿な……天秤は罪しか量らない!」

「だから欠陥品なんだよ」

 アシュが鎖を引き千切った。

「人間を量るのに、片側しか見ない」

 ペルナグを両手で握る。

『今度こそ、まともなものを喰わせろ』

「あいつの偽善は極上だぞ」

『よし。腹を空けてやる!』

 刀身の無数の口が吠えた。

「黒葬奥義――《万罪喰らい》!」

 巨大な顎の影が部屋を覆う。

 エルカナの七徳武装が、光輪ごと噛み砕かれた。

 書が裂け、秤が折れ、剣と槍が粉々になる。

 アシュの一撃が聖務卿の胸を斜めに切り裂いた。

 エルカナは血を吐きながら後退した。

 だが、笑っていた。

「間に合った」

 九番目の鐘が鳴る。

 床の奥から、巨大な鼓動。

 どくん。

 エズカイの首筋の印が開いた。

 十三翼に囲まれた眼が、赤く見開く。

「う……あああっ!」

 彼女の身体が宙へ持ち上がる。

 大聖堂の全階層から白い光が集まり、胸へ流れ込んだ。

 エルカナの法衣の下には、何百本もの管が埋め込まれていた。そのすべてが大聖堂の地下へ続いている。

 彼は自分の血を管へ流し込みながら、恍惚と両腕を広げた。

「七つの徳、十三の罪、百万の祈り。鍵は開いた!」

 床が割れる。

 地下深くに、赤い海が見えた。

 海の中央で、都市ほど巨大な心臓が脈打っている。

 巨神ヴォル・ネフィラの心臓。

 九百九十九年、祈りを吸い続けた神の臓器。

「神は復活するのではない」

 エルカナが叫ぶ。

「初めて生まれるのだ! 人の願いを胎盤とし、人の罪を血肉として! 完全なる意志、完全なる秩序、完全なる救済として!」

 アシュはエズカイへ手を伸ばす。

「目を覚ませ!」

 彼女の瞳から人格の光が消えていく。

 代わりに、何億年もの空腹が覗いた。

「――祈りを、よこせ」

 少女の口から、神の声がした。

 聖骸都市全体で、人々が一斉に膝をついた。

◆ 魔王ではなく、人間 ◆

 十番目の鐘が鳴る。

 都市の建物が脈打ち始めた。

 神の歯で造られた城壁が口を開き、肋骨の塔がゆっくりと起き上がる。石畳の隙間から血管が伸び、巡礼者たちの足首へ絡みついた。

 祈りが吸われる。

 名前が吸われる。

 過去と未来が吸われる。

 人々は安らかな笑みを浮かべ、空っぽになっていった。

「見ろ、アシュ!」

 エルカナは崩れかけた身体で、神の誕生を見上げた。

「苦しみが消える! 争いも、迷いも、孤独も! すべての意志が一つになれば、誰も間違えない!」

「誰も選べない」

「選択こそ苦痛の根だ!」

「なら、あんた一人で人形遊びをしてろ」

 アシュは胸に手を突っ込んだ。

 縫合痕を、自分の指で引き裂く。

 肋骨の隙間から、黒く燃える心臓が現れた。

 神の心臓、その半分。

 屍炉。

『何をする気だ』

「残り半分を返す」

『正気か。融合すれば、おまえの人格は消えるぞ』

「最初から大した人格じゃない」

『笑えん冗談だ』

「おまえが心配するとは、今夜は雪だな」

『黙れ! 余はまだおまえに、百三十七年分の食費を請求していない!』

「つけとけ」

『どこにだ!』

 アシュはペルナグの柄をエズカイへ向けた。

「目を覚ませ、エズカイ!」

 神の眼を開いた少女が、ゆっくりと彼を見る。

「その名は、偽り」

「名前なんて全部そうだ。生まれたとき他人につけられる」

「記憶も偽り」

「人間は、昨日のことだって都合よく作り変える」

「魂も、造られた」

「俺の心臓も借り物だ」

 アシュは笑った。

「それで? おまえがあの村で、死人を土に寝かせたことまで偽物になるのか」

 神の眼が揺れた。

「子供たちの釘を抜いた手は、誰の命令で動いた」

「……わたし、の」

「俺を助けた弾丸は」

「わたしが……撃った」

「なら十分だ。出自は過去を決める。選択は今を決める」

 十一番目の鐘。

 神の心臓が胸郭を突き破り、地上へ浮上し始める。

 大聖堂が崩壊する。

 エズカイの身体から十三枚の光翼が広がった。

 そのうち十二枚は白。

 最後の一枚だけが、黒い。

 彼女は震える手でペルナグを掴んだ。

「私は……エズカイ・アスター」

 神の声と、人間の声が重なる。

「白冠教会辺境巡察局、見習い祓魔師」

「そこは首席もつけておけ」

「首席です!」

 エズカイが叫び、ペルナグを振り下ろした。

 狙ったのはアシュ。

 その胸に露出した、黒い心臓。

 刃が屍炉を貫く。

 エルカナが歓喜した。

「そうだ! 鍵よ、半身を解放せよ!」

 だが、ペルナグの口は心臓を食わなかった。

 代わりに、心臓と神を繋ぐ見えない鎖へ噛みついた。

『余を誰だと思っている。鎖こそ余の好物よ!』

 神経の鎖が引きずり出される。

 アシュと巨神を結ぶ、九百九十九年の呪縛。

 エズカイは歯を食いしばり、剣を捻った。

「聖銀反転術式――《星は、天に従わない》!」

 黒い翼が弾ける。

 神の眼から、銀の亀裂が走った。

 アシュの屍炉が完全に解放される。

 黒い炎が人の形を飲み込み、巨大な影へ変えた。

 角ではない。王冠でもない。

 折れた墓標を背負い、無数の鎖を引きずる、灰の巨人。

 エルカナが後ずさる。

「魔王……」

 炎の中から、アシュの声がした。

「違う」

 灰の巨人が拳を握る。

「借金まみれの人間だ」

 拳が聖務卿を捉えた。

 七層大聖堂を貫き、夜空まで打ち上げる。

 エルカナの身体は光輪ごと砕けた。

 それでも、彼は空中で笑っていた。

「私を殺しても、神は止まらない!」

「殺す?」

 アシュは巨人の指で、落ちてくるエルカナをつまんだ。

「おまえには生きてもらう」

「何を――」

「自分の選んだ世界が、おまえ抜きで続くのを見ろ」

 エズカイが銀弾を一発、エルカナの額へ撃ち込んだ。

「封印術式、《一人きりの天国》

 光の檻が閉じる。

 聖務卿の魂は、誰もいない完璧な世界へ封じられた。

 争いも、迷いも、他者もない。

 永遠に間違えることのない、永遠の孤独へ。

「嫌だ……」

 エルカナの声が遠ざかる。

「誰か……私を見ろ……!」

 光は消えた。

 十二番目の鐘が鳴った。

 残るは、あと一つ。

◆ 最後の鐘 ◆

 神の心臓は空を覆っていた。

 一度脈打つたび、都市から色が失われる。

 十三番目の鐘を止める方法は、ただ一つ。

 心臓を破壊すること。

 だが心臓は、聖骸都市そのものに血を送っている。壊せば都市は崩れ、何十万もの人間が死ぬ。

 エズカイは崩れた尖塔の上に立ち、神の眼で全体を見渡した。

「心臓を壊さず、眠らせることは?」

「九百九十九年分の祈りで腹いっぱいだ。子守歌じゃ寝ない」

「外へ追い出す」

「身体が大陸と繋がってる。引っ張れば国ごと裂ける」

「では……」

 エズカイはアシュを見る。

 灰の巨人は崩れ始めていた。

 屍炉を切り離した彼の肉体は、胸に空洞を抱えている。黒い炎で形を保っているだけだ。

「俺が代わりに鳴る」

「何を言っているんです」

「神の心臓を止めて、俺の屍炉を都市の循環核にする。規模は足りんが、ペルナグに祈りを食わせれば負荷を減らせる」

『勝手に都市ひとつ分の食事を押しつけるな! 太るではないか!』

「剣に体重はない」

『精神的に太る!』

「アシュ。そうすれば、あなたは?」

「胸に穴が開く」

「もう開いています!」

「じゃあ、少し大きくなる」

「ふざけないで!」

 エズカイの声が震えた。

「また一人で決めるんですか。選択が大事だと言ったくせに、私には何も選ばせない?」

 アシュは答えなかった。

 十三番目の鐘を鳴らす巨大な撞木が、天上で動き始めている。

 残された時間は数十秒。

 エズカイは彼の外套を掴んだ。

「生きる方法を選んでください」

「俺一人と、都市全部だ」

「その二つしかないと誰が決めたんです」

「現実だ」

「現実は、大体あり得ないことでできているのでしょう!」

 アシュが目を見開く。

 エズカイは泣きながら笑った。

「あなたが言ったんです」

 神の眼が完全に開く。

 彼女の視界に、都市を走るすべての血管、祈り、魂の糸が映る。

 その中に、一本だけどこにも繋がっていない細い道があった。

 神が天から落ちてきたときに開いた、世界の傷。

 空の外へ続く裂け目。

「心臓を追い出せないなら、祈りだけを外へ流す」

「祈りは形がない」

「なら形を与えます」

 エズカイは短銃を空へ向けた。

 弾倉を開く。

 残弾は一発。

 彼女は首から外した銀の輪――捨てたはずの教会印と同じものを、法衣の内側からもう一つ取り出した。

「それは?」

「院長先生にもらったものです。記憶が作り物でも、私が大切にしてきた時間は本物です」

 銀の輪を弾頭へ嵌める。

「祈りは、誰かに従う言葉じゃない。届いてほしいと願う力です」

 アシュは理解した。

「世界の傷を撃ち抜く気か」

「照準が足りません」

「俺の目を使え」

 彼は右目を覆っていた黒布を外した。

 その下に眼球はない。

 小さな夜空があった。

 星々が渦を巻き、中心に黒い穴が開いている。

 かつて神を殺したときに奪った、虚空を測る魔眼。

「見たものを持っていく眼だ。反動で何を失うかは分からん」

「怖いですか」

「かなり」

「安心しました。私もです」

 エズカイはアシュの魔眼を覗き込み、自分の神眼と重ねた。

 二つの視界が一つになる。

 世界の傷が見えた。

 針の穴ほど小さく、星の海ほど遠い。

 アシュが彼女の手に自分の手を重ねる。

「風、右から三」

「この高さで風は関係ありません」

「気分だ」

「集中してください!」

「撃ったら屍炉を心臓へ叩き込む。おまえは祈りの流れを弾丸に繋げ」

「成功率は?」

「聞きたいか」

「やめておきます」

 撞木が振り下ろされる。

 最後の鐘まで、三秒。

 二。

 一。

「エズカイ!」

「はい!」

 銃声。

 一発の銀弾が夜空へ昇った。

 小さな光は、世界の傷を正確に撃ち抜いた。

 空が割れる。

 裂け目の向こうにあったのは天国でも地獄でもない。

 まだ名のない、無限の暗闇。

 神の心臓に蓄えられた百万の祈りが、銀の奔流となって吸い上げられる。

 助けてほしい。

 愛されたい。

 許してほしい。

 明日も生きたい。

 誰にも届かなかった声が、初めて教会の壁を越え、空の外へ流れていく。

「今だ、ペルナグ!」

『余の胃袋を宇宙にする気か!』

「食えるだけ食え!」

『後で必ず吐くぞ!』

 ペルナグが巨大化し、神の心臓へ噛みついた。

 アシュは自分の胸から屍炉を引き抜いた。

 黒い心臓が掌の上で脈打つ。

 痛みはなかった。

 痛みを感じる命そのものが、すでに消えかけていた。

 それでも彼は笑った。

「神様。九百九十九年も寝床を借りたんだ」

 屍炉を振りかぶる。

「家賃を払え!」

 黒い心臓を、巨大な神の心臓へ叩き込んだ。

 黒炎が血管を駆け巡る。

 神の鼓動と、男の鼓動がぶつかる。

 一つは、すべてを一つにしようとする完全な拍動。

 もう一つは、不揃いで、傷だらけで、何度も止まりかけた人間の拍動。

 どくん。

 ど、くん。

 どく、ん。

 完全な鐘律が崩れる。

 十三番目の鐘は、鳴らなかった。

 代わりに都市中から、ばらばらの音が聞こえた。

 泣き声。

 笑い声。

 怒鳴り声。

 歌声。

 誰一人として同じではない、何十万もの生きた音。

 神の心臓はゆっくりと縮み、胸郭の奥へ沈んでいった。

 石畳の血管が枯れ、城壁の口が閉じる。

 都市は、ただの都市へ戻った。

 エズカイは尖塔から落ちていくアシュを見た。

 黒い炎は消え、人間の姿に戻っている。

 胸には何もない。

「アシュ!」

 十三枚の翼を広げ、急降下する。

 あと少し。

 指先が届く。

 彼の手を掴んだ瞬間、エズカイの翼が一枚ずつ砕け始めた。

 神の力は失われている。

 地上までは遠い。

「放せ」

 アシュが掠れた声で言った。

「嫌です」

「二人とも落ちる」

「では一緒に落ちてください」

「聖女らしくないな」

「見習いですから!」

 最後の翼が砕ける。

 二人は落下した。

 その下から、巨大な刀身が飛んできた。

『まったく、世話の焼ける餌どもだ!』

 ペルナグが空中で二人を受け止める。

 刀身に刻まれた口が、すべて苦しそうに膨らんでいた。

「太ったな」

『誰のせいだ!』

「精神的に?」

『物理的にもだ! 都市一つ分の祈りは重い!』

 ペルナグはふらふらと滑空し、大聖堂前の広場へ突き刺さった。

 二人は瓦礫の上へ転がる。

 東の空が白み始めていた。

 黒い雨は止んでいる。

 エズカイはすぐにアシュの胸へ耳を当てた。

 鼓動はない。

「アシュ?」

 返事がない。

「起きてください」

 肩を揺する。

「逮捕するって言ったでしょう。罪状は山ほどあるんです。勝手に逃げないでください」

 返事はない。

 エズカイの目から涙が落ちた。

 その涙が、アシュの胸の空洞へ入る。

 ぽちゃん。

 小さな水音。

 次の瞬間。

 とくん。

 かすかな鼓動がした。

 エズカイが息を止める。

 とくん。

 胸の奥に、透明な心臓が形をつくっていく。

 神のものでも、悪魔のものでもない。

 少女の涙と、男自身の血と、夜明けの光でできた、不格好な心臓。

 アシュが薄く目を開けた。

「……泣くな。塩分が多い」

 エズカイは拳を振り上げた。

「最低です!」

 胸を殴る寸前で止める。

「そこは今、やめろ」

「では顔を殴ります!」

「病人だぞ」

「たった今、治りました!」

 エズカイは泣き笑いしながら、彼の顔を思い切り平手打ちした。

 乾いた音が、朝の広場に響いた。

『うむ。よい音だ』

「おまえは味方じゃなかったのか」

『食事代の一部である』

◆ 夜明けのあと ◆

 白冠教会は、その朝に滅びた。

 神が罰したのではない。

 奇跡が消え、扉の鍵がただの鉄になり、隠されていた部屋を人々が開けたからだ。

 地下の子供たち。

 瓶にされた罪。

 希望を吸う水晶槽。

 七座評議会の記録。

 誰もが、自分の目で見た。

 教会の塔は人々の手で倒された。

 だが礼拝堂までは壊されなかった。

 祈る場所そのものに罪はない、と誰かが言ったからだ。

 三か月後。

 聖骸都市ヴァルメリアの西門から、一台のぼろ馬車が出ていった。

 御者台には灰色の外套を着た男。

 胸の傷は残っているが、その奥では小さな心臓が不規則に鳴っていた。以前のような黒炎は出せない。重い剣を振れば息が切れる。酒を飲めば普通に酔う。

 本人はそれを「性能低下」と呼び、エズカイは「人間化」と呼んだ。

 荷台には、銀髪の少女と、布でぐるぐる巻きにされた大剣。

「それで、どこへ向かうんです?」

 エズカイが地図を広げる。

「北。死人が歌う鉱山があるらしい」

「報酬は?」

「銀貨三十枚」

「安いです」

「見習いのくせに金に細かいな」

「見習いではありません。教会がなくなったので、今日から独立祓魔師です」

「免許は?」

「発行する組織もなくなりました」

「無免許か」

「あなたに言われたくありません!」

 荷台でペルナグがもぞもぞ動いた。

『北へ行く前に、甘味屋へ寄れ。祈りばかり食って舌が痺れている』

「剣が砂糖を食うな」

『剣ではないと何度言えば分かる!』

「高位捕食聖遺物、でしたっけ」

『そうだ。娘は物覚えがよい』

「ただの食いしん坊です」

『何だと、小娘!』

 馬車は朝の街道を進む。

 背後では、神の骨でできた都市が、初めて自分たちの手で鐘を修理していた。

 もう終末を告げるためではない。

 朝を知らせるために。

 やがて、新しい鐘が鳴った。

 不揃いで、少し音程が外れ、けれどよく響く音だった。

 アシュは手綱を握ったまま、片方の口角を上げた。

「悪くない」

「何がです?」

「世界だよ」

 空には、昨夜エズカイが撃ち抜いた小さな裂け目が残っている。

 そこから一筋の星明かりが、昼の青へ混じっていた。

 誰にも届かなかった祈りは、今も宇宙のどこかを旅している。

 答えが返るかどうかは分からない。

 だが人は、答えが保証されているから願うのではない。

 選べる明日があると、信じたいから願うのだ。

 馬車は北へ。

 剣は甘味屋へ。

 そして世界は、予定より少しだけ長く続いた。

――了――