第22話 第九章「退路の値段」後編
区間ごとに、届く二つを選ぶ。
「あなたの名を記録していい?」
七瀬が訊く。
「要らない。作業場だけ。俺がいない日は、この壁を信じるな」
「確認者が人へ戻った」
タマキが言う。
「最初から壁が返事してたわけじゃない」
轟が答えた。
構造は音を運ぶ。
意味を持たせるのは、そこへ手を置く人間だった。
「光」
「昼で弱い」
「形。白布を縦、赤布を横」
轟が言う。
「窓が狭い」
「片手を上、片手を横」
凱が続ける。
案が増える。
澪は一つに決めなかった。
「区間ごとに、二種類で確認。音と布。布がない場所は手。見えない場所は壁の振動。二つ一致で進行。一つなら停止」
「複雑になる」
鷺沼が言う。
「複雑さを隠さない」
四つ目の窓へ、七瀬が白い反射板を縦に振った。
窓の住民が、白い布を縦へ掲げる。
道は受取済み。
その直後、厨房側の別窓から赤い前掛けが横へ振られた。
昼鍋完成。
同じ一回三回でも、別の出来事だった。
「危なかった」
小麦が言う。
「危ないまま進まなかった」
澪は帳面へ書く。
《八時三十三分。生活信号と重複。二重確認へ変更。》
「最初から決めておけ」
鷺沼の声は責めていた。
「決めてなかった」
「それで人を動かすのか」
「今、止めた」
「俺の三告なら、重複しない」
「あなたの声が届かない人は?」
「掲示を出す」
「掲示を見ない人は?」
「伝令」
「その伝令も、今の窓の一人」
鷺沼は口を閉じた。
即席の道は、最初から正しいのではない。
間違いを見つけたとき、止まり、意味を足し、誰が変えたか残せるかで道になる。
「誰が指揮してる」
鷺沼が訊く。
「各窓」
「誤りが出たら」
「次の窓が二回返す」
「責任者がいない」
「打った窓を記録する」
「窓は名じゃない」
「名を出したくない人もいる」
「匿名の道を信じろと?」
澪は一度、息を入れた。
「信じない。確認をつなぐ」
八時三十四分。
先へ行ったタマキから、三回の留め具音が返る。
かち、かち、かち。
高い音は右耳へ入らない。
澪は、窓辺の男が指を三本上げるのを見た。
「手が必要」
すぐに小麦が二回、鍋蓋を叩く。
かん、かん。
「何が足りないか」
向こうから、長い一回、短い二回。
小麦が眉を寄せる。
「食堂の信号じゃない」
「なら見える形」
七瀬が撮影機の反射板を開き、光を一度、二度、三度送る。顔や箱は撮らない。光だけ。
北詰めの屋根で、白い布が横へ振られた。
障害物。
次に、手すりを示す動き。
「手すりが外れてる」
轟が言う。
「箱を持って上がれない」
「直す時間」
「二分。部品があれば」
北詰めには、修理する人が三人集まった。
第一検問の青年。
朝市の氷屋。
鷺沼の路線隊員。
三人とも、別の理由で道を守ろうとしている。
青年は搬送を通すため。
氷屋は、自分が売った冷却材を無駄にしないため。
路線隊員は、許可のない搬送を安全な形へ止めるため。
「同じ作業で、意見が違う」
小麦が言った。
「手すりは意見を聞かん」
轟が返す。
北詰めの支柱は、固定ボルトが一本抜けていた。屋根事故の偽札と同じような三本線が、地面へ落ちている。ただし、誰が抜いたかは今は確かめない。
路線隊員が自分の工具を出した。
「俺が直せば、北荷路の管理下になる」
青年が言う。
「今は誰が直したか記録するだけだ」
「あとで所有を主張するだろ」
「主張する。あなたは反対を書けばいい」
「作業中に喧嘩するな!」
氷屋が二人の間へ割って入った。
「氷が溶ける!」
最も単純な理由が、二人を黙らせた。
窓信号で必要部品が伝わる。
六ミリボルト。
座金二。
長さ四十。
別の窓から、似たボルトが三本下りた。
一本は太い。
一本は短い。
一本だけ合う。
合わない二本にも、返却先の色糸を結ぶ。
「こんな時まで返すのか」
路線隊員が言う。
「こんな時に借りた物が、一番なくなる」
タマキが答えた。
青年がボルトを差し、路線隊員が座金を入れ、氷屋が手すりを持ち上げる。
誰が指揮者か分からない。
代わりに、誰がどの手を出したかは見える。
白布が縦へ振られる。
鍋が一回。
手すり修理完了。
澪は進行を出す前に、鷺沼へ訊いた。
「あなたの隊員が直した。通ることへ同意したと扱う?」
「扱わない」
「私も扱わない。修理と許可は別」
鷺沼は一瞬だけ澪を見た。
「都合がいい」
「分けないと、手伝った人を味方にする」
鷺沼は返事をせず、隊員へ手を上げた。
止める合図ではない。
作業を受け取ったという、彼なりの一回だった。
窓の一つから、縄が投げ下ろされた。
別の窓から工具袋。
誰かが、北詰めの手すりへ向かう。
道は、許可札より先に動き始めた。
鷺沼の顔から余裕が消える。
「この信号は、誤認すれば人を落とす」
「そう」
「俺の札なら、代替路を図で出せる」
「図が読めない人もいる」
「色と形を使う」
「耳が聞こえない人、目が見えにくい人、字が読めない子。全部を一枚で救う?」
「救えないから統一する」
「救えないから分ける」
鷺沼の右手が赤い靴紐へ触れる。
「俺の母は、変更を知らなかった」
私語になると、彼は早口になった。
「洪水の日、北路が崩れた。避難先は西へ変わった。掲示は出た。放送もした。だが母は旧路へ行った。誰かが直接伝えれば戻れた。誰が伝えたか、誰も記録していない。だから閉じるなら三度言う。別路を示す。聞いた者へ責任が移る」
鷺沼は右靴の赤い紐を見た。
「避難路の色だった。母は右足だけ赤を結んでいた。北へ行く印。遺体から戻ったのは片方だけ」
迅が紐へ視線を落とす。
「だから今も右だけ」
「忘れないためじゃない」
鷺沼はすぐ否定した。
「間違った色でも、人は信じて歩くと知るためだ」
「外せない?」
タマキが訊く。
「外せる」
「じゃあ、なぜ外さない」
「外さないことを選んでいる」
タマキはそれ以上訊かなかった。
物には、持ち主が説明したくない仕事もある。
澪は鷺沼の母の名を聞かなかった。帳面にも書かない。
彼の制度の理由を理解することと、個人の死を許可証へ変えることは違う。
「聞いた者へ責任は移らない」
澪は答えた。
「何」
「三度言っても、理解する時間がなければ命令。別路が実際に通れなければ、矢印は絵」
「じゃあ、どうすればよかった」
「分からない」
鷺沼の苔色の目が揺れる。
正解を出さない返答は、救難員らしくなかった。
「分からないから、聞こえたふりをしない。届いた確認を一つにしない」
「今の鍋が正しい保証は」
「ない。だから区間ごとに人が見る。止める。変える」
「おまえの命令より遅い」
「遅い。今、困ってる」
澪は時計を見た。
八時三十六分。
「でも、未来の救難を一人へ預けない」
鷺沼は紙を三つ折りに戻した。
「署名しないんだな」
「しない」
「なら、ここから先は七段坂だ」
「最初からそう言ってる」
「坂は、俺の警告を聞いた者だけが通れる」
「能力を使う?」
「境界を越えるなら」
「代替路は」
鷺沼は首の標識を反転させた。
矢印は、彼の背後にある七段坂を指している。
「同じ坂だ。封鎖柵を越えず、七つの段を正面から上がれ」
「正面を塞いで、正面を代替路にするの?」
小麦が言う。
「柵を壊さなければ通す。荷を確認し、患者名を出せ」
「最初へ戻った」
迅が言う。
「道は、戻るためにある」
鷺沼が返した。
「話まで戻すな」
北詰めから、鍋が一回鳴った。
手すりの修理完了。
次の窓も一回。
さらに先も一回。
澪には全部の音が聞こえない。
けれど、一つ目を見た人が二つ目へ手を上げ、二つ目を見た人が三つ目へ鍋を返す。
「六人。箱一。先行二と北詰めで合流。七段坂へ進む」
澪は言った。
「信号中心を笛から窓へ変更。変更時刻、八時三十七分。理由、聴取不能と区間確認。復唱」
「六、箱、二と合流、七段坂。窓。八三七」
小麦が返した。
澪は一番小さい笛から手を離した。
道の音は、一人の耳より多かった。