第177話 第三章「武器を預ける」前編

一月二十五日 午前五時五十八分

 右手が痛む朝は、目覚ましが要らない。

 竜胆迅は、指の痺れで目を開けた。

 検問待機棟の天井は低い。白い塗料に、昔の雨漏りが薄い輪を残している。寝台は十二。使っているのは七つ。空いている五つには、預託品の控え、毛布、湯の入っていない湯たんぽが置かれていた。

 窓の外は、まだ夜の色だった。

 迅は右の小指を曲げた。

 半分。

 薬指。

 三分の二。

 中指。

 普通。

 昨日より悪くはない。良くもない。

 骨は治っている、と医者は言った。

 身体は、治ったという報告を受け取るのが遅い。

「起きた?」

 向かいの寝台からタマキが訊いた。

「寝てる」

「器用」

「おまえは」

「起きてる。五時四十一分から」

「なんで」

「隣が寝言で棚の荷重計算してた」

 轟が、床に敷いた毛布の上で寝ている。

 寝台は長さが足りなかった。

「二点支持……上段、駄目だ……」

 低い寝言が、床板を揺らす。

「倉庫の棚、気にしてる」

「倒れるからな」

「寝てても仕事する人には、残業代出る?」

「夢の依頼主に聞け」

 タマキは緑の帽子を被ったまま、配達箱の控え札を並べていた。預けた物が多すぎて、番号札が一冊の伝票になっている。

「返って来なかったら、全部請求する」

「木片も」

「橋」

「まだどこでもない橋」

「だから値段を決められない。高い」

 迅は寝台から下りた。

 右足。

 左足。

 床の傾き。

 出口まで七歩と半分。

 数えた後で、数えたことに気づいた。

 手首にはまだ封印帯がない。最終装着は入境直前だ。七歩を取っても赤くならない。

 それでも、身体が途中で止まった。

 昨日の申告書に書かれた文言。

《七歩相当の後退運動を敵対準備とみなす。》

 能力の発動条件を知られていることは、弱点を知られるのとは違う。

 条件そのものを犯罪の形へ変えられる。

 迅は七歩目を踏まず、窓へ寄った。

 外環壁の上に、薄い朝が乗っている。

 白線の向こうには三重の柵。

 遠い方の柵だけが、風に合わせず揺れていた。

「数えた?」

 七瀬が、入口から訊いた。

 黒い短丈雨合羽の下に、撮影機を固定する革帯を着けている。左肩のため、機械の重さは胸と腰へ分散していた。昨日借りた小型機は右胸。まだ残量は二十七分四十三秒。

「数えてない」

「七歩目の前で止まった」

「見てたなら訊くな」

「言葉にすると、本人が違うことを言う場合があります」

「今がそれ」

「記録しますか」

「しない」

「了解」

「素直だな」

「二十八分しかないので」

「普段もそうしろ」

「普段は容量があるから」

 七瀬は窓の外を見た。

「寒い?」

「冬だ」

「右手」

「動く」

「痛いかを聞きました」

「動く」

「質問へ答えない人は、名前を三度訊かれても文句を言えません」

 迅は右手を開いた。

「痛い。痺れる。殴るには足りる」

「今日は殴らない」

「相手に言え」

「あなたにも言っています」

「聞いた」

「従う?」

「必要なら」

「必要を決めるのは」

「その場」

 七瀬は小さく息を吐いた。

「現場って、便利な上司ですね。責任を取らない」

「生きて帰れば、後で俺が取る」

「帰れなかったら」

「取れない」

「それを正直と呼ぶか、無責任と呼ぶか、迷います」

「迷っとけ」

 迅は右手へ薄い保温布を巻いた。

 封印帯の下へ入る厚さは許可されている。赤い七結びの紐は外さなかった。検査官は象徴物ではないかと訊いたが、迅は「手首にある紐」とだけ答えた。

 意味を説明すると、他人が用途を決める。

 説明しなければ、ただの紐でいられることもある。

 午前六時四十四分

 待機棟の食堂で、朝食が配られた。

 薄い粥。

 焼いた根菜。

 塩。

 湯。

 国境の飯は、どちらの都市の味でもなかった。

 味を薄くすれば中立になると思った者がいるらしい。

「中立じゃなく、薄いだけだ」

 凱が粥を見て言った。

「塩はあります」

 真琴。

「入れすぎれば片側へ寄る」

 タマキ。

「何の側だ」

「しょっぱい側」

 轟は根菜を噛みながら、左肩をゆっくり回した。上げるのは胸の高さまで。痛みの有無を確かめる動作は、毎朝同じ順番だった。

「今日は何が持てる」

 迅が訊く。

「人、一人。長時間は無理」

「扉」

「蝶番次第」

「柵」

「壊すなって言われた」

「聞いてる」

「おまえ、聞くのと従うの別」

「全員そうだ」

「そうじゃない人が、制服着る」

 由良が食堂の入口にいた。

 灰色の片肩外套へ霜が付いている。夜の間に剛嶺側へ戻ったはずだ。朝にはまた境界へ来た。胸の赤索を、指へ二周だけ巻いている。

「おまえ、寝たか」

 迅が訊く。

「走った」

「答えになってない」

「おまえに言われたくない」

 由良は粥を受け取らなかった。

 空腹ではない顔ではない。食べる時間に身体が止まることが嫌なのだと、迅には見えた。

「座れ」

「命令?」

「椅子が空いてる」

「理由が弱い」

「食わないと遅くなる」

「それは理由」

 由良は椅子へ腰を下ろした。ただし背を預けない。片足を床へ置き、もう片方の踵を椅子脚へ引っ掛ける。いつでも立てる姿勢だ。

 タマキが自分の根菜を一つ、由良の皿へ入れた。

「料金」

「取るのか」

「貸し。帰ってきたら何か運ばせて」

「剛嶺まで?」

「重さによる」

「街一つ」

「断る」

「即答」

「重すぎる依頼は、見積もりしない方が親切」

 由良は根菜を噛んだ。

 一口目で、少し眉をしかめる。

「薄い」

「中立らしい」

「どっちにも失礼」

 それから、由良は懐から小さな紙片を出した。

「夜の巡回が変わった」

 卓上へ置かない。手に持ったまま、指で線を示す。

「第一白線から検査小屋まで、三分に一度。昨日より一人増えた。乾河床の見張り台は、午前だけ二人。第二検問の東側に、新しい盾列」

「地図は複写禁止です」

 真琴が言う。

「地図じゃない。巡回の記憶」

「記憶を私たちへ伝えた時点で、共同情報になります」

「じゃあ忘れろ」

「困難です」

「便利な頭だな」

「よく言われます」

「それも嘘」

「二度目です」

 由良は紙片を口へ入れた。

 全員が止まる。

 噛んだ。

 飲み込まず、水へ浸して崩し、皿の粥へ混ぜた。

「食べるんですか」

 七瀬。

「墨は煤と油。紙は穀繊維。毒じゃない」

「味は」

「中立より濃い」

 タマキが興味を示した。

「今度やる」

「やめろ」

 迅と真琴が同時に言った。

「意見が揃った」

 凱が言う。

「珍しい」

「珍しいことは記録しますか」

 七瀬。

「容量が惜しい」

 迅。

 由良は粥を食べ終えた。

 最後の一口だけ、少し時間をかけた。

 午前七時二十六分

 境界倉庫の扉が開いた。

 昨日預けた物は、そのまま鉄網へ吊られている。

 迅の目は、自分の持ち物より先に棚の傾きを見た。

 轟が指摘した工具棚の右脚には、新しい鉄板が噛ませてある。

「直した」

 轟が言う。

「暫定処置です」

 昨日の検査官が答えた。

「床沈下は残ってる」

「本日中に測定します」

「棚、返す時まで持つ」

「保証ですか」

「予測」

「違いは」

「壊れた時に謝る準備があるか」

 検査官は一瞬考えた。

「覚えておきます」

「棚より先に忘れるな」

 最終検査が始まった。

 迅の手首へ、封印帯が巻かれる。

 保温布。

 赤い七結び。

 その上から灰色の帯。

 係員が端を重ね、熱で封じる。帯の中央に透明な細管。強い衝撃が加われば、内部の赤液が走る。

「試験します。右手を開いてください」

 迅は開いた。

「握る」

 握る。

 小指が遅れる。

「腕を前へ」

「この速度?」

「ゆっくり」

「速いと」

「敵対準備と記録される可能性があります」

「可能性ばかりだな」

「判定は隊員が行います」

「帯じゃないのか」

「帯は動作を記録します。意味は人が判断します」

「人が帯の後ろへ隠れる」

「規則です」

 迅は右拳を作った。

 帯は赤くならない。

 拳を作るだけなら、まだ人間の動作だった。

「後退試験」

 床へ七本の短い線が引かれている。

「三歩まで」

「四歩目は」

「警告」

「七歩目は」

「拘束対象」

「走れば」

「即時拘束」

「転んだら」

「状況判断」

「押されたら」

「状況判断」

「状況を見る人間が、押した側だったら」

 検査官は答えなかった。

 迅は一歩下がった。

 二歩。

 三歩。

 右踵が床へ触れるたび、身体の奥で何かが揃う。

 まだ足りない。

 四歩目へ行けば、警告。

 七歩目なら、相手を倒す力が戻る。

 そして、倒す前に自分が規則違反になる。

「戻ってください」

 迅は前へ三歩進んだ。

「動作良好」

「犬みたいだな」

「何が」

「待て。戻れ。良し」

「犬は規則を守ります」

「人より偉い」

 隣で、凱が白い外套を脱いでいた。

 昨日、旗マントと鐘は預けた。今日は外套の銀留めまで外すよう求められている。

「金具が刃物になる」

 係員。

「先端は丸い」

「目へ入れば危険です」

「指も危険だ」

「指は外せません」

「外せる物だけ危険と呼ぶのか」

「預託可能な危険物を扱っています」

 凱は留め具を外した。

 長外套は、肩から掛けるだけの白い布になる。裾は自分で切ったまま。王の衣装だった輪郭から、金属と鐘と旗が一つずつなくなっていく。

「王の印は、まだ残ってる」

 由良が言った。

「どこに」

「立ち方」

「預けられるか」

「膝を折れば」

「医師が止める」

 凱は左膝装具を指で叩いた。

「便利な古傷だな」

「不便だ」

「不便を使える人間は、便利」

「おまえは走れない時、何を使う」

「口」

「十分速い」

「褒めた?」

「事実だ」

 由良は返事をしなかった。

 迅には、少し機嫌が良くなったように見えた。

 午前八時十五分

 タマキの最終検査は、予定より二十三分長引いた。

「鏡は持込可」

「分かってる」

「銅貨は三枚まで」

「十九枚ある」

「十六枚預託」

「帰りに値段が上がったら」

「何の」

「水。食事。靴。通行料。謝罪代」

「境界内では売買を認めていません」

「だから危ない」

「何が」

「値段がない物は、権限がある人しか配れない」

「必要品は支給します」

「誰に必要か、誰が決める」

「担当官です」

「ほら」

 タマキは銅貨を一枚ずつ卓へ並べた。

 表。

 裏。

 縁の欠け。

「これは犬の治療代」

「犬は同行しません」

「帰りにいる」

「これは」

「橋の釘」

「銅貨です」

「薄く叩けば釘になる」

「武器への転用も可能です」

「じゃあ全部武器」

「三枚は認めます」

「三枚なら人を殴れない?」

「規定です」

「規定は、四枚目から急に硬くなるんだ」

 検査官の頬が少し動いた。

 笑わないようにしたのか、歯を食いしばったのか、迅には分からない。

 タマキは三枚を選んだ。

 一番新しい物。

 一番古い物。

 縁が欠けた物。

「基準は」

「戻ってきた時、同じか分かる」

「貨幣番号があります」

「顔で覚えた方が早い」

「銅貨に顔はありません」

「ある。見えない人には、みんな同じ」

 丸鏡は、木の縁へ新しい検査印を押された。

《医療・視認補助具》

 タマキは受け取り、袖へ入れず、首から紐で下げた。

「割れた場合」

 検査官。

「鏡だった物になる」

「破片を武器として扱います」

「割った人は」

「状況判断です」

「その人、よく出てくるね」

「誰です」

「状況判断さん」

 検査官は、返事をしなかった。

 午前九時零四分

 武器倉庫の大扉が閉まった。

 内側から三つの錠が落ちる。

 迅の持ち物は少ない。

 それでも、閉まる音は重かった。

 旗芯。

 凱の鐘。

 轟の工具。

 七瀬の主記録機。

 真琴の金属留め。

 由良の凧骨の開閉金具。

 タマキの十六枚の銅貨と、どこでもない橋。

 物は倉庫へ残った。

 人間だけが、説明書を貼られて進む。

 第一門の前で、真壁梓が待っていた。

 灰色の外套。炭紙の束。三本の鉛筆。