七歩退いて、王を殴れ
王の命令が人の意志と暮らしを縛る世界で、決闘台の王を殴り倒した少年・竜胆迅は、新たな王になることを拒み、記録者の火群七瀬たちと街を歩き始める。薬を運ぶ帰路、空席だらけの議会、止まらない工場、読めない契約、国境、病院、法廷。能力と英雄の名が答えを一人へ押しつけるたび、迅は七歩退いて当事者へ選択を返す。拳で勝つことより、命令を止めた後をどう…
全話一覧
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第1話 序章「七歩の地下」第1節
『第1話 序章「七歩の地下」第1節』 黒い雨は、十二年前に止んだ。 ただし天環市では、止んだことと終わったことを、同じ意味では使わない。 七月七日。黒雨〈セブン・ブラック〉記念日の夜明け前。鉛市〈ナイト・レッド〉の廃商業区には、空からではなく天井から雨が降っていた。 閉店して久しい大型スーパーの搬入口。ひび割れた配管から落ちる水滴が、地…
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第2話 序章「王の旗」第2節
『第2話 序章「王の旗」第2節』 火群七瀬は、空の場所を十秒だけ撮る。 誰もいなかったことは、誰かがいたことより簡単に消されるからだ。 午前九時二分。黒雨記念広場へ続く北東大路。七瀬は手回し撮影機を胸の高さに構え、まだ行列の来ていない路面を十秒、回した。 白線は雨に濡れ、ところどころで途切れている。沿道の店は半分が閉まり、開いている店は…
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第3話 序章「退路」第3節
『第3話 序章「退路」第3節』 獅堂凱は、決断の前に三つ数える。 一つ目は、今すぐ失うもの。 二つ目は、待てば失うもの。 三つ目は、自分の判断では数えられないもの。 三つ目があるとき、人は専門家を呼ぶか、神に祈るか、見なかったことにする。 凱は、決める。 それが正しいからではない。誰も決めなかった三秒のあいだに、弱い者から死ぬ場面を知っ…
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第4話 序章「王を殴れ」第4節
『第4話 序章「王を殴れ」第4節』 拳は、当たる前がいちばん重い。 骨を砕く力ではない。 殴ると決めた人間が、それまで捨てずに持ってきた理由の重さだ。 獅堂凱の右拳には、二年ぶんの道があった。 配給所へ向かった道。 抗争の夜に巡回した道。 名前を呼ばれ、先頭を歩いた道。 倒れた人間の横で立ち止まり、それでも次の場所へ進んだ道。 白王、と…
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第5話 第一章「拳の翌朝」前編
『第5話 第一章「拳の翌朝」前編』 七月八日 午前七時十六分 英雄は、朝の七時を過ぎると粗大ごみになる。 竜胆迅がそう結論したのは、黒雨記念広場の隅で、自分の顔が印刷された紙を四枚拾ったときだった。 一枚目には《王を殴った少年》とある。 二枚目には《新王》とある。 三枚目には《逃げ足の救世主》とある。 四枚目は顔だけで、文字を書く場所を…
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第6話 第一章「拳の翌朝」後編
『第6話 第一章「拳の翌朝」後編』 文字は左手で歪み、最後の「迅」が鏡へ逃げかけた。 七瀬が覗き込む。 「字が負傷しています」 「読める」 「期限があるのは評価します」 「旗じゃない」 「記録上は?」 「荷札」 迅は白布を左上腕へ巻いた。右腕は吊られている。結び目を一つ作り、片手で締められず、タマキが反対側を引いた。 「料金」 タマキが…
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第7話 第二章「帰れない笛」前編
『第7話 第二章「帰れない笛」前編』 七月八日 午後三時四十二分 風祭澪は、道を距離で覚えない。 誰が転ぶかで覚える。 零番街の東階段は、成人なら二百八十六段。子どもなら二百九十一段。五段の差は、途中にある排水溝を跨げず、一度横へ回る子がいるから生まれる。 西の屋根道は百八十七メートル。晴れた日なら四分。雨なら六分。洗濯物が多い日は、濡…
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第8話 第二章「帰れない笛」後編
『第8話 第二章「帰れない笛」後編』 澪は出口の段差へ座った。私生活では驚くほど小さくなる声で言う。 「着くだけなら、全部成功です」 七瀬が近くへ来た。撮影機は回っている。 「救難の成功例として、三本とも使われたことがある?」 「ある」 「記録を見せてください」 澪は帳面を開く。 到達欄には、丸が並んでいる。 十二人救出。 薬品到達。…
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第9話 第三章「冷える箱」前編
『第9話 第三章「冷える箱」前編』 七月九日 午前五時三分 土門小麦は、人の顔を見ると人数を考える。 美人かどうか、強いかどうか、味方か敵かより先に、米が何合いるかを考える。 共同食堂の裏口へ竜胆迅たち六人が立ったとき、小麦の頭にはこう浮かんだ。 六人。 負傷者三人。 育ち盛り二人。 大男一人は二・五人前。 合計九・五人前。 「まだ開店…
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第10話 第三章「冷える箱」後編
『第10話 第三章「冷える箱」後編』 「轟一人なら一分」 「外に出た人を帰すのは?」 「不明」 「火を止めても鍋は冷めない。送信を止めても、見た人は消えない。だから出す前に考える」 「即時でなければ、映像の真正性を疑われます」 「出来たてだけが料理じゃない」 「記録は料理ではありません」 「でも、出したら食べた人の中に入る」 七瀬のクラ…
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第11話 第四章「旗の検問」前編
『第11話 第四章「旗の検問」前編』 七月十日 午前十時二十一分 命令は、口から出るより前に人を動かす。 獅堂凱は、それを知っていた。 知っていたから王になった。 知ったまま王を降りたから、今は歩き方に困っている。 北荷路の第一検問へ近づくと、通行人がまだ一言も発していない凱のために道を空けた。 荷車を引く老人が壁へ寄る。買い物袋を持っ…
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第12話 第四章「旗の検問」後編
『第12話 第四章「旗の検問」後編』 凱の中で、秒針が人の命へ変わる癖が疼いた。 今決めろ。 役割を割れ。 最悪を一つ選べ。 胸の鐘へ触れかけた手を、松葉杖へ戻す。 青年がこちらへ向く。 「条件が三つあります」 迅が小さく息を吐いた。 「三って流行ってるのか」 「一つ目。患者名は聞かない。その代わり、診療所の受領責任者をここで確認する。…
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第13話 第五章「屋根の道」前編
『第13話 第五章「屋根の道」前編』 七月十二日 午後一時九分 環玉樹は、近道を三種類に分けている。 速い道。 安い道。 あとで怒られる道。 たいてい、一番速い道は三番目だった。 「地上は無理」 タマキは、旧理髪店の屋上から下を見た。 北荷路へ続く路地に、検問札を持った人間が百人近く並んでいる。列の途中へ新しい貼り紙が五枚。 《零番街方…
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第14話 第五章「屋根の道」後編
『第14話 第五章「屋根の道」後編』 「言い方」 タマキは少し笑った。 「じゃあ行く」 「理由は」 「断っても作戦が続くって分かったから」 澪は帳面へ、その理由まで書いた。 渡る人の勇気より、断っても代わりに罰がないことを記録する。 タマキには、その方が少しだけ怖くなかった。 轟と洗濯場の人が索を張る。 上索は胸の高さ。下索は足場。タマ…
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第15話 第六章「撮らない一分」前編
『第15話 第六章「撮らない一分」前編』 七月十三日 午後四時十四分 映像は、嘘をつかない。 映像を持っている人間は、いくらでもつく。 火群七瀬は、古い映写室の暗がりで、壁いっぱいに映った自分の偽物を見ていた。 銅色の短髪。 黒い短丈の雨合羽。 腰の位置で回す手回し撮影機。 似せる努力は認めてもいい。左側の細い編み込みに結んだフィルム片…
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第16話 第六章「撮らない一分」後編
『第16話 第六章「撮らない一分」後編』 説明は、それだけにした。 言い訳を入れれば、空白が小さく見える。 小さく見せた空白は、あとで穴になる。 公開後、批判はすぐに届いた。 《都合の悪い一分》 《全部撮るんじゃなかったのか》 《英雄の隠蔽》 《負傷者を見捨てた時間》 七瀬は一つずつ保存した。反論はしない。 反論しないことは、無視するこ…
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第17話 第七章「三つに分けた荷」前編
『第17話 第七章「三つに分けた荷」前編』 七月十五日 午前七時四十六分 盗まれたくない物を一つの箱へ入れるのは、盗む側への親切だ。 中央保冷庫の受渡室で、竜胆迅は銀色の保冷箱を三つに分けた。 正確には、箱の中身を三つへ分けた。 二十八分前、共同食堂では、全員が別々の朝食を食べていた。 別々なのは献立ではない。食べる位置だった。 迅は出…
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第18話 第七章「三つに分けた荷」後編
『第18話 第七章「三つに分けた荷」後編』 「轟。右路」 「行程は左」 「右が速い」 「澪の札は左」 「二分稼げる」 「先行禁止」 「追われてる。経路変更だ」 迅は右へ踏み出した。 屋根の上で赤い布が振られた。 一回。 二回。 三回。 澪だ。 右耳が聞こえなくても、こちらの足は見える。 赤札三回は《予定へ戻れ》。白冠救難笛隊の正式信号で…
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第19話 第八章「地下水路」前編
『第19話 第八章「地下水路」前編』 七月十五日 午前八時七分 建物が壊れる前には、音がする。 人間も同じだとよく言うが、伏見轟は信用していない。 人間は黙って壊れる。 建物の方が正直だった。 旧配管路北口で、三つに分けた荷が一つへ戻った。 小麦が買い物籠から二重保冷筒を取り出す。七瀬が番号を読む。凱が白布包みから管理印と照合札を出す。…
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第20話 第八章「地下水路」後編
『第20話 第八章「地下水路」後編』 「半閉だ」 「細かい」 「全部閉めると下流が逆流する」 「正しい細かさ」 追手の先頭が、落ちた鉤を拾おうとする。 澪が低笛を一度鳴らした。 右耳へ負担の少ない音域。水路の煉瓦を通り、腹へ響く。 全員が一瞬止まる。 「水位下降。退路は開く。追うなら、帰りも同じ弁を通る。箱を止めれば、あなたたちも八時半…
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第21話 第九章「退路の値段」前編
『第21話 第九章「退路の値段」前編』 七月十五日 午前八時三十分 聞こえない音を、聞こえたことにする。 救難の現場で、それは嘘ではない。 人数を一人増やすのと同じ種類の事故だ。 風祭澪は旧配管路の南口を出る前に、右耳の保護綿を押さえた。 触るためではない。位置を確かめるためだ。 右には何も聞こえないわけではない。 水の流れ、轟の低い声…
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第22話 第九章「退路の値段」後編
『第22話 第九章「退路の値段」後編』 区間ごとに、届く二つを選ぶ。 「あなたの名を記録していい?」 七瀬が訊く。 「要らない。作業場だけ。俺がいない日は、この壁を信じるな」 「確認者が人へ戻った」 タマキが言う。 「最初から壁が返事してたわけじゃない」 轟が答えた。 構造は音を運ぶ。 意味を持たせるのは、そこへ手を置く人間だった。 「…
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第23話 第十章「七段坂」前編
『第23話 第十章「七段坂」前編』 七月十五日 午前八時三十八分 王だった頃、獅堂凱は道を空けさせるのに三秒も要らなかった。 今は七段の坂へ入るだけで、街一つ分の言葉が要る。 七段坂は、名前ほど小さくない。 高架貨物線が廃止されたあと、斜面に残った七つの荷揚げ台を、短い坂でつないだ道だ。一段ごとに高さが二メートル。全長百四十メートル。左…
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第24話 第十章「七段坂」後編
『第24話 第十章「七段坂」後編』 迅は立つ。 凱は手すりを握りながら、迅の足元を見た。 七つ目の退路がない。 背後には箱と住民。下がれば、その列へぶつかる。横は壁と高架縁。前は鷺沼。 《七退一還〈セブン・リターン〉》は、七度距離を譲る。 譲る距離がなければ、七つ目は成立しない。 「迅」 凱は呼んだ。 「何だ」 「手すりを一メートル、坂…
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第25話 第十一章「手から手へ」前編
『第25話 第十一章「手から手へ」前編』 七月十五日 午前八時四十五分 料理を一人で速く運ぶ方法は、走ることではない。 厨房から客席まで、人を並べることだ。 土門小麦は七段坂の上を見た。 診療所まで、残り六百二十メートル。 曲がり角五つ。階段二つ。狭い住宅通路一つ。高低差二十八メートル。保冷箱を四人で運べば十一分。薬の安全域は九分三十一…
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第26話 第十一章「手から手へ」後編
『第26話 第十一章「手から手へ」後編』 小麦が言う。 「効くかは観察。副反応もある」 「名言を潰すな」 「医療を名言で終わらせるな」 八時五十二分五十八秒。 投与完了。 看護師が空の薬瓶を密封袋へ入れる。 家族が中籠を持って戻ってきた。 中身は空。 冷却材と温度票だけ。 「これは、どうします」 家族が訊く。 「同じ道で返す」 澪が答え…
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第27話 第十二章「帰路班の名前」前編
『第27話 第十二章「帰路班の名前」前編』 七月十五日 午後一時十二分 事件のあとには、事件より多くの洗濯物が残る。 火群七瀬は、零番街診療所の裏へ張られた縄を撮っていた。 紺の救難上着。 白冠の短外套。 橙色の工事ベスト。 泥水を吸った学ラン。 山吹色の前掛け。 白いシーツを裂いて作った持ち手。 どれも風に揺れている。 勝利の旗に見え…
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第28話 第十二章「帰路班の名前」後編
『第28話 第十二章「帰路班の名前」後編』 後ろの男が言った。 「可能性は否定できません」 七瀬が答える。 「じゃあ記録の意味がない」 「記録がない場所を、ないと示す意味があります」 「おまえを信じろって?」 「信じなくていい。停止前後の封印番号、温度票、持っていた人の証言、診療所での受領照合を別々に見てください」 「映像一つで分かるよ…
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第29話 第一章「会議の値段」前編
『第29話 第一章「会議の値段」前編』 七月二十二日 午前八時四分 選挙には候補者が必要だが、候補者の承諾は案外なくても始まる。 火群七瀬がその事実を知ったのは、自分の工房の壁に竜胆迅の紹介映像を映すための白幕が張られていたからだった。 白幕は三メートル四方。左上には《空白の旗・代表候補》、右下には《七月二十七日 百人会議》と印刷されて…
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第30話 第一章「会議の値段」後編
『第30話 第一章「会議の値段」後編』 「返せと言われたら、返します」 「誰が、どう言う」 「本人が僕へ」 「食券を持ったまま?」 小麦が訊く。 「それは別の手続きです」 「別なら、別の紙にして」 「既に生活支援と委任が同じ登録に――」 「同じにしたのは誰」 白戸は答えなかった。 体育館の屋根で、古い鉄板が熱を受けて鳴った。 七瀬の撮影…
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第31話 第二章「一椀と一票」前編
『第31話 第二章「一椀と一票」前編』 七月二十三日 午前四時五十二分 空腹は人の意見を変えない。 意見を言う順番を変える。 土門小麦は、共同食堂の裏口で米袋を受け取った女が、袋より先に一枚の白い券を前掛けへ隠すのを見た。 夜明け前。零番街の共同食堂には、煮干しを炒る匂いと、古い換気扇の低い振動が満ちている。長机には百人会議用の献立案…
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第32話 第二章「一椀と一票」後編
『第32話 第二章「一椀と一票」後編』 午後三時。 風祭澪は、会議用の食事を持ち帰れる形にしろと言った。 「会場で食べさせる」 小麦が返す。 「帰る人もいる」 「食べてから帰れば」 「日没前に西橋を渡る人は、午後四時半に出る。夕食まで残せば帰路が閉じる」 「弁当を作る人が増える」 「必要人数を出す」 「誰が運ぶ」 「帰路班」 「帰路班っ…
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第33話 第三章「委任状」前編
『第33話 第三章「委任状」前編』 七月二十五日 午前七時三十一分 王に預ける紙は、王より軽い。 だから積もる。 獅堂凱の机には、朝までに二十八通の委任状が積まれていた。 机は旧白冠書記局の備品で、引き出しの右上に《王用》と焼き印がある。凱は焼き印へ紙を貼り、《臨時連絡所》と書き直した。貼った紙は、夜の湿気で端から浮いていた。 椅子は一…
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第34話 第三章「委任状」後編
『第34話 第三章「委任状」後編』 「救難要請を受けて入る。常駐はしない」 「間に合わなかったら」 「私が帰路を選んだ記録を残す」 澪は帰路帳へ時刻を書いた。 迅はしばらく黙り、やがて言った。 「東排水の地図をくれ」 「何に使う」 「入口の第二受付を作れるか見る」 「議場から人を出すため?」 「入れるためでもある」 「順番」 「出せる幅…
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第35話 第四章「入口の乱闘」前編
『第35話 第四章「入口の乱闘」前編』 七月二十七日 午前七時十一分 入口は、建物が最初につく嘘だ。 誰でも入れる顔をして、誰を止めるかは蝶番が決める。 旧第二体育館の正面玄関には、夜明けまでなかった机が六台並んでいた。 机の上には《持ち物確認》《本人照合》《危険物預かり》《委任内容確認》と札が立ち、机の前には鉄柵が蛇の腹のように折り返…
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第36話 第四章「入口の乱闘」後編
『第36話 第四章「入口の乱闘」後編』 棒が左腿を掠める。 痛みより先に、白戸の左肩が見えた。 次の動作は右からの袈裟打ち。しかし右手は、借りた警棒士の動きへ移る途中で一瞬開く。 左右が喧嘩している。 迅は白戸の懐へ入った。 頭突きなら一撃。 膝なら二撃。 肩で胸骨を押せば、白戸は用具箱へ倒れる。 迅は何もしなかった。 白戸の短棒だけを…
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第37話 第五章「定足数」前編
『第37話 第五章「定足数」前編』 七月二十七日 午前八時二分 百人を集める仕事で、最初に数えるべきは百人ではない。 帰り道である。 風祭澪は旧第二体育館の西側階段で、右耳の補助具を外した。 朝から三度、雑音が入っている。正面玄関の怒号、鉄扉を外す金属音、用具庫の反響。高い音は右側で割れ、低い音は身体の内側へ二重に響いた。 聞こえないよ…
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第38話 第五章「定足数」後編
『第38話 第五章「定足数」後編』 「固定カメラも動かさない」 「じゃあ、何を持ってきた」 「音を入口のカメラまで運ぶ」 タマキは鉄箱を開いた。 中には古い校内放送用の音声分配器。真琴が規則庫で見つけ、七瀬が配線図を描き、体育館の元放送係が倉庫から出したものだという。 「四地点の音声を体育館へ送る。議場の声も返す。固定機の画角に、音声計…
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第39話 第六章「王の席」前編
『第39話 第六章「王の席」前編』 七月二十七日 午前十時二十分 椅子には、座った人間の体重しか載らない。 それでも王の椅子だけは、立っている者まで重くする。 旧第二体育館の中央に置かれた木椅子は、学校の備品ではなかった。 背は獅堂凱の肩より高く、肘掛けには白冠連の古い紋章が浅く削り取られている。かつて避難所の壇上で凱が命令を出した椅子…
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第40話 第六章「王の席」後編
『第40話 第六章「王の席」後編』 「王ではない」 「じゃあ座って水飲める」 凱は飲んだ。 薄い麦茶だった。 椅子に座ったまま水を飲むのは、立って命令するより難しかった。 午前十一時十九分。 外の衝突は続いている。 固定機の補助鏡に、人影が横切る。轟が用具口で一人ずつ止め、迅が鉄柵を押し返す。警棒の音。床を擦る靴。誰かが「白戸の命令だ」…
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第41話 第七章「台所の票」前編
『第41話 第七章「台所の票」前編』 七月二十七日 午前十一時二十八分 政治家は空腹を演説に使う。 料理人は空腹が何分後に人を怒らせるか知っている。 旧第二体育館の調理室には、百二十人前の食事を作れる設備があった。 ただし、《作れる》というのは、米、水、燃料、鍋、包丁、洗い場、食べる器、作る人、作った人が座る時間の全てが揃った時だけ使え…
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第42話 第七章「台所の票」後編
『第42話 第七章「台所の票」後編』 「食券」 小麦が言う。 「ありません」 「じゃあ氏名」 「白戸依久」 「委任状態」 「聞かないんでしょう」 「確認。聞かない」 「僕を支持する人へ先に」 「順番は帰路と身体」 「僕は後でいい」 「後にする理由」 「僕の倉庫の食材が遅れた」 「罰で食べないと、空腹を美談に使うことになる」 「使いません…
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第43話 第八章「消えた出席者」前編
『第43話 第八章「消えた出席者」前編』 七月二十七日 午後一時六分 映像が途切れる時、人はすぐ誰かが切ったと思う。 機械は、もっと退屈な理由でも止まる。 線が抜ける。 歯車が欠ける。 回す人が眠る。 見られたくない人が、自分で蓋をする。 だから火群七瀬は、画面が暗くなっただけでは事件と呼ばない。 四つの音声線が、同じ秒に無音になった時…
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第44話 第八章「消えた出席者」後編
『第44話 第八章「消えた出席者」後編』 「切り離したら、誰が費用を」 「公開請求」 「払われなければ」 「未払いとして残る」 「空腹は帳簿を食べません」 「帳簿がなければ、空腹を誰かの票にして食べます」 白戸はしばらく七瀬を見た。 「名言ですか」 「小麦の請求書です」 タマキが口を挟む。 「五分、三分過ぎた。四人に聞く?」 白戸は右薬…
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第45話 第九章「代理人を解く」前編
『第45話 第九章「代理人を解く」前編』 七月二十七日 午後二時二分 規則は、書かれた時から古くなる。 人間が困る方法だけが、新しくなるからだ。 朽葉真琴は旧第二体育館の放送室で、三十七年前の議事規則を読んでいた。 机の上に五冊。 床に十二冊。 椅子の上に、廃止済みの別冊が九冊。 新品のノートは一頁目を空け、二頁目から使っている。 粉塵…
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第46話 第九章「代理人を解く」後編
『第46話 第九章「代理人を解く」後編』 最初の質問は、凱宛てだった。 席番号九。 本人は北医療団地から音声参加している高齢の男。凱へ《白布の認証判断を一任》と書いた。 『凱。白布を認めたら、うちの診療所の夜間警備を誰がする』 凱は答えた。 「知らない」 議場がざわつく。 『白冠なら決めただろ』 「白冠なら、俺が人員を割り当てた。今の白…
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第47話 第十章「百人目」前編
『第47話 第十章「百人目」前編』 七月二十七日 午後四時三十一分 荷物は、運べば届く。 人の意思は、届いた後で行き先を変える。 環玉樹は旧第二体育館の用具口で、鉄箱の中身を一つずつ声に出した。 「音声端子、一。手回し発電機、一。銅線、二百十メートル。接続口、雄二、雌三。予備ヒューズ、四。絶縁布、二巻。番号札、九十七。工具、圧着、切断…
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第48話 第十章「百人目」後編
『第48話 第十章「百人目」後編』 『はい』 真琴が答えた。 「でも、私の席を勝手に埋めるよりいい」 看護師が残り一分の札。 「切る。私は委任しない。席は空ける。今日中。撤回は私の声か、看護師の本人確認付き書面。音声は会議内だけ」 『確認しました』 七瀬。 『切断操作は本人が行います』 タマキは栓へ触れなかった。 カーテンの向こうから手…
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第49話 第十一章「採決」前編
『第49話 第十一章「採決」前編』 七月二十七日 午後六時十二分 ガラスの割れる音には、二種類ある。 事故の音と、合図の音だ。 南窓から降った破片は、まだ床へ届いていなかった。 凱は王席の前に立ったまま、飛び込んでくる三人の順番を見た。 先頭は紺の腕章。両手に毛布を広げている。拳も棒も持っていない。投票箱へ毛布をかぶせ、監視線を切るつも…
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第50話 第十一章「採決」後編
『第50話 第十一章「採決」後編』 午後七時二十三分。 第二の採決。 今度こそ、白布の扱いだった。 議案名は長い。 《中央を空けた白布を用いる救難・修理・記録・配食その他の期間限定共同作業に対し、領土、永久代表、強制徴収権を伴わない活動認証を付与する件》 「長い」 迅。 「短くすると、権限が増えます」 真琴。 「紙は長い。期限は?」 「…
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第51話 第十二章「空席を残す」前編
『第51話 第十二章「空席を残す」前編』 七月二十七日 午後七時四十八分 勝った夜には、ご馳走が出ると思う人がいる。 土門小麦は、その考え方が嫌いではなかった。 嬉しい時に食べる。悲しい時にも食べる。何も決まらなかった時は、決まらなかった人間同士で湯を沸かす。 食事はだいたい、政治より働き者だ。 ただし、ご馳走を作る人間が勝ったことにな…
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第52話 第十二章「空席を残す」後編
『第52話 第十二章「空席を残す」後編』 「何の重さですか」 「褒め言葉一個」 「測ったことないでしょう」 「今決めた」 白戸は不満そうにしながら、左手の文を続けた。 小麦はその机へ、具のないスープを置いた。 塩は少なめ。 端パン一つ。 「頼んでいません」 「契約に入ってる」 「昨日分です」 「昨日、痛くて半分しか食べてない。残額」 「…
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第53話 第一章「蒸気の朝」前編
『第53話 第一章「蒸気の朝」前編』 八月十二日 午前六時四十二分 王をやめた男にも、風呂の温度を上げる権限はなかった。 「三十七度です」 共同浴場の番台に立つ女が、棒温度計を獅堂凱の顔の前へ突き出した。 「昨日は四十一度。四度下がった。数字は反対しないでしょう、元王様」 「数字は反対しない。測り方が反対する」 「二本で測ったよ」 もう…
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第54話 第一章「蒸気の朝」後編
『第54話 第一章「蒸気の朝」後編』 午前八時十一分 北工区は、天環の中で一番早く朝を使い切る。 高架線の下に鉄骨長屋が続き、その向こうで巨大な工場が地面から生えている。赤錆大工場〈ハート・ファーネス〉。炉、浄水、熱回収、鍛造、解体、修理。街が壊れた物を持ち込み、別の形で持ち帰る場所だった。 正門の上には、赤錆兵団〈ラスト・アイアン〉の…
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第55話 第二章「止まらない誓い」前編
『第55話 第二章「止まらない誓い」前編』 八月十二日 午前八時十四分 救助命令は、事故より遅れて届く。 だから現場には、届く前の命令が必要になる。 「負傷一。意識あり。右前腕熱傷、呼吸速い。冷却水、十五度前後。氷は直接当てない」 風祭澪は言いながら、倒れた工員の袖を切った。 右耳の補助具を外す。 高い警報音が割れて入ると、床まで傾く。…
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第56話 第二章「止まらない誓い」後編
『第56話 第二章「止まらない誓い」後編』 真琴の言い方は冷たい。 冷たいから、誰かの善意ではなく手順として使える。 用水路の橋の下で、轟が壁を二回叩いた。 返事はない。 迅は泥の足跡を見る。 小さい跡が二つ。 片方は靴。 片方は裸足。 工場から外へ向かっている。 「出てる」 「どこへ」 「水路下」 二人が橋を回ると、石組みの隙間に少年…
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第57話 第三章「工員の昼食」前編
『第57話 第三章「工員の昼食」前編』 八月十三日 午前十一時三十八分 食堂へ椅子を持ち込むだけで反乱になる職場は、たいてい椅子より先に何かが壊れている。 土門小麦は折り畳み椅子を十二脚、赤錆大工場の食堂へ並べた。 一直線ではない。 三脚ずつ、四つの机を囲む形。 食べる人間は兵隊ではないからだ。 「撤去しろ」 運転統括補佐が言った。 「…
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第58話 第三章「工員の昼食」後編
『第58話 第三章「工員の昼食」後編』 「担当者の名」 鉄志が本人を見る。 「出す?」 工員は考えた。 「工程内だけ」 「公開しない」 小麦が答える。 名が書かれる。 鉄志は図面を持ち、食堂を出た。 座らなかった。 だが、別の者を座らせたまま出ていった。 小麦はそれを勝利とは書かなかった。 《休憩継続 一名》 それだけ書いた。 午後三時…
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第59話 第四章「赤い配管」前編
『第59話 第四章「赤い配管」前編』 八月十四日 午前六時二十六分 図面には、嘘をつく意志がない。 だから現場の嘘を、いちばん長く信じることがある。 伏見轟は赤錆大工場の保全室で、壁いっぱいの配管図を見上げていた。 紙は黄ばんでいる。 赤線は熱回収。 緑線は飲料水。 青線は冷却。 黒線は排水。 描いた人間は、色を分ければ水も分かれると信…
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第60話 第四章「赤い配管」後編
『第60話 第四章「赤い配管」後編』 轟が耳を当てる。 四拍。 五拍目が遅れる。 銀管の信号。 その奥で、大きな弁が一度だけ震えた。 「自動復帰、動いてる」 鉄志。 「誰が見てる」 「制御室」 「誰が止める」 「設定上は工場長」 「工場長が倒れたら」 「副長」 「副長が」 「自動」 「鉄志が倒れたら」 「関係ない」 タマキは六角蓋へ住所…
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第61話 第五章「作業拒否」前編
『第61話 第五章「作業拒否」前編』 八月十五日 午前九時十六分 人を働かせる契約は、たいてい「働け」とは書かない。 働かなかった時に失う物を、細かく書く。 朽葉真琴は赤錆大工場の旧会計室で、契約書を四列に分けていた。 雇用。 長屋。 食券。 負傷者基金。 同じ工員の名前が、四つの紙にある。 雇用契約だけを読めば、作業拒否は可能だ。 長…
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第62話 第五章「作業拒否」後編
『第62話 第五章「作業拒否」後編』 午後二時三十九分 真琴は休憩点検票を作った。 新品の紙の一頁目は使えない。 二頁目から始める。 《工程》 《通常休憩時刻》 《実施時刻》 《点検者》 《確認項目》 《異常の有無》 《再開判断者》 《変更理由》 《異議》 小麦が読む。 「長い」 「必要です」 「食べる前に読めない」 「食堂で使う文では…
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第63話 第六章「炉心区画」前編
『第63話 第六章「炉心区画」前編』 八月十七日 午後四時七分 七歩退くには、地面が止まっている方がいい。 赤錆大工場の炉心区画では、地面の方が先に逃げていた。 竜胆迅は幅一・二メートルの搬送足場に立ち、左足を半歩引いた。 足場は鎖で動いている。 彼が退いた分だけ、床が前へ進む。 正面から来た長柄鉤が、喉ではなく肩を狙った。 殺す打撃で…
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第64話 第六章「炉心区画」後編
『第64話 第六章「炉心区画」後編』 次を左。 鉄志は交互に流している。 だが右側の受け箱は七割。 左は四割。 「次、左二つ」 迅。 「分かってる」 「右、いっぱい」 「分かってる!」 「怒ると聞こえる?」 「おまえは黙っても腹立つな」 次の塊が落ちる。 鉄志が左へ送る。 迅は消火砂の袋を足で押し、跳ね返りの角度を塞ぐ。 一つ。 二つ。…
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第65話 第七章「事故の責任」前編
『第65話 第七章「事故の責任」前編』 八月十八日 午前七時五十一分 映像は、映っている物についてはよく喋る。 映らなかった物については、たいてい無実を装う。 火群七瀬は赤錆大工場の記録室で、二百十三本目の作業映像を止めた。 画面には、二番圧延列。 時刻、七月三十日、午後二時十一分。 工員が三人。 ローラーが四本。 圧力計は正常。 警報…
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第66話 第七章「事故の責任」後編
『第66話 第七章「事故の責任」後編』 「面倒」 「はい」 「すぐ見たい」 「はい」 「でも見せない」 「はい」 「頑固」 「それは記録済みです」 どこかで笑いが起きた。 番台女は笑わない。 「住民側の監視、私がやる」 「浴場を離れられますか」 「昼は閉めた。ぬるい湯で料金は取れない」 「工場停止へ賛成ですか」 「湯が出るなら反対。危な…
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第67話 第八章「七瀬の無音」前編
『第67話 第八章「七瀬の無音」前編』 八月十九日 午後一時十二分 大きすぎる音は、沈黙とよく似ている。 赤配管区へ入った瞬間、火群七瀬の録音計は全ての音を一つの白い線へ潰した。 蒸気。 圧力弁から噴き続ける蒸気が、壁も床も人の声も同じ音量へ塗り替えている。 工員が何か叫ぶ。 口は見える。 声はない。 七瀬は撮影機の音量つまみを下げた。…
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第68話 第八章「七瀬の無音」後編
『第68話 第八章「七瀬の無音」後編』 《名言みたいで嫌》 七瀬は一行消す。 《先にあなたを運ぶ》 工員が頷く。 それで十分だった。 避難線を越える。 外気が顔へ当たる。 音が戻る。 最初に聞こえたのは警報ではない。 工員の荒い息だった。 七瀬は彼を救難員へ渡し、すぐ戻ろうとした。 澪が腕を掴む。 「何分」 今度は聞こえる。 「撮影開始…
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第69話 第九章「止める合図」前編
『第69話 第九章「止める合図」前編』 八月二十日 午前五時四十分 合図は、鳴らす前に半分終わっていなければならない。 何の音か。 誰が出すか。 聞こえなかった時はどうするか。 聞こえても従わない時はどうするか。 それを決めずに笛を鳴らすのは、命令ではなく大きな独り言だ。 風祭澪は赤錆大工場の食堂で、三本の真鍮笛を机へ置いた。 横に、銀…
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第70話 第九章「止める合図」後編
『第70話 第九章「止める合図」後編』 工場は止まらない。 弁も閉じない。 ただ、誰もぶつからず、三人が地下入口へ届いた。 轟。 迅。 タマキ。 鉄志が追いつく。 「俺も行く」 「地下班は三人」 澪。 「弁を知ってる」 「轟も知ってる」 「図面でだ」 「あなたが入るなら、誰が炉前の残熱を見る」 「工員がいる」 「任せる?」 鉄志は炉前を…
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第71話 第十章「手動弁」前編
『第71話 第十章「手動弁」前編』 八月二十日 午後零時三十九分 地下へ降りる階段は、上から見れば出口だった。 下から見れば、一本しかない入口だった。 伏見轟は最初の踊り場で壁を二回叩いた。 低い音。 次に、少し高い返り。 「空洞」 タマキが鉄箱を抱え直す。 「どこ」 「壁の後ろ。排水路」 「出口?」 「人は通らん」 「何が通る」 「熱…
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第72話 第十章「手動弁」後編
『第72話 第十章「手動弁」後編』 その瞬間、主弁の冷却管が破れた。 白い蒸気が横から噴く。 鉄志の面の亀裂へ直撃した。 彼が息を吸った。 短い一呼吸。 それで十分だった。 鉄志が咳き込む。 面を外そうとする。 「外すな!」 轟。 鉄志は膝をつく。 ここに炉を見ている工員はいない。 能力は立たせない。 迅が彼を蒸気線から引く。 右腕を使…
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第73話 第十一章「冷える工場」前編
『第73話 第十一章「冷える工場」前編』 八月二十日 午後一時二十六分 工場が止まった時、街で最初に聞こえたのは拍手ではなかった。 「湯が出ない!」 共同浴場の番台から、使い走りの少年が走ってきた。 土門小麦は赤錆大工場の正門前で、大鍋へ水を注いでいた。 「知ってる」 「三番浴場、洗い場に四十人!」 「入場止めて」 「裸だよ!」 「服を…
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第74話 第十一章「冷える工場」後編
『第74話 第十一章「冷える工場」後編』 休養を仕事へ混ぜないよう、あえて別にする。 「休むだけで食券?」 補佐が訊く。 「停止前に連続勤務した者は、休養が再起動条件です」 真琴。 「誰が判定」 「鍋帳、入退場、本人申告。三つが違えば、本人の不利益にならない方へ仮置き」 「嘘をつく」 「嘘を疑って全員を働かせれば、また止められなくなりま…
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第75話 第十二章「空白の規約」前編
『第75話 第十二章「空白の規約」前編』 八月二十一日 午前八時三分 壊れた物を直す会議では、最初に椅子が足りなくなる。 直す人間は座らず働いていると思われるからだ。 竜胆迅は赤錆大工場の食堂へ、昨日の十三脚に加えて九脚を運んだ。 右腕は胸の固定帯。 左手で二脚ずつ。 「一脚ずつ」 七瀬が言う。 「軽い」 「片手です」 「左ある」 「右…
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第76話 第十二章「空白の規約」後編
『第76話 第十二章「空白の規約」後編』 「受取印」 タマキ。 「ない」 「返してない」 「番台へ置いた」 「受取人へ渡してない」 「番台女はいた」 「見た?」 「背中は」 「受け取ってない」 凱は立ち上がった。 「今から行く」 「膝」 迅。 「歩ける」 「帰りも?」 「おまえたちは、その問いを流行らせるな」 南二番浴場では、温度計が番…
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第77話 第一章「八旗からの封筒」前編
『第77話 第一章「八旗からの封筒」前編』 九月十四日 午前七時十三分 届いた手紙が立派であるほど、受取人は先に疑った方がいい。 立派な人間は、たいてい自分で歩いてくる。立派な封筒だけが、他人へ歩かせる。 「受け取れません」 環玉樹は、八つの封蝋を並べた白い封筒を配達人へ返した。 差し出されたのは二度目だった。 「宛名は合っている」 灰…
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第78話 第一章「八旗からの封筒」後編
『第78話 第一章「八旗からの封筒」後編』 《封筒を受け取った。仕事を受けた、とは別》 「第七項の安全協力義務は始まっています」 《安全協力と、契約紛争の解決受任も別》 「そこまで分けると、相手が詭弁だと言います」 《相手へ説明できる?》 真琴は第七項を読み直した。 係争解決まで市場街の安全維持に協力する。 協力。 範囲がない。 時間が…
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第79話 第二章「読めない同意」前編
『第79話 第二章「読めない同意」前編』 九月十四日 午前十時六分 人が多い場所では、聞こえる者ほど会話を見失う。 一文字巴は、南環市場街の入口で人工内耳の外部装置を外した。 金属屋の槌。 魚屋の呼び声。 荷車の車輪。 上階から落ちる洗濯ばさみ。 値切る声。 値切られて怒る声。 怒っていないのに大きい声。 音量だけが一つの塊になる。 巴…
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第80話 第二章「読めない同意」後編
『第80話 第二章「読めない同意」後編』 秋枝の住居札へ入った黄色い印が、階段扉の受信盤へ伝わったのだ。 二階へ上がる格子戸が、天井から降り始める。 「母さん」 秋枝が走った。 執行員が腕を広げる。 「再審査者は仮札発行まで住居区画へ入れません」 「薬の時間なんです」 「代理人を指定してください」 「今、上に一人でいる」 「管理員が確認…
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第81話 第三章「通訳者の値段」前編
『第81話 第三章「通訳者の値段」前編』 九月十五日 午前八時二十二分 善意を無料にすると、最初に値下がりするのは善意ではない。 働いた人間だ。 「一万九千六百円?」 乾物屋の主人が、共同掲示板の前で声を裏返した。 市場の朝は、値札を替える音から始まる。 木札を外す。 白墨を濡れ布で消す。 昨日より二円上げる。 隣の店が一円下げたのを見…
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第82話 第三章「通訳者の値段」後編
『第82話 第三章「通訳者の値段」後編』 巴は最後の頁まで読んだ。 六頁の中央へ、白手袋の指を置く。 《受任通訳者が作成した訳文は、本件における最終解釈とし、当事者はこれを争わない》 「意味の統一が必要だ」 槙司が言う。 「複数の訳を残せば、執行できない」 巴は紙を戻した。 《受けない》 「報酬か」 《最終》 「責任を与える」 《権力を…
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第83話 第四章「声で閉じる扉」前編
『第83話 第四章「声で閉じる扉」前編』 九月十六日 午前九時三分 扉は口を持たない。 だから、人間の言葉を借りて閉じる。 「確認しました」 階段の上で男が言った。 直後、鉄扉が落ちた。 迅は考える前に左足を差し込んだ。 靴の甲へ、百キロを超える鋼板の下端が噛みつく。 「っ」 痛みが脛まで走る。 扉は完全には閉じない。 三センチ。 向こ…
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第84話 第四章「声で閉じる扉」後編
『第84話 第四章「声で閉じる扉」後編』 「機械が噛んでる。十センチで止まる」 「蝶番」 迅は扉の側面へ回る。 壊せば保証が切れる。 壊さず、負荷だけ逃がす。 案内溝の下に、曲がった留め板がある。先ほどの降下でずれ、戸の重量が片側へ偏っている。 「工具」 タマキが箱を開ける。 「薄い梃子。短い」 「これ」 迅は左手で梃子を受け取る。 右…
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第85話 第五章「名札のない債務」前編
『第85話 第五章「名札のない債務」前編』 九月十七日 午前七時四十九分 王は国から名前を借りる。 子どもは、親から借金を借りる。 「三一番」 市場の管理員が呼んだ。 細い少年が、青果台の下から出てきた。 十二歳か、十三歳。 髪を自分で切ったらしく、右の耳だけ半分隠れている。大きすぎる灰色の上着。胸には真鍮の名札。 《青果 三一》 氏名…
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第86話 第五章「名札のない債務」後編
『第86話 第五章「名札のない債務」後編』 聞いた、と書くと簡単だ。 一人目は、呼ばれたい名が三つあった。店では《針ばあ》。診療所では戸籍名。亡い夫の家族には旧姓。 「どれが本当です」 真琴が訊き、すぐ眼鏡を押し上げた。 「質問を訂正します。どの場面で、どれを使いますか」 「全部、本当だよ」 針ばあは笑った。 二人目は、名を文字にされた…
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第87話 第六章「条文迷路」前編
『第87話 第六章「条文迷路」前編』 九月十八日 午前六時五十八分 迷路には、出口がある。 契約には、出口があると書いてあるだけのことがある。 タマキは市場の階層図を床へ広げた。 一枚では足りない。 一階の店舗図。 二階の工房図。 三階から五階の住居図。 東棟の診療所。 西棟の倉庫。 中央階段。 北非常階段。 南搬入路。 七枚を端で重ね…
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第88話 第六章「条文迷路」後編
『第88話 第六章「条文迷路」後編』 《誰》 市場中を見渡す。 契約外の人間は、ほとんどいない。 店主。 住民。 管理員。 黒板会。 空白の旗は招待状で関連者にされた。 三一が自分の名札をポケットから出す。 「俺、外したら契約者じゃない?」 真琴が即答する。 「契約者です。名札の装着状態と地位は別」 「昨日は札がないと人じゃなかった」…
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第89話 第七章「迅の署名」前編
『第89話 第七章「迅の署名」前編』 九月十九日 午前五時四十一分 一人で背負うと言う男は、たいてい荷物の持ち主を見ていない。 竜胆迅は、十二枚目の債務一覧へ自分の名前を書いた。 左手で。 《竜胆迅》 字はまだ少し傾く。 右手なら、もっと速かった。 速い字はもう書けない。 遅くなったぶん、何へ署名しているか考える時間は増えた。 考えた結…
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第90話 第七章「迅の署名」後編
『第90話 第七章「迅の署名」後編』 「迅。あなたが一人で背負いたくなるのは、自分が強いからじゃありません」 「弱い?」 「他人が途中で変わるのを待つのが怖いからです」 迅は返事をしない。 「一人なら、裏切るのも失敗するのも自分だけです。三十二人いれば、明日、違うと言う人が出る」 「出た」 「嫌でした?」 「面倒だった」 「面倒は、嫌い…
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第91話 第八章「真琴の反論」前編
『第91話 第八章「真琴の反論」前編』 九月二十日 午前八時三十一分 正しい文章は、人を正しい場所へ連れていくとは限らない。 地図が正確でも、崖は崖である。 「形式上の矛盾はありません」 朽葉真琴が言うと、市場の人々から一斉に不満の息が漏れた。 黒板会の資料室。 長机の片側に榊槙司。 反対側に真琴と一文字巴。 壁際へ迅、凱、七瀬、轟、タ…
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第92話 第八章「真琴の反論」後編
『第92話 第八章「真琴の反論」後編』 槙司が紙片を見た。いつも即座に定義を返す男が、数秒遅れた。 「当時の書庫整理で、終了案件を付属資料へ移した」 「あなたが?」 真琴の問いに、槙司は頷く。 「十三歳だった。黒板会の見習いとして、分類番号を書いた」 赤い《終了》は、今の槙司の筆跡より丸い。だが、括弧の閉じ方は同じだった。 「あなたが否…
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第93話 第九章「当事者の言葉」前編
『第93話 第九章「当事者の言葉」前編』 九月二十一日 午前九時十二分 カメラは、嘘をつかない。 人が嘘をつく場所を、四角く切り取るだけだ。 「私は、店舗利用、共同警備、破損保証の継続を希望します。住居及び診療については――」 「待ってください」 火群七瀬は手回し機の取っ手から手を離した。 市場の共同食堂。 壁際に白布。 中央に撮影卓。…
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第94話 第九章「当事者の言葉」後編
『第94話 第九章「当事者の言葉」後編』 午後四時四十七分。 波佐間の紙が掲示されると、契約継続派が管理台へ集まった。 「全部なくすんじゃないのか」 「警備だけ残せる?」 「保証料は上がるのか」 「住居を外したら、店が潰れた時に誰が払う」 榊槙司も来た。 紙を読む。 「住居担保を外せば、共同保証の原資が減る」 波佐間が答える。 「店の保…
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第95話 第十章「契約を言い換える」前編
『第95話 第十章「契約を言い換える」前編』 九月二十二日 午前七時零分 大勢の意見を一つにする最も簡単な方法は、意見を聞かないことである。 一文字巴は、市場の中央へ大きな机を置かなかった。 代わりに、小さな卓を十三。 縫い直し屋の前。 硝子屋の前。 共同診療所の待合。 住居階の踊り場。 青果台の横。 刃物研ぎの仕事椅子。 管理台の正面…
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第96話 第十章「契約を言い換える」後編
『第96話 第十章「契約を言い換える」後編』 轟は遠い。 迅が走る。 左足はまだ、扉へ挟んだ傷が残る。 間に合わない。 巴は掲示を、手話を使う老女へ伝える。 老女の娘が扉の内側にいる。 正確に訳せば、《許可された》を入れる。 老女は許可されていない。 娘を動かせない。 巴の頭に、十歳の避難命令が戻る。 一時退避。 立ち退き。 一語を変え…
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第97話 第十一章「解除」前編
『第97話 第十一章「解除」前編』 九月二十三日 午前零時十分 解く、という字には糸が入っていない。 実際の結び目は、一本ずつほどくしかない。 「零時十二分、共同清掃の分離を開始します」 獅堂凱は、低い卓の前で読み上げた。 市場の中央時計。 長針が十二分を指す。 清掃卓の担当者が、三枚の書面へ署名する。 一枚目。 現行複合契約から清掃条…
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第98話 第十一章「解除」後編
『第98話 第十一章「解除」後編』 扉が開いた。 力ではない。 一人が継続を選び、責任者が反対を書いたまま署名した。 最初の登録が終わる。 次に秋枝。 「店は終える。家と診療は残す。警備は住居廊下だけ。解約手数料は争う」 扉が開く。 三一。 「店は終える。部屋を残す。名札は俺の。母ちゃんの借金は、内訳を見るまで払わない。診療はまだ決めな…
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第99話 第十二章「平文の余白」前編
『第99話 第十二章「平文の余白」前編』 九月二十三日 午前九時二分 分かりやすくしたからといって、安くなるとは限らない。 「四枚も払うの?」 乾物屋の主人が、新しい請求札を卓へ並べた。 店舗場所代。 共同警備費。 清掃費。 診療共同負担。 「前は一枚だった」 管理員が答える。 「前も中に四つ入っていました」 「見えなかった」 「今は見…
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第100話 第十二章「平文の余白」後編
『第100話 第十二章「平文の余白」後編』 正午。 通訳料の支払い箱を開けた。 市場共同基金。 八旗調査費。 空白の旗の作業換算。 当事者任意。 金額は、見積もりより多い。 追加作業が増えたため、請求も増えている。 「増えた分、払えない」 乾物屋。 《分割》 「何回」 《三回》 「利息」 《なし》 「通訳さんが損する」 《払わない人より…
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第101話 第一章「切符の裏」前編
『第101話 第一章「切符の裏」前編』 十月十七日 午前七時八分 切符は行き先を印刷する。 裏側には、印刷しなかった行き先が残る。 環玉樹は、朝食の皿より先に使用済み切符を並べた。 十一枚。 すべて南環駅発、環状線内回り。薄い灰色の厚紙に、黒い活字で同じ区間名が入っている。日付は九月二十一日から十月十六日まで。角の丸まり方、汗染み、改札…
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第102話 第一章「切符の裏」後編
『第102話 第一章「切符の裏」後編』 午前九時二十六分 南環駅の大時計は、三分進んでいた。 タマキは入口で気づいた。 市場の標準鐘が九時二十三分を鳴らした直後、駅時計は九時二十六分を示している。 「時計、違う」 「駅は発車基準を三分進めています」 真琴が掲示を読む。 《遅刻防止のため、旅客時計は標準時より三分進行》 「時刻表は」 「標…
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第103話 第二章「発車前の失踪」前編
『第103話 第二章「発車前の失踪」前編』 十月十七日 午前九時三十一分 人がいないことは、映像に残しやすい。 なぜいないかは、いつも画角の外にいる。 火群七瀬は、南環駅の第三待合室を十秒だけ撮った。 長椅子が六本。 湯飲みの跡が四つ。 窓際に毛糸の切れ端。 床へ落ちた青菜の葉。 人はいない。 「撮影時刻、九時三十一分二十秒。第三待合室…
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第104話 第二章「発車前の失踪」後編
『第104話 第二章「発車前の失踪」後編』 一般入口は、予定どおり閉まった。 予定どおり閉まる扉は、遅れた人間にとって最も残酷な壁になる。 七瀬は閉鎖時刻を撮る。 生配信の接続画面には、視聴待機が二百八十三。 駅で揉めていると聞きつけた者が増えている。 開始すれば、折部側の警備位置、空白の旗の人数、追跡手段、証言者の車両が推測される。…
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第105話 第三章「連結器」前編
『第105話 第三章「連結器」前編』 十月十七日 午前十時二十一分 大きな物を動かす時、力が足りないより怖いのは、力を入れる場所が一つしかないことだ。 伏見轟は、保守動力車の床を二回叩いた。 ごん。 ごん。 返ってきた音が、一度目と二度目で違う。 「後ろ、浮いてる」 運転台の男が振り返った。 「何が」 「右後輪。荷重が薄い」 「保守車は…
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第106話 第三章「連結器」後編
『第106話 第三章「連結器」後編』 十二号車の後部扉まで、水平距離は一メートル二十センチ。 間には線路が流れている。 床板を渡す。 保守車の作業板は幅四十センチ、長さ一メートル。足りない二十センチを、浦部が工具棚の蓋で延長する。 「壊していいの」 タマキ。 「俺の棚だ」 「保守局の」 「今だけ俺の判断」 「返す時」 「直して返す」 轟…
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第107話 第四章「屋根上の風」前編
『第107話 第四章「屋根上の風」前編』 十月十七日 午前十時五十九分 向かい風は、前から来るとは限らない。 速すぎる時は、自分が風の出発点になる。 十二号車の床で、竜胆迅は左前腕へ冷却布を巻かれていた。 「打撲。骨の変形なし。指、動かして」 七瀬が言う。 「医者じゃない」 「応急手当講習三回」 「撮る人」 「撮影機は固定中です」 壁際…
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第108話 第四章「屋根上の風」後編
『第108話 第四章「屋根上の風」後編』 「迅、右」 「動く」 「質問、動くじゃない。落とした?」 「何を」 「感覚」 迅は右小指へ左手で触れる。 触れられた感覚はある。 冷たいかは分からない。 「半分」 「何の半分」 「触ってる」 「冷たい?」 「知らない」 「七瀬!」 「呼ぶな」 「呼ぶ」 七瀬が天窓まで来る。 左肩を上げられず、梯…
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第109話 第五章「停車しない駅」前編
『第109話 第五章「停車しない駅」前編』 十月十七日 午前十一時四十三分 駅は、列車が停まる場所ではない。 停まらなかった列車へ、誰の判断だったかを残す場所でもある。 「王環駅〈クラウン・ゼロ〉、進入まで二分四十秒」 十二号車の車内放送が告げた。 竜胆迅は床へ座ったまま、右手の指を一本ずつ開いた。 小指。 薬指。 中指。 人差し指。…
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第110話 第五章「停車しない駅」後編
『第110話 第五章「停車しない駅」後編』 王環駅の信号塔と、十二号車の通話回線が繋がった。 『王環駅信号扱い所』 若い男の声。 「獅堂凱。臨時通過指示の署名者と理由を確認したい」 『運行上の照会ですか』 「乗客側からの公開照会」 『権限は』 「八旗協議の傍聴・発言資格。鉄道への命令権はない」 『命令ではない』 「そうだ」 相手が少し息…
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第111話 第六章「乗客名簿」前編
『第111話 第六章「乗客名簿」前編』 十月十七日 午後零時三十分 説明は、長いほど親切になるわけではない。 出口までの地図が細かすぎると、人は現在地から動けなくなる。 一文字巴は、九両目の床へ黒板を七枚並べた。 一枚目。 《移送契約で既に同意したこと》 二枚目。 《今朝、変更されたこと》 三枚目。 《列車を継続した場合》 四枚目。 《…
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第112話 第六章「乗客名簿」後編
『第112話 第六章「乗客名簿」後編』 七瀬。 手回し字幕機へ一文を入れ、各車両の表示板へ送る。自動ではない。車両間の有線回線へ、係員が一枚ずつ差し込む方式。 「回答は記号だけにしません」 真琴が言う。 「《必要》の理由が法的条件になります」 巴は首を振る。 《最初は記号》 「理由がなければ、単なる希望として扱われます」 《希望で足りる…
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第113話 第七章「タマキの路線図」前編
『第113話 第七章「タマキの路線図」前編』 十月十七日 午後一時三十分 地図は、道を知っている人が描くものではない。 知らない場所を、知らないまま残せる人が描くものだ。 「二、二、三」 環玉樹は九両目の床へ左耳をつけた。 車輪の音が、頬骨から頭へ入る。 かたん。 かたん。 かた、かたん。 次は普通。 かたん。 かたん。 また、二、二…
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第114話 第七章「タマキの路線図」後編
『第114話 第七章「タマキの路線図」後編』 「それ、分かったのと違う?」 「違う」 「難しい」 「巴に訊く」 巴は車端で回答票を整理している。 タマキの会話は聞こえない。 三一は地域手話を少し知っている。大きく《分からない》を作り、次に床を指した。 巴は意味を推測せず、黒板へ書く。 《何が分からない》 「線路」 巴は頷く。 《分からな…
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第115話 第八章「切り離された車両」前編
『第115話 第八章「切り離された車両」前編』 十月十七日 午後二時二十一分 規則は、危険なことを禁止する。 事故が起きた後は、禁止した規則より、許可した人間の名前を探す。 「切離しを操作する者がいません」 朽葉真琴は、十九番側線の案より先に、その事実を言った。 「乗務員はいる」 タマキ。 「操作できる者と、操作する者は別です」 「同じ…
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第116話 第八章「切り離された車両」後編
『第116話 第八章「切り離された車両」後編』 タマキが横から言う。 「十九番、三両。図はある。早瀬が現物」 『環玉樹』 「知ってる?」 『朝から線路回線で君の名前が多い』 「料金」 『あとで請求しろ』 「約束?」 『運行部へ請求書を出せ。払うとは言っていない』 「真琴みたい」 「聞こえています」 真琴。 『乗客名簿は誰が作る』 「一文…
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第117話 第九章「折部の最短距離」前編
『第117話 第九章「折部の最短距離」前編』 十月十七日 午後三時十四分 最短距離は、地図の上では一本だ。 人間の中では、通らなかった道が何本も並んでいる。 「先頭へ行く」 獅堂凱が言うと、竜胆迅は左掌の包帯を見た。 「殴る?」 「話す」 「膝で?」 「口でだ」 「凱の口、たまに武器」 タマキ。 「承知している」 「承知してる武器が一番…
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第118話 第九章「折部の最短距離」後編
『第118話 第九章「折部の最短距離」後編』 「点検を使って作戦を進める? 親切は監視に似るね」 「点検しろ」 「拒否」 古橋はそれ以上命令しない。 拒否を記録する。 《午後三時三十一分四十八秒 義足軸異音。本人、即時点検拒否》 翼はそれを見て、何も言わない。 書かれることを止めない。 ただ、歩く。 右へ多く体重を乗せて。 第一加速が入…
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第119話 第十章「終点の手前」前編
『第119話 第十章「終点の手前」前編』 十月十七日 午後四時 勝つための道は、たいてい一人分だけ狭い。 帰るための道は、誰かとすれ違える幅がいる。 竜胆迅が十号車の屋根へ出た時、列車は西日を正面から割っていた。 光が低い。 架線柱の影が、一秒より短く屋根を横切る。影が来る。迅の身体が暗くなる。次の瞬間には消える。 左手の包帯は、午前よ…
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第120話 第十章「終点の手前」後編
『第120話 第十章「終点の手前」後編』 午後四時十五分 最初に通路を渡ったのは、降りたい人ではなかった。 三一だった。 十号車から九号車へ、前へ進む。 正式聴取所まで継続するためだ。 迅は扉脇へ座ったまま、彼へ道を空ける。 「助けてくれたのに、前へ行く」 三一が言う。 「助けた先は決めてない」 「格好いいこと言った?」 「痛くて考えて…
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第121話 第十一章「ブレーキを渡す」前編
『第121話 第十一章「ブレーキを渡す」前編』 十月十七日 午後四時三十七分 時間は、誰のものでもないふりをして、遅れた者だけを責める。 だからタマキは、時刻を書く時だけ、紙を殴るように鉛筆を置いた。 十号車の床へ並べた使用済み切符は、三十七枚。 南環市場の黄色い近距離券。 北工区の煤けた作業券。 廃止された浴場線の青い半券。 角が丸い…
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第122話 第十一章「ブレーキを渡す」後編
『第122話 第十一章「ブレーキを渡す」後編』 翼の義足が床を滑る。 早瀬の応急板が外れた。 翼は手摺へ手を伸ばす。 届かない。 彼女の身体が横へ倒れる。 タマキの散った切符が、一枚、翼の掌へ向かって滑った。 宛先はない。 能力は働かない。 「触る!」 巴が黒板を投げるように見せる。 触れてよいか。 翼は一瞬、目を見開く。 「頼む!」…
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第123話 第十二章「使用済み切符」前編
『第123話 第十二章「使用済み切符」前編』 十月十八日 午前九時十二分 止まった列車には、二種類の人が集まる。 なぜ止めた、と訊く人。 なぜもっと早く止めなかった、と訊く人。 その間で事情を説明する者は、たいてい両方から遅いと言われる。 一文字巴は、その仕事へ料金を請求することにしていた。 十九番保守側線の資材詰所は、窓が四つあるのに…
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第124話 第十二章「使用済み切符」後編
『第124話 第十二章「使用済み切符」後編』 「見れば分かる」 《何のため》 「忘れないため」 《何を》 タマキは胡麻団子を噛む。 口が塞がっている。 巴は待つ。 急がせない。 タマキが飲み込む。 「どこへ行ったかじゃなくて、いつ選んだか」 《なぜ名前を書かない》 「名前を書くと、その人の答えがずっと同じに見える」 《変わる》 「変わる…
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第125話 第一章「王に台本」前編
『第125話 第一章「王に台本」前編』 十一月十九日 午前六時四十一分 王冠は、頭に載せる前から重い。 紙に印刷されると、なおさらだった。 獅堂凱は、元配達所の会議室で椅子を直していた。 十二脚。 背もたれの角度はばらばらで、四脚は脚の長さも違う。誰かが廃材から作り、誰かが壊し、伏見轟が直し、また誰かが壊した。空白の旗〈ブランク〉の会議…
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第126話 第一章「王に台本」後編
『第126話 第一章「王に台本」後編』 言葉の意味ではない。 声が人を止めた感触だった。 白冠時代に、何千度も知っていた感触。 久しぶりに戻ってきたそれは、懐かしいというより、口の中へ昔の傷を入れられたようだった。 「続き」 カナタが促す。 「読まない」 「音は取れた」 「何が分かった」 「低音が二秒残る。客席後方まで生声で届く。命令文…
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第127話 第二章「舞台裏の嘘」前編
『第127話 第二章「舞台裏の嘘」前編』 十一月二十日 午前九時三分 安全な嘘は、本当の怪我より手間がかかる。 紅葉カナタは、その手間で食べていた。 「刃は腹へ入れない」 舞台中央で言う。 朱と群青の面は、まだ着けていない。稽古場では、顔を見せて説明する。相手がどこを見ているか分からなければ、怪我をするからだ。 「腹へ入ったように見せる…
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第128話 第二章「舞台裏の嘘」後編
『第128話 第二章「舞台裏の嘘」後編』 悪い座長なら、嫌えば済む。 良い瞬間が多い人間は、降りる足へ手をかける。 「カナ」 乱馬の私語は短い。 「何」 「二幕の拍手、足りない」 「まだ本番前」 「稽古の想定値だ。凱が王を演じ切れば伸びる。だが獣が反抗を魅力に変える。おまえが流れを取れ」 「どこへ」 「最大へ」 「何の最大」 「拍手だ」…
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第129話 第三章「稽古場の喧嘩」前編
『第129話 第三章「稽古場の喧嘩」前編』 十一月二十一日 午前十時十一分 殴るふりには、殴らない技術が要る。 殴らないふりには、もっと要った。 竜胆迅は、舞台に貼られた七つの白丸を見下ろした。 「消せ」 「位置が分からなくなる」 紅葉カナタは、八つ目の印を貼っている。 白丸は、回転舞台の中央から外周へ螺旋状に並んでいた。一つ目は玉座の…
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第130話 第三章「稽古場の喧嘩」後編
『第130話 第三章「稽古場の喧嘩」後編』 怒っている。 彼女の左肩は、午前からの撮影で硬くなっている。撮影機は三脚。手は空いている。それでも乱馬の前で、工具ベルトへ触れない。 記録の喧嘩を、棒の喧嘩へしないためだ。 「無編集〈ワン・テイク〉は、始めてから終えるまで故意に切らず、盛らず、嘘を言わないための記録です。別の映像へ挟めば、その…
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第131話 第四章「観客席の誓い」前編
『第131話 第四章「観客席の誓い」前編』 十一月二十二日 午前八時二十六分 読める文章は、理解できる文章ではない。 理解できる文章は、断れる文章とも限らない。 朽葉真琴は、赤い入場券を六列に並べた。 一般席。 家族席。 招待席。 立見席。 商店組合席。 配給交換席。 表の絵柄は違う。 裏の十九行は同じだった。 南環市場の共同食堂は、朝…
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第132話 第四章「観客席の誓い」後編
『第132話 第四章「観客席の誓い」後編』 「役に立たない?」 《役に立つ。全部にはならない》 タマキはうなずいた。 「大人の能力みたい」 「巴は十七歳です」 真琴。 「説明が大人」 「褒めているのか」 「半分」 「残りは」 「長い」 巴が笑った。 声は出さない。 手袋の親指に描いた読点をなぞる。 十一月二十四日 午前九時二分 開演まで…
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第133話 第五章「一幕目」前編
『第133話 第五章「一幕目」前編』 十一月二十七日 午後五時四十七分 客席が暗くなると、人は同じ方向を見る。 同じものを考えているように見えるのは、そのせいだ。 火群七瀬は、八旗祝祭劇場の最後列中央へ三脚を立てた。 高さ、九十二センチ。 舞台正面まで、三十七・四メートル。 画角の左端に一番通路。 右端に八番通路。 上端に照明橋。 下端…
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第134話 第五章「一幕目」後編
『第134話 第五章「一幕目」後編』 橋は回転床から斜めにせり上がり、下へ黒い布の水が流れる。照明だけで深さが生まれる。 台本では、獣が自分の命を守るため退き、王が民を背に進む。 迅は橋の上で凱を見た。 「退いた者よ」 凱が言う。 「おまえは、何を守った」 予定された問い。 獣の答えは、《恐れだけだ》。 迅は客席の奥を見た。 七瀬のレン…
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第135話 第六章「拍手の強制」前編
『第135話 第六章「拍手の強制」前編』 十一月二十七日 午後七時四十二分 命令は、従われた瞬間より、従わせられると分かった瞬間の方が甘い。 第二幕は、裁判の形をしていた。 円形舞台の中央に凱。 右側に迅。狼面を外され、両手首を銀の鎖で繋がれている。鎖は舞台用で、強く引けば途中の磁石が外れる。ただし客席からは鉄に見える。 左側にカナタ。…
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第136話 第六章「拍手の強制」後編
『第136話 第六章「拍手の強制」後編』 「何が」 「おまえは安全を守っているんじゃない。止めなかった過去を守っている」 カナタの目が鋭くなる。 「あなたは?」 「何だ」 「王の命令で助かった人を守ってるのか、王だった自分を守ってるのか」 回転床が停止した。 二人の間の隙間が袖への橋と揃う。 進める。 どちらも、すぐには動かなかった。…
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第137話 第七章「七瀬のカット」前編
『第137話 第七章「七瀬のカット」前編』 十一月二十七日 午後八時一分 カメラを止めれば、映らなかったことは残せる。 映らなかった理由は、残せない。 七瀬の右手は、二時間近く同じ速度でクランクを回していた。 肩ではなく、手首が熱い。 腰高三脚の脚は床へ固定してある。撮影機の正面には、王冠を置いたまま回り続ける舞台。凱はすでに画面から消…
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第138話 第七章「七瀬のカット」後編
『第138話 第七章「七瀬のカット」後編』 同僚なら分かる。 「では、撮影を止めます」 七瀬は小型記録器へ先に告げる。 「午後八時十五分二十秒。退出路試験参加者一名の希望により、歩行映像を中断。試験結果は本人確認後、匿名の文字記録のみ」 「試験は続けていい?」 係が訊く。 「あなたが決めてください」 「続けます」 七瀬はレンズを壁へ伏せ…
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第139話 第八章「役を降りる」前編
『第139話 第八章「役を降りる」前編』 十一月二十七日 午後八時十五分 役を捨てるには、仮面を外すだけでは足りない。 仮面を外した顔が、次の役になるからだ。 カナタは舞台中央で、右の靴紐が緩んでいるのを感じていた。 見なくても分かる。 結び目の輪が、蹴るたび足の甲へ触れる。 一回。 二回。 三回。 ほどけてはいない。 左より半分だけ長…
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第140話 第八章「役を降りる」後編
『第140話 第八章「役を降りる」後編』 赤青の半面は衣装箱へ戻る。 空いた顔で続く舞台が、一つ増えた。 それも本番の仕事だった。 舞台上では、乱馬がカナタの不在を埋めていた。 民の剣の役を、合唱隊へ分けた。 「一人が降りても、民は残る!」 十人の役者が同じ台詞を言う。 そのうち一人が、言い終わらなかった。 「一人が降りても、民は――」…
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第141話 第九章「客席が立つ」前編
『第141話 第九章「客席が立つ」前編』 十一月二十七日 午後八時二十七分 列は、先頭より最後尾の方が難しい。 先頭は出口を見ている。 最後尾は、まだ出口へ行くと決めていない。 環玉樹は、刷り上がった退出札を鉄箱へ詰めた。 白い紙。掌の半分ほど。表に三つの欄だけがある。 《退出》 《沈黙》 《保留》 名前を書く欄はない。 理由もない。…
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第142話 第九章「客席が立つ」後編
『第142話 第九章「客席が立つ」後編』 「今のは?」 タマキが坂上から訊く。 「自分に」 「政治へ入れない」 「勝手に入れたら怒る」 「記録した」 青年は屋台通りへ出ていった。 係員が、自分の掌を見ている。 「助けるの、遅れませんでしたか」 「本人が言った」 「言えない時もある」 「その時は危険を言って触る」 「今みたいに」 「今、で…
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第143話 第十章「無観客の殺陣」前編
『第143話 第十章「無観客の殺陣」前編』 十一月二十七日 午後八時五十九分 客席が半分空くと、舞台は小さくならない。 空席の分だけ、嘘の端が見える。 竜胆迅は、第三列と第四列の間から舞台を見た。 赤い椅子が折り畳まれ、白い退出線が三本走っている。人の残る列と、空いた列が縞になる。北西搬入口へ向かう列は、今も動いている。 退出四百九十八…
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第144話 第十章「無観客の殺陣」後編
『第144話 第十章「無観客の殺陣」後編』 照明橋が下降を始める。 最終決闘用の光を、舞台の二メートル上まで下ろす装置。 だが照明係の半数は退出路へ回り、左側の巻上げが二拍遅れた。 橋が傾く。 「停止!」 舞台裏から凱の声。 王の声ではない。 安全確認の合図。 右側の巻上げだけが止まる。 左は動く。 傾きが増す。 客席から悲鳴。 乱馬が…
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第145話 第十一章「幕を下ろす手」前編
『第145話 第十一章「幕を下ろす手」前編』 十一月二十七日 午後九時十二分 幕は、物語を隠すために下りるのではない。 物語より先に、人間へ暗闇を返すために下りる。 紅葉カナタは、白梁へ最後の支柱が入るのを見届けた。 舞台技師が荷重計を読む。 「仮支持、安定。照明橋の電源遮断。再上昇は禁止。舞台中央、立入人数六名まで」 舞台監督が場内放…
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第146話 第十一章「幕を下ろす手」後編
『第146話 第十一章「幕を下ろす手」後編』 午後九時二十二分 非常灯が点いた。 主幕のこちら側は、客席から見えない。 舞台裏の人間だけがいる。 女優がレバーから手を離す。 衣装係がカナタの切れた口へ布を当てる。 技師が停止位置を確認する。 凱は乱馬の左肩を見る。 「医務室へ」 「命令か」 乱馬。 「提案。左腕が上がっていない」 「終幕…
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第147話 第十二章「初演のあと」前編
『第147話 第十二章「初演のあと」前編』 十一月二十八日 午前九時十分 失敗した公演の翌朝、劇場でいちばん長い列は拍手ではなく返金を待つ。 獅堂凱は、紅牙座の正面玄関で番号札を配っていた。 「全額返せ!」 四十三番の男が言う。 「全額返金の申請札です」 凱は赤い札を渡す。 「申請じゃない。返せ」 「劇場会計が券面を確認する」 「見たの…
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第148話 第十二章「初演のあと」後編
『第148話 第十二章「初演のあと」後編』 「報告を」 「札は持っていかない」 「複製を」 「誰の許可」 「集計は公表情報だろう」 七瀬が答える。 「人数と時刻は公表。個別発言と券番号は本人または保管担当の許可が必要」 「保管担当は」 「三者。タマキ、劇場会計、外部記録室。三つの箱を別々に置きます」 「不便だ」 「一つ奪われても全部にな…
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第149話 第一章「八枚の時計」前編
『第149話 第一章「八枚の時計」前編』 十二月二十四日 午前九時十二分 八つの時計を同時に撮るには、時計を揃えてはいけない。 火群七瀬は、中央時計塔の床へ腹這いになって、そう結論した。 長卓の上には、八地区から借りてきた時計が並んでいる。 南環の南環六番共同浴場から来た丸時計は、硝子の内側へ湯気の輪が残っていた。北環の北塔配給所の時計…
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第150話 第一章「八枚の時計」後編
『第150話 第一章「八枚の時計」後編』 榛名は遅れを止めなかった。 代わりに、すべての欄へ終了予定時刻を書かせた。 「厳しいのか、親切なのか分からない」 カナタが言う。 巴が黒板へ書く。 《厳しさは性格ではなく、負担の置き場所》 「それも使っていい?」 《不可》 「今日、名言が高い」 午後三時十二分。 赤錆夜勤食堂の二十四時間時計を運…
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第151話 第二章「南区の朝」前編
『第151話 第二章「南区の朝」前編』 十二月二十五日、午前六時十四分。 南環六番共同浴場には、湯より先に椅子が来た。 竜胆迅は、折り畳み椅子を二脚ずつ持って、脱衣所と集会室を往復した。 右手でも持てる。 ただし、朝の冷えで小指と薬指が鈍い。指を掛けるより、椅子の座面を左前腕へ乗せ、右掌は倒れないよう添えるだけにする。 「一度に四脚いけ…
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第152話 第二章「南区の朝」後編
『第152話 第二章「南区の朝」後編』 七瀬なら、灯りが点く前の暗い十三秒も撮る。 タマキなら、誰から誰へ何のための信号か訊く。 迅は、黒板へ書いた。 《南環会場、同期信号受信。会場時計十時零分。中央送信時刻は未確認。説明未了のため開始しない》 「未了って」 浅海。 「まだ終わってない」 「それを書けばいい」 迅は消した。 《説明が終わ…
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第153話 第三章「北塔の遅刻」前編
『第153話 第三章「北塔の遅刻」前編』 十二月二十六日、午前七時四十一分。 獅堂凱が北塔へ着いた時、三十四人が彼を待っていた。 雪は、待っていなかった。 旧白冠区の北塔配給所は、医療団地の一番高い棟へ増築されている。地上八階。外階段。屋上に配給鐘と光信号板。黒雨後の停電でも上から地区を見渡せるよう作られた。 便利な場所は、たいてい上る…
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第154話 第三章「北塔の遅刻」後編
『第154話 第三章「北塔の遅刻」後編』 少年は唇を尖らせた。 「じゃあ、何ならいい」 「並ぶ人へ番号札を渡す。薬袋へは触れない。番号と、待ち始めた時刻を言ってもらう」 「時刻、ずれてる」 「どの時計を見たかも書け」 「面倒」 「薬を間違えるより軽い」 少年は、木札の束を持って列の後ろへ行った。 白冠時代なら、凱が一声で配薬補助を十人出…
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第155話 第四章「西市場の偽票」前編
『第155話 第四章「西市場の偽票」前編』 十二月二十七日 午前十時十七分 偽票は、本物より几帳面に並んでいた。 西環・魚棚市場会議所の長卓。 朽葉真琴は、同じ番号を持つ三枚の票を、白い手袋の上へ置いた。 番号は《西―四一七》。紙の色、厚さ、透かし、端の切り欠き。どれも同じだ。印刷のずれまで一致している。 違うのは、折り目だった。 一枚…
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第156話 第四章「西市場の偽票」後編
『第156話 第四章「西市場の偽票」後編』 十二月二十八日 午前六時三十六分 市場の夜明けは、魚より先に氷が届く。 中尾、タマキ、七瀬、地区証者二人は、回収路へ出た。 全経路を一人で回らない。 中尾が受渡場所を示す。 タマキが移動路を確認する。 七瀬は入口と出口だけを撮る。 地区証者は、回収した番号と時刻を書く。 真琴は会議所へ残った。…
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第157話 第五章「東門の封鎖」前編
『第157話 第五章「東門の封鎖」前編』 十二月二十八日 午前八時五十二分 安全な箱は、誰にも持てなかった。 東環門点検所の雪上に、轟が作った鉄箱は沈んでいた。 縦六十センチ。横四十センチ。厚さ三ミリの鋼板。四隅を山形鋼で補強し、蓋には二重の蝶番と、封印札が切れれば開いたことが一目で分かる透明窓。底には水抜き穴。横転しても票が濡れない内…
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第158話 第五章「東門の封鎖」後編
『第158話 第五章「東門の封鎖」後編』 午後四時。 東門設備課は、門の内側へ住民三人を入れることを認めた。 認めた、という言い方に、旧青灯の男は不満を見せた。 「俺たちの門だ」 「なら、自分で責任を持て」 沼田が返した。 「持つ」 「事故が起きた時だけ行政のせいにするな」 「そっちも、事故が起きる前だけ住民を邪魔扱いするな」 話はまと…
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第159話 第六章「中央の空席」前編
『第159話 第六章「中央の空席」前編』 十二月二十九日 午前九時三分 空席は、座る人がいないから空いているとは限らない。 一文字巴は、王環駅中央時計塔の円卓を見て、白い手袋の親指で句点をなぞった。 八つの椅子には、八旗側の代表が座っている。 九つ目だけが空いていた。 背もたれへ白布。 机上へ名札。 《空白住民代表》 いつ、誰が、そう決…
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第160話 第六章「中央の空席」後編
『第160話 第六章「中央の空席」後編』 中央時計が鳴る。 巴には音が届かない。 床と卓が、低く一度震えた。 「採決時刻です」 榛名。 八代表の手が上がらない。 下がりもしない。 赤錆代表が、破られた名札の一片を持つ。 「この紙で、どう投票する」 巴は答えた。 《今は、しない。》 「配給は」 榛名が問う。 白冠代表が配給表を引き寄せる。…
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第161話 第七章「切符で結ぶ道」前編
『第161話 第七章「切符で結ぶ道」前編』 十二月二十九日 午後七時十一分 道は、地図より先に切符へ穴を開ける。 環玉樹は、零番街の旧客車教室へ百三十七枚の使用済み切符を並べた。 長椅子を二列外し、床へ白い布を敷く。 切符は、色ではなく切り欠きの形で分けた。 右上が半円。 左下に四角。 中央へ針穴が二つ。 端から一センチの位置へ、斜めの…
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第162話 第七章「切符で結ぶ道」後編
『第162話 第七章「切符で結ぶ道」後編』 鉄箱の内蓋から、小さな黄色い札が落ちた。 山吹色の糸。 《食事札。四時間ごと。運ぶ前に食べる。受取人・環玉樹。目的・倒れない。送り主・土門小麦。》 裏に時刻欄がある。 昨夜八時、空白。 午前零時、空白。 午前四時、空白。 青年が訊く。 「受取人は」 「僕」 「目的」 「倒れない」 「受けた?」…
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第163話 第八章「平文放送」前編
『第163話 第八章「平文放送」前編』 十二月三十日 午後零時五十八分 放送には、幕がない。 紅葉カナタは、それが嫌いだった。 舞台なら、始まる前に暗くできる。 失敗しても、幕を下ろせる。 役者が倒れたら、客へ見せない場所へ運べる。 放送は、線がつながった瞬間から見られている。 紅牙座の旧小道具倉庫。 天井には、偽の月、紙の城壁、王冠…
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第164話 第八章「平文放送」後編
『第164話 第八章「平文放送」後編』 十二人の侵入者。 八会場の視聴者。 治安隊。 請願者。 十五分の沈黙は、誰かが勝手に意味を入れる。 「俺が喋る」 巴が見た。 「修理説明」 《技師が書く。》 「場をつなぐ」 《何で。》 「何か」 《何もない時に、何かを作らない。》 「放送だぞ」 《だから。》 カナタは、偽月の下へ座った。 右足首を…
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第165話 第九章「八つの乱戦」前編
『第165話 第九章「八つの乱戦」前編』 十二月三十一日。 八つの場所で、一つずつ違う物が壊れかけた。 午後一時四十一分 西高架・時計保管室――火群七瀬 未編集は、正直さの別名ではない。 火群七瀬は、それを知っていた。 それでも、撮影機の側面へ白い札を差し込む。 《無編集〈ワン・テイク〉 開始》 誓痕が、手回し撮影機の歯車へ薄い白光を走…
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第166話 第九章「八つの乱戦」後編
『第166話 第九章「八つの乱戦」後編』 その一秒で、担架が通る。 投票卓の後ろでは、中尾弦が透明仕切りの中へいる。 顔を隠し、手だけを出す。 「俺が出れば、収まる」 中尾が言う。 「出れば、あなたが答えになるだけです」 「俺が運んだ」 「指示した者ではない」 「でも、何もしてない女が殴られた」 「あなたが殴られれば、帳尻が合いますか」…
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第167話 第十章「一分ずれた採決」前編
『第167話 第十章「一分ずれた採決」前編』 一月一日 午前五時五十分 新年最初の嘘は、たいてい希望の顔をしている。 今年こそ変わる。 今度こそ揃う。 今日からやり直せる。 獅堂凱は、中央時計塔の玄関で左膝の装具を締め直しながら、どれも嫌いではないと思った。 嫌いではないから、危険だった。 日付が変わっても、昨日の雪は階段に残る。 昨日…
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第168話 第十章「一分ずれた採決」後編
『第168話 第十章「一分ずれた採決」後編』 午前八時二分。 最初に倒れたのは、票ではなく長椅子だった。 公開傍聴の列が、秋枝の変更票を見ようと前へ寄る。 後ろから「汚染票だ」と叫ぶ声。 前から「初回票を捨てろ」と返す声。 誰かが透明板へ手を伸ばす。 別の誰かが、その手を掴む。 長椅子の脚が石床を滑る。 ぎ、と木が鳴る。 凱は音の方向へ…
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第169話 第十一章「同時ではない一致」前編
『第169話 第十一章「同時ではない一致」前編』 一月二日 午前八時十三分 火群七瀬は、年明け二日目の最初の撮影を失敗した。 八枚の画面へ、朝日が同時に反射した。 文字盤が読めない。 中央時計塔の東窓から差す光が、南環の丸時計、北環の白時計、西市場の鯛時計を白く潰す。七瀬は遮光布を引こうとして、左肩へ痛みが走った。 腕を上げない。 昨日…
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第170話 第十一章「同時ではない一致」後編
『第170話 第十一章「同時ではない一致」後編』 午後三時五十六分 八地区の記録は、一本の時系列へ揃えられなかった。 代わりに、八本の線として並んだ。 各線に、四つの印。 初回判断。 最初の他地区情報。 変更または撤回。 地区閉会。 時計差は補正して消さず、実測と理由を併記する。 受渡札でつながらない区間は、点線。 映像が切れた区間は…
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第171話 第十二章「期限のある議会」前編
『第171話 第十二章「期限のある議会」前編』 一月二日 午後六時十二分 成立した制度は、朝になると紙の束になる。 紙は腹を満たさない。 暖房管も直さない。 濡れた靴も乾かさない。 それでも、誰がそれをするかを決める紙なら、少しは役に立つ。 一文字巴は、王環駅の旧待合室で四十七枚目の用紙を書き直していた。 右手には薄い固定具。 人差し指…
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第172話 第十二章「期限のある議会」後編
『第172話 第十二章「期限のある議会」後編』 学塔区では、《分かりません》札を青、《質問があります》札を黄、《いまは答えません》札を白にした。色だけに頼らず、形にも切欠きを付ける。巴の案ではない。学塔の学生が、巴の丸印は全部同じに見えると文句を言って作り直した。 王環第二待合所では、聞かない別室の長椅子を一脚増やした。構内放送だけを聞…
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第173話 第一章「境界線の荷物検査」前編
『第173話 第一章「境界線の荷物検査」前編』 一月二十四日 午前八時十二分 「それは、誰の目ですか」 境界倉庫の検査官は、火群七瀬の撮影機を指して訊いた。 質問としては短い。 面倒としては長い。 七瀬は黒い短丈雨合羽の前を閉じ、卓上に置いた機体へ右手を添えた。手回し式の初号機は、古い真鍮の角が黒く擦れ、側面の青い旗芯〈コア・ピン〉が鈍…
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第174話 第一章「境界線の荷物検査」後編
『第174話 第一章「境界線の荷物検査」後編』 午前十一時二十七分 検問橋の向こうで、赤い線が空へ伸びた。 七瀬は最初、それを旗の索だと思った。 違う。 細い人影の胸から、二重の牽引索が後方の鉄柱へ張られている。灰色の片肩外套。背へ畳まれた金属の凧骨。黒髪を高く結び、顎へ白い石灰の一本線。 人影は、第三柵の支柱を蹴った。 雪を落とさず…
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第175話 第二章「敵側の案内人」前編
『第175話 第二章「敵側の案内人」前編』 一月二十四日 午後零時十九分 鷹取由良は、地面の上で話し合うのが嫌いだった。 嫌いというより、長く止まっていると足裏が落ち着かない。 剛嶺では、道が朝と夕方で同じ場所にあるとは限らない。車輪の都市は重い。重い物は、動いていないように見える時ほど、地面のどこかを押し潰している。幼い頃、由良は寝床…
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第176話 第二章「敵側の案内人」後編
『第176話 第二章「敵側の案内人」後編』 「秒は」 七瀬が訊いた。 真壁は壁時計を見る。 「三十八秒」 「正確」 「正確でなければ、同時にはできません」 由良は、三枚目の地図条項へ手を置いた。 「複写するな」 「地図の添付はありません」 「口頭で聞いても書くな」 「必要な通行許可番号だけを記録します」 「許可が出ない道もある」 「出な…
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第177話 第三章「武器を預ける」前編
『第177話 第三章「武器を預ける」前編』 一月二十五日 午前五時五十八分 右手が痛む朝は、目覚ましが要らない。 竜胆迅は、指の痺れで目を開けた。 検問待機棟の天井は低い。白い塗料に、昔の雨漏りが薄い輪を残している。寝台は十二。使っているのは七つ。空いている五つには、預託品の控え、毛布、湯の入っていない湯たんぽが置かれていた。 窓の外は…
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第178話 第三章「武器を預ける」後編
『第178話 第三章「武器を預ける」後編』 「入境条件を読み上げます」 「昨日聞いた」 迅。 「昨日は説明。本日は同意確認です」 「同じ言葉」 「時刻が違います」 「言葉は時刻で変わる?」 「命令は変わります」 「規則は」 「改訂されれば」 「人は」 真壁は迅を見た。 「変わるものとして扱うべきです」 少し意外な答えだった。 迅はそれ以…
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第179話 第四章「名前を三度聞かれる」前編
『第179話 第四章「名前を三度聞かれる」前編』 一月二十五日 午前十時六分 朽葉真琴は、名前を丁寧に扱う人間を信用していた。 正確に言えば、信用しようとしていた。 名前を雑に書く人間は、たいてい契約の他の部分も雑にする。姓名の間へ余計な空白を入れる。濁点を落とす。本人が使っていない敬称を勝手に付ける。訂正線を一本で済ませるべき場所へ黒…
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第180話 第四章「名前を三度聞かれる」後編
『第180話 第四章「名前を三度聞かれる」後編』 「はい」 「名前では存在しない」 「本人確認前です」 「移送は済んでいる」 「保護移送です」 「どこへ」 「C-9」 「C-9は場所ではなく処理区分です」 「共同境界内です」 「共同境界は、東西四キロ、南北一・八キロある。答えになっていません」 山科が唇を結ぶ。 杜野が言った。 「番号が…
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第181話 第五章「無手の喧嘩」前編
『第181話 第五章「無手の喧嘩」前編』 一月二十五日 午後二時三分 殴らない喧嘩は、殴る喧嘩より忙しい。 竜胆迅は、第二検問の白線を見ながらそう思った。 殴るなら、相手の中心を一つ決めればいい。 顎。 鳩尾。 肝臓。 膝。 倒す場所は、身体の中にある。 殴らないなら、見る場所が増える。 足元の線。 背後の柵。 相手の武器。 味方の位置…
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第182話 第五章「無手の喧嘩」後編
『第182話 第五章「無手の喧嘩」後編』 「正規路はある。遠い」 「どれくらい」 「検査庫まで一時間半」 「近道なら」 「二十分」 「通っていい?」 「さっき言った。轟が通れない。警備区域。許可なし」 「じゃあ遠い方」 「本当に嫌いになった?」 「近い方が好きだ」 「なのに」 「帰り口がない」 由良は立ち上がった。 「おまえは、道を人で…
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第183話 第六章「射線の中の水」前編
『第183話 第六章「射線の中の水」前編』 一月二十五日 午後四時十八分 水には、宛先がない。 環玉樹は、昔そう思っていた。 雨は屋根を選ばない。 川は名前を呼ばない。 喉が渇いた人間へ、誰の許可も取らずに入っていく。 だが、配達の仕事を始めてから考えが変わった。 水にも宛先はある。 人間が勝手に書く。 飲料用。 工業用。 兵舎用。 避…
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第184話 第六章「射線の中の水」後編
『第184話 第六章「射線の中の水」後編』 タマキは濡れた顔のまま、三つの蛇口を見た。 「止まってない」 轟が泥の中で言う。 「仮止め。圧を半分にしろ。夜まで。明朝、継手交換。銅貨は戻らん」 「経費になる?」 「なる」 「誰へ請求」 轟は巌門を見た。 「境界管理」 巌門が答えた。 「三枚」 「額面で」 「顔が変わった分も」 「何だそれは…
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第185話 第七章「凱の旧い敬礼」前編
『第185話 第七章「凱の旧い敬礼」前編』 一月二十六日 午前九時九分 敬礼は、武器より長く残る。 獅堂凱は、第三検問の兵が右拳を胸へ当てた瞬間、それを知った。 右拳は心臓の少し上。 左手は開き、身体の横。 視線は正面。 踵を一度だけ鳴らす。 最後に、顎を引く。 白冠の旗団〈クルー〉で使っていた敬礼だった。 凱が作った。 正確には、十六…
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第186話 第七章「凱の旧い敬礼」後編
『第186話 第七章「凱の旧い敬礼」後編』 「膝帯を締め直してくれ」 タマキが目を丸くする。 「今?」 「今だ」 「会議中」 「だから」 「私、医者じゃない」 「結び目が得意だろ」 「靴紐は管に使った」 「装具の帯だ」 「料金」 「払う」 「定価」 「見栄ではない」 「分かってる」 凱は椅子を少し下げた。 タマキが膝をつき、外套の裾を上…
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第187話 第八章「由良の地図」前編
『第187話 第八章「由良の地図」前編』 一月二十七日 午前六時三十四分 地図は、道を描く。 鷹取由良の地図は、道を描かない。 通ってはいけない場所。 音を立ててはいけない床。 雨の日だけ沈む石。 子どもが昼寝をする荷台。 犬が縄を切る時間。 水を汲む人が背を向ける方角。 誰かの家だった空地。 誰かの墓になった近道。 線を引くより、線を…
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第188話 第八章「由良の地図」後編
『第188話 第八章「由良の地図」後編』 次は由良。 彼女は一歩で越えられる。 越えない。 迅が踏んだ位置を同じ速度で踏む。 自分の方が速くても、借りた道では速さを見せない。 七瀬は小型機を胸へ抱え、左肩を上げないよう横向きで進む。凱は左膝を深く曲げられないため、轟が箒の柄の位置を少し外へずらす。真琴は眼鏡が曇り、タマキが前から指で足場…
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第189話 第九章「命令書」前編
『第189話 第九章「命令書」前編』 一月二十七日 午後二時十一分 命令書は、命令する人の顔を持たない。 火群七瀬は、第三検問記録室の撮影台へ二枚の紙を置いた。 一枚目。 《当境界区域に拘束者は存在しない。》 二枚目。 《身元未確認者を共同確認区画へ移送し、照合完了まで区域外移動を制限する。》 紙質は同じ。 灰青色の共同印も同じ。 角の…
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第190話 第九章「命令書」後編
『第190話 第九章「命令書」後編』 七瀬は撮影を止めた。 十九秒。 容量は減った。 命令書の上に、真壁の炭紙が重なる。 黒い写しは、まだ誰の引き金にもつながっていない。 だからこそ、時刻だけが先に残った。 午後五時八分 午前担当の伝令番号R-6は、第二待機所の裏で見つかった。 名前は粕谷誠。 十九歳。 境界伝令になって三か月。 右足の…
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第191話 第十章「隊長の一歩」前編
『第191話 第十章「隊長の一歩」前編』 一月二十八日 午前七時二分 銃口は、遠くから見ると穴に見える。 近くで見ると、誰かの手が付いている。 獅堂凱は、その違いを忘れないように歩いた。 第三検問から収容小屋まで、正規経路で千六百四十歩。 由良が数えた。 凱なら千四百八十歩。 迅なら千五百二十歩。 タマキは途中で数えるのをやめる。 轟は…
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第192話 第十章「隊長の一歩」後編
『第192話 第十章「隊長の一歩」後編』 午前八時二十九分 銃列が割れた。 命令へ従う者。 副隊長を見る者。 収容小屋を見る者。 巌門を見る者。 安全装置へ指を掛ける者。 指を外す者。 同じ敬礼をした二十四人が、違う手になった。 「射撃配置を継続!」 巌門が命じる。 「銃口は上。警告を準備。内柵接触が再開した場合、隊長判断で――」 小屋…
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第193話 第十一章「開く柵」前編
『第193話 第十一章「開く柵」前編』 一月二十八日 午前八時四十六分 柵は、開く時にも人を止める。 鷹取由良は、内柵の錠が外れるのを見ていた。 一つ目。 上部横錠。 二つ目。 中央回転錠。 三つ目。 下部固定爪。 四つ目。 非常時だけ使う二重鎖。 五つ目。 警備記録用の封印線。 五つ全部が外れても、扉は動かなかった。 「錆びてる」 警…
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第194話 第十一章「開く柵」後編
『第194話 第十一章「開く柵」後編』 午前十一時二十分 九人の所在を、九人として確かめた。 六人は内柵から出た。 二人は診療棟で照合を続ける。 一人は所在を伏せたまま、自発的退出だけを記録する。 十二の名と十三の番号は、消さない。 誤りだったから消すのではない。 なぜ九人が十二人になったのかを残すために、横線を引き、同一人符号を付ける…
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第195話 第十二章「越境者の記録」前編
『第195話 第十二章「越境者の記録」前編』 一月二十八日 午後三時十二分 顔を撮らない写真には、顔以外が多く写る。 火群七瀬は、境界診療棟の白い壁を背にした。 胸の小型機を外し、腰高の台へ固定する。左肩の奥が、朝から熱を持っている。射線の中で構え続けたわけではない。それでも、撮るか撮らないかを決める時、人は気づかない場所へ力を入れる。…
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第196話 第十二章「越境者の記録」後編
『第196話 第十二章「越境者の記録」後編』 「礼は言わない」 由良が言った。 「誰も求めてない」 迅。 「言われる前に」 「何で」 「助けてもらったって形にすると、剛嶺の仕事が天環の善意になる」 「助けてない?」 「一緒に間違えた。一緒に直した。費用も分ける」 「工具代」 轟が言う。 「剛嶺側負担、一覧にした」 「墓道の石」 「三枚」…
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第197話 第一章「占拠された給水塔」前編
『第197話 第一章「占拠された給水塔」前編』 二月十八日 午前六時四十三分 助けを求める窓と、放っておけと命じる窓は、同じ八階にあった。 火群七瀬は、どちらも撮らなかった。 「右から三枚目。白い布。上下に二度」 代わりに、時刻と位置を紙へ書く。 「その左。板札。《介入不要》。文字は黒。掲示した手は見えない」 朝の風が、環水三号塔の外周…
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第198話 第一章「占拠された給水塔」後編
『第198話 第一章「占拠された給水塔」後編』 水務隊長が顔を硬くする。 「これは天環側の給水施設だ」 「住戸は誰の」 「天環市の管理下にある」 「住んでる人の家だ」 「占拠を終わらせる」 「終わらせて、どこへ連れていく」 「安全区域へ避難させる」 「どこの」 「天環側だ」 「誰が選んだ」 「救出対象に選択を求めている時間はない」 由良…
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第199話 第二章「住民の窓」前編
『第199話 第二章「住民の窓」前編』 二月十九日 午前七時十六分 鷹取由良は、環水三号塔を一周するのに十三分かけた。 本人にとっては遅い。 走れば二分半。 赤索を外壁の補強帯へ掛け、帰巣線〈ホームワイヤー〉を使えば、もっと短い。 しかし、速く見た窓は、速い答えしか返さない。 由良は歩いた。 雪解け水の溜まる北側。 午後まで日が当たらな…
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第200話 第二章「住民の窓」後編
『第200話 第二章「住民の窓」後編』 塔の窓へ、色が増えた。 白。 青。 赤。 水務隊は、白を救援希望、青を中立、赤を久我支持と仮分類した。 由良は、その分類表を破いた。 「公文書だぞ」 「写し」 「写しでも破るな」 真琴が言った。 「内容へ異議を」 「異議」 「書いてください」 「紙、長い」 「破る方が早いという主張は、証拠保全と相…
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第201話 第三章「轟の禁止事項」前編
『第201話 第三章「轟の禁止事項」前編』 二月二十日 午前五時五十八分 伏見轟は、作戦会議の最初に「やること」を書かなかった。 黒板の中央へ、太い白線を一本引く。 その下へ書いた。 《禁止》 水務隊の技師が露骨に顔をしかめた。 「まだ始まってもいない」 「始める前に止める」 「何を」 「壊す順番」 轟はチョークを右手で持っていた。 本…
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第202話 第三章「轟の禁止事項」後編
『第202話 第三章「轟の禁止事項」後編』 轟は重さを受けたまま、完全な文で言い直す。 「北足場N三とN四の間にある、銀色の仮設連結ボルトを一本外せ。排水管へ荷重を伝えないためだ。外した者は名を言え」 「水務技師、榎並!」 「やれ、榎並!」 榎並がレンチを掛ける。 回らない。 迅が戻ろうとする。 塔の窓から、子どもの声が落ちた。 「来る…
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第203話 第四章「攻城側の食事」前編
『第203話 第四章「攻城側の食事」前編』 二月二十一日 午前十一時三分 包囲する側から先に、水が切れかけた。 獅堂凱は、それを笑わなかった。 笑える失敗は、失敗した本人が安全な場所にいる時だけだ。 環水三号塔の外側には、天環水務隊三十八名、境界警備二十四名、救護・設備・記録・炊事を合わせて二十七名が詰めていた。空白の旗〈ブランク〉の関…
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第204話 第四章「攻城側の食事」後編
『第204話 第四章「攻城側の食事」後編』 「今した」 凱は折り畳み椅子へ座った。 左膝を伸ばす。 装具の縁を緩める。 水務隊長は立ったまま食べている。 「座れ」 凱が言う。 「命令か」 「椅子が空いているという情報だ」 「座れば現場が見えない」 「立っていても塔の中は見えない」 「指揮官は、見える位置にいるべきだ」 「部下からも?」…
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第205話 第五章「壁を殴らない迅」前編
『第205話 第五章「壁を殴らない迅」前編』 二月二十三日 午前四時五十二分 侵入できる道は、見つかった。 だから、竜胆迅は侵入しなかった。 環水三号塔の北西面。 三階の雨樋受け。 四階の換気箱。 五階の外周帯。 六階の洗濯台。 七階の窓下にある、後付けの小さな庇。 足を置ける場所が、七つあった。 正確には、最初の一歩を含めて七歩で届く…
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第206話 第五章「壁を殴らない迅」後編
『第206話 第五章「壁を殴らない迅」後編』 「七歩目は」 轟が上から覗き込む。 「置かなかった」 「見れば分かる」 「壁、殴ってない」 「それも見れば分かる」 「褒めろ」 「後で診察を受けたらな」 「取引?」 「命令だ」 「権限ない」 「怪我人にはある」 「誰が決めた」 「俺」 迅は起き上がった。 右手を開く。 小指が遅れる。 骨の痛…
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第207話 第六章「内側からの合図」前編
『第207話 第六章「内側からの合図」前編』 二月二十四日 午前二時十七分 タマキは、建物が寝言を言うとは思っていなかった。 眠っている人間が百人いれば、建物は百通りの音を出す。 便所の水。 夜泣きで沸かす湯。 咳のあとに開く蛇口。 凍結を避けるため、糸ほど細く流し続ける水。 その全部が、地下の配管へ集まる。 だから最初、規則に見えた音…
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第208話 第六章「内側からの合図」後編
『第208話 第六章「内側からの合図」後編』 「規則、増えた」 迅。 「質問を三つで止める規則もある」 「どっち優先」 「相手が寝てる時は、止める」 「生活」 「そう」 朝食は十五分遅れた。 十一階の女は、遅れた時刻と燃料の追加量を紙へ書き、窓へ出した。 責めるためだけではない。 外の誤読が、内側で何を変えたかを返すためだった。 タマキ…
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第209話 第七章「久我の檻」前編
『第209話 第七章「久我の檻」前編』 二月二十五日 午前零時十二分 地下の会議室は、四人座ると満員だった。 もとは点検槽である。 壁は湿っている。 天井は低い。 中央を再利用水の管が横切り、立ち上がれば額をぶつける。 水巻ハツは、そこへ七人を呼んだ。 「四人まででは」 鷹取由良が言う。 「四人が座ると満員。七人が立てないとは言ってない…
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第210話 第七章「久我の檻」後編
『第210話 第七章「久我の檻」後編』 ノノが言った。 「まだあるのか」 久我。 「集会へ出ない人の扱い」 「賛否に数えない」 「部屋へ聞きに行かない」 「状況確認は必要だ」 「生きてるかの確認と、意見を言わせるのを分ける」 「扉を開けなければ」 「水袋と食事をいつも通り置く。返事がなくて、医療上の危険がある時だけサナ」 「警備は」 「…
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第211話 第八章「水圧」前編
『第211話 第八章「水圧」前編』 二月二十六日 午前三時四十四分 建物が壊れる音は、大きいとは限らない。 環水三号塔が最初に鳴らしたのは、眠っている犬の歯ぎしりに似た音だった。 ギ。 短い。 低い。 雪を踏む音へ混じる。 伏見轟は、外壁へ当てていた右耳を離した。 「全員、止まれ」 声量は大きくない。 それでも、周囲の作業員が止まった。…
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第212話 第八章「水圧」後編
『第212話 第八章「水圧」後編』 二ミリ。 二・一。 二・一。 止まりかける。 「もう少し」 轟が言った。 右肩が熱い。 手押しポンプの柄を一度、受け損ねた。 打撲した場所へ、さらに衝撃が入っている。 左手へ替えようとする。 手術痕が引きつる。 「交代」 凱が柄を取った。 「まだできる」 「できることと、続けてよいことを分けろ」 「誰…
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第213話 第九章「退去の順番」前編
『第213話 第九章「退去の順番」前編』 二月二十七日 午前七時二十九分 真琴は、一枚の書類を十二枚に破った。 紙は、思ったより良い音を立てた。 ビリ、と。 環水三号塔の前に集まっていた役人たちが、全員同じ顔をする。 紙を破る音には、法律を知らない人間でも理解できる力がある。 「何をしている」 天環水務局の監督官が言った。 「修正です」…
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第214話 第九章「退去の順番」後編
『第214話 第九章「退去の順番」後編』 「始めたら?」 「人が遅れる。荷物が増える。便所へ行く。怖くなる。だから変更欄を作る」 真琴が各紙の右側へ、広い空欄を設けた。 《変更理由は、書かなくてもよい。》 監督官が読む。 「理由なしで変更を認めるのか」 「認めます」 「安全計画が崩れる」 「変更した時刻だけ記録し、構造計画を組み直す」…
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第215話 第十章「扉を外す」前編
『第215話 第十章「扉を外す」前編』 三月一日 午前五時四十分 正面扉を壊す道具は、用意しなかった。 代わりに轟は、戻すための道具を並べた。 低床油圧ジャッキ、二台。 木製の荷重分散板、四枚。 蝶番軸を押し上げる細径ポンチ、三本。 錆を落とす刷毛。 仮受け車輪。 扉の角を守る厚布。 交換用の座金。 同じ規格のねじ。 番号札。 最後に…
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第216話 第十章「扉を外す」後編
『第216話 第十章「扉を外す」後編』 武装班が二本の白線へ近づく。 轟の《一人門》が明るくなる。 現在の敵は久我。 外の武装者は線の手前で、体が重くなる。 能力は彼らを止めきらない。 一人門は壁ではない。 複数の敵意を同時に受けないための境界だ。 先頭一人が線へ踏み込めば、久我との条件が切り替わる。 その瞬間、久我は扉を押し倒せる。…
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第217話 第十一章「建物を残す勝利」前編
『第217話 第十一章「建物を残す勝利」前編』 三月一日 午後三時十三分 鷹取由良は、勝った側の場所に立たなかった。 どこが勝った側か、分からなかったからだ。 環水三号塔の正面。 外された扉は、厚布の上へ寝かされている。 格子は開いている。 第一波から第五波までの退去は終わった。 塔の外へ出た者、四十三人。 塔へ残った者、五十八人。 医…
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第218話 第十一章「建物を残す勝利」後編
『第218話 第十一章「建物を残す勝利」後編』 「住民の同意は」 「市内設備だ」 由良が聞く。 「市境は、塔のどこを通ってる」 「行政図では中央」 「住戸を半分に切る?」 「比喩だ」 「地図が先に比喩を使った」 監督官は旗を持ったまま、正面へ進む。 轟が白線の跡へ立った。 《一人門》はもう消えている。 能力では止めない。 「旗は上げない…
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第219話 第十二章「鍵の返却」前編
『第219話 第十二章「鍵の返却」前編』 三月二日 午前六時十一分 勝った翌朝、轟は扉を戻した。 勝ったかどうかは、まだ決めていない。 扉は決める必要がない。 外された蝶番軸を元の穴へ戻し、六ミリの床隙間を合わせ、開閉時の音を聞く。それだけだった。 「一号ジャッキ、一ミリ上げる」 轟が言う。 水務隊員が柄を押す。 「止め。二号、〇・五」…
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第220話 第十二章「鍵の返却」後編
『第220話 第十二章「鍵の返却」後編』 「消した物まで記録するのか」 男。 「内容ではなく、私たちが勝手に残していないこと」 「俺の名前は」 「希望しなければ番号だけ」 「番号も、誰かが調べれば」 「対応表を本人へ返す。こちらには残さない」 「じゃあ、番号だけ残っても俺にはつながらない?」 「その予定です。完全に保証はできません。過去…
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第221話 第一章「白い地平」前編
『第221話 第一章「白い地平」前編』 三月二十一日 午前七時十一分 白い地平線には、署名する場所がなかった。 鷹取由良は、差し出された紙を風へ向けて持ち上げた。 薄い用紙が、乾いた音を立てる。 「ここ」 共同援助調整所の蓑原梢は、紙の下端を指で押さえた。 「受取共同体代表。氏名、所属、受領量。三つだけです」 「三つ目から間違ってる」…
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第222話 第一章「白い地平」後編
『第222話 第一章「白い地平」後編』 誰が善人かを決める映像より、誰が食べ、誰がまだ食べていないかの方が、今は必要だった。 午前七時三十八分。 第一号車の荷下ろしが始まった。 旗だけが先に外された。 青い車輪の旗を畳もうとした係員へ、蓑原が首を振る。 「掲示は寄贈条件です」 「荷、ない」 轟。 「先導車として、援助車列の表示が必要です…
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第223話 第二章「援助の旗」前編
『第223話 第二章「援助の旗」前編』 三月二十一日 午前八時十九分 旗は、風より速く車列を追い越した。 獅堂凱は第二号車の助手席から、先頭の青い車輪を見ていた。 空になった第一号車は、百メートル前を走っている。 工具。 担架。 空袋。 緊急用の水。 食料は載っていない。 それでも屋根の旗は、十二台のうち一番大きかった。 「先頭車両、速…
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第224話 第二章「援助の旗」後編
『第224話 第二章「援助の旗」後編』 轟の声が無線を震わせる。 『野々村、ハンドル固定。足ブレーキ離せ。排気制動二段。荷を戻す』 野々村は復唱しない。 それでも、車体の揺れが一つずつ減る。 水溝まで、三十メートル。 二十。 十一。 停車。 右前輪が、崩れた塩の縁へ半分乗った。 誰も落ちなかった。 塩戸車は、金の穂の旗を捨てた。 風に乗…
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第225話 第三章「小麦の条件」前編
『第225話 第三章「小麦の条件」前編』 三月二十一日 午前十時十四分 食べ物は、運んでいる間にも働かせてくる。 温度を測れ。 袋の湿りを見ろ。 荷崩れを直せ。 誰かが腹を減らしていないか確認しろ。 そして、その仕事はたいてい「ついで」に数えられる。 土門小麦は、第六号車の荷台で、粉袋の角を親指へ押し当てた。 柔らかい。 よくない柔らか…
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第226話 第三章「小麦の条件」後編
『第226話 第三章「小麦の条件」後編』 凱が全運転手への確認を終えた。 十二人のうち、続行九。 条件付き二。 保留一。 保留した第五号車の柿沼リサは、寄贈団体との連絡がつくまで運転を続けるが、到着後の式典準備には参加しないと書いた。 郷原は、赤い太陽の旗を立てたままにした。 風が強くなり、竿が曲がる。 彼は停車を求めず、速度を三キロ落…
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第227話 第四章「追走車」前編
『第227話 第四章「追走車」前編』 三月二十一日 午後一時二十六分 走っている車の屋根では、前へ進むだけで後ろへ下がる。 竜胆迅は、第一号車の空荷台から第六号車を見た。 距離、百四十メートル。 速度、四十七。 右側の並走路を、塩轍の二台が上がってくる。 路面は同じ高さではない。 援助車列の本線が、古い塩堤の上。 並走路は、その外側を削…
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第228話 第四章「追走車」後編
『第228話 第四章「追走車」後編』 「江橋へ頼む」 『頼んで』 迅は二号車を呼んだ。 「江橋。第一号車が箱を追う。先頭を代われる?」 『俺の二号車は油と豆。空車ほど速く走れない』 「何キロ」 『横風が十を越えたら三十四』 「それで」 『なら代わる。戻らない時刻を先に決めろ』 「一時四十三分」 『今、三十七分。六分だな』 峰岸の第一号車…
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第229話 第五章「荷札の嘘」前編
『第229話 第五章「荷札の嘘」前編』 三月二十一日 午後三時十二分 同じ袋は、二度飢えを救えない。 帳簿の上では、救えることになっていた。 火群七瀬は、第七号車の荷台で、麦粉袋へ撮影機を近づけた。 白い麻布。 口を縫った青糸。 側面に、金の穂の印。 その下へ、薄く削られた赤い太陽。 二つの寄贈番号。 《KH-0321-087》 《ST…
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第230話 第五章「荷札の嘘」後編
『第230話 第五章「荷札の嘘」後編』 渋谷が眉を上げた。 「十四か?」 「十四」 「嫌な配達員だな」 「受取拒否できます」 「今は受け取る」 三人を第七号車へ入れる。 七瀬は、彼らの顔を撮らない。 手。 荷札。 読み上げた番号。 異議。 小坂は数字を読むのに時間がかかった。 一桁ずつ指で押さえる。 渋谷が先に進めようとすると、飯尾が止…
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第231話 第六章「積荷を捨てる」前編
『第231話 第六章「積荷を捨てる」前編』 三月二十一日 午後五時三十六分 橋は、荷物の正しさを量らない。 重いか、軽いかだけを見る。 伏見轟は第九号車の助手席で、前方の白い線を見た。 旧北塩湖を横切る塩橋。 長さ、二・七キロ。 幅、六・四メートル。 中央に継ぎ目。 左右の縁には、高さ四十センチの防輪材がある。 防輪材の外は、白い塩水だ…
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第232話 第六章「積荷を捨てる」後編
『第232話 第六章「積荷を捨てる」後編』 右後ろが塩水側へ出る。 後続車が迫る。 「後ろ、右へ逃がせ!」 轟は敵側回線へ叫んだ。 『右は援助車列!』 「第九号車、中央を空ける!」 磯辺がハンドルを切る。 第九号車は右の防輪材まで十五センチ。 左へ、塩轍後続一台分の空間ができる。 敵車が滑り込む。 接触。 金属が擦れる。 双方の側面が凹…
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第233話 第七章「由良の拒絶」前編
『第233話 第七章「由良の拒絶」前編』 三月二十二日 午前六時十八分 夜が明けると、捨てた食料は雪に見えた。 鷹取由良は、橋の手前の岩へ立った。 白い粉。 白い塩。 白い空袋。 遠くからなら、どこまでが損失か分からない。 近づけば、油の黒い筋と、車輪の跡がある。 四十八袋。 千九百二十キロ。 数字は、景色より小さい。 由良は赤索を左の…
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第234話 第七章「由良の拒絶」後編
『第234話 第七章「由良の拒絶」後編』 期限を書いた。 保留は、無期限の棚ではない。 いつまで待ち、待てなかった時に誰が減らすかを書かなければ、静かな廃棄になる。 午前八時五分。 東高架下から、三人の名前が来た。 二人が兄弟だった。 「同一家族は不可」 由良が言う。 『二人とも別の厨房だ』 「家へ帰れば同じ屋根?」 『今は別棟』 「金…
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第235話 第八章「食料の所有者」前編
『第235話 第八章「食料の所有者」前編』 三月二十二日 午後一時七分 空腹の人数を聞くと、たいてい大きな数字が返ってくる。 鍋の数を聞くと、その数字は急に小さくなる。 土門小麦は第六号車の荷台へ無線機を並べた。 七台。 周波数が違う。 電池の残量も違う。 一台は送信釦が戻らない。 一台は音量つまみが外れ、木べらの先で回す。 小麦は、通…
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第236話 第八章「食料の所有者」後編
『第236話 第八章「食料の所有者」後編』 《待機 一車一時間一五》 《襲撃に伴う損傷 別途》 「最後」 小麦。 『消さない』 塩戸。 「自分で襲って壊した分を請求?」 『全部とは言ってない。第九号車との接触、牽引板、側面修理』 「粉の原因は、鳥飼が急ブレーキ」 『粉の原因は、おまえらが袋を切った』 「切らなければ援助車が落ちた」 『急…
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第237話 第九章「砂塵の横転」前編
『第237話 第九章「砂塵の横転」前編』 三月二十二日 午後四時二十九分 重さには、名前がない。 だから、間違えると人の名で呼ばれる。 環玉樹は、廃料金所の古い計量券を拾った。 黄ばんだ紙。 角に穴。 《第三通行口/前軸三・八/後軸五・二/総九・〇》 十二年前の数字だった。 車はもうない。 運転手も分からない。 それでも、どの軸へ何トン…
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第238話 第九章「砂塵の横転」後編
『第238話 第九章「砂塵の横転」後編』 十二年前の紙へ、十四歳の字が加わる。 古い記録を尊重することは、触らず祀ることではない。 どこまでが昔で、どこからが今日かを、消さずに書き足すことだった。 塩戸が板の傷を確認する。 「一本、角が欠けた」 「材料代」 タマキ。 「欠けは前から」 「証明」 「扉に書いてある」 塩戸車の側面を見る。…
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第239話 第十章「公開目録」前編
『第239話 第十章「公開目録」前編』 三月二十二日 午後六時三十四分 数字は、壁に書くと逃げにくくなる。 火群七瀬は、廃料金所の北壁へ白紙を貼った。 紙は十二枚。 一枚目、出発時申告。 二枚目、車両重量からの推定。 三枚目、現物監査。 四枚目、橋上損失。 五枚目、食中毒防止の廃棄。 六枚目、車列内で使用した食料。 七枚目、地元在庫。…
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第240話 第十章「公開目録」後編
『第240話 第十章「公開目録」後編』 北壁の前へ、人は立たない。 料金台も車線外へ移す。 目録箱は開いたまま、四方を透明板で囲う。 誰かが持ち上げれば、板へ当たる。 塩戸の要求を、一項目ずつ処理する。 「一、地元商店在庫の運送料」 七瀬。 「買い取りが成立した荷だけ、公開料金表を基準に支払う。距離と車両ごと。塩橋危険加算は、この便では…
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第241話 第十一章「車列を分ける」前編
『第241話 第十一章「車列を分ける」前編』 三月二十三日 午前七時四分 一列は、先頭を作る。 分かれれば、先頭は増える。 獅堂凱は、廃料金所の中央で七枚の経路図を見た。 環水三号塔。 東高架下。 旧軌道宿舎。 剛嶺南端。 白沼沿道。 北塩七区。 二つの小集落を回る連絡便。 十一地区すべてではない。 三人の確認が揃わない地区。 連絡が戻…
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第242話 第十一章「車列を分ける」後編
『第242話 第十一章「車列を分ける」後編』 どちらも、凱の側の感情だった。 午前九時五十九分。 第十二号車は、旧軌道へ入る前に止まった。 道が二つに分かれている。 左は、由良の経路図にある旧保線道。 右は、雪解け水でできた新しい轍。 保線道には、赤い木札が立っていた。 《本日、通行保留》 「地図と違う」 三枝。 「札が新しい」 凱。…
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第243話 第十二章「届けた者の名前」前編
『第243話 第十二章「届けた者の名前」前編』 三月二十三日 午後零時十四分 食料は、到着しただけでは食事にならない。 袋は袋だ。 豆は硬い。 油は火へ近づけすぎれば燃える。 麦粉は、水を間違えると腹より先に床を満たす。 土門小麦は、旧軌道宿舎の共同厨房で、乾燥芋の箱を開けた。 蓋の裏へ、十一人の名前が書いてある。 寄贈団体の担当者。…
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第244話 第十二章「届けた者の名前」後編
『第244話 第十二章「届けた者の名前」後編』 運んだ人の名前は、届けた時だけではない。 戻した時にも要る。 三月二十八日 午前九時四十三分 迅の右掌から包帯が外れた。 傷は閉じている。 握力試験。 右は左の八割。 以前より少し戻っている。 冷たい金属を握ると、小指と薬指へ痺れ。 「殴っていい?」 迅。 「誰を」 診療員。 「確認」 「…
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第245話 第一章「消灯命令」前編
『第245話 第一章「消灯命令」前編』 四月十八日 午後四時七分 停電は平等だった。 呼吸は、そうではなかった。 外環共同病院の天井灯が一斉に落ちた瞬間、時雨ミソラは、左手で患者の顎を持ち上げ、右手で酸素袋を押した。 暗闇になるより先に、胸の動きが一つ減った。 「呼吸、八。浅い。サナ、吸引」 「主電源、落ちた」 「知ってる。吸引」 環水…
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第246話 第一章「消灯命令」後編
『第246話 第一章「消灯命令」後編』 「東棟の三番、移動済み」 職員の声ではない。 ミソラは足を止めた。 「誰」 返事がない。 担架の後ろで、靴底が一度だけ床を擦った。 音の薄い靴。 「三番って誰」 サナが下から聞く。 「病床番号じゃない」 ミソラは答えた。 藍の指が、ミソラの手首を掴んだ。 「今の声」 「知ってる?」 「知らない」…
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第247話 第二章「白衣の中立」前編
『第247話 第二章「白衣の中立」前編』 四月十八日 午後四時四十一分 救難車は、走っている時より、止まっている時の方が嘘をつく。 止まった車体は安全に見える。 エンジンは熱を持ち、酸素瓶は揺れ、患者の血圧は下がり続けていても、外からはただの箱だ。 「三台。患者十一。歩行二。座位三。臥位六。帰還者、乗員九」 風祭澪は、外環共同病院の搬入…
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第248話 第二章「白衣の中立」後編
『第248話 第二章「白衣の中立」後編』 「三号車を空に?」 隊員。 「病院から追加患者が出るかもしれない」 「中立車を奪われた直後です」 「だから、誰が乗るか確認する」 「もう運ばない方が」 「病院の中で運べない人がいる」 「外へ出すのが罠なら」 「本人、医療、経路。三つ確認。足りなければ動かさない」 「四つ目は」 「受入先」 「さっ…
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第249話 第三章「名前のない患者」前編
『第249話 第三章「名前のない患者」前編』 四月十八日 午後六時三十八分 暗闇を撮ると、黒が写る。 当たり前の話だった。 当たり前の話は、現場ではだいたい役に立たない。 火群七瀬は手回し式撮影機のクランクを半回転させ、止めた。 ファインダーの中には何もない。 病室の窓。 患者の顔。 壁の名札。 どれも同じ黒だった。 「映像、取れてる?…
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第250話 第三章「名前のない患者」後編
『第250話 第三章「名前のない患者」後編』 午後七時十一分。 八番室の少年は、暗い病室で紙を折っていた。 紙は診療伝票の裏。 折り目だけで形を作る。 「何」 タマキ。 「橋」 「鳥じゃない」 「鳥は飛ぶから、いなくなる」 「橋も渡るといなくなるよ」 「橋は残る」 少年は細長い紙を二つの寝台柵へ渡した。 真ん中が沈む。 「弱い橋」 「紙…
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第251話 第四章「暗闇の足音」前編
『第251話 第四章「暗闇の足音」前編』 四月十八日 午後八時二分 暗闇では、敵の顔が見えない。 迅にとって、それは大した問題ではなかった。 顔を殴る必要がない時の方が多い。 問題は、どこから暴力が始まったか見えないことだった。 東病棟の廊下には、患者用寝台が十九台並んでいた。 壁際に十台。 中央へ九台。 停電前の避難配置ではない。 偽…
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第252話 第四章「暗闇の足音」後編
『第252話 第四章「暗闇の足音」後編』 「連れ出す患者がいる」 七瀬。 「誰」 タマキ。 誰も答えられなかった。 病院には、名前を出せない患者が多い。 それは守るためだった。 同じ暗がりを、敵も使っている。 砂が床へ座ったまま言う。 「名前がないと、守れない?」 「守れる」 迅。 「誰を」 「今、目の前にいるやつ」 「いなくなったら」…
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第253話 第五章「七瀬の見えない記録」前編
『第253話 第五章「七瀬の見えない記録」前編』 四月十九日 午前零時十一分 見えない記録は、見えないから公平なのではない。 声の大きい人間は大きく残る。 機械の近くにいた人間は明瞭に残る。 息を潜めた人間は、いなかったように残る。 七瀬は録音機を病院の中央卓へ置かなかった。 三台に分けた。 一台は東病棟。 一台は手術室前。 一台は家族…
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第254話 第五章「七瀬の見えない記録」後編
『第254話 第五章「七瀬の見えない記録」後編』 「では、一問ずつ」 七瀬が言う。 「今の命令を出したのは誰」 「凱」 家族。 「凱本人が、今ここで認める?」 「認めない」 凱。 「次。移動する本人は、聞いて選んだ?」 「聞いていない」 「次。医療者は移動可と言った?」 「知らない」 「次。搬送路は確保された?」 「知らない」 「なら…
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第255話 第六章「トリアージ」前編
『第255話 第六章「トリアージ」前編』 四月十九日 午前一時十九分 病院で一番危険な嘘は、「順番に診ます」だった。 順番は、並んだ時にしか存在しない。 人は同じ速さで悪くならない。 時雨ミソラは、手術室前で三人の脈を同時に取っていた。 左手の人差し指と中指で、藍の橈骨動脈。 右膝で、腹部出血の侵入者の大腿を圧迫。 右手は、ユキの胸腔排…
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第256話 第六章「トリアージ」後編
『第256話 第六章「トリアージ」後編』 午前二時二十五分。 南階段から、二人の患者を運ぶという連絡が来る。 一人は意識あり。 一人は返事なし。 「一角を二枚」 職員。 「まだ付けない」 ミソラ。 「急変」 「見る前に結論へしない」 「下で一角と言われた」 「下の判断を消さない。ここで再確認する」 「同じ患者なのに」 「場所が変わった。…
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第257話 第七章「澪の振動」前編
『第257話 第七章「澪の振動」前編』 四月十九日 午前三時二十八分 風祭澪には、聞こえない音がある。 聞こえないことより厄介なのは、聞こえたふりができることだった。 地下搬入口で、細い笛が三度鳴った。 帰路班の隊員が一斉に左へ向く。 澪だけが動かなかった。 右耳には、薄い金属を擦る耳鳴りがある。 高い笛は、その奥へ消える。 「誰の笛」…
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第258話 第七章「澪の振動」後編
『第258話 第七章「澪の振動」後編』 「声を鍵にしない。過去の命令と比べるため」 「何が変わったか」 「誰が確認する」 「私。隊員。患者。三者」 「患者があなたを知らなければ」 「内容で確認」 「内容も偽られた」 「だから、一つを鍵にしない」 サナが南野の点滴を確認する。 「鍵束ね」 「鍵束は、持つ人が強い」 「じゃあ」 「別々の人が…
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第259話 第八章「偽名の侵入者」前編
『第259話 第八章「偽名の侵入者」前編』 四月十九日 午前六時十二分 朽葉真琴は、暗闇が嫌いだった。 怖いからではない。 文字が読めないからだ。 強い近視の眼鏡へ、夜明けの光が薄く入る。 外は明るくなり始めている。 病院の窓には遮光布。 患者の休息と外からの狙撃を避けるため、昼になっても全部は開けられない。 「あと五センチ」 真琴が言…
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第260話 第八章「偽名の侵入者」後編
『第260話 第八章「偽名の侵入者」後編』 眼鏡の奥で目を細める。 「吸入」 サナ。 「軽い」 「患者はみんな」 「分かりました」 真琴は左手で胸元の吸入器を探す。 見つける前に、タマキが机の右側から左側へ滑らせた。 「勝手に触らないで」 「置いただけ」 「私の物」 「触ってない」 「屁理屈」 「迅から習った」 「俺はそんな細かい屁理屈…
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第261話 第九章「手術室前の乱闘」前編
『第261話 第九章「手術室前の乱闘」前編』 四月十九日 午前十時三十一分 暗闇での戦いは、静かではない。 見えない分だけ、人は物へぶつかる。 物は、誰の味方でもなく大きな音を出す。 手術室前の廊下で、最初に倒れたのは、誰でもなかった。 金属の洗面器だった。 からん。 一度跳ねる。 から、から。 縁で回る。 迅は音へ向かなかった。 音が…
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第262話 第九章「手術室前の乱闘」後編
『第262話 第九章「手術室前の乱闘」後編』 「今から作ります」 掠れ声が、かすかに笑う。 「そればかり」 「生きている制度は、今に――」 「名言みたいに言うな」 迅が先に止めた。 「あなたは黙ってください」 「戦闘中だ」 「今、会話です」 「相手は刃を持ってる」 「床へ落ちています」 「もう一本ある」 寝台の下から、銀色が出る。 迅は…
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第263話 第十章「選んだ名を呼ぶ」前編
『第263話 第十章「選んだ名を呼ぶ」前編』 四月十九日 午前十一時十二分 本名は、鍵ではない。 鍵に見える時ほど、誰かが扉の向こうへ人を閉じ込めようとしている。 時雨ミソラは、手術室の扉を開けた。 幅、二十センチ。 人が通るためではない。 酸素瓶を受け取るため。 「藍。処置終了。脈、百十八。不整、減少。意識あり」 七瀬が時刻を言う。…
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第264話 第十章「選んだ名を呼ぶ」後編
『第264話 第十章「選んだ名を呼ぶ」後編』 その瞬間、廊下の奥から短い金属音が三つ響いた。 首札。 捕らえられた侵入者たちの金属札が、一斉に床へ触れた音だった。 命令の合図。 砂が息を止めた。 針の肩が強張った。 手術室前の防火扉の向こうで、誰かが低く告げる。 「灰四。離脱経路、南」 呼ばれたのは、シキではない。 それでも、シキの左手…
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第265話 第十一章「夜明けの発電機」前編
『第265話 第十一章「夜明けの発電機」前編』 四月二十日 午前五時三分 発電機は、夜明けを知らない。 外が明るくなろうと、燃料が尽きれば止まる。 誰かが祈ろうと、焼けた接点はつながらない。 機械は冷たいと言われる。 轟雷蔵は、そうでもないと思っていた。 機械は、できない理由を隠さない。 人間より、よほど親切だ。 「親切な相手が、煙を吐…
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第266話 第十一章「夜明けの発電機」後編
『第266話 第十一章「夜明けの発電機」後編』 二段。 患者が息を吐く。 三段。 踊り場へ着いた。 「遅い」 患者が言う。 「待つのは得意だ」 「嘘だ」 「最近、練習してる」 患者は迅を見ないで、廊下へ進んだ。 轟は横を通る。 「助けたな」 「触ってない」 「助けた」 「本人が歩いた」 「面倒な言い方を覚えたな」 「病院は教育にいい」…
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第267話 第十二章「白衣路」前編
『第267話 第十二章「白衣路」前編』 四月二十七日 午前八時十六分 道は、通れるから道になるのではない。 通った後に、戻れる場所があるから道になる。 風祭澪は、外環共同病院の搬入口へ白い布を三本敷いた。 一本目は、搬入。 二本目は、搬出。 三本目は、保留。 どれも旗ではない。 床へ置かれ、人に踏まれるための布だ。 「保留の道が一番太い…
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第268話 第十二章「白衣路」後編
『第268話 第十二章「白衣路」後編』 午後六時四十分。 搬入口の机に、返す物が並んだ。 借りた酸素瓶の固定帯。 病棟から持ち出した毛布。 四号車の所有記録。 破損した前照灯のガラス。 患者の移送を保留した車両板。 角を切った触覚札の未使用分。 返せない物もある。 使用中の酸素瓶、二本。 血で廃棄した毛布、一枚。 切断した放送線。 亡く…
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第269話 第一章「勝てない地図」前編
『第269話 第一章「勝てない地図」前編』 五月十九日 午前五時四十六分 勝てない地図は、負け方まで描いてくれない。 鷹取由良は、外環第六臨時拠点――青石台の指揮所で、三枚の地形図を一枚に重ねた。 一枚目は天環側の軍用図だった。敵の推定位置、火器の射程、補給車が通れる幅。赤い線は多く、生活の道は少ない。 二枚目は剛嶺の斥候図だった。斜面…
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第270話 第一章「勝てない地図」後編
『第270話 第一章「勝てない地図」後編』 「敵車を止める」 迅。 「それは戦闘条件」 「三本を通す」 轟。 「途中で人が消えても?」 七瀬。 「消さん」 「確認方法」 「名簿」 真琴。 「名簿だけ戻って、人が戻らなかったら」 南野はまだいない。だが先月、灯りを消した外環共同病院で起きたことを、全員が思い出した。 「受入側の復唱と、本人…
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第271話 第二章「退却を言えない将」前編
『第271話 第二章「退却を言えない将」前編』 五月十九日 午前八時十三分 命令は、言った人間より速く遠くへ行く。 獅堂凱は、それを便利だと思っていた時期がある。 今は、恐ろしいと思う。 青石台の最上段から中段へ下りる石段は、四十七段ある。左膝の装具を着けた凱には、上るより下る方が悪い。体重が前へ落ちるたび、古い手術痕の内側で鈍い熱が広…
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第272話 第二章「退却を言えない将」後編
『第272話 第二章「退却を言えない将」後編』 放送柱の下には、百人近くが集まっていた。 偽放送へ従って北門へ向かおうとする者。 負傷者を動かすなという声を信じ、診療棟の戸を塞ぐ者。 撤退の噂が敵の工作なら、荷を解くべきだと主張する者。 全員が愚かだから混乱したのではない。 命令の一部が、それぞれ別の恐怖へ正しく刺さった。 「本物だ」…
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第273話 第三章「三本の伝令路」前編
『第273話 第三章「三本の伝令路」前編』 五月二十一日 午前七時二分 荷物は、届けば終わる。 命令は、届いたという返事が戻るまで始まってすらいない。 環玉樹は、青石台の旧計量所で、三百十二枚の札を床へ並べた。 「踏んだら配達料、三倍」 戸口へ向けて言う。 竜胆迅の靴が止まった。 「踏んでない」 「今から踏む足だった」 「足に未来を決め…
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第274話 第三章「三本の伝令路」後編
『第274話 第三章「三本の伝令路」後編』 札を渡す者が、わざと間違った経路名を言う。 「一丸、西」 「不一致」 瀬尾が止める。 「誰から」 タマキ。 「試験係」 「誰へ」 「北受領箱」 「何のため」 「間違いを見つける」 「じゃあ、入れない」 言葉と形が違う時は、伝令が正解を選ばない。 止める。 送り主へ戻す。 「急いでる時は?」 迅…
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第275話 第四章「署名の責任」前編
『第275話 第四章「署名の責任」前編』 五月二十二日 午後零時四十七分 朽葉真琴は、曖昧な文章が嫌いだった。 曖昧な人間は、もっと嫌いだった。 ただし一番嫌いなのは、曖昧な文章を書いた人間が、曖昧な人間のせいにする時だ。 指揮所の机には、撤退命令案が六部並んでいた。 旧様式を、そのまま使うのはやめた。 真琴は上段の《戦術的後退》を太い…
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第276話 第四章「署名の責任」後編
『第276話 第四章「署名の責任」後編』 「濡れれば重い」 「油紙を増やす」 「タマキが料金を」 「現地経費」 「誰が」 「署名者ごと」 七瀬が少しだけ笑った。 「巴の請求書が効いてる」 「悪い職業同士です」 記録と沈黙は、同じ人が同時に全部を持たない。 真琴が、書く範囲を決める。 七瀬が、見せる時刻を止める。 署名者が、公開範囲を選ぶ…
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第277話 第五章「敵前の炊事」前編
『第277話 第五章「敵前の炊事」前編』 五月二十三日 午後四時六分 温かい食事は、湯気で居場所を知らせる。 時雨ミソラは、鍋の蓋を閉じた。 「火を消す」 野戦厨房の調理人が、濡れた薪を見た。 「まだ湧いてない」 「分かってる」 「水を飲ませられない」 「冷たいまま配る」 「腹を壊す」 「煮沸前の水は使わない。朝の貯水と封を切ってない水…
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第278話 第五章「敵前の炊事」後編
『第278話 第五章「敵前の炊事」後編』 三人の追撃兵が入る。 顔布。短棒。荷鉤。 迅が踵を擦る。 「殴っていい?」 「医療箱へ触れさせない」 ミソラ。 「質問に答えてない」 「必要な範囲」 「便利」 最初の兵が荷鉤を振る。 迅は一歩引いた。 床の乾燥豆を踏まない。 相手の肩が先に動く。 鉤の軌道を左前腕で外し、手首を返す。二歩目は棚際…
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第279話 第六章「橋を残す」前編
『第279話 第六章「橋を残す」前編』 五月二十四日 午後七時二十二分 橋を落とすのは簡単だった。 伏見轟は、簡単な案から先に疑う。 石樋橋の中央へ、爆薬箱が三つ置かれていた。 古い石造橋。全長二十八メートル。幅四・六。下は細い谷川で、雨が強くなると一時間で水位が腰まで上がる。北医療路の車両が通り、青石台へ残る人間が井戸と市場を行き来す…
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第280話 第六章「橋を残す」後編
『第280話 第六章「橋を残す」後編』 最初の偵察車が曲路へ現れた。 回転台は、壊さずに閉じた。 午後七時五十八分。 障害の試験をするには、障害を閉めなければならない。 閉めると、その瞬間だけ橋が使えない。 北医療路から、予定にない担架が一台来た。 老人が横たわり、孫らしい女が付き添っている。呼吸は安定。腹部痛。青石台の診療棟では検査で…
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第281話 第七章「迅が殴らない日」前編
『第281話 第七章「迅が殴らない日」前編』 五月二十五日 午前四時二十八分 殿は、最後に残る者ではない。 最後まで残っていい時刻を、先に決められた者だ。 守屋峻はそう言い、青石台の西門に白い線を引いた。 乾いた石灰が、夜明け前の地面へ真っ直ぐ伸びる。線の端には時刻が書かれていた。 《西殿 五月三十日 午後五時三十六分まで》 その横へ…
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第282話 第七章「迅が殴らない日」後編
『第282話 第七章「迅が殴らない日」後編』 「行け」 迅は水を一口だけ飲んだ。 瀬尾直が瓶を持っていた。 三本。 自分用、他人用、予備。 「もう一口」 「足りる?」 「予備は、使うためにある」 「使ったら予備じゃない」 「使わない予備は、荷物です」 「今日、正しい人多い」 「誰か間違ってるんですか」 「俺」 瀬尾は少し考え、水瓶を迅へ…
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第283話 第八章「行方不明の伝令」前編
『第283話 第八章「行方不明の伝令」前編』 五月二十六日 午前零時十二分 記録できないことと、記録しなくていいことは違う。 火群七瀬は、撮影機の蓋を閉じた。 通信丘の卓上には、南稜線路の地図がある。 地図の上には、何もない。 行方不明になった伝令の氏名も、担当区間も、受領札の内容も書いていない。 代わりに、時刻だけが並んでいた。 《十…
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第284話 第八章「行方不明の伝令」後編
『第284話 第八章「行方不明の伝令」後編』 瀬尾。 「見られる」 七瀬。 「今、敵影は」 「ない。いないと確認できたわけでもない」 「蜂場は」 透子が右手で地図の切り欠きを触る。 「石垣を一つ外せば通る」 「誰の石垣」 老女が橇の上から言った。 「私の」 全員が老女を見る。 「養蜂箱も?」 「息子の。死んだ後は私の。蜂はいない」 「外…
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第285話 第九章「由良の印」前編
『第285話 第九章「由良の印」前編』 五月二十八日 午前六時十四分 裏切りは、相手が先に付ける名前だ。 鷹取由良は、その名前を自分より早く読ませないことにした。 西採石路の受領台へ、二十二枚の札が戻ってきた。 戻ってきたのに、受領されていない。 木箱の左側が受領済み。 右側が未確認。 中央に置かれた二十二枚だけが、どちらにも入っていな…
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第286話 第九章「由良の印」後編
『第286話 第九章「由良の印」後編』 午前十一時二分。 公開説明の前に、由良は水四十八リットルを取りに行った。 署名者が演壇へ立ち、他の者が水を運ぶ方が早い。 それでも行った。 塩路から戻った空容器は、共同倉庫の裏に十二本ある。一本二十リットル。全部を取れば、倉庫の清掃と厨房の予備がなくなる。 「三本」 由良。 倉庫係は首を振る。 「…
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第287話 第十章「殿」前編
『第287話 第十章「殿」前編』 五月三十日 午後五時四十分 最後の門には、最後まで残りたい人間が集まる。 獅堂凱は、それを勇気だと思っていた。 今は、時間を守れない理由にもなると知っている。 青石台の下段門は、石壁の間へ鉄扉を二枚差しただけのものだ。門と呼ぶには低く、砦と呼ぶには薄い。 それでも、門の内側に立つと人は守られている気がす…
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第288話 第十章「殿」後編
『第288話 第十章「殿」後編』 「追撃が再開する」 「橋障害と西曲路で遅滞する」 「俺が残れば、さらに稼げる」 「何に使う時間ですか」 由良と迅が使った問い。 真壁が、凱へ返した。 「最後の受領札を戻す」 「その担当は迅」 「あなたが残ると、旧白冠兵が残る」 凱は門内を見た。 離脱時刻を過ぎた三人が、まだ立っている。 彼らは自分の命令…
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第289話 第十一章「最後の一隊」前編
『第289話 第十一章「最後の一隊」前編』 五月三十日 午後六時二十六分 最後の一枚は、いちばん薄い。 だから、いちばん奪いやすい。 竜胆迅は、欠け四角の受領札を右脇へ入れた。 瀬尾に教わった場所。 札には七人の確認がある。 橋守交代班三。 西曲路の監査二。 門から離脱した警備二。 全員、橋を渡った。 全員、受入点で本人確認を受けた。…
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第290話 第十一章「最後の一隊」後編
『第290話 第十一章「最後の一隊」後編』 受領台の灯りが見えた。 タマキが入口に立っている。 南野は椅子。 七瀬は撮影機を回していない。 真琴は三枚の名簿。 由良は赤索を手へ持つが、能力を使っていない。 凱は椅子に座り、左膝を冷やしている。 「迅!」 タマキ。 「誰から!」 「西受入点と最後の七人!」 「誰へ!」 「青石台受領台!」…
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第291話 第十二章「捨てた土地、残った人」前編
『第291話 第十二章「捨てた土地、残った人」前編』 五月三十一日 午前六時十八分 撤退が終わると、医療の仕事が始まる。 時雨ミソラは、その言い方が嫌いだった。 終わる前から始まっていた仕事を、勝手に後ろへ並べたように聞こえる。 西採石所南詰めの仮診療区には、三列の寝台があった。 北医療路から来た者。 西採石路で傷ついた者。 南稜線路か…
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第292話 第十二章「捨てた土地、残った人」後編
『第292話 第十二章「捨てた土地、残った人」後編』 次の異議は、数字ではなく言葉だった。 「帰還名簿って名前を変えて」 剛嶺式家標を持っていた石工が言った。 「俺は帰ってない」 「西受入点へ到着した」 南野。 「到着と帰還は違う。家は向こうだ」 「青石台からは帰った」 「どこへ」 「ここへ」 「ここは家じゃない」 由良は説明所へ出る前…
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第293話 第一章「雨の匂い」前編
『第293話 第一章「雨の匂い」前編』 六月十二日 午前六時六分 雨は九日目になると、空から落ちているのか、街から滲んでいるのか分からなくなる。 七曲低地の屋根は、どれも同じ鈍い音を立てていた。 低地は、避難先としては評判が悪かった。 雨が溜まる。 階段が多い。 正式な地図と住民の地図で、道の名前が三割違う。 外環から来た人間に貸せる部…
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第294話 第一章「雨の匂い」後編
『第294話 第一章「雨の匂い」後編』 「子どもからだ!」 旧白冠の係が叫ぶ。 「歩ける高齢者を先にして!」 別の地区係が返す。 「何が正しいんだ!」 誰かが怒鳴った。 七瀬は、固定台の撮影機へ目を向けた。 レンズは全部を撮っている。 全部ではない。 第一口の正面だけだ。 右商店路の先に何があるか。 点検扉の内側で越智が生きているか。…
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第295話 第二章「十二の避難口」前編
『第295話 第二章「十二の避難口」前編』 六月十二日 午前七時三十一分 規則は、雨に濡れると読みにくくなる。 内容が変わるわけではない。 紙が波打ち、インクが滲み、読む人の指が冷えるだけだ。 それでも朽葉真琴は、濡れた規則ほど疑うべきだと思っている。 乾いた部屋で書かれた文章が、濡れた現場でも同じ形を保っているなら、文章ではなく現場の…
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第296話 第二章「十二の避難口」後編
『第296話 第二章「十二の避難口」後編』 「だから増やさない」 「分からないのに、分かった顔で並ばせる方が増える」 七瀬が二人の間へ入る。 「時刻を付ける。古くなったら裏返す。撮影は全体だけ。個人名は出さない」 真琴は紙を見る。 《第九口の受入所が満床》 《第十二口の受入未確認》 《第一口の所在確認中二》 「第一口の二名は、名前を出さ…
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第297話 第三章「最初の崩落」前編
『第297話 第三章「最初の崩落」前編』 六月十二日 午前九時四分 道路は、壊れる前に音を出す。 大きな音ではない。 伏見轟が聞いたのは、雨の下で砂糖菓子を割るような音だった。 ぱき。 次に、深い腹の中で石を擦る音。 環水三号塔の南側道路が、三センチ沈んだ。 「全員、端から離れろ」 轟は叫ばなかった。 叫ぶ前に、右手で路面へ白墨を引いた…
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第298話 第三章「最初の崩落」後編
『第298話 第三章「最初の崩落」後編』 塔を守るか。 道路を開けるか。 午後零時までに決める必要があった。 折れた給水管を止めれば、塔の上層は貯水槽だけになる。 止めなければ、道路下の空洞が広がる。 轟は塔の構造図を広げた。 「十四階以上は残れる」 「何人」 久我。 「設備と水を考えると十四。介助者込み」 「誰が決める」 「残る本人」…
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第299話 第四章「旗ごとの救助」前編
『第299話 第四章「旗ごとの救助」前編』 六月十二日 午後二時十八分 柵は、人を止めるために作られる。 もっと正確に言えば、柵を立てた側が、止めた人間を見なくて済むように作られる。 獅堂凱は、東門の鉄柵の前に立っていた。 雨は斜めだった。 門の上を渡る風が、濁った水を細い鞭にして顔へ打ちつける。 柵の内側に二百人。 外側に、少なくとも…
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第300話 第四章「旗ごとの救助」後編
『第300話 第四章「旗ごとの救助」後編』 凱は、青銅鐘へ手を触れた。 鳴らしていない。 「俺の承認は」 「いらない」 梅野ははっきり言った。 「でも、記録は持って帰って。ここだけで持つと、次に消える」 「分かった」 「それと、残る五人を『救助拒否』って書かないで」 「理由は」 「二人は屋根の排水を見てる。三人は家族を待つ。危険説明はし…
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第301話 第五章「病院を動かす」前編
『第301話 第五章「病院を動かす」前編』 六月十二日 午後六時十九分 病院には、動かせない物が多い。 壁。 酸素管。 古い恨み。 患者は、その三つのどれでもなかった。 「全員、屋上へ上げる」 風祭澪が言った。 外環共同病院の地下廊下で、水は足首まで来ている。 右耳を奥へ向けず、左耳を時雨ミソラへ向けて立つ。 「全員は動かせない」 ミソ…
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第302話 第五章「病院を動かす」後編
『第302話 第五章「病院を動かす」後編』 午前三時十二分。 携帯電源が一台、屋上へ届いた。 出力は、三つ全部を同時に動かせない。 吸引器。 保冷薬箱。 照明。 「吸引」 医療者が言う。 「照明」 搬送者が言う。 「保冷」 薬品担当が言う。 三人とも正しい。 正しい要求が三つある時、電源は三台に増えない。 ミソラは患者の状態を読む。 吸…
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第303話 第六章「水が逆流する」前編
『第303話 第六章「水が逆流する」前編』 六月十三日 午前七時十二分 地図は、濡れると嘘をつく。 紙が破れるからではない。 青い線が川に見え、黒い線が壁に見え、昨日まで通れた道が今日も通れるように見えるからだ。 環玉樹は、鉄道保守路の入口で地図を畳んだ。 「使わないの」 葦名透子が訊く。 「使います」 「畳んだ」 「持つのに使います。…
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第304話 第六章「水が逆流する」後編
『第304話 第六章「水が逆流する」後編』 少年には、水位が腰を越える。 女の車輪は、軌道溝へ落ちる。 トンネルそのものが使えないのではない。 同じ使い方ができない。 少年へは、壁際の高い保守棚を歩行板にする案。 女へは、車輪を固定する細い案内材を二本置く案。 「案内材、避難が終わったら外す」 作業員。 「なぜ」 「保守車が通れない」…
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第305話 第七章「王のいない指揮所」前編
『第305話 第七章「王のいない指揮所」前編』 六月十三日 午後零時三十六分 竜胆迅は、水の音が嫌いだった。 嫌いだと知ったのは、ずっと前だ。 水が耳を塞いだ時に息が止まると知ったのは、この日だった。 中央指揮所は、七曲低地の旧庁舎地下にある。 災害時に地下へ指揮所を置くのは、空襲と暴動には強い。 洪水には、思想から弱かった。 正面階段…
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第306話 第七章「王のいない指揮所」後編
『第306話 第七章「王のいない指揮所」後編』 一人だけ立派になる必要はない。 午後八時二十六分。 税務棟へ移る前の指揮所に、濡れた女が駆け込んできた。 「息子がいない」 名前を叫ぶ。 野々村が名簿を探す。 「同じ名前が三人います」 「十六歳。左耳に切れ目。黄色い靴」 「第六口の未照合に、年齢だけ一致が一人」 「そこへ放送して」 「全市…
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第307話 第八章「由良の帰る場所」前編
『第307話 第八章「由良の帰る場所」前編』 六月十三日 午後五時二十六分 鷹取由良は、帰る道を見つけるのが得意だった。 帰る時刻を決めるのは、苦手だった。 西稜線の風見塔から、剛嶺へ続く斜路が見える。 長雨で三日閉じていた道が、山側の排水によって細く現れた。 幅は一・二メートル。 左右は泥。 途中に二か所、地盤が浮いている。 通れる。…
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第308話 第八章「由良の帰る場所」後編
『第308話 第八章「由良の帰る場所」後編』 「受けた」 それだけ言った。 午後十時二十七分。 旧採石索道は、荷物を一つずつ下ろせる状態だった。 人を吊るす強度はない。 水巻たちは、索道の空籠へ負傷者の荷物を載せ、本人は山側の細い保守階段を歩く方法を選んだ。 左腕を痛めた男は、荷物を手放したくないと言った。 「中身」 郵便係。 「工具」…
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第309話 第九章「反証の連鎖」前編
『第309話 第九章「反証の連鎖」前編』 六月十三日 午後九時六分 誓痕は、奇跡ではない。 使った者の身体へ、請求書を送る契約だ。 火群七瀬の撮影機は、その請求書が届く瞬間を三つ同時に映していた。 北の工場通路。 旧貨物昇降機。 第八排水口。 工場通路では、若い誓痕者が落ちた梁を持ち上げている。 「あと十秒!」 彼の能力は、観衆が数える…
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第310話 第九章「反証の連鎖」後編
『第310話 第九章「反証の連鎖」後編』 広場から不満の声。 黒い画面へ、文字だけが出る。 《十五分後、救助と交代を同時に放送します》 《現在の避難情報は各地区板を確認してください》 編集係は、倒れた後の映像をつなぐ。 能力者と住民を、同じ長さへする。 完全に同じではない。 梁を上げた十秒。 仮受けを入れた二分。 腕を診た一分。 交代を…
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第311話 第十章「十三番目」前編
『第311話 第十章「十三番目」前編』 六月十四日 午前五時十四分 環玉樹は、道の長さを足した。 住宅棟裏階段、七十四メートル。 鉄道保守トンネル、百二十六メートル。 旧食堂搬入口、六十三メートル。 旧貨物昇降機、四十一メートル。 赤錆大工場クレーン連絡床、八十六メートル。 病院屋上斜路、九十二メートル。 給水塔外周歩廊、七十八メートル…
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第312話 第十章「十三番目」後編
『第312話 第十章「十三番目」後編』 工員八人が索を巻く。 深水が地上から、支点角度を指示する。 右肩は固定されたまま。 「左の柱、二巻き! 右は一! 同じにするな、床が違う!」 久我が連絡床への門を閉じる。 「閉じていい?」 通路担当者へ聞く。 「三分だけ!」 「受けた。三分」 水巻が給水弁を閉じる。 車両の水を半分、非常排水へ抜く…
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第313話 第十一章「災害のあとを救う」前編
『第313話 第十一章「災害のあとを救う」前編』 六月十四日 午後六時三十二分 避難が終わると、食事が始まる。 正確には、避難が終わる前から始めなければならない。 土門小麦は、十二の厨房を走っていた。 避難後の受付には、四つの列ができていた。 食事。 薬。 乾いた服。 名前を確認したい人。 列は互いに混ざる。 空腹の人が薬の列へ並ぶ。…
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第314話 第十一章「災害のあとを救う」後編
『第314話 第十一章「災害のあとを救う」後編』 十二厨房の交代表が作られた。 各厨房に、四つの役を置く。 火口。 配膳。 水と衛生。 休憩確認。 一人が二役を持たない。 交代は四時間。 夜間は三時間。 低血糖既往者は二時間ごとに摂食確認。 足を痛めている者は立ち作業を連続四十分まで。 「細かすぎる」 由良が装具を付けた右脚を伸ばして言…
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第315話 第十二章「帰還者名簿」前編
『第315話 第十二章「帰還者名簿」前編』 六月十五日 午前七時十七分 雨は、止む時に音を立てなかった。 火群七瀬は、静かになったことで気づいた。 屋根を叩く音がない。 排水管の唸りが弱い。 遠くの声が、雨の壁を越えずに届く。 「止んだ?」 タマキが空を見る。 「いまは」 七瀬。 「止んだって書かないの」 「七時十七分、降雨確認なし」…
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第316話 第十二章「帰還者名簿」後編
『第316話 第十二章「帰還者名簿」後編』 六月十七日 午後一時四十三分。 災害報告の公開会が、旧食堂で開かれた。 壇上はない。 十二の受付板を、床へ円形に置く。 中央板は、円の外。 「なぜ中央が外なの」 住民が訊いた。 野々村が答える。 「今回は、中央が答えを集めた場所で、答えを作った場所ではないからです」 「責任逃れ?」 「そう見え…
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第317話 第一章「七月一日」前編
『第317話 第一章「七月一日」前編』 二十歳になった瞬間、獅堂凱は泥水の中にいた。 午前六時十二分。 七曲低地の共同洗濯場で、排水溝につまった布切れを長い鉤で引き上げている。 水はもう膝までは来ない。 長靴の甲を覆うだけだ。 それでも、六日前まで人が流されていた場所の水には、深さとは別の重さがある。 「誕生日の朝にする仕事ではないです…
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第318話 第一章「七月一日」後編
『第318話 第一章「七月一日」後編』 七瀬は、軒下へ三種類の札を置いた。 《撮影可》 《声のみ可》 《撮影不可》 住民十三人へ、一枚ずつ選ばせる。 「俺の判定の話だ」 凱が言う。 「今の映像には、あなたの後ろで転びかけた人が映っています」 「事故記録だ」 「事故記録として保全します。公開映像に顔を出すかは別です」 桶を落とした女は、《…
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第319話 第二章「消える旗圧」前編
『第319話 第二章「消える旗圧」前編』 能力は、出た瞬間より、出る前の方が撮りにくい。 光なら画面へ入る。 動けば時刻を測れる。 人が倒れれば結果が残る。 だが、昨日まで誰も聞き返さなかった言葉を、今日一人だけが聞き返した。 その差は、映像の端で起きる。 七月二日、午前十時三十八分。 火群七瀬は、零番街の記録室で同じ声を十七回聞いた。…
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第320話 第二章「消える旗圧」後編
『第320話 第二章「消える旗圧」後編』 「能力検証に必要な範囲へ戻すため」 「こちらを現在の意思にします」 七瀬は二つの言葉を両方記録する。 最初の言葉を消さない。 後から選び直した方を、公開版へ使う。 公開とは、一度開けた扉を外すことではない。 中から閉め直せる扉を残すことだった。 三分後、模擬演説は再開された。 凱は座ったまま話し…
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第321話 第三章「元能力者」前編
『第321話 第三章「元能力者」前編』 水科イオは、止まった時計を直さない。 持ち主が止めた時刻を訊く。 理由を訊く。 もう動かしたいかを訊く。 動かしたいと言われた物だけ、蓋を開ける。 七月三日、午前九時。 中央審査局の正面階段に、止まった時計が二十三個並んでいた。 懐中時計。 壁時計。 台所用の砂時計。 腕へ巻くには大きすぎる工場時…
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第322話 第三章「元能力者」後編
『第322話 第三章「元能力者」後編』 番号は二十三。 「次」 イオ。 「はい、二十三番選手、入場です」 「番号で呼ばれるの、好き?」 「賭率なら」 「名前」 「鐘巻十夜。職業、最後」 「職業欄に入らない」 「地下王者」 「収入」 「前借り」 「住居」 「試合場の上」 「医療」 「延長中」 十夜は笑った。 胸の札には《終了 七月九日 零…
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第323話 第四章「公開判定」前編
『第323話 第四章「公開判定」前編』 規則の欠陥は、たいてい余白に出る。 書いた人間が忘れた場所ではない。 書いた人間が、書けば責任になると知っていて空けた場所だ。 朽葉真琴は、成人能力判定規則の結果票を窓へ透かした。 紙は上等だった。 透かしには中央審査局の紋章。 改竄防止の銀糸。 本人署名欄は、右手でも左手でも書ける幅がある。 問…
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第324話 第四章「公開判定」後編
『第324話 第四章「公開判定」後編』 「それが制度の楽さ」 イオは補助票を持っていた。 「能力欄。技能欄。停止欄。明日の仕事、住居、医療」 「王位は」 「ない」 「俺の代表資格へ影響する」 「だから、別に決めろ」 「現実は別ではない」 「別じゃないから、分ける」 凱は白い外套の肩へ付いた砂を払った。 手が震え、砂が一度では落ちない。…
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第325話 第五章「王の誕生日会」前編
『第325話 第五章「王の誕生日会」前編』 誕生日会は、誕生日から四日遅れて開かれた。 凱が四日間、開かなかったからだ。 「誕生日は七月一日」 タマキが言う。 「知っている」 凱。 「今日は五日」 「知っている」 「じゃあ、これは何」 「食事会だ」 「黒板に《王の誕生日会》って」 「乱馬が書いた」 凱は黒板の前に立った。 白墨で大きく書…
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第326話 第五章「王の誕生日会」後編
『第326話 第五章「王の誕生日会」後編』 食事代を払い、領収書を受け取る。 凱の前へ、一冊の相談表を置いた。 名前は番号へ置き換えてある。 公開同意のある職種と賃金だけ。 元英雄はいない。 洗濯工。 溶接工。 夜警。 配達補助。 病院清掃。 織物検査。 調理。 能力喪失前の賃金。 後の賃金。 住居継続。 医療。 本人が戻りたい仕事。…
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第327話 第六章「失敗する命令」前編
『第327話 第六章「失敗する命令」前編』 七月六日、午前九時四十一分。 旧王環競技場の南広場で、獅堂凱の命令は三つに割れた。 「下がれ」 凱はそう言った。 一番近くにいた作業員は、持っていた鉄管を下へ置いた。 二人目は、足場の下から一歩だけ退いた。 三人目は、自分に言われたのではないと思い、頭上の仮設幕を結び続けた。 三人とも、日本語…
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第328話 第六章「失敗する命令」後編
『第328話 第六章「失敗する命令」後編』 轟。 「気持ち」 「工事図へ気持ちを書くな」 「でも、入口は一人ずつある」 轟は反論せず、別紙へ《登録取消窓口》と書いた。 乱馬が座席図を指で叩く。 「一般客は、何を見る。証者でないなら、ただの客?」 「見ることを選んだ人」 七瀬。 「入場料を払った人」 小麦。 「途中で返金を求められる人」…
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第329話 第七章「迅との再戦」前編
『第329話 第七章「迅との再戦」前編』 七月八日、二十時零分。 旧王環競技場の四千二百席は、六百席だけ空いていた。 売れ残ったのではない。 売らなかった。 救護動線。 退出待機。 撮影拒否者のための遮光区画。 車椅子の回転半径。 興奮した観客同士を離す緩衝帯。 空席にも仕事がある。 空いているから、無駄とは限らない。 「空席を映して」…
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第330話 第七章「迅との再戦」後編
『第330話 第七章「迅との再戦」後編』 迅は段差の縁へ右足を置き、身体を沈める。 拳が髪を掠める。 迅の左拳が、凱の脇腹へ入る。 深くない。 肋骨の上へ、音だけを置く。 凱は下がらない。 王と呼ぶ声が、二百十人の登録席から立ち上がる。 《王》 揃っていない。 時刻も違う。 声量も違う。 凱の胸の誓痕が、遅れて光る。 王路不退が、二度目…
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第331話 第八章「能力なしの一撃」前編
『第331話 第八章「能力なしの一撃」前編』 第一ラウンドが終わった瞬間、場内へ三つの時刻が出た。 《現在時刻 二十三時五十五分零秒》 《休憩終了 二十三時五十六分零秒》 《興行終了 零時零分零秒》 三つ目だけ、鐘巻十夜の契約だ。 水科イオは、その表示を見て立った。 左腕の真鍮装具へ刻んだ目盛りではなく、場内時計を見る。 自分の時計だけ…
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第332話 第八章「能力なしの一撃」後編
『第332話 第八章「能力なしの一撃」後編』 第二ラウンド、四十六秒。 凱は能力を使わない。 使えないのか。 使わないのか。 外からは分からない。 分からないものを、観客は好きな方へ決める。 「温存してる!」 「もう消えた!」 「普通の拳で勝て!」 「王路を見せろ!」 四つの声が、同じ身体へ別の未来を投げる。 凱は、どれも拾わない。 迅…
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第333話 第九章「観客が待つ」前編
『第333話 第九章「観客が待つ」前編』 第二ラウンド、一分三十五秒。 火群七瀬は、迅と凱ではなく、画面の外を見ていた。 中央映像には、二人の全身。 東映像には、足元と七段差。 西映像には、時刻、停止条件、能力所見、身体技能。 どの画面も、真実の一部だった。 一部を三枚並べても、全部にはならない。 「旧映像コメント、増加」 補助記録員が…
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第334話 第九章「観客が待つ」後編
『第334話 第九章「観客が待つ」後編』 七瀬は西画面へ、時刻を並べた。 《本人停止宣言 二十三時五十八分十八秒》 《録音拍手停止 二十三時五十八分三十秒》 《停止後再生 十二秒》 「今それを出すのか」 乱馬が言う。 「今起きたことです」 「事故だ」 「誰の」 「音響の」 「再生条件を決めたのは」 乱馬の喉が動く。 「俺だ」 「なら、出…
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第335話 第十章「王冠を置く」前編
『第335話 第十章「王冠を置く」前編』 「ショック」 犬飼豪の声で、電流が流れた。 鐘巻十夜の身体が、一度だけ床から浮く。 肩が落ちる。 胸骨圧迫を再開。 一。 二。 三。 豪は数を声に出さない。 口で数えると、周囲の指示が遅れる。 頭の中で三十まで刻みながら、別の言葉を出す。 「気道、確保。換気二回。静脈路。投薬準備。時刻を言え」…
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第336話 第十章「王冠を置く」後編
『第336話 第十章「王冠を置く」後編』 「それも、俺の選択を奪う」 青年が黙る。 「力があれば王。力がなくても王。どちらも、俺を王から出さない」 「じゃあ、何て呼べばいい」 上段の女性。 「名前」 「凱?」 場内へ、初めて役職ではない呼び方が広がる。 凱の妹が客席にいないことを、凱は知っている。 彼女の話をしない。 病人を守る王の物語…
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第337話 第十一章「二十歳の署名」前編
『第337話 第十一章「二十歳の署名」前編』 王位が終わった翌朝、配給車は王位の終了を知らなかった。 七月九日、午前六時二十分。 旧王環競技場の東門に、乾燥豆一・八トン、飲料水三・二トン、医療用酸素十二本を積んだ車が着いた。 運転手は伝票を出す。 「受取責任者、獅堂凱」 朽葉真琴は、伝票を受け取らなかった。 「その委任は、零時二十四分に…
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第338話 第十一章「二十歳の署名」後編
『第338話 第十一章「二十歳の署名」後編』 「返済義務の有無と、生活の場所は別に検討します」 「みんな欄を増やす」 十夜は目を開ける。 「紙で、心臓も増やせる?」 医師が入ってきた。 「増やせません」 十夜の軽口を、軽口で返さない。 「昨夜の心室頻拍と心停止、既往歴、心筋の瘢痕から、植込み型除細動器の適応があります」 十夜が天井を見る…
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第339話 第十二章「名前で呼ぶ」前編
『第339話 第十二章「名前で呼ぶ」前編』 王冠の修理費は、零だった。 壊れていなかったからだ。 七月九日、十八時十二分。 伏見轟は、青銅の縁を右手の指で一周なぞり、布の上へ置いた。 「歪みなし。留め金、摩耗あり。内革、汗。清掃して保管」 「台座は」 迅が訊く。 「安全留めの油切れ。こっちは整備」 「王冠より台座が悪い」 「載せる物より…
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第340話 第十二章「名前で呼ぶ」後編
『第340話 第十二章「名前で呼ぶ」後編』 「私が聞く」 「俺へ戻すな」 「七日間の担当でしょう」 「今夜の十分は終わった」 女は凱を見る。 「不安じゃない?」 「不安だ」 「残りたい?」 「残りたい」 「じゃあ、なぜ帰る」 「残ることを、仕事の質と混ぜないためだ」 女は空床表へ自分の名を書く。 凱は席を立つ。 王だった頃、机を離れる時…
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第341話 第一章「母の映像」前編
『第341話 第一章「母の映像」前編』 八月九日 午前七時二十一分 火群七瀬は、母の声を三度止めた。 一度目は、偽物だと思ったから。 二度目は、本物だと思ったから。 三度目は、どちらでも困ると分かったからだ。 零番街記録室の窓は、朝から半分だけ開いている。 外では、昨夜の雨を吸った屋根布が、物干し索の上で重く垂れていた。部屋の中には、手…
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第342話 第一章「母の映像」後編
『第342話 第一章「母の映像」後編』 「管理会だけ。一般公開はしない」 「なぜ」 「題名だけで、買いたい者が増える」 「王だった頃より慎重」 迅。 「王だった頃は、売られる側の気持ちを価格表で見なかった」 凱は言った。 それから訂正する。 「見なかったのではない。見ても、配給のためだと後回しにした」 七瀬は、その言い直しを撮らなかった…
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第343話 第二章「記憶の値札」前編
『第343話 第二章「記憶の値札」前編』 八月九日 午後一時十四分 水科イオは、止まった時計を三つ持って蔵座へ入った。 一つは午前零時。 一つは午後六時四十分。 一つは針がなく、時刻そのものを失っている。 「持込品は査定しますか」 入口の係員が訊いた。 「しない」 「手荷物検査のため、用途を」 「左は指を休ませる時刻。右は薬を飲む時刻。…
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第344話 第二章「記憶の値札」後編
『第344話 第二章「記憶の値札」後編』 「失敗も?」 「特に」 「今の本人は」 「映像の外」 「だから美しい?」 「生活は、作品を濁らせる」 イオは、その男を嫌った。 嫌いな人の金でも、出品者の家賃になる。 そこが一番嫌だった。 「落札したら、リクへ追加で払う?」 「契約どおり」 「契約を変える?」 「価値が下がる」 「今の本人を入れ…
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第345話 第三章「石英の保管庫」前編
『第345話 第三章「石英の保管庫」前編』 石英綺理は、鍵を信用していなかった。 鍵は、閉じる道具ではない。 閉じた人間を一人に決める道具だ。 八月十日、午前六時四十分。 旧北墓地の納骨塔、その地下三層にある市民記憶庫〈パブリック・ヴォルト〉で、綺理は四十七本の封印瓶を並べ替えていた。 瓶は透明ではない。乳白、薄墨、錆色、群青。中身に合…
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第346話 第三章「石英の保管庫」後編
『第346話 第三章「石英の保管庫」後編』 言い終わる前に、階段の扉が内側へ膨らんだ。 迅が七瀬の前へ出る。 綺理は出なかった。 彼女は左側の棚へ走った。 走ると言っても、三歩だけだ。透明な雨衣の裾が石床を擦る。棚の脚へ足を掛け、最下段の真鍮輪を引く。 棚が沈んだ。 四十七本の瓶が、壁の中へ一斉に引き込まれる。 扉が破れた。 灰色の作業…
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第347話 第四章「入札者」前編
『第347話 第四章「入札者」前編』 獅堂凱は、値踏みされることに慣れていた。 王だった頃は、毎日された。 声はどれだけ通るか。 拳はどれだけ重いか。 命令に何人従うか。 裏切った時、何人が困るか。 ただし、それを紙に印刷されるのは初めてだった。 《元白王・成人後初月の能力減衰記憶。採取希望額、二百八十万環》 八月十一日、午前十時。 蔵…
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第348話 第四章「入札者」後編
『第348話 第四章「入札者」後編』 「意見を頼まれた」 「聞き方の」 「範囲を決めてください」 凱は白戸を見る。 白戸は真顔だった。 「おまえ、性格が悪くなったな」 「委任されていない評価です」 五人目は、連絡がつかなかった。 六人目は、用途の説明を聞かず撤回した。 七人目は、利子を要求した。 「一割」 「高い」 『元王の信用なら安い…
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第349話 第五章「複製禁止」前編
『第349話 第五章「複製禁止」前編』 一文字巴は、説明すれば人は自由になる、と信じていた。 正確には、説明されなければ自由には選べない、と信じていた。 二つは似ている。 似ている言葉ほど、違いに気づくのが遅い。 八月十二日、午前九時。 蔵座記憶競売所の第二説明室には、四十一脚の椅子と、五十六人がいた。 椅子が足りないのではない。 座り…
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第350話 第五章「複製禁止」後編
『第350話 第五章「複製禁止」後編』 「家族は」 「許可しなければ読みません」 「許可したかどうかを、家族は知る?」 「公開しない設定にできます」 「設定したことを、誰が知る」 巴の手が止まる。 拒否を守るための記録が、拒否した人の輪郭を増やす。 「最小限にします」 「最小は誰の最小」 榊が前歯へ舌を触れた。 「競売所運用上は、ロット…
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第351話 第六章「七瀬の所有権」前編
『第351話 第六章「七瀬の所有権」前編』 母親の遺品には、三種類ある。 捨てられるもの。 捨てられないもの。 捨てていいか、もう本人へ聞けないもの。 七瀬の部屋には、三番目しかなかった。 八月十三日、午前七時三分。 彼女は競売所裏手の編集確認室で、《編集卓十五分》の映像を見ていた。 正確には、見てよいと確認された十四秒だけを見ていた。…
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第352話 第六章「七瀬の所有権」後編
『第352話 第六章「七瀬の所有権」後編』 黒い鍵は、三人の間に残った。 午前八時二十六分。 午前九時十七分。 薄墨は編集確認室の床へ、フィルム片を六本並べた。 同じ救助場面。 一、女が階段へ戻る前。 二、灯里が手を上げる。 三、女が首を振る。 四、子どもが泣く。 五、女が歩く。 六、灯里がカメラを下げる。 「放送されたのは」 七瀬が聞…
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第353話 第七章「巴の反対」前編
『第353話 第七章「巴の反対」前編』 反対は、会議の最後に言う言葉ではない。 最初に置いて、そこから何をしてよいか決める言葉だ。 一文字巴がそう考えるようになったのは、自分の正しい説明で、誰かを出口まで追い詰めた後だった。 八月十四日、午前十時二十分。 競売所の第四閲覧室に、十二の黒い札が並んでいる。 表は無地。 裏にだけ三つの回答。…
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第354話 第七章「巴の反対」後編
『第354話 第七章「巴の反対」後編』 右人差し指は掌へ引かれ、白手袋の中で爪が皮膚へ当たっている。 「開きます」 綺理が言う。 「自分で」 「左手だけでは副木を外せない」 「できます」 「時間が掛かる」 「期限は過ぎました」 「だから」 「急ぐ理由が減った」 巴は言い返せなかった。 綺理が手袋を切る。 榊は規約の紙を片づけず、巴の顔も…
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第355話 第八章「競売場の乱闘」前編
『第355話 第八章「競売場の乱闘」前編』 拳で守れるものには、形がある。 形があるものは、拳で壊せる。 迅は、その二つが同じ物を指す時が一番嫌いだった。 八月十五日、午前九時五十八分。 蔵座記憶競売所の円形会場には、十二の容器が吊られていた。 中心の回転台から等間隔に伸びた十二本の腕。その先に、乳白、群青、錆色、薄墨の記憶容器。床から…
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第356話 第八章「競売場の乱闘」後編
『第356話 第八章「競売場の乱闘」後編』 真琴が帳簿箱の隣へ、新しい紙を置く。 《競売人負傷。代理執行未決定。競売停止継続》 旧警備員が呻いた。 「停止を誰が決めた」 「既に止まっています」 真琴。 「誰が続けるかを決めていない」 「同じだろ」 「違います。止まっている状態を、誰かが所有しているわけではない」 凱は医療出口までの道を空…
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第357話 第九章「原本を壊すか」前編
『第357話 第九章「原本を壊すか」前編』 保管者が最も恐れる言葉は、《壊せ》ではない。 《念のため残しておけ》だ。 念のため、は期限を持たない。 期限のない保管は、いつか保管者の欲望になる。 八月十六日、午前八時十五分。 石英綺理は、蔵座記憶競売所の地下保管庫で十二の容器を見上げていた。 乱闘の痕は、床へ残っている。 搬送輪の下に亀裂…
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第358話 第九章「原本を壊すか」後編
『第358話 第九章「原本を壊すか」後編』 十一番の所有者候補から、破棄手順の最終回答が来た。 限定照合室の壁に、文字だけが出る。 《私が階段を歩く部分。子どもの顔。拒否後の声。灯里が戻るよう指示する手。全部消す。灯里が一人で映る前後は決めない》 七瀬が読み終えるまで、綺理は何も言わなかった。 「私の母の手も?」 文字が増える。 《私へ…
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第359話 第十章「百の複製」前編
『第359話 第十章「百の複製」前編』 環玉樹は、百という数が嫌いだった。 大人は、九十九まで数えておいて、百になると急に《たくさん》と言う。 百人。 百通。 百の複製。 百には、一番目と百番目がいる。 待つ時間も、受け取る場所も、断り方も違う。 八月十七日、午前五時四十分。 タマキは蔵座記憶競売所の地下搬送路に、百枚の切符を並べていた…
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第360話 第十章「百の複製」後編
『第360話 第十章「百の複製」後編』 西の点検路は、幅七十センチ。 大人二人がすれ違えない。 天井には古い郵便管。床には拒否受領の革紐と、不達用の金属鎖が交差している。 タマキは両腕を広げた。 「通れない」 「君より細い」 薄墨。 「荷物がある」 「透明片一枚」 「盗んだ荷物」 「重さは変わらない」 「重さで運ぶ物を決めない」 薄墨は…
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第361話 第十一章「所有者を分ける」前編
『第361話 第十一章「所有者を分ける」前編』 火群七瀬は、母の記録を手に入れた。 正確には、母が映る記録のうち、一部を共同で保管する話し合いへ参加する権利を得た。 言い換えると、ずいぶん小さくなる。 小さくなるから、正確になる。 八月十八日、午前九時。 蔵座記憶競売所の円形会場から、入札板は外されていた。 十二の容器は吊られていない。…
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第362話 第十一章「所有者を分ける」後編
『第362話 第十一章「所有者を分ける」後編』 「俺は怪我してない」 「右肋」 「打撲」 「診察は」 「した」 「費用は」 「払った」 「領収書」 「捨てた」 会場の全員が、迅を見た。 「何だ」 七瀬が手を差し出す。 「次から私へ渡してください」 「なぜ」 「あなたは金銭記録を失くす」 「自分で持つ」 「今、捨てたと言った」 「今回だけ…
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第363話 第十二章「見ない権利」前編
『第363話 第十二章「見ない権利」前編』 記憶庫の棚は、埋まっている方が安心する。 空いている棚には、返せなかった物が見える。 石英綺理は、空いた棚を布で隠さなかった。 八月十八日、午後六時二十分。 旧北墓地地下の市民記憶庫には、十二の区画が新しく作られていた。 返却棚、五。 共同保管棚、三。 限定閲覧棚、二。 破棄確認棚、一。 偽物…
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第364話 第十二章「見ない権利」後編
『第364話 第十二章「見ない権利」後編』 「箱の用途は確認しない。受取人の姿を確認しない。返却先を帰路記録へ残さない」 背後から、初めて声がした。 「空だと、軽いですか」 性別も年齢も分からない声。 折部は振り返らない。 「箱は軽い」 「記憶は」 「俺には分からない」 「壊したら、軽くなると思った」 「なりましたか」 「それを聞かない…
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第365話 第一章「すべての角に目」前編
『第365話 第一章「すべての角に目」前編』 九月十四日 午前七時十二分 街角の目は、瞬きをしなかった。 東部環状路の交差点に、昨日までなかった黒い半球が三つ増えている。 信号柱の中ほど。 薬局の雨樋の下。 共同食堂の換気筒。 どれも人間の顔より少し高い場所にあり、見上げなければ視界へ入らない。見上げれば、こちらを見ているかどうか分から…
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第366話 第一章「すべての角に目」後編
『第366話 第一章「すべての角に目」後編』 七瀬は固定台の撮影機を受信端末へ向けた。 「条件は」 『あなたが共同運用者として登録すること。監視の欠陥を直す側へ来る。外から正義を投げない』 「閲覧権の範囲」 『全部』 「保存期限」 『あなたが決める』 「被写体の同意」 『街路で、毎回取るのか』 「取れない場所を、取ってよい場所とは呼びま…
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第367話 第二章「監視同意票」前編
『第367話 第二章「監視同意票」前編』 九月十五日 午前九時三分 朽葉真琴は、同意票を三つに分けた。 読んで署名したもの。 読まずに署名したもの。 読んでも、署名しないと困るもの。 紙の色は全部同じだった。 薄い水色。 右上に目の印。 下端に小さな文字。 《監視協力へ同意しない場合も、生命維持に必要な配給を拒否しない》 但し書きは、そ…
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第368話 第二章「監視同意票」後編
『第368話 第二章「監視同意票」後編』 支柱の下へ薄い革を一枚入れ、留め具を二穴緩める。 子どもは起きない。 登録済み列が一人進む。 職員は、男の登録札を読み取った。 《協力点数・高》 《受領優先》 薬袋と配給箱が出る。 男は受け取り、真琴へ言った。 「俺は監視に賛成だ」 「受領しました」 「脅されてない」 「それも受領しました」 「…
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第369話 第三章「撮る者、撮られる者」前編
『第369話 第三章「撮る者、撮られる者」前編』 九月十六日 午前六時五十八分 監視室には、窓がなかった。 窓の代わりに、百九十二枚の画面がある。 九十六節点。 一つにつき二画面。 左は現在。 右は十二秒前。 事故が起きた時、見逃した自分と、見逃す前の自分を並べるためだと説明された。 水科イオは、その説明が嫌いだった。 「十二秒前の私へ…
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第370話 第三章「撮る者、撮られる者」後編
『第370話 第三章「撮る者、撮られる者」後編』 ユウ。 「足りない?」 「誰が優先度を変えたか」 イオは五つ目を書く。 《優先度変更者》 端末は、管理番号しか返さない。 人の名は出ない。 「ここから」 イオが言う。 「誰が見るかを、見る」 綺理が訂正する。 「見ないで」 「難しい」 「だから仕事になる」 午前七時三十四分。 監視室の朝…
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第371話 第四章「薄墨の画角外」前編
『第371話 第四章「薄墨の画角外」前編』 九月十七日 午後六時二十分 薄墨影治は、隠れていなかった。 天環東部の九十六画面すべてへ、同時に映っていた。 旧広告塔の足元。 監視室の正面。 薬局の角。 学校裏の歩道橋。 南の共同水場。 煤色の長い上着。 片側だけ濃い遮光眼鏡。 青みの黒髪が右目へ落ちる。 同じ顔。 違う時刻。 現在映像の横…
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第372話 第四章「薄墨の画角外」後編
『第372話 第四章「薄墨の画角外」後編』 見学廊下の先で、警報が鳴った。 《不審侵入》 《見学者四名》 《危険人物照合・一名》 透明板の上へ、迅の顔が出る。 女が身を固くする。 「あなた?」 「俺」 「何をした」 「今、歩いた」 灰色の警備服が階段の上下から来た。 先ほどの二人とは別。 上から三人。 下から二人。 監視画面の案内で、迷…
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第373話 第五章「迅の顔が増える」前編
『第373話 第五章「迅の顔が増える」前編』 九月十八日 午前六時四十一分 竜胆迅は、同じ朝に七人いた。 一人目は東環橋のたもとで、閉店した薬局の鎧戸へ拳を向けている。 二人目は南の共同食堂で、配給鍋の列へ割り込んでいる。 三人目は第八診療所の裏口から、白い箱を抱えて走り去る。 四人目は旧広告塔の鏡廊下へ入る。 五人目は西市場の硝子店前…
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第374話 第五章「迅の顔が増える」後編
『第374話 第五章「迅の顔が増える」後編』 「条例にする?」 「しません」 「即答」 「すべての暴力を予告制にすれば、予告できない救助まで違反になります」 「子どもの案を一息で壊すな」 「壊していません。適用範囲を」 「長い」 少年はもう聞いていなかった。 七瀬は、今の会話を撮っていない。 代わりに、路面へ残った二種類の足跡を紙へ写し…
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第375話 第六章「証者のストライキ」前編
『第375話 第六章「証者のストライキ」前編』 九月二十日 午前五時五十九分 勤務は、六時に始まる。 だから水科イオは、五時五十九分四十七秒に話し始めた。 「十三秒だけ、まだ仕事じゃない」 東部第三閲覧室。 四十八席のうち、夜勤者が二十七人。朝勤者が三十一人。引き継ぎのため、十人分だけ椅子が二重に使われている。 机には、現在映像と十二秒…
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第376話 第六章「証者のストライキ」後編
『第376話 第六章「証者のストライキ」後編』 午前八時五十三分。 伏せた画面の三灯が、同時に二つ光った。 三十八番席。 赤――非常紐。 十二番席。 黄――設備異常。 ユウと伏木が互いを見る。 「どっち先」 「別々」 イオ。 「人、足りない」 「私が黄」 「画面、見ない仕事だろ」 「設備担当へつなぐ。内容は見ない」 ユウは三十八番席の覆…
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第377話 第七章「七瀬がカメラを伏せる」前編
『第377話 第七章「七瀬がカメラを伏せる」前編』 九月二十一日 午前九時四十三分 東部時計広場の中央には、昔、噴水があった。 黒雨のあと水は止まり、浅い円形の池だけが残った。今はその底へ演説台が組まれ、周囲を八台の監視端末が見下ろしている。 八台の向きは、市民から分からない。 黒い半球。 動く時も音がしない。 止まっている時ほど、どこ…
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第378話 第七章「七瀬がカメラを伏せる」後編
『第378話 第七章「七瀬がカメラを伏せる」後編』 『それは死角じゃない。別の監視だ』 「呼ぶかどうかを、利用者が選びます」 『選べない者は』 「案内を置きます」 『案内者が見る』 「見ない当番も置きます」 『言葉遊びだ』 「設計です」 轟が低く言った。 薄墨の顔が、広告板の端で轟へ向く。 『建物は、人を裏切らないと思うか』 「裏切る」…
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第379話 第八章「轟とイオの段差」前編
『第379話 第八章「轟とイオの段差」前編』 九月二十二日 午前七時十六分 入口は、人を選ぶ。 東部監視実証区の地下保守路は、幅八十六センチ。 入口の階段、十三段。 一段の高さ、二十三センチ。 手すりは右側だけ。 扉の下に、十一センチの防水框。 誓痕者が走り抜けるには、困らない。 伏見轟は、一段目で頭をぶつけた。 「却下」 額を押さえな…
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第380話 第八章「轟とイオの段差」後編
『第380話 第八章「轟とイオの段差」後編』 監視画面は遮蔽の外だけを映す。 中の老人の顔は見えない。 しかし、非常紐の番号と、入口の圧力板が二人分を示す。 「中、二人!」 ユウ。 「出口、浴場側開ける!」 タマキが低いシャッター板を押す。 始動荷重三・八キロ。 彼の体重で動く。 スエが老人の手を取り、浴場側へ出る。 「走らないよ」 ス…
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第381話 第九章「見ない当番」前編
『第381話 第九章「見ない当番」前編』 九月二十三日 午前六時二十分 見ないための部屋には、窓が三つあった。 一つは東向き。 一つは廊下向き。 一つは、監視端末へ向いている。 石英綺理は、三つ目へ布を掛けた。 「全部、隠すの」 坂下ユウが訊く。 「端末だけ」 「外から見えない」 「中からも見ない」 「見ない当番なのに、隠れてるって言わ…
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第382話 第九章「見ない当番」後編
『第382話 第九章「見ない当番」後編』 「誰といる」 「公開されていません」 「俺へ連絡を」 「本人へ、あなたが連絡を希望していると伝えます。返答するかは本人が決めます」 「ふざけるな」 男は婚姻票をつかむ。 「紙には夫と書いてある」 「所在の鍵とは書いてありません」 真琴。 「家族を壊すのか」 「既に離れる意思がある時、監視で戻すこ…
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第383話 第十章「監視塔への潜入」前編
『第383話 第十章「監視塔への潜入」前編』 九月二十四日 午後十時三十七分 王をやめると、扉は開かなくなる。 獅堂凱は、旧広告塔の正面で三度説明した。 「私は、東部監視制度の監査協力者として、物理保存庫への立入りを求める。理由は、午後十時三十一分から閲覧ログの一斉削除が始まったためだ。令状に相当する緊急保全申請は、朽葉真琴と真壁梓が提…
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第384話 第十章「監視塔への潜入」後編
『第384話 第十章「監視塔への潜入」後編』 「あなたは撮る側」 綺理。 「見られた側でもあります」 「自分の分だけ」 「はい」 「全部は開かない」 「はい」 七瀬が遠隔鍵を押す。 最後の系統が止まった。 最後の系統が止まっても、数字はすぐ一つにならなかった。 中央盤には、四つの残存率が出ている。 映像本体、五十二。 閲覧ログ、六十四。…
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第385話 第十一章「操作者を映す」前編
『第385話 第十一章「操作者を映す」前編』 九月二十五日 午前四時十八分 朝より先に、画面が止まった。 東部第三閲覧室。 四十八席。 現在映像と十二秒前の映像。 昨夜まで絶えず動いていた百九十二の小さな街が、一枚ずつ灰色へ変わる。 故障ではない。 坂下ユウが三十八番席の覆いを下ろす。 伏木レンが十二番席を。 続いて、四番、七番、十一番…
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第386話 第十一章「操作者を映す」後編
『第386話 第十一章「操作者を映す」後編』 「まだ分からない」 「怖い?」 「怖い」 「見続けるより」 「比べられない」 「状態」 「それ、嫌い」 「知ってる」 薄墨の図は、だんだん埋まる。 技術協力。 同時に、彼がどの節点を違法に使ったかの自白でもある。 七瀬は図全体を撮らない。 撮影停止中だからではない。 住居窓、病院入口、匿名申…
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第387話 第十二章「死角を残す条例」前編
『第387話 第十二章「死角を残す条例」前編』 九月二十五日 午後二時五十八分 条例案には、目が九十六個あった。 東部時計広場の床へ、節点ごとの札が並べられている。 白い札。 撤去案。 黄色い札。 限定閲覧案。 青い札。 継続運用案。 色だけでは分からない人のため、縁の形も違う。 白は切れ目。 黄は三角。 青は丸。 水科イオは、三つの色…
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第388話 第十二章「死角を残す条例」後編
『第388話 第十二章「死角を残す条例」後編』 一枚の票へ押し込めれば、百人目の空席で作ったものを自分たちで壊す。 真琴は採決を六つに分けた。 一、九十六節点の個別処遇。 二、継続節点の閲覧者記録。 三、死角路と緊急呼出。 四、見ない当番と緊急開鍵。 五、監視拒否と配給・住居・雇用の分離。 六、三十日後の再審査。 「六回も投票するのか」…
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第389話 第一章「沈んだ居住区」前編
『第389話 第一章「沈んだ居住区」前編』 十月二十日 午前六時四十分 風祭澪は、治療へ向かう人間の荷物をしていなかった。 紺の救難上着。 三本の真鍮笛。 白い救助索。 濡れた床へ置かれた防水図板。 高架下診療所へ入院する者というより、診療所を移設しに来た隊長に見える。 「荷物は」 環玉樹が訊いた。 「これで全部」 「着替え」 「一組」…
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第390話 第一章「沈んだ居住区」後編
『第390話 第一章「沈んだ居住区」後編』 百舌の表示板が窓へ打ちつけられた。 《外部潜水 不要》 《設備図なし》 《障害になる》 迅が読んだ。 「正論」 「行かない?」 タマキ。 「正論と命令は同じじゃない」 「行く?」 「潜水班の指示に従う」 「後半」 「間違ってたら止める」 タマキは鉄箱を背負う。 箱は防水ではある。 潜水用ではな…
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第391話 第二章「搬送先未定」前編
『第391話 第二章「搬送先未定」前編』 十月二十日 午前八時十二分 水科イオは、救助者名簿の二行目で鉛筆を止めた。 一行目。 《氏名または本人が選ぶ呼称》 二行目。 《搬送先 東医療口》 三行目。 《本人確認》 「順番が逆」 紙を机へ置く。 仮設指揮所は、旧水道局の資材庫を使っている。 長机。 潜水装備。 九本の実働酸素ボンベ。 白い…
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第392話 第二章「搬送先未定」後編
『第392話 第二章「搬送先未定」後編』 地上では分からない。 タマキが振動索へ手を置く。 二回。 進行。 返答なし。 一回長く。 停止。 返答なし。 「索が壁へ挟まってる」 轟が言う。 タマキは索を強く引こうとする。 轟が手首を押さえる。 「引くな。向こうの首になる」 「届いてない」 「届かない時に強くするのが一番危ない」 「じゃあ」…
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第393話 第三章「潜水表」前編
『第393話 第三章「潜水表」前編』 十月二十日 午前九時三十七分 時雨ミソラは、人間を四十三人と書かなかった。 紙の左端に、四十三の横線を引く。 一人に一本。 その横へ、分かっていることだけを書く。 《意識》 《呼吸》 《体温》 《負傷》 《水深》 《空気溜まり》 《本人が選べる時間》 《医療上の推奨》 《本人の行先》 《変更》 同じ…
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第394話 第三章「潜水表」後編
『第394話 第三章「潜水表」後編』 タマキ。 七瀬は首を横へ振る。 「最初の円は、位置確認」 「選択じゃない」 「はい」 「どう区別」 「二回目に長く押す」 「長いって何秒」 「三秒」 「水中で数える人」 「本人以外が数えると、本人の動作へ意味を足します」 「じゃあ本人が三つ数える」 「数えられない人は」 「一回目は確認、二回目は選択…
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第395話 第四章「声の届かない同意」前編
『第395話 第四章「声の届かない同意」前編』 十月二十日 午前十一時五分 火群七瀬は、水中カメラへ黒い布を巻いた。 「撮らないなら、持っていく理由は」 迅が訊いた。 「撮るかどうかを、現場で本人に訊くためです」 「訊く前から光る」 「だから布」 「重い」 「私も知っています」 撮影機は手回し式の小型機。 防水殻。 腰帯固定。 左肩へ掛…
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第396話 第四章「声の届かない同意」後編
『第396話 第四章「声の届かない同意」後編』 七瀬は潜らない。 左肩を冷やす。 地上で札番号を受ける。 東二。 西二。 中央一。 途中変更、一。 変更前は西。 変更後は東。 理由は、同伴していた年少者の呼吸が悪化したため。 本人が、自分も東へ行くと選んだ。 「家族口を選んだのに」 施設職員が言う。 「それが本人希望だった」 「今も本人…
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第397話 第五章「百舌の同意順」前編
『第397話 第五章「百舌の同意順」前編』 十月二十日 午後零時四十分 水の中では、速い人間が強いとは限らない。 速く動けば水を押す。 押した水が、自分より先に相手へ届く。 拳は短くなる。 蹴りは戻らない。 身体の大きさが、そのまま抵抗になる。 竜胆迅は、百舌忍より速く泳げなかった。 百舌は腕を大きく回さない。 肩を落とし、肘を身体へ寄…
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第398話 第五章「百舌の同意順」後編
『第398話 第五章「百舌の同意順」後編』 年少者。 保護者。 百舌。 迅。 水中では手を握れない。 連結帯だけが二人の間へある。 途中、年少者の身体が横へ流れる。 百舌が肩へ触れようとし、止める。 年少者が腰帯を選んでいたことを覚えている。 腰帯へ手を掛ける。 身体を戻す。 保護者は、百舌の腕をつかむ。 止めるのではない。 礼でもない…
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第399話 第六章「酸素の残量」前編
『第399話 第六章「酸素の残量」前編』 十月二十日 午後一時四十六分 伏見轟は、扉を見た時、まず人間の数を数えた。 扉一枚。 蝶番四つ。 手動軸一本。 軸受け二つ。 水位差一・二メートル。 人間、十七人。 外にいる者ではない。 まだ水底にいる者だ。 機械の数字だけを見れば、開け方は三つあった。 切る。 爆ぜさせる。 圧力を均す。 人間…
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第400話 第六章「酸素の残量」後編
『第400話 第六章「酸素の残量」後編』 残る十二人へ、地上から選択条件をもう一度送った。 三口の受入れは、数字だけなら合計四十三を超えている。 東。 あと三人。 西。 あと四人。 中央。 あと五人。 残る十二と一致する。 「きれい」 施設職員が言った。 ミソラが首を横へ振る。 「人の希望まで三、四、五とは限らない」 「能力で振り分けれ…
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第401話 第七章「タマキの条件」前編
『第401話 第七章「タマキの条件」前編』 十月二十日 午後二時二十三分 真鍮の輪には、取扱説明書がなかった。 正確には、あった。 輪の外側へ、白い文字で十二行。 《対象者を中央へ立たせる》 《接触板を七点へ装着する》 《適性語を三回復唱させる》 《対象行動を反復させる》 《発現確認後、条件を記録する》 十二行のどこにも、対象者が断る方…
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第402話 第七章「タマキの条件」後編
『第402話 第七章「タマキの条件」後編』 ミソラは潜水表と、タマキの呼吸数を見る。 「浅水訓練は合格。単独潜水は不可。迅または施設潜水員と対。最大潜水六分。浮上後十五分休止。耳痛、吐き気、視線の揺れが出たら中止」 「僕が中止を選ぶ?」 「選べる。症状が判断を奪う場合、私が止める。その時は代行と書く」 「受領」 凱が地上指揮記録へ署名す…
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第403話 第八章「封緘便〈シールド・ルート〉」前編
『第403話 第八章「封緘便〈シールド・ルート〉」前編』 十月二十日 午後二時三十六分 最初の一メートルで、タマキは上下を間違えた。 圧力筒の床を蹴ったつもりだった。 身体が横へ流れ、肩が壁へ当たる。 水中では、床も壁も同じ硬さをしている。 迅が腰索を一度引く。 停止。 タマキは壁へ手を置いた。 気泡の上がる方を確かめる。 目で見た上と…
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第404話 第八章「封緘便〈シールド・ルート〉」後編
『第404話 第八章「封緘便〈シールド・ルート〉」後編』 休止十四分目に、西口の火災警報は誤作動と判明した。 仕切りは設置されたままにした。 誤作動だったから、面会拒否の必要まで消えるわけではない。 タマキは受領票へ書く。 《火災なし》 《受入条件変更あり》 《本人は変更後条件へ同意》 《能力経路は使用せず、既存索で搬送》 初発現の記録…
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第405話 第九章「水底の格闘」前編
『第405話 第九章「水底の格闘」前編』 十月二十日 午後三時十四分 人を水の中で殴ると、殴った側も逃げられない。 拳が当たる。 相手の面体がずれる。 水が入る。 相手は息を失う。 助けるために近づく。 今度は自分の呼吸器をつかまれる。 勝った方から溺れる。 竜胆迅は、それを格闘と呼ぶのが嫌だった。 格闘には、終わりがある気がする。 水…
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第406話 第九章「水底の格闘」後編
『第406話 第九章「水底の格闘」後編』 百舌の誓痕が切れた。 二度目の無言同意。 三人の施設潜水員の腕から、紫の線が消える。 次の一動作は終わった。 東へ一列にする動作。 結果として、西索は外され、中央索は半分巻かれた。 けれど、完全には失われていない。 タマキの投げた予備索。 迅が固定した短棒。 《ヒダリ》が握り続けた輪。 普通の物…
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第407話 第十章「行き先を選ぶ指」前編
『第407話 第十章「行き先を選ぶ指」前編』 十月二十日 午後三時三十二分 最後の五人がいる空気溜まりは、教室ではなかった。 教室だった場所の、天井裏だった。 床が沈み、机が浮き、天井板が剥がれた結果、人が呼吸できる空間が一つ残った。 高さ五十五センチ。 幅四メートル。 長さ六メートル。 五人が横になれば、肩が触れる。 立てない。 膝を…
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第408話 第十章「行き先を選ぶ指」後編
『第408話 第十章「行き先を選ぶ指」後編』 「脈」 ミソラの地上補助者が訊く。 イオは自分で右手を左手首へ置く。 「整。九十二」 「胸痛」 「なし」 「息苦しさ」 「作業相当」 「膝」 「伸展位。両方。予測内」 「立てる?」 「立たない」 能力を使った直後に、自分で休止を選ぶ。 拍手はない。 タマキは床へ座るイオを見る。 方向が分から…
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第409話 第十一章「浮上」前編
『第409話 第十一章「浮上」前編』 十月二十日 午後三時四十六分 最後の五人は、同時には出られなかった。 東医療口は、担架一台。 西家族口は、自力移動一人。 中央保留室は、三人。 三つの入口が開いていても、途中の水路は一部を共有する。 先に東。 次に西。 最後に中央。 順番は、行先の優劣ではない。 担架の幅。 圧力扉の閉鎖時間。 酸素…
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第410話 第十一章「浮上」後編
『第410話 第十一章「浮上」後編』 四十三という数字は、三つの口から同時には返らなかった。 東、十七。 西、十四。 中央、十一。 一人足りない。 中央圧力筒からは、最後の成人が出ている。 円札も受領係が見ている。 名簿だけが十一。 「誰」 凱。 中央の受領係が札を一枚ずつ読む。 年少者。 百舌。 呼称未定。 最後の三人はある。 以前の…
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第411話 第十二章「方角を失う」前編
『第411話 第十二章「方角を失う」前編』 十月二十一日 午前七時十二分 環玉樹は、病室から便所へ行けなかった。 廊下を知らないからではない。 昨夜、二回通った。 左へ十六歩。 突き当たりを右。 手すりの切れ目が便所の入口。 住所で言えば簡単だった。 《東医療棟二階・第三区画・洗面所隣》 タマキは住所を覚えている。 身体が、左を右だと言…
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第412話 第十二章「方角を失う」後編
『第412話 第十二章「方角を失う」後編』 十月二十六日 午後二時三十分 百舌の報告聴取は、病室で行われた。 治療を止めて審理へ出ない。 右手の点滴。 左手の打鍵器。 酸素管。 通訳は巴。 ただし、百舌は途中で通訳を替えられる。 七瀬は撮影しない。 百舌が希望したのは、固定文字記録と、手話の二系統。 最初の欄。 《役割》 百舌は左手で打…
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第413話 第一章「記念劇の募集」前編
『第413話 第一章「記念劇の募集」前編』 十一月二十二日 午前八時十二分 紅葉カナタの稽古場には、椅子が十二脚しかなかった。 十一脚は客席。 残る一脚は、途中で帰る人の荷物置きだった。 十二人目が来たらどうするのか、と訊かれるたび、カナタは答えを変えた。 「立ち見です」 「追加公演です」 「人気の証明です」 「消防法違反です」 最後の…
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第414話 第一章「記念劇の募集」後編
『第414話 第一章「記念劇の募集」後編』 「あなたは、型をいつ覚えた」 「六歳です」 「自分で選んだ?」 「選択肢がありました。動作試験、記録照合、施設外訓練」 「どれを選んでも施設?」 「当時は」 「今は」 「試験官です」 「答えになっていない」 「質問が広い」 「狭くします。今、ここへ来ることを選んだ?」 レムの指が、一拍を数えた…
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第415話 第二章「配役された英雄」前編
『第415話 第二章「配役された英雄」前編』 十一月二十三日 午前九時 獅堂凱は、王冠を返した後で、王の兜を渡された。 青銅製。 額に青い灯の印。 側頭部から後頭部まで、竜胆岳の顔の寸法へ合わせた内張り。 「似合います」 係員が言った。 「それは評価か」 「衣装適合です」 「誰に適合した」 「英雄役に」 「英雄の名は」 「統合先導者です…
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第416話 第二章「配役された英雄」後編
『第416話 第二章「配役された英雄」後編』 二つの記録が並ぶ。 午後二時。 レムは、英雄動作の先読みを実演した。 停止区画の外。 仮設街路。 八つの低い障害物。 英雄役八人が順番に、記録された救助動作を行う。 一人目。 倒壊板を跨ぐ。 右手で避難者の肩。 左足を外へ。 レムは三動作前に、次の足位置へ白い印を置く。 当たる。 二人目。…
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第417話 第三章「誓痕停止区画」前編
『第417話 第三章「誓痕停止区画」前編』 十一月二十五日 午前七時五十五分 環玉樹は、入口を住所にできない場所が嫌いだった。 青灯再演劇場の正門には番号がある。 《旧操車場第九門》 門を抜けた先にも番号がある。 《参加者受付一》 《更衣区画二》 《誓痕停止区画・北境界三》 問題は、三の先だった。 街が動く。 昨日まで東にあった集合住宅…
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第418話 第三章「誓痕停止区画」後編
『第418話 第三章「誓痕停止区画」後編』 「脚本にない」 「地図」 「英雄役しか持ってない。私のは南まで」 タマキが鉄箱から、移動予定図を出した。 固定住所。 現在位置。 移動予定。 朝、三種類持ってきた。 可動街区の予定図には、住宅模型が西へ移動した後に開く保守通路が書かれている。 今は南西へ三十センチずれた。 「この隙間」 タマキ…
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第419話 第四章「普通の身体」前編
『第419話 第四章「普通の身体」前編』 十一月二十六日 午前九時十二分 水科イオは、能力を失った人間へ「普通」という言葉を使わない。 普通は便利だ。 便利な言葉は、使った人間が後片づけをしない。 腕が前より上がらない。 走ると胸が乱れる。 昨日できた重さが、今日は持てない。 それを普通と呼べば、本人の身体ではなく基準の方が正しくなる。…
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第420話 第四章「普通の身体」後編
『第420話 第四章「普通の身体」後編』 「床が動いてる!」 観覧席には、効果音として届いた。 イオは走った。 左前腕の真鍮は冷たい。 膝は硬い。 能力はない。 普通ではない。 ただ、いま持っている身体だった。 北住宅の床は、予定より二度高く持ち上がった。 一度目は演出。 二度目は巻上の戻り。 外部の観覧者には、どちらも同じ揺れに見える…
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第421話 第五章「カナタの失敗稽古」前編
『第421話 第五章「カナタの失敗稽古」前編』 十一月二十七日 午後一時七分 演出家には、失敗した時ほど台詞が増える種類がいる。 紅葉カナタは、その種類だった。 「まず最初に申し上げたいのは、昨日の件が単純な機材故障という一語で処理できないこと、しかし同時に、訓練全体の理念まで一件の不具合で否定するのも拙速であること、そして私自身、安全…
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第422話 第五章「カナタの失敗稽古」後編
『第422話 第五章「カナタの失敗稽古」後編』 「書く。講習修了。重傷判断はしない」 「それでいい?」 「よくない時、医療者へ渡す」 「私は避難者役でした」 「歩ける?」 「はい」 「荷物」 「十キロくらい」 「測ってないなら八」 「減らすんですか」 「増やすより安全」 白いカードへ書く。 《歩行可》 《八キロまで》 《応急手当講習》…
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第423話 第六章「本番の事故」前編
『第423話 第六章「本番の事故」前編』 十一月三十日 午前十時三十分 映像は、似ているだけで人を連れていく。 灰色の紙片。 低い空。 水に濡れた模型街区。 銀色の避難灯。 黒い雨合羽。 火群七瀬は、母の映像を知っている。 母が撮った黒雨当日の断片にも、同じ角度の屋根があった。 同じ形の斜路。 同じように、画面の左から右へ逃げる人。 似…
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第424話 第六章「本番の事故」後編
『第424話 第六章「本番の事故」後編』 避難者役の一人が、閉じた列から抜けようとした。 「別の道を探す!」 「一人で行くな」 イオ。 「待ってたら水が」 「怖い?」 「はい」 「行きたい?」 「はい」 「一人?」 「誰か」 「技能」 「配管工見習い」 「地図」 「少し」 「誰と」 観客席から見える高台にいた生活技能役が手を上げる。 「…
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第425話 第七章「台本にない避難」前編
『第425話 第七章「台本にない避難」前編』 正午十八分 伏見轟は、壁が壊れる音と、壁が壊される音を聞き分ける。 壊れる音は、最初に小さい。 金属が迷う。 木が耐える。 ボルトが一本だけ仕事をやめる。 壊される音は、最初から大きい。 人間は、自分が力を使ったことを知りたがる。 西階段を塞いだ住宅模型は、壊れている。 だが、轟が拳を入れれ…
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第426話 第七章「台本にない避難」後編
『第426話 第七章「台本にない避難」後編』 物語では、英雄が決める。 現場では、決める人が不明な仕事ほど危ない。 「赤、放水」 「黄、西の仮支持」 「青、看板と滑車の返却」 「白、観覧席への事故告知。再演の中止。認証。役札」 轟は白区画へ、カナタとレムの名を書かなかった。 「誰の仕事」 進行係。 「分からん」 「責任者は」 「決める仕…
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第427話 第八章「英雄役を降りる」前編
『第427話 第八章「英雄役を降りる」前編』 午後一時二十七分 獅堂凱は、兜を脱ぐ時にも順序を決める。 顎紐。 後頭部の留め具。 右側の飾り。 左側の飾り。 両手で持ち上げる。 乱暴に外せば、拒絶へ見える。 丁寧に外せば、儀式へ見える。 どちらも、観客のための動作になり得る。 凱は留め具を一つだけ外し、兜を頭から抜いた。 飾りが頬を擦る…
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第428話 第八章「英雄役を降りる」後編
『第428話 第八章「英雄役を降りる」後編』 「これでは、英雄再演の評価ができません」 「中止した」 カナタ。 「運営は認めていない」 「現場がもう演じていない」 「私は、事故対応を再演へ統合できます」 「私たちは統合を拒否する」 「誰の総意ですか」 カナタは六十四枚を見る。 「総意にはしない。演じない人は演じない。続けたい人は?」 二…
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第429話 第九章「観客が舞台に上がる」前編
『第429話 第九章「観客が舞台に上がる」前編』 午後一時四十三分 観覧席の人間は、事故の外にいる。 そう決めたのは、柵だった。 透明障壁。 黒い境界。 入場券。 観客席番号。 身体は近い。 役割は遠い。 火群七瀬は、観覧席へ現在映像を戻すため、予備回線を探した。 主回線は八城が切った。 副回線は事前映像へ固定されている。 非常放送は…
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第430話 第九章「観客が舞台に上がる」後編
『第430話 第九章「観客が舞台に上がる」後編』 「名簿は」 「重複欄」 「複雑です」 「生きてる」 観客席で、年配の女性が手を上げた。 「家族確認と医療。糖尿の薬が切れる」 「出口へ」 「中に孫がいる」 「名」 「言いたくない」 「座席番号だけ」 「それなら」 限定照合。 孫は参加者名簿にいる。 現在位置、東市場。 顔や役名は公開しな…
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第431話 第十章「無能力の殺陣」前編
『第431話 第十章「無能力の殺陣」前編』 午後二時十一分 竜胆迅は、七歩目を知りすぎている。 退く。 源を見つける。 七つの暴力を一つへ束ねる。 返す。 能力が止まっている区画でも、身体は順番を覚えていた。 一歩目で相手の肩を見る。 二歩目で床を測る。 三歩目で守る対象を背後から外す。 四歩目で呼吸を落とす。 五歩目で距離を切る。 六…
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第432話 第十章「無能力の殺陣」後編
『第432話 第十章「無能力の殺陣」後編』 「今」 「午後二時二十九分四秒」 「細かい」 「必要」 凱が迅の隣へ座る。 元王が、濡れた高台の床へ。 「八歩目」 凱が言う。 「見た?」 「途中から」 「何」 「おまえが七を待った」 「待ってない」 「止まった」 「足場」 「赤紐を押した」 「見すぎ」 「七瀬に言われる」 「お前も」 凱は自…
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第433話 第十一章「再演を中止する」前編
『第433話 第十一章「再演を中止する」前編』 午後二時二十九分 紅葉カナタは、制御室へ入る前に右足の固定帯を締め直した。 痛みは六。 新しい断裂の感触はない。 歩ける。 走らない。 階段は手すり。 技能札へ書いたことを、自分だけ例外にしない。 制御室の扉は半開きだった。 中には、止まらない舞台時計。 事前映像。 放水量表示。 可動街区…
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第434話 第十一章「再演を中止する」後編
『第434話 第十一章「再演を中止する」後編』 真鍮器具が温かくなる。 強くはない。 昔のように右腕へ力が満ちない。 時計の針が進む。 二十三時五十八分二十秒。 轟の声。 「荷重、北へ二。南、抜けた」 二十五秒。 「制動爪、一本目」 技師。 「入った」 二十八秒。 「二本目、半分」 三十秒。 能力が働く。 主軸の回転が、一度だけ抵抗する…
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第435話 第十二章「名前のない出演者」前編
『第435話 第十二章「名前のない出演者」前編』 十二月一日 午前六時十八分 水科イオは、同じ作業着で起きた。 上着の右袖に機械油。 左膝に乾いた泥。 左右の違う靴は、脱いだ場所も違っていた。 動力室の椅子で眠ったらしい。 背もたれへ斜めに寄り、真鍮器具のついた左前腕を腹へ載せている。 「おはようございます」 凱が言った。 床へ座ってい…
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第436話 第十二章「名前のない出演者」後編
『第436話 第十二章「名前のない出演者」後編』 イオ。 「針を二時三十六分へ戻すか、三時七分へ残すか」 「人数が多い方の時刻が、本当になる?」 「なりません」 「なら、決め方が違う」 時計担当者は、三枚の札を並べた。 《二時三十六分――中止宣言》 《三時七分――機構停止》 《現在時刻――作業継続》 「一台の時計へ、三つの仕事をさせたの…
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第437話 第一章「逮捕」前編
『第437話 第一章「逮捕」前編』 十二月二十七日 午後二時四十分 終わった訓練の後片づけは、訓練より人数が少ない。 英雄役を降りた者は帰り、避難者役を務めた者も帰り、観客は最初から片づけの役を与えられていない。 だから、午後の旧訓練劇場には、役名のない札と、役名のない仕事だけが残っていた。 竜胆迅は、床へ貼りついた白墨の線を靴底で擦っ…
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第438話 第一章「逮捕」後編
『第438話 第一章「逮捕」後編』 午後六時二十分。 旧訓練劇場へ戻る予定だった時刻。 中央抑制拘置所の外門には、百三十人が集まっていた。 白冠の旧隊員。 零番街の配達仲間。 再演演習の参加者。 能力を失った者。 能力が戻らないことを恐れる者。 子どもを閉じ込めてほしい親。 閉じ込められた子を返せという親。 同じ人数でも、同じ要求ではな…
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第439話 第二章「逃げない脱獄者」前編
『第439話 第二章「逃げない脱獄者」前編』 十二月二十八日 午前六時十六分 久我檻は、鍵穴の音で人を聞き分ける。 右へ一度、左へ半分。 そこから押し込む看守は、急いでいる。 左へ一度、戻してから右へ回す看守は、規則を守っている。 鍵を入れたまま呼吸を止める看守は、扉の向こうを怖がっている。 賀茂冬実は、必ず最初に逆方向へ回した。 開か…
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第440話 第二章「逃げない脱獄者」後編
『第440話 第二章「逃げない脱獄者」後編』 B-14から笠井の声が飛ぶ。 「隊務上の根拠は。開放命令者を提示してください」 「収容者は黙れ!」 「私は反対する。私の名で。扉開放後に待機していた鎮圧配置は、偶発対応ではありません」 B-22が震えている。 「離せ」 「独房へ戻るか」 「戻りたくない」 「黄色い線、越えるか」 「越えたい」…
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第441話 第三章「独房の人数」前編
『第441話 第三章「独房の人数」前編』 十二月二十九日 午前七時零分 水科イオの薬は、時刻どおりに来た。 収容理由は来なかった。 薬剤師は、錠剤を透明な小皿へ置いた。 不整脈薬。 胃薬。 電解質補助。 名前を読み上げず、番号を読む。 「B-16。本人確認」 「水科イオ」 「番号で」 「薬袋に名前、書いてる」 薬剤師の視線が袋へ落ちた。…
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第442話 第三章「独房の人数」後編
『第442話 第三章「独房の人数」後編』 配膳口から、檻が紙を差し入れた。 正式名簿ではない。 番号と、収容令の分類だけ。 七十二行。 全行に、同じ文。 《能力不安定者または関連者》 「正式?」 「正式」 「ひどい」 「知ってた」 「見ると、ひどい」 イオは紙と壁を並べた。 紙は一行。 壁は七十二の違い。 「檻」 「何」 「これ、外へ出…
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第443話 第四章「条文を壁に書く」前編
『第443話 第四章「条文を壁に書く」前編』 十二月三十日 午前九時二分 一文字巴は、長い文章が嫌いではない。 長い文章の中に、短い責任が隠れているのが嫌いだった。 中央抑制拘置所の面会申請書は、表裏で四枚あった。 一枚目は申請者。 二枚目は収容者。 三枚目は会話内容。 四枚目は、会話の結果として起こり得る危険への同意。 危険の主語はな…
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第444話 第四章「条文を壁に書く」後編
『第444話 第四章「条文を壁に書く」後編』 午前十一時四十六分。 拘置所内放送が鳴った。 「収容者各位へ告知します」 冬実の声。 低い。 同じ音量。 「壁面、配膳具、寝台への無許可記載は、施設保全規則第八条に基づき停止してください。記載済みの内容は職員が確認後、消去します。異議は正式書式で提出できます」 B-17で、迅が天井を見た。…
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第445話 第五章「面会の拒絶」前編
『第445話 第五章「面会の拒絶」前編』 十二月三十一日 午前八時二十分 火群七瀬は、空の椅子を撮るのが嫌いだった。 椅子は、座った人の代わりにならない。 それでも映像の中では、たいてい人より長く残る。 中央抑制拘置所の面会室には、椅子が四脚あった。 収容者側に一脚。 訪問者側に一脚。 記録担当者用に一脚。 残りの一脚は、誰のものか書い…
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第446話 第五章「面会の拒絶」後編
『第446話 第五章「面会の拒絶」後編』 「今の案を、審理資料へ入れる」 担当者の顔色が変わる。 「未公開の広報案です」 「公開しない。誰が、何を削って、何を言おうとしたかを内部記録へ」 七瀬は言う。 「私の映像を使ったかどうかではなく、空席を機会と呼ぶ運用があったことを残す」 「撤回します」 「撤回、受領。作った事実は消さない」 「職…
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第447話 第六章「檻を審理室にする」前編
『第447話 第六章「檻を審理室にする」前編』 一月一日 午前七時十二分 元日だからといって、法律は休まない。 法律を運用する人間は休む。 窓口は閉まり、電話は当直へ回り、押印できる者が餅を焼いている。 その結果、休まない法律ほど、休日には動かなくなる。 朽葉真琴は、中央行政資料庫の裏口で十五分待った。 雪は降っていない。 空気だけが白…
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第448話 第六章「檻を審理室にする」後編
『第448話 第六章「檻を審理室にする」後編』 「自分で書くと、少し軽く見える」 七瀬。 「私が重く見える書き方をしてください」 「嫌」 「なぜ」 「重さは審理で決める。私は隠さなかった時刻だけ撮る」 七瀬は、真琴の顔ではなく、申告時刻札を撮る。 午後三時十二分。 正月の資料庫で見つかった古い入口は、施設だけを開くものではなかった。 真…
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第449話 第七章「証人席は床」前編
『第449話 第七章「証人席は床」前編』 一月二日 午前六時五十八分 環玉樹は、床が動いていると思った。 拘置所の床は、動かない。 動いているのは、タマキの内耳だった。 目を閉じると、右へ傾く。 目を開けると、白い壁が左へ流れる。 だから、起きた時は天井の継ぎ目を三本見る。 一。 二。 三。 数えるなと迅には言う。 自分は数える。 人間…
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第450話 第七章「証人席は床」後編
『第450話 第七章「証人席は床」後編』 審理は五件終わった。 即時退所、二。 期限付き残留、二。 医療移送の検討、一。 結論はそろわない。 机も、椅子も、そろわない。 一件目は配膳板。 二件目は寝台。 三件目は床。 四件目は車椅子。 五件目は声を出さず、文字板だけ。 審理官は、外套を脱いで配膳箱へ掛けた。 「ここを法廷と呼ぶことには…
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第451話 第八章「久我の鍵」前編
『第451話 第八章「久我の鍵」前編』 一月三日 午前五時四十二分 鍵は、集めると安心する。 久我檻は、それを知っている。 安心は、正しい形をしていない。 金属の輪へ通され、腰へ下げられ、歩くたびに鳴る。 環水三号塔では、百四十七本を持っていた。 住戸。 食料庫。 診療所。 ポンプ室。 屋上。 外門。 そのうち、本当に必要だった鍵が何本…
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第452話 第八章「久我の鍵」後編
『第452話 第八章「久我の鍵」後編』 午前八時二十分。 七十二枚は集まらなかった。 封印参加、五十六。 参加拒否、九。 返答なし、七。 五十六枚を輪へ挟む。 九人分は、理由なしで件数だけ記録する。 七人分は、《未確認》。 黒輪を透明箱へ入れる。 封印帯を三本。 一本は檻。 一本は審理官。 一本は、収容者側の紙帯を束ねたもの。 七瀬は箱…
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第453話 第九章「廊下の防衛」前編
『第453話 第九章「廊下の防衛」前編』 一月四日 午前十時十九分 扉が開く音には、二種類ある。 出すための音。 出たことにするための音。 竜胆迅は、後者を先に聞いた。 黒鍵が回る前に、戸当たりが外れた。 金属が一度、軽く跳ねる。 続いて、独房扉が三センチ開いた。 開錠ログは動かない。 迅は寝台から立った。 右足を床へ。 左足を半歩引く…
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第454話 第九章「廊下の防衛」後編
『第454話 第九章「廊下の防衛」後編』 午前十時三十八分。 本支保が入った。 轟は自分の身体を抜く前に、荷重計を読む。 「右、六百二十。中央、四百九十。左、三百」 「単位は」 真琴が回線へ戻って聞く。 「キロ」 「説明へ入れてください」 「後」 「今、記録中です」 「今、抜く」 轟は右足を半歩下げる。 左肩を上げない。 腰を支保から離…
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第455話 第十章「公開審理」前編
『第455話 第十章「公開審理」前編』 一月五日 午前六時四十分 一文字巴は、七十二人を一つの文へ入れない。 人数は一つにできる。 七十二。 だが、七十二人が同じ理由で閉じ込められた、と書いた瞬間、制度と同じになる。 中央抑制拘置所の旧配膳室には、三枚の板が並んでいた。 《資料》 《判断》 《本人》 床には、昨日より二センチずれた白線。…
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第456話 第十章「公開審理」後編
『第456話 第十章「公開審理」後編』 午後四時五十八分。 最後の審理が終わった。 七十二人。 結果は三つ。 即時退所――二十九人。 施設内残留――十八人。 別施設への期限付き移送――二十五人。 巴は数字だけを黒板へ書く。 その下へ、注意を三つ。 《残留=同意ではない》 《移送=有罪ではない》 《退所=責任消滅ではない》 二十九人の中に…
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第457話 第十一章「扉を開けさせる」前編
『第457話 第十一章「扉を開けさせる」前編』 一月五日 午後五時三十二分 獅堂凱は、命令できる場所へ立っていた。 中央抑制拘置所の外門前。 右に、施設職員二十六人。 左に、被収容者の家族と支援者百人以上。 正面に、外部審理官。 背後に、白い門。 門の向こうに、七十二の扉がある。 旧白冠の王だった頃なら、一言で足りた。 開けろ。 短い命…
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第458話 第十一章「扉を開けさせる」後編
『第458話 第十一章「扉を開けさせる」後編』 二十一番目の開錠で、可視ログが一分ずれた。 B-33。 根拠札は午後八時二十八分。 本人再確認、八時二十九分。 受入確認、八時二十九分三十二秒。 黒二担当の開錠、実際には八時三十分四秒。 可視ログには、八時二十九分四秒と印字された。 「機械が正しい」 黒二担当が言う。 「七瀬の時刻札が一分…
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第459話 第十二章「出所ではない自由」前編
『第459話 第十二章「出所ではない自由」前編』 一月六日 午前七時零分 水科イオの薬は、時刻どおりに来た。 今日は番号ではなく、名前で呼ばれた。 「水科イオさん。本人確認」 「水科イオ」 「服薬内容を」 「不整脈薬。胃薬。電解質補助」 「体調は」 「膝、昨日より三。脈、今は飛んでない」 「十段階?」 「十なら歩かない。三は文句を言う」…
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第460話 第十二章「出所ではない自由」後編
『第460話 第十二章「出所ではない自由」後編』 「三秒」 「数える?」 「時計ある」 真鍮装具が三度、振動する。 イオは立つ。 冷気の中で、一度止まる。 寒いから。 自由を噛みしめるためではない。 午前九時十八分。 B棟のB-51は、施設内残留を選んだ。 薬は二日分。 住居の鍵は返却されていない。 外に、会いたくない相手がいる。 残留…
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第461話 第一章「能力回収炉」前編
『第461話 第一章「能力回収炉」前編』 二月十四日 午前七時十四分 止まった時計は、正しい時刻を二度だけ指す。 水科イオは、その言い方を嫌っていた。 止まった時計は、一日中ずっと止まっている。 たまたま文字盤と現実が重なる二秒を、正しさと呼ぶのは、動かなかった二十三時間五十九分五十八秒への侮辱だった。 だから、明日班の相談机には、時計…
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第462話 第一章「能力回収炉」後編
『第462話 第一章「能力回収炉」後編』 「余剰の持ち主」 「個別契約に基づきます」 「見せて」 「公開範囲が」 「持ち主が決めた範囲」 「照会には時間が必要です」 「何分」 若い実務者が一瞬、止まる。 「通常、三営業日」 「今日は金曜。三営業日は水曜」 「はい」 「二月十九日、午後五時まで」 「受付時刻によります」 「十一時三十四分」…
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第463話 第二章「病院と同じ電線」前編
『第463話 第二章「病院と同じ電線」前編』 二月十五日 午前五時四十分 大きな機械は、たいてい自分より小さな嘘を幾つも抱えている。 伏見轟は、機械より嘘のほうが軽いとは思わなかった。 中央能力回収炉の地下配電層には、五本の母線が走っていた。 黒。 白。 青。 赤。 黄。 図面上では、それぞれ別の役目を持つ。 黒は回収炉。 白は中央抑制…
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第464話 第二章「病院と同じ電線」後編
『第464話 第二章「病院と同じ電線」後編』 午後二時三分。 中央の若い実務者が、追加の配電記録を持ってきた。 氏名は名乗らない。 前日と同じ灰色の腕章。 同じ役職名。 「手動切替には、中央決裁が必要です」 「物理的には」 轟が訊く。 「必要ありません」 「なら先にやる」 「制度上、違法です」 「止めるのは」 「中央の承認が必要です」…
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第465話 第三章「停止反対」前編
『第465話 第三章「停止反対」前編』 二月十六日 午後一時 王をやめるのは、一日でできる。 王だった時に集まった視線が、自分から離れるまでには、もっとかかる。 獅堂凱は、中央能力維持局前の広場で、そのことを知った。 四百八十七人。 火群七瀬が、撮影機を腰高の固定台へ載せながら数えた人数だ。 うち、設備利用者として首から青い札を下げてい…
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第466話 第三章「停止反対」後編
『第466話 第三章「停止反対」後編』 「私は私の代表」 「全員分の欄は作れません」 「紙が足りない?」 「判断が成立しません」 「紙より狭い判断だね」 冬城は返事をしなかった。 凱は二枚の白紙を持ち上げた。 破らない。 裏返す。 裏は何も書かれていない。 「ここへ、本人の条件を書く」 「正式書式ではありません」 「正式にする」 「でき…
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第467話 第四章「患者の拒否」前編
『第467話 第四章「患者の拒否」前編』 二月十七日 午前六時三十分 医療者は、患者へ希望を渡す仕事だと言う人がいる。 時雨ミソラは、希望より先に副作用を渡した。 希望は、聞いた人が好きな形へ直せる。 副作用は、直せない。 外環共同病院、第二保護病棟。 十一枚の説明票。 同じ紙ではない。 文字が大きいもの。 触って区別できる穴の位置を変…
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第468話 第四章「患者の拒否」後編
『第468話 第四章「患者の拒否」後編』 十一人分の結果が、病院会議室へ並んだ。 停止。 継続。 条件付き。 保留。 説明拒否。 同じ人数へ足しても、十一にならない。 一人が複数の欄を持つからだ。 中央の若い実務者が眉を寄せる。 「これでは、賛否を集計できません」 「集計するために聞いたんじゃない」 ミソラが答える。 「決裁には賛否が必…
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第469話 第五章「医師の命令違反」前編
『第469話 第五章「医師の命令違反」前編』 二月十八日 午前四時十二分 命令違反には、命令を聞いた証拠が要る。 時雨ミソラは、聞かなかったふりをしなかった。 外環共同病院の夜勤詰所。 中央から届いた命令書は、三枚だった。 一枚目。 《中央設備停止準備に伴う保護対象者の予防搬送》 二枚目。 《移送先――中央能力維持局第三安定棟》 三枚目…
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第470話 第五章「医師の命令違反」後編
『第470話 第五章「医師の命令違反」後編』 手動補助室へ着く。 受領者は、病院設備係と当直看護師。 中央班ではない。 患者が自分で言う。 「ここまで。次は、また訊いて」 記録係が時刻を書いた。 午前六時二十二分。 強制移送命令が続く病院の中で、一件の移動だけが、本人の選択で完了した。 午前六時二十五分。 通信が戻る。 冬城征士郎の声が…
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第471話 第六章「三段階停止」前編
『第471話 第六章「三段階停止」前編』 二月十九日 午前九時 法律は、読めない人を守るために長くなる。 長くなった法律は、読めない人を増やす。 朽葉真琴は、その循環を職業上の事故だと思っていた。 中央能力維持局から借りた会議室。 壁は白い。 窓は開かない。 机は楕円。 どこへ座っても、誰かの正面になる。 真琴は机を三つへ分けた。 長机…
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第472話 第六章「三段階停止」後編
『第472話 第六章「三段階停止」後編』 午後二時四分。 最初の用紙は、赤字で読めなくなった。 真琴は捨てなかった。 《第一案・不採用》と書く。 不採用理由。 利益と危険が同じ段落。 中央安全値と本人上限が同一。 分離回答の片方だけを引用できる。 再起動不能箇所の表示が小さい。 保守期限がない。 第二案を作る。 その時、工員が訊いた。…
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第473話 第七章「タマキの搬送票」前編
『第473話 第七章「タマキの搬送票」前編』 二月二十一日 午前六時五分 荷物は、黙っていても送り主にできる。 人間を荷物にするには、まず黙らせる必要がある。 環玉樹は、病院の搬送票を全部捨てた。 「捨てないで」 病棟事務が言った。 「古い様式」 「まだ有効」 「本人の欄がない」 「家族欄がある」 「本人は家族じゃない?」 「そういう意…
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第474話 第七章「タマキの搬送票」後編
『第474話 第七章「タマキの搬送票」後編』 「じゃあ一単位」 「高い」 「飲め」 タマキは飲んだ。 水を飲み終える前に、中央の連絡員が走ってきた。 「もう一件、急送を」 手には、小さな制御鍵。 「送り主」 タマキが訊く。 「中央設備統括」 「本人」 「部署です」 「受取人」 「暖房第二」 「受領」 「まだです」 「目的」 「中央同期へ…
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第475話 第八章「轟の手動切替」前編
『第475話 第八章「轟の手動切替」前編』 二月二十三日 午前四時五十分 再起動しない機械には、停止後の取扱説明書が要る。 再起動する機械にも要る。 違うのは、説明書の最後に「戻す」と書くか、「戻さない理由」と書くかだった。 伏見轟は、上水第三地域手動所の床へ、白い四角を十二個描いた。 一。 受電。 二。 圧力。 三。 逆止め。 四。…
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第476話 第八章「轟の手動切替」後編
『第476話 第八章「轟の手動切替」後編』 「工具箱」 鉄志が拾う。 角が潰れている。 「誰の」 「工場」 「貸出票」 「ある」 「修理」 「俺」 「勤務外」 「今は発注先」 「請求しろ」 「箱のへこみまで?」 「へこみで蓋が閉まらん。運搬中に工具が落ちる」 警備班長が、扉の近くに立っていた。 命令は中止されていない。 盤へ触れる経路だ…
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第477話 第九章「機械室」前編
『第477話 第九章「機械室」前編』 二月二十四日 午前八時五十六分 人を殴る時、拳は相手へ向く。 仕組みを殴る時、拳はどこへ向けばいい。 竜胆迅は、中央機械塔の地下七層で、答えを見失った。 天井から、銀の線が四十八本降りていた。 細い管。 光ではない。 透明な被覆の中を、灰色の液体と細かな銀粉が流れている。 四十八本は、円形の分配輪へ…
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第478話 第九章「機械室」後編
『第478話 第九章「機械室」後編』 右手を開く。 小指と薬指の動きは、朝と同じ。 古い痺れは増えていない。 新しい痛みは、左肩だけ。 午前九時十二分十九秒。 抵抗器十三番から、白い煙が上がった。 陶器が焼ける匂い。 「割れる?」 迅が立ちかける。 「座る」 イオ。 「煙」 「釉薬の油。温度は上限下」 「本当に」 「温度札、百七十八。上…
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第479話 第十章「冬城の最終決裁」前編
『第479話 第十章「冬城の最終決裁」前編』 二月二十四日 午前九時三十二分 王は、決める者だと言われる。 獅堂凱は、決めた後に残った人間を見ない者が、王になりやすいのだと思っていた。 中央機械塔、最上階決裁室。 床は円形。 中央に、二枚の文書台。 左。 《設備全面継続案》 右。 《設備一斉停止案》 真琴たちが作った三束は、壁際の補助卓…
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第480話 第十章「冬城の最終決裁」後編
『第480話 第十章「冬城の最終決裁」後編』 「今、身体へ戻ったから言うな」 「私は、以前から」 「四十八人へ送ってた」 「単独の致死反証を避けた」 「説明せずに」 「生存率を上げた」 「傷つけた」 「救った」 「両方」 凱は言った。 「両方残す」 冬城の膝が折れた。 倒れる前に、黒い傘が床へ落ちる。 凱は身体を受け止めない。 肩を抱け…
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第481話 第十一章「街が暗くなる」前編
『第481話 第十一章「街が暗くなる」前編』 二月二十四日 午前十時十二分 火群七瀬は、街が暗くなる時刻を一つにしなかった。 時刻は、九つあった。 十時十二分。 十時十九分。 十時二十七分。 十時四十一分。 午前十時四十一分。 暖房第二の中央同期灯が消える。 地域循環機は、予定より十九秒早く手動へ移った。 「早い」 中央書記が言う。 「…
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第482話 第十一章「街が暗くなる」後編
『第482話 第十一章「街が暗くなる」後編』 「発表する。ただし、長期影響不明」 「症状低下十一」 「発表する。回復とは書かない」 「停止の成果が伝わりません」 七瀬が言う。 「成果を伝えるために、人の経過へ結末を付けない」 「市民は判断できません」 「判断を助けるために、分からないことを分からないまま出す」 「不安が広がります」 「既…
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第483話 第十二章「再起動しない朝」前編
『第483話 第十二章「再起動しない朝」前編』 二月二十六日 午前六時一分 止まった時計は、朝を知らない。 水科イオは、朝を知っていた。 膝が固い。 右腕は、昨日より重い。 能力が戻ったわけではない。 眠れなかった身体が、自分の重さを思い出しただけだ。 明日班の相談机には、時計が四十八個になっていた。 四十八個目。 午前十一時十二分で止…
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第484話 第十二章「再起動しない朝」後編
『第484話 第十二章「再起動しない朝」後編』 「文字は見える」 「あなたが置いた」 「私が」 「なぜ」 「止めた側が、再起動希望を消さないため」 「再起動を認める?」 「条件ができれば、本人が選ぶ」 「条件を作るには、中央設備が要る」 「同じ設備は使わない」 「技術的に、完全な分離は困難です」 「困難と不可能を一つにしない」 「あなた…
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第485話 第一章「同じ歩調」前編
『第485話 第一章「同じ歩調」前編』 三月二十日 午前八時四十二分 千二百四人が同じ足で歩くと、街は一匹の大きな動物に見える。 火群七瀬は、その映像を嫌いになるまで、十七秒かかった。 中央行政広場の北端。 手回し撮影機は、補修用の昇降台に固定してある。 七瀬は腰の高さにあるクランクを右手で回し、左肩へ荷重を乗せない。 肩は、上げなけれ…
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第486話 第一章「同じ歩調」後編
『第486話 第一章「同じ歩調」後編』 「E前からD後ろ。Cへ波及中」 「止められる奴は」 「権限確認中」 「名前」 「まだない」 迅の黄褐色の目が、頭上の白い行政棟を見た。 殴る相手を探した目ではない。 出口を探す目だった。 E区画の後方では、馬瀬鈴の声が上がった。 「押すな! 押してる奴は、前の背中じゃなく自分の踵を見ろ!」 市場の…
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第487話 第二章「調停官」前編
『第487話 第二章「調停官」前編』 三月二十日 午前八時四十七分 御厨朝は、命令書に自分の名前があるのを、広場へ着く三分前に知った。 知らなかった、と言えば少しは軽くなる種類の責任もある。 知らなかったこと自体が責任になる種類もある。 これは、後者だった。 中央行政回廊の南入口。 黒い車両から降りた朝は、象牙色の上衣の裾を一度だけ払っ…
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第488話 第二章「調停官」後編
『第488話 第二章「調停官」後編』 そこへ、中央管制の若い記録係が、透明袋に入れた三枚の紙を抱えて来た。 年齢は朝と大きく違わない。 灰色の制服の袖が長く、両手が半分隠れている。 「御厨調停官。配布版の控えです」 「あなたが複写した?」 「はい」 「何時」 「午前五時四十一分から五時五十五分」 「原本と照合した?」 「表紙と署名頁だけ…
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第489話 第三章「転倒の波」前編
『第489話 第三章「転倒の波」前編』 三月二十日 午前九時三分 建物は、人より正直だ。 重ければ沈む。 押されれば歪む。 限界を越えれば、音を出す。 人間は限界を越えても「大丈夫です」と言う。 その点だけは、鉄骨のほうが話が早い。 伏見轟は、中央行政回廊の西側手すりへ右掌を当てた。 振動。 規則的な一拍。 その上へ、別の細い震えが重な…
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第490話 第三章「転倒の波」後編
『第490話 第三章「転倒の波」後編』 「潤滑」 《ない》 「石鹸水」 《足元に洗浄桶》 「濃度を薄く。床へこぼすな」 《どれくらい》 「指で伸びる程度。数値は今出せない」 《技師が、数値なし?》 「現物を見てない。嘘の数値よりまし」 《了解》 Bの車椅子が下へ着く頃、Fの床板が外れる。 二つの現場。 轟の身体は一つ。 一つだから、現場…
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第491話 第四章「一人ずつ止める」前編
『第491話 第四章「一人ずつ止める」前編』 三月二十日 午前九時二十二分 能力を失った後、水科イオは、他人の能力を数える癖をやめた。 正確には、数えないよう努力している。 人は、失くした物ほど他人の手元で目につく。 傘を忘れた日は、街中の傘が立派に見える。 右腕の強化を失った日は、誰もが簡単に重い扉を開けているように見えた。 今は、千…
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第492話 第四章「一人ずつ止める」後編
『第492話 第四章「一人ずつ止める」後編』 十夜は胸へ手を当てる。 「作動なし。痛みなし。少し空腹」 「空腹は装置では治らない」 「鍋なら」 「あと」 「何分」 「分からない」 「保留を覚えたね」 「能力を失ってから」 救護帯へ運ばれた三人のうち、指を挟まれていた女が、担架から朝を呼んだ。 「調停官」 朝が近づく。 「何」 「私は、白…
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第493話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」前編
『第493話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」前編』 三月二十日 午前十時十一分 竜胆迅は、出口を見つけると数える。 距離。 障害物。 人の数。 相手の足。 自分の退路。 数えれば、恐怖は形になる。 形になれば、殴る場所が見える。 その日、数えることが人を倒した。 中央行政回廊のF区画。 連絡橋は、幅三・八メートル、長さ四十六メートル。…
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第494話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」後編
『第494話 第五章「迅の七歩が邪魔になる」後編』 「速い壊し方もある。後で死ぬかもしれない」 「ここで死ぬかもしれない!」 「そうだ」 迅は、正しい恐怖を否定しない。 「名前か呼称」 「なんで今」 「今の提案を、誰がしたか残す」 「罰する?」 「分からない。壊さなかった責任も、壊す提案も残す」 「……牧田蓮」 車椅子の葉を介助していた…
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第495話 第六章「歩幅札」前編
『第495話 第六章「歩幅札」前編』 三月二十日 午後零時十八分 配達物には、宛先がある。 人間にも宛先がある、と言うと、たいてい誰かが怒る。 怒るのは正しい。 人は荷物ではない。 ただし、救助の現場で「どこへ行きたいか」を訊かない人ほど、人を荷物のように運ぶ。 タマキは鉄の配達箱を床へ置いた。 中央行政回廊のD区画。 転倒波は止まって…
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第496話 第六章「歩幅札」後編
『第496話 第六章「歩幅札」後編』 「私が暫定署名し、朝本人へ十五分以内に確認します。拒否された場合は、その時点から新規記録を止め、既存記録を本人へ返す」 「権限は」 「ない範囲があります」 「ある範囲は」 「法務連絡と記録保全」 「十分ではない」 「十分でないことを書きます」 真琴は右手で署名した。 左利きなのに、公式文書だけは右。…
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第497話 第七章「群衆の中の孤独」前編
『第497話 第七章「群衆の中の孤独」前編』 三月二十日 午後二時二分 王をやめた男に、群衆は何を求めるか。 だいたい、王だった頃と同じことを求める。 少しだけ、責任を軽くして。 獅堂凱は、中央連絡駅の北階段へ立っていた。 左膝の装具。 黒い上衣。 王冠はない。 王冠がなくても、顔は同じだった。 人は顔へ役職を残す。 「凱様!」 階段下…
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第498話 第七章「群衆の中の孤独」後編
『第498話 第七章「群衆の中の孤独」後編』 「それは脅しではない」 「事実」 真琴は記録票へ書く。 《葛城周へ、会話公開範囲の再確認》 「代表しないと、確認が増えます」 「そうだな」 「後悔?」 「今はしない。明日は分からない」 「珍しく期限が曖昧」 「朝に影響された」 「本人へ名言料を」 「公費?」 「揉めます」 二人は少し笑う。…
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第499話 第八章「朝の命令書」前編
『第499話 第八章「朝の命令書」前編』 三月二十日 午後四時三分 命令書には、書かれたことしか残らない。 書かなかった理由。 添付しなかった事情。 急いだ人の顔。 反対した人が口を閉じた時刻。 それらは、別の紙へ移されない限り、最初から存在しなかったことになる。 御厨朝は、中央行政棟の四階へ戻った。 回廊の事故現場から、直線で二百六十…
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第500話 第八章「朝の命令書」後編
『第500話 第八章「朝の命令書」後編』 「作りません」 「保存とは」 「異議の内容と、どの判断へ向けられたか。氏名は本人が公開を選ばない限り、二鍵保管。公衆表示は人数と論点だけ」 「制度名は」 朝は一度、言葉を止めた。 名前を付けると、制度は長生きする。 長生きする制度ほど、最初の目的を忘れる。 それでも、名前がなければ、次の文書で消…
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第501話 第九章「同期塔」前編
『第501話 第九章「同期塔」前編』 三月二十日 午後六時十二分 塔は、街を見下ろすために建てられたのではない。 街へ同じ時刻を下ろすために建てられた。 中央同期塔。 高さ四十八メートル。 三層。 一階は振動制御。 二階は音声と光。 三階は非常解除と全系統の位相盤。 外壁は白い。 窓は細い。 火群七瀬の撮影機には、墓標のように見えた。…
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第502話 第九章「同期塔」後編
『第502話 第九章「同期塔」後編』 「朝!」 七瀬は撮影機を動かさない。 倒れた朝の顔は映さない。 足と、青い指と、空になった杖だけ。 「撮るな!」 久世が叫ぶ。 「顔は撮ってない!」 「全部止めろ!」 「理由を本人へ!」 朝は意識がある。 歯を食いしばり、言う。 「撮影……範囲」 「足元、署名、倒れた時刻。顔なし」 七瀬。 「公開は…
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第503話 第十章「ばらばらに歩く」前編
『第503話 第十章「ばらばらに歩く」前編』 三月二十日 午後七時四分 設備が止まった後、人は自分で動ける。 それは、半分だけ本当だ。 長く機械へ合わせた身体は、機械が止まっても次の拍を待つ。 長く命令へ従った人は、命令が消えると自由になるのではなく、次の命令を探す。 水科イオは、H区画の中央へ、何も鳴らない時計を置いた。 針がない。…
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第504話 第十章「ばらばらに歩く」後編
『第504話 第十章「ばらばらに歩く」後編』 三人は同じ宿泊札を持たない。 家族が分かれたことを、崩壊とは記録しない。 同じ夜に、違う理由で休むだけだった。 三月二十一日 午前零時十一分 日付が変わっても、事故は翌日にならない。 駅構内の大時計は零時を指す。 臨時列車は、すべて運休。 搭乗予定だった人々は、駅、広場、周辺施設へ分散してい…
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第505話 第十一章「救助完了」前編
『第505話 第十一章「救助完了」前編』 三月二十一日 午前五時三十六分 夜明け前の駅は、昼より音が多い。 寝息。 咳。 紙をめくる音。 弁当箱。 暖房弁。 夜を越した人が、朝になったことを確かめる声。 そして、足踏み。 竜胆迅は、中央連絡駅の第三待合区画へ入った。 右手の甲には薄い固定布。 骨折なし。 打撲。 環指と小指の痺れは、夜の…
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第506話 第十一章「救助完了」後編
『第506話 第十一章「救助完了」後編』 迅は座ったまま、自分の赤い紐を見る。 結び目は崩れている。 「数えない?」 「数えてない」 「今、嘘」 「少し数えた」 「何を」 「お前の鍵」 「三つ」 「数字を言った」 「鍵はいい」 「都合がいい」 「そう」 チカは右足を止める。 左だけ、二回。 車椅子の葉と同じではない。 自分の二回。 「右…
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第507話 第十二章「代表しない調停」前編
『第507話 第十二章「代表しない調停」前編』 三月二十二日 午前十時十九分 御厨朝の両脚には、同じ傷が残らなかった。 右腓腹筋は、内側頭の広い断裂。 左は、外側頭と筋腱移行部。 腓骨神経の障害も、右が重い。 同じ能力の反証が、左右へ同じように返ったわけではない。 身体は、制度より不公平だった。 「右足背屈、もう一度」 医療者が言う。…
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第508話 第十二章「代表しない調停」後編
『第508話 第十二章「代表しない調停」後編』 審理対象として、同期命令への参加経緯を提出する。 同時に、調停官として別案件へ戻る。 「矛盾してる」 チカが言う。 「何が」 朝。 「調べられる人が、調べる人」 「同じ案件では、自分を調べない」 「別なら」 「別の人の話を聞く」 「悪い人でも?」 「悪いと決まる前も、決まった後も」 「味方…
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第509話 第一章「暫定命令」前編
『第509話 第一章「暫定命令」前編』 四月二十日 午前八時十六分 命令には脚がない。 それでも、御厨朝より速く街を歩いた。 中央行政回廊の南口へ、象牙色の紙が貼られている。 昨日まではなかった。 糊はまだ乾いておらず、四隅のうち右下だけが風に浮いていた。 《中央安定維持に関する第二四時間暫定命令》 《命令番号 C―二二〇四―七二》 《…
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第510話 第一章「暫定命令」後編
『第510話 第一章「暫定命令」後編』 「受け取る。ただし、地位による回答だったと記録する」 「命令してよい場面は」 「ありません」 「緊急時も」 「救命上の短い指示は、命令権ではなく現場行為として記録」 「面倒だな」 「王だった頃より」 「王の頃は、面倒を他人が書いた」 「今は自分で」 「書く」 タマキには、文書配送。 送り主。 受取…
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第511話 第二章「署名者不在」前編
『第511話 第二章「署名者不在」前編』 職名は、名前より長生きする。 朽葉真琴は、その事実を嫌ってはいなかった。 人間は風邪をひく。 辞職する。 逃げる。 死ぬ。 それでも窓口が開かなければ、薬も水も届かない。 だから職名には意味がある。 意味があるものほど、使い方を間違えると厄介だった。 午前十時三分。 中央危機調整局は、扉が三つあ…
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第512話 第二章「署名者不在」後編
『第512話 第二章「署名者不在」後編』 浅野が、二組目の綴じ具へ印を打つ手を止めた。 「これ、運べません」 正式文は医療群四番。 《受入能力を確認できない場合、当該搬送を一時停止することができる》 平文。 《病院の空きが分からなければ、搬送は止まる》 戸井田が二枚を見比べた。 「同じじゃない?」 「正式文は、止めるか決められる。平文は…
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第513話 第三章「拍手と多数」前編
『第513話 第三章「拍手と多数」前編』 舞台には、見えない椅子がある。 役者が台詞を投げる先だ。 客席が空でも、その椅子へ向ければ声は届く。 紅葉カナタは、見えない椅子を信じてきた。 問題は、役所が椅子を数えたがることだった。 中央行政放送所の第一調整室には、椅子が百二十脚あった。 ひとつも客席ではない。 会議用。 見学用。 予備。…
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第514話 第三章「拍手と多数」後編
『第514話 第三章「拍手と多数」後編』 「技師は、音が届くか確認した後、内容を聞き続けなくてよい」 カナタ。 「事故時の対応が」 「機材を見る。私を見ない」 「あなたが倒れたら」 「身体監視担当を一人。拍手しない」 「拍手はしません」 「心の拍手も」 「そこまで契約できません」 「正しい」 出演料の欄にも、視聴者数加算があった。 《一…
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第515話 第四章「役所の迷路」前編
『第515話 第四章「役所の迷路」前編』 迷路には、壁がある。 役所には、言葉がある。 壁は壊せる。 言葉は、壊すと増える。 四月二十一日、午前八時四十分。 中央官庁群は、七棟の建物を渡り廊下でつないでいる。 地図では簡単だった。 北棟。 東棟。 南棟。 西棟。 中棟。 記録棟。 放送棟。 迅は地図を三秒見て、折った。 「真っ直ぐ行けば…
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第516話 第四章「役所の迷路」後編
『第516話 第四章「役所の迷路」後編』 「これで一個?」 「一系統」 真琴。 「命令七二号のうち、集会部分」 「一個じゃない」 「でも、止まります」 「零時に」 「はい」 「今じゃない」 「現場へ周知する時間が必要です」 「今も止められてる奴がいる」 「急に解除すれば、警備員と施設側の判断が割れます」 「待てって?」 「十時間四十分」…
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第517話 第五章「期限切れを待てない」前編
『第517話 第五章「期限切れを待てない」前編』 時計は、誰にでも同じ速さで進む。 水科イオは、その言い方を信用していない。 同じ二十四時間でも、薬が切れる人には長い。 仕事を止められた人には高い。 扉の内側へいる人には狭い。 時計は平等でも、待つ人間は平等ではない。 四月二十二日、午前六時十分。 明日班の作業室には、四十八個の時計があ…
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第518話 第五章「期限切れを待てない」後編
『第518話 第五章「期限切れを待てない」後編』 「履歴を基準にすると両方」 「どっち」 「担当者が決めてない」 「命令が決める?」 「命令は答えない」 「じゃあ、受け取れない」 タマキは札を戻さない。 「止めたら?」 石上。 「移動確認がなくなる」 「自由になる」 「保護先を追跡されたくない人には」 「いいことだ」 「家族が行方を探し…
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第519話 第六章「朝の加担」前編
『第519話 第六章「朝の加担」前編』 罪を小さく説明する技術は、行政文書の中にたくさんある。 一部。 不十分。 想定外。 運用上。 遺憾。 御厨朝は、それらを使える。 使えるからこそ、使わないと決める必要があった。 四月二十三日、午前七時三十五分。 紙文書庫の地下三階には、窓がない。 湿度計が二つ。 温度計が三つ。 時計が四つ。 時計…
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第520話 第六章「朝の加担」後編
『第520話 第六章「朝の加担」後編』 朝は止めなかった。 朝が止めたのでもない。 自分の文を説明し、用途を拒否した人と、医療判断をした人と、端末を操作した人が、それぞれの範囲を選んだ。 「働いた?」 迅。 「はい」 「赦された?」 「いいえ」 「じゃあ、続けろ」 「受領」 午後二時四十五分。 作業室の壁へ、新しい責任表が貼られた。 朝…
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第521話 第七章「放送所の籠城」前編
『第521話 第七章「放送所の籠城」前編』 籠城には、城が要る。 行政放送所にあるのは、防音壁と退出扉と、誰も座らない椅子の跡だった。 それでも扉が閉まれば、中にいる人間は籠城者になる。 四月二十五日、午前九時。 放送所の床には、白い番号札が七十二枚並んでいた。 医療十四。 給水十二。 移動十七。 集会十三。 監視十六。 カナタは、番号…
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第522話 第七章「放送所の籠城」後編
『第522話 第七章「放送所の籠城」後編』 第二回線が切れた。 瀬戸内が切ったのではない。 放送連絡責任者の端末から、遠隔停止。 塩見は紙帯記録へ切り替える。 「映像は出ません」 「音声」 「庁内線だけ」 「外へは」 「止まりました」 カナタは、話すのをやめた。 声が届かない間も演じ続けるのは、稽古では役に立つ。 行政説明では、届いてい…
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第523話 第八章「カナタの無観客演説」前編
『第523話 第八章「カナタの無観客演説」前編』 観客が減る音はしない。 劇場なら、椅子が鳴る。 扉が開く。 足音が遠ざかる。 放送では、数字だけが減る。 音のしない退出は、役者の想像力をよく働かせた。 たいてい、悪い方向へ。 四月二十五日、午後一時三十二分。 放送所前の廊下が、仮設調整室になった。 保守端子。 紙帯表示。 庁内音声管。…
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第524話 第八章「カナタの無観客演説」後編
『第524話 第八章「カナタの無観客演説」後編』 カナタは、見えない椅子へ向けたまま、放送を止める。 「今の時刻差について、確認が必要です」 視聴者へ言う。 「この放送では、命令を出した順、撤回した順、受領した順を示しています。端末時刻に六秒の逆転が見つかりました。前後が確定するまで、時刻を根拠にした説明を止めます」 質問。 《細かすぎ…
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第525話 第九章「命令ログ」前編
『第525話 第九章「命令ログ」前編』 写真は、時間を止めない。 止まったように見せるだけだ。 火群七瀬は、だから写真を信用している。 信用するものには、できないことを先に書く。 午後三時二十六分。 西保守階段は、幅が八十二センチだった。 二人並べない。 迅が先。 七瀬が二番。 薄墨が最後。 薄墨は、足音を強くしない。 耳鳴りがある人間…
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第526話 第九章「命令ログ」後編
『第526話 第九章「命令ログ」後編』 償いの姿勢を演じるためでもない。 紙帯から離れる。 筆談板へ書く。 《破壊を開始した。切らなかった》 迅。 「俺が止めた?」 《位置は止めた。選択は私》 「言い訳?」 《記録》 七瀬が撮る。 「能力使用一回。開始、三時五十四分十二秒推定。解除、三時五十五分一秒。鋏を紙帯へ接近。切断なし」 薄墨が次…
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第527話 第十章「一枚ずつ取り消す」前編
『第527話 第十章「一枚ずつ取り消す」前編』 正しい文は、短くない。 読まれる文も、たいてい短くない。 短い文が悪いのではない。 短くした人間が、落とした条件へ名前を書かないことが悪い。 朽葉真琴は、四月二十九日の朝、その考えを二度訂正した。 短くした人間だけではない。 長くした人間も、読まれなかった責任を負う。 午後一時。 中央更新…
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第528話 第十章「一枚ずつ取り消す」後編
『第528話 第十章「一枚ずつ取り消す」後編』 現在、通れる一方向だけ。 床のどちらへ次の一歩を置けば、受取人へ近づくか。 「封緘便〈シールド・ルート〉」 左。 最初の方向が分かる。 タマキは走らない。 前庭障害で視線が揺れる。 左手を壁へ。 右手に封筒。 一歩。 中央廊下ではなく、紙文書庫の搬入口。 階段ではなく、下り荷台。 閉鎖され…
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第529話 第十一章「午前零時」前編
『第529話 第十一章「午前零時」前編』 四月二十九日 午後十一時五十二分 八分は、短い。 けれど、命令を一つに戻すには充分な長さだった。 更新端末室の外から来た足音は、急いでいた。 揃ってはいない。 硬い靴、底の薄い靴、右だけ擦る靴。台車の小さな車輪が、床の継ぎ目を二度ずつ鳴らす。 迅は中央扉の前へ立った。 七歩は取らない。 扉まで二…
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第530話 第十一章「午前零時」後編
『第530話 第十一章「午前零時」後編』 「じゃあ失敗」 「違うと言いたいです」 「言えば」 「言いません」 朝は続きを書く。 《上記損害は、命令の失効が正しかったことを証明しない》 《また、旧命令をまとめて継続した方が正しかったことも証明しない》 《判断者と理由を個別に記録する》 迅は紙を覗く。 「ずるい文章だね」 「どこが」 「どっ…
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第531話 第十二章「審理を受ける者」前編
『第531話 第十二章「審理を受ける者」前編』 四月三十日 午前八時四十一分 審理へ行く人間は、朝食を食べてもいい。 獅堂凱は、その当たり前を御厨朝へ三度説明した。 一度目。 「食堂が混む前に行きます」 「審理は九時半だ」 「資料の確認があります」 「腹の確認を先にしろ」 二度目。 「食欲がありません」 「食欲は命令じゃない」 「意味が…
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第532話 第十二章「審理を受ける者」後編
『第532話 第十二章「審理を受ける者」後編』 午後一時十三分。 放送所の床には、昨夜の籠城でずれた配線が、番号札を付けて並べられている。 壊れた照明一基。 曲がった機材台二台。 切られずに残った非常解放管。 カナタは椅子へ座り、右足を別の椅子へ載せていた。 足首には冷却布。 靴は脱いでいる。 「報告書って、もっと自分をよく見せるものじ…
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第533話 第一章「浮かぶ境界」前編
『第533話 第一章「浮かぶ境界」前編』 五月二十日 午前六時三十二分 境界は、だいたい水の下にある。 見えないから争わずに済むこともあれば、見えないのをいいことに、強い側が少しずつ動かすこともある。 火群七瀬は、運河の底から現れた石杭を、腰の高さに固定した撮影機で捉えていた。 杭は十二本。 藻が乾き、白い塩が筋になっている。 いちばん…
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第534話 第一章「浮かぶ境界」後編
『第534話 第一章「浮かぶ境界」後編』 医療船が浅瀬で止まった直後、船内から空の洗浄容器が一つ投げ渡された。 受けた下流の男が、上流側へ見せる。 「これが今夜までに満ちない」 上流の女は、自分の水券束を掲げた。 「こちらは三十日分を節約して貯めた」 「患者は節約できない」 「工場が止まれば薬の容器も来ない」 「今夜の患者と来月の容器を…
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第535話 第二章「同じ制限」前編
『第535話 第二章「同じ制限」前編』 五月二十一日 午前五時五十分 碧路紬は、飲んだ水を絵で記録する。 丸が一杯。 半月が半杯。 点は、口を湿らせただけ。 今朝の日記には、点が三つあった。 船室の天井は低い。 起き上がると、背の卓上織機が梁へ当たる。 だから紬は、目を開けたら最初に右へ転がる。 右肺の癒着が強く引く日は、左へ転がる。…
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第536話 第二章「同じ制限」後編
『第536話 第二章「同じ制限」後編』 同じ三十五パーセント削減。 数字だけなら分かりやすい。 設備の循環へ入れると、結果が逆転する。 「上流の希望」 「家庭は二十パーセント削減まで。工業は三十。技術提供は有料。下流の漏水が基準を超えたら追加放流なし」 「そのまま持って帰る」 「言い換えない?」 「下流が聞いて、嫌う権利を残す」 「交渉…
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第537話 第三章「低地の渇き」前編
『第537話 第三章「低地の渇き」前編』 五月二十二日 午前七時七分 水には、読み仮名がない。 一文字巴は、そう思っていた。 水、と書けば、陸の人間はだいたい同じものを思い浮かべる。 透明で、飲めて、蛇口から出て、容器へ入るもの。 下流水上区で《水》と言うと、最低でも七つに分かれた。 飲む水。 炊く水。 身体を洗う水。 船体を洗う水。…
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第538話 第三章「低地の渇き」後編
『第538話 第三章「低地の渇き」後編』 低地の共同洗い場では、洗濯をしていなかった。 水槽は空。 代わりに、濡れた布が床へ並べられている。 一枚目は、飲用に使った布。 二枚目は、食器を拭いた布。 三枚目は、手を拭いた布。 四枚目は、船底の油を拭いた布。 同じ布を、汚れの軽い順に使う。 巴は、その順番を用紙へ書こうとした。 「書かないで…
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第539話 第四章「紬の両岸」前編
『第539話 第四章「紬の両岸」前編』 五月二十三日 午前六時四分 裏切り者と偽善者は、同じ声量では呼ばれない。 裏切り者は、近くで呼ばれる。 家族、隣人、同じ船の人間が、名前の代わりに使う。 偽善者は、遠くから呼ばれる。 相手側の岸から、届くように大きく投げられる。 碧路紬は、両方へ同じ返事をしていた。 「受け取った」 それが、今朝最…
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第540話 第四章「紬の両岸」後編
『第540話 第四章「紬の両岸」後編』 「占拠参加者へ、賃金出してる?」 「組合の緊急作業扱い」 「額」 「通常の六割」 「船を動かした方が高い?」 「高い」 「占拠を長引かせると、船員の損」 「知ってる」 「要求に、占拠賃金の補償を入れる?」 「入れない。俺たちの判断だ」 「格好いい」 「馬鹿にしてるか」 「少し。でも、受け取る」 「…
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第541話 第五章「船上の乱闘」前編
『第541話 第五章「船上の乱闘」前編』 船の上では、地面が先に嘘をつく。 右へ傾いたと思った瞬間には、もう左へ戻ろうとしている。 戻る力を信用すると、次の波がそれを裏切る。 迅は、そういう場所が嫌いだった。 嫌いというのは、殴れないという意味ではない。 殴る前に、自分の足がどこへいるのか分からないという意味だ。 第二水門へ向かう小船は…
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第542話 第五章「船上の乱闘」後編
『第542話 第五章「船上の乱闘」後編』 引くだけでは、最上流船を水門壁へ寄せる。 船頭は小船の舳先を下流へ向け、斜めの力を作った。 「迅、持つな!」 「引けと言っただろ!」 「引いて、放せ!」 「矛盾してる!」 「船は矛盾で曲がる!」 迅は一度引き、すぐ放す。 凱も腰帯から索を外す。 新しい索が水面へ落ちる。 最上流船は自由になる。…
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第543話 第六章「巴の平文」前編
『第543話 第六章「巴の平文」前編』 分かりやすい文章には、分かりやすく消える人がいる。 巴は、紙を二枚に分けた。 一枚目には、《上流》と書く。 二枚目には、《下流》と書く。 中央へ、細い三枚目を置く。 紬は、その配置を見て眉を寄せた。 「三枚」 「そう」 「増えた」 「減らせる?」 「同じ文にすれば、一枚」 「同じ被害になる?」 「…
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第544話 第六章「巴の平文」後編
『第544話 第六章「巴の平文」後編』 小麦は笑わない。 「冗談じゃないよ」 洗う水も、協定の水だ。 小麦は布を絞らず、乾いた布で汚れだけを取る。 「洗わない」 「不衛生」 「口へ当てる部分は別布にする。全部洗うより水が少ない」 「同じ布なのに」 「部分が違う」 紬は、何も言わなかった。 四つの卓へ置かれた相手文面は、読む順番でも揉めた…
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第545話 第七章「対称な不公平」前編
『第545話 第七章「対称な不公平」前編』 数字は平等だ。 平等なのは、数字だけである。 五月二十六日、午前六時。 御厨朝は、上流貯水塔の見張り台へ上らなかった。 黒い杖を使っても、百四十三段の鉄階段は無理だ。無理なものを、責任感で可能にすると、責任は身体の外へ逃げる。 朝は下の計器室へ座り、上にいるイオへ低音通話器で質問した。 「第一…
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第546話 第七章「対称な不公平」後編
『第546話 第七章「対称な不公平」後編』 「誰が監査する」 「工員本人」 「帳簿を読めない者は」 「巴の平文係。別の者を選んでもよい」 まだ決まっていない協定のために、既に賃金表が増える。 紬は笑わなかった。 「水の話が、また水じゃなくなった」 「最初から、水だけの話じゃない」 価が腰の装具を押さえて椅子へ座る。 「水に値段があるんじ…
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第547話 第八章「能力を使わない交渉人」前編
『第547話 第八章「能力を使わない交渉人」前編』 使える力を使わない者は、持っていない者より説明が多い。 五月二十七日、午前九時。 紬は、水路持分会議の中央船へ呼び出された。 呼び出したのは、敵ではない。 紬を支持してきた人々だった。 母。 祖父。 同じ船団の係留人。 配水札を更新してきた帳場係。 紬が交渉人であることで、水券の窓口へ…
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第548話 第八章「能力を使わない交渉人」後編
『第548話 第八章「能力を使わない交渉人」後編』 《下流漏水の一部は、上流急放流によって増幅した可能性が高い》 《下流の老朽設備と修理遅延も、漏水継続へ寄与した》 《商船損耗は、急な水位変化と過積載の双方に関係する》 三行に、三者が署名した。 責任を一つへまとめない。 誰も無罪にしない。 誰も単独の原因にしない。 紬は、青緑布へ新しい…
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第549話 第九章「水門」前編
『第549話 第九章「水門」前編』 同じ画角に入れれば、同じ出来事に見える。 同じ出来事に見えれば、同じ被害だと思われる。 五月二十八日、午前四時十二分。 七瀬は、第二水門の上流側へ一台、下流側へ一台、撮影機を置いた。 自分は中央へ立たない。 左肩が長時間の挙上に耐えないからだけではない。 中央から両岸を一枚へ収めると、上流の貯水塔と…
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第550話 第九章「水門」後編
『第550話 第九章「水門」後編』 「二人の名前を」 七瀬が言う。 「撮影担当へ入れて」 タマキが答える。 「機械を見てただけ」 「画角を変えないと決めた」 「七瀬さんの指示」 「家族の顔を撮らないのは、タマキの判断」 「記録する?」 「する」 「能力使ってないのも?」 「必要?」 「使えるのに使わなかった」 「理由は」 「普通の索の方…
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第551話 第十章「別々の上限」前編
『第551話 第十章「別々の上限」前編』 約束は、同じ紙へ書けば一つになる。 一つになったように見える。 五月二十九日、午前七時。 巴は、四つの文書へ同じ題名を付けなかった。 上流文には、こう書いた。 《貯水を減らす側の三十日条件》 下流文には、こう書いた。 《届いた水を生活へ残す側の三十日条件》 商船文には、こう書く。 《運ばない日を…
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第552話 第十章「別々の上限」後編
『第552話 第十章「別々の上限」後編』 水位が下がっている今、便利な一文だ。 巴は右手を中央欄へ置いた。 硬直した人差し指が、紙へ触れる。 「止める」 誓痕が、文字の縁へ黒い影を落とす。 読めた者だけ〈リード・イン〉。 一度。 《読めたとみなす》という入口だけが、紙から消える。 上流文も下流文も商船文も病院文も、内容は止まらない。 水…
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第553話 第十一章「再交渉日」前編
『第553話 第十一章「再交渉日」前編』 期限は、約束を弱くする。 弱くなった約束だけが、ほどけることを最初から認められる。 五月三十一日、午前六時。 水位測定は、三つの場所で同時に始まった。 上流貯水塔。 第二水門。 下流病院船の係留杭。 現地表示。 換算値。 誤差幅。 三つを分ける。 イオが上流計器を読む。 下流修理班が係留杭を読む…
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第554話 第十一章「再交渉日」後編
『第554話 第十一章「再交渉日」後編』 だから、発効前の橋を作る。 午後八時。 病院必要量だけを対象にした緊急仮運用が始まる。 文書の効力そのものではない。 病院代表、上流備蓄担当、下流受入係の三者が、四十分分の水量と返還方法へ署名する。 「発効前に、協定と同じことをするの?」 「同じじゃない」 巴が言う。 「四十分分。一回だけ。自動…
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第555話 第十二章「潮が戻らなくても」前編
『第555話 第十二章「潮が戻らなくても」前編』 約束の最初の夜は、約束より長い。 五月三十一日、午後八時五十二分。 病院船は、第二水門を通過した。 満水ではない。 必要量を受け取り、非医療洗浄分を共同洗浄所へ移し、船底が泥へ触れない喫水を確保しただけだ。 船首が下流水路へ入る。 患者は拍手しない。 看護師も手を振らない。 係留員が索を…
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第556話 第十二章「潮が戻らなくても」後編
『第556話 第十二章「潮が戻らなくても」後編』 価は、三つを同じ《未払い》へまとめず、支払者、契約、期限、理由を別にする。 上流六人は、在庫売却の遅れ。 下流四人は、作業時間記録の不一致。 商船二人は、短期名簿への未登録。 「全部、金がない」 紬が言う。 「理由が違うと、直し方が違う」 価が答える。 「お金を払えば同じ」 「誰の金を…
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第557話 第一章「開廷」前編
『第557話 第一章「開廷」前編』 六月十八日 午前八時十二分 城は、壁が厚いから城なのではない。 中で決めたことを、外へ命令できるから城になる。 旧中央城の正門から王冠の紋章が外されて、十三年が経っていた。 外された跡だけは残っている。灰白色の石壁に、直径二メートルの円形だけが周囲より新しい。人は印を剥がしても、剥がしたという印までは…
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第558話 第一章「開廷」後編
『第558話 第一章「開廷」後編』 審理官が提出候補百四十七点の分類を読み上げた。 公開九十二。 限定閲覧三十一。 所有者拒否による不提出十七。 真正性不足七。 「不提出十七点は、存在するのですか」 冬城側の補佐官が尋ねた。 石英綺理が、記憶保管者席から答える。 「存在確認、取得時刻、所有確認、拒否時刻までは一覧へ載せます。内容は載せま…
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第559話 第二章「証拠の順番」前編
『第559話 第二章「証拠の順番」前編』 六月十八日 午後一時四分 証拠は、強い順に並べると物語になる。 手に入った順に並べると、仕事になる。 石英綺理は、百四十七枚の札を、色ではなく手触りで分けていた。 公開証拠は、角が丸い。 限定閲覧は、右上に細い溝。 所有者拒否による不提出は、中央に穴が一つ。 真正性不足は、縁が波形。 視力の弱い…
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第560話 第二章「証拠の順番」後編
『第560話 第二章「証拠の順番」後編』 帳面には、反証分散器の部品代ではなく、鍋の底板、配管パッキン、夜食の豆、臨時雇いの賃金が書かれている。 「原本を審理終了まで留置します」 証拠係が言うと、厨房の会計担当が首を横へ振った。 「今夜の賃金を締められない」 「複製を使ってください」 「複製に、今日の仕入れは書けない」 「別帳を」 「帳…
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第561話 第三章「記録庫襲撃」前編
『第561話 第三章「記録庫襲撃」前編』 六月十九日 午前五時五十六分 盗むより、時刻を壊す方が安い。 原本を一枚奪えば、奪った人間が疑われる。 十台の時計を三分ずつ狂わせれば、全員が互いを疑う。 迅は、旧中央城の地下二階で、床の振動を数えていた。 一。 間。 二。 長い間。 三、四。 証拠搬送台車の車輪ではない。 台車は四輪とも同じ径…
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第562話 第三章「記録庫襲撃」後編
『第562話 第三章「記録庫襲撃」後編』 《出発確認》 《中間通過》 《到着確認》 《未到着時の戻り先》 「四つ目が必要か」 警備員が尋ねる。 「必要だ」 「届かなかった証拠は、探すでしょう」 「探す人間が、どこへ戻すか決める前に書く」 「盗まれた場合は」 「盗難記録」 「焼けた場合」 「焼損記録」 「なくなった場合」 「紛失記録」 「…
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第563話 第四章「七瀬の母」前編
『第563話 第四章「七瀬の母」前編』 六月二十日 午前十時十三分 死者の映像は、反論しない。 だから、生者は死者を証人にしたがる。 火群七瀬は、母の記録媒体へ触る前に、指を三度拭いた。 一度目は油を落とすため。 二度目は汗を落とすため。 三度目は、自分が触ったという事実を忘れないため。 透明な容器の中に、濃褐色の磁気帯が巻かれている。…
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第564話 第四章「七瀬の母」後編
『第564話 第四章「七瀬の母」後編』 《私が悪かったことは、会議時刻を変えない》 七瀬が読む。 「母が取材拒否を無視したことも、冬城が署名した時刻を変えません」 補佐官が問う。 「あなたは母を断罪したいのですか」 「いいえ」 「擁護したい?」 「いいえ」 「では、何を」 「整合を確認しています」 「娘としては」 「その質問は、会議時刻…
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第565話 第五章「反対尋問」前編
『第565話 第五章「反対尋問」前編』 六月二十一日 午前九時二十一分 分からない、は答えではない。 そう教える学校は多い。 だから大人は、分からないまま署名できる。 一文字巴は、証人席の前へ三枚の板を置いた。 一枚目は《はい》。 二枚目は《いいえ》。 三枚目は《分からない/覚えていない/この聞き方では答えられない》。 文字だけではない…
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第566話 第五章「反対尋問」後編
『第566話 第五章「反対尋問」後編』 「ただし、私刑が減った九件、薬剤紛失二件も消さないでください。二人への説明失敗で、救われた者を数字から追い出さない。救われた者で、二人の誤認も消さない」 冬城が、初めて冬実へ直接尋ねた。 「所長として、中央抑制網の継続は必要だったと思いますか」 「当時は、必要と判断しました」 「現在は」 「中央一…
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第567話 第六章「証人を守る拳」前編
『第567話 第六章「証人を守る拳」前編』 六月二十二日 午前七時四十分 証人を守る、という言葉には罠がある。 守る者が、証人の行き先まで決めたくなる。 獅堂凱は、旧中央城の西外郭で、三本の道を見ていた。 正面の石橋は公開経路。 左の木廊は限定証人路。 右の低い土手は帰路。 どれも城へ近づく道に見える。 城から離れるために作られたのは…
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第568話 第六章「証人を守る拳」後編
『第568話 第六章「証人を守る拳」後編』 右足の踵を継ぎ目から抜く。 左膝が震える。 立てる。 構造的な損傷はない。 ただし、熱と腫れが増えている。 「座ってください」 医療員が言う。 「証人は」 「帰路出口へ到着」 「シキは」 「証拠入口へ向かっています」 「証拠袋」 「受領済み」 「襲撃者」 「四名確保。外壁下に少なくとも二名」…
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第569話 第七章「朝の罪」前編
『第569話 第七章「朝の罪」前編』 六月二十四日 午前八時五十五分 罪を認める人間は、信用できる。 そう言う人間は、自白を新しい勲章にしたいだけかもしれない。 御厨朝は、証人席の高さを五センチ下げてもらった。 左脚は伸ばす。 右脚は短下肢装具の角度に合わせ、足台へ置く。 黒い杖は右側。 机上には水、鎮痛薬、休止札、訂正札。 立って宣誓…
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第570話 第七章「朝の罪」後編
『第570話 第七章「朝の罪」後編』 「はい」 「中央命令で」 「最初は」 「後は」 「命令を待たずに続けた」 「なぜ」 「正しい量を書けば、次の投与が増えると思った。少なく書けば休ませられると」 「救うため」 「怖かったため」 「同じでは」 「違う。救えたかは分からない。怖かったのは覚えている」 「あなたの改変で、中央の監督値が低く見…
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第571話 第八章「凱の王歴」前編
『第571話 第八章「凱の王歴」前編』 六月二十五日 午前九時八分 王を辞めた人間は、元王になる。 被害を受けた人間は、元被害者にはならない。 獅堂凱は、証人席へ座る前に、椅子の曲がりを直さなかった。 左脚を少し前へ。 膝装具の角度を固定。 右手は机上。 左手は空ける。 昔なら、背もたれの低い椅子へ座ること自体を拒んだ。 王は座る場所を…
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第572話 第八章「凱の王歴」後編
『第572話 第八章「凱の王歴」後編』 「迅速な決裁」 「支持する」 「統一値」 「故障時は支持しない」 「中央権限」 「止められるなら」 「誰が止める」 「弁の前にいるやつ」 「各地が勝手に止めれば、全体が崩れる」 「だから、止めたことをすぐ知らせる道が要る」 「知らせる間に」 「人が死ぬ。知ってる」 証人は、冬城の銀具を見る。 「早…
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第573話 第九章「迅の空白」前編
『第573話 第九章「迅の空白」前編』 六月二十六日 午前九時三分 何も書いていない紙は、自由だ。 借金の額も、死者の名も、責任者の署名もない。 だから、空白は、ときどき一番よく逃げる。 竜胆迅は、証人席の前で右頬の縫合糸を触らなかった。 三針。 視力障害なし。 傷の外側が乾き、笑うと引きつる。 証人席へ座る前に、出口を二つ確認する。…
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第574話 第九章「迅の空白」後編
『第574話 第九章「迅の空白」後編』 「中央の制度を、名前と終了と拒否つきで使えばいい」 「中央を否定していない?」 「場所としては否定してない。決裁が全部を飲むことを止めたい」 「誰が、どこまでを全部と判断する」 「その仕事で影響を受ける人」 「全員?」 「全員じゃない時もある」 「また曖昧」 「三秒で全部決める答えがあるなら、おま…
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第575話 第十章「最終決裁の反証」前編
『第575話 第十章「最終決裁の反証」前編』 六月二十八日 午前九時零分 結論は、長い話の最後に置く。 権力者は、最初に結論を置き、途中の話をそこへ運ぶ。 最終争点整理の日、旧中央城の正面壁には、四枚の表示板が並んでいた。 第一板――正式文。 第二板――平文。 第三板――原記録一覧。 第四板――異議、訂正、拒否、空席。 一枚へ統合しない…
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第576話 第十章「最終決裁の反証」後編
『第576話 第十章「最終決裁の反証」後編』 自分の行きたい方角ではなく、署名した位置へ。 地下では、凱が第二封印の外側に立っていた。 原本搬送路は、幅が一・八メートルまで狭くなる。 右壁に紙原本用の乾燥管。 左壁に磁気媒体用の冷却管。 中央を、銀具の認証波形を打刻した鉄箱が二台の低い台車で運ばれていた。 襲撃者は五人。 先頭の二人は…
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第577話 第十一章「保存」前編
『第577話 第十一章「保存」前編』 六月二十八日 午後零時二十四分 燃えなかった記録は、残った記録ではない。 誰が持ち、誰が読めて、誰が返せるかまで決まって、ようやく残る。 石英綺理は、旧中央城の限定閲覧室で、十七枚の穴あき札をもう一度数えた。 一。 二。 三。 十七。 逆から。 十七。 十六。 十五。 一。 数は変わらない。 中身も…
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第578話 第十一章「保存」後編
『第578話 第十一章「保存」後編』 タマキが笑う。 笑った後、視界が少し揺れ、机へ手をつく。 「座る?」 「提案?」 「提案」 「受領。五分」 彼女は座った。 便は、彼女が休んでいる間も、別の運搬者によって出ていく。 能力者が止まっても、配達が止まらない。 午後四時四十七分。 病院から受領返事が来た。 《耐火庫は使用可。ただし患者記録…
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第579話 第十二章「判決ではない答え」前編
『第579話 第十二章「判決ではない答え」前編』 六月二十九日 午前八時五十八分 判決は、人を立たせる。 有罪の側。 無罪の側。 勝った側。 負けた側。 事実は、そこまで親切に並んでくれない。 旧中央城の公開審理場には、昨日より椅子が十七脚少なかった。 撤去したのではない。 証人本人が、今日は来ないと選んだ。 十七という数は、不提出資料…
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第580話 第十二章「判決ではない答え」後編
『第580話 第十二章「判決ではない答え」後編』 首席審理官は、どちらにも向かない。 「病院補助、上水、暖房、そのほか現在稼働中の生活設備を、この措置だけで停止しません。冬城征士郎の技術的意見提出と反論書面の提出も妨げません。ただし、意見を決裁として扱うことはできません」 真琴が確認する。 「停止した権限を、誰へ移しますか」 「本審理は…
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第581話 第一章「七月一日、期限」前編
『第581話 第一章「七月一日、期限」前編』 七月一日 午前六時四十七分 二十一歳の誕生日に、獅堂凱は十一枚の失効通知を受け取った。 祝電は二通だった。 一通は母から。 もう一通は、誕生日を入力必須項目と勘違いした北工区の在庫管理機から届いた。 機械の方が、文章は長かった。 「おめでとうございます。なお、暖房用燃料の仮配分は本日午後八時…
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第582話 第一章「七月一日、期限」後編
『第582話 第一章「七月一日、期限」後編』 「封印は残量を守らない。底に漏れ跡」 六本目の缶の下へ、薄い油膜がある。 凱は託児所の責任者へ聞いた。 「四本の根拠」 「朝六時まで」 「室温下限」 「十五度」 「修理班は」 「三本で、夜明けまで二系統」 「一系統なら」 「二本」 「どちらを直す」 「北配給所。もう一つは共同浴場」 「浴場を…
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第583話 第二章「中央塔の招集」前編
『第583話 第二章「中央塔の招集」前編』 七月二日 午前八時九分 中央塔の招集状には、椅子の絵が九脚描かれていた。 九地域。 九代表。 九つの署名。 中央の一脚だけが、ほかより半分ほど大きい。 「露骨ですね」 朽葉真琴は、招集状を光へ透かした。 「大きい椅子へ誰が座るか、先に決めてある」 七瀬が言う。 「決めてはいません。座らせたいだ…
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第584話 第二章「中央塔の招集」後編
『第584話 第二章「中央塔の招集」後編』 「紙くず箱を、不在理由の保管箱に変えていい?」 《駄目です》 「理由」 《紙くずを入れられなくなる》 「代わりの箱を置く」 《規格外》 「紙くずを床へ置くより安全」 《誰が戻す》 「私たち。期限、今日午後一時」 《箱を傷つけない》 「受領」 真琴が目を瞬いた。 「許可、取れましたね」 「人に聞…
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第585話 第三章「集まらない仲間」前編
『第585話 第三章「集まらない仲間」前編』 七月二日 午後二時〇六分 火群七瀬は、九つの画面を同じ大きさにした。 最初の失敗だった。 「北部は縦長にして」 風祭澪の声が、左上の画面から届いた。 「どうして」 「路が縦。横にすると出口が切れる」 「画面を小さくすれば全部入る」 「人も小さくなる」 「分かった。縦」 「水上は横」 別の画面…
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第586話 第三章「集まらない仲間」後編
『第586話 第三章「集まらない仲間」後編』 綺理の返答だけ、平常だった。 「強い」 迅が言った。 「何が」 「最初からつながってない」 「つながらないことを強さにしないで」 七瀬が言う。 「届かない情報もある」 「じゃあ、弱い?」 「別の危険」 轟は九系統の安定器を外した。 「三つに分ける。移動・生活・限定」 「またまとめる?」 「電…
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第587話 第四章「北部撤退路」前編
『第587話 第四章「北部撤退路」前編』 七月三日 午前五時三十八分 北へ行く人は、北を見ていなかった。 全員、足元の白線を見ていた。 中央の古い誘導線。 幅十二センチ。 四列。 白線の先には、閉じた照合門がある。 門の上の表示は、《中央認証待機》のまま止まっていた。 「白線から出て」 風祭澪が言った。 列は動かない。 「聞こえてない?…
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第588話 第四章「北部撤退路」後編
『第588話 第四章「北部撤退路」後編』 北配給所用の包みを、保留者へ渡すことはできない。 それは差別ではなく、各厨房が自分の在庫と受取先へ負う約束だった。 「全部まとめた方が早い」 隊員が言った。 「早い」 澪は認めた。 「でも、まとめた責任者が要る」 「澪さんが」 「やらない」 「どうして」 「私が食べる量を決める仕事じゃない」 八…
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第589話 第五章「十二の厨房」前編
『第589話 第五章「十二の厨房」前編』 七月三日 午後二時十七分 十二の厨房で、同じ時刻に火を点けることはできなかった。 第一厨房は薪。 第二厨房は廃油。 第三厨房は地域暖房の余熱。 第四厨房は電熱。 第五厨房は、鍋底へ敷いた黒い石が温まるまで待つ。 第十二厨房だけ、火を使わない。 水が足りない日の冷製粥を作る。 「だから、《全厨房十…
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第590話 第五章「十二の厨房」後編
『第590話 第五章「十二の厨房」後編』 百九十四人の空腹を、既に食べた二千五百人余りへ薄く分ければ、一人あたりの痛みは小さくなる。 「誰と誰を同じ鍋にする」 小麦が聞いた。 「食べた人全員」 「乳児も」 「名前を言えないから対象外」 「家族が代わりに言う?」 「できるなら」 「できない。本人が名を告げる能力」 「じゃあ、言える人だけ」…
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第591話 第六章「平文室と放送所」前編
『第591話 第六章「平文室と放送所」前編』 七月四日 午前九時十二分 一文字巴は、五つの条件へ番号を付けなかった。 番号には順番ができる。 順番には、先に守るものと、後回しにしてよいものができる。 本人確認。 拒否窓口。 期限。 異議受領。 再交渉日。 五枚の札を、円形の机へ置いた。 「円にすると、始まりがない」 助手が言った。 「円…
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第592話 第六章「平文室と放送所」後編
『第592話 第六章「平文室と放送所」後編』 「否定しないのか」 「事実」 「宣伝に使われるぞ」 「宣伝のために事実を変えたら、兄ちゃんの仕事になる」 「俺の仕事を悪の単位にするな」 「責任の単位」 乱馬は反論しなかった。 放送終了は午後二時〇二分。 拍手なし。 視聴者数なし。 最終字幕なし。 最後に映したのは、五枚の条件札だった。 番…
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第593話 第七章「病院と記憶庫」前編
『第593話 第七章「病院と記憶庫」前編』 七月五日 午前六時二十一分 時雨ミソラは、止める順番ではなく、止められない理由から聞いた。 外環共同病院の第三会議室。 中央互換停止によって影響を受ける患者は十六人。 人工呼吸器そのものは地域電力で動く。 透析水も、水上区と病院の別系統へ移してある。 問題は、薬剤照合、部品認証、境界搬送、代替…
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第594話 第七章「病院と記憶庫」後編
『第594話 第七章「病院と記憶庫」後編』 「あなたたちは、答えないことを制度にした」 「あなたたちは、答えを一つにすることを制度にした」 互いに褒めてはいない。 限定資料室の閲覧担当二人が、別々の入口から入った。 一人目は、元縫製工の保管担当。 記憶映像を読む時、右手で机の縁をなぞる癖がある。 二人目は、元路面電車の整備士。 質問以外…
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第595話 第八章「剛嶺と水上」前編
『第595話 第八章「剛嶺と水上」前編』 七月五日 午後四時十六分 剛嶺では、代表者を選ぶ時、椅子ではなく車輪を止める。 移動城塞の外周車輪。 直径十一メートル。 車輪が回っている間、住民は路上に散っている。 止まれば、同じ地面へ集まれる。 ただし、止めると水と仕事が減る。 会議の費用は、会議時間ではない。 止めた車輪が運べなかった物の…
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第596話 第八章「剛嶺と水上」後編
『第596話 第八章「剛嶺と水上」後編』 運転手が叫んだ。 洗浄所の若い作業員が、反射的に荷台へ飛びつく。 板がもう一枚割れた。 左脚が膝まで水へ落ちる。 潮位は低い。 底まで一・二メートル。 浅いから安全ではない。 船体と岸壁の間へ挟まれれば、胸が潰れる。 紬は能力を使わない。 交換禁則なら、剛嶺と水上の両方へ同じ移動禁止を課せる。…
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第597話 第九章「決裁中継室」前編
『第597話 第九章「決裁中継室」前編』 七月六日 午前七時五十六分 御厨朝は、階段を上がらなかった。 決裁中継室は地下二階。 入口は地上三階。 その間を結ぶ昇降機は、中央認証を受けた職員だけが動かせる。 朝の認証は停止されている。 「三階から地下二階。下りなのに、上がれないと入れない」 水科イオが言った。 「中央の建物は、入口へ階級を…
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第598話 第九章「決裁中継室」後編
『第598話 第九章「決裁中継室」後編』 《扶養医療の七日継続を、賃金保証と同じ通知へ追加》 返答。 《医療管轄が異なる》 《管轄責任者名》 《照会中》 《照会期限》 《未定》 朝は黒い杖の先で、円形盤の縁を二度叩いた。 「七日では足りません」 配線係が言う。 「分かっています」 「八日目に切れる」 「切れる可能性がある」 「なら、参加…
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第599話 第十章「七歩退いて」前編
『第599話 第十章「七歩退いて」前編』 七月六日 午後十時四十三分 中央塔の正面扉は、開いていた。 だから迅は、罠だと思った。 閉じた扉には、壊すか、鍵を探すか、諦めるかの三択しかない。 開いた扉には、入るという四つ目の選択が生まれる。 人間は選択肢が増えると自由になった気がする。実際には、罠の種類が増えただけということもある。 「開…
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第600話 第十章「七歩退いて」後編
『第600話 第十章「七歩退いて」後編』 「瓦解する権利も、続ける権利も、同じ人間へ戻す」 「失敗した時、中央へ戻ってくる」 「戻ってきても、自動で受け取らない」 その時、決裁環の下で衝撃音がした。 銀の輪が一枚、わずかに傾く。 警報表示。 《第六下層 冷却戻り管破断》 《保守員一名 橋上固定》 《自動判断 中央継続/中央停止を要求》…
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第601話 第十一章「王を殴れ」前編
『第601話 第十一章「王を殴れ」前編』 決裁環の中央に、凱の名前が浮かんだ。 獅堂凱。 その上へ、古い文字が重なる。 《新王》 凱は、自分の名前から目を逸らさなかった。 逸らせば、文字が消えるわけではない。 見つめれば、受け入れたことになるわけでもない。 文字はただ、中央塔の装置が選んだ意味だった。 だが意味は、ときどき刃物より速い。…
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第602話 第十一章「王を殴れ」後編
『第602話 第十一章「王を殴れ」後編』 賛成でも反対でもない。 受け取った。 保留した。 断った。 範囲を限った。 別の言葉で書いた。 担当を交代した。 退出した。 休んだ。 何も決めなかった。 その全部に、本人確認、拒否窓口、期限、異議受領、再交渉日がある。 最終決裁は、一つの答えを見つけられなかった。 銀具の七枚が、支持台の上で激…
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第603話 第十二章「再交渉の日」前編
『第603話 第十二章「再交渉の日」前編』 七月七日 午前零時〇四分 最初に発効したのは、協定ではなかった。 拒否窓口だった。 北部路の仮小屋で、ひとりの女が木札を返した。 「昨日は西へ行くと書いた。でも、今朝までここにいたい」 受領係の若い隊員は、眠気で目を赤くしていた。 「理由は」 「書かない」 「分かりました」 「聞かないの?」…
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第604話 第十二章「再交渉の日」後編
『第604話 第十二章「再交渉の日」後編』 朝から固定台を押し、記録箱を運び、閲覧範囲を確認したため、鈍い痛みが肩甲骨まで広がっている。 「終わる?」 迅が聞いた。 「作業?」 「話」 「何の」 「俺たちの」 七瀬は少し考えた。 「終わったものはある」 「王とか」 「王位制度は終わった。冬城の強制決裁も止まった。今回の招集も失効する」…