黒鐘はまだ鳴らない
――オリジナル・アクションミステリ読み切り――
一 黒い雪
灰冠市ニーヴァでは、雪は白いまま地面に届かない。
北から吹き込む雪片は、鋳造塔の煙をくぐり、屋根と屋根のあいだで煤をまとい、黒い羽虫のようになって落ちる。金持ちはそれを「冬の灰」と呼び、貧民はただ「肺の泥」と呼んだ。
穀倉卿ボルン・フェスの死体は、その黒い雪が降り始めた夜、王立パン工房の炉から見つかった。
「焼死体じゃないのね」
ロア・ケインは炉の縁に片足をかけ、奥をのぞき込んだ。赤銅色の髪を革紐で束ね、背には短銃身の衝雷銃を吊っている。銃床には、修理のたびに増えた真鍮の継ぎ板が鱗のように重なっていた。
「凍死よ」
相棒のシェラ・ヴァイスは、炉の灰に膝をつき、死体のまぶたを銀のへらで持ち上げた。黒髪を耳の下で切り揃え、喪服のような灰色の外套を着ている。指先だけが裸だった。
炉の中の男は、厚い毛皮を着たまま青白く凍りついていた。口は金糸で縫い合わされ、胸骨の上には縦に細い切開創がある。炉壁は冷え切っていたが、外側の煉瓦には、つい一刻前まで火が入っていた熱が残っている。
ロアが眉を上げた。
「燃えてる炉で凍死。初手から感じが悪い」
「感じで捜査をしないで」
「感じが悪い事件ほど、だいたい感じの悪い奴がやってる」
「それは統計ではなく、あなたの交友関係の話でしょう」
シェラは死体の唇を縫う金糸を切った。口の中から、ひからびた麦粒が五つこぼれた。
炉の外で、王都警備隊の隊長が吐息を白くして待っていた。名をダルクといい、立派な髭に反して目は落ち着かない。
「特別監察局は、いつも女二人で来るのか」
「建物を壊す方と、壊した理由を書く方です」
シェラが答えると、ロアは振り向いた。
「逆の時もある」
「ありません」
ダルクは咳払いをした。
「穀倉卿は戴冠会議の五票持ちだ。灰冠公は今夜にも息を引き取ると噂されている。評議席の一人が、こんな死に方をしたと知れれば――」
「各家が相手を犯人にして、先に兵を出す」
ロアが言った。
「その通りだ」
「もう出してるんじゃない?」
ダルクは答えなかった。それが答えだった。
シェラは胸の切開創に細い探針を入れた。骨に当たる音がした。
「胸骨の裏から何かを外している」
「心臓?」
「心臓なら、もう少し大きな穴が必要ね」
「良心?」
「それなら傷はいらない」
ロアは炉の内側を調べ、煤の上に指を滑らせた。黒い粉の下から、白い文字が現れた。
《口を養え》
ニーヴァの子供なら誰でも知っている、建市盟誓の第一句だった。
口を養え。
手を量れ。
耳を開け。
門を閉ざせ。
火の前に鐘を鳴らせ。
五つの職が街を支え、五つの職が灰冠公を縛る。穀倉、秤量、法、門衛、鐘守。誰か一人が王にならぬよう、建国者たちが権力を五つに割った――と、教本には書かれている。
シェラは文字を見つめた。
「犯人は続けるつもりね」
「次は『手を量れ』。秤量卿か」
ロアは炉から降り、衝雷銃の吊り革を締め直した。
その瞬間、工房の高窓が砕けた。
銀色の筒が床を跳ねる。
シェラが叫ぶより早く、ロアは死体を炉の奥へ蹴り戻し、シェラの襟首をつかんで粉袋の陰へ飛び込んだ。
筒が炸裂した。
白い閃光。耳の奥を殴る轟音。続いて、窓から黒装束の人影が三つ滑り込んでくる。鉤縄を外す動きが軍人のものだった。
ロアは笑った。
「ほらね。感じが悪い」
彼女は粉袋に銃床を叩きつけた。小麦粉が雲のように舞い上がる。
黒装束たちが視界を失った一拍後、ロアの衝雷銃が吠えた。
青白い電弧が粉塵を裂き、一人目を窯の扉ごと吹き飛ばす。二人目は短弩を放ったが、シェラが手首を返すと、袖から伸びた銀糸が矢を絡め取った。そのまま糸を引く。弩手の指が跳ね、短弩が床に落ちた。
三人目は逃げた。
ロアは追った。積み上げた天板を踏み台にして窓枠へ跳び、黒い雪の夜へ身を投げる。
「ロア!」
「壊す理由、考えといて!」
工房の外壁に沿って走る排煙管へ着地し、逃げる影を追って屋根を渡る。下では夜市の灯が揺れ、人々が空を見上げていた。
黒装束は屋根の端で振り返り、火薬弾を投げた。
ロアは撃った。
弾丸ではない。圧縮された雷気が火薬弾を空中で破裂させた。爆風が瓦を剥がし、二人を別々の方向へ投げる。
ロアは隣の鐘楼の庇に片手でぶら下がった。黒装束は向かいの屋根に背中から落ち、ずるずると軒へ滑っていく。
「待ちなさい!」
「待てと言われて待つ暗殺者を見たことがあるか!」
「一人。酔ってた」
男の指が瓦を離れた。
落ちる寸前、ロアは衝雷銃の銃剣を伸ばし、男の外套を屋根に縫い留めた。
「今夜で二人目ね」
男は懐から何かを取り出し、歯で噛んだ。
シェラが屋根へ上がってきた時には、口元から黒い泡を吹いて死んでいた。
「毒?」
「歯に仕込んでた」
シェラは男の手袋を外した。指先に青い蝋がこびりついている。
「公文書用の封蝋ね。評議宮でしか使われない配合」
ロアが男の胸元を探る。印章も、所属を示す縫い取りもない。ただ、内ポケットから半分に折れた紙片が出てきた。
そこには一行だけ、整った書記官字体で記されていた。
《秤は夜明けに傾く。》
二 五つの票
夜明け前の評議宮は、弔いより戦支度に向いた顔をしていた。
黒鉄の回廊には四家の兵が並び、互いの紋章を睨んでいる。穀倉卿のフェス家は黄金の穂。軍務家オルダは赤い狼。商会連合は三枚貨。旧王族のセリュ家は折れた冠。
どの兵も、敵は廊下の向こうにいると信じていた。
ロアとシェラは武器を預けろと言われ、笑った。
ロアは声を出して笑い、シェラは目だけで笑った。
結局、衛兵の方が折れた。
会議室には、まだ死んでいない権力者が集められていた。
秤量卿ミルダ・コール。痩せた老女で、指の関節すべてに計算輪をはめている。
法務卿セイン・アルヴェ。白い眉と、他人の言葉を罪状に変える癖を持つ男。
門衛卿ノアメア・ドロ。胸板の厚い将軍で、甲冑の上からでも古傷の多さがわかる。
そして鐘守卿ユナ・ベル。まだ三十に届かぬ小柄な女で、耳の後ろに共鳴計算の刺青が走っている。
五席目、穀倉卿の椅子には黒布が掛けられていた。
長卓の末席に、主記官イヴァン・ロームが座っていた。細身で、色の薄い男だった。書類の束を整えるたび、左手の中指で紙の角を二度叩く。
「特別監察官のお二人」
声まで紙のように乾いている。
「灰冠公エレシア陛下は昏睡状態です。崩御が正式に告げられれば、正午から戴冠会議が始まる。犯人はそれまでに捕らえていただきたい」
ロアは椅子に座らず、卓へ腰を預けた。
「無理」
四人の卿が一斉に顔を上げる。
「犯人の目的も手段もわからない。兵は互いを監視して、肝心の宮殿の出入口は穴だらけ。夜明けまでにできるのは、次に殺される人へ『気をつけて』と言うくらい」
秤量卿ミルダが鼻を鳴らした。
「では言っておくれ。わたしが次なのだろう?」
シェラは暗殺者の持っていた紙片を卓に置いた。
《秤は夜明けに傾く。》
ミルダは一瞥し、動じなかった。
「脅迫状なら毎朝届く。税率を上げた日は昼にも来る」
「この封蝋に心当たりは?」
青い蝋片を見せる。
主記官ロームが身を乗り出した。
「評議宮の記録局で使うものです。ただし、保管庫から一塊なくなっている。三日前に報告を受けました」
「誰が出入りできる?」
「各卿の書記、記録官、清掃夫、火番。百人以上」
「あなたも」
ロアが言う。
ロームは薄く笑った。
「もちろん」
シェラは四人の顔を順に見た。
「穀倉卿の胸から、何かが抜き取られていました。職印ではありませんか」
法務卿セインの顔から、わずかに血の気が引いた。
それを見たのはシェラだけではなかった。
門衛卿ノアメアが卓を叩く。
「職印のことを、誰から聞いた」
「傷が教えました」
「職印は指輪だ」
「表向きは」
沈黙が降りた。
鐘守卿ユナが先に息を吐いた。
「隠しても意味がない。監察局は王権犯罪を扱う」
彼女は襟元を開き、鎖骨の下を指で示した。
「五卿は就任の時、灰鉄の印を骨に縫い込まれる。街の古い防衛機構を動かす鍵だと言われている。でも実際に使われたのは、百年以上前の北方戦争が最後」
「防衛機構?」
ロアが興味を示した。
「城壁の投石機か何か?」
「『灰冠』」
主記官ロームが答えた。
「鋳造塔の熱と地下の雷脈を束ね、外敵へ向けて放つ。古い記録では、一撃で軍団を焼いたと」
ロアは天井を見上げた。
「この街、そんな物を屋根の下に飼ってるの?」
「あなたよりは安全です」とシェラ。
「比較対象が失礼じゃない?」
秤量卿ミルダが立ち上がった。
「くだらぬ。灰冠は外へしか向かぬ。五印も、五人が同時に承認しなければ働かない。ボルンの印を盗んだところで何もできぬ」
「一人ずつ集めればできる」
シェラは言った。
ミルダは計算輪のついた指で卓を叩いた。
「わたしは自分の秤量院へ戻る。金庫と帳簿の方が、ここにいる貴族どもより信用できる」
「護衛をつけます」
「兵は数字を読めぬ」
「弾は読めます」
ロアが笑った。
ミルダは彼女を頭から足まで眺めた。
「おまえが来い、赤毛。静かな方はここで頭を使え」
「人を見る目がある」
「逆よ」とシェラが言った。
その時、会議室の外で鐘が一度鳴った。
朝を告げる鐘ではない。短く、濁った警報音。
続いて、回廊の向こうから悲鳴が上がった。
扉が開き、衛兵が転がり込んできた。
「秤量院が――」
彼の背中には、青い羽根の矢が深々と刺さっていた。
ミルダの顔から、今度こそ血の気が消えた。
窓の外、夜明け前の街の一角で、巨大な秤量塔がゆっくりと傾き始めていた。
三 傾く塔
秤量塔は、ニーヴァ中の貨幣と度量衡を決める場所だった。
中央に高さ六十歩の大天秤があり、左右の錘が地下金庫の扉を兼ねている。どちらか一方でも規定以上に傾けば、金庫は自動的に封鎖される。
今、その大天秤の片側には火が回り、もう片側には避難しようとする役人が殺到していた。
「全員、右へ行くな! 右が重くなる!」
誰かが叫び、群衆が左へ走る。
「左も駄目だ! 金庫が落ちる!」
群衆が右へ戻る。
「人って秤に向かないわね」
屋上の連絡橋を走りながら、ロアが言った。
「今気づいたの?」
シェラは評議宮に残るはずだった。
だがロアが橋へ飛び出して三秒後、隣にいた。主記官ロームには「二人一組が規定です」とだけ告げてきたらしい。
橋の先で、青い羽根の矢が飛んできた。
シェラが銀糸を放ち、矢を橋の欄干へ逸らす。鏃が弾け、粘つく炎が鉄骨を舐めた。
「油じゃない」
「燐膠。水をかけると広がる」
「じゃあ、塔ごと倒して消す?」
「まだ早い」
「候補には残すのね」
二人は火を飛び越え、塔の上階へ踏み込んだ。
内部では、仮面をつけた襲撃者たちが役人を追い立てていた。殺すのではなく、天秤の片側へ集めている。
ロアは衝雷銃を腰だめに撃った。
雷気が床の導線を走り、仮面の三人をまとめて跳ね上げる。四人目が長槍を突き出す。ロアは銃身で受け、相手の膝を蹴り折った。
シェラは人混みを逆へ抜けた。炎の向こう、主計室の扉が開いている。床には、ミルダの計算輪が一つ落ちていた。
「ロア、時間を稼いで」
「いつも稼いでる!」
「借金は減ってないけど」
主計室の奥に、隠し昇降機があった。
シェラが降りると、地下金庫の前でミルダが椅子に縛られていた。生きている。胸元に刃を当てているのは、白磁の仮面をつけた長身の男だった。
「動くな」
男の声は仮面の中で歪んだ。
「五歩下がれ」
シェラは従った。
「職印が目的?」
「秤は手を量る」
「盟誓の第二句。あなたは意味を取り違えている」
「何?」
「原文は『手を量れ』ではなく『手より量れ』。人の身分ではなく、行いを量れという意味。今の句形に改められたのは七十二年前」
仮面の男の刃が、ほんの少し止まった。
シェラはその一瞬を待っていた。
銀糸が床を滑り、男の足首へ巻きつく。引く。男が倒れ、刃がミルダの肩を浅く裂いた。
シェラは距離を詰めた。
だが男は倒れながら、手の中の起爆器を押した。
天井が震えた。
大天秤の錘が一段落ち、地下金庫の歯車が動き始める。巨大な鉄扉が閉じてくる。
男はミルダの椅子を蹴り、扉の向こうへ滑らせた。
シェラは追う。
閉じる鉄扉。残り一歩。半歩。
その隙間へ、上階から落ちてきた衝雷銃の銃身が突き刺さった。
「早いって言ったから、階段で来た!」
ロアが扉の反対側で歯を食いしばっている。背後では火と煙が渦を巻き、仮面の兵たちが追ってきていた。
「三秒しか持たない!」
「十分」
シェラは隙間を抜け、ミルダの椅子を蹴り返した。ロアが片手で受け止める。
仮面の男は逃げようとした。
シェラは男の肩へ飛び乗り、仮面の縁へ指をかけた。男が肘を振る。頬に当たり、視界が白くなる。それでも離さない。
仮面が剥がれた。
評議宮の衛兵だった。先ほど会議室の扉前に立っていた男だ。
「誰の命令?」
男は笑った。
歯の隙間に黒い毒嚢が見えた。
シェラは顎を掌底で打ち上げた。毒嚢を噛む前に歯が折れ、男は血を吐く。
「同じ手は二度まで」
「二度目も防いでないでしょ」
ロアが叫ぶ。
鉄扉が銃身を曲げ始めた。
三人は隙間を滑り抜けた。ロアが銃を引き抜いた瞬間、扉が閉まり、仮面の男は向こう側に取り残された。
直後、爆発。
鉄扉が腹の底まで響く音を立てて膨らんだ。
天井から石片が降る。
「今の、証人ごと?」
ロアが顔をしかめる。
「口封じね」
「感じの悪い奴、確定」
ミルダは肩から血を流しながら、二人を睨んだ。
「塔が傾いている」
「知ってる」
「中央軸が焼き切れれば、東市場へ倒れる。二万人がいる」
ロアは曲がった衝雷銃を見た。
「塔ごと倒す案は?」
「西へなら」
シェラは壁の構造図を見上げた。東側に市場。西側に税関倉庫と凍った運河。
「基部の西支柱を二本残し、東支柱を切れば、重心は西へ逃げる」
「つまり塔を倒すのね」
「制御して」
「言い方って大事」
ロアは嬉しそうに、腰の爆薬袋を開いた。
十分後、ニーヴァ市民は、王立秤量塔が火を噴きながら西へゆっくり倒れ、税関倉庫を三棟と徴税官の宿舎を一棟、見事に平らにする光景を目撃した。
市場の二万人に死者はなかった。
徴税官たちは不在だった。
その朝、ロア・ケインの人気は下町で少し上がり、評議宮で決定的に下がった。
四 乾いた噴水
襲撃の失敗から一刻後、法務卿セイン・アルヴェが死んだ。
評議宮の最も警備が厳しい中庭。冬のあいだ水を抜かれた裁きの噴水。その中央に、彼は正座するような姿勢で置かれていた。
服は濡れていない。
だが肺は水で満ち、耳は青い封蝋で塞がれていた。
胸骨の裏から、二つ目の職印が消えている。
「私たちが秤量塔へ向かった直後に、姿が見えなくなったそうです」
シェラは遺体の鼻腔から採った水を小瓶へ移した。
主記官ロームが帳面を開く。
「最後に見たのは門衛卿です」
「会議室を出て、祈祷室へ向かった。護衛は扉の外に置いた」
門衛卿ノアメアは不機嫌に答えた。
「中に抜け道は?」
「ない」
「この宮殿で『ない』は、『記録にない』という意味?」
ロアが尋ねる。
「貴様らの局とは違う。王宮には図面がある」
「うちにもある。爆発後の図面が」
シェラは噴水の縁に指を滑らせた。薄い白粉がつく。
「塩」
「凍結防止だろう」とノアメア。
「この中庭では使わない。石を傷めるから」
シェラは小瓶を光へ透かした。水の中に、金色の小さな粒が浮いている。
「花粉?」
鐘守卿ユナが覗き込んだ。
「冬に?」
「王宮温室の睡蓮。肺の水は川でも井戸でもない。温室池の水よ」
ロームが帳面をめくる。
「温室は西翼。ここから回廊を三つ」
「死体を運んだなら、誰かが見る」
「生きて歩いてきたなら?」
ロアが法務卿の靴底を持ち上げた。溝に、緑色の苔が詰まっている。
「温室まで自分で行った。そこで溺れさせられて、死体をここへ運ばれた」
「なぜ自分から?」
「呼び出されたから」
シェラは法務卿の袖口を探り、縫い目に挟まった紙片を取り出した。水で滲んでいたが、青い封蝋が残っている。
《白橋の記録を返す。ひとりで来い。》
門衛卿ノアメアの顔が固まった。
鐘守卿ユナも、秤量卿ミルダも目を逸らした。
ロアはそれを見逃さない。
「白橋。二十三年前に焼け落ちた橋?」
「反乱民が火を放ち、北区への延焼を防ぐため門を閉じた事件です」
主記官ロームが言った。
声が少しだけ低くなった。
「死者は公式に六百十二名」
「非公式には?」
誰も答えない。
シェラは法務卿の耳から封蝋を少量削った。
「犯人は白橋の真相を餌に、五卿を一人ずつ呼び出している。穀倉卿も、同じように」
ミルダが肩の包帯を押さえた。
「ボルンは昨夜、わたしに古い帳簿について尋ねた。飢饉年の小麦搬入量だ」
「その帳簿に何がある?」
「あるはずのない差額」
「どれくらい?」
「市民三万人を一冬養える量」
ロアの笑みが消えた。
「消えた小麦と、焼かれた橋」
門衛卿ノアメアが剣の柄を握った。
「昔の話だ」
「昔に死んだ人は、今も死んだままよ」
ロアの声には、さっきまでの軽さがなかった。
シェラは相棒を見た。
ロアは下町の生まれだ。年齢を考えれば白橋の記憶はない。それでも、あの事件で家族を失った者は下町にいくらでもいる。
主記官ロームが静かに言った。
「白橋には、生存者が一人いると噂されています」
「名前は?」
「マラ・エイン。当時九歳。橋の保守員の娘。遺体が確認されなかった唯一の子供です」
「今どこに?」
「記録上は死亡。ですが、最近、旧水路で『白橋の女』を見たという報告がある」
ロアは衝雷銃を肩へ掛けた。秤量塔で曲がった銃身は、力任せにほぼ真っすぐへ戻してある。
「じゃあ会いに行こう」
シェラは法務卿の袖から出た紙片を裏返した。
紙の端に、微かな押し跡がある。筆記台の下にあった別の文章が、圧で写ったものだ。
斜光にかざすと、三つの小さな点が見えた。
文章の切れ目に、等間隔で三点。
シェラは会議中の主記官を思い出した。
紙の角を、二度叩く左手。
けれど何も言わなかった。
まだ、疑いは証拠ではない。
五 白橋の女
旧水路は、街の下に沈んだもう一つの街だった。
建物の地下室、埋められた礼拝堂、古い排水路が継ぎ足され、迷路になっている。天井を走る蒸気管から水滴が落ち、壁の菌灯が青く光っていた。
ロアとシェラは、案内役なしで進んだ。
案内役を雇おうとしたが、「特別監察官の二人を案内した場所は翌朝なくなる」という迷信が広まっていたからだ。
「失礼よね」
ロアが言った。
「翌朝まで残ったこともある」
「どこ?」
「南門の厩舎」
「あれは半分残った」
「半分は残った」
水路の先で、金属が擦れる音がした。
二人は同時に足を止める。
暗がりから、小さな機械蜘蛛が這い出した。真鍮の脚が八本。腹部に青い火が灯っている。
「地雷」
シェラが言った。
「蜘蛛」
「地雷よ」
「脚がある」
「脚のある地雷」
機械蜘蛛が跳んだ。
ロアが撃ち、空中で砕く。爆風が水路を走り、菌灯が一斉に消えた。
闇の中で、無数の脚音が鳴る。
「一匹じゃないね」
「今度は感じじゃなくて正しい」
シェラが発光棒を折った。
青白い光の輪の外、壁も床も機械蜘蛛で埋まっていた。
二人は走った。
後ろから爆発が追ってくる。曲がり角を一つ、二つ。シェラが銀糸を張り、先頭の蜘蛛を絡ませる。後続がぶつかり、連鎖して炸裂した。
前方は崩れた石壁で塞がれている。
「行き止まり」
「壁止まりでしょ」
ロアは衝雷銃の出力環を最大まで回した。
「言葉遊びをしてる場合?」
「爆発前は落ち着きが大事」
砲声。
石壁が外側へ吹き飛び、二人は粉塵と一緒に突き抜けた。
その先には、地下を横切る巨大な空洞があった。
かつての白橋だった。
地上の川筋が変わった後、橋も川も街の下へ埋められた。焼けた石柱が闇に並び、橋桁の残骸が底なしの穴をまたいでいる。
対岸の柱の上に、一人の女が立っていた。
白髪を短く刈り、半面を火傷の痕が覆っている。長弓を構え、矢先をロアへ向けていた。
「それ以上、来るな」
「マラ・エイン?」
シェラが尋ねる。
女の目が細くなる。
「その名をどこで」
「主記官イヴァン・ローム」
次の瞬間、矢が放たれた。
ロアの頬を掠め、背後の機械蜘蛛へ刺さる。蜘蛛が凍りつき、石のように砕けた。
「話はあとだ。伏せろ!」
対岸の闇から、装甲兵が現れた。
評議宮の紋章を削り取った盾。青い封蝋で継ぎ目を固めた仮面。数は十二。
ロアが嬉しそうに銃を構える。
「今度は誰を撃てばいい?」
「仮面だけ!」
ルディクが叫んだ。
「白髪は撃たない!」
三方向から矢と銃火が交差した。
装甲兵が橋桁を渡ってくる。ロアの雷撃が盾を焼き、シェラの銀糸が足をすくう。落ちた兵は暗い穴へ消え、着地音は返ってこない。
ルディクは一本の矢で二人を貫いた。矢羽根の色は青ではなく白だった。
装甲兵の一人が背負った筒を橋の中央へ向ける。
シェラが叫ぶ。
「焼夷筒!」
ロアが狙う。
だが銃は、秤量塔で受けた傷に耐えられなかった。引き金を引いた瞬間、銃身の継ぎ板が弾け、雷気が横へ漏れる。
焼夷弾は橋桁に当たった。
古い油と煤が、一気に燃え上がる。
「また橋を焼く気か!」
ルディクの顔が歪んだ。
火の向こうで、装甲兵が後退する。逃げ道を断ち、空洞ごと埋めるつもりだ。
ロアは壊れた衝雷銃を見た。
「シェラ。壊す理由、できた」
「どこを?」
「上」
空洞の天井には、現役の蒸気本管が三本走っていた。街の北半分へ熱を送る大動脈だ。
「一本だけよ」
「努力する」
ロアは残った雷気を銃床へ集中させ、天井を撃った。
本管の支持具が砕ける。
巨大な管が垂れ下がり、橋と対岸をつなぐように落ちた。接合部が裂け、噴き出した蒸気が炎を押し返す。
「一本!」
ロアが叫ぶ。
その背後で、遅れて二本目の細管が落ちた。
「一本半!」
三人は熱い管の上を走った。
最後の装甲兵が退路を塞ぐ。ルディクの矢は尽きていた。
ロアは壊れた銃を棍棒のように振り、仮面を叩き割る。シェラの銀糸が兵の首ではなく、腰の命綱を切った。兵は盾ごと穴へ落ちた。
三人が対岸へ飛び込んだ直後、橋桁が崩れた。
火の粉が暗闇へ降っていく。
ルディクは壁にもたれ、呼吸を整えた。
「ロームに嵌められた」
「やっぱり知り合い?」
ロアが聞く。
「十年前、あいつが私を見つけた。白橋の真相を暴くと言った。記録局に入ったのも、そのためだと」
シェラが問う。
「あなたは五卿を殺した?」
「殺したいとは思った」
ルディクは火傷痕に触れた。
「毎日な。でも殺していない。三日前、ロームから連絡が来た。『記録が揃った。証人を連れて地下へ』と。行った先には、穀倉卿ボルンがいた。生きていた。怯えて、古い革表紙の帳簿を抱えていた」
「黒い帳簿?」
「ああ。白橋を封鎖した命令書と、消えた小麦の配分表。五人の署名があった。今の五卿のうち、当時すでに役職にいた四人と――」
「誰?」
ルディクは答える前に、足元へ落ちていた装甲兵の仮面を蹴った。
内側に小さな刻印がある。
《記録局備品》
「主記官の前任者。ロームの父親だ」
ロアは眉をひそめた。
「じゃあロームは復讐してる?」
「父親に? 母親は橋のこちら側にいた。父親は命令に署名して、妻と九千人を焼いた。ロームは両方を憎んでいた」
「九千」
シェラが静かに繰り返した。
公式記録の十五倍。
ルディクは頷いた。
「ボルンは帳簿を渡す代わりに国外へ逃がせと言った。ロームは了承した。私は証人として隣室へ移された。そこで眠らされた。目が覚めた時、ボルンは消え、私の荷物に金糸と麦が入っていた」
「犯人に仕立てるため」
「それだけじゃない。ロームは帳簿を持っている。奴は二十三年前の罪を暴きたいんじゃない。利用する気だ」
遠くで、低い振動音がした。
街の上から伝わってくる。
鐘ではない。
巨大な歯車が、長い眠りから目覚める音だった。
六 五人目の不在
評議宮へ戻ると、門衛卿ノアメアが軍を集めていた。
法務卿の死を商会連合の仕業と断定し、秤量卿ミルダはフェス家の報復だと主張し、鐘守卿ユナは全員を鐘楼から締め出していた。
灰冠公はまだ死んでいない。
それでも後継者たちは、喪服の下に鎧を着始めていた。
ロア、シェラ、ルディクの三人は、正門を避けて焼却口から記録局へ入った。シェラの提案だった。
「静かに行く」と彼女は言った。
焼却口の鉄格子をロアが爆薬で吹き飛ばした後で。
記録局は無人だった。
棚から帳簿が抜かれ、青い封蝋の保管箱は空。机の上には、白橋事件の公式記録だけが整然と並べられている。
主記官ロームの姿はない。
シェラは机の引き出しを調べた。ペン、砂、糸、刃。どれも几帳面に同じ間隔で置かれている。
「彼は左利き」
「それが?」
ロアが壊れた銃を分解しながら聞く。
「暗殺者の一人は、右手の親指と人差し指に封蝋がついていた。ローム本人ではない」
「手下がいるってだけ」
「ええ。でも命令文は本人が書いた可能性が高い」
シェラは法務卿の袖から見つけた紙片を机に置いた。
三点の押し跡。
記録局の公文書を数枚めくる。どの文章にも、節の区切りで小さな三点が打たれていた。
「古い書記法。『灰の間』と呼ばれる休止符。現在これを使うのは、記録局の上級書記だけ」
ルディクが棚の奥から巻物を引き出した。
「これを見ろ」
灰冠の構造図だった。
五つの職印を中央機関へ差し込み、外周塔へ雷気を送る。だが図の右下が削られ、別の羊皮紙が貼られている。
シェラが糊を蒸気で緩め、上紙を剥がした。
下から古い注記が現れる。
《鐘塔焼失後、第五印は鐘守より主記官へ移管する。音律の承認は鐘守に残すものとす。》
ロアが顔を上げた。
「五人目はユナじゃない」
「ローム自身」
シェラは構造図の線を追った。
「彼は最初から五つ目を持っている。必要なのは残り四印。穀倉と法の二つは奪われた。秤量は失敗した」
「次は門衛卿」
ルディクが言った。
廊下で靴音がした。
三人が武器を構える。
入ってきたのは、鐘守卿ユナだった。息を切らし、片手に音叉剣を持っている。
「あなたたち、ここにいたのね。ロームが門衛卿へ非常命令を出した。北門で白橋の残党が蜂起したと」
「北門に残党なんかいない」
ルディクが吐き捨てる。
ユナは彼女の顔を見て、言葉を失った。
「あなたが……」
「幽霊はお嫌いか、鐘守」
「いいえ。鐘は死者のためにも鳴る」
ユナはすぐに視線を戻した。
「門衛卿は全門を封鎖し、北門機関室へ向かった。けれど非常命令の認証に、私の音律印が使われていた。私は押していない」
「罠ね」
シェラが構造図を巻いた。
ロアは壊れた衝雷銃の部品を床に並べていた。使える雷室を二つ、短い鉄管へつなぎ、革紐で固定する。
「それ、何?」
ユナが聞く。
「銃」
「どう見ても爆弾よ」
シェラが言う。
「近くで使えば銃」
「すべての爆弾は近くで使えば銃、という理屈?」
「遠くで使うより勇気が要る」
北門から轟音が響いた。
床が揺れ、棚の帳簿が雪崩れ落ちる。
次いで、街じゅうの門が同時に閉じ始めた。
鉄鎖が唸り、跳ね橋が上がり、外壁の歯車が回る。
ニーヴァは自らを閉じ込めた。
主記官ロームは、戴冠会議が始まる前に街を棺へ変えるつもりだった。
七 門を閉ざす者
北門機関室は戦場になっていた。
門衛卿ノアメアの兵と、記録局の仮面兵が、巨大な巻上げ機を挟んで撃ち合っている。歯車の間では青い電弧が走り、閉じかけた門の外で商隊と避難民が叫んでいた。
ロアたちは上部通路から突入した。
「門衛卿を生かして!」
シェラが叫ぶ。
「努力する!」
「今回は一本じゃなく全部!」
ロアは手製の短銃を撃った。
爆音とともに、鉄管から雷気の塊が飛び、仮面兵の盾列を横へ吹き飛ばす。反動でロア自身も通路を二歩滑った。
「ほら、銃」
「二回目は手がなくなるわよ!」
「一回目で決めればいい!」
ルディクの弓が鳴り、巻上げ機の上に潜んだ狙撃手を落とす。ユナは音叉剣を歯車へ当て、共鳴を読む。
「主軸に細工されてる! 門を開けようとすると機関室ごと爆発する!」
「じゃあ閉めたまま?」
「外に三千人いる!」
「また制御して壊す案?」
ロアが聞く。
シェラは機関室を見渡した。
門衛卿ノアメアは中央の操作台にいた。肩に矢を受けながら、部下を指揮している。その背後、床下の保守孔から白磁の仮面が一つ現れた。
「ノアメア、下!」
声は銃声に消えた。
仮面兵が跳び上がり、細い刃を門衛卿の背へ突き立てる。
ルディクの矢が仮面を割った。
だが刃は刺さった。
兵士たちが仮面兵を斬り伏せる。ノアメアは膝をつき、胸元を押さえた。刃は背中から鎖骨の下へ抜け、職印を縫い止めた鎖ごと引き出している。
仮面兵の手には、血に濡れた灰鉄の小片。
シェラが走る。
別の兵が煙幕弾を投げた。青い煙が操作台を覆う。
ロアが短銃を床へ向けて撃ち、爆風で煙を吹き散らす。
職印を持った兵は巻上げ機の鎖へ飛びついていた。上へ逃げる。
ロアが追う。回転する歯車を足場にし、鎖をよじ登る。兵が下へ短剣を投げる。一本がロアの腿に刺さった。
「ロア!」
「浅い!」
明らかに浅くない声だった。
ロアは鎖を片手で掴み、もう一方の手で短剣を抜いた。血が黒い雪のように落ちる。
仮面兵へ投げ返す。
刃は肩に刺さった。兵が体勢を崩す。職印が手から離れ、下へ落ちた。
シェラが銀糸を放つ。
灰鉄の印に巻きついた。
その瞬間、別方向から青い矢が飛び、銀糸を切った。
職印は保守孔へ落ちた。
孔の下に、小型の軌道車が待っている。主記官ロームが乗っていた。
彼は上を見上げ、初めて穏やかな微笑を浮かべた。
「遅かったですね、監察官」
軌道車が地下線へ走り出す。
ルディクが矢を向けたが、撃てなかった。射線上に門衛卿の兵がいる。
「行き先は?」
ロアが鎖から飛び降りた。着地で傷口が開き、顔が歪む。
ユナが構造図を広げる。
「地下線は中央鋳造塔へ。灰冠の心臓部」
シェラは門衛卿の横に膝をついた。
ノアメアはまだ息があった。
「白橋」
彼は血を吐きながら言った。
「門を閉じたのは、わしだ」
ルディクが見下ろす。
弓を握る手が震えている。
「命令したのは五卿だ。だが鎖を引いたのは、わしだ。向こう側に人がいると知っていた」
「なぜ」
「小麦がなかった」
「盗んだからだろう」
「違う。盗んだ後だった。倉は空だった。門を開ければ、飢えた北区と難民で街全体が死ぬと……そう言われた」
「誰に」
ノアメアの目が、記録局の方角を向く。
「ロームの父だ。数字を見せられた。嘘の数字を」
ルディクは矢を番えたまま、しばらく動かなかった。
やがて弓を下ろす。
「お前を許さない」
「ああ」
「だが、お前の死に方をあいつには決めさせない」
シェラが止血帯を締めた。
ノアメアはかすかに笑った。
「白橋の娘か」
「白橋の生き残りだ」
ユナが巻上げ機へ音叉剣を当てた。
「門を開ける。爆薬の共鳴点を外せば、爆発を遅らせられる」
「どれくらい?」
「四十秒」
ロアが言った。
「十分」
シェラは相棒の腿を見た。
「あなたはここに残る」
「却下」
「出血してる」
「街もしてる」
ロアは短銃の残った雷室を確かめた。
「門を開けて。私たちは塔へ行く」
ユナが音叉剣を捻る。
高い音が機関室を満たした。
「四十秒後、ここは吹き飛ぶ!」
門衛兵たちが負傷者を担ぎ、出口へ走る。ルディクはノアメアの腕を肩へ回した。
シェラとロアは、ロームの軌道車を追って地下線へ飛び降りた。
背後で北門がゆっくり開く。
人々が街へなだれ込む。
三十九秒後、北門機関室は爆発した。
門は開いたまま止まり、ニーヴァは棺になることを免れた。
八 黒い帳簿
地下線には保守用の小型車が一台残っていた。
ロアが運転席へ座り、制動梃子を蹴った。
「動かし方、知ってるの?」
シェラが隣へ乗る。
「前に似たのを盗んだ」
「どこで?」
「監察局の研修」
「研修で盗んだの?」
「最終試験だった」
車輪が火花を散らし、軌道車は暗い坑道へ飛び出した。
前方にロームの車の灯が見える。
距離は二百歩。
坑道の側壁から、機械蜘蛛が次々に落ちてきた。ロームが撒いた追撃阻止装置だ。
「速度を落として」
「追いつけない」
「爆発する」
「追いついても爆発する」
「その二択を疑って」
ロアは速度を上げた。
機械蜘蛛が車体へ張りつく。
シェラは銀糸を車輪軸へ一周させ、外側へ輪を作った。糸が蜘蛛の脚を切り、火花の中へ弾き飛ばす。
一匹が運転席へ跳び込んだ。
ロアは素手で掴み、前方へ投げる。
蜘蛛はロームの車の後部へ貼りつき、爆発した。
先行車が揺れ、速度が落ちる。
距離百歩。
ロームが振り返り、長銃を構えた。
一発目が制動機を砕く。
二発目がロアの肩を掠める。
三発目をシェラが銀糸で逸らした。
「止まれなくなった」
ロアが言う。
「朗報みたいに言わないで」
「追いつける」
坑道の先に、中央鋳造塔の赤い光が見えた。
二台の軌道車は、ほとんど同時に終端へ突っ込んだ。
ロームは直前に飛び降りた。
ロアはシェラを抱えて横へ跳ぶ。
車体同士が激突し、折り重なって爆発した。熱風が二人を床へ転がす。
中央鋳造塔の内部は、巨大な聖堂に似ていた。
ただし祭壇の代わりに溶鉱炉があり、天井から吊られた黒鐘の下に、五角形の制御台がある。四つの差込口には、すでに灰鉄の印が二つ入っていた。穀倉と法。
ロームは三つ目、門衛の印を差し込むところだった。
残るは秤量の印だけ。
「失敗したはず」
シェラが言う。
ロームは血のついた手袋を外した。
「ミルダ卿は用心深い。だから、襲撃が失敗する可能性も計算した」
制御台の脇から、人影が引き出された。
秤量卿ミルダだった。
両手を縛られ、胸元に血が滲んでいる。評議宮へ戻った後、護衛ごと攫われていたのだ。
「数字を読む兵もいたようでね」
ミルダは苦痛に顔を歪めながら言った。
「こいつは、わたしの護衛名簿を書いた」
ロームが細身の刃を抜く。
シェラは一歩前へ出た。
「白橋の帳簿はどこ?」
「ここに」
ロームは外套の内側から、黒い革表紙の帳簿を出した。
「穀倉卿ボルンは、二十三年間これを隠した。法務卿は命令書の写しを焼き、門衛卿は兵の証言を封じ、秤量卿は数字を修正した。彼らは今夜、また街の行く末を選ぶつもりだった」
「だから全員殺す?」
ロアが立ち上がった。腿と肩から血を流しているが、目はまだ明るい。
「街を救うために街を焼く。古い人たちと同じ発想ね」
ロームの微笑が消えた。
「私は同じではない」
「みんなそう言う」
「灰冠は外へしか向かない、と教えられている。だが鋳造塔の導管を逆転すれば、熱は内側へ向く。評議宮、四家の邸宅、兵舎、記録局。世襲の根を一度に焼ける」
「下町も」
シェラが構造図を見た。
「逆流した雷気は旧水路へ落ちる。白橋地区、南市場、炉夫街。少なくとも六万人」
「必要な犠牲だ」
ルディクがまだ到着していない暗い入口を、ロームは一瞬だけ見た。
その一瞬で、シェラは理解した。
彼はルディクに聞かせるつもりだった。
自分が復讐を完成させるところを。
「あなたは白橋の死者を弔いたいんじゃない」
シェラは言った。
「証人が欲しいのね。九歳の少女に、母親の代わりにあなたを正しいと言わせたい」
ロームの目が揺れた。
ロアが低く口笛を吹く。
「静かな方を怒らせると、こうなる」
「黙って」
「はい」
ロームは刃をミルダの胸へ当てた。
「正しさなど、勝った者が記録する」
「だから記録官になった?」
「父は数字で九千人を殺した。私は真実で、奴らの子孫を終わらせる」
「真実は武器になる。でも、武器にした瞬間、真実があなたの命令に従うと思わないことね」
シェラは紙片を掲げた。
《白橋の記録を返す。ひとりで来い。》
「あなたは証拠を残しすぎた。古い休止符。青い封蝋。記録局備品の仮面。五人目の印の移管記録。私たちに辿らせたかった」
ロームは答えない。
「止めてほしかった?」
「違う」
「見届けてほしかった。都市が生まれ変わる瞬間を、記録する者が必要だった」
ロームの左手の中指が、刃の柄を二度叩いた。
紙の角を揃える時と同じ癖。
「あなたは犯罪者である前に、書記官なのね」
ロームの顔から、最後の穏やかさが消えた。
刃が動く。
同時に、ロアが手製短銃を撃った。
最後の雷室が炸裂し、制御台の脇へ青い火球が走る。ロームは身を引き、刃はミルダの胸ではなく縄を切った。
ミルダが床へ倒れる。
シェラが滑り込み、彼女を引き寄せる。
ロームは門衛印を差込口へ押し込んだ。
三つの印が光る。
塔全体が震えた。
「あと一つだ!」
ロアは制御台へ飛びかかった。
床の格子が開き、仮面兵が十人、下層から上がってくる。
ロームは背後へ退きながら命じた。
「鐘を鳴らせ」
九 火の前に
黒鐘は、街に大火が起きた時だけ鳴る。
一度で北区。
二度で南区。
三度で全市避難。
四度目は、聞いた者がいない。
記録には、四度目の意味が書かれていなかった。
仮面兵たちが一斉に襲いかかる。
ロアにはもう銃がない。
彼女は最初の兵の盾を踏み台にして跳び、兜へ膝を叩き込んだ。着地と同時に盾を奪い、二人目の槍を受ける。肩の傷が開き、血が腕を伝う。
三人目が背後から斬りかかる。
白い矢が仮面を貫いた。
ルディクとユナが上部回廊に現れた。ルディクは門衛卿を兵に預け、追ってきたのだ。
「遅い!」
ロアが叫ぶ。
「門が爆発した!」
「こっちは塔が爆発する!」
「競うな!」
ユナの音叉剣が鳴る。
共鳴波が仮面兵の耳を打ち、隊列が崩れた。シェラの銀糸が柱と柱の間に張られ、突進した兵たちの武器だけを絡め取る。
ロアは盾ごと体当たりし、まとめて溶鉱炉の縁へ押し込んだ。
「落とすな!」
シェラが言う。
「証言がいる!」
ロアは踏ん張った。
「注文が多い!」
背後で、ロームが秤量卿ミルダを引きずっていた。
ミルダは床の鉄格子を掴む。
「わたしを秤にかけるとは、百年早い」
彼女は指の計算輪を一つ外し、ロームの目へ投げた。
ロームが顔を背ける。
その隙に、ルディクの矢が彼の手を射抜いた。
刃が落ちる。
ロアが走る。
だがロームは自分の手を矢ごと制御台へ叩きつけ、ミルダの胸から半ば露出していた職印を掴んだ。
血に濡れた灰鉄が、最後の差込口へ入る。
四つの印が光った。
ロームは自分の襟を裂く。
鎖骨の下に、第五印が埋まっている。
彼は刃で皮膚を切り、印へ制御線をつないだ。
黒鐘が鳴った。
一度。
街の北で、鋳造塔が一斉に開く。赤い光が夜空を裂いた。
二度。
南の城壁で雷気が集まり、石が青白く透ける。
三度。
評議宮から避難鐘が応え、市民が通りへ溢れ出す。
ロアがロームへ飛びついた。
二人は制御台の上を転がる。
ロームは細い体に似合わぬ力でロアの傷口を掴んだ。ロアの息が止まる。膝蹴りを入れるが、ロームは離れない。
「四度目で灰冠は内を向く!」
ロームが叫ぶ。
黒鐘の舌が、ゆっくり振り上がる。
ユナは音叉剣を床へ当て、顔を青ざめさせた。
「鐘を止められない。主軸が制御台につながってる!」
「壊せば?」
ロアがロームと組み合ったまま叫ぶ。
「四印が暴発する!」
「壊さなくても暴発する!」
シェラは構造図を開いた。
線、注記、古い盟誓。
口を養え。
手を量れ。
耳を開け。
門を閉ざせ。
火の前に鐘を鳴らせ。
火の前に。
警告の意味ではない。
順序だ。
「ユナ! 鐘の共鳴を炉へ返せる?」
「黒鐘は警報用よ。炉の音律とは逆相――」
ユナの目が見開かれた。
「逆相だから、打ち消せる」
「四度目が鳴る前に、鐘そのものを炉の主導管へ接触させる」
ロアが上を見た。
黒鐘は三本の巨大な鎖で吊られている。
「鎖を切る?」
「一本だけ!」
シェラが叫ぶ。
「今度こそ一本だけよ!」
ロアは笑った。
「努力する」
ロームが彼女の喉へ刃を突き出す。
ルディクの矢が刃を弾いた。
ロアはロームの胸倉を掴み、額を叩き込む。骨の鳴る音。ロームがよろめく。
シェラは銀糸を鐘鎖へ投げた。
細すぎる。
鎖は切れない。
だが糸は、上部の滑車へ絡んだ。
「ロア、引いて!」
「どっちへ!」
「炉!」
ロアは銀糸の柄を受け取り、全身で引いた。腿から血が噴く。鎖が軋む。黒鐘の振れがわずかに変わる。
四度目へ向かう鐘舌が、縁へ近づく。
ユナが音叉剣を主導管へ突き刺した。
「あと三呼吸!」
ロームが制御台の印を押さえた。
「止めれば、真実も埋もれる!」
ルディクが黒い帳簿を拾い上げる。
「真実はここにある」
ロームの顔が歪んだ。
「紙など燃える!」
「人も燃える。だから同じことをするのか」
ルディクの声は静かだった。
「お前は私たちを救っていない。死者をもう一度、殺す側に並べようとしている」
ロームは制御線を引きちぎり、帳簿へ飛びかかった。
シェラが足を払う。
ロームは倒れず、彼女の腕を掴んで黒鐘の下へ投げた。
シェラの銀糸が手から離れる。
鐘が四度目の縁へ迫る。
ロアは糸を手首へ巻きつけた。銀線が皮膚へ食い込み、血が弾ける。
「シェラ!」
シェラは床を滑りながら、ロームの左足首へ糸の端を巻いた。
ロアが引く。
ロームの体が宙へ浮き、鐘鎖の滑車へ叩きつけられた。
その衝撃で、三本の鎖のうち一本が外れた。
黒鐘が大きく傾く。
鐘舌は縁を外れた。
四度目の音は鳴らない。
代わりに、傾いた黒鐘そのものが主導管へ激突した。
世界から音が消えた。
次の瞬間、逆相の衝撃が鋳造塔を駆け抜けた。
外向きに集まっていた雷気がほどけ、赤い火は空へ抜ける。鋳造塔の先端から、無数の光柱が雲を貫いた。
ニーヴァの黒い雪が、一瞬だけ白く照らされた。
制御台の四印が砕ける。
ロームは外れた鎖に巻かれ、鐘楼の縁へ引きずられた。片手で石を掴み、もう片方をシェラへ伸ばす。
シェラはその手を取った。
ロームが驚いた顔をする。
「なぜ」
「あなたが落ちれば、裁判で話せない」
シェラは歯を食いしばる。
「勝った者だけが記録するんでしょう。なら、負けたあなたにも記録させる」
ロームの顔に、怒りとも安堵ともつかないものが浮かんだ。
その背後で鎖が軋む。
ロアが駆け寄り、シェラの腰を掴んだ。
ルディクも腕を取る。
三人で引く。
鎖が外れた。
ロームの体が落ちる。
だが彼の手首には、シェラの銀糸が巻きついていた。
彼は鐘楼の下、炉の上で宙吊りになった。
生きている。
気絶しているが、生きている。
ロアは床へ仰向けに倒れた。
「証言、確保」
シェラも隣へ倒れる。
「建物は?」
天井から石片が落ち、制御台が火花を噴いた。
遠くで塔の一部が崩れる音がした。
ロアは考えた。
「半分は残る」
「半分も?」
「たぶん」
鐘守卿ユナが、煤だらけの顔で二人を見下ろした。
「中央鋳造塔は、建市以来一度も倒れたことがないのよ」
ロアは目を閉じた。
「歴史的な夜ね」
終 灰の朝
灰冠公エレシアは、その夜明けに息を引き取った。
戴冠会議は開かれなかった。
五卿のうち二人が死に、一人が重傷、一人が誘拐から救出され、鐘守卿は中央鋳造塔の修理費を見て三日間口を利かなかったからだ。
主記官イヴァン・ロームは生き延びた。
両脚と肋骨七本を折りながらも、裁判で白橋の帳簿を本物と認めた。仮面兵の名簿、偽造命令、灰冠の改造図も記録局の隠し庫から見つかった。
彼は自分の罪を一つも否定しなかった。
ただし謝罪もしなかった。
黒い帳簿は写本され、ニーヴァ中の広場と酒場と工房へ配られた。
白橋の死者は六百十二人ではなく、九千四百八十一人。
消えた小麦は飢饉で失われたのではなく、五家の私兵と国外商会へ横流しされた。
門が閉じられたのは、疫病を防ぐためではなく、その横流しを隠すため。
真実が明らかになっても、街は清くならなかった。
フェス家は帳簿を偽造と呼び、商会連合は一部だけ認め、軍務家は当時の命令系統を調査すると約束して書類を三百箱増やした。
下町では暴動が起きた。
上町では私兵が門を閉じた。
それでも、白橋の名は公式記録へ戻った。
九千四百八十一の名前が、黒鐘の下に刻まれることになった。
一か月後。
ロアとシェラは、修復中の北門を歩いていた。
黒い雪はまだ降っている。
ロアは杖をつき、肩から新しい衝雷銃を下げていた。前の銃より大きく、継ぎ板も多い。
「それ、局の支給品じゃないでしょうね」
シェラが言う。
「ユナが鋳造塔の残骸で作ってくれた」
「鐘の破片を使った?」
「撃つと少し鳴る」
「使わないで」
「まだ撃ってない」
「今後も」
門の外には、白橋の生存者ルディクがいた。
彼女は街を去るという。帳簿の写しを北方諸国へ届け、ニーヴァが再び記録を書き換えられないようにするために。
「見送りか」
ルディクが言った。
「請求書から逃げてきた」
ロアが答える。
シェラは封筒を差し出した。
「白橋の名簿。記録局の原本と照合済み」
ルディクは受け取り、長い間、重さを確かめるように持っていた。
「二人は残るのか」
「仕事がある」
「街を壊す仕事?」
「救う仕事」
シェラが言う。
ロアは少し考えた。
「順番は事件による」
ルディクは初めて笑った。
彼女が雪の向こうへ消えた後、北門の掲示板に一枚の召喚状が貼られた。
《特別監察官ロア・ケイン、シェラ・ヴァイス。中央鋳造塔、王立秤量塔、北門機関室、旧水路蒸気本管ほか計二十七件の損壊について、臨時評議会へ出頭せよ。》
ロアは紙を読んだ。
「二十七?」
「少なく数えてくれたのね」
「私たち、街を救ったのに」
「ええ」
「どのくらい?」
シェラは黒い雪の向こうに立つニーヴァを見た。
傾いた塔。
開いた門。
鐘のない鐘楼。
壁に貼られた、死者の名前。
「壊れた分より、少し多く」
ロアは満足そうに頷いた。
二人は召喚状を剥がし、評議宮とは反対の方向へ歩き出した。
背後で、修理中の黒鐘が試しに一度だけ鳴った。
今度の音は、警告ではなかった。